昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

中国語の「勉強」

f:id:casemaestro89:20180515134349p:plain

中国語という言語は、基本的に漢字を使います。

今の情報化時代、
「え、そうなの?」
と目からうろこが落ちる人は、まずいないと思います。

じゃあ、どれくらい漢字を使うの?というと。それがすべて漢字です。漢字アレルギーの人は即死するほど漢字です。

さすがにCDやDVDはそのままですが、それでも「光盤」「数字視頻光盤」という、きちんとした正式名称(?)があります。

 

漢字の便利なところは、視覚的に意味がわかるということです。これは「表意文字」といい、文字が意味を表すもの。アートというか、象形文字として理解することができます。

その反対として、「表音文字」というものがあります。これは我々が日常ええ使う平仮名や片仮名、アルファベットなどが該当します。

漢字が表意文字であるメリットは、たとえば「文」という文字があると、日本人も中国人も「文」が文であると理解し、その認識が一致することです。

 

f:id:casemaestro89:20180701132802j:plain

たとえば、町並みを歩いていると

「洗衣店」

という看板を見つけたとします。「洗衣店」は日本語ではなく中国語なので、日本人には日本語としてインプットされていません。

しかし、漢字を見て

「衣を洗う店・・・衣服を洗う店だからクリーニング屋か!」

と連想することは、十分可能です。日本人なら漢字がひととおり理解できる中学生以上なら、余裕で連想できるでしょう。

 

日本語と中国語の単語の意味は、熟語においてもほぼ一致します。「警察」と書かれたベストを着た制服の人を見たら、日本人も中国人も台湾人も皆、警察(官)だと認識します。誰も「消防」だなんだと見当違いを起こすことはありません。

 

しかし、日本語と中国語の漢字の意味はだいたい同じといっても、すべてが違うわけではありません。中には同じ漢字なのに意味やニュアンスが全く違う場合があり、それが原因で笑いの種になる勘違いを起こしたりします。

 

我結束了作業。

 

これは中国語なのですが、中国語がわからない日本人がこの漢字を見て想像する意味は、おそらくこうなると思います。

「なにかやらなければならない仕事(作業)があって、そのために結束する必要があった。『了』がついているから、それが完了した」

しかしこの意味は、

「私は宿題をやり終えた」

と実にシンプルなのです。

この場合、

結束:終わる(英語のfinish)

作業:宿題(同homework)

と、日本語での意味と全く違い、漢字であれこれと類推せざるを得なかったということです。

 

中国語で「勉強する」は、「学(習)」「読書」などがよく使われます。「学習」なら視覚的にもすぐにわかります。

でも、「読書」もこうして書いてみると日本語と意味が違ってきますね。

 

我在東京大学読書。

 

となると、日本人はふつう、

「東大の図書館で読書でもしてきたのだな」

と解釈してしまいますが、さにあらず。

正しい意味は、

「私は東大で勉強しています」

転じて、

「私は東大の学生です」

となるのです。

 

では、中国語で「勉強」は使わないのか。日本独特の熟語なのか。

答えはNO。「勉強」も中国語ではよく使われます。ただし、日本語の意味とは全く異なり、使い方も全く違ってきます。

中国語での「勉強」の意味は、「いやいや~する」「無理に~させる」というニュアンスとなります。「

本当はやりたくないんだけど、第三者から圧力がかかったりどうしてもやらざるを得ない。しゃーないわ、やるか・・・。

強いて言えば、こんなニュアンスとなります。

 

我勉強答応把新書借給他看三天

 

「勉強」を使った典型的な文です。なお、中国語の勉強ブログではないので、中国語がわからない人でもわかるよう、簡体字や旧字体(繁体字)は使っていません。

これは、「彼はしぶしぶ新しい本を彼に3日間貸した」という意味になりますが、「勉強」を使うことによって、本当は貸したくないんだけどな・・・と嫌々感を出している文です。この嫌々感を出したい時、「勉強」を使います。

 

 

她不愿意去就算了,不要勉强她。

 

この場合の「勉強」は「無理強いさせる」というニュアンスとなり、全文は「彼女が行きたくないというならそれでいい。無理強いさせるな」という意味となります。

これを日本語の「勉強」として解釈してしまうと、

「彼女を勉強させるな」

という意味になり、何だこりゃ?と混乱するのみです。

 

