昭和考古学とブログエッセイの旅へ

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

旧制台北高等学校物語ー第2話【昭和考古学】

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台北高等学校の帽章)

 

第一話、

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

に引き続き、台北にあった旧制高等学校(「台高」)の歴史を書いていきます。

 

尋常科と高等科

1922年に創立した台高ですが、まず作られたのが「尋常科」というクラスでした。

旧制高校は3年制だということは説明しましたが、高校によっては7年制の所も存在していました。台高もそのうちの一つでした。

 

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小学校から大学へは、中学校・高校と受験を乗り越えていかなければならないのが基本ですが、高校の尋常科に入るルートも存在していました。

旧制中学だと高校に入るための受験地獄を味合わないといけなかったですが、高校の尋常科に入れば大学まで受験のプレッシャーは全くなし。7年間留年さえしなければ寝ていても大学まで行けるという、今の中高一貫校と同じ、いやこちらの方が全国の大学選びたい放題な分恵まれていました。

さらに、尋常科は中学経由より1年間就学年数が短いというおまけが。漏れなく飛び級1年の特権付きなのです。中学も成績が優秀であれば「4年修了」という事実上の飛び級がありますが、それは「きわめて優秀な人」のみ。高校尋常科は無条件で漏れなく全員。そこが全く違います。

 

しかし、尋常科を設置している高校は非常に少なく、基本的に公立と私立のみでした。それも募集人員自体が今の高校1クラス分と非常に少なく、中学から高校に入るよりはるかに狭き門でした。

東京の場合、府立高校や私立高校、東京高校に官立唯一の尋常科が設けられていました。戦前のお受験世界にとって高校の尋常科に入ることが最強中の最強。入ってしまえば大学まで安泰な上、世間からは13歳にして「末は博士か大臣か」とチヤホヤされる。そりゃ親ともども血眼になりますわな。

昭和初期頃の東京の中学難易度は以下のような感じだったそうです。なお、当時は偏差値などの相対的な基準がなく、お受験する人や保護者、世間の評判などの主観なので悪しからず。

■お受験界の超サイヤ人ゴッド:府立高校、官立東京高校、各私立高校(の尋常科)、東京女子高等師範付属高等女学校(現御茶ノ水大学付属高校)

 

■ふつうにすごい:府立一中(現都立日比谷高校)、四中(現都立戸山高校東京高等師範付属中(現筑波大学附属高校)

 

■まあ普通:麻布中(現私立麻布高校、開成中(現開成高校

 

■敢えて言おう、カ○であると:早稲田中・慶応(普通部)他

 

台北高等学校の場合、

1922年 創立。とりあえず尋常科のみ

1925年 高等科設立

1926年 古亭町の今の敷地に新校舎が完成、引っ越し

(1928年 台北帝国大学設立)

という経緯でした。高等科を作るのは小さい大学を一つ作るほどの資金と土地、エネルギーが必要なので、まずは4年制の尋常科だけを作り、彼らが卒業するまでに高等科を作ろうと。

 

後で高等科を作る前提で尋常科だけ作ったものの、高等科が出来ずに終了というパターンは、大阪に存在します。

大阪市は既に大阪商科大学(今の大阪市大)という大学を持っていたのですが、既に府立高校があった府に対するライバル意識か、

「うちも作ろうじゃないか」

ということで、「旧制大阪市立高校(仮名)」の設立を目指し、まずは尋常科(旧制中学)を創設。が、戦争、敗戦という混乱で高等科は作られないまま、計画は白紙に戻りました。しかし尋常科だけは戦後も残り、大阪市立高校(新制)として現存しています。

 

 

 

内地の尋常科が非常に狭き門だったのと同じく、台高の尋常科もひじょ~~に狭き門でした。

 

