昭和考古学とブログエッセイの旅へ

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

大阪市立大学と杉本町駅 前編ー大阪市大とは【昭和考古学】

 

阪和線杉本町駅

阪和線杉本町という駅があります。

これといって強烈な特徴もない駅ですが、この駅には副駅名というサブの駅名が付けられています。

その名前は、大阪市立大学

もう知ってるし~という地元大阪人にとっては、何をいまさらという当たり前の事実ですが、杉本町駅大阪市立大学の最寄り駅として知られています。

 

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電車と校舎のツーショットが撮れるほど、目の前にあると言えばあるのです。

前編と後編に分かれる「市大と杉本町駅シリーズ」の今回の主役は、この大阪市立大学となります。

「市大」は今は北九州市立大学広島市立大学などがありますが、私にとっての市大はここなので、クセでどうしても「市大(いちだい)」と入力してしまうのです。訂正するのが面倒くさいので、以下大阪市立大学は「市大」とします。

 

 

 

大阪市立大学の歴史

 商業の都大阪には、江戸時代から町人のための学校が数多く開かれていました。有名どころは福沢諭吉などが在籍していた『適塾』ですが、裕福な商人が金を出し合って授業料は無料という塾も多数ありました。

そこで学ぶものは観念論的なものではなく、基本的な道徳を除けば実務的な商売のことがほとんど。これが大阪市大を生み出した種とも言えなくもありません。

 

時代は明治になり、財界人の手によって明治13年(1880)に私立の大阪商業講習所が誕生します。これが市大の直接のご先祖様です。

明治32年(1899)、日本初の「市立」高等教育学校として「大阪高等商業学校」と発展させ、商業の高等教育機関としての土台が出来上がります。

そして昭和3年(1928)に大阪商科大学が誕生します。

大阪商科大学は京商科(現一橋大学神戸商科(現神戸大学経済学部)と共に「三商大」と呼ばれ、今でも「旧帝国大学」のように旧三商大と呼ばれ、スポーツの交流も行われています。

戦前は学歴はもちろん、出身大学での給料格差がふつうに存在していました。これを差別という人もいますが、差別でも何でもなくこれが当時の常識だったのです。

財閥系だと、旧商科大学卒の初任給は東大・京大経済学部卒と同格か、5円ほど下な程度。同じ大学でも早稲田・慶応卒は20円近くも格下、表現は悪いがほぼ虫けら扱い。これは他の旧帝大の初任給より高く、給料から見ても商科大学は東大と同格と見なされたのです。

 

今の市大は市の南部、杉本町駅の前にありますが、商大設立当初は実はこんなところにありました。

 「烏ヶ辻」(からすがつじ)という所にあり、NTT西日本の病院の敷地がそのまま旧キャンパスでした。

「え!?こんなところにあったの!?」

と地元の人はビックリするかもしれません。大阪商大は元から杉本町にあったと先入観を持っていた私も、これだけで目からなんとかでした。

 

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Wikipedia先生にもある、杉本町に移る前の大阪商大のキャンパスの写真です。鳥が辻時代の大阪商大の写真は他にあまりなく、残ってそうで案外残っていませんでした。

 

ちなみに、烏ヶ辻キャンパスの南に大阪市立大阪ビジネスフロンティア高等学校」という長たらしい名前の学校があります。なんでもカタカナにしたらええっちゅーもんちゃうねんというような専門学校のような名前ですが、高校です。

ここはその昔、私が現役学生の頃は「天王寺商業高校」という名前でした。え?天王寺商業っていつそんな名前に変わったん?と驚く大阪の読者の方が多いかもしれませんね。調べてみると、旧天王寺商業・東商業・市岡商業の3つの市立商業高校が合併し、旧天王寺商業の校舎に集結させた経緯だそう。

そんな旧天王寺商業が高等商業・商科大学の旧キャンパスの隣にある・・・のは偶然ではありません。市立だけに商科大学付属学校のような立ち位置として一セット。NTT病院と高校、合わせて「烏ヶ辻キャンパス」だったと言っても過言ではありません。

その伝統が残っているのか、旧天王寺商業高校は商業高校の割には大学進学率が高く、たかが商業高校とナメてかかるとコテンパンにされるレベルだった記憶があります。私が高校生の時のバイト先に、才色兼備の旧天王寺商業の女の子がいましたが、私が受験だと慌てふためいていたのを尻目に、鼻歌交じりに推薦で市大に進学して行きました。今こうして歴史を調べると、こういうところで、事実上の「大阪市立大学付属商業高校」として市大とつながってたんだなと。

