昭和考古学とブログエッセイの旅へ

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

天王寺駅の怪 完結編-ついに天王寺駅の謎が暴かれる!?【昭和考古学】

数ヶ月前、JR阪和線天王寺駅の謎について記事を書きました。

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

自分でもかなり力を入れた記事でしたが、その熱量がインターネット回線を通して伝わったか、かなり好評でした。正直、スターやはてブなどの数以上に反響があります。

これからの内容は、上の前編と後編を完読という前提で書いていくのですが、両方とも後でゆっくり読めばいいんじゃないの!?と気軽に書いてみる。

 

この中で、天王寺駅のホーム下に今でも眠っているだろう、地下通路の話を書きました。詳しくは上のリンクの後編をご覧下さい。そこで、

「地下通路の事をご存知の方、こっそり連絡下さい」

というメッセージを発信したのですが、ありがたいことにそれを受信してくれた方が複数いらっしゃり、貴重な情報を入手することが出来ました。こちらにて改めて御礼申し上げます(-人-)

阪和線天王寺駅の事は、前編後編で書き尽くした!終わり!これだけ書いたら十分やろ!と自分では思っていました。

しかし、まだ終わってはいなかった・・・たかが天王寺駅、されど天王寺駅天王寺駅は実に、実に奥が深い。

 

 

これで天王寺駅の謎がすべて解ける。「帰ってきた天王寺駅の怪」のつもりで、実家への淡路島の野菜運搬帰省のついでに再び天王寺駅へ。

予告しておきますが、ここから、すごく長くなります(笑

 

 

新たに生まれた天王寺駅の謎

実地調査のために、時間をかけて入念に現場を歩いてみました。電車に乗るわけでもなく(結果的には実家帰省のために乗ったので切符は持ってますよ)、何時間もホームをキョロキョロしながらウロウロする私、明らかに不審者です。特に、今はほとんど使われていない降車ホームの5~6番線は人ひとり立っておらず、だだっ広いホームに自分ひとりがポツンと、それも上を見、下を見、キョロキョロしながら歩いていたら、駅じゃなかったら警察に通報され職務質問されるレベルだと自分でも思います。

 

 

それはさておき、ホームを俯瞰して見てみると、

「あれ?なんで今までこんなことに気づかんかったんやろか?」

という不思議な風景に感づくことに。

天王寺駅ホームの3面を写真にアップしてみます。

 

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これは7~8番線

 

 

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こちらは、現在は降車専用ホームになっている5~6番線

 

 

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そして、快速・区間快速専用ホームである3~4番線

 

ごくふつうの天王寺駅の一風景なのですが、何かおかしいことに気づきませんか?

 

・・・間違い探しのブログではないので、さっさと先へ進みます。

注目すべきは屋根を支える柱の位置。意識してホームの幅の中心から撮っていますが、3~4番線と5~6番線の柱の位置が、やけに右に寄っていませんか?7~8番線ホームの柱がホームの真ん中に建てられているのと比べると、明らかに違和感ありまくりだし、美という点でもかなりバランスが悪い。もしこれが開業当初のままなら、設計者の美的感覚を疑ってしまいます。

節子、それ仕様やと言い張られたらそれまでですが、これもなんだか臭う・・・何らかの理由があるに違いない。

 

地下通路の全容を解明どころか、また新たな謎と対峙することになりました。 

 

ホームの謎の線

5~6番線ホームをふと観察していた時、ホームに線があることに気づきました。

 

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これです。

 

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その線は、意識しないとわからない程度の線なものの、東西方向(和歌山方面)に延々と伸びていることに気づきます。

そしてこの線が、もう一つのことを示唆してくれています。

今の6番ホームとこの線のちょうど中心に、鉄柱が建っていることに気づきました。腕を伸ばし、柱からホーム・謎の線のだいたいの距離を測ってみましたが、アバウトで鉄柱が中心になっています。本当は巻き尺を持参して謎の線と6番線ホームと柱の位置関係を数字で測りたかったのですが、JRに無許可でそこまでしたらホンマに不審者として通報されかねない。天王寺駅の出入り禁止食らったら、実家に帰省でけへんやん。

 

ここでピンときた私、こういう仮説を立てました。

 

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「今の5~6番ホームは、阪和電鉄時代はこの幅だった」

 

 5~6番線の仮説を立証してみる

  そこで仮説の証拠探しを始めたのですが、むーさんという方のブログで、

「!!!」

とアンテナが反応した写真がありました。

本人様の許可を得たので、私のアンテナがビンビン反応した写真をアップします。

 

昭和29年(1954)の阪和線天王寺駅

 

1954年の阪和線天王寺駅

 むーさん「突然ですが天王寺駅阪和線ブレ写真」より

今から63年前、 昭和29年8月天王寺駅で撮影されたという阪和線の写真ですが、アップされたご本人は、国鉄になっても現役で活躍する阪和電鉄の電車と、写真左に停車している電気機関車に視点を置かれていました。

 

阪和電鉄は昭和ヒトケタの水準としては化物のような電車を投入し、阪和間をスピード違反上等で暴走していました。ただし、電車のスピード違反は関西の私鉄では暗黙の了解で、なにも阪和電鉄だけの事ではありません。

しかし、今でも伝説に残るほどの猛スピードを出せたのも、電車の性能だけではなくスピードを出せるほどのレールと地盤があったから。当時の常識では「新幹線もどき」と言っていいほどのもので、今の阪和線にやたら直線が多い上に、駅間が短く、各駅停車などが特急などの優等列車を退避できる駅が多いのも、私鉄時代の残滓です。

 

