昭和考古学とブログエッセイの旅へ

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近代史の「予言者」たち

 

聖徳太子は予言者だった

 

www.mannerstyle.jp

 

いつも拝見させていただいているブログ、マナースタイルさんから二度目の言及です。

聖徳太子は数々の伝説を残したという、本当のことかはさておき、日本の歴史に燦然と輝くお方です。

 

マナースタイルさんが本文で述べているもの以外にも、

 

聖徳太子は1000年後のことまで予言できた!!」

 

という伝説があります。

 

聖徳太子の「予言」とは、太子が亡くなった西暦622年から、1000年後の1621年までを予言した書物が残っているとのこと。

その真偽の程はさておき、見方がひねくれ、人の言うことは容易に信じない歪んだ私は、なんだかこう思ってしまいます。

 

「1000年って、なんか切って貼ったようなキリのよろしい数字やな(笑」

 

それと同時に、あるフレーズを思い出しました。

 

孔子も予言者だった!?

 

中国古典の『論語』に、こんなやり取りがあります。

 

子張問、十世可知也、子曰、殷因於夏禮、所損益可知也、周因於殷禮、所損益可知也、其或繼周者、雖百世亦可知也。

~書き下し文~
子張(しちょう)問う、十世(じゅっせい)知るべきや。子曰わく、殷は夏の礼に因る、損益する所知るべきなり。周は殷の礼に因る、損益する所知るべきなり。其れ或(あるい)は周を継ぐ者は、百世と雖(いえど)も知るべきなり。

 

この文を現代っぽく、かつ私の勝手な解釈で訳すと、弟子の子張が

「百年後の未来を予測することは出来るんですか?」

と質問したのに対して、孔子

「歴史はつながっているものなんだ。ちゃんと過去の歴史を数百年分調べたら、百年先どころか千年先の未来でもだいたい予想できるよ」

と答えたものです。

 

聖徳太子は、

「過去1000年のことがわかれば、未来1000年のこともわかる」

と述べているそうですが、その言葉自体『論語』のパクリやんか!!と(笑

 

 

仮にこれがパクリじゃなかったとしても、明らかにパクってるやんw

というフレーズがあります。

 

『和をもって貴しとなす』

 

有名な『十七条憲法』の一文ですが、これの「元ネタ」って知ってますか?

 

有子曰、礼之用和為貴、先王之道斯為美、小大由之、有所不行、知和而和、不以礼節之、亦不可行也。(学而第一 12)

~書き下し文~

有子曰く、礼の用は和を貴しと為す。先王の道も斯れを美と為す、(以下略

 

太子さん、偉そうなこと言っておいて、実は『論語』を丸パクリしているのです(笑

 

儒教が日本に伝わった時期ははっきりしていませんが、少なくても仏教と同時期に伝わっただろうと言われています。仏教が伝わったのは太子が生まれる少し前、西暦550年頃と言われています。

 

「和」は「和食」「和式」など、「日本」をあらわすものですが、そもそも「和」にそのような意味はありません。現代中国語でも、「和」に日本という意味はありません。日本独特の意味の付け方なのです。

その「和」を英語にすると、harmonyといったところでしょうか。

 

聖徳太子が生まれた頃に儒教が日本に入ってきたと仮定すると、太子の青年期の頃は『論語』などは中国からの最先端の思想ということになります。

そんなナウい・・・これは古いな、目新しい思想学問に太子様が飛びつかないわけがない。そこで、儒教の「和」と日本古来からある、文字やことばに出来なかった(だろう)「何か」が結びつき、『十七条憲法』で「和」をコピペしたということでしょうね。

 

 

 

 

これは、聖徳太子が1000年先まで予言をしたかの真偽を正す記事ではありません。

ただ言いたいのは、「予言は超能力ではない」ということ。

情報を収集・分析し、孔子の言うように歴史に鑑みて「温故知新」をしてゆけば、予言は我々とは言わないものの、「ふつうの人」にも出来るのです。

 

そういう「近代史の予言者たち」を紹介していきます。

 

近代史の「予言者」たち

 

1.井上成美(1889-1975)

 

井上成美海軍大将

 

昭和の旧帝国海軍に、あまりの頭のキレと理屈っぽさから、「カミソリ井上」「井上1トン爆弾」と言われた人物がいました。のちに「最後の海軍大将」とも呼ばれる井上成美海軍大将です。