昭和12年旧制台北高等学校生徒総数

昭和12年(1937)当時の台北高校の学生数は、尋常科と高等科を合わせて453人。

尋常科の定員は、今の高校の1クラス分の人数しかいない少数精鋭主義でした。

さらに見てみると、本島人(台湾人)の人数は各学年4~6人程度です。この人数が台高尋常科の見えない台湾人枠となっていました。

台高の尋常科の狭き門を通り抜けた台湾人の一人は、こう書いています。

「(台湾)全島の小公学校の(成績が)一番二番が400名集まっても、たった40名しか入学できない狭き門であった。しかも、40名のうち35人が内地人、本島人は毎年4,5人しか合格できなかった」

邱永漢『わが青春の台湾』

邱永漢の少年時代の自伝に書いてあったことですが、彼の記述は事実であることが資料と数字でも裏付けられました。 

 

旧制台北高校尋常科入試問題(国語)

新聞に掲載された尋常科の実際の問題(国語)です。大人が見るとそれほど難しくないように見えるものの、やはり12~3歳の子供にとってはかなり難しい。

特に算数は地球の赤道の長さや公転周期、うるう年の計算なども出てきたそうで、応用力が試されるハイレベルな問題でした。

 

旧制台北高校高等科入試問題数学

これは高等科の数学の問題。問題文が文語かつカタカナ混じりなところが戦前らしい。難易度は今の高校数学レベルだそうですが、数学が大の苦手の私には、問題の意味すらわかりません(汗)

 

 

こんな資料もあります。

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日本は確かに、台高や台北帝国大学など、植民地に高等教育機関を作りました。それを誇らしい、日本人の偉業だという人がいます。

しかし、残念ながら内地人(日本人)と台湾人の受験枠は決して平等ではなく、内地人と比べて台湾人への門戸が非常に狭いことは明らか。後日書く台北帝国大学の項で詳しく書くつもりですが、日本統治時代の台湾にはこういう「差別」が現実に存在していました。法律が変わり字面は日本人と台湾人平等になっても、現実はこの通り。

 

台高に文科の台湾人が少ない理由を、ある作家が書いています。

「(本島人が)うっかり文科を志望すると、大学を出ても弁護士になるか、新聞記者になるくらいしか道がひらけていなかった。内地人のように官途に就くことはまず考えられなかった。台湾製糖の技師として就職ができたかもしれない。しかし高級管理職となるとやはり厳しく、定年まで内地人の部下として働かなくてはいけなかった。

(中略)たいていの本島人学生は、個人営業のできる医者への道を選択し、他のクラスがすべて5~6人程度なのに対し、医学部の直線コースである理乙だけはクラスの40%近くを本島人が占めていた。

文甲を選んだのは私のクラスは私を含めて6名の本島人がいたが、王育徳君と私だけが東大を志望し、他の4名は医学部へ方向転換して医者となった」

邱永漢『我が青春の台湾 わが青春の香港』

 

「もともと本島人にとって、文科系を志望することは、海のものとも山のものともつかぬものを追求する一種の冒険同様だった。これに比べれば、医学はいつの時代にも元本確実な投資と言えた」

王育徳『昭和を生きた台湾青年』

 

実際は内地で検察官になったり、大蔵省や文部省に入省したり、作家の陳舜臣氏のように国立学校の教員、つまり国家公務員になった台湾人もいたのですが、それは台湾では差別が激しく出世は絶望。内地へ行くしかないという現実を表すことでもありました。

 

しかし、露骨な差別を受けてもなぜ「元日本人」たちは概ね親日で、現在ひ孫世代の若者に「懐日」ブームまで起きているのは何故か。「元日本人」のインテリたちは口を揃えて言っています。

「しかし、不満と言えばそれくらいだった」

 

 

 

 

台高の学科は以下のようになっていました。

 

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資料によると、雰囲気的に

文科甲類:よく学べよく遊べ、ストームで大暴れ大好きなバンカラ

文科乙類:東大に入らずんば人にあらず、東大一直線ガリ勉組

理科甲類:文科甲類の理系版。授業そっちのけで趣味の世界に入るオタク組

理科乙類:ただの医学部には興味ありません!医者のタマゴ組

という分かれ方だったそうです。

当然、尋常科の生徒は卒業すると全員高等科へ御案内。

当時尋常科高等科にかかわらず、台高に合格した人はラジオで速報が流れ、合格者が放送で読み上げられたそうです。台湾人にとっては台高に合格することは夢のまた夢。自分の名前がラジオで流れた瞬間、もう死んでもいいと思ったと合格した台湾人OBが述べていました。

