昭和考古学とブログエッセイの旅へ

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

隠れた台湾の名総督。その名は・・・

台湾の発展に貢献した日本人と言えば、最近像の首が切取られ話題になった八田與一など、いろいろ名前が出てきます。

 

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他にも、児玉源太郎後藤新平新渡戸稲造明石元二郎などなど。

彼らの名前は、「台湾に貢献した日本人」などでググれば、いくらでも名前が出てきます。

 

しかし、不思議なことがあります。どのサイトを見ても、
「なんであの人が出てこないんだ?」
と。本当に一人も書いていない。


台湾史に対する認識が全然浅いわ!八田や児玉後藤明石くらいは、言っちゃ悪いがちょっと台湾のことお勉強した小学生でも出て来るわい。上辺だけサラッと学んで台湾のことわかったつもりだろうが、お前ら何もわかっちゃいねーなーと。私もわかっちゃいないんですけど(笑)

 

わかった。じゃあ、

一人も書いていないなら、俺が書く。

 

そう思うのは必然。

書かれる前に書く。これブロガー魂也。 

 

今でも台湾人の間で、「伝説の名総督」と言い伝えられている人物がいます。

 

 

その人の名は長谷川清

長谷川清台湾総督

彼の名は長谷川清。海軍大将でした。第18代台湾総督でもあります。

なんとなく、高嶋政伸に似てますね。うちの兄貴にも似てるのですが、そんなことどうでもいい(笑

 

長谷川清海軍大将と聞いて、

「ああ、あの人ね!」

と即でわかる人は、相当の海軍人物通か彼の郷土福井県の人たちです。知らない方が当たり前。同じ海軍に詳しい人でも、軍艦方面に詳しい人(俗に言うミリオタ)は名前すら聞いたこともないでしょう。

別に戦争で派手に殊勲を挙げたわけでもないし、大将ではあるけれども、連合艦隊司令長官などの要職に就いたわけでもない。

いちおう慣例として戦艦『長門』の艦長に1年間就任していますが、阿川弘之の名作『軍艦長門の生涯』にもほとんどスルーされているほど影が薄い。『軍艦長門~』は4~5回は読んだけど、名前出てたっけ?

 

 

軍人としては知名度はかなり低く、よほどの海軍通でない限り低い方ですが、この人が実はかなりいぶし銀の人だったのです。

ラーメンに例えれば、有名どころの山本五十六なんかがメインの麺だとすれば、長谷川は豚骨スープの出汁となっている感じと言っていいと思います。歴史の主役ではないですが、絶妙な脇役ではあります。

 

大正時代以降の日本では、軍人が「文官」に、総理大臣を含めた行政の長になる時、あるルールがありました。それは「軍人を引退する」ということ。現役軍人のまま就任することは、基本的に禁止でした。
専門用語で言えば「予備役編入」というのですが、予備役というのは会社で言えば解雇。

しかし、長谷川総督は現役のまま総督になりました。

理由は、「この人が予備役になってくれるとちょっと・・・」という海軍からの要望があったから。乱暴な言い方をすれば、予備役編入ということは「要らない子扱い」ということ。
ルールとは言え、軍が「この人予備役でいいよ」ということは、この人要らないという意味もあり、現役のまま総督に就くということは、台湾統治の初期以外では異例中の異例でした。

 

長谷川総督の方針

 

小林躋造

長谷川総督の前の総督は、小林躋造という予備役海軍大将でした。
下の名前は「せいぞう」と読むのですが、「臍」(へそ)に字が似ているので、海軍では「へそぞう」というあだ名で呼ばれていた人です。

ちなみに、この人は台湾総督就任確定と同時に予備役になっています。

 

彼の台湾政策は強圧的でした。
皇民化政策」で、今まで任意(日本人・台湾人問わず自由参加)だった神社参拝を強制したり、台湾の民間宗教を「迷信」と決めつけ、お廟への参拝を禁止、お寺やお廟を破壊したりしました。

