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昭和考古学とブログエッセイの旅へ

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

淡路島にかつて鉄道があった!その51年後の姿を追う

 

淡路交通鉄道線(淡路鉄道)洲本駅写真

 

前回、ふとしたことから淡路島の鉄道のことを知り、記事にしました。

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

「淡路島に鉄道が走っていたなんて知らなかった!」

という声がありましたが、それは仕方ない。廃止されて既に51年が経ち、鉄道の痕跡すらほとんどなくなっていますから。

しかし、地元の人の間では世代から世代へと語り継がれているようで、かつて鉄道が走っていた道を、今でも電車道と言っています。

 

洲本には「市立淡路文化史料館」という歴史博物館があるのですが、そこには淡路鉄道の写真の絵葉書が、5枚一組¥250で売られています。

 その中には、珍しいカラー写真もあります。

 

淡路交通鉄道線(淡路鉄道)カラー写真

 

淡路鉄道カラー写真

 

淡路島の鉄道の電車って、こんな色してたんですね。

 

ここから淡路島の鉄道(淡路交通鉄道線)のことを掘って行こうと、図書館と郷土資料館で資料集めとなりました。

 

 

まずは、サクッと淡路島の鉄道の歴史を年表にまとめます。

明治29(1896)年7月4日 軽便鉄道敷設願を提出

(ルートは、洲本を中心とした、福良・由良・志筑間)

同日 淡路鉄道株式会社創立

明治31(1898)年6月30日 鉄道敷設却下(当時の逓信大臣の末松謙澄による)

同年11月 淡路鉄道株式会社解散 株主に資本金返戻

 

明治44(1911)年12月 賀集新九郎ら地元の名士が鉄道敷設願再提出

大正元年(1912)年10月25日 洲本~福良間の敷設許可が出る

大正3(1914)年4月 淡路鉄道株式会社「再」創立

大正11(1922)年11月26日 宇山~市村間で営業開始

大正12(1923)年11月22日 市村~賀集間開通

大正14(1925)年5月1日 宇山~洲本間開通

同年6月1日 賀集~福良間開通(全線開通)

昭和7(1932)年5月 ガソリンカー運転開始

昭和18(1943)年6月 国策により全淡自動車と合併

同年7月 淡路交通と改称

同年11月 洲本駅増改築

 

昭和21(1946)年1月 洲本~岩屋間鉄道建設申請書提出

昭和23(1948)年1月 南海電鉄から電車5両購入

同年2月11日 電車運転を開始

昭和26(1951)年8月 国衙踏切で電車とバスが衝突。死者2名、重軽傷者7名

昭和30(1955)年9月 自動信号機を全線に設置

昭和31(1956)年3月 南海電鉄より電車2両購入

昭和32(1957)年12月 洲本駅改築。洲本観光会館新設

昭和35(1960)年7月 阪神電鉄より電車2両購入(木造電車置き換え)

昭和40(1965)年9月 集中豪雨により路線が寸断

昭和41(1966)年8月 鉄道線廃止を運輸省に提出(のち認可)

同年9月30日 さよなら運転(全線無料で開放)

同年10月1日 廃止

 

 

この淡路島の鉄道建設に尽力した人物に、賀集新九郎という人物がいます。

淡路鉄道の創始者にして初代社長、淡路島に鉄道を作るために人生を賭けたと言っても言い過ぎではない人物です。

今の南あわじ市最大の地主だったという賀集家は、新九郎のお父さんが明治に鉄道敷設を申請しますが、上の年表のとおりいったん却下されます。

その意思を引き継いだ新九郎は、再び淡路島に鉄道を建設すべく東京へ何度も向かい、役人を説得したと言います。

その甲斐あって許可が出たものの、今度は第一次世界大戦後の不景気で資金不足に。

新九郎は、私費をはたいて建設費を捻出し、無事完成に至らしめたとのことです。

 

その後、賀集新九郎の功績をたたえ、淡路鉄道本社に「表功碑」が建てられました。

 

賀集新九郎氏表功碑

 

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現在は、地元にある賀集八幡神社の中に移転されています。

 

賀集新九郎の邸宅は戦後も残っていたのですが、のちに火事になり跡形もなくなってしまったそうです。しかし、淡路島でも指折りの大地主の家だけあって、まるで城のようだったという記録が残っています。

 

昭和初期の洲本市街と洲本駅

洲本市立図書館所蔵の、昭和初期の洲本市街の写真です。洲本城がある三熊山から撮ったものです。

鉄道と関係ない写真ではありますが、赤い矢印のところに洲本駅がありました。

その左側にある、煙突がある建物は鐘紡(カネボウ)の紡績工場で、今のエディオン洲本店やレンガの建物がある場所です。

 

昭和初期の淡路鉄道

洲本川を渡る蒸気機関車です。昭和初期の写真だそうです。

 

 

福良駅の柱にあった俳句

淡路島は俳句が盛んなところらしく、松尾芭蕉の最古参の弟子であった服部嵐雪(1654-1707)は今の南あわじ市出身、江戸時代後期には農民が俳句同好会を作って句会をやっていたそうです。

そのせいか、駅の柱に俳句が飾ってあったそうです。これは福良駅のもの。

 

戦後の洲本港の賑わい

 

昭和30年代の洲本港です。夏になると関西各地から観光客がやってきて、大賑わいだったと聞いていますが、この写真を見ても賑わいが感じ取れます。それより、船が定員オーバーちゃうの?(笑

