昭和考古学とブログエッセイの旅へ

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

大阪市立大学と杉本町駅 後編ー駅から伸びていた謎の線路とキャンプ・サカイ

前編は、ざっくりと大阪市立大学の歴史と現在の姿を書きました。

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

今回の後編は、最寄り駅のJR阪和線杉本町駅を絡めた謎解きの本題に入ります。

で、こう書くと「また阪和線か!」という声がPCの奥から聞こえてきそうですが、 恐るべし阪和線、実はまだネタがあるのです。こうなればこのブログは阪和線と心中でもしようかしらん。

 

杉本町駅から伸びる謎の線路

まずは、ある航空写真を見てみましょう。

 

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昭和23年(1948)、まだ大阪市立大学(以下「市大」)が大阪商科大学だった頃の航空写真です。
70年前の写真なので、大学の周囲にほとんど何もない以外は、大学の輪郭を含めて今と変わっていません。

しかし、どこかしらおかしいところもあります。

 

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杉本町駅の横に、線路が見えているのがわかるでしょうか。
ある人はこう思うでしょう。
「これって、阪和貨物線じゃないの?」
つい最近まで、杉本町駅からは「阪和貨物線」という貨物専用の路線が分岐していました。

平成29年の阪和貨物線杉本町駅

2017年阪和貨物線跡杉本町駅

私が小さい頃は、ここから貨物列車が毎日走っていました。昭和50年代後半だったと思いますが、大和川を隔てた浅香という駅に何故か1日1本の貨物列車の通過時間が書いていて、駅近くにあった祖母の家に行った時は、その貨物列車を見に行っていました。うろ覚えですが、午後4時前後だった記憶があります。

今はその阪和貨物線も廃止され、レールも剥がされて写真のような長細い荒れ地と化していますが、これではないかと。
確かに路線的には似ています。しかし、阪和貨物線が出来たのは昭和27年。これはその5年前の航空写真です。
これの最大の謎は、線路を辿っていくと大学の構内に伸びていること。これは一体何なのか。

本日の謎は、この一本の線路から始まります。

 

 

市大が市大ではなかった時代

前編で大阪商大~市大の歴史をサラッと書きましたが、ある年代がすっぽり抜けています。それが、昭和20年代。昭和20年代の大阪市大の10年間は、玉音放送の通り「耐え難きを耐え、忍びがたきを忍」ぶ苦難の時代でした。

 

杉本町の大阪商科大学は戦争中、キャンパスの一部を海軍に接収されてしまいます。最初は一部施設だけだったものの、そのまま終戦を迎えます。

「接収」というと権力で無理矢理分捕ったというにおいがしますが、半分は当たりで半分はハズレ。確かに軍が国家権力をちらつかせたという面はありますが、海軍は大阪市とちゃんと「賃貸契約」を結んでおり、契約書も残っています。

 

少し話がズレますが、「陸軍悪玉説 海軍善玉説」という、昭和史を語る時に必ずぶち当たる言葉があります。これを超カンタンに説明すると、

「先の戦争は陸軍の暴走が悪いのであって、海軍は陸軍に引きずられていただけ」

というもの。

結論から言えばバカ言いなさんななのですが、民間伝説的には海軍善玉説は根拠があります。それは、海軍は金払いがスッキリしていたから。

この「接収」も実際は賃貸契約だと書きましたが、賃貸料は律儀に支払われていて、海軍が消滅した昭和21年に全額振込み終了となっています。ふつうなら、もう海軍はないから未払い分は泣き寝入りのはずが、バカ正直に払われていたのでした。

帝國海軍は大正時代、戦艦『金剛』発注をめぐるシーメンス事件という汚職事件を起こしたダークな過去がありました。日本海海戦で国民的ヒーローになった帝国海軍の信頼は、地の底にまで落ちました。大衆に袋たたきにされた海軍は、そこからお金や「プレゼント」には極端までに神経質になりました。

