昭和考古学とブログエッセイの旅へ

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

【後編】神戸駅-繁華街の賑わいのあと【昭和考古学】

 前編は、海運と陸運(鉄道)という観点から神戸駅を見てきました。

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

後編は神戸駅を取り巻く神戸の繁華街の歴史を取り上げてみようと思います。

 

神戸という街は、左を向けばすぐ山、右を向けばすぐ海という、世界でも珍しい地形の街であります。さらに天然の要港とくれば、世界でもそうそう見つかりません。

神戸の海側を見てみると、すぐそこにはハーバーランド・・・ではなく昔は貨物駅がありました。

 

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神戸駅の南口すぐ前に「湊川駅」という貨物駅がありました。現在ある神戸電鉄湊川駅とは全くの別ものです。

今の貨物駅は、乗客を扱う駅とは別の位置にあることが普通になっています。が、鉄道黎明期にはそんな区別もなく、旅客も貨物もすべて同じ構内で取り扱っていました。
時代が進みそれでは駅がパンパンになって業務に支障が出始め、旅客駅と貨物駅と分けることになりました。
神戸駅も昭和3年(1928)に旅客と貨物を分離、隣の敷地に出来た「貨物用神戸駅」が湊川駅でした。また、そのすぐ横に港があり船から下ろした貨物をすぐに貨物列車として運べるように、港と駅が直結していました。湊川駅の場合は、横に川崎重工業の工場がありました。そこへ線路が引かれ製品の貨物輸送のターミナルも担っていました。

湊川駅は貨物輸送がトラックに移り利用価値もなくなり、1985年に廃止になりますが、その跡に作られたのがハーバーランドです。ハーバーランドの敷地を見ると、湊川貨物駅がいかに大きかったか、わかると思います。

 

 

 反対の山側を見てみましょう。

神戸駅に実際に行って、ふと思ったことがあります。

 

神戸駅北口

 

昭和の重厚的な建物、つまりメインゲートは北口の方ですが、

 

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南口はまあ、普通っちゃふつう。

 

なぜこれだけの「差別」(?)があるかと考えてみると、南口はハーバーランドが出来る前は一面の貨物ヤード。それ以外には何もない。したがって南口を使う人なんていなかった。いや、そもそも南口なんて昔はなかったはずです。

 

それだけと言えばそれだけなのですが、じゃあ何故北口に駅舎ができたのか?

作りたかったから。。。まあ、そう言ってしまえばおしまいですが、それなりの理由があるはずです。

 

 

 

 

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神戸駅から真正面、徒歩5分ほど歩いたところに「新開地」という地区があります。

 

 

 

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近代になって発展した神戸の繁華街は、大きく分けて3つに分かれていました。

 

 

戦前の神戸三ノ宮駅前絵葉書

一つは三ノ宮。といっても大正時代までは今ほど発展はしておらず、駅前の大通り(フラワーロード)は生田川という川でした。それを付け替えてつつ、昭和初期頃に阪神や阪急などの私鉄のターミナルとしてポツポツと発展し出した新入りです。

今でこそ私鉄どうしが神戸市街に乗り入れていますが、何故阪急も阪神も三宮(阪神は翌年に元町まで延長)で電車をストップさせたのか。

戦前の神戸の私鉄のターミナル駅は、それぞれ以下の通りでした。

阪急:三宮

阪神:三宮(翌年に元町まで延長)

神戸電鉄湊川

山陽電鉄:兵庫

図で書くと以下の通りになります。

 

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神戸駅周辺の市街地ががら空き。逆の書き方をすると、各私鉄が市街地への乗り入れを拒否られている形になっているということ。