日本語で、「勉強」するにはもう一つ、使い方があります。

「これ5つ買うさかい、勉強してーなー」

大阪名物(?)値引き交渉ではよく使われるフレーズですが、この「勉強」は値引きのこと。

「勉強する」がなぜ「まける(値引き)」なのか。幼い頃からの疑問でした。

それがなんとなくわかった・・・気がしたのは、中国語を勉強した後のこと。

「無理強いする」というニュアンスで解釈すれば、値引きの「勉強」は、

「ホンマは無理やろうけど、無理を承知でなんとかして値引きしてほしいな」

という意味が込められているのではないか。だから「勉強」が使われているのかもしれない。

もちろん、これはただの私の仮説です。しかし、こう解釈すると「勉強してーなー」がなんとなくしっくりくるような気がする。

 

中国に留学していた頃、留学生初級クラス担当の先生がいました。彼女は染め物の勉強のために京都に留学していたことがあり、日本語、というか関西弁がペラペラ。本来は大学の芸術学部の専任講師なのですが、日本語が話せるという理由だけで留学生の中国語教育担当を「勉強」させられたそうな。この「勉強」は、

「わたし、中国語が専門じゃないんだけど…」

という嫌々感なのは、記事を読んだ方にはわかると思います。

 

その先生がある日、唐突に、

「日本に行って『勉強』の本当の意味がわかったの」

こんなことを言い出したかと思えば、次の一言が、

「『勉強』って、いやいやするものだって」

日本語と中国語の「勉強」の意味の違いを踏まえたユーモアでした。たぶん、先生はこのジョークをどこかで思い浮かべ、言ってみたかったのでしょう。顔はヘラヘラ笑っていました。

 

==こんな記事も如何でしょうか。よかったらどうぞ==

parupuntenobu.hatenablog.jp

parupuntenobu.hatenablog.jp

parupuntenobu.hatenablog.jp

モダンガール、エアガール…昭和の「尖端ガール」たち

昭和初期とはどんな時代か。これは政治・経済・文化・・・人によって切り口が変化します。それが歴史の多様性というもので、見方は一つではありません。

その中でも、社会史・女性史という点という観点から見ると、女性の社会進出が急激に広まった時代という見方があります。

 

女性は家庭に入り家事をやっていればいい・・・そんな古い価値観にヒビが入り始めたのは1920年代、大正末期のこと。

本格的な社会進出が始まったのは昭和初期の5~6年頃ですが、その間接的な証拠に、女性の社会進出をもじった新語が、この時代に雨後の竹の子の如く出現しました。1930年前後の流行語辞典を見てみると、

「○○ガール」

という言葉が山ほどあらわれます。1920年代の辞書には全くなく、明らかにこの時代に生まれた言葉ということを物語っています。

 

大手を振って社会に出る女性たちを世間は、

「尖端ガール」

と呼んでいました。

「尖端ガール」って何やねんと解釈はなかなか難しいですが、要は「流行にのったファッショナブルでナウい女性」ということ。え?「ナウい」って何?ならば「トレンディーな女性」のことや・・・って余計わからなくなってきた?

まあ、どんなものかは後でわかることでしょう。

 

ところで、こういうものがあります。

 

f:id:casemaestro89:20180628165859j:plain

 『実業の日本』昭和6年新年号掲載「女商売新旧番付」という、明治(左)と昭和(右)の女性職業の新旧を番付風に描いたものです。

上の番付を見ても、明治時代の職業は「女工」「芸者」「女中」など古びた単語が並びますが、いちいち説明しなくともどんな仕事内容か、一般常識で理解できます。「びらまき女」でさえ、すぐイメージがつくでしょ(笑

それに対し、昭和の新職業は、「アナウンサー」やら「ピアニスト」などはさておき、ガールばかりで何かよくわからないのが多いですね。

しかし、今に通じる職業がこの時代に数々出てきます。

一例が、二段目にある「美容家」。これは現在の美容師。古い方に「髪結い」とありますが、かつてはそう呼ばれた賤業でした。ところが、女性のファッションスタイルが多様化したこの時代、「最尖端」な職業として注目され始めました。美容家と書かれているのは、まだ美容師という言葉が定着していなかったということです。

