昭和考古学とブログエッセイの旅へ

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

選手宣誓はナチス由来!?その俗説に反証する

ドイツ人と日本人のハーフタレント、サッシャさんのブログより

 

lineblog.me

 

TV番組の『世界番付』にレギュラーで出ており、なんだ久しぶりだなと旧友に道端で会った気分でした。相手は「しらねーよ!」ですけど(笑)
『世界番付』が終わった後は何してるのかなーと思っていたら、なにやらきな臭いことを書いておられます。サッシャさん、新たな炎上商売ですか?


サッシャさんのブログの内容を見るに、明らかに思い込みから来ているのではないかと思います。
ドイツ式自虐史観、いわゆる「すべてがナチスに見える」です。
一昔前の日本でも同じでした。時代は平成に入るか入らないかの頃、夏休みの自由研究で旧帝国海軍の事を書いたことがあります。
内容は戦争賛美でも何でもなく、ただの近所の元海軍さんの思い出話でした。思春期だったのでエロ話もふんだんに(笑)
しかし、戦争のことを面白おかしく書くなんて何事だ!戦争で亡くなった人たちに申し訳ないと思わないのか!と、親呼び出しの上『右翼分子』のレッテル貼られ酷評でしたよ、ええ。

今考えてみると、先生とサッシャさんは根っこが同じ思考なのですよね。

 

サッシャさんも、右手を挙げる動作がすべて「ナチス式敬礼」に見えるのでしょう。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。じきに

 

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初音ミクのこんな画像も、

 

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ホームランのガッツポーズも「ナチス式敬礼だ!」と叩かれるのでしょうね。

アホくさと思うでしょうが、思い込んでいる人にはそう見えるのです。思い込んでいる人は、馬も鹿に見えるのです。

 

ドイツ在住歴ン十年の知り合いはその昔、タクシーを止めるために右手を挙げたら近くの人数人から罵声を浴び、何がなんだかわからなかったそうです。
その話を聞き、私がすかさず

「それってドイツ式自虐史観ですやん」

と半笑いしたところ、彼女いわく。
「ドイツ式自虐史観か。そんなの(ドイツに)ゴロゴロいるわよww」

ドイツ式自虐史観は日本より根が深いようで、主に旧西独国民に多く旧東独は自虐教育を受けなかったのであまりその傾向がない。ぶっちゃけ旧東独の教育を受けた人の方が、変な自虐史観がない分思考が自由とのことですが、個人的感触なので話半分に聞いてくれとのこと。

彼もその一人だと思えば、どうということはありません。


私は、ちょっと引っかかるのです。
サッシャさんは言います。

「大人になって調べてみると…このポーズ

本当にナチス式敬礼だったのです!」

 

はい、断定してますね。言い切ってますね!


試しに「選手宣誓 由来」でググってみました。

 

 

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1ページ目は、見事に「ナチス」一色です。「ナチス一色(イッショク)」・・・役満です。親なら48,000点です・・・って麻雀じゃない。

これらの「ナチス説」を丹念に見ていくと、

「選手宣誓(の右手挙げ)はベルリンオリンピックから始まった」

「日本はそれをドイツから輸入した」

というのが、少なくてもネット上では「定説」となっています。

しかし、果たして本当にそうなのでしょうか。

 

 

サッシャさんやネットの「定説」に反証する

サッシャさんのブログは、よく読むとあくまで問題提起なので、総論を批判するつもりはありません。
私が批判すべきは彼の各論と、
「定説を鵜呑みにし、なんの裏付けを取っていないのに、それをあたかも自分が調べた事実です的に撒き散らす人たち」
です。福沢諭吉ではないですが、「情弱は親の仇でござる」なのです。


選手宣誓自体は、Wikipsdia宣誓・・・ならぬ先生によると、1920年アントワープオリンピックから始まったとされています。

 

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今のように、右手を勢いよく挙げて宣誓しています。堂々としています。

 

 

 

 

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次のパリオリンピック(1924年でも、ポスターですが右手を挙げて宣誓しています。

ドイツ式自虐史観の方は、これもナチス残滓に見えるのでしょう。

 

 この時点で、上記の「選手宣誓(の右手挙げ)はベルリンオリンピックから始まった」説は粉々に粉砕されます。


ちょっとググればわかることを、何故調べない?正直私は頭から湯気が出て憤慨しております(笑)

 

その頃ナチスヒトラーは、

1920年ヒトラーは既にナチスに入り込み幹部になっていますが、トップではありませんでした。ナチスはまだ無視されるべき存在

1924年ヒトラーミュンヘン一揆失敗で投獄され、ナチスは壊滅状態

 

仮に、仮にですよ。アントワープパリオリンピックの選手宣誓がナチス式敬礼が由来であれば、当時南ドイツの一地方政治団体に過ぎなかったナチスが、どのようにしてオリンピックにまで影響を与えるのでしょうか。

 