一見がら空きの市街地は、その昔神戸市電が走っていました。

「市街地の交通は市営交通に任せてもらう。他は入れさせません」

という方針だったのですが、これを俗に「市営モンロー主義と言います。この排他的な政策は神戸市に限ったことではありません。東京でも大阪でもやっていた政策です。

その中でもいちばん露骨かつ陰湿だったのが大阪市

「市営モンロー主義」というと、ああ大阪のあれねと交通史や鉄道史に詳しい人は真っ先に思い浮かぶほど有名で、Wikipediaの「市営モンロー主義」でも、大阪の事例しか取り上げていないほど。東京や名古屋、神戸もやってたんですけど、大阪市が強烈すぎて「なかったこと」扱い。

 

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戦前の大阪の私鉄ターミナル駅は、それぞれ上の地図のようになっています。

各ターミナル駅は、今でこそ繁華街です。今でこそね。しかし、出来た当時は家一軒ない郊外でした。南海の難波駅など、駅前すぐが「千日前」という江戸時代の処刑場、駅の隣が墓場でした。開業当時の地図を見たらビックリします、なんちゅーところに駅作ってんねんと(笑)梅田も、「埋田」と言われた湿地帯という誰一人住んでいない無人の地。

もちろん、国を含めた鉄道はみんな市街地まで開通を希望しました。JRの大阪駅も、元々今の地下鉄淀屋橋駅あたりに作るはずでした。しかし、大阪市がダメダメダメダメ絶対ダメ!と入れさせず。

これは昭和40年代、大阪府との力関係が逆転し、大阪万博で国にいい加減にしろ!と怒られるまで続きましたが、これ以上書くと話が派手に脱線するのでまた今度。

 

話を神戸に戻します。

神戸市が東からの私鉄の「侵略」の防波堤としたのが三宮だったのですが、三宮で止まってくれたおかげで大いに発展し、神戸駅を中心とした市中心部が衰退するきっかけになるのですが。歴史っていろんなブーメランを用意してくれるから面白いのです。

 

 

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二つ目の繁華街は元町。

元町は「神戸の元の市街地」という意味で、ここ周辺が開港前の「神戸村」だった元祖神戸。明治時代は元町より西は「兵庫」という別の町でした。

元町は旧居留地の中心地で、大丸や三越百貨店などの大型店がここに移り、神戸市の繁華街として賑わっていました。またおしゃれなファッション街としても、「銀ブラ」ならぬ「元ブラ」という言葉も生まれたほどでした。

元町は、今でもある中華街など、外国の商店が多く建つ国際的な街でもありました。今でも華僑はもちろん、「印僑」と呼ばれるインド人も多く店を構えています。神戸はよそ者に超寛容な街としても有名で、外国人にもとても住みやすい街として知られていますが、日本人だけでなく外国人も一緒になって作り上げてきた街だという歴史がその空気を作り上げているのだと。今の神戸のおしゃれなイメージは元町が作り上げたと言っても過言ではないでしょう。

  

 

神戸新開地戦前絵葉書

 

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そして三つ目が新開地。

新開地は明治38年(1905)、周辺を流れていた湊川を埋め立てた跡地に、自然発生的に生まれた娯楽街です。ウナギの寝床のように細長く伸びている新開地の商店街が、かつての湊川の跡です。

「新開地」はしく発された土」のこと。明治になって新しく開発された神戸の新天地でした。

ここは娯楽の街。劇場や映画館が立ち並ぶ一大歓楽街となり、「西の浅草」または「東の浅草 西の新開地」と呼ばれていました。昭和10年前後の神戸市発行の観光パンフレットにも、「神戸の中心地」という前置きで「愉楽地」「殷賑雑踏を極めた一大歓楽境」と表現しています。

 

 

 

 

歴史の脱線話:「神戸」と「兵庫」

ここで、少し話を脱線させます。
神戸は何の疑いもない「兵庫県」ですが、疑問に思いませんか。

「ところで兵庫県の兵庫ってどこ??」

この記事(前編・後編)を書く原点が、そもそもこれでした。

 

 

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兵庫とは、神戸開港以前から港町として栄えていた要所でした。
平安時代から天然の良港として栄え、平清盛日宋貿易で拠点にした「大輪田泊」(おおわだのとまり)がイコール兵庫でした。

