昭和考古学とブログエッセイの旅へ

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

余は如何にして完璧主義者となりし乎 後編

人生の黒歴史

 

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

(前半のあらすじ)
30代の時に私の心の中に現れた、「完璧主義者」というもう一人の自分。
完璧主義者はクソ真面目でクソ頑張り屋がゆえに、正義を振り回す暴君となり、私の心を徐々に蝕んでゆきました。
破壊神によって蹂躙された自分の心は、草一本生えぬ不毛の大地と化しておりました。

 

 

 

自己承認が出来ていなかった自分

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完璧主義者という暴君が現れ、暴れまわった30代、気づいてみると終戦後の東京のような焼け野原でした。完璧主義者と大雑把主義者との内戦はそれほど壮絶なものだったのです。
パトラッシュ、僕はもう疲れたよと廃人と化していた私には、ここから復興する気力もない。かと言って自殺する勇気などもない。

 

この先どうすれば良いのか、進撃の巨人と化した完璧主義者をどう処理すべきか。答えを本に求めようと様々な本を読みふけりましたが、時間だけがむなしく過ぎていきました。

そんなある日、本を読んでいるとあるフレーズが目に飛び込みました。

 

「承認欲求


これが後々の重要なキーワードとなっていきます。

 

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承認欲求とは、人から認められたいと思う心理のことで、平たく言えば人からチヤホヤされたい欲求ということです。もっと身近な例なら、SNSの「いいね!」やはてなブログのスターが欲しい欲求もその一つ。


人の三大欲求は「食欲」「性欲」「睡眠欲」とよく言われますが、「承認欲(求)」もヒトが社会的動物として本能的に欲する強い欲求です。
なので、承認欲求は誰しも持っているものではあり、それ自体は全く悪いものではありません。私本人、承認欲求はかなり高い方です。
が、承認欲求のベクトルが正しくないとむしろ害を及ぼすことを、本を読み初めて知りました。

 

 

承認欲求には、「自己承認」「他者承認」というものがあります。

自己承認についてはひとまず置いておいて、それと対局をなす他者承認とは一体なにかと。

自分の価値をを自分以外の誰かから取ってもらうことを、他者承認と言います。
他の人から承認、つまり認められたい、「すごいね」と言われたいことです。

「○○さんはすごいね」
「○○さんが書くイラスト、かわいいね」
「○○さん、やさしいね」

などなど、他人から褒めて(認めて)もらうことで自分を満足させるということですね。

しかし、完璧主義者はほめられても満足しません。

「いや~、そんなことないですよ」

と否定する。
否定するだけなら誰しも口だけなら言っています。
しかし私の場合、それにプラス自分はいかにダメな人間かと、具体例を挙げてまで披露してしまう。せっかく他者が肯定してくれているのに、待ちに待った「他者承認」なのに素直に喜べない、受け入れられないのです。
それどころか、

「どうせお世辞か社交辞令だろ」
「こいつ、何か俺から奪おうとしてるんじゃないか」
「褒め殺しで俺を蹴落とそうとしている」

と極論に走ってしまうことも実際にありました。

 

症状が軽く、かつ恋愛が絡んでいるうちは「ツンデレ」と言い、人によってはかわいくも見えます。
しかしながら、それが病的になると相当苦しい。ごく微量の毒薬を飲んでいるようなものですが、症状は身体ではなく精神に来る毒薬なのです。

 

待ちに待ってた他者承認なので、嬉しいことは嬉しいのです。しかし、あれだけ渇望していたのに、素直に受け入れることができず必死に否定する。
たとえ口やネットの返信などで肯定しても、どこか心の中で虚しさが残るのです。
無論、100%適当主義者であった20代の時は素直に受け入れることが出来ていました。

 

これは何故だろう?何故素直に受け入れられないのか?