 

台北高等学校の雰囲気

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台高の学生は「日本最南端の高校」として、また内地以外に作られた数少ない高校としての誇りを持っていました。 

南国の独特の雰囲気のもと、学生たちはのびのびと自由気ままな学生生活を送っていました。

しかし、自由気ままは責任を伴うもの。今風に言えば旧制高校生はすべて「自己責任」の世界でもありました。ストームで暴れるのは結構だし学校もできるだけ庇うが、後始末は自分でつけろ。これが高校生の基本でした。

授業も非常に厳しく、ゲーテニーチェはもちろん、経済や法律の本も英語やドイツ語などの原書で読み、文法の授業などそれくらい自分で勉強せいとセルフサービス。授業でわかりませんなど言おうものなら、

「そんなものもわからんと高校生やっとるのか!」

と先生の怒号と雷が落ちてくる。

大いに遊んだが大いに勉強もし、時間を惜しんで古今東西の名著に触れ、寮や下宿で同級生と夜ごと唾を飛ばして議論する。「人生最大のモラトリアム期間」、現代風に言うと高校生活はこの一言で表現できるかと思います。 

 

 

ここからは、写真で当時の雰囲気をお伝えします。

 

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ヤシの木の下で腕と肩を組む台高生。

 

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校舎と学生たち。後ろにある校舎は当然現存し、現役で使われています。

 

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グラウンドから見た校舎。

 

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旧制高校時代の足は最初は学校前にバス亭があり、市街地までダイレクトに結んでいました。のちに学校の裏側に台北~新店まで、台北鉄道という私鉄が通ります。今のMRTの新店線の原点となる路線ですが、学校からは少々遠いものの、「古亭」という駅が設けられそれに乗って通学する人もいたそうです。

バスは時刻表通りに来なかったこともあるそうで、それに怒った台高生たちがバス停の標識を引っこ抜き、高校の中にある噴水の中に投げ込んだというエピソードが残されています。

 

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台北高等学校には「七星寮」という学生寮がありました。寮は他の旧制高校の例に漏れず完全自治が約束されていて、写真は寮の自治委員会の選挙のシーンだと思われます。

 

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台高かどうかは確定できませんが、高校生たちの門限破りはいつの時代も変わりません。閉められた門を乗り越えることを、学生用語で「ゲート・オーバー」と言っていたそうです。高校生の象徴の手ぬぐいも、こういう使い方があったのか。

エリート高校生といっても10代後半のガキンチョ、まだやんちゃなところが抜けていません。

 

 

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台北一の繁華街、「栄町」にあった本屋で立ち読みをする台高生・・・と本に書いていたのですが、実は台湾大学の資料室に少しアングルが違うものの、写っている人物が全く同じ写真があり、台北帝国大学にあった予科の学生という説明がありました。正直なところ、どちらが本当かわかりません。

いずれにしても、学生たちより左下の子供の屈託のない笑顔が素敵で印象的です。

 

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ほぼ同時期に調査された、台高と台北帝国大学の学生がよく読む小説ベスト5です。どちらも上位は当時流行った小説だそうで、内地で流行った本がすぐに台湾でも販売され読まれていたことがわかります。

 

 

 

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同じアンケートで、「1ヶ月にかける本代」というデータもありました。

下に「100円など取るに足らず(=マジメに答えろ)」と書かれていることから、マジメに答えない学生もかなりいたようですが、月3~5円がいちばん多くなっています。今のお金なら10,000~13,000円というところでしょうか。

 

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台北には数々の本屋がありましたが、その中の有名店の一つが、「栄町」という戦前の台北一の繁華街にあった日本統治時代最大規模の書店、「新高堂書店」でした。

