昭和考古学とブログエッセイの旅へ

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

2017年台湾の旅ー台北よ、私は帰ってきた!ものの・・・

==前回までのあらすじ==

四捨五入すると約20年ぶりに台湾へとやってきた私。

初めての関空第二ターミナルに初めてのLCCを満喫し、台北に降り立った。

開通数ヶ月の空港鉄道の、まるでツッコんでくれと言わんばかりのサービスに、お言葉に甘えてツッコミを入れながらついに台北駅へ。

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

桃園空港MRT台北車站

 

桃園空港MRTの台北駅は、さすがまだ開通して数ヶ月ということもあってか、構内にはまだ新品の香りがプンプンしてきます。
20年前の記憶だと、ここから駅近くの宿までは徒歩10分もかからないはず。さっさと地上に出て一直線に向かえばいい。

しかし、今の台北駅前は、そうやすやすと地上へ上がらせてくれません(笑)
約20年の間にいわゆる駅チカがえらい発達しており、事実上初めての経験となる私にとってはかなりの迷路。
台湾へ約20年ぶりに行くと知人に言ったところ、
「えらい変わってるよ~。特に台北車站の地下」
と言っていたのですが、なるほど、さもありなん。

 

台北駅地下構内の地図

現時点での台北駅前の構内地図ですが、私が台湾に住んでいた頃にあったのは、台鉄(台湾国鉄)の駅だけ。空港行きのMRTも当然なかったですが、市内MRTもない。20年前は赤線(淡水線)は開通していたものの、台北駅一歩手前の中山というところで止まっていたことをふと思い出しました。なんでそんな中途半端なところで地下鉄止まってんねん!さっさと台北駅まで通さんかい!と思った記憶が奥底から蘇ってきました。
当然、当時は高鉄(新幹線)なんざ話にすら上がっていない。
それ以前に、地下街すらなかったのです。

 

なかなか地上に上がれないジレンマを抱えつつ、、なんだか変わったなおいと迷子を楽しんでいると、台北駅の真上にたどり着いたもよう。
さすがにこの台鉄台北駅は20年前にもあったので馴染みがある。そこで階段を駆け上ってみると。

 

台北駅(台北車站)構内

あ、あれ?こんなにだだっ広かったっけ??

 

台北駅(台北車站)外観

 

台北駅(台北車站)外観その2

後で外に出て確認すると外見は全然変わってないのですが、天井が高くなって開放感が出た感じもするし、切符売り場周辺も20年前はゴチャゴチャしていたものの、かなりスッキリして初心者にもわかりやすくなっていました。

 

台北駅(台北車站)の中

何より変わったのが、駅構内にある売店の数々。コンビニはもちろん、中華の包子(パオズ)屋もあれば台湾鉄路弁当屋もあり、日本のお菓子屋もあり、すごく華やかになっています。それ目当てか人の行き来も多くなり、活気がムンムンとこみ上げてきている感があります。

こんなもの、20年前はなかったぞ。一軒たりとも・・・いや、コンビニくらいは遭ったかな!?

 

外見は変わらなくても、中身はすっかり変わってしまった台北車站。あの時の面影と言えば、

 

台北車站の近距離用自動券売機

この昔ながらの近距離用自動券売機くらいでしょうか。日本製のこの機械、これは全く変わっていない。おお老兵よ、まだ生きておったかと旧友と再会した気分でした。

 

 


台北の灼熱地獄

ここからはもう私の記憶の縄張りの範疇。ここまで来たら目をつむっていても歩けるわいと一気に外に出てみました。

 

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台北駅から外へ出た瞬間、

「台湾よ、私は帰ってきた~!」

小声で一言放とうと思ったのですが、その前に思わず出てしまったのが、

 

暑~~!!!!

