昭和考古学とブログエッセイの旅へ

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

養命酒提督と山本五十六

近代史や軍制史に疎い人は、陸軍と海軍を「日本軍」として一緒くたにまとめてしまうことが多いですが、これほど危険なことはありません。
陸軍と海軍は、これが同じ日本で隣り合わせだった組織だったのかと思うほど、全くの別人格でした。
陸軍はプロシア(ドイツ)陸軍をベースに、海軍はイギリス海軍がベースなので、そこから生まれる社風ならぬ「軍風(?)」も全く違ってきます。

 

戦争中のこと、海軍が軍艦で陸軍の将兵を輸送していました。
陸軍将校は海軍士官室で待機だったのですが、ある将校が部下の下士官を呼び寄せました。
士官室にやってきた部下は、士官室に入るや否や直立不動で敬礼し、


「○○軍曹、参りました!中隊長殿、お呼びでありますか!  (-o-)>」

 

それを見た海軍士官は一斉に爆笑。


「陸さんは相変わらず硬いな~。あ~硬い硬いww」


それを聞いた陸軍将校、少しムカッときたか、


「じゃあ、海軍さんはどうなんだよ!」


じゃあ海軍式を教えてやるよと、士官が部下の下士官を呼びつけました。
その後すぐ、ドアをノックする音がし開いたかと思ったら、顔だけニョキッと出し、招き猫のような敬礼をチョコンとして一言。


分隊長、呼びました?」

 

「中隊長(陸軍)」と「分隊長(海軍)」は大尉(ただし、海軍は「だいい」です)がなる、軍制上同じ地位なのですが、同じ日本軍でも対応がこれだけ違うのです。

 

 


特に軍内の人間関係を見る時は、陸軍は縦軸、海軍は横軸と真逆の軸を見る必要があります。
陸軍の人間関係は、親分と子分、親分から子分へという縦軸の関係となります。
有名なところでは、山県有朋を頂点とし子分がそれにぶら下がる「長州閥」ですね。
大正から昭和になり長州閥はほぼ壊滅するのですが、その代わり「皇道派」「統制派」などの軍閥に分かれてしまいます。

それに対し、海軍は兵学校の同期(クラス)、つまり横軸が中心となります。
「貴様と俺とは、同期の桜~」
という出だしで始まる歌がありますが、あれは海軍の歌であり、横のつながりが薄い陸軍経験者はいまいちピンと来ません。
「クラス会」と呼ばれた同期どうしの飲み会は「仕事」とみなされており、誰かが死亡するとクラスの誰かが代表で遺族の御見舞をする。戦後にクラスの誰かが消息不明になると、クラス幹事を中心に「捜索隊」が設けられ、「あらゆる手段を使って」探し当てるそうです。
当然、海軍にも階級の上下や先輩・後輩の関係がありますが、その線は世間ほど強くありませんでした。そんなもの海に出ればただの指揮命令系統に過ぎない、それが海の男たちの基本でした。だから二等兵連合艦隊司令長官に「チョーカン」と言っても半殺しの目に遭わなのです。

 

なので、海軍の人物史を調べる時は、まずその人が兵学校第何期卒なのか、そして同期に誰がいるかをチェックする必要があります。
特に海軍軍人の人物紹介に「海兵○○期」と書いてあるのは、そのためのヒントだったりするのです。陸軍軍人にも書いてはいますが、研究的にはさほど重要ではありません。

海軍兵学校の中でも、特に優秀者が多かった期というのがあります。
その中でも32期は海軍大将を4人輩出した唯一の期として、その筋では有名です。
元帥:山本五十六
大将:嶋田繁太郎、吉田善吾、塩沢幸一
といっても、一般常識で知っているのは山本五十六くらい。嶋田繁太郎は、真珠湾攻撃時の海軍大臣(東條内閣)だったので、知っている人がそこそこいるかも!?
という次元だと思います。


しかし、この期の最重要人物は、上の人物中にはおりません。

中将:堀悌吉

 

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堀は中将止まりの人でしたが、もしこの人が大将に、そのまま海軍に残っていれば対米戦争は間違いなく起こらなかったと、戦争を起こした海軍側当事者(同期の嶋田繁太郎)が言うほどの大人物でした。
堀は兵学校歴代2位の成績で卒業した大秀才、「神様の傑作の一つ堀の頭脳」といわしめた逸材でした。当然、同期の中のトップ。同期の首席を「クラスヘッド」と言います。
兵学校の歴史を通じて成績歴代1位だったのは、佐藤市郎(36期。中将)という人でした。この人を知っていたら相当の海軍通です。

 

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この人を一言で言えば、元総理の岸信介佐藤栄作兄弟の長兄にあたります。つまり安倍晋三総理の大叔父というわけですね。
岸信介は兄についてこう述べています。
「頭の良さから言うと兄の市郎、私、弟の栄作の順だが、政治力から言うと栄作、私、市郎と逆になる」
つまり、市郎は頭があまりにキレすぎた上に性格がストレートすぎた、岸信介風にいうと政治力がなかったために、海軍を追い出されてしまいます。