また、ラジオの台湾語放送の廃止や神社への参拝奨励(事実上の強制)なども行い、台湾住民総ブーイングを食らっていました。時代が時代だったとは言え、ちょっとやり方が強引すぎました。

小林も海軍の中では「良識派」と呼ばれた提督、決して愚かとか頭でっかちというわかではなかったのですが、時代の空気は人のネジを緩めてしまうのか。

 

台湾の「反日勢力」や日本のマスコミが、皇民化がどうだの、台湾人をいじめたうんぬんという根拠が、この小林総督時代の政策です。
確かに事実なのですが、それはたった4年間だけ。その4年間を、まるで50年間ずっとやってきたような捉え方をするのが、マスコミお得意の印象操作。
それも、NHKの某番組では「寺院・廟の破壊は全国的に大々的に行われた」とありますが、統計書を見ると実際は地域によってバラバラだし、お廟の数が増えている地域すらあります。台湾の統計書の数字をまとめると、全体的には「ちょっとだけ減った」程度。
彼らの詭弁珍弁に惑わされないよう、我々はきちんと歴史を学び、メディアの嘘を見抜くリテラシーを身につけましょう。

 

 

長谷川総督は就任直後、皇民化政策を


「やりすぎ!」


とすぐにいったん停止。

 

 

すぐに、


「国策に影響がない限り、住民が何を信仰しようと自由

(心の中の声:誰も指摘しないけどさ、国が国民に特定の宗教を強制するのは憲法違反じゃね?)


と発表しました。


これだけで、信仰心の篤い台湾人のハートを鷲掴み。
長谷川総督だぁ~い好き❤になってしまいました(笑)


本人も戦後に、
「冷静に判断して就任早々、慎重な調査、研究を経た後に根本方針が確立するまで一応、停止することにして実際には寺廟整理を中止した。
その結果、台湾人諸君は大へん喜んだが、私としても、甚だ快い思い出となっている」
と述べています。

 

長谷川総督の方針は、

「内台一如」(日本と台湾は一つである)

という、統治の原点回帰でした。

当時の日本人と台湾人の間には、明確な給料の違いがありました。タテマエ上は平等なのですが、日本人には「海外勤務手当」のような手当がつき、ここで厳密な「給料差別」が存在していました。

さらに、台湾総督府の役人は、今のマレーシアやシンガポールポリネシアなどに出張も多かったのですが、出張者も日本人のみ。台湾人はいくら能力があっても出張できませんでした。

歴代の総督も「内台一如」を口にはしていましたが、実情は変わらず。台湾人の間では白けた空気が流れていました。長谷川総督が就任した際も、方針として発表は出ていましたが、どうせ口だけペーパーだけだろと台湾人は呆れていたそうです。

しかし、長谷川総督はさっさと実行。給料を全くの平等、能力主義にしました。

 

これで台湾住民はまた総督だぁ~~い好き❤に。

 

台湾総督への面会は、今までは秘書官が用件を聞き、優先順位を作って選別していました。

それは至極まっとうなやり方なのですが、長谷川総督は、

「そんなことせんでもいい。僕に会いたい人は全員通せ」

面会を完全フリーにすることによって、秘書官の負担を減らそうという魂胆だったのでしょうが、これが「総督がフリーで会ってくれるらしいぞ!」と台湾中で評判となり、総督府に面会者が殺到。かえって秘書官の仕事が増える結果になってしまったのですが、島内住民の声に率直に耳を傾けようという姿勢が、台湾住民のハートをまたもやわしづかみ。

 

 

教育改革にも乗り出します。

それまでは、台湾の初等教育は「小学校」と「公学校」に分かれていました。小学校が日本人向け、台湾人向けが公学校でした。

公学校は、日本語が不自由な台湾住民のための小学校で、教科書も総督府自ら編纂、カリキュラムも小学校と少し違っていました。

ただし、公学校でも日本語のレベルが十分であれば、小学校の編入も可能でした。これは案外知られていない事実で、「台湾統治は過酷だった」としたいどこかの人たちは、これを「差別教育」としています。

 

