昭和考古学とブログエッセイの旅へ

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三国志の故事成語『呉下の阿蒙にあらず』

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ブログ100記事や200記事達成!という記事をよく見かけますね。
ここにて一言。おめでとうございます!

ブログを書いているとわかると思います。100記事や200記事への道は非常に険しいものだと。
ブログを始めた8割が、100記事以内でドロップアウトし、更新しなくなるのだとか。
どこの統計かは知りませんが、感覚的にはわかる気がします。
かく言う私も、いったいいくつ記事書いてるんやろと見てみたら、まだ100記事も行ってないことがわかり愕然。
ここ数ヶ月で500記事くらい書いている気分なんだけどな、おかしいな(笑)

そのような高い壁を越えると、自覚するしないにかかわらず、何かしら成長しています。
こういうのは、自分では気づかず他人に指摘されて初めて気づくことが多いのですが、
少しでも成長することによって、気づいたらハイレベルに達していたと。
イチローもこう言ってますね。

「小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行くただひとつの道だと思っています」

彼の言葉を少し変え、「小さなレベルアップを積み重ねるのが」とすると、我々ブログ書きにもジーンと来るのではないでしょうか。

 

また、こういう時もあります。

 

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こちらの方のように、同窓会に参加したら中学の頃のヤンキー系が大人しい系をいじくる構図が変わっていないのを見て、

 

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こう嘆息してしまうこともあります。

 

一見なんの関係もないような2つのつながり。

しかし、これを一つの故事成語であらわすことができます。

そんな彼らに捧げる言葉が今回のネタ、

呉下の阿蒙にあらず

です。

 

 

2つの『三国志

 

この故事成語の出典は、日本男児がみんな大好きな三国志です。
三国志』は武将どうしの義理人情や、大軍どうしがぶつかる戦いなど、ドラマティックな展開が多い物語。
日本だけではなく中国男児の心をも長年揺さぶっています。

しかし、『三国志』って2つあるの、ご存知ですか?

 

歴史書としての『三国志

これは、三国志の時代が終わった後、国家プロジェクトとして編さんされた歴史書のことで、陳寿という人物が中心になって作られました。
人物列伝の論評は概ね公平、冷静に三国志の時代を書き記しています。
この『三国志』、意外なところで日本と関わってきます。

学校では必ず習う、邪馬台国の事を書いた魏志倭人伝、実は『三国志』の一部です。
魏志倭人伝』の正式名称は

三国志 魏志 第30巻 烏丸鮮卑東夷伝倭人条』

で、朝鮮半島あたりにいた異民族の記述の「おまけ」のような扱いです。
「おまけ」にしては記述が詳細なのですが、これは昔の中国人の記録魔ゆえのことでしょう。

 

卑弥呼が魏に使者を送った時期は西暦238年
三国志の時代とリンクさせると、曹操の孫にあたる魏の2代目皇帝曹叡(明帝)が亡くなる1年前。
(※ただし、曹叡が亡くなったのは238年説もあり)
その4年前、234年にあの諸葛孔明五丈原で亡くなっています。
呉の孫権は当時まだピンピンしておりましたが、時期的には曹操劉備の子や孫が活躍する世代にあたります。

三国志が好きなら、日本史をこういう別の事柄にリンクさせて覚えると、記憶に残りやすいですよ。
私は大学受験の時、世界史は日本史、日本史は世界史の出来事とリンクさせて覚えていた同級生のやり方をパクったのですが、視野が広がったことは確かです。受験に役立ったかどうかは微妙でしたが。

 

この『三国志』の時期は、中国文化史の一つの転換点でもあります。
仏教が中国に伝わったのはこれより少し前の後漢中期なのですが、三国志の時代には既に仏教が入っていたものの、浸透までには至っていません。
仏教が伝わる前の中国の風俗文化はどういうものだったのか、それを残す最後の時代の書物でもあるのです。


小説としての『三国演義

我々が『三国志』といっているもの、おそらくその99.9%がこっちです。
三国演義』とは、『三国志』をベースに書かれた長編小説のことで、元の時代の羅漢中という人物によって、蜀の劉備や彼の周囲の人を中心にして書かれた物語です。


三国志』と『演義』の大きな違いは、前者の人物論評が概ね公平なのに対し、後者は劉備を主人公とし、ライバルの曹操を「悪の枢軸」とした物語。『劉備ジェダイの騎士』『曹操ダース・ベイダー』くらい善悪がはっきりした勧善懲悪ものです。
だからこそ面白いのですが、創作なので史実ではないフィクションや架空の人物も要所要所で出てきます。ハリーポッターのようなファンタジーも出てきます。