完璧主義者が
「絶対にフドーイ(不同意)!」
と太い声で怒鳴り、頑として受け入れないのです。理由はなく、とにかくフドーイなものはフドーイ。
そして語りかけます。

「そないなもんで満足してええんか?
お前はそないな低レベルで留まる器ちゃうんやで。お前はすごい資質を秘めてるんやで」

ある時は女性の声で、

「そんなので満足するあなたは嫌い。もっと努力するあなたが好き」

その言葉でもっと高みを目指そうと改めて決心する私に、
「そやそや、それでこそお前やで」
と完璧主義者が満足した途端、天使の皮を脱ぎ再び鞭が振り落とされる。


では、何故他者に承認を求めようとするのか。
一言で言うと、自分に自信がないからです。

自分に自信がないから、自己評価が低くなる。自己評価が低い自分など評価できるわけがないし、そもそもそんな惨めな自分を自分として受け入れるわけにはいかない。
しかし、承認欲は旺盛なのです。誰かに認められたい、誰かに褒められたい・・・心の底から渇望しているのです。
が、端的に言うと自分が嫌いなので、嫌いな自分を認められない。自分を承認できない以上、他人に承認を委ねるしかない。
しかし、自己評価が低いがゆえに、他人に評価されても素直に受け取ることができない。人間の心はかくも難しいものなのか。

 

そりゃ、毎日「いい子だね~」と褒めてくれる人がいればそれもいいでしょう。少なくても「承認欲」は満たされます。
しかし、大人になるとそうはいきません。極論ですが、誰も褒めてくれません。
そこで自分で自分を褒める「自己承認」が必要になってくるのですが、自分が「嫌い」な状態ではそれは無理な相談でしょう。


理想が高すぎる自分

他人に「すごいね」と言われ他者承認ばかりを満たしていると、とんでもない弊害が発生します。

一つは、前編に書いた人を見下すということ。

 

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二つ目は、他人の芝生がものすごく青く見えること。
「隣の芝生は青く見える」と言いますが、ブログに例えると他人のブログが非常に魅力的に見えるです。
そんな他人のブログと比べては、
「それに比べて、自分は・・・」
と一人で落ち込む。
自分と人を比較し、勝手に優劣をつけて見下したり嫉妬したり、とてつもない才能の人を見て無気力感に襲われたり。
それで勝っただ負けただで一喜一憂したり、他者承認で自分の位置をチェックしたり。

 

ブログの数ほど個性がある。手書きで書いていくと一つとして同じブログは存在しません。
うちの「昭和考古学とブログエッセイ」とサーフィンのブログなんて、そもそもジャンルが全然違うので比べる自体ナンセンスです。
しかし、完璧主義者は、全く違う内容の記事を、
「おい、あいつのブログ、スターが300もついとるで。それに比べてお前はなんや、100しかついてへんやないか!」
と声を荒げて危機感を煽ります。
完璧主義者はブログの違い、内容の違いという分別がないのです。

 

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もう一つは、理想の自分がとんでもなく高くなってしまうこと。
「すごいね」と言われると、「すごい」と言われ続けたいと欲します。
しかしこれは逆に、「すごくない」と評価されることを極度に恐れるようになる諸刃の剣となります。

 

「すごい」と言われ続けるために、いや、「すごくない」と言われたくないために努力をするわけですが、「すごい」ってすごく曖昧なもの。
「すごい」と言っている人はその人の基準で「すごい」と言っているわけで、基準に国際ルールなどありません。
「すごい」の正体がわからないまま、理想だけが水ぶくれを起こしていきます。
そしてある日はっと気づくと、自己像が自分の届くはずもないところに鎮座していたのです。

 

完璧主義者というのは、非常に見栄っ張りです。外面が非常に良い。
外見を華やかに飾ろうとし、「すごい」という欲求を満たし続けたいがために「すごい」人の演技を強要します。
演技である以上、本心とは剥離しているので精神的な疲労が続きます。「慢性精神的疲労症候群」という感じでしょうか。
心と身体が相反する反応が同居し、違和感を起こすというものは非常に苦痛を伴うもの。痛くはないのですが、精神は確実にメルトダウンしていきます。