 

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江戸時代後期にも、
「16の町があり1万6千人が住み街には活気がある」
「船が絶えず大坂へ向かっていく。こんなに船がひっきりなしに往来している港町は見たことがない」
1832年に兵庫を訪れたシーボルトが記しています。

上の地図はシーボルトが訪れた30年後、神戸開港6年前の1862年に作られた兵庫津の地図です。かなり大きな街だったことがわかります。

 

日本が開国した時、アメリカをはじめとする列強との条約には、
「兵庫を開放(開港)する」
という条文が入っていました。
しかし、孝明天皇が兵庫の開港に猛反対のため朝廷の許可が出ず、開港は宙ぶらりんとなっていました。
幕府のあやふやな対応に業を煮やした列強は、
「約束守れや!」
と艦隊を派遣、武力をちらつかせて開港を迫りました。これを「兵庫開港要求事件」と言います。
その後、兵庫の隣にあった「神戸村」に居留地と港を作ることになりました。それが1868年、今年が「開港150年」ということなのです。
しかし、何故既に港町として十分機能していたいた兵庫ではなく、全く何もないゼロだった神戸になったのか。
実はこれ、日本史の小さなミステリーで、よくわかっていません。「兵庫の住民が反対した」や「兵庫は国内用港、神戸は海外貿易用港と分ける思惑があった」など諸説あり、これだという確たる資料がないのです。
ただ一つわかっていることは、兵庫開港絶対だった欧米列強が妥協して神戸になったということ。なんらかの大人の事情があったのでしょう。

 

では、どこから「神戸」でどこから「兵庫」なのか。

 

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明治12年(1879)の地図があります。
神戸駅の西に、今は埋め立てられて「新開地」になっている湊川が流れています。
この湊川のすぐ西に、「兵庫津」の街があることがわかります。
湊川で東西に分かれ、西を「兵庫」、東を「神戸」ということができますが、今の南京町(チャイナタウン)が「居留地外の西の端」に作られたことは確かなので、そこあたりが「元祖神戸」の西の端と言っていいでしょう。

 

のちに神戸が発展し、明治19年(1886)には神戸と兵庫が接するようになります。じきに双方は「神戸市」として合体、明治も末になると境界線がわからなくなっています。

 

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しかし、大正7年(1918)の地図では「神戸港」「兵庫港」とくっきり分かれています。
兵庫港は今では神戸港に吸収合併され、名称は消滅しています。が、大正時代にはまだ厳密な区別があったということが、地図から読み取ることができます。

 

これでわかったことは、「神戸」と「兵庫」の境界線であった湊川が埋め立てられできたのが、新開地だったということです。

 

 

話を新開地に戻します。

 

新開地の歴史

 

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神戸の興行施設(劇場などの娯楽場)は元々湊川神社周辺、神戸駅前周辺にありました。それが新開地の開発で施設が移っていきました。
新開地の公式サイトでは「自然発生的に集まった」としていますが、神社付近の「相生座」という大きな小屋の移転を皮切りに、次々と小屋が移転していっています。

 

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『新開地空間形成と歓楽街成立の契機』という論文から抜粋した、興行施設の変遷です。
が当時の劇場や見せ物小屋などの施設の位置です。
時代が進むと共に、娯楽施設が新開地に集約されていく様子がわかります。

この変遷を「自然発生的」と片付けるのは簡単ですが、新開地は市民の憩いの場としての公園湊川公園と、大工場川崎重工業を結ぶメインロードとして計画的に作られたもの。おそらく行政の指導が少なからずあったのではないかと思います。

 

明治末から大正前期には、既に神戸市の歓楽街としての地位を固めていた新開地。

その新開地を我が庭の如く闊歩していた、一人の少年がいました。

 