阪和線が国有化されるのは昭和19年(1944)のことですが、私鉄が国鉄に買収された場合、国鉄型より性能面で劣っている旧私鉄の車両は、たちまち廃車となります。

しかし、阪和線がただの私鉄ではなかった話はこれから。

阪和電鉄の電車は国鉄型よりはるかに高性能でした。ガンダムに例えるなら、国鉄型がザクなら阪和の電車はジョニー・ライデン少佐専用高機動型ゲルググ、性能差がありすぎて国鉄の運転手には手に負えません。

当時は「南海山手線」だった阪和線が戦時中、国家権力でボッシュートされた時、南海電鉄は運転手はおろか、鳳車庫にあった電車の部品もすべて、「ネジ一本残さず」(by当時の社員)南海に引き揚げてしまいました。残ったのは車両という抜け殻だけ。モビルスーツだけ残して、あとは動かせるものなら動かしてみろバカヤローというわけです。阪和線強制ボッシュートの恨みつらみを、公式社史につらつらと書き記している南海電鉄のこと、これくらいの嫌がらせをしてもおかしくない。

戦後、国鉄は自分の車両と部品を共有するため、性能をザク並みにダウンさせたものの(性能は下がったけれど、代わりに故障が激減した)、「阪和線専用ザク」として戦後も阪和線の主として君臨し続け、昭和43年(1968)まで走り続けました。戦後10年経った昭和30年当時でも、阪和線を走る国鉄型電車が21両に対し、旧阪和電鉄の車両は68両。ふふふ、圧倒的じゃないか我が軍は、という声がどこからか聞こえてきそうです。

それはさておき、旧私鉄の車両を国鉄が何十年も使い続けるなんて、日本鉄道史空前にして絶後のケース。それだけ阪和電鉄の電車が鉄道史に残る化物だったということです。(ええい、阪和の電車は化物か)

上の写真も、実は国鉄になった後も走り続けた阪和電鉄の車両です。 

 

私は上の写真を見て、ホームの上におや!?とワクワクドキドキを感じました。同じ写真なのに見る人によって視点が全く違うのも面白いですが、これについてはまだ後で。

実は、阪和線ホームはこの写真の半年後の昭和30年(1955)3月から、大改造工事が始まってしまいます。完成したのは昭和37年(1962)だそうなので足掛け7年の大工事、かなり大規模だっだということがわかります。戦前の面影を残すホームはこの昭和29年が最後となり、それを意図して撮影したわけではないとは言え、ものすごい貴重な写真なのです。もし私が「阪和線博物館」なるものを作るとしたら、これは文句なしの博物館行き。写真を超えた歴史的資料です。

 

で、この写真が本当に昭和29年のものなのか。これには実は、ご本人の記憶や証言以外に客観的な証拠があります。

 

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 黄色の矢印で示したものは信号機です。2枚目はかなりブレているのでわかりにくいですが、信号機が3つあるということくらいはわかります。

 

これを証明する資料が存在します。

 

昭和29年天王寺駅勢要覧より。配置図

昭和29年(1954)の、天王寺駅がおそらく内部向けに発行した第一次資料です。

29年の何月かは書いていなかったですが、公的資料なのでおそらく12月刊行、調査時期はむーたんさんが写真を撮ったほぼ同時期だと思われます。年代一致はただの偶然ですが、これを見つけた時、ある種の運命を感じました。歴史家として資料をほじくり返していても、こういう偶然は滅多にないので。

上に書いた通り、昭和30年から、阪和線天王寺駅のホーム改良工事が始まります。それは改良というより、ホームを一から作り直しと呼んでも良いほどの大工事。今の7~8番線(時期を少し置いて9番線も)もこの時に建設されたそうです。この工事で現在の天王寺駅の原型が出来ると同時に、阪和電鉄時代のホームの面影はほぼなくなります。

この図は、阪和電鉄時代のホーム配置図を示す最後かつ非常に貴重な資料です。よくぞこんなどうでもいいものが現代でも残っていたと、発掘した時は感激しました。

これを元に信号機の位置を照合すると・・・

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写真の信号機の位置と、配置図の信号機の配置がすべて一致します。これで写真が少なくても昭和29年以前ということがこれでわかるわけですが、これだけピタリと合うと、ジグソーパズルのピースがスイスイ埋まっていくようである種の快感を覚えます。

 

昭和29年(1954)の阪和線天王寺駅

この写真を撮した位置を配置図に落としてみると、

 

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 こうなります。「当時の6番線」に電車が進入、あるいは発車したことがわかります。

 

 当時のホームや線路から、改良工事を経てどう変わったのか。半分推測が入っていますが、上の資料の上に落とし込んでみました。

 

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 上の電車が止まろうとしていた、または発車しようとしていた当時の6番線は、大手術によるホーム拡張で埋もれてしまっていました。今の5番線と6番線ホームの間隔が、屋根柱を中心にすると左側に拡がっているのは、線路1本分を埋めて作られたからなのです。

 

 

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全国の国鉄の歴史の中でも、何故か阪和線だけに使われた「直行」という種別の電車が止まっている天王寺駅の光景です。「直行」は今の区間快速のご先祖様で、昭和44年(1969)4月に区間快速となるのですが、「直行」のこの四角い表示板は昭和43年からだそう。ということは、写真は43年か44年(の1~4月)のどちらかになるということですね。

5番ホーム上に白線を引いた部分に、うっすらと改修の跡が残っています(白線は跡から若干ずらしています)。この写真からしても明らかですね。

 

ちょっとしたおまけですが、

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区間快速になった後の表示板ですが、和歌山の「歌」が「可」になっています。

電車の先頭車両に付いたこの表示板を、専門用語で「前サボ」とも言うのですが、ここで小咄(こばなし)を。

「おい、なんやこの字は。和『歌』山やろ!」

「へい、行先表示板やさかい、漢字書くのサボりました」

 

地元の人はその昔、「和歌山」を「和山」と当て字(?)で書くことがあったそうで、今でも60歳以上の和歌山人にこう書く人が、たま~にいるとのこと。醤油を「正油」って書くようなものか!?

