昭和考古学とブログエッセイの旅へ

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

【前編】神戸駅-寂しき幹線の終着駅【昭和考古学】

ただいま神戸市に行くと、下のようなポスターをよく目にするかと思います。

 

神戸開港150周年ポスター(神戸市公認)

 

神戸は今年で開港150周年を迎えます。

 

神戸駅近くの飲食店の開港150周年ポスター

 

街のお店もご覧の通りお祝いムード。だからといってビールと冷やし中華は安くならないようです。

 

そんな神戸の150年のうち、140年以上を見続けてきた場所があります。

 

ここから長くなるので、週末のまったりした時間を酒かお菓子を片手に、ゆっくりお付き合い下さい。

 

 

 

神戸駅

 

現代のJR神戸駅

 

それが神戸駅です。兵庫県神戸市中央区相生町三丁目にある神戸駅です。

そんなくどくど言わんでもわかっとるわい!と思うでしょうが、こう言わないといけない事情があります。

実は、日本に「神戸駅」は現役だけでも3つあり、改称されたり廃駅になったものを入れると10以上にもなります。それだけ「神戸」という名前は全国区なのです。もっとも、現役は「こうべ」「かんべ」「こうど」と読み方がすべて違うのですが。日本語はムズカシイネ。

 

昭和6年(昭和初期)、戦前の神戸駅

この神戸駅の建物は何度かリフォームされているものの、昭和5年(1930)7月に建てられたもので、文化庁が「幕末~昭和20年までに建てられたもの」の中で特に価値ありと認めた「近代化遺産」にも指定されています。

しかし、駅の中は現在は完全リフォームされ、現代的なたたずまいになっています。残念なことに関西の通勤圏の一駅に過ぎませんが、戦前はここが国際的な日本の玄関の一つであり、それだけに貴賓室など豪華な設備が揃っていました。

駅舎の中はすっかり近代化されてしまい、建築当時を忍ばせるものはほとんど残っていません。駅舎だけが昔を物語っています。

 

神戸駅の開業は、日本の文明開化と共に歩んでいます。

日本ではじめて鉄道が通った区間は、明治5年に開通した新橋駅~横浜駅。これは小学校・・・は言い過ぎか、中学校の社会の授業レベルです。じゃあ、なぜ日本初がこの区間なのか。横浜という、幕末に開港された日本屈指の港と、東京という首都を結ぶ重要な幹線。客を運ぶことも重要ですが、もっと重要なのは貨物輸送です。横浜で陸揚げされた外国や国内の貨物を運ぶ場合、陸送だと人員も時間もかかる。鉄道だと大量の物資を一気に運べるという簡単な理屈です。

 

一番目はわかった。では二番目は?

え!?と詰まってしまう人が多いと思います。オリンピックでも銀メダリストはほとんど覚えられないのと同じく、二番は覚えられないのです。

正解は神戸~大阪間。これも幕末の開国によって開校した神戸港の玄関口及び貨物輸送のために作られました。神戸駅は、それに合わせて明治7年(1874)5月11日に開業しました。神戸港の開港が1868年なので、その6年後に作られたということになります。よって神戸駅の歴史≒神戸の歴史と言えます。

神戸駅が関東の新橋駅・横浜駅と違うところは、駅の位置が開業当時からほぼ変わっていないこと。「新橋駅」「横浜駅」と言っても、今の新橋駅・横浜駅とは何の関係もない全くの別もの。歴史好きや鉄道マニアにとっては「何をいまさら偉そうに」な常識ですが、それと関係ない人は今の駅と混同している人が案外多いのです。

神戸駅は、神戸150年の歴史を見続けてきた証人でもあります。

 

 

現在の神戸駅

時代を一気に早送りし、現在の神戸駅のホームを見ていきます。

 

神戸駅ホーム

 

今は京阪神、いや姫路から滋賀県まで東西に広がるJR西日本の「アーバンネットワーク」の大動脈としての中間駅の一つに過ぎません。少し意地悪な言い方をすれば、ただの駅。通勤・通学で使っている人にしても、電車に乗ったままだとそんな駅あったっけ!?くらいの存在感しかないかもしれません。

さらに、神戸の繁華街の地位は三ノ宮にあり、長距離バスターミナルや空港へのアクセスも三ノ宮に集約。その地位はもはや不動のものとなっています。ハーバーランドが出来る前は、三ノ宮駅の賑わいとは裏腹に神戸駅は同じ神戸市の駅かと思うほどひっそりとしていました。神戸市民でも、買い物しようとなるとまず三ノ宮が頭に浮かぶと思います。