これは差別ではなくただの区別なのですが、長谷川総督はこの区別を一切廃止。すべて「国民学校」としカリキュラムも旧小学校と同等のものに改善しました。戦争という事情もあったとはいえ、台湾人の民度も十分熟したと判断しての改革だったのでしょう。

また、この時から児童の就学率が増加しました。

台湾の就学率は70%超え、当時の世界最高水準だったという数字がありますが、これは長谷川総督の時に達成したものです。

 

 

 

太平洋戦争が始まり台湾も徐々に戦争色に染まっていったのですが、台湾人にはある不満がありました。

「我々は日本人なのに、何故戦争に参加できないんだ!」

 

この不満を聞いたか、昭和17年「陸軍特別志願制」を導入しました。

とりあえず1000人くらい(実際は1020人)募集するか(どうせあまり来ないだろう)、というノリで始めた制度ですが、蓋を開ければ応募数42万人、競争率320倍(!!)。翌年、海軍の特別志願も募集するのですが、60万人が志願しました。

 

このような、日本人・台湾人を分け隔てることをしない政策は、どこかで心の壁があった在台の日本人と台湾人を一つにすることになりました。

 

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この記事で少し書いた、台湾で生まれ育った遠縁も、

「少女時代だったから細かいことはわからないけど、(台湾人への)差別はあったと思う。(遠縁の)父に『台湾の人を見下したりしてはいけない』って小さい頃から言われてたけど、逆に言えば日本人は見下していたということでしょ。でも、戦争で日本人だ台湾人だと言うことはなくなった。みんな一つになった」

このようなことを言っていた記憶があります。

今になって考えたら、遠縁が「みんな一つになった」と言っていた時代は、戦争と同時に長谷川総督の時代とピッタリ重なるなと。

 

 

赤嵌樓台南

 

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台南の有名な観光名所に、赤嵌樓(せっかんろう)という旧跡があります。
今では市や市民によって大切に保存されていますが、日本統治時代は荒れ放題、崩壊の恐れありと近寄ることも禁止でした。

台湾住民は、歴史的な史跡をなんとか保存したいと望んでいたのですが、
「非常時だ!」と国民総出でいきり立つ時代には、なかなか言い出せるものではありませんでした。

 

昭和17年、羽鳥又男という男が長谷川総督の命令で台南市長に就任します。
この人も、台湾に貢献した隠れた日本人。今でも台南の公式史に名前が出てくるので、台湾史を勉強する時は必ず覚えておくべき人物です。

 

羽島が就任後台南を視察した際、赤嵌樓の荒れ果てた姿を見て、修復を決意します。
しかし、やはり「この非常時に!」という声が殺到、ならばと長谷川総督に直訴します。
台南市民のために、あれを修復しましょう!」


それに対する長谷川総督の答えは、
「うん、やり給え」
OKどころか、修繕の支援金も出してくれることになりました。
総督のOKという葵の御紋を手に入れた市長は、反対派を抑え即実行。
修繕の知らせを知った台南市民は大喜び。寄付の申し込みが殺到しすぎて、総督府から出す支援金が要らなくなったほどでした。

 

親日の台湾の中でも、特に台南は「親日計」の針が振り切れて測定不能なほどなのですが、そのきっかけは赤嵌樓の保存にあります。その功労者として羽鳥の名前が今でも台南で語り継がれているのですが、その陰には長谷川総督の姿がいたことは、台湾人もさすがにほとんど知らないと思います。
今の台南市長の頼清徳氏も去年、台南へ招待した羽鳥元市長の子孫から上の話を聞き、いたく感動したそうです。

 

 ある台湾人は、長谷川総督をこう評価しています。

「今まで(の総督)は水を逆流させる人ばかりであったが、長谷川さんこそ、初めて水をまともに流す人だった」 

 

 

  

昭和37年(1962)頃、長谷川は台湾総督時代の小回顧録を発表します。

「台湾が日本統治を離れて早くも17年になる。その間に中国と世界の情勢が激変したために、台湾は内外ともに極めて厳しい情勢に直面しているが、私は親愛なる台湾人と高砂族諸君の幸福、台湾の向上と発展、日台人の親善友好を心から願っている」