 

外に出た瞬間、

モワァァァァァァァァァァァァン

とした、熱気が十分こもった湿気が私の前面に襲いかかりました。
汗が一気に噴き出し、地面にしたたり落ちるほどに。頭から出る汗で目が開けられないほどでした。
暑いというより熱い。一歩足を進めるごとに私の体力を徐々に奪っていきました。

湿気が高く蒸し暑いことを表現した言葉に、「溽暑」(じょくしょ)があります。俳句をやっている人は夏の季語でお馴染みなのですが、これが「溽暑」というやつかと。

 

やけに暑い・・・なんだこれは・・・と街中の温度計に目をやってみると。

 

台北の気温2017年8月9日

この気温(38℃)です(汗)
同じ日の東京は37℃だったそうなので、気温という数字的にはほとんど変わりありません。37~8℃くらいなら大阪でもいくらでも経験している。
しかし、この暑さたるやハンパではない。

 

日本の暑さと一体何が違うのかというと、直射日光の日差しが全く違う。
台湾の日差しは暑いというより「痛い」と表現した方が良いほど、直射日光の光線量が違う気がしました。大阪の日差しと比べると、直射日光で皮膚がチクチク痛いのです。
寒さもあるラインを越えると痛みを感じるのと同じく、暑さも痛いと感じるラインがあるのでしょう。
後で聞いた話ですが、私がいた時の暑さは現地の人もこたえるみたいで、いくら台湾でもこんな暑さはなかなか・・・と言っておりました。

しかし、よく考えると台湾は沖縄より南にある南国。大阪より日差しがキツいのは当たり前。そこらへんの基本をすっかり忘れていましたわ(笑)

そんな南国ならではの建物があります。

 

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台湾ではよく見かける、歩道の上に屋根や家屋が建てられている、道路下のアーケードです。
これは台湾語亭仔脚(ディンアカ)と言う作りです。中国やシンガポールでは「騎楼」(チーロウ)と呼ばれています。
亭仔脚のようなアーケードは、元々高温多雨の東南アジアではよくある構造で、中国でも北京などの北方では見ることがない、福建省広東省など南方独特の作りです。

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広東省広州の騎楼です。特に広東省は海外で成功した華僑たちが金をかけて建設した、アートのような奇妙な形の騎楼が残っている場所もあり、隠れた広東省の名所になっています。

 

上海の騎楼。金陵東路

上海でもごくわずかですが見ることができます。私の記憶だと金陵東路にあったような。

 

台湾でこのタイプの作りがよく見られる理由は、日本統治時代の昭和11年(1936)にアーケードを設置することが法律で義務付けられたことにあります。
おそらく、台湾総督府も台湾の暑さ対策に悩まされたのでしょう。これを作ることによって雨除けにもなるので一石二鳥。
その時に亭仔脚という名称も正式に決まり、今でも台湾の町並みの個性を醸し出すたたずまいとなっています。しかし、たまに亭仔脚が台湾オリジナルだと書かれたサイトやブログを見かけますが、上にも書いた通り東南アジア発祥と言われていて中国でも広東省海南島などに行けばいくらでも見かける建築様式です。
私は広東省で亭仔脚ならぬ騎楼を見慣れていたので、台湾で見た時は特に感動らしきものはなく、あっそう程度でした。しかし、これも見方によっては日本が残した遺産でもあると知ると見る角度がまた違ってきそうな気がします。

 

亭仔脚から見える台湾社会学

しかし、この亭仔脚がただいま、ちょっとした問題を引き起こしています。

アーケードの部分は、家や店の私有地なのか、それとも不特定多数の人が通る通路としての共有財産なのか。

台北はまだマシですが、地方に行くと亭仔脚の下がとんだカオスになっていることが多いです。

 

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これなどまだ全然マシな方。

 

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「私有地」で何を置こうが勝手じゃないか!といっても、廊下でもある亭仔脚がめちゃくちゃ狭くなっています。万人が好き勝手に亭仔脚を使っていて、公共の道としては非常に歩き勝手が悪い。

でも、まだまだマシな方。人が通れるだけ・・・。

 

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亭仔脚が100%私物化している典型的な一枚です。道も勝手に高くしたり、逆に低くしたりして凸凹が激しく、ちょっとした山道です。
この凸凹亭仔脚は危ないだけではなく、足に相当負担がかかるようです。以前買ったミズノのウォーキングシューズをもってしても、15分くらい歩くと足首より下がかなり痛くなります。日本なら10km歩いても全然痛くならないのに。

 

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ここまで来るとカオスです(笑

たかが亭仔脚でも、台湾に巣食う社会問題が見てわかるのです。

 

