昭和考古学とブログエッセイの旅へ

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

淳仁天皇陵-淡路島に残る唯一の天皇陵

ハンバーガーとくれば私はモスバーガー派なのですが、島には遺憾ながらモスバーガーはありません。マクドことマクドナルドで我慢しています。マック?iMacはやっぱ照り焼きに限るわ・・・ってなんでやねん。

マクドの経営不振は小耳に挟んだことがあるのですが、やはり天下のマクドと言えども胡座をかくと屋台骨が揺らぐか、しばらく行かない間にけっこうメニューが増えていました。モスバーガーは都会に出る愉しみにしておいて、島では不満を申すことなくマクドを愉しみたいと思います。

 

今日もフラッと朝マックしていたのですが、マクドへ来る度に気になることがあります。

店の道を隔てた向こう側に、鬱蒼とした木々が茂った小山があります。

 

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なんや、ただの小山に森やんと言われればそうなのですが、田園の真ん中にドカンと森が鎮座しておられる光景は、異様とは言わないが違和感はある。私のアンテナは、その違和感に反応したのでしょう。

そして、写真はすべてが入るような遠景で撮っていますが、「ただの森」にしてはデカいし、一体なんやろか。

百聞は一見にしかず、まずは怪しげな小山に近寄ってみました。

 

 

淳仁天皇淡路陵正面

 

小山の正面あたりまで近寄ってみると、この通り砂利が敷かれた厳かな佇まい。

古墳なんざ、大は仁徳天皇陵、小は名無しの陪塚まで、そこらへんに掃いて捨てるほどある環境で育った私。この光景は幼いころから何度も見ています。これでピンときました。天皇陵やなと。

しかし、ある疑問が浮かびます。私が生まれ育った大阪なら、天皇陵ならそこらへんにあるので理解できますが、なんで淡路島の、それも今でも何もない片隅に?

そもそも、誰のお墓なのか?

 

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淳仁天皇 淡路陵」と書いています。

淳仁天皇?はて、聞いたこともない名前なので、その場でググってみました。

すると、そこには驚愕の天皇の事実が!

 

 

淳仁天皇とは?その哀しき生涯

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淳仁(じゅんにん)天皇は733年から765年まで生きた第47代天皇で、天皇としての在位期間は758年~764年とわずか5年間。これでは知名度が低いのもやむを得ない。知名度がいまいちな理由はもう一つあるのですが、それはまたのちほど。

 

しかしながら、血筋は大変よろしい。

 

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作るのが面倒くさいので、Wikipediaから家系図を引っこ抜いてきましたが、淳仁天皇天武天皇の孫にあたり、父親舎人(とねり)親王も『日本書紀』の編さん責任者にして、政治的にもかなりの実力者でした。淳仁帝の即位前の名を大炊王(おおいおう)と言います。


このままだと血筋だけで高位に就け安泰のはずだったのですが、王が3歳の時に父の舎人親王が亡くなってしまいます。血筋よろしき皇族と言えども、後ろ盾がなければただの人。大炊王の幼少時はあまりよくわかっていませんが、かなりの苦労人だったと想像できます。

彼に光が当たったのは、当時の天皇であった、奈良の大仏でお馴染み聖武天皇が亡くなった20歳過ぎの頃だと言われています。聖武天皇の皇后だった光明子の威光をバックに勢力を増していた藤原氏の後ろ盾を得て、24歳で皇太子の地位に就きます。
当時の藤原氏の当主は仲麻呂でした。後に大炊王皇位に就いた後、(藤原)恵美押勝(ふじわらえみおしかつ)に改名し、この名前で教科書に載っていることも多い人物です。
しかし、ここでは名前を「藤原仲麻呂」に統一します。

西暦758年、聖武天皇の娘である孝謙天皇大炊王に譲位し、事実上の政治的最高権力者である藤原仲麻呂のバックのもと、ここに第47代天皇淳仁天皇が誕生します。

ここまでは、特に波風が立つこともなく順風満帆でした。

 

権力闘争の果てに

しかし、ここからが泥仕合の始まりでした。

760年、藤原仲麻呂のボスだった光明子が亡くなります。
そこで本性を表した(?)のが、いったんは譲位して上皇になっていた孝謙天皇。かなり権力欲が強かったらしく、光明子という重しがなくなった後はそれをほぼ剥き出しにしていました。