長谷川元総督の台湾への愛がこもったメッセージでした。

 

台湾では長谷川総督の政策は「長谷川仁政」と言われ、明治の児玉源太郎後藤新平明石元二郎総督と並んで評価されています。

私が長谷川のことを知ったのも、日本語世代の台湾人に教えてもらったのがきっかけでしたし。みんな「長谷川さん」と、まるで隣に住んでいたご近所さんか学校の友達のような親しさを込めて呼んでいたことが、今でも脳裏に焼き付いています。

 

海軍軍人としての長谷川提督

海軍軍人としても、山本五十六のような知名度や派手さはないですが、上述したように豚骨スープの豚骨のような脇役として、海軍史の表舞台にひょっこり顔を出します。

 

長谷川清は、1883年(明治16)福井県に生まれました。

海軍軍人を目指し海軍兵学校を受験、兵学校第31期として入学を果たします。陸軍もそうですが、旧帝国軍人を語る時は、「海兵(陸士)第○期」というのが非常に重要になってきます。

特に陸軍と比べて世帯が小さい海軍は、同期どうしの横のつながりが親兄弟以上に強く、彼らの性格や軍歴を語るに「同期に誰がいたか」「近い先輩後輩に誰がいたか」、そして「卒業した時の国内・国際情勢はどうだったのか」がけっこうキーポイントになってきます。多感な時期を海軍という一種の特殊環境で育った彼ら、周囲の環境にけっこう影響されることが多いのです。

長谷川の第31期の周囲には、

第28期:永野修身(元帥)左近司政三(中将)

第29期:米内光政(大将)、高橋三吉(大将)、藤田尚徳(大将)、など

第31期:長谷川(大将)、及川古志郎(大将)

第32期:山本五十六(元帥)嶋田繁太郎(大将)塩沢幸一(大将)、吉田善吾(大将)堀悌吉(中将)など

 もし覚える必要があるとすれば、32期の山本五十六の一期上ということで覚えておくと便利です。

 

こういう面々と書いても、海軍史を知らない人は山本五十六しか知らない、知ってても永野か米内の名前くらいをうーん、なんだか聞いたことあるような・・・という程度だと思います。逆に、海軍史を知っていれば錚々たるメンツの数々に見えます。昭和史・昭和海軍史を研究する時は避けて通れない、最低限全員の経歴くらいは覚えておけという人たちです。

 

特に面白いのが、長谷川と同期の及川古志郎。この人は「君子提督」と呼ばれ、中国古典の知識・教養はヘタな学者以上。人格が非常に温厚で・・・と書けば聞こえはいいけれど、一枚めくれば八方美人の決断力なし。何事もなければそれでもトップが務まるのですが、日本が重要な局面に入った時に、よりによってこんな人が海軍大臣になってしまったのが日本の運の尽き。

 

昭和16年、第二次近衛内閣の首相近衛文麿が、戦争への流れを止めようと「海軍のせい」にしようとしました。

近衛文麿は血筋は非常によろしいが、及川以上の決断力ゼロ、おまけにイヤなことはすべて他人に丸投げの上、麻呂はもうイヤじゃと内閣を放り投げる。責任逃れと逃げの早さは名人芸でした(笑

彼の孫の細川護煕氏も総理になり、紆余曲折の上途中で内閣を放り投げた時も、

「さすがは近衛文麿の孫!DNA恐るべしだなwww」

と政治評論家に鼻で笑われていたことは、覚えている人は覚えているでしょう。

 