 

大阪商科大学を誕生させた生みの親と言える人物が、

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関一(1873-1935)という大阪市長です。

苗字を書けって?いえいえ、これでフルネーム。「せきはじめ」です。

関は東京商業学校(現一橋大学)を卒業し24歳で大学教授になった秀才で、将来を嘱望された人でした。が、そんな人が何故か大学教授の職を辞し、都落ちかつ降格人事を希望して大阪市の助役となり、のちに市長となりました。

 

戦前までのエリートは、大局や長期的戦略、そして自らの志のために、望んで降格人事を申し出る人が目立ちます。ここが戦後~現代エリートとの大きな違い。
戦前の降格人事は、もらえる恩給(年金)に今以上の違いが出てきます。更に露骨な官尊民卑の世間では、周囲の目線や接し方も違ってきます。
普段はペコペコしていたご近所さんが、官僚を辞めた途端に付き合いがなくなり、道ですれ違っても無視されたなんてことは、ごく普通にありました。
関一も官立大学教授だったので、官僚という見方もできますが、今の官僚に、自分の志にウソや言い訳をせず、降格してでも自分の志を成し遂げたいという人はいるのでしょうか。
生活が・・・などで縮こまっている人の方が多いのではないでしょうか。
関一も、東京サイドから見た「志願の都落ち」に、学問の師から学長まで総出で引き留めに入ったという話が伝わっています。

 

関の大阪市長としての主な功績は、

1.御堂筋の建設

2.その下に地下鉄(今の御堂筋線)を作る

でした。

しかし、当時は御堂筋一つで

「街の真ん中に空港を作る気か!!」

と市民から総ブーイング。

その上に、その「滑走路」の下に地下鉄を敷こうとするのだから、この市長は気でも狂ったかと。現代の民選市長なら、たぶん市民に理解されず選挙で落ちていたんじゃないかというほどの猛バッシングでした。

しかし、関には市民に見えなかった、あるものが見えていました。

それは、100年後の大阪

御堂筋のあの広さも、100年後には狭くなるほどの交通量になる。御堂筋線のホームも、100年後にはあの長さ(10両分)でも足りなくなる。だったら100人乗っても大丈夫なイナバ物置・・・ではなく、100年経っても大丈夫な道路にホームを、金があるうちにさっさと作ってしまえ。これが関の、100年後を見据えた都市政策でした。

当時の大阪は、人口は東京を抜いて日本一でした。税収も東京以上でしたが、その豊富な財源をベースに「大大阪(THE GREAT OSAKA)」と呼ばれた大阪市の絶頂期を築き上げました。

その功績と、市長在職中に病に倒れ亡くなった悲劇から、今でも「史上最強の大阪市長」という称号付きで呼ばれることがあります。

 

大阪商科大学も、関には100年後の姿が見えていました。

官立の商科大学は、大阪と神戸で壮絶な誘致合戦が行われたそうですが、軍配は神戸にあがりました。煮え湯を飲まされた大阪市は雪辱のため、予算度外視で商科大学の建設にかかります。

しかし、関は冷静でした。

「将来は文理合わせた総合大学へ」

これが関が見た100年後の大学の姿でした。

そのコンセプトは、

「専門学校の延長を以て甘んじてはならぬ事勿論であるが、国立大学(筆者註:帝大)コッピー(筆者註:コピペ)であってもならぬ」

と関本人が述べており、これが建学の精神となります。

今の杉本町キャンパスへは昭和8年(1933)に移転開始、10年(1935)11月に校舎が完成されますが、鳥が辻では必ず手狭になると総合大学まで計算した上でのシナリオでした。

そんな関市長の壮大な計画のもと、できたてホヤホヤの新しい校舎に移転して、学生たちはさぞかし大喜び・・・と思いきや、

「鉄筋コンクリートの校舎ばっかりで味気がない」

「周りに何もなさすぎる」

「『学園』と言うけれど、周りは野原で確かに『園』だな」

となかなかの酷評。

レンガの赤が目立つ鳥が辻に対し、杉本町校舎はコンクリートの白が目立つ白亜の高層校舎群・・・と言えば聞こえがいいが、コンクリ打ちっぱなしの校舎は実に殺風景だったそうです。