 

で、この結論をまとめると、

 

阪和電鉄開業当初の、天王寺駅の幅

阪和電鉄開業当初~昭和30年は、黄色で塗った幅だった。

 

 

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かつては、黄線に線路があり、「旧6番線」があった。
快速用の現4番線と6番線の間には、線路が実質2本走っていた。

 

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昭和30~37年の阪和線ホーム改良工事で、赤で塗った部分までホーム幅が拡張
(昭和29年の写真にあった旧6番線は、ホームの下に埋没)
よって、現5~6番線ホームの柱が右に偏っている。

ということです。

 


それに対して、3~4番線の柱の右に偏っている理由はどうか。

5~6番線と同じ理由、つまりその後のホーム改良工事で幅が広がったという仮定で、引き続き駅をフィールドワークしてみました。

 

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3~4番ホームにも、同じように拡張された跡が残っています。

 この跡と現4番線と鉄柱の関係をアバウトに測ってみても、だいたい同じ幅なのです。この鉄柱とその位置は、私鉄時代から変わらずと聞いているので、昭和30年代か、昭和50年代のホーム改良で拡張されたのでしょう。

 

 

天王寺駅の地下道おさらい

 

「天王寺駅の怪 後編」で、私鉄時代の阪和線天王寺駅のホーム配置図をペイントで書きました。

 

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降車用の出口へと続く地下道があることは確定なのですが、私は元にした資料の図をベースにして、上の図のように推定しました。

 

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そして、上の赤枠にある降車専用出口へ通じ、外へ出て行くのだとも。

 

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地下出口の跡は現在のここあたりで間違いないだろうと判断し、天王寺駅の調査・研究はいったん終了となりました。

 

その後複数の方から、地下道の図や実際に通った体験談をいただいたのですが、それを総合すると、自分の頭の中の予想図ではちょいと辻褄が合わないぞと。

ゲットした情報を総合すると、こうなるはず。

 

昭和10年当時阪和電鉄天王寺駅ホーム図

 

阪和電鉄時代の天王寺駅のホームは、2面だったことは確定です。地下道の配置も変わりません。が、認識していた現在のホームとにズレが生じていたようです。

前回書いた時の推測:今の5~6番線、7~8番線

提供されたデータ・体験談まとめ:今の3~4番線、5~6番線

と、一面ずつずれている可能性が。これは私のとんだ勘違いでした。

 

白黒はっきりつけたいけれど、確証を持てる史料が見つからない悶々とした日々が続いていたのですが、探しに探しついにその史料を発見。

 

日本一マニアック(?)な鉄道雑誌

御堂筋線淀屋橋駅の府立中之島図書館の広告

向かったのは、毎度おなじみお世話になります、神様、仏様、大阪府中之島図書館様。

 

以前この記事でも書きましたが、大阪府中之島図書館はマニアックな御仁専用図書館。一般書はほとんど置いておらず、蔵書とくれば古文書や歴史的価値がある史料のみ。自由に手に取れる開架の本自体が少なく、あってもタウンページとかゼンリンの住宅地図とか。

しかし、その分掘れば掘るほど何が出てくるかわからない「宝の山」でもあります。今度はどんな史料が出てくるのだろう、どんなものを掘ってやろうか、このワクワク感を楽しみに行く図書館なのです。

ちなみに、府立図書館ばかり紹介していますが、大阪なら市立中央図書館や堺市立中央図書館も、よ~こんなん残ってたわと唸ってしまう史料を所蔵している、マニアック度は日本屈指と言っていいと思います。

 

そこで見つけたのが、

鉄道史資料保存会刊行鉄道史料

「鉄道史資料保存会」という団体が出版している『鉄道史料』という不定期刊行の雑誌です。

名前からしてマニアックな香りがプンプンするこの雑誌、巷では「日本一DEEPな鉄道雑誌」と言われているらしく、鉄道マニアでもそうそう手を付けない、いや、存在すら知らんだろうという専門的な雑誌です。これはもはや雑誌というより、鉄道史や鉄道工学が専門のインディペンデント・ショーラー(セミプロ学者)による同人論文集と言っていい。この雑誌に比べたら私のブログなんてほんのダイジェスト版、あまりに、あまりにどうでもいい事柄をほじくり返すDEEPな内容のオンパレードです。 

しかし、そんなマニアックな出版物だからこそ、こちらもほじくるように読むと貴重な情報を提供してくれるもの。天王寺駅という、興味がない人にとっては実にどうでもいい事でも、地道に一次史料を提供してくれる人がいるのです。 

が、論文はナマモノ。論文特有のチョー退屈な文章に慣れていない素人が生のまま食べてしまうと、活字アレルギー反応や消化不良を起こしかねません。

それを万人に食べやすく、火を通し調味料をかけて調理し、さあお召し上がり下さいと提供する歴史のコックが、私の役割なのでしょう。それは神様が与えてくれた使命なのだと、最近思うようになりました。

 

宝の山から見える天王寺駅地下通路

で、『鉄道史料』のバックナンバーには天王寺駅の数々の記事・論文が掲載されているのですが、その中はやはり「宝の山」でした。見たことも聞いたこともない資料がズラリ。

 