淀川長治

のちに映画評論家となる淀川長治です。

若い人は、誰やねんこのおっさん!?と思うかもしれませんが、昭和50年代以前の方なら顔だけで誰かわかるほどの有名人。誰かわからなくても、

「さよなら、さよなら、さよなら」

という名調子で映画の解説をするおじさんとして、話には聞いたことがあると思います。

この人は神戸生まれで、新開地で当時は「活動写真」と言われていた映画三昧、映画を栄養にして育った新開地の申し子ですが、彼はのちにここを「神戸文化の泉」と表現していました。大正モダンの中で育った淀川少年には、昔の新開地の活気は「文化の噴水」に映ったのでしょう。

 

新開地を支える三本の柱

当時の新開地には、「3つの色の流れ」があったと言われていました。

その流れとは、隣にあった遊郭で働く女性たちの「赤き流」、新開地の通りの終点にあった川崎重工業の職工(従業員)たちの「青き流」、最後の「黒き流」は不良少年や香具師などの怪しい連中。

・映画など目当ての一つ目の柱(映画・娯楽マニア、観光客)

・女目当ての二つ目の柱(福原遊郭への客)

・酒目当ての三つ目の柱(川崎重工業の職工)

の3本の柱が新開地の経済を支えていたのでしょう。

そしてこの3本の柱が崩れた時、新開地はバランスを失い、後年迷走することとなります。

 

 

 聚楽

新開地最盛期と言える昭和10年前後には、映画館だけで9軒。他にも劇場や寄席、スケート場や遊園地、遊技場付き温泉(今のスーパー銭湯のようなものか)まであった一大歓楽街でした。

 

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昭和9年(1934)~昭和15年(1940)の間の、夜の新開地の貴重な写真です。
説明がないと、50年前の三ノ宮と錯覚してしまうような風景です。
神戸の不夜城のように、煌々とネオンが輝いていた様子が伺えます。

 

神戸新開地聚楽館


その中の代表と言えるのが、聚楽館」という演劇ステーションでした。
東京の帝国劇場(帝劇)を模して大正2年(1913)に建てられた聚楽館は、最盛期には「西の帝劇」と言われていました。
昭和初期には常設の映画館を開設、昭和9年(1934)にはスケートリンクも開設され、神戸最大の娯楽ターミナルとなりました。
写真の建物は、スケートリンクが出来た時に改装された時のものです。
この建物、豊臣秀吉が京で作った「聚楽第」にちなんで名付けられたので、正式名称は「じゅらくかん」です。
しかし、神戸市民は「しゅうらくかん」と呼んでおり、次第に「しゅうらくかん」が正式名称をしのぐ知名度となりました。


聚楽館は戦争の空襲にも焼け残ったのですが、それがこの建物の運命を狂わせることとなりました。
聚楽館は戦後に米軍に接収されダンスホールとなりました。昭和30年前後に返還されるのですが、それからすぐに大衆娯楽の変化による映画などの衰退の波をまともに受けてしまいます。
新開地が歓楽街として衰退すると共に聚楽館も衰退し、昭和53年(1978)に閉鎖・解体となりました。跡地には現在、ボーリング場が建っています。
新開地の発展と共に生まれ、衰退と共に役割を終えた聚楽館。
良くも悪くも新開地を象徴する建物として、神戸史の1ページに名を残しています。
不思議なことですが、Google日本語入力で「しゅうらくかん」と入力すると、「聚楽館」が一発で出てきます。
本体は30年以上前になくなっているものの、Google入力に残っているほど神戸の歴史として記憶に残っているのでしょうか。

 

 

湊川公園

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新開地の北に、湊川公園という広い公園があります。
ふつうの公園に見えるのですが、この公園、天井川を埋め立てた跡に作られたため、「地面」より高い位置に作られた「空中公園」「天井公園」という形になっています。
実際に見てみると、位置が非常に「おかしい」のです。作られた経緯がわからないと、神戸の七不思議のような奇妙なを感じます。

その公園の地下に、もっと「奇妙」なものが作られました。
昭和3年(1928)に開通した、当時は神戸有馬電気鉄道という名前であった神戸電鉄湊川駅です。
今の湊川駅は、戦後に路線が新開地まで延長されたと同時に地下化され、ホームは地下にあります。
しかし、開通当初の湊川駅は公園の真下にありました。