 

去年に覚せい剤で捕まった、元プロ野球選手の清原和博氏が理想の虚像に押しつぶされたと言えます。
仲が良かったという知人(元プロ野球選手)によると、彼は見かけによらずおとなしい性格だそうです。最近まで清原の地元に住んでいたのですが、実家に帰った時の彼は腰が低くてやさしい人だと。

しかし、ある時から
「自分で自分を作ってしまっていた」
と言います。
「番長」「だんじりファイター」という虚像を作られ、彼もそれに適ったキャラを作るべく「努力」をした結果、本来の自分を見失ってしまった。あのいかつい外見も、弱さを隠すためと周囲の期待に答えないといけない「演出」だったと。清原も、周りが作る虚像と本当の自分の葛藤に悩んだに違いありません。
彼は、その葛藤とプレッシャーに負けたか、結局覚せい剤に手を出しました。その結末はいただけないですが、私も一歩間違えるとこうなっていた、覚醒剤が手元にあったら手を出していたかもと思うと(その分、タバコに向かっていたわけですが)、決して他人事とは思えない。

 


原点回帰を始めた自分

 

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精神を消耗しているだけでは全く前へ進まない自分を、どうにかして変えないといけない。しかし、どう変わるのか?新しい私、デビューか?
考えた結果、完璧主義者にクーデターを起こされる前の時代に原点回帰すれば良いのだと。
20代の自分に戻り、完璧主義者に乗っ取られた本当の自分を取り戻す「レコンキスタ」がここに始まりました。


原点回帰のヒントになったのは、中国の古典『老子』でした。

 

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ここでも書いたように、『老子』は数ある中国古典の中でも、3本の指に入るほどの難易度です。
10代20代の生意気盛りに読んでも、
「一体何が言いたいねん、このおっさん!」
と全く理解不能。
しかし、『老子』は人生の壁にぶち当たった時や、人生の酸いも甘いも味わい尽くした人には、読んで涙が出るほど身にしみる不思議な魅力を持つ古典です。

 

老子』が説いている重要な点の一つに、無為自然というものがあります。聞いたことがある人も多いはず。
この無為自然を今回のパターンで解釈すると、以下のようになります。

「着ぶくれした服なんて全部脱いで捨てちまえ、裸になったあんたが本来のあんたの姿だよ」

知らず知らずのうちに、我々はいろんな服を着て生きています。「服」とは物理的な衣服ではなく、プライドや世間体、空気嫁の空気など、見えない何かと解釈下さい。その服は何枚も着ていくうちに、着ぶくれして動きにくくなる。しかし、人はいろんな理由をつけて脱ぐのを拒否します。
老子』は言います。そんなの生き辛かろう。服を全部脱げば楽になるよと。


『捨てる』・・・プライドや過去の栄光などを断捨離すればいいのかと。


原点回帰第一弾は、自己啓発書をほぼすべて処分したこと。
私の本棚には、迷える30代の時に買いまくった自己啓発書が蔵書の半分以上~6割を占めていました。
完璧主義者と戦った銃弾の薬莢です。
しかも、購入した本の半分以上は読んでなかったはず。完璧主義者に鞭打たれるストレスで、本の衝動買いをすることによって自己満足していたのでしょう。

心に溜まる不良債権と化したこれらの自己啓発書を、世界的な古典と廃盤になった貴重品を除きすべて処分しました。
ほとんどがブックカバーをつけたまま開いたことさえなかったので状態が良く、古本屋でけっこうな値段で売れたことが嬉しい誤算でした。

 

自己啓発書が悪いのでは決してありません。これで私も勇気づけられたことは数多く、むさぼり読んだのは無駄ではありませんでした。
ただ、結果的には理想が高くなっただけで私を苦しめる原因となっていたことは事実。適当主義者に自己啓発書は合わなかったのでしょう。