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計画段階(大正時代)での阪和電鉄天王寺駅のホームや線路配置図です。赤字で書いている地点は、現在の建物・店舗等です。これはあくまで阪和電鉄が出来る前の青写真です、お間違いなきよう。

阪和電鉄時代の天王寺駅は「阪和天王寺」という名前でしたが、計画当時は天王寺公園だったということが、この資料から明らかになりました。

上が阪和電鉄下はもちろん省線(今のJR大阪環状線など)ホームで、大阪環状線内回り線となっている城東線や関西線、天王寺Mioの下に埋もれた、今は亡き南海電鉄天王寺支線まで載っています。今の環状線の内回り線ホームあたりは、その昔貨物駅だったこともこの図からわかります。

肝心の阪和線ホームも、本来は図のように「乗車」「降車」のホームを完全分割するつもりだったようです。しかし、天王寺美章園の高架線建設で予想以上に金を使ってしまったのと、よりによってこんな時期にやってきた世界恐慌などで、この案はボツになったようです。

 

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ついに本丸に突入できる突破口を見つけました。

地下道について一次資料を元にした図ですが、赤線の部分に

「現在の5・6番線ホームの下に出られる」

と書かれています。ということは、図の上のもう一つの階段は、今の3~4番線ということか!

ここで、情報提供者の方々の情報が正しかったことと、私の認識が間違っていたということが確定。 ブログ(特に後編)も、記事一つ書き直しなほど大幅リライトさせていただきました。

 

中でもこの史料でいちばん価値があったのは、実際に地下道を写した写真があったこと。

 

阪和電鉄天王寺駅の地下道写真

幅は狭そうに見えますが、右の木で区切られた倉庫として使われている部分も元は通路で、地下道の実際の幅はホームいっぱいまであるようです。実際に地下道に入ったことがある方の情報によると、「倉庫分を入れるとけっこう広い」とのこと。

白黒写真なのでわかりませんが、左上の採光窓がちょうど大人の顔の位置になり(1mほどだそう)、その下のタイルの色は白で、地下道の暗いジメジメした雰囲気を和らげようとする計算がされていました。

左上の採光窓は、

 

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今の5~6番線に今も残る、ホーム下の謎の窓です。

 

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上の地下道の写真は、現5~6番線の降車用階段跡から撮影したもので、現在の天王寺駅ではこの位置から撮影したということになります。

階段はすでに撤去されて跡形もありませんが、その跡のようなものはホーム下にさりげなく残っています。

 

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ホームの上にも謎の改修の跡がシミのように残っていることに気づきました。近寄って見てみると、糊で封筒に封をするように、アスファルトで何かを「封印」したかのよう。

場所がちょうど階段があったと思われる場所なので、おそらくこの場所にあった階段と何らかの関係があるのでしょう。

 

 

ホームを「乗車」「降車」に分けた方式は、開業当初こそ機能していたのですが、昭和12年の支那事変(日中戦争)以降、軍需工場への通勤客が激増し始めた対策として、「乗車」「降車」にホームを分けず、朝のラッシュ時や繁忙期を除いて乗車用ホームでも客をさばくようにしました。

そのため、地下道の入口階段を三方向に覆う仕切り面を折りたたむと、ホームと平面になるという、ちょっと変わった構造に変更することになりました。論文じゃないので出典は明記しませんが、当時の鉄道省に提出した変更届が残っています。

今のホームに残っている謎の線上の改修跡も、既に折りたたんだ状態でもう二度と開けないようにされ、現在残る線は「封」をしたのかと推測しています。

 

そして、平和な世の中になった戦後に、「乗車」「降車」のホームの区分けが復活したようです。これは新しい発見でした。

そもそもこのホームの区分け方式は関西の私鉄オリジナル方式のため、国鉄は全く採用していません(関東の私鉄すら採用していない)。しかし、買収した私鉄が使っていた方式を国鉄が採用し、その上「復活」させるするのはレアなケースだと思います。

 

天王寺驛旅客流動状態一覧

昭和23年天王寺駅乗降客調査表

 

昭和23年(1948)発行の天王寺駅の公式資料天王寺驛旅客流動状態一覧」です。

この資料、紙質が非常に悪く取扱要注意もの。100均で売っているわら半紙以下です。紙の前でくしゃみなんかしたら、風圧で砕けそうなほど脆い紙だったので、コピー1枚取るにも非常に苦心しました。国の公式資料を、今ならトイレットペーパーにもならない質の紙で書かないといけない、当時の物資不足がしのばれる史料でもあります。

当時の大阪鉄道局が、天王寺駅の人の流れを精査した資料なのですが、阪和線ホームの地下道が描かれていると同時に、そこから降りる乗客の流れも数字で示されています。
阪和線の電車を下りた乗客は、地下道を通りその中にあった改札を抜け、そのまま外にあった出口へ向かう流れもありました。

これは阪和線ホーム地下道が戦後にも使われていたという、確固たる資料。これも国鉄マンパワーと国家権力(?)で調べた第一次資料なので、間違いはありません。

その中に、ちょっと変わった人の流れがあります。

 

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青で薄く塗ったのが地下道ですが、そこから「阪和地下連絡口」と書かれた道を通り、城東線、現在の大阪環状線内回り線ホームへ乗り換えて行く流れがあります。

 

 

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オレンジの線で描いた阪和線と城東線の連絡通路が、戦後に増設されたということですが、やはり天王寺駅、奥が深い。

 

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史料の中にあった、阪和線の地下道に残る城東線との連絡通路の入口です。戦後に壁面を破って作られたと説明文にありますが、それが本当だとすると国有化された昭和19年から、上の乗降客の流れを書いた図の昭和23年の間となりますね。