阪和電気鉄道の杉本町駅は大学移転に先駆け、昭和4年に完成されていました。杉本町駅は市大のあまりに目の前にあるため、大学開業に合わせて作られたのではないかと思う人もいると思います。しかし、大学が出来たから駅が出来たわけではありません。

 

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「戦前期の大阪商科大学杉本学舎の状況および周辺地域の変遷(大阪市立大学史紀要第9号)」P18より

これが杉本町キャンパスの全景の俯瞰図です。航空写真ではなくイラストですのであしからず。

 

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「戦前期の大阪商科大学杉本学舎の状況および周辺地域の変遷(大阪市立大学史紀要第9号)」P20より

当時の飛行機から撮った、いちおう航空写真です。 航空写真としては非常に粗雑ですが、当時の技術の未熟さと、戦前の航空写真自体が軍に管理され非常に珍しいということもあるので、貴重な写真ではあります。

どちらにしても、今では想像もつかないほど「周りに何もなかった」ことがよくわかります。

 大学もない頃によくこんな田んぼの真中に駅なんか作ったなと、阪和電鉄の無謀ぶりに脱帽ですが、さにあらず。大阪商科大学の杉本町移転は阪和電鉄開業時(昭和4年)には決定事項で、大学が移ってくるという前提で作られた駅だと思います。

上の航空写真にはビミョーに写っていないですが、駅の北数百メートルに杉本という集落がありました。駅の名前はそこから取られています。もし杉本町駅がそこの人たちの利用を考えて作ったなら、集落の前に駅を作るだろう、どうせ周りは何もないのだからと私は考えます。

しかし、今のような状態になるのはそれから数十年後の話。当時は道も舗装されておらず、雨が降ればぬかるんで歩けたものではなくなるひどい状況だった上に、阪和電気鉄道の乗客にも、

「間違えて農科大学作ってもーたんちゃうか?wwww」

と笑われる始末。

何故こんなところに大学を作ったのか、意味わからんと学生たちは愚痴るしかありませんでした。

しかし、当時の最新の設備で作られたこの校舎、さすがに冷房はなかったものの、暖房はスチーム完備でかなり快適な冬だったそうです。

スチーム暖房は、今は北海道の一部にしかありませんが、威力は強力でした。私も真冬の旧満洲でスチーム暖房を体験したことがありますが、外はマイナス20℃なのに中は余裕の半袖。あまりに暑すぎて外が氷点下というのを忘れ、窓を少しだけ開けて寝たら逆に凍死しそうになり、お前はアホかと笑われた記憶があります。 

しかし、周囲に何もないということは、勉強に集中するにはうってつけの環境ということ。雨上がりのぬかるんだ泥道をブツブツ言いながら、学生たちは新しいキャンパスへと足を進めました。

 

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新しい杉本町キャンパスは、大きく分けて大学本科の赤い部分と、予科・高商科の青い部分に分かれていました。今の家政学部・・・やなかった、生活科学部は、戦前には敷地には含まれていません。

 

当時の学費も残っています。

予科・高商科が大阪市民80円/年に対し、市民以外は100円/年大学本科は市民120円、他140円でした。

同時期(1935年)の帝国大学の学費も120円、早稲田大学文系が140円だったので、商科大学はまさに相場通り。これは中流以上の家庭であれば問題ないレベルだけれども、それ以下になるとかなり厳しいかもしれません。

 

大阪商科大学杉本町校舎竣工記念スタンプ

別件で『官報』を漁っていたら偶然見つけた、大阪商大の校舎が完成した時の記念スタンプです。郵便局が大学に臨時局を設け、3日間限定でこの消印を使ったと書いています。何せ3日間限定消印なので、もし家の机の奥などからこの消印が押された手紙やハガキなどが見つかると、『なんでも鑑定団』でえらい値がつくかもしれませんよ!?