 

たとえば、諸葛孔明は『三国演義』だと準主役(後半の主人公)のせいか、頭脳明晰・清廉潔白の人格、かつ並み居る敵を「魔術」で打ち倒す、ホモ・サピエンスが人類史に誇る完全体。

が、『三国志』の論評は、

 

「一国の首相としてはすごい有能だけど、軍の司令官としてはまあ普通」


とけっこう冷たい。他の武将も概ねこんな感じ。

日本で出版されている『三国志』、たとえば吉川英治版や横山光輝のマンガなどは『三国演義』の焼き写しですが、これを史実と思ってしまっている人がめちゃくちゃ多い。まあ私も中学生の時はそうだったし、こっちを史実と思う方が面白いし頭に入りやすい。


しかし、中国人は『三国志』と『三国演義』を厳密に分けています。

私が中国に来たての頃、中国人大学生と会話するネタとして『三国志』を持ち出し、
「俺、三国志大好きなんだ!」
と言ったら、
「あんなつまらんの、何が面白いんだ?」
とやけに冷ややかな反応。あれ?おかしいな。こいつゲームの『三国志』は大好きなのに。

後で知ったのですが、彼は『三国志』=歴史書のあれと思ったらしく、「つまらん」と斬り捨てたのは歴史書の方。ゲームを含む『三国演義』は大好きだよということなのです。
そして、言い出しっぺの私も『三国志』と『演義』をゴチャゴチャにしていたのです。

 

実際、『三国志』は読んでいても非常につまらないです。
といっても、歴史書ってそんなものです。
事実を淡々と書いているだけで、そこに編集者の主観は入らない。いや、一切入れてはいけません。
仮に入れるとしても、中国の歴史書のように最後に「別章」を作って論評するのがセオリーです。
それもあって、中国の歴史書は最後の「論評」を読むだけでも楽しいです。そこだけ読めばいい。

 

学校の教科書が非常につまらないのもそのため。
あれも事実を淡々と書いた「歴史書」の一種なので、つまらないのは当たり前。

「広島の原爆、一般市民をターゲットにするとはけしからん!」
などと編者の主観を入れると、「けしからん」は主観だから削除せよと文部科学省から改善命令が出ます。
それを拒否れば出入り禁止を食らうだけ。
個人的な意見ですが、

「読んでて面白い歴史書はhistory(歴史)にあらず。それはstory(物語)なり」

と。

 

 

呉下の阿蒙にあらず』の背景

三国志からは、『苦肉の策』『泣いて馬謖を斬る』『破竹の勢い』『白眉』など、ふつうに使っている言葉の元ネタの故事が生まれていますが、『呉下の阿蒙にあらず』もその一つ。

 

三国志』の「三国」とは、魏・呉・蜀という中国を分けた3つの国のことですが、その中の「呉」に、

 

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呂蒙(りょもう)という武将がいました。


彼は貧乏のため学問ができず一兵卒からスタートしたものの、数々の武勲を立てついに将軍まで上り詰めました。
日本で言えば豊臣秀吉のような、庶民からの出世コースです。
ペーペー庶民が能力次第で高い地位に上れる。それが乱世の面白いところですね。

 

しかし、呂蒙は庶民出身だけあって、学問の知識はゼロに等しい。がむしゃらにやってきただけで、読書したりするヒマもありませんでした。
おそらく、字も読めない・書けないレベルだったに違いありません。

現場の親方であればそれでもいいでしょう。
しかし、将軍になれば幅広い知識と視野、今風に言えば「ゼネラリスト」としての能力が求められます。
今の会社でも、部長クラスがとんでもない無知無学の人間だったら、部下が悲劇を見ることになります。「やる気のある無能」が組織でいちばん厄介な人、という言葉もありますし。
ましてや戦争となると、上司の無知蒙昧のために自分の生命が脅かされる。

 

呂蒙猪武者ぶりを心配した上司の孫権は、彼を呼びこう言います。

「おい、ちょっと勉強せい」

孫権呂蒙の前に、大量の書物を差し出しました。
孫子』『六韜』などの兵法書から、『史記』『戦国策』などの歴史書、『論語』『老子』などの哲学書。
当時のアジアの百科事典のような書物の数々でした。

 

呂蒙はたじろいなながら、

「いやいや、そんなヒマないっす。忙しいっす」

と逃げようとしますが、

「じゃあ休暇やるから勉強せい。あの曹操は、戦場でも書物を持参してヒマさえあれば勉強しているんだぞ」
(※曹操が戦場でも勉強していたのは事実です)