神戸の歴史を知らないと、

「なんで繁華街は神戸駅じゃなくて三ノ宮駅周辺なの?」

となりますが、それはある意味当たり前の疑問。大阪人の私もそう思っていたから。三ノ宮が神戸の中心なら、三ノ宮駅こそ神戸駅を名乗ればいいのに。

しかし、おかしいなとその疑問を起点に歴史を調べていくと、神戸駅ってすごく絶妙な位置に作られているのですが、それはまた後で。

 

神戸駅は上述したように、良くも悪くも今はただの中間駅と化していますが、非常に重要な場所でもあります。

ホームではなく、下の線路に目を向けてみます。

 

神戸駅山陽本線0キロポスト

 

線路の横に書かれた「0」のマーク。「オー」ではありません。数字の「ゼロ」です。

意識しない限り、神戸駅に行ってもなかなか見つけにくい標識ですが、下の写真の角度で見てみれば一目瞭然。

 

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線路の枕木(ってもコンクリートなので「木」ではないですがw)に、何か書かれていますよね。

東海道589K340

山陽0K

山陽は最初”OK”(オッケー)に見え、何がOKなんやろと首をかしげたくなったのですとが、どうやら標識の「0」は山陽のゼロのようです。

 

 

神戸駅の下り、明石・姫路方面のホーム端に、もっとわかりやすいものがあります。

 

JR神戸駅、東海道本線と山陽本線の切り替えポスト

 

これでおわかりでしょう。

あの「0」は、東京駅から589.340kmの神戸駅東海道本線の終着駅ですよという目印であり、線路は続くよで山陽本線が始まるという目印でもあったのです。

 

神戸駅、あっち東海道本線こっち山陽本線

駅のホームの東側半分が東海道本線、西側半分が山陽本線。くどいですが、今はただの中間駅と化している上、神戸駅始発や終着の電車もほとんど存在しないため、東海道本線山陽本線が変わる重点的な駅ということを忘れがちです。

特に今は、大阪~姫路間をJR神戸線という愛称で呼んでくれとJRも推奨しているため(車内アナウンスでもそう放送される)、なおさらここが日本の大幹線の起点終点だということに気づかない。いや、「JR神戸線」がかなり浸透しているはず。今の高校生くらいの世代は、ここが「東海道本線」「山陽本線」ということすら知らないのではないか!?

ちなみに、「JR神戸線」はあくまでJRがお客様のご要望を無視して勝手につけた名前で、正式名称は今でも「東海道本線」「山陽本線」です。

 

神戸駅の忘れられたホーム

 

神戸駅のホームの構造はこうなっています。

 

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専門的には「島式2面4線ホーム」というのですが、鉄道関係者でもない限り、こんな説明をしてもピンとこないと思うので、ペイントで図を描いてみました。

数字はホーム番号なのですが、何か気づくことはありませんか?

「あれ?1番線は?」

神戸駅を知っている人や鉄道マニアは、こうきます。

「お前、1番線抜けとるやんけ!」

別に忘れていたわけではありません。このツッコミを待ってわざと抜いたのです。

 

神戸駅ホーム構造を正しく書くと、こうなります。

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しかし1番線ホーム、神戸駅を使っている人でもあまり存在感がない、そんなホームあったっけ?的な寂しい扱いになっています。

 

JR神戸駅、1番線ホームへの入り口

 

普段はこの通り、固く門を閉ざし用事がない限り進入禁止になっています。妙にピカピカなのがまた虚しい。Wikpedia先生によると平日の朝にちょっとだけ使われるようですが、それ以外に使われることはありません。

 

JR神戸駅1番ホーム

そんなホームが何故あるのか?

そんな使わないホーム、とっととぶっ壊してしまえ!

そんな可哀想なことを言わないで(T_T)

この普段使われない1番線ホームが、神戸駅がキラキラ輝いていた時を物語る現物だったりするのです。

 

神戸駅の黄金の日々

 

上に述べたように、神戸駅東海道本線の終点なのですが、その価値は時代を遡れるほど重要となっていました。

その理由は、神戸が日本屈指の港町であることと関係します。

飛行機が発達した現代では、海外へ行くとなるとまず飛行機。それに乗るために空港へ向かいます。

しかし、昔は船が中心でした。日本は島国なので船に乗らないと海外には行けないのは誰でもわかります。昔は海外へ行くことを「洋行」と言い、誰でも行けるものではありませんでした。

 

戦前の洋行

海外へ行くとなると、家族総出で港までお迎えに行き、波止場からテープを投げて門出を祝っていました。

家族総出で送るという習慣は手段が飛行機になっても残っていたようで、私が初めて中国へ向かう際は、家族親戚総出で伊丹空港関空じゃありません。当時は未開港)まで送ってくれたことを覚えています。海外へ出る回数が増えるにつれて送ってくれる人の数は減っていき、最後は「はいはい勝手に行ってこい」扱いになってしまいましたが(笑