「日本統治時代にはこんなこと決してなかった。悲しいよ」

20年前ですが、ある元日本人がそうつぶやきました。司馬遼太郎の『台湾紀行』のテーマは『公』と『私』とも言えるのですが、日本時代は皆が皆、『公』を尊重し遵守していた時代でした。少なくとも、『公』が『私』に勝っていました。福沢諭吉は、『公』が充満する社会に対し、ちょっとくらいは自分勝手になっていいのよと、敢えて『私』を説いたほどでした。

 

しかし、『公』が台湾に定着した頃日本が敗戦。後に大陸からやってきた人たちが、「万人身勝手」の『私』を台湾に持ち込みました。

中国の歴史は、『私』の皇帝と官僚が人民を支配し、『私』の牙をむき出しにして人民を食い物にしていた『私』の歴史です。皇帝にとっては土地も人民も『私物』『私物』に何をしても他人に文句を言われる筋合いはない。中国の為政者の基本思考は漢の時代から現代の習近平まで終始一貫変わっていません。だから人民を平気で戦車で轢くことができるのです。

人民もやられるばかりでは生きてられないので、「宗族」という血縁集団で団結し、『私』を以て自己武装せざるを得ない。結果、上が『私』なら下も『私』という、14億総傍若無人自己チュー社会の出来上がり。

戦後の台湾も、大陸から渡ってきた国民党政権が蒋介石という『私』なら、一緒に渡ってきたいわゆる「外省人」も全員『私』。国民党も共産党も、八百屋か魚屋かの違いしかない。『私』のためなら法律も曲げ、公共の財産も私物化する『私』剥き出しの「人食い豚」に対しては、『公』をいくら唱えても豚の耳に念仏。台湾人も『私』、つまり身勝手を以て自分を守らざるを得なかったのです。

 

台湾史、いや春秋戦国時代以降の中国史で『公』の重要性を唱えた人物が二人います。

 

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一人目は孫文。台湾や中国では「孫中山」という名前の方が通りますが、彼の名はどちらでもオールマイティーの聖人性を持ち、それ故資本主義だ共産主義だというイデオロギーを超えた中立性も持ち合わせている人物です。

孫文という人は、感受性が強い時期に海外へ渡り海外で育ったせいか、良い意味で中国人らしくない男でした。それが孫文の良いところでもあり、最強の武器でもありました。中国人でありながら中国人を客観的に俯瞰する視点を備え、その目で『私』こそが中国人社会を侵食していたビョーキであることを看破しました。そのビョーキの処方箋として持ち出したものが『公』であったと。

彼は揮毫を頼まれると、常に天下為公(天下を以て公と為す)という文字を書いていました。この『天下為公』は彼のトレードマーク同然となり、孫文関係の博物館・記念館には必ずこの言葉が飾られています。

孫文が『公』に込めた思いとは何か。おそらく『私』を滅する心ということでしょう。「滅私奉公」という言葉は中国社会にはありません。あるのは「滅公奉私」のみ。そこを何とか変えたい、変えないと中国の近代化は興らず新しい中国は生まれない。その思いからの『天下為公』なのでしょう。

 

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もう一人が台湾人初の総統になった李登輝氏。学者肌で政治とは無縁だったこの人が総統になれたのは、ひとえに『公』しか考えておらず政治家としての『私』がなかったから。だから「中華民国二代目皇帝」こと蒋経国も、安心してそばに置けたのでしょう。こいつなら自分の寝首をかくことはない・・・と。

彼の『公』はどこから来たのか。

「私は22歳まで日本人だった」

と自称している通り、大正12年から昭和20年8月まで紛れもない「日本人」だった彼は、人生の約四半世紀を通して「公」が充満していた社会で生まれ育ちました。それが自分の肉として骨として形つくられている、彼はそう答えています。

「22歳までの日本人」としての自分は常に喉元まで詰まっている。彼は司馬遼太郎に言いました。それは22歳まで積み重ねた『公』の精神も、同様に詰まっていると言っているに等しい。

そんな李登輝が12年も総統をやり続けた最大の理由と本人が語っているものは、台湾に『公』の精神をもう一度復活させること。「22歳まで日本人だった」彼は日本の教育を受けた『公』を純粋培養させたような存在として、台湾が未来に向けて発展するには、『公』が必要だと感じたのでしょう。すべては台湾という『公』のために。