 

 

「三商大」に差がついた本当の理由-大阪市大の「赤歴史」

過去の2ちゃんねるにこういうやり取りがありました。

162: 名無しさん@涙目です。(関西・北陸) 投稿日:2011/04/26(火) 21:18:51.71 ID:/psCEfDnO
同じ旧三商なのに一橋、神戸、阪市
どうして差がついた
慢心、環境の違い


165: 名無しさん@涙目です。(関西地方) 投稿日:2011/04/26(火) 21:23:48.79 id:oXnL1srM0
>>162
単純に資金力の差
昔は大阪市が金もってたから教授陣も凄かった
一橋と神戸は国立だからな
でも神戸は微妙だがw

 

大阪市立大学はその昔、一橋大学神戸大学に並ぶ「大商大」だったのに、なぜランクやブランド価値に差が生まれてしまったのか。こういう問いです。

上の2ちゃんねるの回答は、間違いではないけれど、歴史の上っ面しか見ていない。所詮2ちゃんねるなので、もっと歴史を勉強汁、もっと文献史料嫁などと大きなことは望みませんが、これには大阪商大からの悪しき伝統と、大阪市立大学に移るどさくさが影を落としていると思われます。

それにしても、質問者の「阪市」って何やねん。市大や、い・ち・だ・い。

 

 「旧三商大」といっても、すべて同じ性格で同じ教育内容というわけではありません。「旧三商大」の性格を解説すると、以下のような感じになります。

東京商科大学一橋大学は経済学でも近代経済学や古典経済学の研究がメインで、さらに神戸・大阪と比べて哲学や歴史など人文学系の教養教育にも力を入れ、「経済バカ」にならない視野の広い人材育成がコンセプトでした。そのせいか、社会主義マルクス経済学や、逆に皇国史観による「神がかり経済学」を主張する教員が湧き出る土壌を産ませない。

神戸商業大学(神戸大学経営学部など)はというと、経済学より経営学が中心で、起業家養成にシフトしていました。カリキュラムも自ずと実践的で学生も現実的、今ならMBA大学院大学って感じでしょうね。企業経営に右や左のイデオロギーなど入る余地はありません。

ちなみに、「旧三商大」のうち神戸だけが何故、「商業」と名前が違うのかというと、これには「経済学の理屈より実学重視」という意味が込められているのだそうです。

対して大阪商大は、学問の自由、つまりリベラルを貫きすぎたがゆえにマルクス経済学者や、当時の法制度ではヤバい「極左」まで受け容れ、彼らに徐々に侵食されていきました。

大阪商科大学は、学長が急進左派の教授をクビにしてバランスを取ろうとしたものの、それが言論弾圧だと学生たちの反発を呼びました。ついには、「文化研究会」という名の左系組織を作り、堂々と戦争反対・帝国主義反対を唱えるようになりました。
それが特別高等警察特高)の逆鱗に触れ、教員や学生たち数十人が治安維持法で検挙されました。
それを「大阪商大事件」(詳しくはWikipedia先生参照)と言います。

 

その後、校舎の一部が海軍に接収された(といっても軍から賃貸料が満額支払われていた)などの苦難がありましたが、終戦で再び戻ることとなりました。

しかし、ある意味戻ってはいけないものも戻ってしまいました。
治安維持法などで投獄されたり、言論を封じられていた左派たちが、大学に戻ってきたのです。ただ戻ってきただけならまだマシ。彼らは以前にも増して凶暴かつ先鋭的になって戻ってきたから大変なことに。

彼らは、大学の骨幹である学則も変えてしまいます。
戦前の学則第一条が、商業に関する学術」から政治経済に関する学術」に変更されてしまいます。カリキュラムも必修科目はゼロですべて選択の超自由主義型という、ほぼ大学崩壊のような「改革」を行ってしまいます。
大学は荒れに荒れ、こりゃダメだと大量の教員が大学を去ることとなりました。しかしながら、「去る」と言えば聞こえはいいですが、当時を知る人の回想では追放か、学問から離れた階級闘争に飽き飽きして逃げたという方が正しいようです。

大阪商業大学は新制大阪市立大学になる前には既に、「大阪政治経済大学」と後に揶揄される偽りの看板を背負うこととなりました。

 

1970年代までの戦後日本は、学生運動が盛んな時期でもあったので、どこの大学でも多少なりに運動はあったと思います。しかし、市大は少し極端すぎたようです。
学問的排他主義を続け、実務的とはかけ離れた不毛のイデオロギー論争や大学紛争に明け暮れ停滞している間、良い意味で戦前からの伝統を守り現実を見失わなかった(学生運動がほとんどなかった)東京・神戸の旧商大に差を開けられた。
当時の学生や、市大を見限って去った先生たちの手記・回顧録を見ていると、そう見て間違いないようです。