井上の性格・人物像を語るのは簡単です。あの橋下徹大阪市長を「超サイヤ人」にしたような感じと思っていただいて結構です(笑)まあ、少なくともタイプは似ています。

 

 

ある心理学者は、人は二種類に分けられると説きました。

T(理屈)タイプE(感情)タイプ、ただこれだけ。

詳しいことは省略しますが、日本人は得てしてEタイプが多く、またEタイプの方が好まれます。逆にTタイプは少なく、そういう人たちは「理屈っぽい」と嫌われる傾向があります。

井上は元部下に言わせると、「ガチのTタイプ。欧米にはけっこういるけど日本ではかなりレアな存在」ということですが、この極度のTタイプが現代に蘇ったのが橋下氏です。

極度のTタイプは日本人の生理的感情に合わない、嫌われるのは必然。井上も例外ではありませんでした。ただし、理屈の裏に潜むE(やさしさ)があり、そこを敏感に感じ取ったか女性にはけっこう慕われたそうです。

 

 


井上が海軍大佐、戦艦『比叡』の艦長をしていた昭和7年(1932)、海軍の青年将校首相官邸に殴り込み、首相を暗殺した515事件という事件が起こります。

武器を自分個人の思想のために使という、帝国海軍始まって以来の不祥事に海軍はお慌てしますが、井上は軍艦の上から冷静に事態を見守ります。

そして、ある結論にたどり着きます。

 

「515事件が海軍主導で行われて、陸軍は絶対に『先を越された!次は我々だ!』と思ってる。515事件のような、いやそれ以上の大事件を必ず起こす」

 

これは井上の先を読んだ「予言」でした。

 

その後、井上は少将となり、横須賀鎮守府の参謀長(ナンバー2)に就任します。横須賀鎮守府は東京に何かあった時の警備も職務範囲なのですが、彼は陸軍が大事件を起こした時の対策を取り始めます。陸軍が東京で何かやらかした時、海軍はすぐに動けるようにと、各部隊に研究を命じました。

そして、懇意の新聞記者に陸軍の動向を報告するように依頼し、見ない、何も知らないフリをして目を光らせていました。

 

そして昭和11年(1936)2月26日、かの二・二六事件が起こります。

すでに準備万端だった井上は、待ってましたと軍艦を出動、東京に軍を進めます。しかし、これは東京の軍令部という身内に足を引っ張られてしまいます。

全部準備万端だったのに、ちゃぶ台をひっくり返された怒りは戦後になっても収まらず、

「くそ、陸軍の動き全部お見通しだったのに、軍令部め邪魔しやがって!」

とかなりお怒りでした。

 

そして時は流れて昭和16年(1941)、航空本部長という高い地位に就いていた井上は、アメリカとの戦争不可避という空気に逆らい、反対していました。

井上の戦争反対のロジックはぐうの根も出ないものでしたが、やり込められた方はロジカルでは全く歯が立たないので感情的に反発、空気が悪くなってきました。

井上はけしからんという陰口を叩かれているのを知った井上は、ある論文を大臣宛に提出します。その名は『新軍備計画論』

 

これがどんなものかを箇条書きすると、こうなります。

 

1.戦艦どうしの撃ち合いなんてもう起こらない。これからは航空機の時代

 

2.戦艦なんて即日スクラップにして、空母や海防艦、潜水艦を作れ

 

3.アメリカと戦争になったら、太平洋の島々の奪い合いになる。今から太平洋の島という島に飛行場を作り、「不沈空母」にしろ

 

4.潜水艦を使って商船破壊を徹底的にやれ。アメリカも同じことをするから、対潜武器の開発を急がせ、潜水艦退治に特化した艦(海防艦など)を大量に作れ

 

5.輸送船を保護するために船団を組ませ、それを保護する艦を充実させろ

 

7.日本はアメリカの首都を占領できますか?できません。アメリカは日本の首都を攻撃・占領できますか?できます。

 

8.爆撃機で東京などの都市は空襲されるから、防空対策も充実すべし。防空専用迎撃機の開発も必要

 

9. しかし、ここまでやってもアメリカには勝てません。だから戦争するべからず!