 

神戸電鉄湊川駅

今の湊川駅はこうなっていますが、地表というか地下というか、なんとも言えない絶妙な高さにホームがあったのです。
駅舎自体は開業当初の面影を残しており、少し古ぼけた駅舎に昔のターミナル駅の威厳を少しながら残しています。

駅の中に入ると、店舗が入っている空間があらわれますが、ここがかつての駅のホームでした。
湊川駅も昭和に作られた立派な昭和考古学ネタですが、詳しく書くとまた脱線しそうなので今回は詳しく書きません。

 

神戸タワー


湊川公園には、「神戸タワー」と呼ばれた塔が建っていました。

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大正時代に建てられた展望塔で、「湊川タワー」「新開地タワー」とも呼ばれていたそうです。ちなみに今の神戸タワーとは全く関係ありません。
高さは100mと当時東洋一の高さで、大阪の初代通天閣が75mだったのと比べると、かなり高かったことがわかります。

鉄筋をふんだんに使いデザインにも凝った通天閣に比べると、神戸タワーはのっぺりとしていて、お世辞にも印象深いとは言い難い。

しかし時代が進み、神戸タワーに「派手さ」が加わります。
塔にネオン広告が加わり、広告塔としての役目も担うことになったのです。

 

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正確な年代は不明ですが、ネオン広告が始まった昭和初期には「ハープ洗濯石鹸・ベルベット石鹸」でした。

 

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昭和9年(1934)には阪神電車の広告となりました。
このネオンサイン、設置料(工事費)が2万円、ネオンに使う電気代が¥1200/月。前編の東京~大阪間の一等車の値段が小銭に見えます。
どれだけ電気代かかってんねんとツッコミを入れたいですが、それだけ阪神は気合が入っていたということがネオンサイン一つにもあらわれています。

 

阪神は、大阪の通天閣にもネオン広告を出しています。

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時代は不明ですが、初代通天閣阪神のネオンサインです。

神戸タワーの夜景の写真は残っていないですが、だいたいのイメージとしてこんな感じだったのでしょうね。

 

では、何故阪神が莫大な広告費をかけてまで宣伝しようとしたのか。湊川って阪神と関係ないんじゃないか!?
そこには、阪神の偉大なる野望が秘められていたのです。

阪神電車は、最初は三宮までの開業でしたが、すぐに元町まで延伸されました。
しかし、元町もあくまで「途中駅」。阪神の本当の目的は新開地・湊川延伸でした。
今の山陽電鉄も、郊外にあったターミナル駅から湊川まで路線を伸ばし、阪神・山陽・神戸電鉄の3社で乗り入れる計画でした。
阪神湊川までの延伸の許可までもらっていたのですが、資金面で頓挫してしまい計画は夢と終わります。広告費の1200円を節約すればよかったのに。

しかし戦後になりこの計画が再浮上。昭和43年(1968)に神戸高速鉄道という形で実現しました。
合流地点が湊川から新開地に変更になり、阪急も加わったくらいで、それ以外は戦前にあった青写真だったわけですね。

 

 

 

 

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神戸タワーは老朽化と新開地の衰退、昭和38年(1968)に今の神戸タワーが建てられたことにより昭和43年(1968)に撤去されました。上の写真は、解体工事が始まるまさにその時を写した、貴重なもの。

跡地には小さな時計塔が建っています。

 

湊川にあった水族館

湊川公園にはもう一つ、短命のため歴史にほとんど残されていない施設がありました。
神戸は「日本の水族館発祥の地」と言われています。
明治28年(1895)に、今の和田岬に「和田岬水族放養場」なるものが開設されました。
これが日本初の水族館と言われているのですが、当時としてはなかなか充実していたようで、小泉八雲ラフカディオ・ハーンも訪れ文章に残しています。
それが閉館ししばらく神戸に水族館はなかったのですが、昭和5年(1930)に神戸開港博覧会が開催された際、神戸水産会という団体により湊川公園に水族館がオープンします。