それでも写真を見る限り、客の積み残しがあるようです。正直、今の洲本を見ているとこの光景と人だかり自体が信じられない気分です。

 

 

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その昔、この位置に「賀集駅」がありました。

 

淡路交通鉄道線賀集駅の写真

 

賀集駅の写真です。

 

賀集駅の51年後

 

その51年後の姿です。

駅の奥にあった玉ねぎの集積所(?)は跡形もなく、駅は奥の民家の場所にあったそうです。

赤い丸で囲んだ部分は、おそらく鉄道時代の盛り土の跡だと思います。ここだけ不自然に地面が盛られているので、まだ淡路交通が所有権を持っている土地なのかもしれません。

 

 

 

淡路交通鉄道線福良付近(現国道28号線)

『消えた島の鉄道』様より転載)

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昭和40(1965)年の、福良付近の国道28号線の写真です。

ここの51年後の姿は・・・

 

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ほぼおなじアングルから撮ってみました。

ハンコ屋さんがそのまま残っていたので、いい目印になりました。

国道28号線は後で鉄道の線路を撤去して拡張したようで、右の歩道あたりが鉄道が走っていた跡になるかなと思います。

 

ここから福良方面に進むと、右手にローソンがあるのですが、そのまま少し坂を下って右手に、鉄道の跡と言われるものポツンと残っています。

 

淡路島の鉄道の給水塔と言われているもの

 

蒸気機関車時代の給水塔と伝えられている遺構です。

淡路島の鉄道の遺構は、今は橋台などがわずかに残っているだけですが、その中でもいちばんはっきり残っている名残りではないでしょうか。

ネットで写真を見ただけだと老朽化でけっこうショボいというか、小さく見えるのですが、実際に目の前で見るとけっこう大きい。作りもコンクリートでしっかりしている感じです。

ただし、これは民家の中にあるので、良い子は中に入って撮影しないように(笑

 

それにしても、この給水塔らしきもの、ちょっとした謎が浮かびます。

塔が建っているのは終点の福良駅の途中で、駅はもっと先にありました。

こんな中途半端な場所に何故蒸気機関車の給水塔が?

 

淡路交通鉄道線を取り上げたサイトやブログは数多し。しかし、これに疑問を呈しているサイトは、私が調べた範囲ではほぼ皆無です。一つだけ、神戸新聞の新聞記事が軽く書いていたくらいでした。

 

実際に現地に行ってみたらわかるのですが、この塔が建っている所、

 

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このとおり、長い坂の途中なのです。この道は鉄道の跡を道路にしたもので、終点の福良までほぼ一直線です。

ダラダラと上り坂が続くのですが、これくらいなら今の車どころか、原付バイクやロードバイク級の自転車でも大したことはありません。

しかし、坂は坂なのです。当時のマッチ箱蒸気機関車では、この坂を上るのは相当キツいと思います。

 

郷土史家の話によると、昔の福良駅はここあたりにあったとのことですが、こんな坂の真ん中に駅作るかな?それも福良の市街地と離れてる場所に・・・こんなとこに駅を作っても金の無駄、建設の資金難に苦しんだ当時の淡路鉄道がそんな無駄しますかね?

更に、坂の途中で駅を作っても、仮にブレーキが効かなくなったら、洲本からやってきた列車が、下り坂でスピードを上げたまま駅に突っ込む羽目になります。そうなると大惨事。

坂の傾斜のレベルが違いますが、近鉄奈良線暴走事故のような大事故が起こっています。

 

 

手持ちの自転車(ロードバイク)で惰性で走っていても、この下り坂は35km/hくらい出る角度です。これは駅として立地条件があまりに悪すぎる。

 

淡路交通鉄道線国道28号線との分岐(福良付近)

洲本市立図書館から拝借してきた資料の中にあった年代不明の写真ですが、架線があるので電化後の昭和20年代以降だと思われます。赤で囲んだ所に給水塔が見えます。

この写真を見る限り、ここに「終着駅」があったとは思えません。

 

ここで、私なりの仮説を提唱します。当たってるかどうかは知りません(笑

 

1.福良駅を発車した列車は、給水塔から続く長い上り坂のために、一度ここで給水し、機関車の「英気」を養ってから坂を上るため出発した。

 

2.昔はここに駅があったが、終着駅ではなく途中駅(ガソリンカーになった後廃止)。1.と同じくここで給水してから坂を上った。

 

この仮説、自分で考えておいて大きな疑問にぶち当たりました。

なんでこんなところに?給水するなら、塔作るなら福良駅でもいいじゃないか。

 

そこで、3つ目の仮説です。

 

3.これ、そもそもSLのための給水塔じゃない。

 

どうしても、ここにたどり着くんですよね。

現地を歩いたとは言え、あくまで自分の頭で考えただけのもの。決定的な資料を持っていないので、どなたかが補足してくれることを祈ります。

 

最後に、神戸新聞Youtubeにアップしている、貴重な淡路交通鉄道線の動画です。

 

www.youtube.com

 昭和40年(1965)2月28日のフィルムなので、廃止1年前のものですね。

 

これで知る範囲では掘り尽くしたので、淡路島の鉄道のことはこれで終わります。

また新しい情報があれば、ここと前回の記事で補足しておきます。

 

この記事がアップされる頃には、私は新たな昭和考古学を求めて旅に出ていることでしょう。

いざ向かわん、我が故郷大阪へ。

 

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