昭和考古学とブログエッセイの旅へ

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

人間の死は、いつになるかわからない

あるブログ記事を見て、人の死というものはある日突然、何の前触れも予告なく、静かにやって来るものだと。
もしも、死に方程式のような法則というものがあれば、病弱な私などとっくにあの世にいないだろうし、年寄りから亡くなっていくものだろうと。

 

その記事の亡くなった方は20代後半~30代前半だったらしく、亡くなるにはまだ若すぎる。それどころか、これから人生どうするか本格的なプランを建ててゆく頃ですね。
ご冥福をお祈り致します。


これを見て、20代後半で亡くなったある友達を思い出しました。

今日は、その友達の短い人生の話を。

 

 

ある親友


家が正面どうしだったある幼馴染がいました。名前をOとします。
年齢は一つ上なのですが、年齢と学年の差を感じさせないほど仲が良く、小学生の時はほぼ毎日遊んでいました。
真夜中にこっそりベランダに上がり、短波ラジオ付きラジカセで海外の放送を聞いたり、学校の校区外へ自転車で冒険し、迷子になって警察署に転がり込んだり。
タダでさえ好奇心旺盛な年頃な上に、お互い「未知」を探求する性格ということもあってか、毎日が冒険の連続でした。
もっとも、後で聞くとお互いの親同士仲が悪かったそうですが、そんなもの関係ねー。

今こうして人生を振り返ると、数々の友人知人が目の前を通り過ぎていきましたが、その中でも本当に親友と呼べた友達の一人です。

 

Oのいちばんの特徴は、筋肉質で頑丈な身体。
病弱でモヤシ体質だった私とはまるで真逆でした。
多少身体を鍛えてきたこともありますが、スポーツをしていたわけでもない。
元々段積みにしたダンボールを人間の身体にしたような体格で、背も170cm台後半。おそらく生まれつきの筋肉質だったのでしょう。


当然、力も強い。
小学校校区という狭い界隈で、ナンバーワンのパワーを持っていたのがうちの兄貴だと言われていました。我が兄貴は絵に描いたような健康優良児、これまた私と真逆。私からパワーというものをすべて吸い取ったが如き力自慢でした。
その分、たぶんですが頭はすべて私がいただきました。神様って兄弟のバランス考えてるんだなーと、一人っ子で兄弟というものを知らない義理の兄(姉貴の旦那)が妙に感心していました。 
で、2番は誰かというとOでした。
小学生時分の私は不思議でたまりませんでした。我が兄は柔道をしていたので理解できるが、何故スポーツもやっていないOがそんなにパワーがあったのかと。

 

幼馴染から先輩後輩へ


そんなOと私は、中学生になりました。
学年が一つ上のOは、当然ながら先に中学生になっていましたが、一年生のクラブ見学が解禁になった日、Oが笑顔で私のクラスに駆けつけました。
「よし、行こう!」
肩を組みながら向かった部屋には、「放送部」と書かれていました。Oは私をスカウトに来たのでした。
中学生になってもOの筋肉質には変わりなかったのですが、入っているクラブは放送部。なんともアンバランスな組み合わせでした。


Oとの義理もありなんの抵抗もなく放送部に入ったのですが、ここで「幼馴染」の関係から「先輩・後輩」の関係に。
中学校の放送部は、文化系のクセにヘタな体育会系より上下関係が厳しく、今ならPTAからクレームが来るような危ない仕事もやるガテン系でした。
Oに対しては、幼馴染としてずっとあだ名で呼んでいたのですが、入部からは「O先輩」と呼ぶことに。
しかし、Oの私に接する態度は一緒に遊んだ過去と全く同じ。回数は少なくなったものの、二人でいたずらして冒険した事も同じ。その気遣いが妙に嬉しかったのを覚えています。

 

妙な再会

Oが中学を卒業し私も中学卒業と同時に引っ越しをしたため、それからは遊ぶどころか会うこともなく、数年の時が流れました。

私が中国へ向かい一時帰国をしていた頃、高校で仲が良かった同級生Aが唐突に私に質問をしてきました。
「のぶ、お前Oさんって知ってる?」
知ってるもなにも、数年ぶりに名前を聞くOのことでした。
Aいわく、Oとは専門学校の同級生で仲良くなったそうですが、Oの昔話を聞くと私そっくりの、私の昔話と重複した人物が出て来るのだとか。

「それ、まさしく俺や!」

腹を抱えて笑ってしまいました。世界は広いが世間は狭い。
考えてもいなかった妙な縁で再会することになり、大人になった我々は酒を飲みながら昔話に花を咲かせました。
その後Oは、某車メーカーのメカニックとして就職。機械いじりと車好きだったOにとってはお望み通りの天職だったことでしょう。