一般書はもちろん、書店独自編集による台湾の各学校の赤本も出版・販売し、学生たちの御用達&たまり場になっていたそうです。学生が立ち読みしている上の本屋の写真は「栄町の本屋」とあるので、そこの唯一の書店である「新高堂」に間違いないようです。

 

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「新高堂書店」は上の地図の赤丸の場所にありました。

 

 

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1920年の絵葉書に描かれた新高堂書店です。

 

それにしても、地図を見ておやこの場所は?・・・と思ったら、台北で宿泊したOxgen Hostelの向かいやないですか。

 

台北の目薬本舗重慶南路。戦前は新高堂書店

Oxgen Hostelの記事でアップしたこの写真、別に何の考えもなく撮ったのですが、「新高堂書店」の跡だったのに気づいたのは、古地図と照らし合わせた今の今でした。絵葉書の風景の97年後の姿です。

 

ちなみにこの新高堂書店、戦後に日本に引き揚げ現在でも東京中目黒で営業しています。1898年創業で来年で創業120年、何かイベントでもあると面白いですね。

ナカメアルカス内の新高堂書店

 

 

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屋台の支那そばを食らう台高生たち。台湾名物の屋台は昔からあったようですね。やっぱりカメラは珍しいのか、子供が思い切りカメラ目線です。

 

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公園での台高生。真ん中の学生はロン毛(学生は坊主が当たり前の時代なので、これで十分ロン毛)にマント、高下駄と高校生らしい典型的なバンカラです。

後ろの高い塔はどう見ても総督府(今の総統府)なので、おそらくここは日本統治時代は「台北新公園」と呼ばれた現ニニ八和平公園でしょう。 

 

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後ろの学生の胸には右から、「台高文三甲クラス會」と書かれています。たぶん寮で行われたクラスの打ち上げでしょう。

 

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台高にも当然、ストームが存在しました。台高ストームは内地出身の学生が持ち込んだ習慣で、保守的な台北ではかなり煙たがられたそうですが、そんなもの学生はお構いなし。若いエネルギーを発散していました。写真は街に繰り出す街頭ストーム。

 

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校内ストームならみんな裸になって太鼓でリズムを取りながら大暴れ。ものすごく楽しそうです。

 

台北高等学校寮祭

 

旧制台北高校学寮祭

旧制高校では、年に1回学寮が主催する「学寮祭」が行われていました。今の文化祭という感じです。

台高でも当然存在しました。台高の学寮祭は学生が今風に言えばコスプレをし、高砂族の歌に合わせてヤシの木の周りで踊る「台高踊り」が名物でした。上の写真でも、女装や水着姿、高砂族などの仮装をした学生が踊り、そのまわりに近所の市民や子供が集まって見ています。

この写真一枚で、台高の自由な空気が見ているこちらまで伝わってきます。

コスプレは台高だけでなく、台北市台中市など主催の仮装コンテストまでありました。台湾が現代日本のコスプレ文化を抵抗なく受け入れているのも、親日だとか浅いところではなく、仮装に寛大な民族性など深いところに原因があるのかもしれません。

 

 

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学寮祭にやって来た女性とのこと。何気ない一枚ですが、旧制高校は基本的に男性のみの超硬派で女人禁制。学園祭でも女性が入ると学校がひっくり返るほどの大騒ぎ。実際、旧制第一高等学校(今の東大駒場キャンバス)で学生の母親と妹が入っただけで、学校中が蜂の巣を突いたような大騒ぎ。連れ込んだ学生の退学を要求する学生側と庇う学生で大激突し、校長まで巻き込んで学校中の大激論となったほどでした。

写真が残っているくらいなので、台高はおめかしした女性も入れるほどの自由な気風だったのでしょう。

しかし、なんとなく男性に見えないこともないような・・・気のせいか。

 

 

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 日本の敗戦で台高は接収され、台北高等学校としての歴史に幕を閉じることになります。

「民国35年3月5日 別離ノ宴」

と書かれており、他にも「萬年床」などの高校寮用語が見えるので、1946年に行われた台高の寮で行われたお別れ会の写真なのでしょう。

 