アメリカとの戦争決断も、自分のせいにされたくないので、

「僕は(戦争)反対だったんだけど、海軍がどうしてもというから仕方なく。ぼ、僕は悪くないんだからね!」

という流れにしようと企みました。

しかし、及川も及川で、

戦争するかしないかは海軍が決めることではない。首相に一任します♪」

こちらも負けじと首相に丸投げ。逃げに走ってしまいました。 

海軍(及川)にボールを投げ海軍に全責任を押し付け僕何も知らないもんね~、となるはずがとんだブーメランになり進退窮まった近衛は、結果的に

「もう麻呂は総理やるのイヤじゃ~」

とちゃぶ台をひっくり返し総辞職。次は近衛内閣で強硬に戦争を主張していた東條英機が総理大臣に。そして真珠湾へ。。。と。

「なぜ『海軍は戦争できません!無理ゲー!』と言わなかったのか!海軍がそう言えば、アメリカと戦争できなかったじゃないか!」

と、及川は戦後に元部下たちからボロカスに批判されますが、日本の運命の瀬戸際にこんなトップが二人じゃ、日本もこの時すでに「投了」だったのです。

 

及川は、後でもう一度出てきます。

 

その彼が旧制盛岡中学の学生だった頃、ある後輩の文学センスに目をつけかわいがっていました。及川が兵学校へ進んだ際も、

「こいつを頼む」

と他の後輩に託したといいます。

その後輩が、のちに歌人となる石川啄木です。石川啄木は及川の影響で文学の道に進んだとも言われています。

その石川啄木を、なよなよしやがって!といつもしごいていたのが、同じ下級生だった板垣征四郎大将。のちに石原莞爾と共に満州事変を起こした陸軍軍人です(陸士16期。戦後、東京裁判にて絞首刑)。日本は狭そうで案外広いですが、日本史の人のつながりは広そうで案外狭いのです。

 

海軍兵学校を卒業すると、ふつうは練習艦に乗り込み近海や海外への練習航海を1年以上行い、その後少尉という士官の最下位の階級をもらうという流れでした。この流れは、今の海上自衛隊も全く同じです。

しかし、彼が卒業した当時はロシアとの戦争は不可避の状況。のんびり練習航海している場合ではないと端折られ、即軍艦勤務となります。

その後すぐ、あの日露戦争が起こりました。

 

日本海海戦三笠艦橋の図(東城鉦太郎画)

日露戦争日本海海戦の有名な絵があります。

一度は見たことがあると思いますが、この絵の正式な名前って知っていますか?

正式には『三笠艦橋の図』と言い、東城鉦太郎という戦争画を得意とする画家の絵です。

 

 

 

三笠艦橋の図と長谷川清少尉


中心にいる東郷平八郎の後ろで、器具(測距儀)を覗き込んでいるのが長谷川清少尉でした。

ペーペー少尉が戦艦、それも旗艦の『三笠』に乗っているということは、この時点で将来を嘱望された、かなり優秀な人材だったということです。

戦艦『大和』や『長門』などの花型の戦艦には誰でも乗れたわけではなく、成績優秀な人でないと勤務できませんでした。それは水兵・士官問わず同じ。

もし祖父や曽祖父が『大和』『長門』などの戦艦に乗っていた人としたら、胸を張って良いほど成績超優秀という目安です。成績が悪く前途非有望な人が花型の戦艦に乗ることは、ほぼありえません。

 

 

長谷川が優秀だったという証拠は、彼が駐米武官になったことからもわかります。
海軍では、内部の成績によって赴任する国が決まっていました。
トップクラスが英米。次にフランスくらい。他は・・・まあドサ回り。
長谷川は大使館付きの軍人トップの武官に就任していることからも、将来性のある優秀な人材だったということです。
その長谷川の武官の後任が、山本五十六でした。長谷川は引き継ぎの際に山本と出会い、旧知の間柄になりました。

 

海軍軍人の花形・真骨頂はやはり海。海の風と潮水を浴びてなんぼの世界。

ずっと船に乗っている「車引き」と言われた駆逐艦乗りもいれば、外交官のように海外勤務や中央(海軍省や軍令部)で折衝に当たったりする人もいます。今もそうですが、海軍軍人は「軍服を着た外交官」という役割もあるのです。

長谷川は後者の役職を歴任しました。裏方的な役割なので輝かしい軍功も経歴もなく、世間に知られていないのです。しかし、それも海軍軍人のお勤めです。

 