どれほど厳しいかというと、業者からのカレンダーや手帳ですら「賄賂」とみなされ、下心ゼロでも海軍省に納入しようものならイエローカード。二度目はレッドカードで即日出入り禁止なほど。当然、お歳暮お中元なんてとんでもない次元でした。
それが海軍士官たちの間では習慣となり、戦後海軍そのものが消滅しても、元海軍士官を訪ねる時は必ず手ぶらというのがルールでした。
出版社の編集者が海軍軍人を訪ねる時も、絶対に何も持って行くな、必ず手ぶらで行け、そして集合は5分前だぞと上司に念を押されるほどでした。これについては、司馬遼太郎も『坂の上の雲』執筆で元海軍さんの知識を借りる際に経験し、エッセイで絶賛していた記憶があります。司馬は曲りなりにも陸軍を経験しているので、余計にギャップを感じたのでしょう。
逆に海軍経験者が民間企業に転職すると、年賀状一つよこさない部下に上司が、
「なんだ、元海軍は礼儀がまったくなってない」
とプンプンということもありました。

よってお金も満額払わないと気が済まない性格で、むしろその後に来る連合軍のやり方のほうが、よっぽどヤクザそのものでした。

 

幸い校舎は、空襲の標的にならずほぼ無傷のまま残りました。市内を転々としていた学生たちも、これで大手を振って杉本町に戻れるはずでした。

しかし、無傷だったからこその悲劇が待ち受けていました。

大阪に進駐したアメリカ第6軍第1軍団第98師団は、終戦後すぐに大阪の無傷の建物をリストアップさせ、問答無用で接収を開始しました。

アメリカ進駐軍は紳士的だったとかいう話が「常識」として伝わっていますが、大阪親中の第6軍はなかなかの暴君ぶりだったようで、こんな通達も出しています。

1.進駐軍の車がサイレンかクラクションを鳴らしたら、どんな車も道の脇に寄ってね

2.進駐軍の指示には絶対服従

3.言うこと聞かないヤツは射殺するね

 

他の都市はどうか知りませんが、大阪ではこの三箇条が今でも伝わっています。

大阪商大のキャンパスも、軍が使った→軍用地につき没収→うちが使わせていただくと、終戦間もない昭和20年(1945)10月から駐屯地として接収されてしまいます。

その上、与えられた立ち退き準備期間はわずが1週間(2日だったという説もあり)。そんなもん出来るか!と言えば焼き払われそうな雰囲気に、そんなことは言えず黙々と立ち退きに従いました。

 

接収された商大キャンパスは、「CAMP SAKAI(キャンプ・サカイ)」と呼ばれていました。

しかし、この名前にすごく違和感があります。大和川の向こう側出身から言わせてもらうと、川の向こうの杉本町(大阪市内)にあるのに「サカイ」とは・・・そこ堺とちゃうやろという違和感を覚えます。原宿は渋谷区である。よって原宿を渋谷と呼んでも間違いではない、と言われてもなんだかそれちゃうやんか・・・と感じるようなものです。

大和川を隔てた堺市側にも、米軍の駐屯地がありました。

 

キャンプサカイとキャンプカナオカ

 

私は最初、「キャンプ・サカイ」は堺の方かと思っていましたが、こちらは「キャンプ・カナオカ」という名前で「サカイ」ではない。地元民としては、アメリカさんよ、なんだかネーミング間違ってね?という違和感だけが残ります。

 

アメリカ軍に大学まるごと接収されてしまった商大は、どうなったのか。

家を追い出されてしまった大学は、市内各地の学校を間借りする居候生活を余儀なくされます。実は大阪商大から新制大阪市立大学に移行する時も、杉本町ではなく、「亡命中」に、「亡命先」校舎で引き継ぎが行われました。

その時、現在の理学部・工学部・生活科学部・医学部の母体の学校を合併し、法文・経済・商・理工・家政学部で新制市立大学がスタートします。

 

理学部・工学部:

明治40年(1907)創立の市立工業学校(のち市立都島高等工業学校)


生活科学部:

大正10年(1921)創立の市立西華女学校(市立女子専門学校)


