昭和考古学とブログエッセイの旅へ

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

幻の砂川遊園・砂川奇勝と、ある方の黒歴史【昭和考古学】

f:id:casemaestro89:20170610203245j:plain

 

 

前回、阪和電気鉄道こと阪和電鉄の歴史を発掘し、予想外の好評をいただきました。

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

こんなマニアックな話題に食いついてくれるとは、書き手としてこんなに嬉しく、ありがたいことはありません。
このスペースを借りて御礼申し上げますm(_ _)m


しかし、阪和電鉄の話題はこれで終わりではありません。

 

え?もう終わったんちゃうのんって? 

 

確かに、

「阪和電鉄の調査は終わり」

とは書きました。

しかし、

「阪和電鉄のは終わり」

とはひと言も書いていません(笑)

 

何故みんなこれをネタにしないんだろ?もうネタにしろと言わんばかりの話題満載な阪和電鉄。人々の記憶から消えてしまった昭和史の亡骸を再び拾い、出来る限り文字という形にしてゆくのが、「昭和考古学者」の暇つぶしお仕事。
でも当事者は、まさか約90年後にこんなにネタにされるとは・・・と草葉の陰から苦笑しているかもしれません。


阪和電気鉄道は、経営のためにいろんな事業に手を出していたことは、前回のブログで書きました。
その中に、他の私鉄の例に漏れず、遊園地事業にも進出していました。

今回は、その遊園地に隠された歴史と、歴史の大河に流され忘れられた、「あの方」のお話を。

 

 

 

和泉砂川駅。砂川遊園と砂川奇勝の最寄り駅

 

 

 阪和線和泉砂川駅です。
ここまで来ると大阪といってもかなりの南。和歌山県に片足突っ込んだ、静かな住宅地の町でもあります。


和泉砂川駅は、この駅舎の形に特徴があります。
この赤い屋根の駅舎は阪和線が私鉄だった頃そのままの姿を残していて、もう数少なくなった阪和電気鉄道時代の残照でもあります。

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

上の記事で書いたように、阪和線は元々は「阪和電気鉄道」という名前の私鉄でした。


大阪~和歌山間は、既に南海電鉄という私鉄が明治時代から走って阪和間の輸送を独占していたのですが、南海は集客力優先で旧城下町や宿場町を縫うように線路が敷かれたせいで、スピードが思ったより出せない欠点がありました。


そして大正時代、大阪から和歌山までの鉄道輸送が必要になって、国も南海を買収して「国鉄」にしようと画策します。しかし、その度に南海の反対で頓挫します。
また、当時は和歌山にも鉄道を持っていた京阪が電鉄中心になって、大阪と和歌山の資本家が金を出しあい、大阪~和歌山間を高速で結ぶ鉄道を!というコンセプトで作られたのが、かの阪和電鉄というわけです。

 

少し大げさな表現が許されるのであれば、
「阪和間に新幹線もどきを作っちゃえ!」
という壮大な計画でした。


今でも阪和線って直線が多いのは、大阪~和歌山間の高速鉄道の名残り、JRの割には駅と駅との距離が短いのが私鉄時代の名残なのですが、和泉砂川駅のような赤屋根の駅舎もその名残の一つです。

 

阪和電鉄が経営していた遊園地、砂川遊園

関西に限ったことではないですが、鉄道会社は集客のために沿線に遊園地を作り、乗客数を増やす経営方針を採っていました。関西大手私鉄の場合、以下の遊園地を作っていました。

南海:「みさき公園」「狭山遊園」

近鉄:「生駒山上遊園地」「あやめ池遊園地」「玉手山遊園地」

阪急:「宝塚ファミリーランド」

阪神:「甲子園阪神パーク

京阪:「香里遊園地(現ひらかたパーク)」

 

しかし現存するのは、南海のみさき公園京阪電鉄ひらぱー」ことひらかたパークだけになってしまいました。幸い、この二つは元気です。

 