堀悌吉も相当頭がキレたのですが、彼は海軍にある思想を導入しようとしました。
英語でFleet in beingと言うのですが、今風に言うと「抑止力のための海軍」
もっとざっくばらんに言うと、海軍を専守防衛の軍隊にしようとした人でした。
21世紀の今なら、何言ってるんだ、そんなもの当たり前じゃないかの常識ですが、戦前は攻撃こそ最大の防御
なんで戦艦大和・武蔵なんか作ったの?という素朴な疑問は今でもありますが、一言で答えろという問題があれば、「海軍の基本思想が『攻撃は最大の防御なり』だったから」と書けば間違いではありません。
なので、レーダーや対潜ソナーなどの「防御のための兵器」にはまったく興味がなかったのです。まあ、あるにはありましたが現実は、

「ないよりはマシな程度。爆雷投下だってほとんど熟練者の山勘」

(by駆逐艦天津風』元艦長)

でした。


堀はそんな空気に真っ向から反発しました。海軍は島国日本を守るための軍隊だと。
しかし、これが海軍の存立を脅かす危険思想とみなされ、さらに「統帥権干犯問題」で揺れた海軍内のいざこざに巻き込まれ、中将でクビになってしまいます。

それを聞いた親友山本五十六は大激怒、こんなアホみたいな海軍辞めてモナコでギャンブラーになってやると決意したそうです。しかし、それを察した堀に、

「貴様が海軍辞めたら海軍は終わりだ。貴様は残って立て直すんだ」

と止められ、そのまま海軍に残ります。
この二人は亡くなるまで肝胆相照らす親友同士で、山本が堀に宛てた手紙には少なからず彼の本音が書かれています。残念ながら現在でも堀家の私物とされ、ごくまれに故郷大分でサラッと公開される以外は非公開ですが。
しかし、有名なところではこんな言葉があります。

「個人としての意見と性格に正反対の意見を固め、その方向に一途邁進のほかなき現在の立場は誠に変なものなり。これも命というものか」

これだけ見ると、なんのこっちゃかわかりません。
しかし、これが真珠湾攻撃が決定した直後、ついにアメリカとの戦争決まったよ、俺の今の気持ちを聞いてくれと親友に宛てた手紙の一節だと解説すると、途端にその含蓄が理解できると思います。
私には、「命というものか」の語尾に続く、彼の長い長い嘆息すら見えてきます。
これがもしLINEなら、山本五十六のキャラのこと、最後に( ´Д`)=3という顔文字かスタンプをつけていたことでしょう。

 

 

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その優秀者揃いの兵学校32期の中に、塩沢幸一という大将がいました。

この人も、海軍史に相当突っ込まないと名前すら出てこない人です。同じ海軍通でも、いわゆるミリオタは知らないと思います。
この人は、32期クラスヘッドの堀悌吉の頭脳に唯一対抗できる人物でした。兵学校卒業時の成績は、堀に次ぐ2番。山本は11番、東條内閣の海軍大臣だった嶋田繁太郎は27番です。
海軍では、よほどのことがない限り、昇進は卒業時成績(ハンモックナンバー)順になります。少佐からは昇進に少し個人差が出てくるので、下位者が上位者と抜くことはちょくちょくあります。
しかし、11番が2番を抜くということは、まずありません。
実際、塩沢幸一と山本五十六の昇進を比べてみても、

 

大佐
塩沢:大正12年(1923)12月1日
山本:大正13年(1924)12月1日

 

初艦長
塩沢:大正14年(1925)5月15日重巡『古鷹』(初代艦長)
山本:昭和3年(1928)8月20日軽巡『五十鈴』

 

大将
塩沢:昭和14年(1939)11月15日
山本:昭和15年(1940)11月15日

 

昇進に1年以上の差があることがわかります。特に初艦長は海軍軍人の目標の一つでもありますが、これには3年のハンデがあります。

しかし、成績優秀で次期トップ間違い無しの塩沢がトップの職に就かず、成績下位の同期が連合艦隊司令長官になったり、海軍大臣になったりしたのか。
これも海軍史を勉強していく上での小さな謎ですが、トップの牌を争う枠になると、それをGETできるかどうかは、運もあります。
塩沢は昭和15年(1940)、横須賀鎮守府の長官に就任しますが、横須賀鎮守府長官は「次期海軍大臣」のポストが約束されているような地位でした。
しかし、「次」である大臣のポストがなかなか空かず、そのまま軍人としては終点に当たる軍事参議官に。
同期の嶋田繁太郎が彼の後の鎮守府長官になりますが、その時に大臣の席が空いて・・・という流れだったのです。