 台高生たちの進学

旧制高校生は大学へフリーパスでしたが、台高もその例に漏れず、全国の大学へ散って行きました。

 

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上の表は、台高生たちの卒業後の進路です。台湾師範大學がネットで公開しているデータを元にまとめたものです。

台高に特徴的なのは、理系に台北帝国大学への進学がかなり顕著だったこと。

年表風に書くと以下の通りとなります。

1925年 台北高校高等科設立

1928年 台北帝国大学設立

 

これは何を意味するかというと、台高と台北帝大はほぼ「姉妹校」という関係だったということ。台高が総督府立なら帝大も総督府立。できるものなら東大に行かずに「付属大学」に進学して欲しいと。

年表っぽく書くと、台北帝国大学が台高高等科の卒業に合わせた受け皿として設立されており、一本の教育政策に基いて作られていることがわかります。

 特に文系に内地の大学への進学希望者が多かったのですが、台高は旧制高校といっても内地の一高(東大教養学部)、三高(京大)などの高校生には刃が立たなかったようで、内地と台湾の学力の差に驚いた台湾人卒業生も多数いました。

 

台北高等学校の卒業生たち

 

台高は20年余という、その歴史は決して長くはありません。しかし、自由な雰囲気と日本人と台湾人が切磋琢磨し様々な人材を排出しました。また、総督府もかなり気合を入れたのか、帝国大学卒の教授を多数採用し、ハイレベルな教育を受けられるよう配慮したと伝えられています。

 

鹿野忠雄

鹿野(かの)忠雄(1906-1945?)は日本での知名度は低いですが、台湾では知る人ぞ知る著名な日本人です。

八田與一ほどの知名度はないものの、台湾を愛し台湾の自然科学に貢献した人として台湾史に名前が刻まれています。Wikipediaも、日本語版より中国語記事の方が情報量が豊富なほどで、台湾の国立国史館のサイトには鹿野忠雄の功績を紹介した専用ページがあり、彼の業績を紹介したDVDまで販売されているほど。当然国が税金で作ったものですが、それほど台湾に貢献したと表彰されているようなものです。

 

鹿野忠雄台北高校卒業時の写真

彼の台高在籍時の写真ですが、なかなかのイケメンですね。このオールバックの髪型は、のちに鹿野のトレードマークとなりました。

高校には入ったものの授業にはほとんど出席せず、内地では見たことがない生き物や植物を求め、毎日台湾の山野を駆け巡っていました。同級生からも「昆虫博士」「昆虫気狂い」と言われ尊敬半分呆れ半分で見られていたとか。毎年出席率が足りず留年スレスレ状態、最後も校長のお情けでなんとか卒業できたそうです。

「お情けでなんとか卒業」したものの、東京帝国大学理学部に進学。落第5分前でも空きさえあれば東大に入れるのが旧制高校のすごさなのですが、内地へ帰還した後も度々台湾へ戻っては台湾の研究に没頭しました。

国家が名前を残すほど鹿野の名前が台湾で重要視されているのは、台湾の生物学・地理学・人類学・考古学など、当時誰も手を付けなかった台湾に関するアカデミックな研究、いわば「総合台湾学」の基礎を築いた人だからです。特に人類学の観点からの原住民の研究のパイオニアで、現在でも研究資料が日本・台湾共有の財産となっています。

 

 

李登輝

李登輝氏

 

もう説明不要でしょ。「中華民国初の台湾人総統」ですが、その経緯を調べるとまさに無血革命といえる快挙。外省人や中国による妨害や引きずり下ろし工作、果ては暗殺予備の危機を乗り越え、台湾史はおろか東アジア政治史に名を残しました。

彼が行った総統の直接選挙も、実は中国4千年の政治史始まって以来の大ホームラン。日本では民主主義に馴れているので水や空気程度にしか感じませんが、国のトップを選挙で選ぶという概念、「政権は投票箱から生まれる」という理念が、それまで中国世界には全くなかった・・・いや、「本家」は今もありませんが。