昭和11年(1936)、中国に常駐する第三艦隊(のちの支那派遣艦隊)司令長官に就任します。就任直後に中華民国の軍のトップと会談を行い、礼節ある態度だと絶賛されました。
その1年後に日中戦争が起こったので、お互い敵どうしになるのですが、長谷川を責める敵将官は皆無だったと言います。

 

珍しい映像があります。

www.youtube.com

 

上海での海軍の軍艦旗掲揚(朝8時)のシーンなのですが、10秒後に出てくる軍服を着た偉いさんの最前列真ん中の人って、もしかして長谷川清司令長官じゃね?と、ネット上のマニアックな人の間でずっと言われていました。
映像の時期は不明ですが、顔の輪郭から間違いないと思います。もし確定であれば、現存するこの世唯一の動く長谷川の映像ですね。

 

 

 

須賀彦次郎

その時の部下に、須賀彦次郎という少将(死後中将)がいました。
いつもヨボヨボの服を着て、事あるごとに杖をついて中国人と飲み歩く。その姿から「仙人提督」と呼ばれていました。
海軍には珍しい、「支那屋」と言われた中国情勢のスペシャリストで、あまりに中国勤務が長いために、たまに日本に帰ってくると、
「須賀さんは『日本に出張に来てる』んだよ」
と言われていました。


しかしそれだけあって、中国に対する洞察・見識は海軍一。
「敵」のはずの中国の将軍から「先生」と呼ばれ、「戦争相手」のはずの敵の偉いさんが、須賀先生のお願いならとの極秘情報を提供してくれる。
ついには「敵の手によって」、人徳を称える銅像が建てられたといいます。

 

その仙人提督ですが、「大名士」と呼ばれた「迷提督」でもありました。
海軍の隠語で「名士」という言葉があります。
これは立派な人ではなく「奇人変人」という意味です。海軍には「名士列伝」という本が作れるほど変人提督がけっこういたのですが、それに輪をかける「大名士」は、海軍の歴史の中でも3~4人しかいません。
山本五十六もイタズラ好きで「名士」っぷりエピソードが多いのですが、「大」はつきませんでした。

 

仙人提督は、酒の席でテンションが上がると、必ずやらかすことがありました。

宴席で、須賀がいなくなったと思ったら、部屋の障子がビビビという音と共に濡れ始める。
「須賀さん、またやりよった!」
一同、呆れ笑い。
仙人提督は、酒が入ると所構わず、誰彼構わず「小」をするクセがあったのです。
上官にも平気で「小」をぶっかけたり、お皿に「小」をして撒き散らす。
「小」だけではありません。ご機嫌がいいと、「大」までやってしまうのです。

 

こんな「大名士」が少将にまでなっただけでも不思議ですが、よくもまあクビにならなかったと。
それはやはり、中国に対する見識・情報力が他に替えられない、オンリーワンの人材だったからでしょう。

須賀仙人提督の人生から得られる歴史の教訓は、
「組織内のオンリーワンを極めれば、上司に小をひっかけてもクビにならない」
ということでしょうか(笑)

 

この須賀少将の師匠にあたるのが、津田静枝中将という「初代海軍支那通」なのですが、津田と長谷川は兵学校の同期にあたります。津田は既に海軍を去っていたので、同期のよしみで「貴様、こいつを頼む」と託されたのでしょう。

 

長谷川司令長官も、「大」はつきませんが、そこそこの「名士」だったそうです。

相当の女好きらしく、今ならセクハラで一発レッドカードなことは日常茶飯事。
「(軍人やめたら)二号さんに小料理屋させて、僕はそのヒモになるのが夢なんだ」
と終始言っていただけでなく、実行までしようとしていたそうです。

台湾総督時代も、いかつい現役の海軍軍人がどんな話をするのだろうと総督府の役人が構えていたら、会話は常に下ネタだったそうです。

しかし、それでも女性に嫌われることなく好かれていたというから、女性のハートを掴む、度量が大きな人だったのでしょう。総督府で働いていた元部下は、長谷川の性格を一言、「温情の人」と表現しています。