 

Oの予期せぬ悲劇


それから何年の月日が経ったでしょうか。おそらく7~8年は経ったと思います。
ふと小学校の時分に住んでいた地域を訪ねてみようと思いたちました。
私にとっては、10年以上ぶりの育ち故郷です。
原付バイクを走らせて約1時間で懐かしき故郷へ。
昔住んでいた家はどうなっているだろうか。遊び仲間だった近所の悪ガキはどうしているだろうか。Oはもう30近いので、結婚したのかな。
などとワクワクしながら我が旧家とO自宅の前の道にたどり着きました。

 

私の旧宅前イコールOの自宅前なのですが、そこには物々しい雰囲気が。
遠目で見ると葬式、それもちょうど出棺だったようです。
Oはご祖父母との三世代住まいだったので、お爺さんかお婆さんが亡くなったかな!?と。
出棺っぽかったので気安く近寄れる空気ではなく、ひとまず旧宅見学は後回しに。
少し時間を置き、再び戻ってみてO宅の前まで近寄ってみました。
そこには、Oの家族の名前ではなく、O本人の名前が・・・。

 

ウソやろ!?
これは何かの間違いに違いない!
あの健康優良児で病気など弾き返すほどのパワーを持っていたあのOやぞ!

 

Oの名前が書かれた看板を前にし、私はしばし己を忘れてしまいました。
喪服ではなく全くの普段着だったのでその日は失礼しましたが、後日改めて訪問しOの弟から話を聞きました。

 

Oは享年28歳。死因は脳内出血とのことでした。
さては好きな車を運転して交通事故に遭ったかと思いました。それなら車大好きなOのこと、名誉の戦死のようなものだったのですが、さにあらず。
仕事中に突然倒れ、そのまま帰らぬ人になったそうです。

20代後半で逝ってしまうだけでも十分悲しいのですが、さらに悲しいことに、Oには婚約済みの彼女がいました。そのうえ結婚式の2ヶ月前にこの悲劇。彼女はショックで失語症になり、私が訪問した時は入院中だったと。

突然、全く予期しなかった幼馴染の死。そしてこの悲劇。健康だけなら私の方が先に死んでいてもおかしくなかったのですが。
私は一言も発することができないまま、死を半分ほど受け入れることができないまま、O宅を離れました。

その夜、実家に帰っていた兄貴にその話をしました。
筋肉ダルマで気の利いたことを言う頭の回転がない兄貴が、ふと言いました。

「それ、たぶんOはお前に最後の別れを告げたかったんやわ。偶然(出棺に出くわした)とは思えんわ。
お前ら、兄弟以上に仲良かったもんな。そんなお前に最後のお別れをな」

その瞬間、私の目から大量の汗がにじみ出てきました。


Oに見せたかったもの

その数年後、私は車を買いました。

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「タダの車に興味ありません!」
と、かなり無茶してトヨタプリウスを買ったのですが、全く車に興味がなかった私もすっかりこの車にハマることに。
西は九州東は東北まで、数々の飼い主の無茶ぶりに付き合ってくれた愛車でしたが、納車されて最初の休日に真っ先に向かったところがありました。それはOのお墓。
車好きだったOに、プリウス買ったぞ!どや、乗ってみるか?と一度見せたかったのです。
西の世界へ向かったOがもう運転することはないですが、線香に火をつけ助手席まで持って行き、魂だけでも乗ってもらいました。
彼が死んだことによりクラブの先輩・後輩の上下関係が消え、元の幼馴染の鞘に戻りしばしドライブを楽しみました。
もっとも、H社だったOは、
「なんでHのハイブリッドカーにせーへんねん!」
と激おこぷんぷん丸だったというオチもあったかもしれませんけどね。

しかし、車に興味すらなかった私が車を買ったということで、少しでも喜んでくれたことでしょう。


そして現在

それからまた、10年の月日が経ちました。
不惑を越えもう40代に入ってしまった私。事故や病気で何度か死の淵をさまよいました。しかし今でも生きている。
死に法則があれば、今でも元気にどこかで生き、結婚し子供も何人かいたはずのO。
何の運命のいたずらか、死の順番が逆になってしまいました。


私も、いつになるかわかりませんが、いずれ死ぬこととなります。
その時はOが前で待ち、
「よし、あの世の冒険しよか!」
知らない土地にワクワクした在りし日のあの幼馴染の二人に戻り、冥界を心ゆくまで旅したいと思います。

 

 

最後に、この記事を書くきっかけになった記事はこちら。

gattolibero.hatenablog.com