政治記者からは総統を退いて17年経っても「ゾントン(総統)」と呼ばれているようで、名実ともに台湾の「THE  総統 OF THE 総統」扱いとなっています。こう書くと、なんだか宇宙戦艦ヤマトデスラー総統のイメージになっちゃいそうですが。

個人的には、もし今死んであの世に逝ったとして、あの世で「生きている時にええもん見たわ~」と振り返るのは、イチローの活躍と李登輝氏の台湾「無血革命」かと思います。

 

李氏の台湾における功績うんぬんはここでは省略しますが、本人は

台北高校に入って勉学に励み、急に世界が開けた」

と述べています。

李氏は台高の中でもバンカラ組な文甲でしたが、かなり勉強に励んでいたようです。しかし非常に我が強く、「死ぬとは何なのか」の答えが見つからず、悶々とした日々でもあったようです。

そんなある日、図書館で見つけた、台湾総督府付の製糖技師だった新渡戸稲造の講義録を見つけました。新渡戸稲造は前の5000円札の人ですが、サトウキビの品種改良を指揮しながら製糖業に従事する人たちに講義を行なっていました。

高校生の李青年は講義録を読み感動し、新渡戸稲造と同じく農業の道へ進もうと決意。進学先を京都帝国大学農学部農林経済学科へと決めることとなりました。のちの台湾史に残る政治家、「豚肉のことを語らせたら台湾で私の右に出る者はいないよ(笑)」という農業学者への第一歩は、台北高等学校での思索の日々が原点だったのです。

 

「日本人は台湾人のことを少々見くびるところがあった。私自身、そういう場面に何度も遭遇した。高校生の頃母を台北の百貨店に案内した時は、わざと台高の制服を着て『台湾人の俺だってやればこれくらいできるんだ!』という矜持を表したこともあった。しかし、台高の中では差別など一切なかった。級友たちも表立って私たちにおかしなことを言う人は皆無だった」

(『新・台湾の主張』)

 

「高等学校では他ではできない勉強ができたように思う。自由な校風の中、級友たちと議論を楽しみ、大いに読書をした。自分の内面と向き合い、自分の心を客観的に取り出す。それは、その後のボクの人生の糧になるような『人間を作り上げる』最初の時間だったんだ。先生方も一流ぞろいだったしね」

(台高90周年記念でのコメント)

 

珍しい写真を一枚。

 

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撮影場所は不明ですが、李登輝氏の高校生時代の写真です。右から4番目が李氏です。顎が発達した長細い顔は今も昔も変わっていません。

李登輝氏の台高生時代の写真も珍しいですが、もっと珍しいのは李氏から左2番目に犬養孝が写っていること。

犬養孝(1907-1997)とは万葉集の研究で名を残した著名な学者で、大学の国文科卒や万葉集が好きな人なら知らないとは言わせないほどの有名人です。テレビやラジオで万葉集を詠む際、「犬養節」という独特の抑揚をつけることで有名でした。

犬養は台北高校で教鞭を執っていたことがありました。犬養孝は1942年に台北高等学校に赴任し、李登輝氏は1940年に台高に入学(1943年卒)。この二人が1~2年ほど先生と学生として同じ屋根の下にいたことは、李氏も著書で直接薫陶を受けたと著書で書いているので知られてはいました。ただし、一緒に写った写真は非常にレアな写真だと思います。

 

徐慶鐘

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徐慶鐘(1907-1996)は、日本では全く知られていませんが、台湾では大陸から来た外省人に牛耳られていた政治の世界に、台湾人が入り込む穴を作った人物として有名です。

中華民国初の総統が李登輝なら、初の行政院長(首相)は、代理だったとは言えこの人。専門は農業政策で元々は学者。李登輝氏は台湾大学で彼から農業を学び、のちにほぼ同じ道を歩んだことから台湾では「李登輝の師匠」としても知られています。戦後の台湾人の政治史においては李登輝氏の名前がクローズアップされますが、国民党にマークされていた彼を庇い、後に蒋経国に紹介。台湾人総統への道を隠れて切り開いたアシストも見逃してはいけません。