阪和電鉄もその例に漏れず、遊園地を経営していました。

砂川遊園・砂川奇勝

と呼ばれるもので、今の和泉砂川駅近辺にあったと言われております。

まずは「児童遊園」として昭和10(1935)年にオープンし、翌11年(1936)に「砂川遊園」として開業しました。


「言われております」とは書きましたが、あったことは確かなんですけどね。

しかし、阪和電鉄自体が私鉄であった期間が短かかったのと、やはり戦争で資料が焼失してしまった影響で、砂川遊園の資料って案外残っておりません。

 

砂川遊園の広告カラー

このように、存在していたことは確かなのですが・・・。

 

 

阪和電気鉄道時代の阪和天王寺駅駅舎

 

前回の記事で紹介した、阪和電鉄時代の天王寺駅(阪和天王寺駅)の看板広告にも、「砂川遊園」の名前がはっきり写っています。

砂川遊園の中は、上の広告にもあるよーに池があってボートで遊覧できるとか、子供向けの遊具とかもあったそうで、遊具は砂川遊園が消えた後も、子供たちの遊具として最近まで現役で使われていたそうです。

 

砂川遊園の当時の写真の数々は、泉南市のホームページにある

「せんなんのたからもの」

 というページにも、貴重な写真が掲載されています。

 

阪和電鉄が砂川遊園にかなり期待をかけていたという、統計的な証拠が残っています。

オープンした昭和10年(1935)から昭和15年(1940)間の阪和電鉄の広告389点(住宅広告を除く)のうち、砂川遊園の広告が117点、全体の3割を占めています。

大阪市立大学こちらの論文より)

昭和11年(1936):32.9%
昭和12年(1937):41.3%
昭和13年(1938):25.3%
昭和14年(1939):27.5%
昭和15年(1940):29.2%

特に、春と秋に広告が集中しています。
砂川遊園は屋外型行楽地なので、気候が良くお出かけ日和の季節に集客させよう、
という戦略が見えてきます。

阪和電鉄、ただがむしゃらにやってたわけじゃなかったのですね。
歴史をまな板の上に乗せて客観的に見てみると、そうにしか見えなかったのですが(笑)


じゃあ、砂川遊園の経営が黒字だったのか赤字だったのかというと、詳しいデータは残っていないようです。
しかし、昭和10~11年の行楽シーズンになると、遊園地からの帰りの切符を求める客で、和泉砂川駅の改札は大混雑。
駅の入場制限も行っていたという話だけが、伝説として伝わっています。

 

 

その幻の砂川遊園は、一体どこにあったのか?

 

砂川遊園図カラー

 

戦前の砂川遊園と砂川奇勝の地図白黒

 

これが、数少ない砂川遊園の全景マップです。

これを元に、現在のGoogle mapで見てみると、

 

f:id:casemaestro89:20170508215536j:plain

 

・・・これではちょっとわかりにくいですね。

 

わかりにくいので、ちょっとした奇策を用いました。これならどないや!

 

f:id:casemaestro89:20170508220204j:plain

 

上のGoogle mapを180度回転、逆方向にしてみました。

すると、戦前の全景図と似た角度になり比較しやすくなります。

砂川遊園は、赤い線で結んだところにあったことがわかります。

遊園の下にある池が、現在もそのままの形で残っているために位置特定が容易でした。

 

この砂川遊園がいつ閉園したのかは、確実な資料が残っていないので明らかではありません。

 

昭和17年南海電鉄の広告。砂川園の表示あり

私が発掘した、昭和17(1942)年当時の南海山手線の沿線観光地案内ですが、経営は阪和電鉄から南海に受け継がれて「砂川園」と名前を変え、いちおうは存在していたようです。

「砂川遊園」がそれに含まれるのかは不明ですが、右となりの「さやま園」狭山遊園地を指していると思われるので、おそらく遊園地を含めたものだと推定できます。

狭山遊園地も「さやま園」と名を変えていることから、戦争の非常時に「遊園地」とはけしからん!という、上からの指導(=圧力)があった可能性がありますね。

 

昭和19年(1944)には阪和線が国有化されます。
そこからは戦争の激化と終戦、戦後の混乱のために放置プレイされていたようです。

 