とゆっくり説得しました。
呂蒙はそこまで言われれば引き下がるわけにはいかず、のちの孫権に、

「勤勉さにかけては、呂蒙・蒋欽に勝るものはおるまい」

と絶賛されたほど一心不乱に勉強し、みるみるうちに成長していきました。。

 


それから月日が経ったある日、呉の魯粛という武将が戦場の前線にいた呂蒙を訪ねます。

 

魯粛は「呉の諸葛孔明」と言われ、外交能力にかけては孔明とまともにやりあいライバルとなる人物です。
三国演義』では、同じ「智の人」として肝胆相照らす友と同時に、孔明に常に智謀で先回りされ地団駄を踏む道化の役回りですが、史実の彼は孔明と智謀でガチ勝負できる人だったのです。
彼は呂蒙と違い、素封家のボンボン。自分の智謀にも自信を持っていました。よって鼻っぱしが強く生意気なところがある。学生の頃、成績の良さを鼻にかけて態度がデカかった同級生が一人くらいいたはず。魯粛はそんな感じのキャラでした。

 

今回の戦い、どういう戦術で挑むのか呂蒙将軍殿に聞いてみようということでしたが、


「あのおバカをからかいながら、ちょっとご指導してやるか、フフン♪」


魯粛のキャラ的にそんな軽い気持ちだったと思います。

 

しかし、魯粛はあり得ない経験をします。
智謀にかけては自他ともに認める当時の呉ナンバー1の自分が、「おバカ蒙ちゃん」に論破されたのです。

魯粛はあっけなく降参。彼の肩を叩き、

 

 『あの猪武者がいつの間にこんなに勉強して頭良くなってしもて。

呉におったころの蒙ちゃんとはえらい違いやんか!』

 

と白旗を上げました。

この魯粛の、「呉におったころの蒙ちゃんとはえらい違いやんか」の原文が、今回の『呉下の阿蒙にあらずです。

 

この故事、もう一つ「ひねり」があります。

呂蒙「蒙」は、実は「バカ」「ボンクラ」という意味があります。「無知蒙昧」の「蒙」ですね。
彼の名前を直訳すると「呂家のおバカちゃん」という意味になり、物語の隠し味としてスパイスを添えています。
『阿』も、中国でも南方では今でもよく使われる(北方では使わない)、「~ちゃん」という親しみを込めた言い方ですが、魯粛は少し見下した使い方をしています。


呂蒙が切り返した名言

 

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(ゲームの『三國無双』での呂蒙の紹介ですが、ここでも「呉下の阿蒙にあらず」が紹介されています)


魯粛に「呉下の阿蒙にあらず!」と褒められた呂蒙が返した言葉も、今に残る名言です。

 

士別れて三日なれば刮目(かつもく)して相待すべし 」

 

これも故事成語として、ことわざ辞典に載っているほど有名な言葉です。

「士は3日間会わなければ、目をこすって見ないといけない」
直訳するとこんな感じなのですが、何のこっちゃかよくわかりません。
そこで、BEのぶオリジナル意訳ではこうなります。

「人が成長するのは、3日もあれば十分。3日間会わなかったら先入観捨てなきゃね
(だからあんた、人を無下にバカにするなよww)」

こう言われた魯粛は、「阿蒙」から皮肉までプレゼントされ、サーセンと頭を下げるしかなかった光景が目に浮かびます。

 

努力によって文武両道のスーパー武将となった呂蒙は、魯粛諸葛瑾諸葛孔明の実の兄)・周瑜陸遜と並ぶ「呉の五大智将」と評されます。ゲームの三国志をやったことがある人はわかると思いますが、ゲームの呂蒙は武力も智謀も数値が高い、どの場面でも使える万能武将となっています。

その理由は、この故事から来ているのです。


しかし、呂蒙っていかにも日本人が好みそうな文武両道の努力家ですが、『三国演義』ファンにはすこぶる評判が悪かったりします。
なぜならば、『三国演義』の主人公の一人、関羽を殺した張本人だから。

 

ある戦いで関羽呂蒙が対決することになりました。
三国志界の戦艦『大和』こと関羽相手に、駆逐艦ごときでまともに殴り合ったら絶対に勝てないと悟った呂蒙は、ここで『呉下の阿蒙にあらず』の本領発揮。
呉が誇るもう一人の智将の陸遜(りくそん)と組み、プライドが非常に高い関羽の性格を利用した策謀を駆使し罠にはめ、ついに捕らえて処刑します。