 

ちなみにこの人は台高の第一期生であり、のちに作られる台北帝国大学の一期生でもあります。

 

邱永漢

邱永漢

邱永漢(1924-2012)は外国人初の直木賞作家で、日本、台湾、香港、そして中国を股にかけた実業家としても有名です。本をよく読む人なら、少なくても名前は知っているでしょう。

 

彼は尋常科から台高に入った秀才中の大秀才。上に書いた昭和12年の「台高生徒募集状況」の、尋常科の台湾人内競争率30.5倍をパスした4人のうちの一人です。そう、彼は昭和12年尋常科入学組だったのです。手元にあった台高の資料が昭和12年で邱永漢の尋常科入学も12年と、本当にたまたまでした。

 

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上の写真は尋常科時代(13歳)です。制帽の徽章が台高になっています。顔を見ると非常に頭が良さそうなマセガキっぽい。リアルで会ったら意味もなくぶん殴ってやりたいほどの生意気な顔です。

彼の家庭環境は複雑でした。台湾人の父親と九州出身の日本人の母親から生まれたハーフなのですが、家庭と当時の台湾社会の複雑な事情、そして法の下の”不”平等で「台湾人」として育てられました。しかし、弟や妹は全員母親の籍に入り「日本人」となりました。異父兄弟でもない実の兄弟なのに、永漢少年は小学生から台湾人というだけで露骨な差別を受け、弟妹は日本人というだけで優遇され、やるせない思いをして育ちました。

彼の弟の稔(みのる)も台北高校尋常科に入学しています。

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国立台湾師範大学の中にある「台北高等学校」のサイトから卒業生を検索できるのですが(ただし中国語のみ)、その中に弟の名前も発見しました。

しかし、邱永漢は自伝で「弟は内地人、堤稔「つつみみのる」として受験して合格した」と述べているし、戦後は日本人として東京の大学に入り直したと書いてあるので、「日本人」のはず。これは間違いでしょう。

邱永漢台北高校(高等科)のOBとしては17期文甲ですが、ひとつ下の同じ文甲(18期文甲)李登輝氏が後輩として在籍していました。学生数が少なかった台高のこと、背がずば抜けて高く目立っていた李氏を校舎のどこかで見たはずですが、お互いが初めて知り合ったのは戦後の東京でのことだそうです李登輝氏の自伝より)

その後東大経済学部を卒業し台湾へ戻ったものの、戦後の台湾史最大の闇であるニニ八事件を間近で経験し、反政府運動にかかわることに。それが原因で香港、日本に亡命。台湾へはその後20年間戻ることができず、日本と香港を拠点に執筆活動と「お金儲け」をしていました。

 

王育徳

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(左が台高時代の王育徳。右は邱永漢

王育徳(1924-1985)台湾語をアカデミックに整理した言語学者として知られています。教育者として台湾語を学習者にもわかりやすいようにまとめ、20年くらい前の日本語で書かれた台湾語のテキストは、すべて王育徳が編纂したテキストがベースになっていました。私が台湾語を勉強した時のテキストも、この人の著書だったことを覚えています。

邱永漢とは同じ台南の同郷でしたが、小学校に邱というすごい秀才がいるというウワサは耳にしてたそうです。同じ年に二人は尋常科を受けたものの邱は合格、王は不合格となりました。王はのちに中学4年修了で高等科に合格、先に尋常科に入学していた邱永漢に追いつきます。

のち二人は共に東大経済学部を志望し試験を受けたのですが、王育徳は試験に落ちてしまい浪人、翌年文学部に入学となりました。ちなみに、「無試験」のはずの旧制高校生がふつうはあり得ない浪人をすることを、「白線浪人」と言いました。

彼には、司法試験に合格し内地で裁判官をしていた王育霖という兄がいました。この人も台高尋常科卒の秀才です。戦後に台湾に帰還したところ、1947年のニニ八事件で特務(秘密警察)に連れ去られ虐殺されました(遺体は未だ見つかっていません)。