あれ?医学部は?と思う人もいますが、昭和19年創立の医学専門学校をベースとした医学部は、大阪市大設立当時は「大阪市医科大学」という別の大学でした。市立大学医学部になるのは、昭和30年のことです。

 

これで現在の市大への土台が作られ、戦前からの念願だった総合大学へ・・・と聞こえは良いものの、如何せん実家が進駐軍ボッシュートされている状態。
仕方ないので各学部とも元の学校の校舎で開講となる、いわゆる「タコ足大学」となりました。

法文・経済・商学部と大学事務局:

心斎橋の旧道仁小学校→旧靭(うつぼ)商業学校


旧商大・予科・高商科と図書館:

西区の旧靭(うつぼ)商業学校(新制市立大学後は廃止)


理工学部野国民学校(現北税務署)


家政学部:西長堀の旧西華女学校(現西区民センター)


医学部:扇町

 

字で書くとピンとこないので、地図に落とし込んでみました。

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こうして見ると、いかにバラバラになっていたかがわかります。
これがどれだけ不便かというと・・・。
理工学部の人が何かの理由で大学のハンコをもらわないといけない時、わざわざ心斎橋か靭公園近くまで行かないといけない。
図書館で本を借りようと思えば、わざわざ靭公園まで行く必要がある。
電車代だけでもバカになりませんが、その図書館もこんな状態に。

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今のように、FAXでピピピと、メールでPDFをホイと送れる時代ならどうということはないですが、この時代なら学生の苦労も甚だしいものに。
もう無茶苦茶でござりますがな(by花菱アチャコ

 

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その「亡命先」の一つ、市内中心部の「靱(うつぼ)」校舎の一部ですが、敷地に民家が食い込んでいる状態で運動もロクにできませんでした。
無理矢理やろうとしても、ボールがしょっちゅう民家や学長室のガラスを突き破り、お茶を飲んでいた学長の頭に当たるという、二流ギャグ漫画のような展開が何度もあったそうです。
文系各部はまだよかったものの、理系学部の実習は小学生でも50人がやっとの教室に、大学生100人以上が詰め込まれる、人口密度どんなけやねんという状態でした。

当時の様子を、『大阪市立大学百年史 全学編』にはこう書かれています。

「教室も学童の1クラス50名程度の広さのものばかりで、受講者の数に対応できる体勢がなく、大学の教育施設としては大きな欠陥を持っていた。
スポーツ・更正施設も皆無に等しく、体育の授業は家政学部の運動場を利用するため、各所から出なければいけない始末であった。


他大学が新制大学としてスタートしてから着々と整備されていくのに、大阪市立大学はその本拠を奪われ、借り物の小学校では
恒久的な施設の建設は全く不可能であった。
このため、せっかく全国から集められた優秀な研究者たちも、研究は古巣の阪大や京大なりで行って講義にだけ(市大に)出かけてくる人も多く、
理工学部などではあまりの悪条件のために流出していったケースも少なくなかった」

学生以前に先生が、
「こんな大学で仕事なんてイヤだ~!」
と逃げ出してしまうほどの劣悪な環境だったのです。

戦後すぐのこの時代が、大阪市立大学最大の苦難の時代でした。「住所不定時代」と言ってもいいでしょう。


当然、ボッシュート中の杉本町キャンパスを返せと、返還運動が起こるのは自然の流れ。教員や学生が市と掛け合い、文部省を通してGHQと交渉しますが、答えはノーでした。
それでも昭和27年(1952)に、今の1号館がある敷地の、1号館・図書館・研究棟だけが返還されます。しかし、大学が全面返還されるまでにはさらに数年かかり、全面返還されるのは追い出されてから10年後の昭和30年のことでした

それまでは、大学と基地が同じ敷地内にあるという珍現象が起こっていました。米軍の基地の中に大学があったと言った方が正しい描写かもしれません。米兵と学生の距離が近すぎてトラブルも続発し、女子学生が護身用と、貞操を奪われた時の自決用にナイフをバッグに忍ばせていたというエピソードもあります。