謎の遊園地を深く掘ってゆくと、面白いことを発見しました。

 

砂川遊園と砂川奇勝は、それぞれ地主が異なっていたようで、

砂川遊園:地元の地主

砂川奇勝:阪和電鉄が直接購入

となっていたようです。

 

地元の個人所有だった遊園地の方は、地元泉南市や他のサイトによると、1950年代には既に畑や住宅地になっていたそうです。
しかし、遊園地の遊戯施設は1950年初頭までそのまま残り、使われていたそうな。

 

砂川奇勝はというと、土地自体は南海電鉄が引き継ぎ1960年代前半まで所有していました。
1962年、いらない子扱いされたのか泉南市(当時は町)に数百万円で払い下げ、町長が不動産業者に1億円以上で売却したと、記録に残っています。

 

砂川遊園と砂川奇勝1947年航空写真

昭和22年(1947)の航空写真を見ると、この時は遊園地の区画がまだはっきり残っています。

砂川遊園の案内にはなかった、本格的そうな陸上トラックもはっきり形になっています。

航空写真でこれだけ残っているのだから、放置プレイのまま手付かずだったのでしょう。

 

砂川遊園と砂川奇勝昭和36年航空写真


しかし、昭和36年(1961)には痕跡すらなくなっていますね。どこに砂川遊園があったのかさえもわからないくらい、きれいに消えています。

しかし、砂川奇勝の方はまだ手付かずで残っているようです。
この航空写真の1年後、砂川奇勝が売却されたということになります。

 

 

砂川遊園と砂川奇勝昭和42年航空写真


昭和42年(1967)の写真を見ると、遊園地の跡に住宅地が造成されている最中っぽいので、ここが今のような住宅地になったのは、この昭和40年代前半と断言して良いでしょう。

また、砂川奇勝も以前と比べ、小さくなっていることがわかります。

 

 

砂川遊園と砂川奇勝昭和50年航空写真


昭和50年(1975)には、ほぼ現在と同じ区画になっています。
あれだけ広範囲に広がっていた砂川奇勝がこんなに小さく・・・なんだか痛々しいほどです。

 

砂川遊園の景勝地、砂川奇勝

そして、砂川遊園最大の見ものが砂川奇勝でした。
『奇』とついているだけあって、他では見れないような風景がかつてここあたりにあったそうです。
駅名の「砂川」も、ここあたりの風景の「砂」が由来になっています。

 

「砂川奇勝」は、今からおよそ200万年前に始まる洪積期(こうせきき)に、海の底の砂や粘土が積み重なったものが隆起し、丘陵となったものです。

この丘陵は元来海の底にあったものですから大変もろく、雨水によってどんどん削られ変形してしまいます。

この削られた姿が、砂が流れる川のようにみえ、「砂の水を流せるを以て此の名あり」といわれるように、「砂川」の名がつけられたのです。
 削られた丘はとても人工的には作り出せない不思議な形をしています。ある時は猛虎の姿に、またある時は、天に駆けのぼる飛竜の姿に見えたなどといわれています。

このため泉州でも随一の景勝地としてにぎわい、古くは岸和田の殿様なども遊覧になり、数十年前までは観光地として、訪れる人々が絶えなかったということです。

時間短縮のために、泉南市古代史博物館のHPの説明文をコピペしてきました。イチから書くの面倒くさい(笑
和泉砂川駅周辺は、今はすっかり住宅地に変わってしまいましたが、上の航空写真でわかるように、かつてはかなり広い範囲に奇勝が広がっていたことがわかります。


和泉砂川駅から、山の方向へどんどん上がっていきます。
地図だけを見ると実感がないですが、実際に歩いてみたら駅前からいきなり上り坂って感じで、不惑の身体では上るのがけっこう辛い・・・。季節外れの暑さもあって、歩いて10分くらいで自分のHPが1になってしまいました(笑


で、ちょっと歩くと、

 

 

砂川遊園跡に今も残る池

 