 

ちなみに、これから「○○ガール」が山ほど出てきます。が、これはフィクションではありません、すべて史実です。

 

 

華麗なる尖端ガールたち

 

では、尖端ガールはどんなものがあったのか。

 

モダンガール

 

f:id:casemaestro89:20180705141810j:plain

これは歴史に疎くても、一度は聞いたことがあると思います。

関東大震災の衝撃冷めやまぬ大正末頃の東京銀座、一部の女性たちが、当時「尖端」だった洋服をまとい街を歩きはじめました。実は「尖端」とは「モダンな」というニュアンス。「尖端ガール」は大なり小なり「モダンガール」という意味に通じるのです。

当時、洋服といえば子供服に限られ、大人は着物が当然の時代でした。洋服で町中を歩くのは、今で言えばコスプレ感覚。

モダンガールが「尖端」なところは、服装だけではありません。髪の毛をばっさり切り、今でいうショートボブくらいの短さにしたのです。
「断髪」と当時呼んだのですが、これは女性の髪は長いというのが普遍の真理だった日本の女性史・美容史の革命でした。

モダンガール=洋装というイメージがありますが、和服のモダンガールも存在していました。といっても、街角では洋服でおめかししても、家では着物だったという女性が大多数だったそうです。

では、「和服姿のモダンガール」ってなんじゃ!?と問われれば簡単。髪の毛を断髪(ショートカット)、または結ったり束ねていなければすなわちモダンガールなのです。つまり、モダンガールか否かの基準はファッションではなく、髪型だったと。


髪の毛が短いと、髪型をキープするのに手間暇お金がかかります。よっておしゃれのためのプロが必要となる。そこで生まれたのが美容師や、後に触れる「マニキュアガール」という流れです。
そこにお金をかけられるということは、それだけ豊かになったというあらわれです。 

のちに「モダンボーイ」も出現し、総称で「モガモボ」と略されて呼ばれるようになります。

「モボとモガ、どちらが先だったの?」

という素朴な疑問がありますが、明らかにモガが先。モボはモガから生まれた子どもです。

これについては百聞は一見にしかず。「モガ」というものはどんなものか、写真でどうぞ。

 

f:id:casemaestro89:20180705095143j:plain

(かなり「尖端的」なモガ。これで1920年代の約100年前)

 

f:id:casemaestro89:20180705095216j:plain

(大阪道頓堀を歩くモガ。1928~29年頃)

 

f:id:casemaestro89:20180709115602j:plain

(『阪急百貨店50年史』より)

昭和5年(1930)、車の前での一枚。 

 

f:id:casemaestro89:20180705153736j:plain

(市電に乗ろうとする東京のモガ。1932年) 

 

1936堀野正雄撮影風

(1936年、飛行機に乗ろうとして風にあおられるモガ。堀野正雄撮影)

 

f:id:casemaestro89:20180705095245j:plain

(千人針を縫うモガたち。1937年)

 

f:id:casemaestro89:20180705155941j:plain

(銀座の喫茶店、「コロンバン」の窓から見えたモガ。1937年)

 

f:id:casemaestro89:20180705212815j:plain

(『贅沢は敵だ!』の標語の前を通るモガ。1940年7月)

 

 

f:id:casemaestro89:20180705160201j:plain

(対米戦争勃発の新聞記事を見るモガ。1941年12月) 

 

しかし、こういう写真を見ると、いつも思うことがあります。写真に写る彼女らは、あの戦争を生き抜いたのだろうかと。

 

モダンガール旋風は、内地(日本)を越えて外地へも広まりました。 

f:id:casemaestro89:20180705154114j:plain

戦前の朝鮮鉄道には、京城(ソウル)~釜山間に「あかつき」という快速急行が走っていました。どちらかの駅でしょうか、見送りの女性も見送られる方もモダンガールです。

 

エレベーターガール

昭和初期に生まれた「◯◯ガール」の中で唯一、今でも使われている名称です。

エレベーターガールは、昭和初期の「もっとも尖端的な職業」として大人気の花形職業でした。だって、制服を着ただけで「モダンガール」をやれるのだから。

日本で初めてエレベーターガールを採用した松坂屋のHPによると、最初は「昇降機ガール」と呼ばれていたそうです。

f:id:casemaestro89:20180704112259j:plain

(1930年代、大阪心斎橋大丸のエレベーターガール)