大阪市大の学生紛争のすごさを物語る写真があります。

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『温故知新(その2)大阪市立大学に見る伝統の断絶』より)

市大のシンボルである本館1号館が、警察と学生の争いでメチャクチャになっています。
時計台に篭って警察とドンパチする光景は、東大の安田講堂のあれを思い浮かべる人が多いですが、市大でも同じことがあったのです。

 

学生運動が正しかったのか否かは、私ごときが判断できるものではありません。
ただ、これが「市民のための大学」であった市大を、大学といちばん近い存在である市民にそっぽを向かれる結果になりました。
朝日新聞社系列の『朝日ジャーナル』という雑誌で、1960年代後半から70年代にかけて、「大学の庭」「300万人の大学」といった大学に関する連載を行っていました。
その大阪市大のページで市民の声が寄せられていたのですが評判は、

「デモだ運動だと、困った連中だ」

と最悪の評価でした。大阪市民の目はすでに商大時代のリスペクトではなく、厄介者を見る冷たい目に変化していたのです。市民からはほとんど見捨てられたと言ってもいい。
公認会計士になりたいと学生が言えば、
「お前は資本家の犬になるのか!」
と怒鳴る学部長がいる大学ではさもありなん。

 
左傾化に嫌気がさして大学を去った先生たちを受け入れたのが、主に関西学院大学商学部でした。
関西学院大学は、1951年の新制大学への移行で商学部が経済学部から分離し、実務志向の研究者を求めていました。そこへ大阪商大から逃げてきた亡命研究者を大量に受け入れ、新しい商学部を作っていくことになりました。
そのうちの一人に、久保芳和という人がいました。

彼はかなり優秀な学者だったのですが、
「久保は仕事は出来るが思想が良くない」
などと意味不明の理由で左系学者に牛耳られた大学から干され、アホらしくなり関西学院大学に「亡命」した一人。関学に移ると同時に助教授に昇進、のちに学長になりました。

彼によると、戦後間もなくシベリア天皇というあだ名の、その名の通りシベリア帰りのガッチガチ進歩的な教授が商大に復帰、正統派の教授を工作で追放し、主任の座を奪いました。その権力を使い商大の「クリーニング」を始め、「大物はすべて去り、残るは小物一人のみ」となったそうです。そんな空っぽ状態で新制大阪市立大学がスタートしてしまいます。

戦時中、商大事件などで大学を追い出されたことを「レッド・パージだ」と強く批判するのはいいが、そんな自分らは同調しない人間のすべてを否定し、様々なレッテルを張って排除するダブスタっておかしくね?と久保は述べていますが、なんだか今のどっかの政治家集団によく似てますね~(笑

結局、久保も上の理由で「辞職するまで干され続けるの刑」を食らい事実上市大を追い出され、学問の師匠の誘いで、1951年(昭和26年)関学に「亡命」することとなります。

旧制大阪商科大学の正統なDNAは市大ではなく、関西学院大学商学部)が受け継いでいる。このグダグダの歴史を知る人には、そう言う人もいるそうです。

 

市大は公式史を編纂しているのですが、公式史である『大阪市立大学百年史』は、商大から市大への「左旋風」を擁護しているフシがあります。1980年代発刊なので仕方ない面もあります。

しかし、2008年から発行されている『大阪市立大学史紀要』では、マルクス主義の呪縛が解け正気になったのか、古き良き商大の原点に回帰しようとしたのか、客観的に批判するアカデミックな姿勢があらわれています。上の久保の手記も、当時の大学史料室長の論文として『紀要』に記載のものですが、今でも真っ赤っ赤ならこんなもの書けません。

ただ、ただ、「もうかりまっか」が信条の、お金にうるさい分現実主義の大阪の大学が、何故マル経ことマルクス経済学が受け容れられたのか。何故ここまで舵を左に切りすぎたのか。これにはもっと客観的にメスを入れるべきだと思います。

そういう意味では、戦後の市大史は黒歴史ではなく「赤歴史」と言ってもいいかもしれません。

 

ameblo.jp

 

大阪市大キャンパスを歩く

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さて、ざっくりと市大の歴史を書いたところで、実際に大学構内を歩いてみます。

え?これでざっくりかって?はい、書きたいことを相当端折った超ざっくりです。

 

市大本館(1号館)

市大のシンボルとも言える校舎が、旧大学本科にある本館です。

 