 

飛行機がメジャーとなる前の海外旅行の玄関口は港となるわけで、それは空港を「空の港」と表現していることにあらわれています。英語のAirportを漢字に直しただけでしょうが、いかにも島国の日本っぽい付け方だなと。

大陸国家の中国は空港を「飛機場」と書きますが、直訳すると「飛行機(が着く)の場所」と味気も何もありません。中国の場合は陸路で行こうと思えばヨーロッパまで行けるので、「空港」という旅のにおいが豊かな名前ではなく、「飛行機が飛ぶ場所」というそっけない名前になったのでしょう。それか、ただ中国人にセンスがなかったか。

昭和14年(1939)の神戸港旅客船のスケジュールがあります。

 

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海外だけ目を向けても、欧米や南米向けの遠洋航路から、中国・満州・台湾などの近海航路までかなりの航路があったことがわかります。

しかし、えらい少ないな。上海行きの船すらないし・・・と見ると「大阪商船」(今のMOL)の船だけでした。

つまり、日本郵船など他の船会社の便も入れると、こんな数ではない船が神戸港から出航していたわけです。

日本郵船(NYK)は現存し、大阪商船は三井と合併し「商船三井(MOL)」として今でもありますが、船がわからなければ、NYKが船会社界のJAL、MOLがANAと思えばまさに飛行機と同じ、神戸港は成田や関空のような国際空港です。

 

戦前の鉄道時刻表にも海外航路のスケジュールが書かれており、鉄道と船が密接に連携していました。

その一例が、「ポートトレイン」という列車。聞きなれない名前の列車ですが、海外、特に欧米行きの船の入港日や出港日に運転される臨時列車で、神戸港の場合、京都から神戸港までの列車が運転されていました。

 

戦前の神戸港駅の位置。ポートトレイン

 

戦前の神戸市の観光地図から抜粋したものですが、

①~③:いわゆる神戸港(このどこからの埠頭に入出港)

赤丸:神戸駅

緑丸:三宮駅

です。

と追加したところが、ポートトレインが発着した「神戸港駅」で、欧米向けの船はこの埠頭から出ていたのでした。

ポートトレインの時刻表は、

(347) 京都12:14発→大阪12:50着・12:51発→神戸港13:32着
(348) 神戸港15:30着→大阪16:10着・16:11発→京都16:51着

となっており、当時の時刻表には

日本郵船欧米船発着日のみ運行」

と書かれていました。日本郵船のチャーター列車みたいなものですね。

船会社や航空会社が列車をチャーターし、飛行機と接続させる方式は日本にはないものの、ヨーロッパではドイツのルフトハンザ航空の子会社が車両を借りて列車を走らせたりするなど、たまに見かけることがあります。

 

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戦前の絵葉書による神戸港の一風景です。よく見ると「第一突堤」と書いています。

 

神戸港駅の位置。航空写真

昭和23年(1948)の神戸の航空写真ですが、神戸港駅の位置はこことなります。写真をアップしてみると、レールと駅舎らしきものが確認できます。

 

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今のGoogle Mapと照合してみると、神戸港駅はすでに跡形もなく、ポートライナー

その真上を通っています。おそらく「ポートターミナル」駅あたりだと推定されます。

ポートライナー神戸空港へのアクセスラインともなっているので、かつての「ポートトレイン」の新旧交代が目に浮かびます。

 

 

街ごと今の国際空港のような雰囲気だった神戸でしたが、国際航路へのもう一つの窓口が神戸駅でした。

ポートトレインは今の「成田エクスプレス」や「はるか」のように毎日山のように走っているわけではありません。それ以前に、当時一般庶民の遠距離旅行自体がほとんどなかった時代でした。よって外国船に乗る人はそれなりの裕福な人が多く、神戸港へは市電はもちろん、今で言うハイヤーで港に向かった人がほとんどでした。

中国や朝鮮などの比較的近海の路線だと学生なども多かったため、神戸や三ノ宮駅から歩いた人もふつうにいたことでしょう。ある船会社の当時のパンフにも、「三ノ宮駅から歩け」とばかりに、埠頭までの道筋が案内されています。昔の人は今と違って足腰は相当強く、4キロ5キロくらい歩くのはへっちゃらな人が多かったのです。

 

海の玄関口という意味で、神戸駅は重要な地位を占めていました。

それゆえ、神戸を始発・終着とする列車が昔は多かったのです。

 

昔の神戸駅はすごかった伝説① 超特急『燕』

 