ちなみに、この嶋田が大臣だった東条英機内閣の海相候補は、横須賀の嶋田ではなく呉の長官の豊田副武(そえむ)という大将でした。
この豊田副武は非常にクセがある人で、大をいくら付けても足りないほどの陸軍嫌い。「馬糞」「ケダモノ」と陸軍軍人と罵っていた有名人でした。
その豊田大臣を、陸軍の東條は非常に嫌い、あんな奴大臣に寄越すなと海軍に注文をかけました。
当時の空気的に、東條内閣ができたら戦争は不可避。戦争したら日本は滅ぶ。豊田がダメなら海軍は大臣を出さない、よって内閣流産で東條を倒そう。海軍次官はそういうシナリオを立て、大臣など海軍トップに意見を出しました。
しかし、運の悪いことに、当時の海軍トップがことごとく腰砕けの事なかれ主義でした。腰が砕けた理由は、いちばんの腰砕け及川古志郎海軍大臣が戦後に、

「(戦争しろという世間の)空気読んだ」

と述べていますが、その空気を変えるのが大臣の仕事やろとみんな呆れ返りました。
そうして代わりに嶋田に大臣の椅子が転がり込んできましたが・・・そしてその結果は書くまでもないですね。


塩沢幸一という人物


この塩沢幸一という人物は、どんな人物だったのでしょうか。
彼は長野県伊那地方の出身で、実家は・・・あの養命酒本舗でした。
養命酒は伊那地方の名士だった塩沢宗閑の秘薬とされ、400年の歴史を持っている薬用酒です。養命酒は代々塩沢家によって受け継がれ、株式会社になった今の養命酒製造も塩沢家が経営しています。幸一はその本家の四男でした。

彼は兵学校を2番で卒業したほどのエリート中のエリートでありながら、軍歴を見るとほとんど陰の道を歩いてほとんど目立ちません。
彼の知名度が低いのも仕方ありません。なので、これといった派手な武功や手柄もありません。書くことも特にありません。それほど地味な人でした。

 

彼のあだ名は、出身が出身なのか「養命酒提督」でした。
これは山本五十六が、
「おい、養命酒!」
と塩沢を呼んでいたことからと言われています。
実際、塩沢と山本は仲が良かったそうで、山本が戦死した国葬の司祭長を務めています。


山本五十六養命酒提督

昭和9年(1934)、山本五十六は「ロンドン軍縮会議」の予備交渉の海軍側首席代表として、ロンドンに派遣されました。
交渉は2~3日で終わるものではなく、米英などの海軍首脳たちとタフな交渉を行っていました。
その時、山本が日本から持って行っていたものがありました。それが養命酒でした。
一説によると、山本が養命酒本舗に電話をかけ養命酒を大量注文。肝心の代金は

「幸一君に請求しておいてください」

と。
塩沢がそれを聞き、こら山本!と慌てたものの、既に本人はロンドンへ向かう船上の人・・・仕方なく塩沢は代金を支払ったか、彼の顔でチャラになったと。
本当かどうかわからない話ですが、山本五十六の性格を考えると、彼らしいあり得る話だなと。

彼はスーツケースいっぱいに養命酒を放り込み、ロンドンで事あるごとに飲んでいたと言います。ちなみに、山本は酒が全く飲めず、宴会でも徳利にお茶を入れていた下戸でしたが、養命酒くらいなら大丈夫だったそうです。
そのせいか、長丁場の交渉に相手側も、日本側も疲労が溜まっていましたが、山本ひとりだけ元気ハツラツぅ~でした。
それも、毎日深夜まで米英海軍の偉いさん相手に掛けポーカーを行い、1晩で20ポンドふんだくっていたほど。ちなみに、日本側代表団が泊まっていたロンドンのホテルのスイートが、一晩8ポンドの20ポンドでした。
イギリス側の提督がフラフラだったのを見て、山本が元気出せと「敵」を励ます余裕すらあったとか。

彼がピンピンしていた訳、それが養命酒だったと言われています。

 

その時にまつわる、ある言い伝えが残っています。
それは、海外に初めて養命酒を紹介したのは山本五十六だった伝説。
山本は養命酒を消費していただけでなく、海外の提督たちにも養命酒を紹介し、これは効くぞとアピールしていたそうです。
あるいは、山本があまりに元気ハツラツぅ~なので、その秘訣を聞かれて紹介したのかもしれません。今でこそ養命酒は海外展開もしていますが、その「海外営業マン第一号」が山本五十六だったと。
これは養命酒製造株式会社も認めていることらしく、テレビで養命酒の営業マンの人が言っていました。

養命酒と海軍、何のつながりもなさそうなキーワードですが、塩沢幸一という歴史の表舞台に出てこない提督によってつながり、そこに山本五十六伝説も加わり、いっそう歴史が色鮮やかになります。
まさかこんなつながりが・・・という意外性も、歴史の醍醐味と言えます。

 

塩沢幸一大将は軍事参議官として対米戦争に突入、山本五十六の死と国葬を見届けた数ヶ月後、後を追うように亡くなります。享年60歳。

 

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