そこで、自分に近づいてきた僧、道鏡と組んで権力奪取を目論みます。

この道鏡、伝説によるとイチモツがとてつもなく大きかったと伝えられています。
真偽のほどは定かではないですが、孝謙天皇とはねんごろな仲として今に伝えられ、

 

道鏡は座ると膝が三つでき

 

道鏡に根まで入れろと詔

 

という川柳が江戸時代に作られるほどでした。つまり、道鏡は持って備えた「10インチ砲」(妄想)で天皇をヒィヒィ言わせたということです。
二つ目は傑作ですが、見方によってはかなり際どい、放送禁止コードスレスレの川柳です。
道鏡と出会ったのは孝謙上皇43歳の時ですが、43歳なら・・・まあそういうこともあるかな!?年齢を重ねた後の恋は、若い頃より燃え上がると言いますし。

淳仁天皇藤原仲麻呂道鏡との仲を注意するものの、上皇は言うことを聞かず。
それどころか、


「せっかく淳仁に譲位してやったのに、あいつら(天皇仲麻呂)あたしの言うこと聞かないし、口答えばっかりする。だいいち、道鏡とウフフな仲だなんて、あいつらにどうこう言われる筋合いはないわよ!

わかったわ、あたし出家して道鏡と別居する。これなら文句ないんでしょ!

でもね、あいつらに政(まつりごと)なんか任せてられないから、あたし自らやる。淳仁、あんたは権力没収」


と豪快に逆ギレ。
さらに遣唐使の一人で、藤原仲麻呂によって中央から退けられていた吉備真備上皇側の参謀となり、ドロドロの政治権力闘争となりました。これで、最初は比較的良好だった孝謙上皇藤原仲麻呂の関係が崩壊。
淳仁天皇はその板挟みに苦しめられたとも、いや、積極的に仲麻呂のフォローに当たったとも伝えられていますが、文献には出てこないので真相はわかりません。

 

藤原仲麻呂の乱

焦った藤原仲麻呂天平宝字8年(764)、軍事クーデターを起こすべく上皇側に刃を向けることとなります。
しかし、彼が信頼していた家臣に密告され、上皇側は先に手を打ちクーデターは失敗。藤原仲麻呂は逃亡中殺され、残った一族も殺されます。

この乱の時、淳仁天皇仲麻呂側につくことはなく、かといって上皇側でもない中立でした。その理由は記録にないので定かではないですが、中立なのに乱の平定後、

「あんた、仲麻呂とグルになってあたしを貶めようとしたでしょ、わかってんだからね!だから、あんたには天皇辞めてもらうわよ」

孝謙上皇に言いがかりをつけられ、退位させられた上「淡路公」として淡路島に流されます。

邪魔者がなくなった孝謙上皇は、第48代称徳天皇として再び即位します。いったん退位した天皇(や中国皇帝)が再び即位することを、重祚(ちょうそ)」と言います。
これで心置きなく称徳天皇道鏡は毎晩ムフフな営みを・・・ではなく(あったかもしれませんがw)、事実上の独裁政権を敷くこととなります。

 

と、ここまで書くと孝謙称徳天皇のわがままっぷりどダメ女ぶりだけが全面に出てしまっていますが、あえて孝謙帝を庇うとすると。

藤原仲麻呂は、淳仁天皇時代に自分の名前を、「恵美押勝」という唐風の名前に変更します。藤原仲麻呂は今風に言えば「親中」で、中国は何でも素晴らしいと権力を使って朝廷を「中国化」しようと画策しました。「左大臣」「右大臣」は「大傳」「大保」となり、年号も「天平神護」など唐風の四文字に変わりました。今の政府組織で言えば、「総理大臣」が「国務院総理」となり、衆議院参議院が「人民代議員大会」に、大阪府が「大阪省」になるようなものですね。それはちょっとご勘弁いただきたい。

孝謙天皇は、仲麻呂による急速な「中国化」に対し反感を持ち、ストップさせようとした保守派の鑑・・・という見方もできます。事実、孝謙天皇重祚後すべてもとに戻しています。


その後の淳仁天皇

淳仁天皇淡路廃帝という哀れな呼び名をつけられ、母親の当麻氏と3~4人のお供だけを率いて淡路島に流されます。

廃帝」とはあまり馴染みがない言葉ですが、日本史で「廃帝」と呼ばれた人は、淡路廃帝の他に2人います。

近江廃帝大友皇子→39代弘文天皇

九条廃帝(85代仲恭天皇後廃帝とも

しかし、近江廃帝は戦乱のさなかで即位すらしないまま死亡しているので、名誉天皇のようなもの。九条廃帝は4歳で祀り上げられたものの、即位式即位の礼)も行われないまま78日で退位しています。この78日は、日本一在位期間が短い天皇の記録となっています。