特急『燕』戦前、展望車

その代表格が、特急『燕』でした。有名なので聞いたことがある人も多いと思います。

この列車は「超特急」と呼ばれており、既に走っていた先輩特急の『富士』『櫻』(いずれも東京~下関間)を超える、高速の特急という意味合いもありました。

この『燕』の名は国鉄を象徴する名前となり、現在にも受け継がれています。今のJRバスにもツバメのマークが付けられ、野球のヤクルトスワローズの「スワロー」もこの『燕』から名付けられました。創設当初は「国鉄スワローズ」でしたからね。

 

特急『燕』の時刻表

当時の時刻表です。赤で囲んだのが『燕』です。登場した当初は通過していた横浜や静岡などにも停車しているので、戦前でもかなり後のものだと思います。

「なんか」と言ったら失礼ですが、岐阜はスルーなのに大垣に停車している理由は、牽引している蒸気機関車だけでは関ヶ原の上り勾配を登ることができず、最後尾に後ろから押す補機を連結するから。
坂を登り終えると、通過したまま補機を切り離すという荒業をこなしていました。
これはあくまで上り勾配の下り線だけで、神戸発の『燕』は通過だったはずです。

 

三ノ宮駅を発車した東京行き特急『燕』

阪急神戸線の春日野道駅から撮影された、三ノ宮駅を出発したばかりの東京行き『燕』の写真です(1936年)。今から東京へ向け長い旅に出るという感じが写真からにじみ出ているかのような、勇ましい写真です。

 

 

今でこそ新幹線が東京~新大阪間を2時間半ほどで結んでいますが、戦前はこの『燕』が最速で、「東京を朝に出て夕方には大阪に着く」自体が常識破りでした。

ちなみに、戦前の時刻表は24時間表記ではなく、「細字:AM」「太字:PM」と分けられていました。24時間表記になったのは戦争中の昭和17年のこと。軍隊が24時間で動いていたので、軍に時間表記を合わせたものですが、24時間表記は便利だったのか、戦後も変わらず現代に至っています。

上の時刻表の『燕』も、東京発の数字は細字(午前)で、名古屋着は太字(午後)になっていることがわかります。

 

この『燕』の弟分として、左横に走っている『不定期つばめ』という大阪行きの列車や、姉妹列車として同じ神戸行きの『鷗(かもめ)』(上の時刻表いちばん右に掲載)も走っていました。『鷗』は昭和12年(1937)年から18年まで走っていた特急でしたが、6年間しか走っていない上に、『燕』の影に隠れて存在感がほとんどない、少しかわいそうな気もする列車でした。

鷗よ、君はいい列車だったが君の生まれた時代が悪かったのだよ。

 

『燕』は「超特急」を名乗っていましたが、関西には他にも「超特急」を名乗る列車が走っていました。

前に紹介した私鉄時代の阪和線(阪和電鉄)の暴走超特急もそうですが、『燕』が走る東海道本線と一部並行して走る「新京阪電鉄も「超特急」を走らせていました。

 

「新京阪電鉄」とは今の阪急京都線のことで、名前の通りあの「おけいはん」こと京阪電鉄が大阪~京都を高速で結ぶコンセプトで作られた鉄道です。大恐慌でおじゃんとなりましたが、名古屋まで伸ばす計画もありました。

ヒマな時間があれば、Google mapで阪急京都線の路線を縮小で見てみて下さい。直線区間が多いことに気づきます。相川~富田間は、まるで定規でまっすぐ線を引いたようですが、直線が多い=スピードを出せるという簡単な話で、新幹線も同じ理由で直線区間を極力多くしています。

直線すなわちスピード。スピードそれすなわち力。コンセプト的には名古屋まで弾丸特急を走らせるつもりだったはずなので、阪急京都線も戦前なりの「弾丸列車」ならぬ「弾丸電車」だったのです。

 

そんな新京阪には、『燕』にまつわるある伝説が残されています。

『燕』が「新京阪」との並走区間をフルスピードで走っていると、どこからともなく「新京阪」の電車が追いつき、並走して追い抜いていったというもの。

「新京阪」は阪和電鉄の超特急にも負けない超高性能化物電車を投入しており、さらに「新京阪」の「超特急」は『燕』の通過時刻に合わせた時刻で走り、国が「日本一の快速列車」と銘打った『燕』をあざ笑うかのように追い抜いていったとか。官営鉄道=国鉄=国に完全にケンカを売るこの行為、さすがは関西というべきか。

 