歴史というものは、単眼で見てはいけません。多面的に見る「複眼思考」が必要です。
「単眼思考」は歴史においてはただの自己洗脳に過ぎませんが、ほら、日本のお隣のあの国を見ていると、すごくわかるでしょ!?
しかし、我々も単眼思考の自己洗脳に陥らないように、多角的にものを見る必要があるのです。



日本のオリンピックでも右手を挙げて選手宣誓してますが何か

ここで疑問に思ったのは、日本のオリンピックではどうだったのかと。

 

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東京オリンピック

 

 

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長野冬季オリンピック

やってますね。

札幌冬季五輪は、英語でググってみてもデータなしだったのですが、代わりに今年のアジア冬季大会を。

 

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東京と長野は、当然世界に向けて中継されていますが、ナチスだ!という批判は今もってありません。
本当に選手宣誓がナチスを想起させるのであれば、1964年時点で世界中から批判されて然るべきですよね。

これについては、どう反証するのでしょうか。

 

古いオリンピック憲章には、選手宣誓の方法が書かれています。

=開会式及び閉会式=

規則69付属細則

1.12 の選手団の旗手が、演壇の周りに集まって半円形をつくる。開催国の競技者一名が演壇に上がる。

彼は、左手でオリンピック旗の端をもち、右手を挙げて、次のように厳粛に宣誓する:「私は、全ての選手の名において、我々がこの大会を律するルールを尊重し、これを守り、ドーピングを行わず、また薬物を使用せず競技に全力で取り組み、真の意味でのスポーツマンシップにおいて、スポーツの栄光とチームの名誉のためにこのオリンピック競技大会に参加することを宣誓いたします。」

 最近の憲章では「規則69付属細則」自体が削除されていますが、元々オリンピックの選手宣誓で「ナチス式敬礼」をするのは、憲章に「そうしろ」と書いてある決まりだったのです。

 


民間語源

残念ながら、

「選手宣誓のこのしきたりが日本に伝わったのが、1936年のベルリンオリンピックがきっかけだったのだとか。

当時のドイツはナチス政権開会式でヒットラーに向かって選手宣誓したのが、そのまま当時同盟国だった日本に伝わり、その慣例だけ戦後も残ってしまったということらしいのです…」

サッシャさんのブログより引用。改行・句読点は私が追加

 

これについては、反論する資料が手元にありません。

ベルリン・オリンピックの前から、右手を挙げた選手宣誓をしたという資料や写真などの確証があれば、すぐにでも否定できるのですが・・・。

CiNii 論文 -  明治神宮体育大会に関する研究 : 明治神宮体育大会と昭和初期のスポーツについて

上の論文によると、選手宣誓自体は1924年明治神宮体育大会ですでに採用されていたとのこと。この選手宣誓が右手を挙げたオリンピックスタイルだと判明すれば、その時点で「選手宣誓=ナチスから採用説」は木っ端微塵に吹き飛びます。

時代は1924年、その4年前のオリンピックで選手宣誓をしている実例もあるので、選手宣誓自体オリンピックからパクって採用した可能性があります。状況証拠しかない観念論ですが、こう考えた方が筋が通ると思います。

 

しかしながら、個人的に信じはしないものの、この論文を見ていない以上、違う!と断定する要素もないのです。

しかしながら、逆もまた真なり。そうだ!と断定する要素もありません。
サッシャさんもそこはわかっているのか、「らしい」でぼかしています。そこは賢明ですね。しかしそれが落とし穴になっています。

 

人間は、「こうだ」と思い込むとその情報しか耳に目に入らない傾向があります。そうなると、隣にそれを否定する証拠が転がっていても、まったく目に入らない。無意識にスルーするのです。
それを心理学で「確証バイアス」と言います。
最初は出典不明の俗説、お茶屋の与太話だったりしたものの、何かしらの権威がついたり妙に説得力があると徐々に広まります。数百年間も信じられ続けるとすっかり「定説」「常識」となってしまい、反証してもビクともしない強固なものとなります。

言語学の世界では、このような例はザラにあります。専門用語で『民間語源』と言います。

『民間語源』とは、ある言葉の由来について、科学的(言語学的)な裏付けがない、民間の間で無理やりこじつけた俗説のこと。平たく言うと、ふだん使うことばの語源の都市伝説と思って結構です。

『民間語源』はオーバーに言うならば、こじつけでかつ大衆の間でウケればそれで良かったりします。極論中の極論だと、


「ドイツ語のname(ナーメ。「名前」の意味)は、日本語の『名前』と音が似ている。だから「名前」の語源はドイツ語nameである」


というこじつけもできます。何アホなこと言うとんねん!?と思うでしょうが、世間に広まっている『民間語源』とは、実はこんな程度なのです。

社会的影響力ゼロの私がブログで断言してもスルーされるくらいで済みますが、同じことをビートたけしや東大教授がテレビで言ったとすると、100人中99人は信じるでしょう。そして電波やネットで日本中、いや世界中に一瞬で広まってしまう。それが『民間』の怖いところです。

 