 

f:id:casemaestro89:20180704194821j:plain

 

f:id:casemaestro89:20180705165731j:plain

昭和8年(1933)8月19日『大阪毎日』に掲載された、京阪デパートのエレベーターガール募集広告です。細かいところですが、「エ」が「ヱ」になってますね。

 

また、エレベーターガールがいればエスカレーターガールもいました。

 

f:id:casemaestro89:20180709004907j:plain

(『神戸100年写真集』より)

昭和11年、阪急電鉄が念願の神戸市内(三宮)延長を完成させたのですが、ホームまでの階段に「動く階段」ことエスカレーターが敷設されました。写真の階段の先は、阪急線のプラットホームです。

たかがエスカレーターにガールは要らんやろと思うのですが、当時は珍しい分危険を伴ったのでしょうか。

写真では確認していませんが、同時期に開通した阪神電鉄元町駅にもエスカレーターガールがいたそうです。

 

 

マッチガール

『マッチ売りの少女』という、涙腺崩壊不可避の悲しい物語がありましたね。
あれは童話ですが、『マッチ売りの少女』は実在していました。
それが、番付の上位にもいる「マッチガール」でした。
よく考えたら、「マッチガール」を和訳すると「マッチ売りの少女」でしょ?
童話と違い、「マッチガール」は喫茶店の中などでマッチを売り、寒くてひもじい…という悲しい思いはしないということ。


ところで、なんでマッチなのか。当時のタバコは男子の嗜み、吸っていない方が男らしくないと敬遠されていました。これは私が小学生だった昭和50年代まで常識として社会に浸透し、私も「大人への階段」として喫煙したようなものでした。あ、今はすっかり禁煙者です。

それはさておき、戦前はライターもない時代、タバコはみんな吸うのでマッチが必然的に売れます。現在の街角のティッシュ配りのような「マッチ配り」もありました。当然、マッチにはお店や企業の広告が入っています。

 

f:id:casemaestro89:20180705174043j:plain

喫茶店では、マッチならぬ「タバコ売りの少女」もいました。人呼んで「たばこガール」。写真は昭和10年のもので、白黒写真をカラー化したもの。

 

f:id:casemaestro89:20180705174433j:plain

服が同じなので上の写真と同じ「たばこガール」でしょう。

残念ながら「マッチガール」の写真が見つからなかったので、「たばこガール」で我慢してください。

 

 

 

エアガール

昭和に入り大きく進化・発展したもの・・・それは飛行機。

「エア」はAirなので飛行機のガール・・・まあお察しのとおりスッチー・・・というと年齢がバレるか、CA(客室乗務員)です。

日本で「エアガール」を初めて採用したのは、「日本航空輸送」という会社でした。昭和6年(1931)2月5日に一次試験が行われ、応募者141人から10人に絞られました。3月に二次試験が行われた結果、女学校卒業予定の3人が日本初のCAとして採用されました。

めでたく決まったエアガールですが、実は裏話があります。

実はこの3人、翌月の4月には退職してしまいます。

理由は給料の安さ。給料は「フライト1往復あたり3円」だったのですが、1日一便として20日働けば月60円。いや、10日働いて30円ゲットでも、当時の女性としては十分。月給10~15円が相場だった当時の女性にしては、破格の給料だったはずなのですが…。おそらくですが、飛行機の性能も良くなく、給料に見合わないほど当時の空の旅は過酷かつ危険だったのでしょう。なにせ海軍パイロット養成学校が、「人類虐殺学校」と陰口を叩かれたほど死亡率が高かった時代でしたから。

 

それからエアガールの空白時代が続き、本格かつ大量採用となったのは昭和12年(1937)、国際線が就航し始めた頃でした。

f:id:casemaestro89:20180704200953j:plain

f:id:casemaestro89:20180705160101j:plain

いずれも昭和15年(1940)前後、大日本航空のエアガールたちです。

 

また、空にガールあれば海にもガールあり。

この当時は船も重要かつ常用される交通手段の一つでしたが、そこに現れたのが!