砂川遊園跡に残る池@大阪府泉南市

一つは埋め立てられるのか、既に干上がってしまっていたものの、道を挟んで両側に池がありました。
ここあたりは農業用ため池が多いところではあるのですが、砂川遊園は、ボートで周遊できる池があったと記録に残っています。

この2つの池も、砂川遊園の夢の跡なのでしょう。

 

それにしても、歩けど歩けど、「奇勝」は見つかず。あるのは静かな住宅地のみ。

「どこにでもあるような」住宅地の風景、方角を見失って自分がどこを歩いてるんかわからんように(汗)
方向感覚には自信がある俺やけど、今回は持ち前の天然磁石が全く役に立たず。

あれこれ住宅地の中をさまよっとるうちに、奇勝の残骸らしきもの発見!?

 

 

f:id:casemaestro89:20170508234239j:plain

行く前に奇勝の予習はしていたので、これはなんとなくかつての奇勝の一部だと勘が働きました。

 

今はどこを見渡しても同じような住宅地。思わず方角を見失ってしまったのですが、今はスマホGoogle mapという文明の利器があります。Google mapで現在地をチェック、そして目的地をロックオン。
そして、

 

奇勝集会所

今も残る「奇勝」に到着しました。
それにしても、「駅から歩いて15分くらい」ってのは予習したけど、道に迷った上にプチハイキング並みの勾配だったので、倍の30分くらいかかってまいました。

ウォーキングシューズ履いてるから歩くんやー!と気合入れるより、素直に車で来ればよかった(笑

 

 

上のマップの「砂川公園」と書かれたところに、1ヘクタール分のみ奇勝の一部が残されています。
でも、何度も言います。

地図で見たら「こんな距離楽勝やん♪」と思って油断すると、えらい目に遭いますよ。

和泉砂川駅から砂川公園まで、すべて上り坂と思って結構。

行く時は歩きやすい靴で行くか、ストレートに車で行くか。

 

この砂川奇勝は、全体的に岩の色が白いのが特徴です。

 

砂川公園と砂川奇勝の砂質の違い

「公園の中にある公園」って書くと、いささか表現がおかしいかもしれませんが、遊具が置いてある公園の土の色と比べたら一目瞭然です。
右の白いのが「奇勝」の土で、左の茶色の部分が普通の・・・というたらあれですが、まあどっかから持ってきた土なんでしょ!?


違うのは色だけではありません。触った時の感触も違います。
「普通の土」は粘り気があり、指でこねると指にへばりつく感があるのですが、奇勝は土というよりまさに砂。
海岸によくあるような、サラサラとした感覚で指でコネコネしてみても指に残らない。まさにここが数万年前は海であったことを物語る証拠が、触感で感じることができました。

 

砂川公園内にわずかに残る砂川奇勝

 

砂川奇勝の坂

 

大阪府泉南市砂川奇勝

 

砂川奇勝は昔と比べて小さくなっている


公園の中には、手付かずというか放置プレイというか、けっこう自然のまま奇勝が残っています。
雨で侵食されて奇妙な形になっているのですが、ということは今でも現在進行形で侵食されているってことだろうと思います。

 

砂川奇勝のアップ

奇勝の岩は砂が固まっただけなのか、石もその中に混ざっていたりします。
その石がけっこうツルツルなものが多く、これもかつては海底にあったものなのかもしれません。
こういうところに、たまに貝や魚の化石がポンと見つかったりするらしく、俺もけっこう目を皿にして探してみました。しかし、そんな都合良く見つかるわけがありませんでした・・・。

 

 

砂川奇勝の風景

奇勝の中でもかなり圧巻なのが、ほぼ垂直な崖です。

写真で見るとそれほど高さがないようですが、けっこうな高さです。さすがにグランドキャニオンほどではないけれど、ここを「砂川のグランドキャニオン」とでも名付けましょう。
地元の子供は、奇勝を「自然の滑り台」として上から滑ってたらしいですが、さすがにこんな垂直じゃ滑られへんわな。滑ったら滑り台どころか、バンジージャンプになってまうわ(笑
住宅地の真ん中に、陸の孤島のように残ってるので違和感があるかもしれませんが、けっこう高さがあるので、高所恐怖症の人はくれぐれも下を見ないよーに。
奇勝は実際に行って登ってみたら、けっこうな高さがあることがわかります。ここあたりが住宅地になる前は、トルコのカッパドキアみたいな風景が広がっていたのかもしれません。