 

たかが亭仔脚でも違った角度で見てみると、石造りの亭仔脚に血が通いはじめ、立派な社会史になるのです。

台湾中の亭仔脚が公共スペースとしてスムーズに歩くことができるようになった時こそ、台湾の民主化は『公』のオーラをまとい、完全体となったと言えるのではないでしょうか。

 

亭仔脚が設置された理由は、今回台湾で暑さにやられそうになって気づきました。
私は人が多く暑苦しそうな亭仔脚アーケードを避け、日差しの強い日なたを歩いていたのですが、そこを歩いているだけで体力の消耗が著しく激しい。
耐えられず亭仔脚に避難すると、少しだけとは言え涼しいのです。少なくても大量の汗をかくことはありません。
それに、みんな亭仔脚の中を歩いていて日差しの中を歩いている人間は、私を除いて皆無。郷に入れば郷に従え、夏の台湾は素直に亭仔脚の下を歩きましょう。

 

南陽街を歩く

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台北駅の地上に出て真っ先に目についたのは、この「新光三越」百貨店。「三越」という名前の通り、日本の三越百貨店です。

台北駅の中は変わっても、駅前のこれは全く変わっていませんでした。しばし自分が年を取ったことも忘れるほど、20年前と何も変わっていません。

 

その三越の東隣にある道が、第一目的地の南陽

台北南陽街地図

 

20年前の南陽街は、台湾一の「予備校街」として有名でした。

 

台北南陽街。「補習班」の看板

道の左右にはずらりと上の写真のような、

「補習班」 

と書かれた大小の予備校が立ち並び、大学を目指す若人たちが同じ南陽街に構える安食堂の魯肉飯や牛肉麺を口に放り込みながら、明日への栄光を養う風景が見られました。

この南陽街は、台北以外からも補習班に通う若者がいるのか、彼ら目当ての簡易宿泊所も数多くありました。といっても、日本の刑務所の独房より狭い部屋に、設定温度は一体何度やねん!?と叫びたくなるようなエアコンが効きまくりで、夏も毛布がないと眠れず。トイレ/シャワーは共用でその上お湯が出ない。私も20年前、台湾で家が決まる前に一時的に住んでいたのですが、台湾の予備校生と同じ屋根の下に住む良い経験をさせてもらいました。

そういう思い出が懐かしさになり、どうせ宿までの通り道なので20年ぶりの変化を見てみることにしました。

 

2017年8月の台北南陽街その2

2017年8月の台北南陽街

 

横の三越の姿は何も変わっていなかったものの、南陽街はすっかり様変わりしていました。昔はもっと若者の活気が溢れたカオスな世界だったのですが、今は小奇麗な飲食店街に。台湾料理はおろか日本料理屋も多く、写真の通りすき家まである。

当然、それに比例して減ったのが「補習班」。20年前は、上の写真の看板がほぼすべて「補習班」だったほどの「予備校街」だったのですが、ここはすっかり変わってしまったなーと。

しかしながら、南陽街から予備校が消えたからといって、台湾の受験熱が冷めたというわけではない。台湾の大学進学率は日本より高いくらい、あれだけ多かった「補習班」はどこへ行ってしまったのか。南陽街の賑わい自体は変わっていないものの、補習班の数は激減しているように感じます。
おそらく南陽街に固まっていた補習班が分散したか、ガリバー的予備校が表れ南陽街の小規模補習班を駆逐してしまったのか。

その中でも、昔と変わらない風景を見つけました。

 

 

台北南陽街の大学補習班(予備校)

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ある補習班の合格者掲示です。「状元」は過去の中国王朝で行われた官僚の登用試験である科挙のトップ通過者をあらわしていました。科挙は廃止されたものの、学校(特に大学)の成績トップを「状元」と言うなど、現代でも生きている言葉です。

「状元」をもじった名前が、受験生が集まり「儒林」という大きな知恵たらしめていそうな、スケールの大きい名前です。
中国文化のおめでたい色である赤の紙に、○○大合格と書かれた名前が誇らしく掲げられています。この補習班は医学部系専門の予備校なのか、合格大学が医学部あるいは医科大学ばかり。医者への道が難関なのは、どこの国でも同じのようです。