新京阪が阪急になり、省鉄が国鉄を経てJRになっても、時代が20世紀から21世紀になっても、昭和から平成になっても、JRvs阪急のスピード競争はいまだ続行中です。

JRの列車がちんたら走っていると、今日の獲物発見と阪急の特急がロックオン。 下の動画がまさにそうですが、JRの獲物相手に張り切っちゃう阪急の特急がかわいい。昭和初期の『燕』vs「新京阪超特急」もこんな感じだったのでしょう。

www.youtube.com

 一見すると「阪急スゲー」になるのですが、実は圧倒的有利な阪急特急と互角に渡り合える新快速がチート電車すぎるだけです。

 

この「新京阪」の伝説の真偽はさておき(本当だそうですが)、『燕』をあざ笑う存在がなんと身内にもいたりしました。

 

昔の神戸駅はすごかった伝説②-急電

 

省線急行、略して急電。モハ52

それが省線急行」、略称「急電」と呼ばれた、東海道本線京都~神戸間の快速列車でした。

同じ省鉄(→国鉄→JR)でも、「急電」は大阪鉄道局が管轄するオリジナル電車で、『燕』とは並走しないものの、停車駅は大阪・三ノ宮と『燕』に同じ。が、私鉄との競合という大義名分で京都~神戸の所要時間は『燕』より10分速いものでした。

「見たか国民ども、これが日本一速い列車だ!」

と国が自慢していた高速列車より「早い列車」・・・理屈では理解不能ですが、おそらくスピード違反上等電車が関西には少なくても3つ存在していたわけで(笑

 

「急電」は、わかりやすく言うと今の新快速のご先祖様ですが、今のJR西日本も新快速が急電の子孫と認識しており、

 

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今の新快速の外側の帯や内装が茶色なのは、「急電」のトレードカラー色(茶色)を引き継ぎ、我は急電の直系の末裔なりという勲章なのです。

 

新快速の車内

新快速と上の「急電」の車両の色と比べると一目瞭然。「急電」を意識していることがわかります。

同じ車両なのに阪和線関空快速東海道山陽線の新快速で内装の色が違うのは、こういう歴史があるのです。

 

 

昭和45年の大阪万博を機に復活した「急電」改め新快速は、特急を横目に追い抜き新大阪駅でさえガン無視通過、関西では「新幹線の次に速い電車」と言われていました。実際、新幹線は別格とすれば当時日本で2番目にぶっ飛ばす列車でした。

今でも130km/hという、いろいろとヤバい速度で暴走していますが、新大阪駅を猛スピードで通過して特急『雷鳥(今の『サンダーバード』)を平然と抜いていった時をリアルに乗ったことがある私にとっては、それでもおとなしくなった方。130km/h出すより新大阪駅をフルスピードガン無視の方がよっぽど愉快痛快、大阪出たら京都まで止まるつもりはありまへん、それこそ新快速。高槻に止まる軟弱電車は快速に格下げや。

この反則設定、東京の国鉄本社では聞いてねえよだったらしく、

東京本社「新快速を新大阪に止めろ!新幹線との接続悪いし、お客さん乗り間違えてるじゃん」

大阪鉄道局「ライバルの私鉄がなかなか手強くうちとしても力を入れ…」

(翻訳:イヤだねw)

東京「特急を追い抜くなんてうちのメンツが潰れるからやめてくれ〜!特急を追い抜く快速なんて前代未聞だよ~!」

大阪「ライバルの私鉄がなかなか手強くうちとしても力を入れ…」

(翻訳:あ〜聞こえんなw)

(東京に)退かぬ媚びぬ顧みぬの大阪鉄道局の面目躍如。上のやりとりは少し茶化していますが、実際の会話に基づいています。

 

 

昔の神戸駅はすごかった伝説③-名士列車

東京から神戸への列車は、特急『燕』や『鷗』だけではありませんでした。

今でこそ特急なんてコンビニ化して掃いて捨てるほど走っていますが、戦前は一生に一度乗れるか乗れないかの、名前の通り「特別」な「急行」だったのです。当然、本数も少ない。

それを補完する形で、急行が全国を網羅していました。JRの急行(臨時列車を除く)は2016年をもってついに絶滅してしまったのですが、かつては日本中くまなく走っていた急行が今や跡形もないとは、まるで恐竜の絶滅を思わせます。といっても、昔の急行も大衆的だったといえばさにあらず。長距離旅行自体が一生に数度程度の大イベントの時代、おいそれと利用できる代物ではありませんでした。

 

さらに、戦前には車両に「1等」「2等」「3等」の階級がありました。

今の「普通車」と「B寝台」が3等にあたり、「グリーン車」「A寝台」が昔の2等です。1等はどこへ行ったかというと、1960年に廃止になってしばらくこの世から消えていたのですが、JR九州の超豪華列車「ななつ星」で、形式の「イ」と共に53年ぶりに復活しました。東北・北陸新幹線の「グランクラス」も事実上の1等車の復活ですが、JR東日本からの公式コメントはありません。