 

湊川水族館

湊川水族館」と名称でオープンしたのですが、昭和18年(1943)に閉館という記録だけが残っています。戦争の激化で水族館どころではなくなったのでしょう。
13年の短命だった上に建物も空襲で焼けてしまい人々の記憶に残っていないのか、Wikipedia先生にも全く記述がありません。
湊川水族館」は戦争が終わっても復活することはなかったのですが、代わりに須磨に市営の水族館がオープンし、現在に至っています。

 

福原遊郭

 

新開地にはもう一つの顔がありました。

 

戦前新開地福原遊廓絵葉書

 

福原遊廓です。

今でも「福原町」として現役の風俗街ですが、新開地はそういう意味では「総合娯楽街」だと言えますね。 

 

この福原遊郭も、神戸開港と共に歩んできた神戸史の生き字引です。
神戸開港が1867年なら福原遊郭が出来たのは1868年、ほんの1年の差しかありません。

遊郭ということで何かと黒歴史扱いされ、注目されることは少ないですが、こうして歴史のスポットライトを浴びせると、非常に古い沿革を誇ったりしているのです。

この福原遊郭、元々は今の神戸駅周辺、今のハーバーランドに作られました。
外国人居留地に近いところに作ることによって、新しいビジネスチャンスを見込んだ故の位置だったのですが、のちに鉄道駅、つまり神戸駅湊川貨物駅が作られ強制的に移転させられました。
その移転場所が今の福原町で、この場所だけでも約150年の歴史を歩んでいます。

 

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明治19年の地図でも、今の場所に遊郭が開設されていたことが確認できます。

 

福原遊郭は、東京の新吉原、京都の島原遊郭と並び、「日本の三ハラ」と呼ばれるほどの全国的に有名な遊郭となりました。
大阪にあった、規模は日本一の「ハイパー遊郭」こと松島、遊郭の中では最も遅咲きながら斬新な経営で一気に全国トップ3にのし上がった飛田遊郭には叶わなかったものの、昭和初期には95軒の妓楼に約1300人の娼妓がおり、神戸一の遊郭として栄えました。

 

 

新開地は娯楽の中心地だけではなく、行政の中心地でもありました。
今は三ノ宮にある神戸市役所が新開地に建てられ、新聞社や映画会社などの企業の神戸支店も、新開地に数多く集まるオフィス街となりました。
今の三ノ宮の賑わいが、かつては新開地にあったということでしょう。
歓楽街でもあり、行政センターでもあり、ビジネス街でもあった新開地。これで人が集まらないという方がおかしい。

神戸駅開業は新開地が繁華街となる前なので、神戸駅が新開地に合わせた立地条件で設置されたわけではありません。
しかし、結果論的に神戸駅は神戸の歓楽街新開地への最寄り駅となり、絶妙な立地条件に位置することとなりました。
現駅舎も新開地への入り口として立派なものが作られたのかもしれません。

 


しかし、神戸市の繁華街ということが災いしたか、太平洋戦争の空襲の被害を受けてしまいます。

 

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神戸市がHPで公表している戦災地図ですが、神戸駅から新開地にかけては昭和20年(1945)3月17日の空襲で完膚なきまでに焼き尽くされている模様です。
以前に記事にした『火垂るの墓』の空襲は6月のものであり、同じ「神戸空襲」でも新開地のものとは関係ありません。

神戸市が公開している空襲の写真ですが、焼けた当時の官庁街だそうです。
写真左側に裁判所などがあったそうですが、焼き尽くされて全く残っていません。
矢印の森が湊川神社なので、

 

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おそらくこのアングルから撮ったものだと思います。

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こちらも空襲直後の新開地ですが、瓦礫の山となり戦争前の歓楽街の面影はほとんどありません。焼失というより「消失」ですね。焼け残った神戸タワーがポツンと残り、むなしささえ感じます。