 

 

天王寺駅11番線にある阪和線との連絡通路跡

阪和線と城東線(大阪環状線)連絡通路跡

その地下通路の跡、実は今も残っています。

今の大阪環状線内回り(鶴橋・京橋方面)ホームの、阪和線とつながる連絡階段の隅に、ぽっかり穴が空いています。

コンクリートの壁に、ここだけ木製の封がされてあります。あるとわかって見てみるとけっこう目立つのですが、大多数の人は階段下に止まっている電車しか見えず、改札口から階段をダッシュで降りる。そのせいか、試しにネット上で検索してみても誰一人これに気づいていない。一人くらい、これ何やろと疑問を提起している人がいてもおかしくないんですけどね。

こんなところにこんなものがあったのかと、私も目からウロコどころか、目玉自体が落ちてしまった衝撃でした。ホンマに心に余裕がある時に、心眼でのみ見える天王寺駅の遺構の気がします。

普段天王寺駅を使っている人でもこれを読んで、ここにこんなものがあったのか!と私と同じく目玉が落ちた人がいると思います。

 

阪和線と城東線の連絡通路跡2

電車の停車中に撮影してみましたが、ビミョーというか絶妙というか、意識しなければ気づきそうで気づかない位置にあります。実質2017年から投入の環状線の新型電車をさりげなく写し込ませたチョイスに、これは昔ではなくて今年の写真ですよということを語らせています。

 

ところで、こんなところに通路作ったら電車とぶつかるやん!とお思いでしょう。でもご安心を。連絡通路が現役だった頃はそこに線路はなく、今の外回り(新今宮方面)が開通し線路が開通したのは1961(昭和36)年のことです。つまり、その昔は連絡通路跡がある場所の手前が終点だったということですね。

 

 

 

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昭和29年の資料でも、今の11番線は終端式、つまり行き止まりになっています。

 

天王寺ステーションビルが出来る前の天王寺駅全景

今の天王寺駅ステーションビルが出来る前の、天王寺駅の全景写真です。残念ながら撮影時期は不明(単に私が忘れただけ)ですが、戦後、それも昭和20年代であることは確かです。一部を写した写真は数多けれど、全景はなかなか貴重だと思います。

しかしこの角度からの写真、一体どこから撮ったんやろか?角度からして今のアポロビルからのはずなのですが、アポロビルってこんな古い時期にあったのか?

と思ったら、昭和25年に「アポロ座」として既にあったとのこと。当然今の建物はリフォームされているはずですが、意外に古かったのねん、アポロビル

 

それはさておき、写真に赤い丸をした箇所に、何かあります。

阪和線のホームから城東線に向かって、ニョキっと何かが突き出ています。屋根というかトンネルというか、何かが。

阪和線のホームは2面2線しかなく、突き出た何かの阪和線側は今の6番線であることは確かですが、おそらくこれは連絡口の通路だろうと推定できます。

 

 

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階段から窓の奥を覗いてみると、明かりが注いていることを確認。また、写真では見えないですが、何かモノを置いていることも確認しました。今でも物置として使われているのでしょう。

 

ここで、いま一度昭和29年当時の写真に戻ってみます。

この写真をよーーーく見ると、あることに気が付きます。

 

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ホーム上にある謎の線・・・。

これはおそらく、降車用階段を埋めた跡だと推定できます。阪和電鉄時代は『黒潮号』を除いて、写真のように2両編成くらいの電車がのんびり走っていました。4両対応になるのは、昭和30年以降の改良工事で乗車用・降車用ホームの区別がなくなってからです。

この電車の位置から見ると、謎の線の位置は降車と乗車ホームの間あたりに位置してるかなと思います。位置的にも階段があっておかしくない。

もしこれが階段を埋めた跡だと推定すると、昭和23年には確実に使われていた阪和線ホームの地下道は、昭和29年には使われなくなったということを物語っています。

 

もう一つの地下道

 

天王寺駅の地下道にはもう一つ、未確認の地下道があります。

上の私のヘタクソな地下道図を見て、おや!?と気づいた人はいるでしょうか。

 

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 ②④ホームの階段付近に、赤の点線の道が書かれています。

資料によると、板塀で封印され先へは進めないものの、点線の地下道があることは確かなようです。情報をいただいた方からも、同じ場所に地下道らしきものがあると指摘がありました。

一見すると出口と全く関係ない方向へ続いてそうな、ミステリアスな地下道。この目的は?何のために作られたのか?

 

この謎を解くためには、阪和線天王寺駅の原点of原点に戻らないといけません。

 

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以前紹介した、大正時代の阪和天王寺駅の予定図ですが、黄色で囲んだ部分に、降車ホームの階段とつながった地下道が見えます。その地下道は実際の地下道とは全く別の方向へ伸びています。

当初の目的は、この図の通りに地下道を作り、出口も全く違う場所に作るはずでした。

しかし、道を作ってはみたものの、用地買収の遅れなどで当初の予定から狂いに狂ってしまい、予定通りに地下道を作ったものの途中で設計変更になり放置されたと思われます。あるいは、予定通り出口として使われたものの、諸事情で短命に終わった と推定できます。

 

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2017年のGoogle Map上で地下道を示すと、こんなふうになります。赤線が現時点では幻の地下道です。

 

 

今まで眼中になかった所がホットスポット

外に出る地下道は今の5~6番線ホームの下を走っていることがわかった時点で、今までアウトオブ眼中だったある場所が私の眼中に入りました。

 

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地下街の「ミオチカ」と直接結ぶ連絡改札口です。

ここは昔からあったわけではないですが、島流し前は通勤で毎日阪和線天王寺駅を使っていた私も、はて、いつから出来たんやったっけ?と頭を抱えてしまうほど。ググっても全く出てこない。ここ10年くらいの間に出来たとは思うけれど、自信はありません。「なんだかいつの間にかできていた」感が強い改札口です。

利用者でも、ああこんな改札口あったんやとしか思わない所ですが、ここから180度寸分なく回れ右をすると、真正面に5~6番線ホームが。

 

 

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 ははん、これでピンときました。

 

地下道の出口はどこにあったのか?