その市大の流浪時代に大学を卒業したOBは、「大阪商大」「大阪市立大学」卒なのに杉本町キャンパスと全く縁がありませんでした。杉本町キャンパスを見ても自分の大学だという愛着がなく、同窓会に出席しても杉本町経験者と何か壁がある「ロスト市大世代」だと述べています。

 

 キャンプ・サカイ

 

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接収時代の市大、「キャンプ・サカイ」の航空写真です。こちらは接収されて間もない、商大時代のものです。

キャンプ・サカイには、写真左側に見える今の生活科学部と理学部、工学部がある所に兵士用の宿舎があり、その他は訓練場やトラックの駐車場などに使われていました。

 

冒頭で紹介した、杉本町駅から延びる謎の引き込み線は、この頃作られていました。

 

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昭和22年(1947)年発行の地図です。すでに大学は進駐軍に接収されていますが、引き込み線は表記されていません。

この引き込み線がいつ出来たのか、明確な資料が存在します。

 

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昭和22年(1947)2月25日の『官報』です。

「昭和二十二年二月二十五日から、阪和線杉本町停車場で、同停車場接続の連合軍専用側線に発着する車扱貨物の取扱を開始する」
昭和二十二年二月二十五日 運輸大臣 増田甲子七

つまり引き込み線は1947年2月25日から運用開始しますということで、線路も進駐軍のための路線だったということも、この『官報』からわかります。

地図も『官報』記載と同年発行ですが、調査の時には正式に開通していなかったのでしょうか。

 

 

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航空写真を限界まで拡大してみると、引き込み線に3両編成の列車(?)とおぼしきものが写っています。

 

阪和線と進駐軍専用電車

阪和線を走っていた進駐軍専用電車です。

進駐軍は全国の状態が良い列車も接収しました。白い帯を塗って他の車両と区別させ、進駐軍専用列車として近距離・遠距離にかかわらず走らせていました。阪和線も沿線に基地が3つ(杉本町・金岡・信太山)も控えている以上、進駐軍専用電車はかなり走っていたと思われます。

戦前は「東洋一の海岸」と呼ばれていた浜寺公園も、連合軍の士官用宿舎の敷地として接収され、キャンプ・サカイまで通勤していたという元将校の回想があります。今の阪和線で言えば、東羽衣→杉本町・天王寺行きの進駐軍電車が定期的に走っていたこともわかっています。

以前に書いた上野芝の高級住宅地の一部も、進駐軍の上級士官家族用として接収され、上野芝からキャンプ・サカイやカナオカまで走っていました。それと同時に、駅前付近には米兵相手の慰安婦、いわゆる「パンパン」も住み基地まで「通勤」していたと、元衆議院議員西村眞悟氏(上野芝出身)の回想に残っています。

進駐軍専用列車に乗車できたのは、何もアメリカ軍関係者だけではありませんでした。戦勝国民や、アメリカ兵とデキた日本人も乗ることができました。日本統治下だった朝鮮・台湾人もそれに入っており、中には戦勝国民だと進駐軍列車でふんぞり返っていた台湾人も少数ながらいたと、李登輝中華民国総統など複数の台湾人の回想に出てきます。また、当時を知る人の回想にも、進駐軍列車にGIと一緒に乗っていたパンパンガールが、虫けらのような目で超満員の電車を見下していた風景が出てきます。

 

そんなキャンプ・サカイですが、1950年に起こった朝鮮戦争で状況は一変します。

 

キャンプ・サカイ時代の大阪市立大学

金網が張られた物々しい雰囲気が、基地だということを物語っていますが、キャンプ・サカイの中は、看板のとおり陸軍の病院として使われることになります。

後ろの建物は、今の1号館でしょう。

 

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こちらも同じ看板なので、上と同じ場所だと思います。ということは、駅の南側の踏切から撮った写真ということになります。

 

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それならば、上の写真を意識しないで偶然撮ったものですが、67年後の姿の写真ということになります。