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少し逆光気味なので見づらいかと思いますが、真正面から見ると白い大鳥が翼を広げているような姿であることはわかると思います。

 

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側面から見ると、「車寄せ」という入口まで車を寄せるための屋根付きの部分があり、独特の姿をしていることがわかります。

 

 

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昭和9年(1934)に竣工したこの本館は、平成14年(2002)に有形文化財に登録されています。

鉄筋コンクリートなので一見殺風景ですが、曲線を使うことによってデザインチックに見せようとする努力が見える気がします。建築学はド素人だし美的感覚もゼロなので、あくまで「気がする」ですが。

 

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昭和10年代と思われる地図の裏側にあった広告に、小さいものの旧商科大のものがありました。やはりシンボルなのか、本館があいさつ代わりになっています。こうやって見ると、何度かリフォームはされているはずですが、形は昔のまま残していることがわかりますね。

 

大阪市大本館の裏側

裏側へ回ってみました。

正面にも時計がありますが、裏側にも時計があるのはなんだか不思議でした。それも手元のスマホで確かめるとちゃんと時間も合ってるし。

これが竣工当初からあったのかどうかはわかりません。しかし、裏はグラウンドなので運動をしている人には高いところにあって見やすいのかもしれません。

 

大阪市大1号館

側面は曲線をより使い、意匠を凝らしています。なんとなく宇宙船に見えなくもない。

 

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中に入ってみました。

建物自体はフルオープンなのですが、人っ子一人いる気配がありません。休日やから当たり前やんと言われればそうですが、不気味なほど人の気配を感じないのです。

その理由らしきものは、後でわかりました。

 

正面階段の左右に置いてある、たぶんブロンズ製の壺には、

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「大正七年」の文字が。

大正七年度の卒業時に作られたものか、それとも大正七年度卒業生が寄贈したのか。どちらにしても大正七年当時は商科大学ではなく専門学校の時ですね。

 

 

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中を覗いてみて、凝ってるなーと思ったのは、この中の丸窓。

丸窓は大正時代後期~昭和初期に流行ったものですが、建物の外窓(というのか?)ではなく、建物の中に入らないと見えない中の窓に丸窓を使っているのは、初めて見ました。

 

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階段の両側に丸窓を配置するセンスは、ちょっとションベンをちびりそうになりました(笑

こうして撮影すると、ちょっとファンタジーっぽい内景になる気がします。

 

大阪商科大学杉本キャンパス1号館より正門を臨む

(出典:「《論文》戦前期の大阪商科大学杉本学舎の状況および周辺地域の変遷」より)

杉本町キャンパスができたてホヤホヤの頃の、1号館から正門を臨む写真があったので、人がいないのを幸いに1号館から似た角度で撮ってみました。

大阪商科大学杉本キャンパス1号館より正門を臨む2017年版

80年というのは、大きな歴史の流れで見るとほんの一瞬ですが、その一瞬でもこれだけ風景が変わることに、我々は驚かないといけません。

 

 しかし、ホンマに人ひとりおれへんなーと建物内をウロウロしていると、掲示板にサークル・同好会のポスターがところどころに貼ってありました。

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中にはこんなチラシも。

『ボカロ部』とは若いなー時代やなーと感じました。市大には『艦これ研究会』があるのは知っていたけれど、『ボカロ部』まであるとは。初音ミクの歌を議論するのでしょうか。それともクリエイトする方なのか。謎は深まるばかりです!?

 

学生サポートセンター(旧商大図書館)

大阪商科大学図書館(現学生サポートセンター)

1号館の横にも、素敵な建物が鎮座しています。

 

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「学生サポートセンター」となっているこの建物、リフォームされているので一見さほど古くない建物に見えます。

しかし、ところどころに残る昭和風モダン建築というのか、大正後期~昭和初期の建物によく見られる残滓がちょくちょく垣間見えます。

休日だったので閉まっており、中を見ることはできなかったのですが、代わりに周囲の外観をじっくり見てみることにしました。

 

調べてみると、この建物は元々大阪商科大学の図書館・書庫・研究室だったようです。今は別の場所に総合図書館があり、学生サポートセンターとしての事務所となっています。

 