 


昭和16年、海軍の軍令部のトップ(軍令部総長)に君臨し続けた大ボス、伏見宮博恭元帥が引退します。世間はいざアメリカと戦争だ!という空気になっており、戦争反対だった海軍首脳も、その空気に戦争は不可避と腹をくくりつつありました。


さて、辞任した総長の後任をどうするか。当時の海軍大臣及川古志郎大将が、

近代史の「予言者」たち - 昭和考古学とブログエッセイの旅へ

ここの記事で紹介した井上成美中将(当時航空本部長)に尋ねます。

 

「次は誰がいいと思う?」


井上はぶっきらぼうに、


長谷川さんが適任です。でも台湾総督なので難しいでしょうね。なら、最先任(最先輩格)の永野(修身)さんでいいんじゃないですか?
あの人自称天才ですから、話振ったらすぐ食いつきますよ」

 

結果論ですが、これが海軍を滅ぼし、日本を滅ぼすことになってしまったのです。
永野修身が次の軍令部総長になったのですが、彼は超がつくほどの「対米戦争賛成派」。いや、「対米戦争狂」と言っても過言ではありません。

昭和海軍最強の事なかれ主義者と対米戦争狂が海軍のツートップになる。海軍だけではなく日本にとって最悪最凶のメンツが、国がヤバい時に揃ってしまう。ドリフの大爆笑であれば「だめだこりゃ」で済むのですが、何せ国ですから。

 

 この発言は、「カミソリ井上」と呼ばれた緻密な頭脳らしからぬ大チョンボ
本人も戦後に、
「私の失策。もっと強く長谷川さんを推しておけばよかった」
と悔やんでいます。
もっとも、永野の軍令部総長就任は出来レースだったのですが、それがわかったのは昭和が終わった平成のこと。もちろん、彼は亡くなるまで知りませんでした。

 

長谷川をそこまでして軍令部総長にするメリットは一つ。アメリカとの戦争を避けるため。
対米戦争も断固反対。キャリアも十分なので、対米戦争賛成派を黙らせることが出来る。そう踏んだようです。
井上も戦後の回想で、
「誰もが戦争戦争と狂っていた状況で海軍トップを任せられたのは、山本(五十六)さんか長谷川さんしかいなかった
と述べています。


「長谷川軍令部総長」は実現しませんでしたが、もし実現していたら台湾総督は辞めないといけない。そうなると「皇民化政策」が強化された可能性すらある。もしかして、台湾は今ほど親日ではなかった可能性すらある。

海軍がおかしな方向へ向かった分、台湾へメリットが回ってきたという歴史のいたずらです。

 

 

時代は流れて昭和20年。敗戦の色がだんだんと濃くなってきた日本は小磯国昭内閣が倒れ、鈴木貫太郎内閣が成立しようとしていました。
海軍省ナンバー2の次官になっていた井上成美は、小磯内閣の海軍大臣だった米内(よない)光政大将を、次の内閣でも続投させる算段でした。目的は終戦一本。この戦争をどう終わらせるか。米内と井上は、実はこの時密かに部下に超極秘で終戦工作を命じていました。
しかし、当時の米内は、日本が滅ぶか否かの瀬戸際のストレスと激務で、最高血圧が260~280。ふつうの人なら死んでまっせと医者が驚くほど、健康状態は最悪でした。事実、米内は「海軍の葬式」を執り行った後すぐに、精根尽き果てたかのように亡くなります。

 

米内本人も、それを理由に次の大臣就任を断ろうとしました。
しかし、
「国が滅びるかどうかの瀬戸際の大臣は、米内さんでないとダメなんだ」
という、井上の信念がありました。
米内と井上の、
「(大臣)続けなさい」
「いや、辞める」
という押し問答が続きました。

 