もう一つの貴重資料

府立図書館で、もう一つマニアックな資料も発掘しておきました。

 

天王寺鉄道管理局三十年写真史

 『天王寺鉄道管理局三十年写真史』という本です。

JRが国鉄だった時代、全国に「鉄道管理局」が置かれ列車の運行管理を行っていました。天王寺管理局はその中の一つで、阪和線はもちろん、大阪環状線関西本線大和路線)、果ては天王寺とは何の関係もなさそうな、三重県参宮線紀勢本線全線も管理範囲でした。参宮線なんか今やJR東海でっせ。

2010年にJR西日本の統括本部に吸収され、天王寺鉄道管理局の看板は下ろし消滅しましたが、それでも運行管理上でのターミナルとしての機能は残っています。

 

天王寺鉄道管理局三十年写真史2

天王寺鉄道管理局三十年写真史3

「謹呈」と書かれているのと、値段がどこにも書かれていないことから、どうも市販されたものではなく、内部の関係者に配られた非売品らしい。

「関係者以外閲覧禁止」の臭いがただよう、まことに怪しい本です。怪しいといってもエロ本ではありません。しかし、今まで見たこともない、ネットでは公開すらされていない写真のの数々に興奮。これはエロ本より刺激的やわ。

 貴重すぎる写真集の感があるので、少し写真を見ながら天王寺駅今昔物語を。

 

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昭和5年(1930)、開通して間もない阪和天王寺駅(写真右側の建物)を発見。

おそらく阿倍野の大鉄百貨店(現あべのハルカス)の屋上から撮影したと思われます。この方向(南→北)と角度で写真を撮れる場所(高層ビル)は、ここしかないので。

天王寺駅の地下出口の真上には、「広告塔」と呼ばれた塔がそびえていました。この巨大広告塔は、「超特急」に並ぶ阪和電鉄の名物だったようで、具体的な高さはわかりませんが、予想以上に高かったことがわかります。あの手この手で話題を作って電車に乗ってもらおうとする、会社側の努力が涙ぐましい。

しかしながら、この予想外の巨大さだと、当時高い建物がほとんどなかった時代では、相当目立ったと思います。当然、夜は当時高価だったネオンでライトアップされていたことは間違いない。

 

阪和電気鉄道超特急の行き先表示板

 「超特急」の種別表示板(というのか?)もありました。

阪和電鉄の超特急って何?と思った方は、まずは前編の前半をご覧下さい。

天王寺駅の怪と阪和電気鉄道の歴史 前編【昭和考古学】 - 昭和考古学とブログエッセイの旅へ

それにしても、超特急の存在は元地元民として知っていても、ヘッドマーク(種別表示板)を見たのは40年以上生きてて初めて。というか、そんなのあったのね。

写真左にある丸いものは、臨時列車を表すものだそうです。推測ですが、今の特急【くろしお】のご先祖様である南紀直通準急(今の快速)『黒潮号』を、後ろから押していた(推進運転)電車かもしれません。

 

阪和電鉄『黒潮号』のヘッドマーク

その『黒潮号』には写真のようなテールマークもあったようです。ヘッドマークの写真は何枚か残っていますが、テールマークなんて見たことがなかったし、そもそもあったなどという話すら聞いたこともない。

もし本当なら、ネットでは世界初公開のとんだスクープ写真です。

正直なところ、私も半信半疑でした。が、天王寺鉄道管理局発行というほぼ一次資料に、戦前の『黒潮号』だと解説付きの写真なので、信憑性は高い。間違ってたら国鉄のせいにできるけど、国鉄は今ないからどうしよう(笑

JRになった後の公式社史にも、同じ写真が『黒潮号』として掲載されていましたが、おそらくこの写真の流用でしょう。よし、間違っていたら裏を取らずに公式写真集に掲載したJR西日本のせいにしよう(笑

 そうなると、こんな疑問が浮かびます。

「このテールマークの写真、戦後のじゃないの?」

その疑問はごもっとも、私もまずそう思いましたから。

 

 

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で、別の資料から拾ってきた戦後の『くろしお』天王寺行きヘッドマーク付き写真(昭和27年)です(@鳳駅)。
戦前の『黒潮号』と思われるテールマークとは、白黒写真とはいえ模様が違うということは明らかにわかります。仮に戦後の『黒潮』にもテールマークがあったと仮定すれば、ヘッドマークと模様を統一するはず。

 

ここで、『くろしお』の歴史を簡単にまとめます。

・戦前
★準急『黒潮号』:昭和8年(1933)~昭和12年(1937)

※土日のみ運転
※ただし、名無しの南紀直通列車は、『黒潮号』廃止後も毎日数本運行(~昭和18年

 

・戦後
★臨時快速『黒潮』:昭和25年(1950)~昭和29年(1954)
※土日のみ運転

★臨時準急『黒潮』:昭和29年~昭和40年(1965)
※土日のみ運転
※昭和31年(1956)より漢字がひらがなの『くろしお』に

◎特急『くろしお』:昭和40年~現在

★:客車で運行

◎:特急型車両(DC/電車)で運転

 