大阪商科大学旧図書館建物側面

正面から見ると何の特徴もない、当時の学生の言葉を借りれば「味気がない」ものになっていますが、裏側を見ると少しSFチックな形状になっており、1号館と姉妹のような形になっています。設計主が同じ大阪市土木局)なので、当たり前と言えば当たり前ですが、当時としてはかなり斬新なデザインだったでしょう。

 

この建物のある意味いちばんの見所は、正面ではなく裏側。

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船の艦橋(ブリッジ)を思わせるベランダです。

 

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昭和初期建築の証明、丸窓がアクセントをつけています。

窓で囲まれた1階部分は、図書館の「雑誌閲覧室」となっていました。半円形に張り出させ、窓を多く配置して陽光がより多く入るよう工夫されている感じがします。

 

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木が邪魔で全景が写せないのですが、ものすごくモダンというか、未来的なデザインです。

この作り、以前紹介した大阪市港区ハaハaハaというレストランの建物に似ています。

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parupuntenobu.hatenablog.jp

ハaハaハaの方は昭和11年に対し市大のこちらは昭和9年なので、市大のほうが若干先輩格になりますがほぼ同世代。当時はこういうつくりのデザインが流行っていたのでしょうね。

 

この旧図書館は、正面の直線的な、規則的な作りかと思いきや、側面が非対称かつ不規則的な、子どもが積み木を重ねたかのような意匠。当時の設計者の遊び心が現れているかのようです。

 

 

ところで、市大OBでここ最近母校に行っていない方は、アップした杉本キャンパスと1号館の写真に何らかの違和感を覚えるはずです。

大阪市大正門から本館

あれ?何かないんじゃないかと・・・ええと、何だったっけな?ん?やけにスッキリしたな!?

 

その予感は当たり。

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市大公式Facebookより。他に十数枚あり、公認フリー画像だからどんどん使ってねーとのことです)

記憶にあるのは、この光景じゃないですかね?

本館の前の庭に鎮座していたヤシの木は、大学のロゴにもなっているほどの名物でした。これはワシントンヤシという種類のものですが、意外なことにいつ植えられたのかは不明。大学が公式HPで、わかんないから誰か教えてと言っています。

このヤシの木も高さが20メートルを超え危険と判断、残念ながらつい数ヶ月前の6月に伐採されてしまいました。

最期の姿はようつべにも上がっています。

www.youtube.com

ちなみに、しばらくは「そのまま」にしておき、今後またヤシを植えるのか、何を植えるのかなどは未定とのことです。数十年後、何もない芝生の写真も貴重になるかもしれませんね。

 

五代友厚

旧商大キャンパスを散歩していると、こんなものを見つけました。

 

大阪市立大学の五代友厚像

像の主は五代友厚(ごだいともあつ)という人物で、薩摩藩士ながら大阪に骨を埋め大阪の発展に尽くした大阪財界の重鎮であります。全国の女子には、去年の朝の連続テレビ小説『あさが来た』でディーン・フジオカ演じた、「五代様」と書いた方が早いかもしれません(笑

で、市大と五代友厚が何の関係があるかというと・・・。

五代は商都大阪を更にパワーアップさせるために様々なことを行いました。そのうちの一つに、これからの大阪を支える人材を育成するための学校、「大阪商業講習所」の創設でした。当時は最先端の学問だった簿記や商法、貿易のための国際法や英語などを教える学校でしたが、それが市立商業学校→高等商業学校→商科大学→大阪市立大学と発展しました。

大阪商科大学を誕生させたのは元市長の関一でしたが、今の市大の「父」が関ならば、「祖父」は五代と言っても過言ではありません。

 

しかし、この像は土台からしてかなり新しい・・・いちおう、五代友厚生誕180年記念として作られたものだそうですが、除幕式の日付が2016年3月。ドラマ放映中、それも五代がドラマ中で死に全国の女性が「五代ロス」に苛まれていた時なので、めちゃ狙っとるやんかと。どうりで像が無駄にイケメンかと思った(笑

ちなみに、除幕式にはディーン・フジオカも参加したそうです。

 

予科・高商科を歩く・・・ところが

 

さて、お次は旧予科・高商科のキャンパス。ここは「旧教養地区」とも言うそうで、その名の通りかつてどこの大学にもあった「教養部」があった場所なのでしょう。

大阪市大は、本気で端から端まで歩くとかなりの距離があるのですが、旧本科と旧予科の距離は徒歩でほんの5分ほど。

すると!