淳仁天皇は少なからず天皇としての体裁は整い、仕事はしていたという意味で、日本史唯一の廃帝という見方をする人もいます。


しかし、天皇の地位は追われたとは言え、淡路公という親王扱いでした。

そこで、異説が出てきます。淳仁廃帝は言われているような流罪ではないと。特に地元の郷土史家の間で議論が活発になっています。

勅撰歴史書の続日本紀によると、

「帝位を退け賜ひ親王の位を賜ひて(中略)淡路国を以て大炊の親王に賜ふ」

淡路島ごと与えるということやから、これ流罪ちゃんやん、今風に言えば転勤やんと。

しかし、これは今の日本の組織によくある、「栄転という名の左遷」でしょうね。元とはいえ天皇なので罪人にするには忍びない。本人の名誉のために、淡路島の主として「人事異動」扱いにしてあげると。

その証拠に、淡路に引越しといっても国司の厳重監視付きでした。それも称徳天皇自らの勅令で(勅令なので記録に残っている)。程のいい軟禁だったというわけでしょう。

 

その頃、奈良の朝廷には反称徳派や道鏡を快く思わない者もたくさんいました。称徳帝政権は今風に言えば独裁政権そのものな上に、称徳天皇が偏屈だったのか周囲の言うことを聞かず道鏡べったりだったので、それなりの不満分子が発生します。そんな彼らは淳仁廃帝を慕い、商人などに化けて淡路参りをする貴族も現れました。そこそこ人望はあったようです。
しかし、
「あいつを放置しておけば自分の地位が危うい」
称徳天皇側は恐れました。

これは独裁者によくある思考です。ソ連スターリンは妄想レベルでこれが激しく、トロツキーやキーロフのような政敵はもちろん、数千万と言われる人が「人民の敵」という、意味不明の罪状で殺されました。その数は今でもわかっておらず、自分の仲間や国民を殺しまくったという意味では、ヒトラーよりえげつない。


そsて、廃帝は淡路へ流された翌年の西暦765年のある日、突然亡くなってしまいます。この時の淳仁天皇はまだ33歳でした。

続日本紀』によると、

淡路公、幽憤に勝(た)えずして垣を踰(こ)えて逃ぐ、(中略)還りて明くる日院中に薨しぬ」

と簡単に書かれています。

簡単に書くと、幽閉先から脱出しようとしたものの、追手に捕まり翌日に死亡したということですが、逃げた際に重傷を負ってそれが原因で死亡したのか、逃亡に失敗して自決したのか、それとも逃亡のどさくさに殺されたのか。

鎌倉時代初期の歴史物語『水鏡』は、

「逃亡のどさくさに殺されたんでしょうね」

と「暗殺説」を唱えていますが、鎌倉時代初期と言っても淳仁帝が亡くなって400年以上が経っています。真実は鎌倉時代時点で、既にわかんないと片付けられているということです。

 淳仁天皇の扱いは、称徳天皇の目が黒いうちはなんとも出来なかったのですが、帝が亡くなり道鏡も追放された772年、第49代光仁天皇平安京桓武天皇の父)は僧侶を派遣しその魂を鎮め、778年に山陵扱いとされました。また、それまで存在した女性の天皇は、その後850年間現れることがありませんでした。女性天皇は江戸時代に二人即位していますが、いずれも男子のセットアッパー(中継ぎ)か上皇のロボット。史料は何も語りませんが、朝廷は孝謙=称徳帝で懲りて、女帝はもうこりごりと学習したのでしょう。

しかし、だからといって淡路廃帝の名誉が回復することはなく、そのまま数百年、いやさらに時が経ちました。


そして1100年後・・・

暗殺にしても憤死にしても、淡路廃帝は安らかな死に方をしなかったことは確かです。
非業の死を遂げた淡路廃帝は、本来なら怨霊として鎮魂の対象となるはずです。本当に怨霊となったかはわかりませんが、淡路廃帝という不名誉な名前を引きずったまま、時は流れました。

 