義兄弟の契を交わした劉備張飛は激怒して軍を呉に進めますが、その準備中に張飛は部下に殺され、劉備は無理して呉を攻めたものの、お待ち申しておりましたと陸遜に完膚なきまでに叩きのめされ、そのショックで亡くなります。
これにて『三国演義』初盤の主人公三人は全員死亡。彼らの子供の世代へと物語が移ります。

 

関羽ファンにとっては「親の仇」、蜀ファンにとっては主人公3人を間接的に殺した「憎まれ役」。それが呂蒙の役回り。
三国演義』では関羽の怨霊に呪い殺されるのですが、もちろんこれはフィクション。
しかし、惜しいかな呂蒙が若くして死去(満41歳)したのは事実のようです。

というか、呉の武将ってみんな若死にするんですよね。『呉下の阿蒙にあらず』の言い出しっぺの魯粛も45歳で若死にします。


呉の土地は古代より「瘴癘(しょうれい)の地」(伝染病の百貨店)と言われていました。気候風土が伝染病の菌が棲むのに適しており、それは今でもあまり変わっていません。マラリア赤痢、肝炎、数々の寄生虫などは当然三国志の時代でも猛威をふるっていたのは容易に想像できます。

乾燥して菌があまり住めない北方とは、別の惑星と言って良いほど気候風土が全く違うのです。

 

十数年前に世界を恐怖に陥れた(?)SARS(重症急性呼吸器症候群)も、中国南方が発生源。私はその時発生源に住んでいたわけなのですが、「台風の目」にいたせいか、日本など周りがパンデミックだ~!とアタフタしていた割には、なんだSARSくらいで騒ぎやがってとケロッとしていました。これはじきにネタにしたいと思います。

それはさておき、SARSだけではなく、A型インフルエンザや水虫も中国南方が「原産地」と言われていて、水虫の別名を英語で"HongKong foot"とも言います。

 

実際に「瘴癘の地」に住んでみると、呉の武将が何故早逝したのか、なんとなくわかる気がします。 湿気などで食べ物が腐りやすく食中毒で何回か死ぬような思いをしたし、原因不明の体調不良なんてザラだったので。

当時は抗生物質どころか病気の原因すらわからない時代の「瘴癘の地」では、人が長生きするのは難しい過酷な環境だったでしょう。

 

また、呉の中国南方は、魏や蜀の北方食文化圏(麦食)と違い、主食が米だったというのも短命の原因になったという考えも可能です。
米ばかり食べていると、脚気(かっけ)という病気にかかります。

 

脚気(かっけ)
脚気は、ビタミンB1が不足して起こる疾患で、全身の倦怠感、食欲不振、足のむくみやしびれなどの症状があらわれます。
古くは江戸から昭和初期まで多くの死者を出しましたが、ビタミンという栄養素について研究が進んだ現在では脚気にかかる人はほとんどみられなくなっています。
しかし、インスタント食品中心の生活をしている現代人に再び脚気予備軍が増えているといわれています。
武田薬品工業HPより)


説明の通り、脚気は病気というよりビタミンB1欠乏症なのですが、放っておくと死にます。死亡率はだいたい15~20%と案外高いのです。

この脚気、白米ばかり食べていると罹ることは、江戸時代から経験則でわかっていました。江戸でそばがもてはやされたのは、脚気の「予防薬&治療薬」として食べられたからと言われています。

(実際、B1が豊富な未精白のそばを食べるとけろりと治ります。麺類ならラーメン最強でインスタントラーメンすらB1は豊富)


これが社会的大問題になったのは、明治時代の徴兵制からでした。
初期の日本軍は、徴兵制に対する反対もあり、
「軍隊に入れば銀シャリを山ほど食える!」
というキャッチフレーズで国民をなだめていました。
実際軍隊に入ると銀シャリが食えたのですが、それを「おかず」にする兵隊が脚気にかかり、バタバタと倒れていきました。

当時はもちろん原因がわからず、兵士どころか明治天皇まで罹り苦しんでいた国民病でした。ビタミンB1欠乏症というのが100%確定になったのは昭和初期。
それをベースに脚気撲滅のために国が立ち上がり、脚気患者を激減させるのには、さらに40年かかっています。日本で脚気がほぼ「過去のもの」になったのはだいたい昭和40年代後半らしいので、それほど昔の話でもない。

 

上の脚気の説明で、何故Wikiではなくタケダのページを引用したかというと、脚気とタケダ、深いご縁があったのです。

 

 