 

f:id:casemaestro89:20180705135847j:plain

「マリンガール」でした。

彼女らは乗務員として船に乗り込み、客向けのサービスを行っていました。

 

f:id:casemaestro89:20180705135649j:plain

 こちらは昭和15年(1940)、琵琶湖遊覧船のガイドをする「マリンガール」です。

 

 

ガソリンガール

モータリゼーションといえば、戦後の昭和40年代を思い浮かべる人が多いと思います。高嶺の花だった乗用車が大衆化した時代です。

しかし、大衆化とは言い難かったものの、昭和初期にも小さなモータリゼーションが日本で起きていました。乗用車の増加で「渋滞」という言葉が生まれ、トヨタや日産自動車が生まれたのもこの頃です。

車の追加によって増えるもの、それはガソリンスタンド。もうこれでお察しでしょう。

 

f:id:casemaestro89:20180705161917j:plain

(1930年、女学生風ガソリンガール)

 

f:id:casemaestro89:20180704194253j:plain

(1935年、神戸市内のガソリンガール)

 

f:id:casemaestro89:20180705162006j:plain

(時期不明、和服姿のガソリンガール。和服はちょっとやりにくそうw)

 

そう、ガソリンスタンドの女性店員が「ガソリンガール」なのです。

しかし、世のオスどもはメスに弱いのは、人類がいくら進化しても変わらない法則。
「ガソリンガールが給油してさしあげるわよ♪ 窓も拭くわよ(ハァト」
と、美人な店員がいる所には車が殺到したそうな。

このガソリンガールはかなり人気と需要があった証拠に、上の番付では堂々の関脇に位置しています。

 

 

マネキンガール

今でいうモデルです。しかし、ただのモデルではありません。

デパートやブティックにあるマネキン。当然今は人形を使っています。

しかし、昔は生身の人間を使っていました。

 

f:id:casemaestro89:20180704100032j:plain

f:id:casemaestro89:20180704100050j:plain

こんな感じです。

 

 

f:id:casemaestro89:20180704100110j:plain

これはマネキンガールの面接会場なのですが、作家の久米正雄(右端)が試験官をしています。

 

 

ショップガール

 

f:id:casemaestro89:20180705164111j:plain

(1935年、都内某デパートのネクタイ売り場のショップガール)

お店の売り子、女性販売員のことです。

 特に百貨店のショップガールは1,2位を争う大人気の職業で、想像通り「デパートガール」と呼ばれていました。

 

f:id:casemaestro89:20180709003349j:plain

(『75年のあゆみ』阪急電鉄編より)

屋上で営業前の準備体操をする、大阪梅田の阪急百貨店のデパートガールたち。

 

f:id:casemaestro89:20180705174929j:plain

採用試験には女性が殺到。セーラー服の女学生から妙齢の婦人まで、様々な階層、年齢層がいたことが伺えます。

 

デパートとくれば案内嬢。「ガール」はつかなかったですが、こちらも女性花形の職業でした。

f:id:casemaestro89:20180705164403j:plain

 (顔にあどけなさすら残る都内某百貨店の案内嬢。1931年)

 

f:id:casemaestro89:20180705175122j:plain

(1933年、白木屋の案内嬢)

やはりデパートの顔だけに容姿端麗、育ちの良いお嬢さんを選んだそうです。

 

スヰートガール

今で言う企業のキャンペーンガールです。 

 

f:id:casemaestro89:20180704165223j:plain

昭和初期に発展したものの一つに、広告宣伝があります。
それまでの広告宣伝は、新聞でデカデカと自己アピールするのが常でしたが、昭和に入ると「店頭販売」が盛んになりました。
森永製菓はそれに女性を採用。「スヰートガール」と名付けて全国のデパートなどでキャンペーンを行いました。

 

f:id:casemaestro89:20180704165916j:plain

採用条件は

”高等女学校卒以上の18〜20歳の健康な女性”

”近代的な感覚を有すること”

など全部で31カ条、モデル募集並みの厳しさです。それにもかかわらず昭和7年(1932)の第1回募集には600名の応募があり、第1期のスイートガール5名が誕生しました。

 

この「スヰートガール」第一期生の中には、のちに女優になった人もいました。

 