 

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 どうやら学園祭の様子。

「銀杏祭」と書いていますが、銀杏祭は大阪市大の学園祭の名前で、「第67回」と書いてあるので1950年(昭和25年)から行われているということかな。

5日までなのでアップの頃には終わっていますが、来年に備えて運営のHPもいちおう貼っておきます

 

中に入ってみると。

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とりあえず人多すぎでした(笑

人口密度が非常に低い島流し生活に慣れてしまい、人混みが大の苦手になってしまった田舎者BEのぶ、人多すぎだけで疲れが・・・。ひ、日を改めて参ります・・・状態でした。

これでわかりました。本館がある方のキャンパスは、グラウンドで硬式野球部の試合をやっていたものの、それ以外の人の気配がほとんどなくゴーストタウンならぬゴーストキャンパスになっていたのは、「銀杏祭」で学生が全部こちらに吸い取られていたのだと。

銀杏祭については、せっかくなので後日サラっと書いてみます。

これは探索とかなんとか言うてる場合ちゃう・・・と思ったのですが、ここまで来て人混みくらいでおめおめ引き下がるわけにはいかぬ。

 

2号館(旧予科校舎)

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旧制大阪商大キャンパスは、上にも書いたとおり「大学本科」と「高商科・予科」に分かれていましたが、予科の校舎が現代に残っています。

予科とは聞き慣れない言葉ですが、正式には「大学予科と言います。

以前、台北高等学校物語-第一話で説明した旧制高校と似たようなものなのですが、大きな違いが一つあります。旧制高校は、卒業すると原則どこの大学でも好きなところへ行ける高校に対し、予科は必ず本科へ進学しないといけない、つまり進学の選択肢がないという大きな違いがありました。

本館こと1号館のパクリというか、本館が曲線を使い意匠を凝らしていたのに対し、2号館はそれがありません。これは味気がない。杉本町校舎を見た学生たちの声を見ると、本館だけを見ると贅沢言うなと思うものの、2号館は確かに味気ない。

 

と思って側面を見ると。

 

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 やはり昭和初期建築の象徴、丸窓がヒョイと顔を覗かせる。これがアクセントになっているようです。でもなんだか味気ないな。

 

体育館

2号館の横に、コンクリートの三角屋根の建物があります。

 

大阪市立大学体育館(旧大阪商大予科体育館)

市大にはいくつか体育館があるので、ここは正式には「第一体育館」だそうです。

昭和8年予科・高商科校舎が出来た当時からの生き残りで、2013年に改修工事が施されていますが、当時の姿を残しています。

 

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「《論文》戦前期の大阪商科大学杉本学舎の状況および周辺地域の変遷」にBEのぶ加筆)

昭和9~10年(1934-1935)の写真ですが、手前が商大の学生サポートセンター(当時は図書館)、奥が旧予科・高商科の敷地です。小さいですが、体育館が今と同じ形で存在していることがわかります。

 

大阪商科大学予科・高商科校舎群

もう一つの高商科の建物ですが、これも当時としてはかなりモダンなデザインの建物だったようです。この写真は1号館のてっぺんから撮ったと思うのですが、今なら障害物ありまくりで見えないだろうなと。

学生には「味気ない」だの「コンクリートで血が通っていない」などと言いたい放題言われていましたが、これだけを見ると何を贅沢言ってるんだと。まあ、周りに何もなかったのは仕方ないですけどね。

 

大阪市大全学共通教育棟

旧高商部の建物は教養部の主要校舎として長年使われてきましたが、2006年に壊され既になく、このように新しい建物(全学共通教育棟)に変わっています。

12~3年くらい前には、大小合わせて旧商大をしのぶ建物がかなり残っていたそうです。しかし、耐震リフォームするより建て直しのほうが安くするのか、どんどん壊されていったようです。地元だからいつでも行けると高をくくっていると、気づいたら何もなかった・・・ということは多々あります。建物を残せというのはいろんな意味で無理があるので、せめて写真だけ撮り、デジタルの中では残しておくようにしましょう。

 

ここまで引き伸ばしましたが、実は次からが本当に書きたかった本題だったりします。その本題のために、まず大阪市大の歴史を調べていたらなかなか面白いと、どんどんボリュームが増えてこうなってしまったわけです(笑

お次の後編は、意外に語られない大阪市大の歴史の一部にスポットを当てつつ、ある謎に迫ります。

 

==後編はこちらから==

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

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