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タケダの売れ筋商品にアリナミンA」というものがあります。
今は派生品も売られていますが、原点はこのAです。


元々これは、脚気に悩む帝国陸軍がすぐ飲めるビタミンB1栄養剤の開発を依頼したことが始まりです。
研究途中で終戦となり、依頼主の日本軍も消滅したのですが、研究は戦後になっても続けられ「アリナミン」として市販されたという流れです。

アリナミンAは、正露丸に次ぐ日本陸軍の忘れ形見でもあったのです。


話が外れましたが、麦食がメインの北方は、脚気などほぼ無縁。麦にはビタミンB1が豊富なので脚気にはかからない。米が主食の呉の人たちであれば、米ばかりを食らい脚気になって倒れ、亡くなるということは十分に考えられることです。

20世紀の日本でも、日露戦争の陸軍の脚気患者が25万人、死者約3万人だったのだから。

 


呉下の阿蒙にあらず』の用法


この言葉は、「以前と比べて見違えるほど成長した」と驚いた時に使われます。
特に、学問や勉強の面の「進歩」に使われることが多く、「前と比べてキレイになった」などの外見にはあまり使われません。使っちゃダメという決まりはないですが。

 

例えば、中学の時はバカやってた奴が、同窓会で久しぶりに会ったら立派な人物になっていた。
中学の時は勉強嫌いで成績は学年最下位だったのに、久しぶりに会ったら大学の研究者になっていた。
話を聞くと、いろいろあって猛勉強したらしい。
そのあまりの違いに、
「『呉下の阿蒙にあらず』だな~」
(お前、昔と比べて(良い意味で)めっちゃ変わったな~!)
と相手を褒める。こんな具合です。


逆に、「悪い意味で変わってない」という意味にも使うことができます。
呉下の阿蒙にあらず」ではなく、「呉下の阿蒙」という表現です。

たとえば、中学の時はかなりの悪さをして親を泣かせていた不良が、
大人になって犯罪を起こし、全国ニュースの晒し者になってしまいました。
あなたは聞いたことがある顔と名前を見て驚き、

「あいつ、根はマジメだったんだけど・・・『呉下の阿蒙』だったか」

という具合に使います。

 

 

この用法を使った実際の会話を見てみましょう。

時は昭和11年(1936)、二・二六事件という陸軍最大の不祥事が起きあわや陸軍解体の危機は発生しました。陸軍は世間や大元帥陛下(=天皇)に対して、何らかの「落とし前」をつけないといけない状況に。

その時、陸軍省参謀本部を事実上牛耳った中堅幕僚、階級で言えば少佐~大佐あたりの軍人が、こんな事件が起こったのはあんたらだから責任を取れとばかりに、上官にあたる将軍たちに引退を勧告します。

将軍たちを呼び寄せ、引導を渡すよう迫ったのが、有末精三少佐(当時)でした。

将軍たちは猛反発。部下に「あんた役立たずだから辞めなはれ」と言われる筋合いはないと激怒します。

特に、二・二六事件を起こした青年将校たちの「皇道派」のボスと見なされた荒木貞夫大将は、

「坩堝(るつぼ)にたぎった焔(ほのお)の中に、わずかばかりの水を注いでも何もならぬ。我々を辞めさせて誰がやるか!」

と激怒します。それに対して有末少佐は、上司の言葉に鼻で笑うかのように答えます。

「それは『年寄りの冷や水』と言いませんかw ことに我々若い者も決して呉下の阿蒙ではありませんから」

完全に上官をナメきった部下の態度でしたが、がっちりスクラムを組んだ幕僚たちに将軍たちは為す術もなく、一部を除いて引退せざるを得なくなり、残った将軍も部下の顔色を伺うロボットと化していきました。

 

昔仲良くさせてもらった、三国志オタクな女性の知り合いがいたのですが、若い頃に

「あんたみたいな『呉下の阿蒙』はこりごり!『鶏肋(けいろく)』よ、鶏肋!」

と元カレに三行半を突きつけて別れたことがあるそうです。
三国志故事成語を2つも使って別れを言える彼女も、武将顔負けの猛女ながら、言われた彼氏は、どんな人かは知りませんが、さぞかし意味不明だったことでしょう。これらの故事と意味を知っている私も、突然言われると困惑するでしょう。


しかし、「呉下の阿蒙にあらず」はあくまで他人から評価して言ってもらうものなので、自分で
「俺は『呉下の阿蒙にあらず』なんだぁ~~!すごいだろ~!」
って言っちゃダメですよ(笑)