今の普通車とグリーン車は、列車にもよるものの質的にさほど変わらないと言えば変わらない。新幹線も「グランクラス」はさておき、グリーン車に乗りたいかと言えば、別に普通車でいいやと思います。全額おごりなら遠慮なくグリーン車にしますが(笑

 

しかし、戦前の1・2・3等は全く格が違いました。

3等は庶民用、2等はそれなりの金持ち、1等はVIP用とほぼ分けられており、1等2等車には「ボーイ」という召使サービスまでありました。

 

戦前の3等車

これが、昭和初期の典型的な3等車です。これで特急・急行用なので鈍行となるともっとひどいものとなります。

 

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旧2等車・・・といっても写真はJRの新快速ですが、2等車と新快速の座席は質的にほぼイコールと思ってもらって結構です。関西人的には、阪急京都線や京阪の特急車両の方が、シートのフカフカ具合を含めて2等車に近いと思います。

 

 

戦前の展望車の車内

1等車はこの通り。『燕』の写真の最後尾にある展望車がそれです。

 

昔の国鉄の運賃は非常に単純で、3等車を基準に2等車はその倍、1等車はその3倍。

特急『燕』の、昭和5年(1935)の東京~大阪間の料金は以下の通り。

3等車:6円06銭(特急料金:2円)=合計8円06銭

2等車:12円12銭(同:4円)=16円12銭

1等車:18円18銭(同:6円)=24円18銭

倍々ゲームみたいでチョーわかりやすいです。今もこんな風にシンプルにしたらいいのに。

ちなみに、同時期の物価で比べてみましょう。

米10kg:2.2円

東京の大工の日給:約1.7〜2円

朝日新聞購読料(月):1円

山手線初乗り料金:5銭

 当時は貧富の差も大きかった時代、特急に乗るということがどれだけ「特別」だったかが、料金でわかると思います。それに比べると今の特急は「特別」でも何でもない。そろそろ特急を超える「特特急」なんて出たりして。

急行はもう少し安いものの、それでも長距離旅行自体が今の海外旅行以上に大掛かりなものでした。当時家族で東京~四国を旅行した作家の宮脇俊三氏によると、遠距離の家族旅行は引っ越しほどのお祭り状態だったそうです。

 

この1・2・3等の区分けを踏まえて。

東京~神戸間の急行は、4種類の急行が走っていました。特急と違い、戦前の急行は「吾輩は急行である。名前はまだない」なので、以下列車番号で表示します。

13・14列車:3等車のみ

15・16列車:2,3等車

17・18列車:1,2等寝台車のみ

19・20列車:2,3等車

 

戦前の時刻表より神戸行き急行

(昭和9年当時の時刻表。矢印下の列車が神戸行き急行)

すべて夜行列車だったのですが、何故4本も走っていたかというと、もちろんそれだけの需要があったこともありました。が、需要だけなら全く同じ編成の列車を時間差ダイヤで数本走らせればいいだけ。

これには戦前なりの事情がありました。

当時は貧富の差も激しかったこともありましたが、社会には明確な「階級」が存在していました。社会を表す列車にも「階級」があり、その典型が東京~神戸間の列車に現れていました。

3等車のみの13・14列車は「一般大衆用」、15・16/19・20列車は「全階級」用、そして17・18列車が「セレブ列車」。1等車と2等車、それも割高の寝台車しか連結していないということは、要は「この列車、一般庶民及び貧乏人のご乗車お断り」と言っているも同然。

一般庶民と特権階級(ってちょっとオーバーですが)は席ならぬ列車を同じくせず。一般ピーポーは黙って3等車にでも乗ってろということです。

 

事実、17・18列車は当時の政財界の要人やエリートサラリーマン、高級軍人などの、経済的に裕福な名士だけが乗車でき、自然と「名士列車」と呼ばれていました。高すぎてとても乗れない一般ピーポーは指を加えて見てるだけ。

名士ばかりが乗車する列車なので自然と列車自体にもブランド価値が付き、知る人ぞ知る伝説の列車になりました。

 

東海道新幹線に「超デラックスのぞみ」という、全車両特注グリーン車の編成の列車があらわれ、車両の半分は東北・北陸新幹線を走っているグランクラスグリーン車

料金は、東京〜新大阪駅間ノーマルグリーン車でお一人様片道13万円。グランクラスだと26万円。

乗客「そんな高いもん、乗れるか!」

JR「なら乗るな。たった13万円ごときも出せない貧乏人は『ただののぞみ』の普通車にでも乗ってろ」

「名士列車」を現代に例えるとこんな感じです。

 