戦後に『くろしお』が客車だったのは15年間、その間に写真のヘッドマークが変わった可能性もありますが、違う模様のマークなのは明らかです。やはり戦前の『黒潮』のテールマークの可能性が高い。
想像を広げると、戦前の『黒潮号』は、このテールマークが間違いなく戦前のものなら、紀勢本線内を牽引するSLにヘッドマークを付けていた可能性すらあります。何の証拠もない推測なので話半分で流しても良いのですが、テールマークがあるならヘッドマークがあってもおかしくない。大阪か和歌山県の素封家の写真の中に紛れているかもしれません。

 

それにしても、急行ですら全列車「名無し」の時代(戦前)に、ただの準急(今の快速)に愛称が付けられていただけでも、日本鉄道史上2例しかない超レアものです。おまけにテールマークまであったとなると、『黒潮号』は特急並みの超破格待遇だったことがわかります。

ちなみに、『黒潮号』と同時期に、東京の両国から房総半島を結んでいた準急、『漣(さざなみ)にもヘッドマークとテールマークが付けられていたことが、作家の宮脇俊三の回想に出てきます。よって、『黒潮号』にテールマークがあってもおかしくはありません。

 

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 在りし日の阪和線天王寺駅の写真です。撮影時期は不明ですが、「駅」が「驛」旧字体になっていることと、「天王寺驛」の看板の左に何かがついていた形跡が見られることから、おそらく阪和線が国営化された後ですね。たぶん終戦直前か戦後すぐの写真でしょう。

天王寺驛」の左側に何がついてたのか。阪和線天王寺駅は、建設当初は「阪和天王寺」でしたが、昭和15年に南海電鉄に吸収された時、「南海天王寺に改名されました。阪和電鉄時代には「天王寺驛」の看板がなかったので、上の写真の駅名表示は南海になってから設置されたと思います。

そして国営化された後は、「南海」の肩書が不要なので取り外した(枠は残った)、と考えるのが筋でしょうね。

 

天王寺鉄道管理局三十年写真史』の中でも、歴史学的、いや考古学的に貴重な写真があります。

 

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今の天王寺駅のビル(天王寺ステーションビル)が建てられたのは1962年(昭和37)ですが、このように駅舎が一体化される前は「旧阪和電鉄」「省鉄生え抜き」の2つの駅舎が別にありました。

 

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こちらの写真は「省鉄からの生え抜き」の方の天王寺駅です。位置的に今の南口(近鉄百貨店の真向かい)です。

国鉄&私鉄で分かれていた駅舎が2つあってややこしい事情もあったと思いますが、もう同じ国鉄になったのだから、この2つの駅を一体化しちゃえと作られたのが、今も残る天王寺ステーションビルというわけです。

 

 

取り壊し中の阪和線天王寺駅

超レアなのがこの写真。昭和36年頃、ステーションビル建設のために取り壊し中の旧阪和電鉄駅舎です。奥に見える高い建物は近鉄南大阪線あべの橋駅と近鉄百貨店、今のあべのハルカスです。今の駅を見ても信じられないほどのカオスっぷりを見ると、かなりの大手術だったことが伺えます。

上の写真左下の丸い窓の跡は、

 

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 戦前の駅舎の黄色で丸をした窓ですね。位置といい間違いないと思います。

 

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取り壊し中の写真で注目すべきは、黄丸で囲った部分です。広告塔の下の地下道の出口にあたりますが、どうも下が空洞になっているっぽい。地下道があった証拠写真とも言えます。

この写真を見て、はっと我に返りました。

天王寺駅の地下道の出口の認識、間違っているんじゃないかと。

 

幸い、周囲の道筋は変わっていないので、旧駅舎が残っている当時の航空写真と現代のGoogle Mapを照らし合わせた結果、こうなりました。

 

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出口がステーションビルのコンコース内に入っていたのです。

「ステーションビルの大きさ=旧駅舎の大きさ」

という錯覚にとらわれていて、今の駅の外ばかり探していましたが、旧駅舎と旧広告塔の出口は、今のステーションビルの中だったという発想はありませんでした。いやはや、思い込みって怖い。

 

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で、上手い具合に(?)地下へつながる階段もあるのです。後に説明しますが、この階段は最近できたわけではなく、駅舎である「天王寺ステーションビル」が作られた昭和37年(1962)から存在していたものです。あくまで推定ですが、阪和電鉄の地下出口を再利用した可能性はゼロではない。

 

ミオチカは地下道の再利用?

 これはあくまで仮説のため、間接的にでも根拠が必要ですが、やはり探せばあるもので、こんな資料が見つかりました。

 

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 天王寺駅となっているステーションビルは今でもありますが、上のはできたてホヤホヤの写真です。ビルは昭和37年(1962)に完成したのですが、まさしくその時の写真です。

 

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これも珍な、できたてホヤホヤ当時のカラー写真です。写っているのが電車ではなく、ディーゼルカーであることに注目。昭和37年当時関西本線大和路線)は電化されておらず、ディーゼルカーだったのです(電化されたのは昭和48年)。ちなみに、写真のディーゼルカーには、「湊町-柏原」と書かれていました。

しかし、この資料で珍しいのはこれではありません。

「探せばあるものだ」と書いたのは、天王寺ステーションビルの完成案内、それも業務用のもの。業務用ということは、外部にはあまり公表しないことも書いているということ。

 

昭和37年天王寺ステーションビル地下1階の図

天王寺ステーションビルが出来た当時の地下1階の図です。図の赤で塗った部分が現在「ミオチカ」になっています。当時は「あべちか」はなく(出来たのは昭和43年)、番号「5」の前のの道が、現在「あべちか」と地下鉄谷町線の駅につながっています。番号1と8の場所は現在スーパーなどになっていますが、当時の店舗もスーパーだったようです。

数字の2~3あたりは業務用スペースで、我々利用客には普段見えない部分です。3は「運搬用スロープ」と書いておりますが、

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天王寺駅北側、阪和線ホームの端にこんな地下道への入口があることはご存知ですか?