 

279th GENERAL HOSPITAL

という名前になったキャンプ・サカイは、朝鮮戦争の負傷兵を収容する病院となりました。負傷者がどこからどう運ばれてきたのかはわかりませんが、同じく接収されていた伊丹空港か大阪港からここまで列車で運ばれてきたのでしょう。

 

 

 

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接収当時のキャンプ・サカイの航空写真を見てみると、駅から赤の矢印沿いに線路(引き込み線)が伸びていることがわかります。

線路の終点は、今の全学共通教育棟の裏側(北側)まで延びていました。入院していた元兵士の回想によると、全学共通教育棟や2号館などがあるキャンパス(旧教養地区)が病院になっており、受付を終えると病室になっていた2号館、3号館(現存せず)に収容されていたそうです。

 

大阪市大体育館

前編で紹介した、戦前から残る体育館は病院食堂として使われていたようです。

 

昭和29年(1954)はじめに、病院は閉鎖されました。それと同時に引き込み線の役目はおそらく終えたと思うので、線路はその時撤去されたはずです。

しかし、阪和貨物線が出来たのは昭和27年(1952)のこと。もし29年まで残っていれば、連合軍用引き込み線と阪和貨物線が、同じ杉本町駅でダブっていた時期が約2年間あったはず。

私のバクチは当たりました。

 

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大阪市立図書館には、

「昭和20年代の地図なんてありません」

と冷たくあしらわれてしまったのですが、幸い今昔マップというサイトに残っていた古地図に残っていました。どうやら昭和32年の地図なのですが、阪和貨物線と「キャンプサ・サカイ」連合軍専用路線は、ほんの一時期ながら共存していたのです。

 この連合軍専用線路がつ撤去されたのか、今のところ記録としては見つかっていません。

 

 キャンプ・サカイの跡を探る

今の大阪市立大学は、返還後にかなり整地と建物のリフォームを進めたので、進駐軍キャンプ時代の残骸はほとんど残っていません。しかし、敷地を掘ったり建物を整理していると遺物が今でも見つかることがあるようです。旧高商科の建物だった3号館を解体したら日本軍の三八歩兵銃が見つかったり、7年前の2010年にも、2号館の天井裏から米軍の銃の実弾とアルミ製水筒が大量に見つかったこともありました。

 

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連合軍専用線路は、赤線で引いた感じで敷かれていたと思います。

 

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航空写真を見ても、その敷き方の強引さが見えてきます。

駅からかなり強引にカーブを描いたものの、曲がりきれずに民家を削っているように見えます。その後態勢を整えてほぼまっすぐに伸びていますが、高速道路の急カーブを曲がりきれず壁にぶつかり、なんとか道路上に戻って何事もなく走って行った車の軌跡のようです。

 

どうせ連合軍専用線路の跡なんて残ってへんやろと高をくくって現地に行ってきたのですが、その中で「おや?」と思えるものがありました。

 

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現在の東口の横にある、自転車置き場です。

現地を実際に見ていない人は、これはかつて杉本町から分岐していた阪和貨物線の跡と思うことでしょう。私も最初はそう思いました。

ところが、それとはビミョーに位置がズレています。阪和貨物線は廃止になっても、線路の跡はまだくっきり残っているのですが、違うのです。それはGoogle earthで駅を見ていただければ一目瞭然です。

しかし、かつての連合軍専用路線の跡とすると、航空写真で見る強引なカーブ具合が足りない。一瞬、あ!と思ったのですが、どうも違うというのが私の結論です。

 

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線路はここからまっすぐ東へ伸びていました。ここから東へ伸びると、旧阪和貨物線とぶつかるのですが、この道の、少なくても右半分がおそらく連合軍線路の跡ではないかと思います。

 

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線路は、出来た時は今の全学共通教育棟の北側が終点だったようなので、ここあたりに列車が止まってたのではないかと思います。

少しでも跡が残っていればわかりやすいのですが、さすがに60年以上も経っている上に周囲の環境が変わりすぎて目印となるものがほとんど存在していません。さすがにこれが限界でした。

 

しかし、「キャンプ・サカイ」の遺構となると、現在でもこんなものが残っています。

 

大阪市立経済学部横にあるゴミ集積場

大学のあるところに、ゴミ集積場らしきエリアがあります。

 

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そのうちの一つに、ごみ焼却施設のようなものがあります。

これ自体は別に何の変哲もありません。が!

