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上海日本人租界散歩 先人たちの跡を訪ねて 第一章

序章-日本租界とは何か

 

上海外灘、上海租界散歩

戦前の中国上海。


東洋でありながら西洋の街をコピペしたような華やかな表の世界と、海外スパイと特務とアヘン商人が暗躍する裏の世界。
光と闇が紙一重に混在する上海を、人は「魔都」と呼びました。

 

当時の上海は、海外の事実上の植民地であった「租界」と、それ以外の、中国でありながら西洋人から「チャイナタウン」と呼ばれていた土地に分かれていました。


「租界」はイギリス・アメリカが共同で管理する「共同租界」と、フランスが単独で管理する「仏租界」に分かれていましたが、共同租界の一角に「日本租界」と呼ばれていた区域がありました。

日本人が多く移住し、まるで日本の租界のような所だというところから、誰が呼んだか「日本租界」と言われるようになりました。


「日本租界」の場所は、当時の上海一の繁華街であった南京路(現南京東路)の北に流れる呉淞江という川を渡った場所に広がっていました。

 


在りし日の上海を訪ねる時の必須本が、「上海歴史ガイドマップ」です。

租界時代の建物の位置等が地図上に書いてある本なのですが、地図が詳細で租界の足跡を調べるには絶好の本です。

上海和平飯店旧サッスーンハウス

 

外灘の入り口に、まるで東大寺の仁王像のようにそびえる和平飯店。1929年完成の、上海を象徴するシンボルの一つです。

もう数十回は見ているので見飽きたかと思ったら、改めて見てみると彫刻がきめ細かい。建物から醸し出す威厳も、「魔都」時代の上海の建物の王様にふさわしい。


和平飯店は今更説明は不要とは思いますが、緑のとんがり帽子が特徴的な北楼は、別名「サッスーン・ハウス」と呼ばれていました。
上海の大財閥であるユダヤ系イギリス人サッスーンが己の力を誇示するかのように、当時上海で一番高かった土地に建てられました。

5階から10階までは「キャセイ・ホテル」として営業、
最上階はサッスーン本人の自宅兼事務所が置かれました。

 

今回は、戦前の上海に一大勢力を築いた日本人居民の足跡を尋ねる旅であります。。
戦前、日本人にとって上海はパスポートなしで行ける気軽かついちばん近いな外国でした。学生から社会人、そして事情で日本に住めなくなった社会主義者などの不穏分子まで、実に様々な人種を呑み込んでいきました。
その人口は2万とも3万とも言われていますが、これはあくまで登記をした人口であって、実際の人口は今もってわかっていません。
太平洋戦争勃発時の1941年には、10万人以上もの日本人がいたといいます。
文化人を寄せ付ける魅力も兼ね備えていたらしく、芥川龍之介金子光晴谷崎潤一郎連続テレビ小説あぐり」で有名になった吉行エイスケ等も上海を訪れ、様々な場所に足跡を残しています。

日本人が特に多かった居住地を俗に『日本租界』と言い、上海を左右に横断する蘇州河より北の北四川路(現四川北路)や呉淞路をメインロードとした地域に多く住んでいました。
しかしながら、「日本租界」と言っても日本が独自に租界を設けたことは上海にはなく(天津や杭州、漢口(現武漢市)には本当の日本租界は存在した)、日本人だらけだったので「日本租界のようだ」と言われていただけのことであります。
しかし、そこままさに日本そのままだった。
彼らは日本語をしゃべり、日本式に改良された住宅に住み、和服を着ながら日本料理屋に足を運んでいた。正月になればおせち料理を食べ、凧を揚げ、盆には盆踊りもあったという。

