読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

昭和考古学とブログエッセイの旅へ

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

姫路モノレールと大将軍駅 高度経済成長の置き土産ー昭和考古学

姫路といえば、世界遺産にもなっている姫路城です。日本の有名な観光地として、世界的でも知られています。

しかし、姫路駅と姫路城を結ぶ大通りの喧騒から離れたところに、高度経済成長の置き土産と言える遺物が残っています。

 

姫路には、かつてモノレールが通っていました。地元の人には「姫路(市営)モノレール」と言われていましたが、正式名称は「姫路市交通局モノレール線」というお硬い名前でした。以後は、書くのが面倒くさいので「姫路モノレール」と書くことにします。

昭和41年(1966)に姫路駅前から、市の南にある手柄山まで開通したのですが、客足が伸びずに昭和49年(1974)に休止、その5年後に正式に廃止になりました。

 

姫路モノレール開業当初の写真

開業後のモノレールの姫路駅前を写した、貴重な写真です。今の姫路駅と比べると、なんだか信じられないかもしれませんが、本当に姫路駅前です。

 

開業当時の航空写真を探してみると、モノレールが走っていることがはっきりわかります。

1967年姫路駅前航空写真

1967年(昭和42)の姫路駅前の航空写真を適当に切り抜いたものですが写真上の赤で◯をした部分が、モノレールの姫路駅になります。当時は新幹線はまだ未開業どころか、写真を見ると駅の建設すら始まっていないようで、影も形もありません。

高解像度写真ながら駅前を拡大しようとすると、どうしても画面が粗くなってモノレール駅の輪郭をはっきりつかむことができなかったですが、今の地図に落とし込むと、

 

姫路駅前地図

 

今の「姫路キャスパホール」と姫路駅の間にあったことは確定ですね。明治時代とか戦前の遺物探しに比べたら、落とし込みは非常に楽勝でした(笑

 

なんで姫路にモノレールが作られたかというと。

当時の姫路市長の石見元秀氏がアメリカ視察の時に、ディズニーランドのモノレールに感銘を受けたらしく、

「我が市にも同じようなモノレールを!」

と作ってしまったことが始まりでした。

開業した昭和41年と言えば、高度経済成長で日本が右肩上がりの経済成長と遂げ、怖いもの知らずの時代でもありました。20年前風に言えば「無敵モード」、今風に言えば「日本無双」という感じでしょうか。

しかし、それにつれモータリゼーション、マイカーの数も劇的に増え、交通渋滞や排気ガスによる大気汚染も深刻な社会問題になっていた時代でもありました。

その問題解決の一つとして作られたのがモノレールでした。

1963年に国に建設の申請を出しますが、その時の計画は姫路駅前~手柄山だけではなく、

姫路モノレール路線図

赤線が実際に開業した区間青線が国に出した計画路線)

姫路市を南北に貫く、全長8キロの大規模な計画でした。

当時から姫路市民からの反対もあり、自治省の偉いさんも、

「こんなの採算取れるのか?」

とかなり怪しんでいたそうですが、翌年の東京オリンピックの昭和39年(1964)に建設許可が出ました。

しかし、市長はこれで満足せず、市内の環状線はもちろん、なんと鳥取舞鶴まで伸ばすぞ!と意気込んでいたそうです。

鳥取とか舞鶴まで伸ばしてどないすんねん?全部各駅停車か?それってどんな罰ゲームやねん?

と、今冷静に考えたらなんとも非現実的極まりないのですが、それだけ当時の日本全体がイケイケドンドンだったわけで、市長が妄想癖に囚われていたわけじゃありません。

ちなみに、今の姫路市長はこの市長の三男の方です。テレビで現市長が言ってましたが、さすがにオヤジのモノレール鳥取舞鶴延伸計画には、

「無理やろ!」

と苦笑いしていたそうです。

 