我々が普段使っている言葉にも、数十年、いや数百年間「そうだ」と言い伝えられ、すっかり常識になっている民間語源が山ほどあります。

 

例えば、「バカ」

これ、厳密に言うと語源は未だ不明です。強力な仮説はあるのですが、王手のところで研究が止まっている状態です。
学者は「バカバカ」しくて研究していないのでしょうか。

バカって昔から使われてきたのではないの?と思いますが、江戸時代初期の江戸では、当時の口語辞典によると「バカ」は「たわけ」「うつけ」「べらぼう(め)」でした。
それが18世紀初頭、暴れん坊将軍在位中の頃から、徐々に「バカ」が江戸に浸透し始めます。時代が進むと共に「うつけ」が消え「たわけ」が消え、「べらぼう(め)」と共存し始めます。そして、19世紀の文化文政の頃から、「バカ」の露出回数が増え、「べらぼう(め)」を駆逐し始めます。ちなみに、その同じ頃京・大坂にあらわれた新語・流行語が「アホ」です。
そして明治になると、「べらぼう(め)」が急に使われなくなり、夏目漱石の小説「坊っちゃん」くらいを最後にほとんど出なくなります。坊ちゃんが松山で、

「べらぼうめ、イナゴもバッタも同じもんだ」

と切った啖呵は、「べらぼうめ」が放った最後の光でした。
大正生まれの江戸っ子も、べらぼうめなんて言ったことも聞いたこともないという証言もあるので、おそらく昭和初期には滅んでしまったのでしょう。

(ただし、50年くらい前まで埼玉県の田舎にわずかに残っていたらしい)

 

 

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その昔、ベラボーマンってゲームがありましたが、直訳すると「バカ男」ってことか。

 

 

その「バカ」の語源で有名なのが2つあります。

①中国の故事「馬鹿」説

梵語の「mokha(摩訶)」説

①は始皇帝の秦が滅びつつあるころの故事からですが、「馬鹿」という熟語自体はここが出典と思われます。
しかし、それが「バカ」の語源であれば言語学的に「ばろく」と発音しないといけない。それを「バカ」と読ませる自体、超こじつけ。
言語学をきちんと学んでいる人にとっては、この説を唱える人が「馬鹿」に見えて仕方ないかもしれません。

 

②はサンスクリット梵語)で「痴」「愚か」を意味する「mokha(モカ)」、無知蒙昧という意味の「baka」から来ている説ですが、これを信じる人はけっこう多い。
この説が普遍の定理の如く定着している理由は2つ。

一つは、権威ある言語学者が言い出しっぺだから。もう一つは、Wikipediaどころか、市販の国語辞典(広辞苑など)・語源辞典にも載っているから。
もちろん、すべて「~と言われている」や、「~が由来という風に推定の「か」をつけ煙幕を張っているわけですが、大衆はそんなものに気づくわけがない。辞書の編纂者や方言学者の保身・逃げですな。


しかし、「馬鹿」は江戸時代初期までは「狼藉」と同じ意味で使われていました。

安土桃山時代の日本語の口語を収集した、『日葡辞書』という書物があります。ここには「バカ」も収録されていますが、今の馬鹿の意味はなく、今風に言えば「やんちゃな行為」のことでした。それも「馬鹿」はあくまで行為のことで、「やんちゃなことをする人」が「馬鹿者」として掲載されています。
ここでお気づきでしょうが、②の説は「馬鹿」が元々「乱れた様子」「狼藉」という意味な以上、成り立たないのです。
それに気づいたか、②の言い出しっぺ自身が自説を撤回したのですが、大衆の間では取り消されることなく広まり、今でも常識としてこびりついているのです。

なんだか今回の「選手宣誓はナチス由来」に似てると思いません?

 

 

結論:フェイクニュースじゃね?

上にも書いた通り、サッシャさんの内容自体を批判するつもりはありません。しかし、各論が誤認だらけなのです。

「動機は正しいとしても結論を導くまでの過程に事実誤認が多すぎませんか?」

という、コメント欄にあった発言が真を突いています。

つまり、

「大人になって調べてみると…このポーズ

本当にナチス式敬礼だったのです!」

 

と断言しておきながら、その根拠は

「選手宣誓のこのしきたりが日本に伝わったのが、1936年のベルリンオリンピックがきっかけだったのだとか。

(中略)その慣例だけ戦後も残ってしまったということらしいのです…」

 「らしい」という伝聞を根拠にしている。

根っこが伝聞推定じゃ各論が崩壊するわな(笑)ホンマにバカバカしい。

 

ブログに何を書こうが基本的には自由だし勝手ですが、「らしい」から断定に持ち込む論法は詭弁です。
特に歴史となると客観的かつ科学的な批判精神が必要です。

フェイクニュースだと私は言いますが、このネット全盛の世の中、フェイクニュースを止めることはできません。フェイクニュースけしからんと批判するのも簡単です。
しかし今必要なのは、フェイクニュースをフェイクニュースと見破り、論理的かつ実証的に反証するネット閲覧者個人の力と頭脳だと感じています。