 

などと書いてあったのですが、海軍はそれを危険文書として大臣のみ閲覧可と封印し、お返しとして井上は東京から追われ、日本の組織によくある「栄転という名の左遷」を食らいます。

井上が再び中央に帰ってくるのは、敗戦の色合いが強い昭和19年(1944)のことです。

 

この『新軍備計画論』を歴史の結果を既に知っている今の我々から見ると、まるで「予言書」です。本当に対米戦争開戦前に書いたものなのかと驚愕します。ノストラダムスのあれよりすごい。

皮肉にも、1~8のすべてを実行したのは日本海軍ではなくアメリカ海軍の方。井上は戦争になったらアメリカ軍がどう出るかを読み、その対策を取れと『新軍備計画論』を書いたのですが、戦後に米軍関係者が大臣室の金庫の奥に眠っていた『新軍備計画論』を見て、

日本海軍がアドミラル井上の策を採っていたら、我々はたぶん負けていた(汗)」

顔が真っ青になったと言います。

 

ちなみに、井上が手書きで書いた『新軍備計画論』の原本は今でも防衛省資料室にあり、見ようと思えば我々も閲覧可能です。

 

 

 

2.堀栄三(1913-1995)

 

堀栄三陸軍中佐

 

井上が海軍なら堀栄三は陸軍中佐、陸軍では珍しい情報のスペシャリストの将校でした。

 

掘は当時禁止されていたアメリカの短波放送を聞いて情報を手に入れ、アメリカ軍の攻撃の時期をピタリと当てていました。

しかし、短波放送といっても、別に「今からどこどこの島攻めますよ~」なんて言ってくれるほど、米軍は親切ではありません。

掘の情報源の一つは株価情報。NY市場の株価を調べているうちに、

「米軍が攻撃してくる2ヶ月前に、缶詰製造会社と製薬会社とパン製造会社の株価が一斉に上がる」

という法則に気づいたからでした。

 

戦前の陸海軍将校教育の欠点の一つに、社会科学を全く習わなかったということがあります。軍事しか習わない「ミリオタ」を作ったのが、昭和の暴走につながったという事が定説になっていますが、逆の見方をすると幅広い視野を身につける教育を与えなかった事が、視野が狭いエリートを増やしてしまった失敗です。

 

特に経済を学ぶことはタブー中のタブーで、海軍で経済書を読む人間はケダモノ扱いだったと元軍人が述べています。陸軍より数段階開明的と言われていた海軍でこのザマなので、陸軍はおそらくもっと白い目で見られていたと思われます。

そんな中、経済から米軍の動きをつかんだ堀は、金太郎飴のような陸軍将校の中でもかなり広く、変わった視点を持っていた「変わり者」と言えます。

 

昭和20年頃、堀は陸軍の極秘情報機関に配属され、アメリカ軍の無線電波を傍受していました。

軍の通信は基本的に暗号で交信されるのですが、アメリカはB29の部隊名と機体コード(飛行機のシリアルナンバー)は平文(ひらぶん。暗号じゃない普通の通信)で知らせていました。

これに気づいた堀は、B29のコードから情報の収集・分析を開始。

東京大空襲の後くらいには、どこの島にいくつ部隊があり、何時何分どこそこ方面にB29が何機飛んだ、ということはわかっていたようです。

しかし、いくら情報を仕入れて上に報告しても、情報を活用する側がボンクラだと何の役にも立ちません・・・。

 

昭和20年の6月ころ、情報機関は新しいコードの部隊が出来たことを知ります。

しかし、機体コードの番号が他の機と全く違う上に、機体の数も極端に少ない。一体なんなんだこいつら・・・と不気味さを感じたと述べています。

その部隊は8月6日、広島に向かい原爆を落とします。そう、不気味な謎の番号の部隊は原爆の投下部隊だったのです。

 

広島の原爆の後、陸軍はこう分析していました。

「アメリカが持っている原爆は一発だけ。だから二発目はない」

しかし、堀はこう分析していました。

「アメリカは満を持して原爆を落としたはず。一発目があるなら必ず二発目がある。それも近いうちに」

 

その3日後、同じ部隊コードのB29が基地を出発した無線を傍受しました。

「原爆積んだB29が出発した。2発目来るぞ!九州方面に向かっている!」

すぐに上に報告したのですが、何の対応も取らず結果は歴史が物語る通り。

 