原点回帰第二弾は、島耕作」を捨てたこと。
過去の武勇伝で申し訳ないが、これでもかつては中国を中心とした国際ビジネスの第一線で戦っていたビジネスマンです。
有名なマンガで『島耕作』シリーズがありますが、私は『島耕作』に憧れ、彼のような第一線で働くビジネスマン人生を望んでいました。
平均睡眠時間はだいたい3時間くらい。まあ、よく死ななかったなと。

 

これが「魔の30代」の始まりでもあったのですが、会社の金で酒を飲み、、会社の金で高級中華料理を食べる華やかな生活だけは、「思い出補正」がついて忘れられなかったのです。
さらに、商社マン・国際ビジネスコンサルタント(?)という肩書だけで人が頭を下げ、のぶ様と擦り寄ってくる。女も寄ってくる。
このプライドと、いい思いをした幻想がずっと捨てられなかったのです。

 

しかし、体調も含め完全に壊れてしまった以上、もう第一線には立てないし、立つつもりもない。

いや、「つもりもない」とはただの上辺だけ。私もこれが自分の本心とずっと思っていました。ところが、深く掘ってみると、「『島耕作』な日々をもう一度!」というヘドロと化した理想が底に沈殿し、異臭を放っていました。
これに気づいたことが、かなり大きかったです。
島耕作』的日々を捨てなければ明日はない。これもすべて捨てることにしました。


しかしながら、『島耕作』を捨てる次は何を道しるべに生きていこうか。

その時、本当に偶然ではありますが、「浜ちゃんの生き方」なるものがテレビで放送されていました。ハマちゃんと言っても、ダウンタウンの浜田氏ではありません。『釣りバカ日誌』の「浜ちゃん」です。

 

 

釣りバカ日誌浜ちゃん


『釣りバカ』の浜ちゃんは、どこにでもいるサラリーマン。出世競争興味なしの万年平社員ですが、趣味の釣りになると「変身」し、勤め先の社長などを「弟子」にし釣り三昧のホリデー。
マンガではなく実写の映画を見たのですが、彼が釣りで生き生きとした表情を浮かべる姿に、
「これやな!」
とピンときました。
「これやな!」というのは、浜ちゃんでええんや!ということ
彼は自分の背丈に合ったスタイルで生きていて、背伸びしていない。それが非常に魅力的なのです。

 

島耕作』は確かに私の理想ではありますが、現実は『浜ちゃん』。浜ちゃんな方が私にフィットしている。
スナフキンも言っています。

 

スナフキンムーミン


「生き物にとって、自然に振る舞うというのはとっても大事なことなんだ」


20代までは、まさに自然に振る舞って生きてきました。

 

しかし、本格的に社会人となり、理想(島耕作)を追い求め、会社もモーレツ型ビジネスマンでなければならないと型にはめる。
スナフキンの言葉を借りれば、「不自然」に振る舞い、清原氏のように世間(会社)の求める姿を演じたばかりに、歯車が狂ってしまった。
「無駄にした10年以上の時間:プライスレス」と授業料は高くつきましたが、
その分自分に巣食う病み(闇)の正体と、その尻尾をつかむことが出来ました。


しかしまあ、こう振り返ると我がブログのタイトルは、
『ブロ(グ)バカ日誌』
の方が合ってる気がしてきた。


自己承認とは何か

しかし、ここまでしても満足しない、虚しい自分だけが残りました。
完全主義者はかなり弱体化している。確実にダメージが効いている。しかし何か重要なピースが足りない。
その最後のピースが、おそらく「自己承認」なのだと確信を持ちました。これはつい先日のこと。
これさえ出来ればモンスターは自分と同化し、消えてなくなることでしょう。


どうやって自己承認を得るのか、ネットで検索しても答えはほとんど書いていません。
煽るだけ煽っておいて、最後の最後に
「それ以降はカウンセリングでどうぞ。連絡先は○○です」
と誘導してくる。どこのフィッシング詐欺やねん!