「ミオチカ」への貨物の仕入れ口なのですが、おそらくここと「3」の部分がつながっているかと思います。

 

 

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これが現在(2017年)の「ミオチカ」の図です。上のステーションビルの地下1階の図と比べても、基本的には変わっていないことがわかると思います。

赤で囲んだ階段・エスカレーターの図、向かって左側、黄色で囲んだ部分が、おそらく阪和電鉄時代の地下道を再利用した部分だと推定できます。

何故そう言い切れるかというと、地図左上の階段を登ると、そこは・・・

 

阪和線ホームMio連絡口

この連絡口へとたどり着くから。このホーム下には、今も阪和電鉄時代の地下道が、関係者以外には知られることも、使われることもなく眠っているはずです。

 

私なりの結論は、

 

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写真の阪和天王寺駅前や地下道からの出口周辺は、

 

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天王寺ステーションビル(現天王寺Mioプラザ館)のエレベーター付近で、

 

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地下道の出口と階段は、ここあたりにあったと推定されます。

地下へ通じる階段通路も、地下道出口を流用したものと思われます。

 

 

 地下道の残骸?謎のもう一つの地下道

天王寺駅界隈を書いたブログを見ていると、

これも、もののついでに解き明かしておこうと思います。

天王寺駅の外に出てみます。阪和電鉄の遺構は何も駅の中だけにあるものではありません。

 

 

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地図上の星マークの場所に、

 

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コンクリートの壁があります。

何の変哲もない壁ですが、正方形の型がある壁は色が塗られているものの、阪和電鉄開業当時から残る壁の遺構です。たかがコンクリート壁なのですが、80年の風雪を黙って耐えてきた阪和電鉄最後の生き残りだと思うと、頑張れと声をかけたくなります。たかがコンクリートの壁なのに。

 

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で、その壁のすぐ近くに阪和線ホームの下をくぐる地下道が存在しています。

 

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画像でもなんとなくわかるかもしれませんが、真上に阪和線ホームがあるせいか、天井が非常に低い。公式には高さ2.1mだそうですが、身長160cm台後半の私でも相当の圧迫感があります。

 

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上記の「阪和電鉄時代の壁」から地下道を抜けると、この古ぼけた・・・もとい古めかしい出口に当たります。

 

阪和線ホームの地下道の存在を中途半端に知っている人は、阪和線のホームを跨ぐこの地下道の構造から、

「これも阪和電鉄時代の遺構に違いない!」

と早合点してしまいます。実際、そういう人がネット上にちらほらと。

しかし、そういう方はここを見逃しています。

 

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地下道の横に、ちゃんと1954-12(1954年12月)って刻印が残ってるやん。

しかし、これは阪和電鉄の遺構に違いないといったん思い込むと、刻印を見ても見ぬフリをし、最後は自分は間違ってない、刻印の方が間違っているという思考になります。私も人のことは言えませんが、思い込みとはかくも怖いものなのです。

で、後で裏付けを取ってみるとこの地下道の正式名称は悲田院町地下道」と言い、計画自体は阪和天王寺駅開業からあり工事も進められました。

 

悲田院町地下道設計図

 資料内にあった、地下道の設計図です。 

しかし、途中で工事が中断したのか実際に開通したのは1954年、つまり昭和29年。また昭和29年が出てきましたが、この記事は「昭和29年」と何かと縁がありますね。

しかし開通したのは北半分だけ。現在の南の出口が出来たのは昭和59年(1984)と案外新しかったりします。

 

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この道はもともと、四天王寺を起点とする庚申街道(こうしんかいどう)と呼ばれた旧街道でした。阪和天王寺駅開業で道自体が分断されてしまったものの、昭和29年に地下道を作って街道を復活させたということです。

 

ただのおまけ

天王寺駅北口に、「ダイコク」というドラッグストアのチェーン店があります。

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この場所を昭和29年の資料を見てみると、

 

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ほう、ホテルやってんな。

 

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こう見たらホテルに見えないこともないのですが、形が△になっているので、さぞかし狭いホテルだったでしょう。昭和20年代のモノが豊富じゃなかった時代なので、ホテルと名のついた簡易旅館(≒連れ込み宿)だったと思いますが。

少なくても、ググってみてもこの2つの情報は全くないので、興味がある方は是非掘ってみて下さい。私は特に興味はありません。でも、中を見せてあげると言われたら、喜んで尻尾を振って馳せ参じます。

 

というわけで、思ってもみない収穫から再び天王寺駅を発掘してみましたが、たぶん、もう掘れるものはないと思います。私の中では大満足です。ここまで掘ったらもう新しい発見はないと思います。そう心から言い切れるほど、私の中では掘り尽くした感があります。

しかし、ここでコソッとお願いがあります。私が知らない、ブログでは書いていない新しい情報があったらメールでご連絡下さい(笑)こ、これは!という情報があれば、週末にでも実家に帰省ついでに再調査に向かいます。

でも、もうないやろ、さすがにもうないやろ・・・何かあったら持って来い。ここまで来たら毒を食らわば皿まで、とことんまで付き合うたるわ。

そう胸を張って言い切りつつ、「天王寺駅の怪」はおしまいとさせて頂きます。

 

 

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