広島については詳細を語っている堀中佐ですが、長崎のことはひと言も語っていません。語っていないというより一切ノーコメント。原爆積んだB29が九州に向かっているのが手に取るようにわかっていたのに防げなかった、と申し訳なかったのだろうと思われます。

堀の部下だった人が語っています。

「広島(の原爆)は防げなかった面がある。しかしこれだけは我々は胸を張って言える。我々の情報がきちんと伝わって適切な処置をしていれば、長崎に原爆が落ちることは絶対なかった

 

堀は情報専門将校だけあって、いくつかの情報戦術も著書で紹介しています。

情報にはマニュアルがないので、作業は手探りで掘っていかないといけません。

相手が何を考えているのかわからない、読めない場合、「空砲」を撃ち相手の反応を見ろと堀は述べています。

 

戦後に故郷に帰った後のこと。GHQから突然、

「すぐに東京(のGHQ)まで出頭せよ!!」

といういかつい電報を受け取りました。

もしかして戦犯として逮捕されるかもしれない。堀はとっさにそれが頭に浮かびました。たとえ自分は何もしていなくても、部下が捕虜虐待などをすると、上官も管理責任を問われ同罪となります。

そこで堀は、GHQに向かって「空砲」を撃ちます。

「今農作業の繁忙期だから手が離せない。後にしてくんない?」

GHQからの回答かこうでした。

「了解。ヒマな時期を知らせよ」

 

これで戦犯で逮捕される可能性は消えたと判断した堀は、堂々とGHQに出頭することができましたとさ。

 堀はさりげなくやっていますが、けっこう高度な情報戦術。ビジネスでも恋愛でも応用できるテクニックです。

 

 

 「予言者」に共通すること

二人に共通することは、緻密な論理力と情報処理能力の持ち主だということ。そこに歴史というエキスを加えていくと、ある程度は先を読むことができる。

昭和を生きたこの二人を見ていくと、そう思えてなりません。

 

聖徳太子も当時の「世界最先端」の知識や技術を取り入れ、幅広い知識や見識を身につけ、 当時の「とんでもない物知り」だったことでしょう。
そして、それを基にした「先見性」で先の未来をある程度読めた、それが伝説になって「予言者」という説が出てくる理由でしょう。

 

くどいようですが、聖徳太子が本当に予言者だったかどうかはわかりません。

しかし、我々も「情報を収集し、それを組み立て、幅広い教養を触媒にすれば」、ちょっとした予言者になることも不可能ではない。そう思えるでしょ!?

 

それを指し示してくれる、ある人の指針があります。

安岡正篤という哲学者は、人間の成長を三段階で表現しています。

 

1.知識

まずはがむしゃらに知識を吸収する。今は幸い、情報だけは溢れている時代なので、知識の吸収に不自由することはありません。

ふつうの人は、知識を手に入れただけで満足してしまい、成長がここでストップします。安岡氏は、人間の9割はここでストップと、厳しい言葉を遺しています。

 

2.見識

知識だけでは、今の時代パソコンのHDDに及びません。昔は知識を持っているだけで「知識人」ともてはやされましたが、今はWikipedia先生に聞いたらわかること。「ただの物知り」で終わり。

知識に経験が重なり、そこに自分の思考が加わると「見識」となります。見識まで来る考えがオンリーワンの知識となり、「どこかのコピペ」と言われることはありません。

 

 

3.胆識

見識が身についても、頭でっかちになっていては本末転倒。

それを実行に移す、断言できる、ブログなどで主張できる実行力が必要となります。

それが「胆識」です。知識・見識は知られた言葉ですが、「胆識」は安岡氏の造語なので、あまりポピュラーではありません。

 

「予言者」になるには、まずは大量の「知識」を仕入れる土壌作りから始めます。それも狭い知識、自分が欲しい知識ではなく、幅広い知識を身につける。

それをベースに、現場を見る、自ら経験するなどの経験値を積み「見識」を磨き上げる。

最後は、「必ずこうなる!」と断言し、かつ人にも断言できる「胆識」が不可欠です。

 

自分の知識と見識を磨き上げていけば、いずれは今は見えない何かが見えてくるかもしれない・・・それが世間で言う「予言」なのかもしれません。

 

 

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