Kyoto-Shiramne-Shrine

時が経つこと1100年。明治天皇は流罪先で亡くなった崇徳天皇の魂を鎮めるべく、京都に白峯神宮という神社を造営しました。

その後、淡路廃帝の御霊も明治6年(1873)、淡路から白峯神宮に移され、合祀されることとなりましたが、さかのぼること3年、明治3年(1870)に正式に天皇としての名前が与えられ、淡路廃帝から「淳仁天皇」となりました

不本意なまま天皇の地位を追われ、「淡路廃帝」という不名誉な呼び名をつけられて1100年、やっとこさ名誉回復したというわけです。明治になって「追加」された天皇なので、知名度がいまいちな理由もこのためなのでしょう。

 

この白峯神宮は現在、2つの意味で有名です。
一つは、蹴鞠の里として。春の大祭や7月7日には奉納蹴鞠が行われますが、前者は淳仁天皇の魂を鎮めるためのものです。そこから「サッカーの神様」となり、特に予選を含めたワールドカップの時期になると、参拝者が殺到し絵馬の数がすごいことになるそうです。
サッカー以外でも、武道を含めたスポーツ全般の神様として参拝者が絶えません。

 

もう一つは、京都最大級のパワースポットの一つとして。
白峯神宮は元々、第75代崇徳天皇の魂をお迎えさせるための神社です。この崇徳天皇は当時の後白河法皇に反旗を翻したものの、平清盛源義朝などによって鎮圧され、讃岐に流されました。これは学校の歴史で、保元の乱として必ず出てきます。

学校の授業ではそれから源氏と平家の対立となって・・・と続くのですが、流された天皇のその後はどうなったのか。天皇は恨みのあまり舌を噛み、その血で呪いの言葉を書いていたとも。


「ワシは日本の大魔王となって永遠に災いをもたらしてやる」


と深い怨念を抱きながら亡くなったと伝えられ、死後の棺から血が滴り落ちたとも。
死後も京で天然痘が流行したり、政敵であった後白河法皇平清盛にクーデターを起こされたりと、京や皇室に不吉なことが連続し、ついには武家に政治権力を奪われることに。
それから明治時代まで、朝廷に権力が戻って来なかったのですが、これも崇徳天皇の呪いだと、「日本で最も恐れられた怨霊」として恐れられていました。
そして幕末の大政奉還で権力が朝廷に戻り、再び奪われるのをおそれた明治天皇が京都に神社を建て、天皇の御霊にお帰りいただいたというわけです。
しかし、怨念のマイナスパワーは健在と伝えられ、すさまじい「魔界スポット」なんだとか。その分、パワーはすごくご利益も強烈だと伝えられています。

淳仁天皇の怨霊伝説は聞いたことがないですが、「怨霊神社」こと白峯神宮に、「大魔王」と一緒に祀られていること、そして他の廃帝や流罪となった上皇などを差し置いているという点を考えると、淳仁天皇も皇族の中では怨霊として恐れられていたのかもしれません。

 

淳仁天皇陵を歩く

 

淳仁天皇陵は淡路島の南部、南淡と呼ばれる地域にあります。
正式名称は「淡路陵(あわじのみささぎ)」といい、農地の真ん中にドンと鎮座しています。

 

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現代の航空写真で見ると、周囲が農地に囲まれ天皇陵だけ「浮いている」ことがわかります。
逆に言うと、長年地元の人々によって大切に扱われてきたということですね。敬意や畏怖がなければ、天皇陵といえども「ただの山」としてとっくに壊され、跡形もなくなっています。地元では古くから、ここを「天王(の)森」と呼んでいました。

 

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宮内庁が正式に発行している『陵墓地形図集成』という、古墳・天皇陵マニア必読本があるのですが、そこから抜粋した淳仁天皇陵の図です。測量自体は戦前(昭和初期?)に、陸軍の手によって行われました。

 

意外と知られていない旧日本軍の仕事に、測量というものがありました。陸軍は地形などの陸を担当し、海軍は海図を担当していました。

こんなの軍の仕事なのか!?と今では不思議に思えるかもしれませんが、ちゃんと担当の部署もあった立派なお仕事です。何もテッポウを撃つだけが軍隊の仕事ではありません。
陸軍は参謀本部内に「陸地測量部」という部署があり、海軍は海軍省に大臣直轄の「水路部」があり、それぞれ測量や天気を担当していました。
母体の軍は戦後に消滅したものの、海軍の水路部は海上保安庁海上予報は気象庁に引き継がれ、陸軍の方は国土地理院として現存しています。
私が「昭和考古学」などで使っている航空写真は、国土地理院の地図・空中写真サービスというサイトから拝借しているのですが、これも旧軍の残滓だったか。