そんな世界が日本の敗戦とともに無くなり、はや70年経ちます。

実は20年以上前に上海に留学していた時にも、「日本租界」の足跡を訪ねたことがある。
その時は当時の建物が、まるで時が止まったかのように残っていた。特に四川北路は、昔の写真通りとあまりに変わってないので驚いたした記憶がある。
かつて日本人と一緒に汗を流したという中国人もたくさんおり、そこには確実に「日本」が残っていました。
彼らが持ち込んだ日本が、現在虹口地区には、もう部分的になってしまったが、かつての住人を静かに待ってるかのように残っていました。
しかしながら、その時俺は二つの失敗をしました。
一つは調べるための資料がほとんどなかったこと。
もう一つは、写真をほとんど撮らなかったことです。せめて写真だけでも撮っておけばと思うと、今でも悔やまれます。

 

当時残っていた建物も、中国の経済発展もあり、老朽化や道路の拡張などでどんどん壊されていっている。上海市は租界時代の建物を出来るだけ保存しようと努めてはいるようですが、それにも限界があるようです。
それは時代の流れなのである程度は仕方ないですが、せめて上海在住の先輩たちの足跡をデジタル永久保存版にしよう。
この中国・上海の発展からして、5年後に残ってるという保証はどこにもないのだから。
これを負の遺産と言う人もいます。特に中国人にとっては、租界自体が彼らのプライドを傷つける歴史の事実であることは確かです。できればなかったことにしたいのかもしれません。
しかし、ここに実際名もなき日本人が住んでいた証拠がここにあり、彼らは彼らなりに必死に生きてきた。これも歴史的事実です。
それを負と決め付けてしまっては、彼らの人生、存在自体を否定することになります。

 

 ロシア大使館旧礼査飯店北楼・元日本総領事館

 

外灘を少し離れ「外白渡橋(ガーデンブリッジ)」を通り、虹口地区に入ります。
ガーデンブリッジを渡ると、左に「上海大廈」、右に今も昔も位置が変わっていないロシア領事館、そしてつい10年くらい前まではバックパッカーのたまり場でもあった「浦江飯店」が、虹口地区の門番のようにそびえ、数十年間上海の歴史を見守ってきました。

虹口地区に入ると、何気に懐かしいような気がします。流れている空気がどこか懐かしい。
恐らく気のせいなのでしょうが、何か不思議な感覚がします。
ガーデンブリッジを渡り終え、そのまま右に渡り、昔アメリカ領事館やドイツ領事館があった跡に建てられた海鴎飯店を通り過ぎると、何気にクリーム色の無機質な建物が見えます。
今は「黄浦大楼」と名を変え、海軍招待所や上海銀行が入っているあまり存在感がない古ビルが、日本人の足跡第一弾である旧日本総領事館でです。
「上海歴史ガイドマップ」によると、現存のものは1911年に建てられた2代目とのこと。
その向かって左2軒目には、旧日本郵船会社の建物がそのまま残っています。
そして行き道を戻って浦江飯店の裏に回ってみると、そこには、もういつ壊れてもおかしくないマンションのような、古ぼけた赤い色の屋根を頂いた建物があります。
そこは旧礼査飯店(浦江飯店の前身)北楼。日中戦争中は日本軍によって接収され、日本陸軍の将校クラブである「偕行社」が開かれた場所です。

現在は金山大楼として普通のマンションになっていますがここでも何か日本人との関わりが持てるとことは。

 

旧礼査飯店北楼、旧日本人将校クラブ、偕行社)

旧礼査飯店北楼(日本人将校クラブ、偕行社)。
現在はタダのマンションです。

 

ロシア領事館と浦江飯店

写真の前方の建物がロシア領事館、後ろが浦江飯店です。
(外白渡橋(ガーデンブリッジ)から撮影)

 

上海の旧日本総領事館

旧日本総領事館
現在は海軍招待所及び上海銀行(黄浦大楼)。
軍事関連施設なので、我々外国人は中には入れません。
日本領事館跡の天井のネオンがTOYOTAなのは偶然か?それとも何かの因縁か?

 

■■続きの第二章はこちら■■

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

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