そんなある日米内は、
「長谷川を呼べ!」

米内は体調の限界もあり、長谷川なら終戦という路線を継いでくれるだろうと見越し、次の大臣に推すつもりでした。

台湾総督を勇退して帰国していた長谷川が、海軍省にやって来ます。
長谷川「大臣の話か?」
井上「そうです」
長谷川は、次にこう言います。

「米内さんでないとなぜダメなんだ」

井上は、そうなんですよ。米内さんがうんと言わないんですよ。
と訴えると、
「わかった、僕からも米内さんに言っておく」
と大臣室へ入っていきました。
結局、終戦後も含めて米内が引き続き大臣を務め、日本史の「ラスト海軍大臣」となったことは歴史の通り。

 

この時の長谷川の態度を、井上は戦後に大絶賛しています。
目の前に大臣という餅が転がっているのに、それを拾わず「断る!」と。なかなか出来るもんじゃないよ。あの時の長谷川さんは実に立派だったと。

 

井上成美は、「帝国海軍版橋下徹」と言ってもいいほど、かなりズバズバものを言う人でした。
東郷平八郎ですら、

「あんなの国賊。なまじ神様なんかにするからみんな甘々の評価をするんだ」

とズタズタのボロボロに斬り捨てた彼が、「立派だった」と言っていることに意味があります。


海軍大将数多けれど、井上が「無条件のベタ褒め」、または「ボロカスに酷評しなかった」のは、山本権兵衛加藤友三郎、米内光政、そして長谷川の4人だけ。
「これからは飛行機の時代」という航空主兵論、戦争反対の「同志」だった山本五十六でさえも、「とある有名な発言」で大減点されています。

 

海軍大臣を断った長谷川は、ある日宮中に呼ばれ昭和天皇から命令を受けます。
「今の日本海軍の状況、見てきてくれない?見てきたことを嘘偽りなく報告して欲しい」

視察から帰ってきた長谷川は、天皇に報告します。
「もうダメですわ。戦争やめた方がよろしいかと」

陸軍の将軍にも同様の命令をしていますが、もうダメっすという返事は同じ。
これで、天皇の肚は決まったと言われています。

 

そしてそのまま戦争が終わるわけなのですが、長谷川は故郷の福井に帰り、余生を過ごします。

彼の孫(次女の子供だったはず)に、『ウルトラマン』シリーズの演出も手掛けたことがある映画監督の実相寺昭雄氏がいます。

初代『ウルトラマン』なら、悲しい怪獣ジャミラの回の監督・演出として有名で、「ウルトラマン」の中でも「なんだかこの怪獣、やっつけるのは心情的に忍びない」と思ってしまう怪獣が実相寺監督ワールドなんだとか。

 

彼がある映画を撮る時、実相寺氏は祖父の長谷川のもとを訪ねます。

映画作成のアドバイスかと思いきや、

「じっちゃん、小道具で使いたいから勲章貸して」

長谷川も快く貸したそうですが、映画の協力者だった円谷英二が、

「陛下からいただいた勲章をそんなに簡単に貸してくれるのか・・・」

とビックリしたそうです。

 

長谷川と台湾の縁は、終戦で切れたかと思われましたが、彼が米寿を迎えた昭和45年(1970)、台湾から米寿を祝う祝電が次々と届き、直接お祝いを言いたいと台湾から多くの訪問者がやって来たという話が、長谷川清傳』という彼の唯一の伝記に書かれています。 

1970年(昭和45年)9月2日、87歳で長谷川は世を去りますが、死去を聞きつけた旧日本海軍の軍人や、果ては台湾からお悔やみの電報や訪問者が訪れたと伝記に書かれています。

 

歴史を調べる時、表に出てくる人物を知るだけでは何もわからないことが多いです。戦国時代は織田信長一人が動いたわけでもなく、江戸幕府徳川家康一人で築き上げたわけではありません。

歴史の主要道路から一本離れた脇道に住むご隠居が、実は幹線道路のキーマンだったりすることが、歴史の勉強ではよくあることです。長谷川も、台湾史だけでなく昭和史ににおいてそのうちの一人に違いありません。

 

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