 

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上の方にわずかな英語が・・・

RESERVED FOR THE...

までは読めました。しかし、後が一部欠けていて読めず。しかし、調べてみるとこれは進駐軍接収時のほぼ唯一の残骸だそうです。

米軍が接収時代に、お祈り用に作ったチャペル(教会)が12~3年前まで残っていたそうですが、こちらは残念ながら現存はしていません。 

 

 

戦前の杉本町駅の駅舎は東側にあった!?を検証する

Wikipedia先生の杉本町駅の項には、こんなことが書かれています。

停留場としての開業当時は東側(大阪市立大学がある側)に改札口が設けられた(以下略)


杉本町駅の出入り口は、ほんのごく最近まで西側の一ヶ所にしかありませんでした。

 

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西側ということは、大学とは真逆の方向に改札口があるということ。つまり学生にとっては不便極まりない。
阪和線は、知る人ぞ知る西日本屈指の混雑路線です。電車が線路上で「渋滞」していることもしばしばで、鉄道マニアでは知る人ぞ知る名物になっています。でも、さすがに最近はなくなったかな!?
そんな路線なので、踏切がいったん下りると「開かずの踏切」となってしまいます。
待ちきれずに無断で遮断器をくぐる学生もあらわれ、特急や快速に轢かれてしまう痛ましい事故も起こっています。
遮断器をくぐって無断横断することは良くありません。しかし、大和川を隔てた向こう側の住人でも「開かずの踏切」のことは知っているほどの悪評だったので、気持ちはわからんでもない。

 

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そのせいか、市大前の踏切は今でも「踏切番」と呼ばれる人がいる有人踏切です。踏切なんて自動化されて無人やんというのが常識な現在ですが、踏切番がいる有人踏切なんて全国的にもかなり珍しいんじゃないですかね。
私がまだガキだった昭和50年代は、人がレバーを回して遮断器を下げる、本当の意味のマニュアル踏切でした。


杉本町駅改札は、なぜ市大に尻を向けた方向に位置しているのか。
これはある意味杉本町駅の七不思議だったのですが、ちゃんとこれにも「理由」があったのです。

せっかく杉本町駅が表舞台に出てきたので、もののついでにこれも解決しておきましょう。

 

Wikipedia先生の記述通り、昭和4年(1929)に駅が作られた時の駅舎は東側にありました。『官報』などの文書的な証拠を探してみたのですが、ありそうで見つからず。
仕方ないので、ビジュアルで確認することにします。

 

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《論文》「戦前期の大阪商科大学杉本学舎の状況および周辺地域の変遷」より)

大学資料室に保管されている、杉本町の現在の市大キャンパスが完成した全景を描いた記念絵葉書です。
あくまで絵なので、航空写真ではありません。
その中に杉本町駅も描かれていますが、駅をよ~~く見ると・・・

 

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東側、つまり今の市大生活科学部校舎の前に駅舎があることがわかります。

ついでにもう一つ、昭和17年(1942)の航空写真があります。
戦前の航空写真は非常に珍しく、(陸)軍の厳重な管理のもとに置かれた国家機密でした。国家機密故に軍が終戦のどさくさに処分してしまったか、びっくりするほど残っていません。終戦後すぐに米軍が撮影したものは、国土地理院のHPに山ほど残っているのですが、こと戦前となると図書館のベテラン調査員もお手上げだそうな。


航空写真は論文から見つけたのですが、論文なので出典が書かれています。大阪市所蔵」と書いてあるので、これは図書館が持っているだろうと直接聞きました。
答えは意外なものでした。知らない、聞いたこともない。「大阪市立図書館」では、戦前の航空写真は一枚も所蔵していないと。
ほら、ここに「大阪市所蔵」って書いとるやんか~。図書館ちゃうかったらどこやねん!と問い詰めつつスマホで論文を見せると、うちじゃなかったら公文書館史料編纂所じゃないかと。
わかった、すぐそこに連絡して、所蔵の有無を調べなさい。必要あらばこちらから向かうとお願いしました。
すると、意外な答えが!!