弟の育徳も生命の危険を察知し、先に香港へ逃げていた邱永漢の手引きで香港を経て日本へ亡命、東大の学生として復学しました。密入国だったためにあやうく強制送還→台湾で死刑という危機もありましたが、助けてくれたのは官僚・政治家として活躍していた台北高校の先輩や、戦前に東大でお世話になった先生たちでした。

日本では家族ともども、戦前にあった差別も全くなく穏やかに生活したのですが、台湾の土を踏むことは二度とありませんでした。

 

王育徳のもう一つの顔は、「台湾独立運動家の闘士」。東京で台湾独立組織の『台湾青年社』を組織し、日本在住の台湾人を束ねて運動を起こしていました。王は「反政府運動日本支部」のボスとして国民党のブラックリストの筆頭に挙げられていました。台湾論客として有名な金美齢氏も台湾独立運動家としては王育徳の弟子にあたり、夫の周英明と共に『台湾青年社』のメンバーでした。

『台湾青年』という機関紙は、蒋介石が元気だった頃は読むだけで国家反逆罪として死刑の可能性があったほどで、指紋がつくと特務(秘密警察)にバレるのを恐れ、在日台湾人たちは割り箸で『台湾青年』のページをめくって読んでいたそうです。

なお、台湾青年社などの台湾独立運動民主化で拠点を台湾国内に移し、今は「台湾独立建國連盟」という政治団体として活動しています。

 

辜寬敏

辜寬敏

辜寬敏(1926~)は実業家ですが、2017年現在総統府の資政(顧問)として、蔡英文総統のブレーンとなっている人物です。台北高校との絡みでは、李登輝さんと並んで台高OB最後の生き残りでもあります。当然日本語もペラペラで、日本の記者だけを読んで日本語オンリーで台湾政治を解説することもあるそうです。

また、この人はガッチガチの台湾独立派でもあります。中国とは事を荒立てない派でもありますが、「中国は中国、台湾は台湾」と対等な「国同士」の付き合いを求めるというスタンスは絶対に崩さない。

今年パナマが台湾と断交しましたが、彼はショックどころか「むしろ喜ばしい。『中華民国』の価値がどんどん下がっているから。そろそろ本格的に『主権国家』として動いた(=台湾共和国として独立する準備をする)方がいい」と公の記者会見で呵呵大笑。いちおう総統府の顧問ですが、陳水扁総統時代の金美齢氏のように、「台湾の顧問であって中華民国の顧問になった覚えは全くない」ということでしょうね。

蔡英文総統は、中華民国と重視するというのはある意味当然ですが、顧問に辜寬敏氏を置いているということは・・・あとはお察し下さいということですね。

 

 

三澤糾

三沢糾

三澤糾(みさわただす。1878-1942)は卒業生ではなく、台北高等学校の名校長として今でも台湾師範大学の公式校史に名を残しています。

教育一筋に生き、「自由と(学生たちの)自主」を重んじて赴任した学校の学生たちに慕われていました。

大阪府立高津中学(現高津高校)の初代校長となった時は学生の自主判断に任せ自由な校風を確立、大正デモクラシーの中のニュータイプな中学として全国でも有名になったそうです。高津高校は来年で創立100年ですが、その特別サイトには三澤初代校長の名前も出てきます。

その後、台高の校長に就任し、台高に「自由と創造」の空気を注入します。台高の黄金期はイコール三澤校長の時代だと言われており、退任後も銅像が建てられるなど学生たちに慕われ続けたといいます。

 

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ちなみに、三澤の後任として赴任したのが下村虎六郎(1884-1955)という人でした。『論語物語』や『次郎物語』の作家、下村湖人と言った方が有名です。しかし、伝説の名校長の後任はやりづらいものだったか、台高の校長としての評判はすこぶる悪い。それが原因かわかりませんが、台高校長を辞任した後は教育界に二度と戻らず、作家下村湖人として余生を過ごしました。

 

お次の第3話は、今に残る台北高等学校の建物などを紹介します。

 

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