桑野通子

惜しくも若くして亡くなった桑野通子(1915-1945)もその一人ですが、

f:id:casemaestro89:20180704165239j:plain

スヰートガール時代の写真が残っています。写真右端が彼女ですが、まだ田舎娘風の(っても彼女は江戸っ子ですが)あどけない顔ですね。

 

 

マニキュアガール

昭和ヒトケタ女子に流行るもの。洋服日傘、ハイヒール、そしてマニキュア

モガの出現と共に生まれた「マニキュアガール」は、女性たちの爪にやすりをかけてお手入れをしたり、マニキュアを塗ったりと、今のネイリストと変わりません。ネイリストは最近生まれたトレンドのように思えますが、80年の歴史を持つ老舗(?)なのです。

 

f:id:casemaestro89:20180628234244j:plain

(当時の「マニキュアガール」)

マニキュアガールは百貨店の化粧品売場や、やはり当時最先端だった美容室のスタッフとしていることが多かったそうな。

 

大阪マニキュアガール

『アサヒグラフ』昭和7年(1932)5月4日号で紹介されていた、大阪の美容院で働くマニキュアガールです。名前は加藤田鶴子さんですが、「かとう たづこ」なのか、「かとうだ つるこ」なのかはわかりません。

 

1936年マニキュアの広告

昭和11年(1936)のマニキュアの広告です。かなりカラフルな色が揃っていますが、お値段は35銭。3銭でたい焼き、10~15銭でラーメンが食えた時代なので、美容のためとは言え35銭は一般庶民にはけっこう厳しい。

 

f:id:casemaestro89:20180704133226j:plain

(『エロエロ草紙』酒井潔より)

昭和前期の珍書『エロエロ草紙』(酒井潔著)によると、同じ頃のイギリスでは

「爪に絵を描く婦人があらわれ」

と書かれており、今のネイルアートもこの時代に生まれたような記述があります。

 

 

ゴルフガール

f:id:casemaestro89:20180705110114j:plain

f:id:casemaestro89:20180829140731j:plain

昭和6年(1931)頃の『文学時代』(新潮社)という雑誌が出典の尖端ガールです。要は「ゴルフを楽しむ女性」ってことでしょう。今風に言えば「ゴルフ女子」ってことですね。

 

麻雀ガール

 「○○ガール」を調べていて、これがいちばん頭の上に「???」が飛び交いました。麻雀はわかるがそのガールって?

しかし、上の「番付」には上位に来る人気職業。一体なんじゃ!?と。

 

 

 

f:id:casemaestro89:20180829145608j:plain

(『アサヒグラフ』昭和5年7月16日号より)

ところで、麻雀が日本に広まったは昭和初期のころです。昭和4~5年には麻雀がブームとなり男性だけでなく女性も牌を片手にジャラジャラやっている姿が雑誌に残っています。

写真を見ていると捨て牌がバラバラなので、現在のリーチ式ではなく純中国式ルールだったのでしょう。


麻雀にハマった有名人といえば作家の菊池寛。得意の筆で麻雀の面白さを新聞や雑誌を通し世間に広めました。戦前の麻雀ブームは、もしかして菊池が発火点かもしれません。

菊池が社長の文藝春秋社は、社長が社長なので仕事中の麻雀と将棋OK。しかも勤務時間に含め残業も可。

これはさすがに業務に支障をきたし中止命令が出たのですが、このお触れで

「や~め~て~!」

といちばん悲鳴を上げたのは社長の菊池だった・・・。
という、ウソのような本当の話があります。

 

戦前麻雀ブーム

(『アサヒグラフ』昭和5年7月16日号より)


麻雀の広まりと共に、麻雀をする場所である雀荘も増え始めました。昭和初期は雀荘ではなく、「麻雀倶楽部」だったようです。
麻雀ガールとは雀荘で働き、飲み物を運んだりお客様の麻雀の相手をする女性従業員のことだったりします。そんな職業が成り立ったほど、麻雀は日本中でブームになったということでしょうね。

 

