昭和考古学とブログエッセイの旅へ

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老台北、逝く

世間では、ノーベル平和賞受賞者の中国人、劉暁波氏が亡くなったことが大々的に取り上げられていました。
その中で、あまり知られずひっそりと流れていたニュースがあります。

 

www.sankei.com

 

「老台北」こと蔡焜燦(さいこんさん)さんが死去したというニュースでした。

謹んでご冥福をお祈り致します。


これを知った時、うわあああ!と思わず声に出してしまったほどの衝撃でした。
言い方は非常に悪いが、日本にとっては生きてようが死のうが知ったこっちゃない劉氏より、蔡焜燦氏の死去の方がダメージが大きいと思います。

台湾の日本統治時代を知る最後の世代の一人、「元日本人」として日本を常に叱りつつも愛した巨星が落つ。
享年90歳。90であれば、これも言葉は悪いがあとはお迎えがいつ来るかだけ。いつ亡くなってもおかしくない年齢でした。
しかし、この人だけは亡くなって欲しくない。台湾が「日本」であった頃の生き証人として、100歳までとは言わないけれど、「元日本人」として逝くのは東京オリンピックを見届けてからね、という気持ちがありました。

 

 

蔡焜燦という人

蔡焜燦って一体どういう人なの?新聞で取り上げられるくらいなので、有名な人ではあるけれど・・・という人のために、サラッと経歴を。

 

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蔡焜燦氏は、1927年、いや蔡氏的には昭和2年って言った方がいいかもしれない、に台湾で生まれました。
日本の敗戦が昭和20年なので、18年間紛れもない日本人だったわけです。
戦争中は志願で陸軍航空隊に入隊し、奈良で終戦を迎えました。
台湾史に無知な人は、台湾人が「日本人」だったというだけで頭がパンクするほど混乱する人がいます。そして、混乱したくがないために、混乱を認めたくないために否定する。それこそ歴史に対する冒涜であり、台湾史の顔にツバをかけているようなものです。
日本人のはずだったのに、朝起きると「中国人」になっていた。いつもの日常が当たり前の日本人には、それが想像すらできません。しかし、それが台湾史の一幕であったし、蔡焜燦氏もまともに経験したわけです。

 

台湾が中国になり、いちばん混乱したのは公用語が日本語と台湾語から、北京語一本になったこと。
蔡さんは、号令だけで済む体育教師になりなんとかなったものの、大多数の人は「朝起きたら日本語も台湾語も禁止になっていた」現実に戸惑うばかり。
大陸からやってきた「中国人」との軋轢も生まれ、その極地が現代台湾史最大の闇と言われる「228事件」ですが、これについては以前に書いた228事件の記事をご覧下さい。

その後、蔡さんは紆余曲折を経て、
「日本人を喜ばせたい」
とウナギの輸出業を始め、それが大当たり。後に電子産業にも進出し、実業家として日本と関わってきました。

 

蔡焜燦という名前が一躍日本で知られるきっかけが、司馬遼太郎の『街道をゆく 台湾』でした。

 

街道をゆく (40) (朝日文芸文庫)

街道をゆく (40) (朝日文芸文庫)

 

 
台湾関連本の白眉中の白眉でもあり、また『街道をゆく』シリーズの白眉でもあり、司馬遼太郎が唯一、現代政治に鋭いメスを入れた『街道をゆく』として有名な本です。
一文士の紀行に「大統領」まで特別出演する演出もあった、少し変わったシリーズでもありました。
司馬氏の小説は、実は『坂の上の雲』くらいしかまともに読んでいません。その分歴史・文明論エッセイなどの後期作品が好きで、同じ後期型である『街道をゆく』シリーズはほぼすべて読破しています。その中でも、『台湾編』は内容がかなり特異で、かつ司馬さん本人も「(台湾と出会って)私のすべてが変わった」と言い残したほどの自薦傑作です。

 

その『街道をゆく』内で、蔡焜燦氏は
「老台北
として準主役扱い待遇で登場します。
司馬氏に台湾とは何かを紹介し、当時ほとんどの日本人が見向きもしなかった台湾という地が、「元日本」だということを知らしめた代表者でした。司馬遼太郎を媒体にし、日本に台湾ここにありということを伝えていたのでした。
それが伝わったか、多くの日本人が「元日本人」の典型である「老台北」が語る歴史を知り、台湾に目を向けるきっかけとなりました。「老台北」に引き込まれて台湾へ向かった人も数多くいることでしょう。
今でこそ日本ではプチ台湾ブームですが、その第一歩を築いたのが『街道をゆく』であり、「老台北」こと蔡焜燦氏だったわけです。

 

ちなみに、この『街道をゆく』にはちょっとした裏話があります。
台湾に見向きもしなかった日本と日本人に台湾の方を振り向いてもらおうと、当時の李登輝総統が一計を案じました。
「日本の有名な作家に台湾のことを書いてもらおう」
人づてに紹介してもらった台湾籍(といっても生まれも育ちも神戸の神戸っ子)の作家陳舜臣氏に、「あんたは台湾人だからダメよ」という前提で相談したところ、
「ならええ人おりまっせ」
と。
陳氏と司馬遼太郎は大阪外国語学校(今の大阪大学国語学部。元大阪外大)の先輩後輩の仲なので、早速司馬氏に電話口で言いました。
「そういえば、『街道をゆく』台湾まだやな」