戦前の列車の階級を明確に表すものが、もう一つありました。

 

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で囲んだ記号は、「食堂車」です。
神戸行きの4本の急行にはすべて食堂車がついていましたが、「名士列車」だけナイフとフォーク、他は今では見ることがないお椀のマーク。
戦前は、食堂車には「和」と「洋」に分かれており、黄色の丸で囲んだお椀のマークは「和食堂車」、ナイフとフォークは「洋食堂車」でした。
文字通り和食を出すのと洋食を出す違いだけじゃないのと思いますが、ここにも明確な「階級」があったのです。

 

当時の日本人は洋食にはほとんど馴染みがありませんでした。カレーやオムライス、とんかつがようやく浸透しつつありという頃でもありますが、とんかつソースなどの洋食用ソースが普及したのは戦後です。
洋食の値段はまだまだ高く、お出かけの時にフンバツしちゃえ!というレベルの食事でした。
鉄道でも洋食堂車を連結していたのは、片手の指で数える程度しかありませんでした。
ちなみに和食堂車の方は、長距離の各駅停車にも連結されていた、ごくポピュラーなものでした。

 

戦前の洋食堂車の車内

(洋食堂車のイメージ)

さらに、洋食堂車で食べるにしてもメニューはフルコースでした。
特急『燕』の食堂車のメニューは、

昼食(ランチ)
A定食:1円
B定食:1円20銭
夕食(ディナー)
A定食:1円30銭
B定食:1円50銭
(※内容は残っていませんが、運行初日はスープ、伊勢海老のゼリーがけ、牛肉の松茸ソース、七面鳥の蒸し焼き野菜添え、デザート、コーヒーで1円30銭だったそう)

 

一品メニュー
ビーフステーキ:50銭
カレーライス:30銭
サラダ:35銭
ビール(大):45銭

 という記録が残っています。


これ、かなり高いです。大阪梅田の阪急百貨店名物だった、百貨店食堂のウエイトレスの日給(10時間労働)が80銭の時代です。時給じゃありません、日給です。
東京でかけそば、大阪でかけうどんが10銭で食べられた時代です。
1円は理論的に今の2500~3000円くらい、感覚的にはざっくりで約4000円と思ってけっこうです。
さらに、物価が安く貧富の差も激しい時代だったので、昭和初期の1円は今の5千円札と思うと感覚的にわかりやすいです。
ランチに「5千円」もかけられますか?カレーが¥1600ですよ?
食堂車も民間企業が運営しているので、ボランティアでやっているわけでもありません。お客が来てくれないと撤退です。
こんな値段設定でも客が食事をし、利益を上げ経営が成り立つほどの需要もあったということです。
洋食堂車が連結されている列車の客層が、これだけでも伺うことができます。つまり、洋食堂車も「一般庶民お断り」だったのです。

 

たかが列車にも社会が現れる。これを「鉄道社会学」と言います。私がとっさに作った造語なので、文字そのままが存在するかは知りませんが。 

 

この「名士列車」は戦争中も走り続け、戦争の激化でいったん廃止になりますが、1949年に東京~大阪間の急行として復活。後に『銀河』という名前がつきました。『銀河』は翌年に神戸まで延長されました。

急行『銀河』は数ある急行の中でも、長年別格のような地位を与えられていましたが、それは「名士列車」の血を受け継ぐ、人間で言えば「高貴なお家柄」だったから。

『銀河』は品位こそ落としたものの、2008年に廃止されるまで東京~大阪間を走り続けました。

 

昔の神戸駅はすごかった伝説④-特急「こだま」

戦争を挟んで戦後になっても、神戸駅の地位は変わりませんでした。

『燕』は戦争の激化で廃止になったものの、戦後に復活。しかし、運行は東京~大阪間であり戦前のように神戸発着になることはありませんでした。

その代わり、ある列車が神戸発着となりました。

 

東海道本線特急こだま

 

東海道本線を走る新しい看板列車の『こだま』です。

今でこそ『こだま』は新幹線の列車名ですが、元々は東海道本線を走るビジネス特急として鳴り物入りで現れた、昭和30年代の看板特急でした。それが東海道新幹線の開通で新幹線の名前にスライドされたという経緯です。

 

東京〜大阪間には、既に復活版『燕』や『はと』などの特急や急行が走っていたのですが、なぜ『こだま』が看板特急だったのか。

 

一つは、国鉄初の電車の特急だったから。それも500km以上走るものとなると世界的にもほとんど例がありません(世界初と書いている人もいます)。今でこそ特急が電車だなんて当たり前ですが、『こだま』が少なくても日本初でした。