「申し訳ありませんが、どちらも土日祝は休みなんです」

そういうオチかい。

 

で、気を取り直して。

 

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《論文》「戦前期の大阪商科大学杉本学舎の状況および周辺地域の変遷」より加工)

この航空写真を限界まで拡大してみると、東側にあった駅舎がかろうじて確認できます。

 

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航空写真を元にしてペイントで作成した図です。
商科大学が移転した直後にはなかった、駅から予科・高商科校舎への道も完成しており、改札口が東側にあったということを表しています。名実ともに「大学前駅」でした。

 

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現在のマップだと、今に残る駅のホームと大学校舎の位置から、だいたいここあたりにあったと推定できます。

 

 

ところが戦後、連合軍(実質米軍)が大学を接収してしまいます。
基地の前に駅舎があることはセキュリティ上問題があるとのことで、時期は不明ながら西側に駅舎を「移転させられ」ます。

 

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昭和23年(1948)には、西側に駅舎があることがわかります。


接収期間は上に書いた通り10年間続くわけですが、接収解除になったら元通り東口に戻せばいいのではないか。
どうやら、戻そうとした、あるいは学生用に東口を「復活」する動きはあったようです。しかし、「地元商店街の反対で西側のまま残った」という経緯で、不便な構造になってしまったわけです。

私はこの時、ふと疑問が浮かびました。
「商店街って言うほど、当時駅周辺に家があったのか?」

これも百聞は一見に如かず。航空写真を見てみましょう。

 

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さすがに戦前よりは家が目立つものの、「反対運動」があったほど家があったとは思えないんですけどね~。
しかし、それから50年以上も東口が作られなかったことだけは事実なのです。

 

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 今はこのとおり、東口が作られていますが、これも出来たのは5年前ですからね。
このように歴史を掘っていくと、現在の東口改札は「新設された」のではなく、「約70年ぶりに復活した」という表現の方が正しいのです。

 

杉本町駅の駅舎とホームを結ぶ跨線橋があります。

 

阪和線杉本町駅跨線橋

杉本町駅の古い跨線橋

 外から見ると、今にも朽ち果てそうな・・・もといかなりの年季物だということがわかりますが、見たらわかるとおり今にしては珍しい木製です。

人によっては、この跨線橋はこの駅が出来た時からのものだと書いているのですが、上の図や写真を見てもわかるように、昭和4年の開業時に跨線橋は存在していません。なぜならば戦前の駅舎は東側にあり西への出口はない。よって西側に通じる跨線橋があるわけがない。

この跨線橋は戦後に作られたことは確かなのですが、航空写真を限界まで拡大して確認してみました。

昭和23年航空写真:✕(なし)

昭和27年航空写真:△

昭和35年航空写真:○(あり)

 昭和27年のものは大阪市内南部全体の航空写真のため、杉本町駅は拡大しても米粒ほどの大きさにしかならず、はっきり確認できずでした。当時のカメラの解像度の低さもあり、仕方ないですね。しかし、跨線橋の影のようなものが見える気もするので、判定は○に近い△というのが私の感触です。

最近JRが金に物を言わせて阪和線の駅を無慈悲にリフォームしまくっているので、木造の跨線橋というだけでもかなりの個性を醸し出しています。その代わり、その分この駅はバリアフリーなんてクソ喰らえです。

 

ただ、開業当時のものを残しているものは存在しています。

 

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それがこのホーム。写真で見てもかなり狭いことがわかると思いますが、実際はクソ狭いです。左側の通過列車専用の線路に防護柵がありますが、これをつけないと相当危ないです。