しかし、市長のワクテカな妄想・・・じゃなかった、構想とは裏腹に、このモノレールは失敗に終わりました。

その原因は、山陽電鉄や市バスどころかタクシーより高かった料金設定(姫路~手柄山が100円。山陽電鉄の姫路~手柄間は20円。タクシー初乗りが30円)だったり(つまり、マーケティングを全くやってない)、初年度から赤字垂れ流しの「武士の商法」だったり、いろいろあるのですが、やっぱり採算が取れないようなところに路線を敷いたのがいちばんの原因でしょう。何せ高度経済成長の勢いがあったので、

「とりあえず作ってしまえ!」

というノリだったんでしょう。ある意味とんだ税金の無駄遣い、姫路市黒歴史に終わった乗り物、それがモノレールでした。

 

廃止になった後は、地元の人以外からは忘れられつつありました。実働8年なのでさもありなん。しかし、廃止になっても撤去費用はかかる。それをケチった姫路市は跡と完全放置プレイとなりました。

しかし、行政が放置プレイをかましてくれたおかげで、モノレールの遺物は一部を除いてそのまま残ったため、廃線跡専門の鉄道マニアから熱い視線を受けていました。保存状態はさておき、けっこうな数が残っているので、ある社会学者をして「現代遺跡」と言わしめたほどでした。

 

 

そのモノレールの唯一の途中駅に、「大将軍駅」がありました。

ただの途中駅と言えばそうなのですが、この駅が非常に熱い視線を注がれていた理由は、駅の構造というか、その外観でした。

 

姫路モノレール大将軍駅

モノレールが現役だった頃の大将軍駅です。

なんや、ただのビルやんと思うでしょうが、実は大将軍駅は「高尾アパート」という高層マンションの中に駅がある、全国でもかなりレアな駅でした。

駅はビルの3,4階にあり、その上は公団(今のUR)の団地、下は銭湯やビジネスホテルがあったそうです。

今の時代から見ても相当奇抜に感じるのに、今から50年前だと近未来感がハンパじゃなかったでしょう。駅直結の公団団地自体は、昭和40年(1965)にできた名古屋の上飯田駅などがあるのですが、マンションを貫く構造のものは、この大将軍駅以外には過去にも未来にもなかったと思います。ちなみに、駅ビルを貫くものなら、北九州市営モノレールの小倉駅が現役であります。

更にこのマンションには、当時の姫路のマンションでは珍しかったエレベーターがついていて、学校の友達に相当驚かれた、と当時の住人の方が言っていました。もっとも、今ではクレームがつきそうなくらい遅かったそうですけどね。

昭和42年姫路航空写真

昭和42年姫路モノレール航空写真

どちらも開通2年目の昭和42年(1967)のものですが、航空写真を見ても大将軍駅こと高尾ビルが周りの建物と比べて、相当大きかったことがわかると思います。

地元の方いわく、当時は高層マンションなんてなかったから、頭3つ分くらい突き抜けていたそうです。というか、高架化された今の姫路駅からもかなり目立って見えたそうです。

 

しかし、この大将軍駅、モノレール開通からわずか2年で廃止されてしまいます。その理由は利用客が少なかったことですが、その理由は姫路駅から実際に歩いてみるとわかります。

姫路駅から大将軍駅の高尾アパートまでは、実はそれほど距離はなく歩いて3~4分。あくまで俺の足でですが、スマホGoogle Mapのナビ案内でも5分ほど。ぶっちゃけ姫路駅まで歩いた方が早い。

大将軍駅は姫路モノレールの唯一の中間駅でしたが、中心駅の目と鼻の先に途中駅を作っても、そりゃあまり乗る客はいなかったんじゃないかと思いました。仮に通勤・通学で姫路駅までモノレールを使うと仮定しても、歩ける距離の一区間のために定期代を払うのはバカバカしくなりそうです。

 

この大将軍駅と高尾アパートは、モノレールが廃止になっても、マンションは現役のまま使われていたのですが、築50年という老朽化の波には勝てませんでした。

更に、鉄道がマンションを突き抜けるという近未来構造が逆に仇となり、耐震構造補修をURがコスト的に拒否したため、ついに解体となりました。

解体が決定した去年7月、長らく封印されていた大将軍駅が期間限定で開放され、10倍の競争率を乗り越えた約700人の見物客が、歴史の流れに消えた駅の最後の姿を目にしました。