 

 

 

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図書館で見つけた、昭和初期と伝えられる天皇陵の写真(絵葉書)です。

 

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昔の写真を参考に、ほぼ同じ角度から写した平成29年の写真です。昔と変わってないと言えば変わっていません。前の道も聞くところによると7~8年前に出来たもので、ほんの10年前までは、昭和初期の写真のように道なき道を進まないとたどり着けなかったそうです。

 

 

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陵の入口には番人が待機する小屋があるのですが、今は無人のようです。

 しかし、ここに書いてある陵印とは何ぞや。

御陵印とは、平たく言うと天皇陵参拝記念スタンプのようなものです。

 

陵印

こんな感じだそうで、御朱印天皇陵版のようなものですかね。
以前は各天皇陵にスタンプがあり、番人小屋でスタンプをもらえたそうですが、現在は多摩(東京)・桃山(京都)・月輪(京都)・畝傍(奈良)・羽曳野(大阪)の「陵墓監区事務所」で管理され、御陵印をいただきに来ましたと言うと、スタンプがらえるそうです。

淳仁天皇陵の御陵印はどんなものかは、宮内庁のHPにアップされています。

-天皇陵-淳仁天皇 淡路陵(じゅんにんてんのう あわじのみささぎ)

 

ちなみに、御朱印と違い自分で押すスタイルで、料金も無料です。御朱印コレクターがいるように、陵印コレクターもいるのですが、古墳に行かなくても上の5ヶ所に行けば全部集められるというオチがあります。

古墳と共に育ったはずの私も知らなかったので、御朱印を比べるとマイナーかもしれません。御朱印集めはみんなやっているからイヤだ!という天邪鬼な方は、これを集めるのも面白いと思いますよ。

 

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幼い頃から古墳を遊び場にし、古墳を見ながら育った私、こういう古墳系は見慣れております。なので、古墳だけならさほど感動がありません。なんやまた古墳かいな、もうええっちゅーねんと。

しかし、淳仁天皇の悲劇の人生のフィルタをかけて見てみると、陵墓に哀愁さえ漂ってきます。志半ばで都から淡路に流され、非業の最期を遂げた悲劇の廃帝には、淡路の景色が何色に映ったのでしょうか。

天皇陵のほとんどは、京都・奈良・大阪に集中しています。

京阪奈以外となると数は非常に少なくなり、東京にある大正・昭和天皇は別として、滋賀県大津にある弘文天皇大友皇子)陵、壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇陵(と言われる場所。山口県下関)、天皇家を1000年間震え上がらせた(?)「恐怖の大魔王」、崇徳天皇陵(香川県坂出)があります。兵庫県にある淳仁天皇陵もその一つで、しれーっと存在しているけれど、大正・昭和天皇御陵を入れても全国でも6例しかないレアな陵墓です。淡路島どころか、冷静に考えると兵庫県唯一の天皇陵でもありますね。

 

淳仁天皇陵の堀

淳仁天皇御陵のお堀

淳仁天皇陵のお堀です。

私は仁徳天皇陵級の古墳を見て育っているので、それらに比べると大したことはありません。が、堀が広くて深いのが偉いのかと言われると、そうでもない。

当然、この大きさだと入ろうと思えばふつうに入ることができます。大きな声では言えないが、ここでよく遊んでいました・・・という、一昔前は子供だった人たちは絶対にいるはずです。

当然、ここは宮内庁の管理につき立入禁止ですが、子供の世界ではそんなこと知ったこったない。好奇心の赴くまま。ただし、大人は入ってはいけませんよ。

 

 

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御陵の東側に、大きなため池があります。御陵の堀を改造して作られたものなのか!?と思ったのですが、あのか細いお堀を見る限りそうではないようです。 

名前はやはりかまさかか、「天王池」天皇(天王)から名付けられたものでした。

この池、最近できたものなのかなと思って調べてみると、

 

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 (昭和22年、米軍撮影航空写真)

昔からあったようですね。

ちなみに、御陵の北を走る一筋の線は、かつて淡路島を走っていた鉄道です。

「ええ!?淡路島に鉄道なんかあったの!?」

と驚いた方は、この記事を読み終えたら下記へGO。

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

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その天王池の上、陵墓を見渡せる位置に、碑のようなものがあります。
しめ縄で囲んであるので、地元の人にとっては神聖なものだということがわかるのですが、果たしてこれは何か。