 

台北南陽街補習班の大学合格者一欄

 台湾大学医学部国立陽明大学(台湾第二の医学系単科大学らしい)など、医学部の名前がズラリ。
台湾の大学ランキングうんぬんには詳しくないですが、ここに掲げられている医学部は相当レベルが高いのでしょう。出身中学も、「建中」「北一女」「成功」という文字が見えますが、台北、いや台湾のトップ高校御三家のようなものです。
台北の高校については、少しながらまた後日書いていきたいと思います。

 

私が台湾にいた頃は、ここだけではなく南陽街の補習班がすべてこのように合格者を掲げていて、道の左右が炎のように真っ赤に染まっていました。
台湾の予備校街ならではの風景でしたが、今はここを残すのみ。時代がITに変わり、見ようと思えばインターネットでも見れる時代、アナログ的に紙で飾るのは時代遅れになったのでしょうか。
もしそうであれば、時代が変わったなと。

 

もう少しブラブラしてみると、懐かしき建物が見つかりました。

 

城美大飯店台北漢口路一段

 

1997年8月、台湾に来て第一日目で宿泊したホテル、美大飯店です。
ホテル名も場所も、今でもはっきり覚えています。どうなってるだろうと見に行くと、同じ場所に現存を確認。20年前の記憶がまだはっきり残っている上にビンゴって、我ながらけっこうな記憶力やなと自画自賛
ちなみにこのホテル、ネットで調べると一泊5~6000円。市街地のど真ん中、台北駅から徒歩5分ちょっとという立地条件の割には安い穴ホテルです。
それは20年前も今も変わっていないと思います。当時の値段は忘れましたが、宿代は限界までケチる、該当なしなら野宿も辞さずな私が泊まったほどなので今と変わらない値段だったでしょう。
まあ、値段が値段なので設備はそれなりだと思いますが、Wi-fiなど最低限の環境は整っています。台北に行く時は、是非利用してみて下さい。

 

台北城美大飯店の裏側にあった日本建築か


その城美大飯店の横あたりに見つけた建物にアンテナが反応し、意識しないと気づかないような横道に逸れてみると・・・

 

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RPGの隠し通路の奥にある何かのようなワクワク感がする裏路地です。

 

台湾台北市漢口路一段68巷屋台街

まるで台北市内中心部とは思えないほどの下町臭がする屋台カオス。
もちろん、こんなところはパンフレットに載っていません。『地球の歩き方』に乗っている夜市がドレスアップであれば、ここは普段着そのもののTHE SUPPIN YATAI OF TAIPEIです。

 

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豚肉や香辛料や出汁の混ざった匂いがたちこめる狭い路地には、昼食時もあってか人でいっぱいでした。ここにあったのは食い物屋だけではありません。果物屋や八百屋など、屋台街というよりちょっとした市場です。日本なら青空市場か戦後の闇市のようですが、飾り気のない台北市民の台所なのでしょう。
地元の人はふつうに使っているのでしょうが、観光客、ましてや地理に疎い外国人はまさか台北市街地のど真ん中に、こんなDEEPな場所があるとは想像だにしないでしょう。そういう意味では、DEEPすぎて台湾初心者進入禁止です。

 


懐かしさのあまりしばし歩いていたのですが、滞在初日のハイテンションもあって精力的に動き回りすぎた結果・・・

 

バテました(笑)

 

動く気力はあるけれど、既に動ける体力がない。エンジンオイルは満タンでもガソリンが切れちゃった・・・いや、ガソリンもあるからオーバーヒートしてしまった感じか!?
宿に着いた途端にベッドに倒れ込み、そのままダウン。初日はおとなしくしておけばいいのに、頭ではわかっているけどね~。この無茶がのちのち響くことになります。

初めて台湾の地を踏んだのは、20年前のちょうど今頃でした。
その時も同じくらい暑い時期だったはずですが、動けなくなるほどバテることはなかったはず。そんな記憶は全くないので。
精神年齢はまだまだ若いつもりだけれども、身体年齢がそれに全くついていっていないのか。

 

認めたくないものだな、自分自身の、アラフォー(と名乗れる年齢でもなくなった)ゆえの過ちというものを。

 

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