 

 

跡形もなく焼けてしまった新開地ですが、神戸市の資料によると、昭和28年には興行施設も戦前に匹敵する数が新開地に開業し、いったんは歓楽街として復活を遂げたことがわかります。

しかし、同じ繁華街だった三ノ宮や元町が復興したのに比べ、新開地は急速に衰退していきました。
それは何故か。

 

新開地が衰退した理由

三ノ宮や元町と違い、新開地が繁華街としての復活に失敗しコケてしまった理由は、いくつかの理由が考えられます。
私が資料や本を見て考察した推定ではありますが、以下の理由かなと。

 

1.市役所などの行政機構の三ノ宮への移転

 

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戦前の神戸市役所は新開地にあったことは上述しましたが、市役所は新開地の横、神戸駅から徒歩数分の距離にありました。
上の地図は大正8年(1918)発行、ちょうど子どもだった淀川長治氏が新開地で映画三昧だった頃のものです。

神戸駅周辺の役所街とそこに隣接した新開地は、運命共同体のように戦前の周辺の繁栄を支えていたビッグ2でした。
しかし、戦争が終わった昭和32年(1957)に市役所は三ノ宮へ移転。これは新開地が神戸市に「見限られた」という印象を与えることとなり、衰退を印象づけることに。
三ノ宮自身、戦前から鉄道のターミナル駅としてそこそこ栄えつつあったのですが、
この市役所の移転で人の流れがどっと三ノ宮へ移り、現在の繁華街への基礎となりました。

 

2.娯楽(特に映画産業)の衰退と分散化


新開地は娯楽と共に生まれ、娯楽と共に発展した歓楽街です。
戦後もそれをテコに復活しつつあったのですが、おそらく娯楽の多様化で映画産業が衰退。
さらに戦前は新開地に集約されていた娯楽場所が、戦後は三ノ宮などに移ってしまい、わざわざ新開地まで行く用事がなくなることに。

 

3.三ノ宮と元町のヒュージョン化


どういうこっちゃねん!?と思うでしょうが、今の三ノ宮から元町を歩けばわかります。
今や三ノ宮と元町は繁華街としてすでに一体化。ドラゴンボールで言えば、トランクスと悟天がヒュージョンして「ゴテンクス」になったようなもの。
私も先日歩いてみましたが、「三ノ宮」を歩いているつもりがいつの間にか元町に着いており、境界線が全くわかりませんでした。
戦前はお互いのエリアが狭かったこともあり、三ノ宮は三ノ宮、元町は元町と明確な境界線がありました。
戦後はおそらく三ノ宮が急速に拡大したのでしょう、繁華街が広がり元町と一体化。
それによって客足も「一粒で2つおいしい」方に向かうのも、客が来る方に店が集まるのも必然。
私の勝手な推定ですが、急速に膨張する三ノ宮に対し元町も生き残りを図りお互いWin-Winの関係に。一人取り残された新開地は衰退してしまった・・・と。

 

4.神戸高速鉄道の開通


神戸高速鉄道の開通で私鉄各社の乗り入れ・乗り換えが非常に便利になった反面、
観光は須磨など、買い物は三ノ宮・元町と、新開地は「ただの途中駅・乗り換え駅」としてスルーされる「新開地パッシング」が起こってしまったと言います。新開地駅が出来たのは元々新開地へ人の流れを再び作ろうという思惑もあったはずですが、それが裏目になることに。

 

4.工場の移転や縮小


戦前の新開地は、川崎重工業の従業員たちも重要な消費者であり、新開地を支える重要な柱でした。しかし、彼らが昭和50年あたりから規模縮小や設備の移転などで激減し、新開地の衰退にとどめを刺される形となりました。

 