 

私が幼い頃どころか、ほんの10年か15年ほど前まで、阪和線の駅のホームはこんなクソ狭い幅のものが多かった記憶があります。

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その代表の一つが東岸和田駅の下りホームでした。杉本町駅で狭いと言っていたら、かつての東岸和田駅はさらに狭い殺人ホームでした。おそらく、ホームの狭さは関西でも3トップに入っていたことでしょう。こんなホームで関空特急の『はるか』が猛スピードで(たぶんスピードは落としていたと思うけど)通過する時には、大人さえ恐怖を感じたものでした。JRはお客様を轢き殺す気かと。

東岸和田駅はつい先月、完全に高架化が完成し、上の写真の光景は伝説の(?)クソ狭いホームと共に過去のものとなりましたが、高架化が決まった時にこれは貴重になると撮っておいた写真が、奇跡的にGoogleフォトに残っていました。「天王寺駅の怪 後編」の阪和電鉄時代の架線柱の話では、東岸和田駅に残っていた頃の写真を削除してしまい長滝駅まで写真を撮りに行ったという流れでしたが、その削除して失くなったはずの写真がクラウドの中に残っていたのです。

作られた当時は、阪和線沿線の人口密度が低かったので、こんな狭いホームでも事足りたのでしょうが、 やはり人口急増で世界ホームでは人があふれてしまい、どんどん作り替えられました。今は杉本町駅の他には、私鉄時代の架線柱が残っている長滝駅くらいではなかろうかと思います。

杉本町駅は防護柵があるので、ここを通過する快速などの電車はスピードを緩めず猛スピードで通過していきます。狭いホームの列車通過の恐怖を少しでも、かつ安全に味わいたければ、ここのホームに立ってみるのもいいでしょう。ただし、立つだけね。

 

このように、2回に分けて大阪市大と杉本町駅の絡みを書いてみましたが、まさかここまで長くなるとは書いた本人も思っていませんでした。サラリと終わらせるつもりだったのですが、調べれば調べるほどおいしいこの歴史、お楽しみいただけたでしょうか。

あなたの近くの大学や母校も、調べて行くと思ってもみなかった歴史が埋もれているかもしれません。少し人生が退屈になってきたとき、身近にある知的な宝探しに出かけてみましょう。必ず新しい発見があるはずです。

 

最後に、市大キャンパス接収年表をまとめておきます。何かの参考にどうぞ。

昭和18年(1943)12月30日

海軍が文部大臣を通して大阪市長に商大予科・体育館の一時利用を要請

 

昭和19年(1944)

5月25日:大阪市と海軍の賃貸契約締結

8月3日:商大予科・高商科が帝国海軍大竹海兵団大阪分団(9/1に「大阪海兵団」に改名)に引き渡される(同時に、予科・高商科は大学本科校舎へ)

 

昭和20年(1945)

8月15日:終戦

10月6日:大阪海兵団撤収

 

昭和20年10月7日

米軍、商科大学を接収。一週間以内の立ち退きを要求し、第二十五師団の隷下の兵舎として使用(キャンプ・サカイの始まり)

 

(昭和24年(1949):新制大阪市立大学設立) 

 

昭和25年(1950)6月~

 朝鮮戦争勃発。「キャンプ・サカイ」に駐留していた米軍の一部が朝鮮の出兵。

キャンプ施設の一部が空き、そこに陸軍病院を建設朝鮮戦争の傷病兵が収容される。

 

昭和27年(1952)8月11日

大学の一部敷地の接収解除。現在の1号館周辺(グラウンドを除く)が市大に返還される。

 

昭和28年(1953)7月27日

朝鮮戦争休戦

 

昭和28年9月

日本側が大学の全面返還を要求(のち却下)

 

昭和29年(1954)

時期不明

この頃まで、未返還エリアは病院として使われていたと思われる

6月16日

米軍の海兵隊基地として使用開始

 

昭和30年(1955)

接収解除。大学の全面返還

 

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