 

姫路モノレール大将軍駅跡高尾ビル

姫路モノレール大将軍駅跡高尾アパート

 

2017年3月現在、高尾アパートの解体作業は予想以上のハイペースで進んでいました。

正直、ちょっとは残骸が残っているかな!?と期待していたのですが、あの外観は既に100%消えていました。残念ですが、これは時代の流れなので仕方がない。

ちなみに、姫路市によるとこの後の土地の再利用は決まっていないようです。

 

しかし、姫路モノレールの遺物が完全に消えたわけではありません。

 

姫路モノレール大将軍駅支柱跡

高尾アパート跡の横にある、蔦で囲まれた謎の柱。

これは、実は姫路モノレールの忘れ形見の一つです。レールを支える支柱の一つということで、都市計画が進んでいるはずの姫路市の真ん中に、こんな遺物が残っているのです。

柱にからみついた蔦が、時代の流れを物語っています。

 

大将軍駅の現役時代の写真や解体寸前の写真を比較してみると、

姫路モノレール大将軍駅と公団団地

右端のこの柱で間違いないと思います。そうじゃなかったらその左。

幸いGoogle mapの航空写真がまだ解体前だったので、そこそこ簡単に比較することができました。

 更に面白いのは、奥にある居酒屋を姫路モノレールの支柱が貫いていることです。

にこれって居酒屋にとっては邪魔じゃないのかな!?と思うのですが、居酒屋のご主人に聞いてみたいものです。といってももちろん柱の方が先なので、柱があるところに建物を無理矢理(?)作ったことになるので、邪魔なのは重々承知ということでしょうね。

 

姫路モノレールの跡

 

モノレールが走っていたところは、これまた昭和の匂いが強く残っている「ガード下」となっています。この写真では姫路モノレールの遺物は残っていないようにみえますが、

 

姫路モノレールの跡

 

角度を変えて撮影すると、「お柱」がまだ残っていることがわかります。

 

山陽電鉄山陽電鉄高架前の前の姫路モノレール支柱跡

 

山陽電鉄の高架の手前に残る柱は、かなり原型を留めて残っています。

モノレールがかつてここを走っていたことを知らない人がこれらの柱群を見ると、

「なんでこんな所にこんなものが?」

と、世界の七不思議なくらいの意味不明なモニュメントに見えることでしょう。

上にも書いたように、このモノレールの跡は姫路駅や旧大将軍駅近辺だけではなく、終点だった手柄山あたりまでまだ断片的に残っています。

俺はこういう「昭和の遺跡」を探しつつ、それにまつわる歴史を掘る「昭和の考古学」をしていきたいと思います。考古学とは、何も土を掘り穴を掘るだけではないのです。

 

しかしこの柱も、どうやら近年中に撤去の予定だそうです。

やはり建物の下に老朽化した柱をそのままにしておくのは危ないことこの上なく、いつコンクリートが剥離して落ちてくるかわかりません。住民からも撤去の声があるようなので、姫路市もついに重い腰をあげたそうです。

 

日本全体が高度経済成長のビッグウェーブに乗っていた昭和40年代、とんだ箱物モノレールを作ってしまった姫路市。もし今なら、

「なんでそんなん作るねん!金の無駄やないかい!」

と市民から猛反発を食らいそうですが、やはり経済成長に伴う市の近代化の勢いがあったのでしょうね。

 日本の経済史上、いちばんノリにノッていた高度経済成長時代の置き土産、それも今は使われない昭和の遺物が、平成になり21世紀になっても都市の真ん中に残っている不思議さとアンバランスさ、これを見られるのも残り少なくなりそうです。

 

実は、姫路には高度経済成長の遺物がもう一つ、それもモノレールとは全く関係なく残っていたりします。

それも、かなり意外な場所にあるのですが、それはまたの機会に書こうと思います。

 

■■よろしければ、下のボタンを押していただけると喜びます♪■■

 ↓↓


にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