そんなものを終戦から13年後に作ったということ自体、我々は我がごとなので意識しませんが、外国が日本にリスペクトを超えて「恐怖」さえ感じる理由の一つです。

一言で「親日」といっても理由は様々ですが、

「戦争で国土が廃墟になって原爆も2発も落とされた。広島・長崎なんか70年草が生えないとまで言われていた。それでも見事に復活して世界屈指の大国だ。スゲーわあんたら!」

アラブ人は特にこの理由でリスペクト。アラブをウロウロしていた時あいさつ代わりによく言われましたが、アラブの「親日」はこれに要約されています。

 

もう一つは、電車によってスピードアップし、東京~大阪間往復日帰りを実現させたこと。今でこそ新幹線『のぞみ』が2時間半で日帰りなど余裕ですが、昭和30年代では夢幻の如きなりの世界でした。それを現実にしてしまったわけで。登場した当初は関東~名古屋間ノンストップだったので、『こだま』は今の新幹線で言う『のぞみ』だったわけです。

 

その衝撃は、現代でも違うところで残っています。

 

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漫才師の大木こだま・ひびきのお二人ですが、この「こだま」「ひびき」はどこから来たのか。

「こだま」はもちろん上のこだま。「ひびき」は「こだま」が評判で大混雑したので、そのフォローとして同じ区間を走っていた臨時特急の名前が由来です。

 

 

昭和30年代。東海道線時刻表と特急こだま

『こだま』は2往復走っていたのですが、うち一往復は神戸発着でした。他にも神戸発着の特急や急行が走っており、時刻表を見ても、昭和30年代の列車のメインは「発着」が書かれた神戸の方であり、三ノ宮は「サブ」扱いであったことがわかります。

しかし、その横にある大阪発東京行きの普通や、大阪発青森行き普通という信じられない距離を走る各駅停車に時代を感じます。可能であれば、一度でいいからこういう鈍行に乗ってみたいですが、最後は旅情より我慢大会になりそうですね。

 

ALWAYS 続・三丁目の夕日』という映画がありましたが、映画内で小雪が列車に乗り込んでいたのがこの『こだま』でした。

 

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それも、夕方という設定なので夕方発の神戸行きの『第二こだま(今ならこだま3号)』というところも忠実に再現していました。彼女の後ろにある「サボ」(行き先表示板)もちゃんと神戸になっています。

映画にも出てくるほど『こだま』は当時の看板列車でしたが、東京~大阪間というイメージが強すぎため、のちに1往復が神戸まで延長されていたことは鉄オタの間でも案外知らない人が多いようです。

 

 

しかし、神戸駅の栄光もここまででした。

東海道新幹線開通後、神戸を発着とする列車は普通列車を除いてほとんどなくなり、徐々に「ただの途中駅」化していきました。

さらに海外への旅客輸送も飛行機がメインの時代になり、人の流れは海の港から空の港へ。今でも中国への定期旅客船神戸港から出ていますが、往年の賑わいに比べればかわいいもの。

一時は、北陸方面の特急『雷鳥』の1往復が神戸発になったものの、それも短命に終わりました。私が小学生の頃は神戸行き各駅停車が平日の昼間にあったのですが、それもいつの間にかなくなり今は神戸始発の電車はなかったはずです。

さらに、数少ない神戸駅を通る特急もみんな三ノ宮駅停車となり、『サンライズ出雲/瀬戸』と『スーパーはくと』は神戸駅を通過するという、お寒い限りの冷遇ぶりです(ただし『はまかぜ』は停車)。

 

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栄光の神戸駅の悲哀の歴史が、この1番線に刻まれています。

この1番線、その昔神戸を始発としていた特急の専用ホームで、神戸を始発としていた『燕』や『こだま』などの当時の看板特急が、ここのホームに入り東京への旅路を待ち構えていました。昔は、さぞかし多くの客で賑わっていたことでしょう。

 

・・・ここまで読んでいただいてありがとうございます。そしてお疲れ様でした。

ここでほぼ13,000字となります。これ以上続くと読む方も書く方も共倒れになるので、前編はここまで。

後編は、

神戸駅がここにあるもう一つの理由-神戸の繁華街興亡記」

このサブタイトルをベースに繰り広げられる神戸駅物語。

 

このサブタイトルを膨らませつつ、後編をお楽しみに!

後編は、台湾旅行の後になりそうです。

 

しかしまあ、神戸駅だけでここまで書けるとは思わなかった。サラッと書いて終わらせようとしたのに(笑 

 

 

■■最後までご覧いただきありがとうございます。そしてお疲れ様でしたm(_ _)m

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