 

カッパドキア


カッパドキアのイメージ画像。砂川奇勝ではありません

 

高度経済成長の住宅不足などもあったとは言え、日本に二つもない貴重な自然の芸術をほとんど壊してしまうとは、実にもったいない。

いざ後悔して「しまった!」と思っても、昔日の風景は二度と蘇りません。覆水盆に返らず。

戦後の経済成長は、確かに日本に豊かさをもたらし、我々もその恩恵を受け生まれ、育ちました。

しかし、それが100%良かったのか。少なくとも砂川奇勝は、今残しておけば観光資源になっていたのではあるまいか。そうなると、一度は消えた砂川遊園が、形を変えてあの世から復活できたのではないか。

誰もいない砂川奇勝の丘の上で、しばし胡座をかいて座りながら、そういうことを考えました。

 

砂川奇勝のてっぺんからの風景

奇勝のてっぺんから見た風景です。
元々奇勝の公園の標高が高いのと、奇勝のてっぺんがけっこうな高さなので、大阪南部を見渡せる絶景です。
まあ、木がちょっと邪魔と言えば邪魔ですけど、関空の連絡橋も見ることができます。青い矢印の部分が連絡橋ね。
もちろん関空自体も見えるので、飛行機が離着陸しとるところも全然見れると思います。
また、うっすらではあるけれど、淡路島(らしきもの)まで見えます。

戦前など昔は、さぞかし絶景だったことでしょう。

 

痴漢の注意看板@砂川奇勝

公園から出てみると、こんな看板が目につきました。痴漢なんて静かな住宅街にはいなさそうなのですが、そういう不審者がいるのでしょうか?


あ、あたし、痴漢なんかじゃないんだからね!勘違いしないでよ!!


ツンデレ風に書いてみたけれど、わたくし、怪しい者ではございますが痴漢ではございません(笑

 

砂川遊園と「あの方」の奇妙な関係

そして、この記事の殿(しんがり)をつとめていただくのは、タイトルに書いてある「ある方」です。

 

砂川遊園には、ひそかに伝えられているもうひとつの伝説があります。

 

それは、ある意味日本初のものでした。


砂川遊園のイメージキャラクターとして、あのお方が使われていたと言われる伝説。


そのキャラクターとは・・・

 

 

 

 

 

砂川遊園とミッキーマウス

この御方です。

 

も、もしかしてあのお方なのか!?

そんなまさか・・・あのお方のランドが日本に出来たのは、確か1983年のはず・・・。

 

 しかし、事実は小説より奇なり。

 

それでは、衝撃の事実をご紹介します。Are you ready?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

砂川遊園のイメージキャラクターだったミッキーマウス

 

!!!!!!



砂川ミッキーマウス伝説は本当でした。

これ、決してフォトショップで作成したコラ画像ではありません。

砂川遊園は、実は、


「日本初の? XィズニーXンド」

 

「※ィズニー※ンド 第0号店」

 

「砂川 @ィズニー@ンド」

 (良い子の夢を壊さないように伏せ字で表示しております。お察し下さいw)

 

だったのです!?


日本初のネズミ園は、実は大阪にあった!?そして戦前からあった!?


皆が知らない衝撃の事実・・・

もしかして、日本の歴史がここで変わったのかもしれない!?

 

もしかして、ミッキーマウスの生みの親はウォルト・ディズニーではなく、実は阪和電鉄かもしれない(違


もしかして、浦安の方がニセモノかもしれない(コラ

 

しかし阪和電鉄よ、これってちゃんとライセンス取ってるんやろな!?

 

・・・そんなわけないか(笑

 

■■よろしければ、下のボタンを押していただけると喜びます♪■■

 ↓↓


にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