これが台湾との出会いの始まりだったと、司馬氏もエッセイの中で書いていました。

 

この『街道をゆく』から台湾の「元日本人」の代表格となった蔡氏は、仕事から退いてからも日本と台湾の友好に尽力しました。
親日家」ではなく「愛日家」として、
「こら、もっとしっかりしなさい!」
と日本を厳しく叱りつつも、そこには愛がふんだんに込められていました。

蔡焜燦氏の人生や日本へのメッセージなどは、『日本精神 日本人よ胸を張りなさい』という本に書かれています。

 

新装版 台湾人と日本精神: 日本人よ胸を張りなさい

新装版 台湾人と日本精神: 日本人よ胸を張りなさい

 

 


平成26年に日本の「旭日双光章」を受章します。
日本から届けられた勲章を胸につけ、こう言いました。

 

「まだまだ私にはやることが残っている。日本の若者たちに台湾というものを教えていかなきゃいけない。
そして台湾の若者たちには日本というものを教えなきゃならない。まだまだ死ねません」

まだまだ死ねません。はっきりと張りのある声で言っていたので、この爺さんはまだ大丈夫だなと思っていただけに、今回の死去のニュースがとても残念でなりません。


消えゆく「元日本人」たち

台湾の歴史をよく知らないと、蔡焜燦氏のような人はごくごく例外だと思います。
しかし、かつて「元日本人」に数多く接してきた私にとっては、蔡さんはただの一例に過ぎないと断言します。

一度台湾も見ておかなければいけない。そう思い台湾へ向かったのは1997年の今頃のことでした。
台湾にいる間、いろんなタイプの「元日本人」の方々を出会ってきました。何せ国のトップが「元日本人」だった時代だったので、小学生(国民学校)で記憶が止まっている人から、医者にサラリーマン、旧制高校生、学徒出陣組、従軍看護婦、果ては志願の元特攻隊員まで、タイプも様々でした。
戦後も日本人と交流した人も多くいましたが、基本的に日本語が昭和20年8月15日で止まっていた人も多く、
「日本語ってこんなにきれいだったんだね」
台湾に遊びに来ていた友人が原住民の女性の日本語を聞き、ふと漏らしたこともありました。
ただし、日本語お上手ですねなんて言葉は絶対禁句。

「当たり前だ!!君らはどういう歴史教育を受けてきたんだ、ったく!!」

と烈火の如くという表現が浮かぶほど怒鳴られました。これ、ホントに原文ママです。

 

「日本は一体どうなってるんだ!だらしがない!」
「日本人は大和魂を忘れたのか!チ○ポついてるのか!」
「日本人、もっとしっかりしなさい!戦争で死んで行った人たちに申し訳ないと思わんのか!」
台湾に住んでいた頃、こんな風に毎日の如くお説教でした。私本人がだらしなかったせいもありますが、実によく叱られました。
しかし、ただ叱られたのではありません。それにはどこか「愛」がありました。
放蕩息子かダメ孫を心配するお年寄りのような感じで、なんだか昔、近所のお爺さんにこういうのが一人や二人いて、叱られたなと懐かしささえ感じました。
皆が皆、蔡焜燦氏と同じく日本を厳しい目で見ながらも、どこか優しい人たちでした。

 

台湾での日本好きを哈日族(ハーリーズー)と言います。
台湾は親日とは言うけれども、「哈日族」必ずしも親日とは限らず。なぜなら歴史を共有していないから。
「元日本人」たちの辛辣な表現を借りれば、「皮一枚だけの薄っぺらい日本好き」。
しかし、「元日本人」たちは我々と一時期でも歴史を共有している。同じ歴史を歩んだことがある。
だから「親日」とか「哈日」とか、そんな軽い言葉では僕たちの日本に対する気持ちは表現できないんだ。
懐かしさや、愛、(日本という)育ての親、家族に見捨てられた恨みも含めてもっと深く複雑なんだよ。
台湾大学前の本屋で出会った、ある「元旧制高校生」が語った言葉が今でも頭に残っています。

 

そんな「元日本人」たちも、時が経ち消え行く運命にあります。命ある者いつかは滅びる。これだけは仕方ありません。
以前は、表現は悪いですが掃いて捨てるほどいた彼らも、今はほとんどいなくなったでしょう。
そして、彼らの看板のような蔡焜燦氏が亡くなったことによって、日本語でものを考え日本語で夢を見る「元日本人」たちは、本棚に陳列される「歴史」となりつつあります。
まだ「元日本人」の最代表格の元総統、李登輝氏はまだご存命ですが、亡くなったらそれは完全に「過去」となるでしょう。日本と台湾が共有していた歴史も消えてゆくこととなります。

しかし、蔡焜燦氏は言いました。
「台湾の若者たちには日本というものを教えなきゃならない」
「元日本人」たちが遺していっただろう種がどう芽を出していくか。それをどう育てていくか。
彼らが遺していった宿題を処理していくのは、残った我々です。

 

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