 

根気よく探していたところ、一人だけ明確な指摘を動画で示してくれたカウンセラーがいました。

彼女は、自己承認ができないのは理想が高いからなど、かなりのツボを突いてきます。
心の足つぼマッサージのように心地よかったのですが、
「自己承認が出来ている人はどんな人か」
と問いかけます。
自己承認が出来ている人、イコール今の自分に満足している人
そりゃそうや!そんなもん、あんたに言われなくてもわかっとるわい!
彼女はやさしく語りかけてくれます。
「自分に満足することが出来ていたら、この動画見てませんよね!」
はい、おっしゃる通りです。

 

他者承認に走る人は、現状の自分に不満を持っている。不満の源泉はどこか。高く高く設定した理想の自分なのです。
そんな人が自己承認するためには、理想を「今」にフォーカスしようと。

いやいや、それは頭ではわかっているんですって!
カウンセラーは問いかけます。
「今、頭ではわかってる!と思ったでしょ?それは『思考』です。理屈です。自己承認は『思考』では得られません」

うーん、なんとなくはわかった。しかし、理屈で考えるものではなさそうです。

 

最後に


この心理を言語化することは、今までありませんでした。理由は簡単、自分と真正面に向き合う勇気がなかったから。
完璧主義者が持つ完璧主義プライドと、その裏にある恐れがそれを邪魔し、許してくれませんでした。

giovannaさんの言及先の最後にある、

「デコボコしたままでいいや。めんどくさいやつでいいや。このままの自分を丸ごと認めてやろう。」

私のいちばん面倒くさい存在の自分自身を、そのまま認めようじゃないか。
弱い部分もすべて自分。ウェルカムしようじゃないか。

 

が、これを完璧主義者は絶対に許してくれないのです。それだけは断じて許さん!と。
私に巣食う完璧主義者とは、完璧な自分の仮面をかぶった、自分のいちばん弱く臆病な部分の投影なのでしょう。
弱い自分とは完璧主義者にとっては自分そのもの。
いちばん弱いが故に強がり、弱さを見せたくないがために強いフリをする自分そのもの。現実を認めたくがない故に絶対に認めないと。


しかし、書いていくうちに心が軽くなってきたのか、書きながら目がウルウルし、画面が滲んで見えることがあります。
吐きたくても吐けなかったヘドロを、すべてではないと思いますが吐き出すことができ、スッキリしてホッとした安堵の涙なのかもしれません。
ただのPCの画面見すぎによる眼精疲労かもしれませんが。


今でも完璧主義者は私の中に巣食い、鞭を振りかざしてきます。
ブログを書いていても、
「そんな駄文じゃあかん!」
「こんな記事アップしても恥かくだけやぞ!」
「ほらほら、読者の○○さんの記事はレッドスターが4つもついてるよ!お前悔しくないのか?」
としきりに煽ってきます。

しかし、その力はかなり弱まったような気がします。
書くという客観的な作業を通して、自分に足りないものを抽出し、自己を取り戻しつつあるのではないかと。
また、完璧主義という好まざる居候に苦しんでいるのは私だけではなかったことも、勇気となりました。

 

自己承認の答えがまだ出ていない以上、私の「レコンキスタ」はあと数ヶ月から数年間続くと思います。
完璧主義者が自分の非を認めず適当主義との共存も拒否している以上、相手には死んでもらうしかないので。
ただし、以前のような五里霧中の手探りではなく、尻尾をつかんだ状態。私の操縦桿は自分の手に戻りました。

敢えて言うならば、完璧主義自体は悪くはないのです。頑張りやさんで常に向上心を忘れない、素晴らしい部分もあります。
しかし、コントロールできない原子力は人類を滅ぼすのと同じように、自分でコントロールできない完璧主義は身を滅ぼします。


完璧主義のモラハラに苦しんでいる人が楽になる一石として、私と同じ轍を踏むことがない踏み絵として、
敢えて晒した過去の屍が何かしらの参考になれば幸いです。

 

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