碑を見てみると五角形になっており、それぞれ

倉稲魂命

埴安媛命

少彦名命

大己貴命

天照大神

と神様の名が刻まれています。

倉稲魂命(うかのみたまのみこと。ウカノミタマ)は五穀(豊穣)の神、埴安媛命(はにやすひめ)は土の神、少彦名命スクナビコナ。別名「たかみむすびのかみ」)は山の神、大己貴命大国主命オオクニヌシ)の別名です。天照大神は説明不要でしょ。

淡路島は高い山がないため、雨雲が素通りして雨があまり降らない地域だ、ということを知識として勉強していました。実際住んでみると、

「そうか!?けっこう降ってるぞ!」

と首を傾げるほどに雨は降っているのですが、明石海峡大橋が開通するまでは水道の供給が不安定で、夏はちょくちょく断水していたと地元の人が言っていました。
そして、かつての讃岐や大阪のように、農業用水用のため池がそこらじゅうにあるのも淡路島の特徴です。やはりそれだけ降水量が少なく、水が貴重だったのでしょう。
この注連縄も、池の水が絶えないように水の神様にお願いしているのでしょうか。それとも、五穀豊穣を祈願しているのでしょうか。
いかんせん、周りに人の気配が全くしないので理由を聞くに聞けません。

 

その結界(?)の真ん中にある石碑を覗いてみると、何やら元号のような文字が。

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寛政六甲寅(きのえのとら)・・・までは読み取れました。
寛政六年甲寅は西暦に直すと1794年。もうすぐ19世紀に手が届きそうな18世紀です。
ちょうど浮世絵の東洲斎写楽が登場し、時代劇の『鬼平犯科帳』でお馴染み、火付盗賊改方長官の鬼平こと長谷川平蔵が死去(寛政七年)した時期でもあります。
また、この年前後に「遠山の金さん」こと、のちの江戸町奉行遠山景元が生まれています(寛政五年)。鬼平が亡くなったとほぼ同時に、遠山の金さんが生まれたという歴史の因果。だから歴史は面白い。

200年以上前の石碑は、淡路島では特に珍しくありません。島には石碑がそこらじゅうにニョキニョキ生えて・・・いや建てられています。私が覚えているだけでも20や30は下らない。これがモアイなら、間違いなく淡路島は日本のイースター島です。

長年の風雪のせいか文字の判別が不可能なものも数多くありますが、なんとか読み取れるものがあると、やはり「寛政」とか「亨保」などの文字が見えることも。亨保なんか暴れん坊将軍の時代やん。

歴史好きな方は、「淡路島石碑の旅」をしてみると面白いと思います。

 

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秋の淡路島は、黄金色に実った稲の収穫が始まる時期。私が淳仁天皇陵を訪問した時は、ちょうど御陵の周りの稲の収穫時期を終え、藁を干しているのか、写真の光景が広がっていました。

 また、淡路島の秋はキャベツやレタス、白菜などが成長し始める時期でもあります。気候が温暖なので、二毛作も可能なのです。淡路島は「玉ねぎアイランド」のイメージが強いですが(島全体がそれで売り出しているから仕方ないか)、実は冬野菜の栽培も盛んで、年末になるとキャベツやレタスが収穫され市場に出始めます。直売店でアウトレットを買うと「大阪の半額以下」で売っていることもあり、東海や九州から買い付けに来る玉ねぎほど競争率も高くありません。今年の正月に実家に山ほど持って帰ったのですが、(白菜が)玉ねぎより美味いと好評でした。

 

淳仁天皇と御陵については、本来はこれで終わり・・・のつもりで書いたのですが、さらに調べてみると淡路島には淳仁天皇ゆかりの地がいくつかあることが判明。

そしてそこから、この淳仁天皇陵は本当に淳仁天皇陵なのか?という「淡路ふしぎ発見」ミステリーへ。
せっかく淡路島にいるので、これはこの足で周り、この目で見てみる絶好のチャンスです。というわけで、これはただの前編です。本人の意思に反してそうなってしまいました。


後編は「淳仁天皇を巡る淡路島の旅(仮名)」として、来週にアップすることになるでしょう。来週末が晴れていればですが。ホンマは今日巡るはずだったのに、よりによって週末に季節外れの台風なんか来やがって