新開地暗黒の時代


そこからの新開地は、「怖い、きたない、暗い」の「3Kエリア」として忌み嫌われ、
「神戸の西成」というありがたくない名前までいただく羽目に。
水族館や遊園地もあった湊川公園も昼間から酒を飲む浮浪者で溢れ、夜は治安が悪化し迂闊に近寄れないほどだったそうです。
新開地の黒歴史の時代です。

一昔前の神戸駅の妙な「寂れた感」と「ただの中間駅化」も、新開地の急速な衰退が一因だったのかもしれません。

 

ディープ新開地

 

神戸新開地の裏道

今の新開地はイメージアップを図ってかなり小綺麗にはなっています。しかし、重箱の隅を突くというのもなんですが、街の端々にブラック新開地時代の残骸が残っています。 

 

そんな新開地黒歴史時代の一コマが、あるゲームに表現されています。

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今でも語り継がれる名作、ポートピア連続殺人事件に、こんな一コマがあります。
「シンゲキシルバー」とは実在したストリップ劇場だった『新劇ゴールド』のこと。
このシーンも、かつての映画館がストリップ劇場となり、生き残った映画館も成人映画専用となった新開地衰退の一コマだったのです。
新開地の「成人化」も生き残りのためとは言え、人の足を遠ざける逆効果となっていきました。

 

新開地の復活への道

時は平成に入り、ここまま衰退するばかりでは見てられないと地元住民が立ち上がります。
どうにか昔の栄華を取り戻せないか、住民たちは知恵を絞ります。
神戸市からの援護射撃も受けようやく「新開地の新装開店」に抜けて出港しようとした時、あの阪神・淡路大震災が起こります。
新開地は地震により戦争の空襲並の被害を受け、街はほぼ壊滅状態に。

しかし、災い転じて福となす。これをチャンスとして復旧ではなく、「NEW新開地」とう復興を目指して一から作り直すこととなったのです。
震災からの復興には時間がかかりましたが、10年後には「B面の神戸」としての新開地をアピールすることが出来るほどになりました。
三ノ宮や元町が「A面」なら、新開地は「B面」。これはレコード世代でないと説明しづらいですね。レコードのA面B面の時代が終わったら、次は「CD」になった・・・というのは落語家の小咄です。
「B面の神戸」をわかりやすく言えば、おしゃれなお店が立ち並ぶ三ノ宮・元町が「表神戸」なら、下町臭くソフトなDEEPさも兼ね備える新開地は「裏神戸」ということです。


このイメージ戦略は、個人的には当たったかなと感じます。
実際に新開地・湊川周辺を歩くとわかるのですが、おしゃれな三ノ宮などに対して新開地は庶民的なお店が立ち並び、昔はどこにでもあった下町人情の町そのもの。
大阪西成と違った怖くない程度のDEEPさもある。神戸にもこういう庶民的なエリアがあったのかと、良い意味でハードルが低い町というのが感想でした。
「神戸はこんなところもあったのか!」
と部外者が目からウロコになるには十分なインパクトです。

 

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しかし、敢えて神戸駅と新開地の発展のために問題提起させてもらうと、神戸駅前が非常に汚い。

喫煙者のポイ捨てがあまりにひどく、駅前の景観を相当損ねています。私も数ヶ月前まで喫煙者だったので、あまり人のことは言えません。が、通りすがりとして客観的に見て、これはひどいと呆れてしまったほどです。
三宮駅周辺が禁煙エリアになったのだから、神戸駅周辺も禁煙に・・・とは言いませんが、喫煙所を設けて集約するとゴミも減ることでしょう。
神戸駅、そして新開地の本当の復活は、こういう足元から始めてゆくとイメージアップにつながり、良い循環となっていくかもしれません。

そういう意味では、神戸駅の将来はまだ白紙の部分が残っている分明るいのかもしれません。

 

P.S:台湾のことはちょっと待ってね・・・(汗)

 

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九州大学論文ー『近代に形成された都市における歓楽街形成』

第一章 神戸・新開地空間形成と歓楽街成立の契機

第二章 神戸・新開地の歓楽街空間の実態と変容

 

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