麻雀ガールって・・・本当にそんなものあったのか!?と疑う人もいるでしょう。
そんなこともあろうかと、こんな資料を用意しました。

 

f:id:casemaestro89:20180705111801j:plain

『最新婦人職業案内』(婦人就職指導会編)という、昭和8年(1933)に発行された本の「麻雀ガール」の概要です。昭和初期版「とらばーゆ」にちゃんと書いている、れっきとした職業だったのです。

 

ちなみに、玉突き(ビリヤード)場にも女性がおり、スコアを採ってくれたり人恋しい男性プレイヤーのお相手をしてくれたそうです。これは、上の番付左側の上位にいる「ゲーム取り」という職業です。ゲーム取りって変な名前ですが、「ゲーム(のスコアを)取る(女性)」ということでしょうね。

 

大正末期昭和初期ゲーム取り

ビリヤードに興じる人の傍らで、微笑みながら座っている彼女。これが「玉突きガール」こと「ゲーム取り」です。

しかし、「玉突きガール」と呼ばれていると…なんだか勘違いしそうなオスが数匹出てきそうです(笑

 

個人的に麻雀は三度の飯より好きなのですが、もし麻雀ガールが今でも雀荘にいれば…毎日仕事帰りに行きますよ。麻雀ができる上に女の子とトークができる、激烈に復活希望です(笑)

  

レビューガール

劇あり踊りあり歌ありの、フランス生まれの舞台を「レビュー」と言います。日本で最初に取り入れたのは宝塚歌劇団。タカラヅカは今でも日本レビューを牽引している先頭集団ですが、「レビューガール」とくれば宝塚や松竹のような歌劇団の女性じゃないかと想像できます。

私もそう想像したのですが、どうやら違うよう。

レビューに出演することはするのですが、主役ではないその他大勢の人のこと。「通行人A」という感じですかね。

それでも番付の上位に来るのだから、端役でいいから華やかな芸能界にいたい、という乙女心なのでしょうか。

 他にも、大部屋女優のことを「ワンサガール」と呼んでいたそうです。人が「わんさか」いるから「ワンサ」…なんちゅー単調な名付け方や。

 

ヅカガール

「ヅカ」とは、宝塚歌劇団用語で「宝塚」という意味になります。「ヅカファン」になると宝塚ファンのこと。
これで察しがつくように、「ヅカガール」はタカラジェンヌのこと。

 

f:id:casemaestro89:20180704094316j:plain

(1942年『宝塚年鑑』より。当時の花組のスターたち)

タカラジェンヌって、昔からタカラジェンヌじゃないの?確かにタカラジェンヌという名称自体は、研究者によると昭和12年(1937)の雑誌にすでに登場し、言葉の生みの親もわかっています。

しかし、タカラジェンヌの名が世間一般に浸透したのは、1970年代の「ベルばらブーム」から。それまでは「ヅカガール」が一般的でした。
宝塚市生まれ、かつ宝塚の熱狂的ファンに手塚治虫がいますが、たぶん1980年代のエッセイで「ヅカガール」を使っていました。今でも古参のファンは「ヅカガール」と言う人がいるのだとか。

しかし、創始者の小林一三は「タカラジェンヌ」推しで、「ヅカガール」の呼び名をあまり気に入らなかったという話が残っています。

 

 

エキストラガール

 「エキストラ」はその他大勢という演劇用語でもあるので、これもそれに関連するかと想像するでしょう。
実は、全く違います。
男がどこそこへ行きたいと言えば黙って同伴。それがカフェーでも連れ込みホテル*1でも砂風呂*2でも、どこへでも行く女のこと。
要は「尻軽女」「淫乱女」、ストレートに言ってしまえば◯ッチのことです。

 

 

 スピーキングガール

 戦前には、「カフェー」と呼ばれる飲食店がありました。カフェーと言っても喫茶店ではなく、洋食やアルコールも出すレストランの一種で、女給さんと呼ばれる女性従業員が客の横につき、話し相手になってくれました。

そんなカフェーの女給さんですが、大学生などインテリ男性の話し相手としては役不足。なにせ彼女らは小学校をかろうじて卒業できた、自分の姓名を漢字で書けるかビミョー(たぶん無理)な学歴が多かったから。
女の子と気軽にトークしたいけど、知的レベルが違いすぎる…そんな欲求不満の男性のお相手をするのが、スピーキングガールです。
内容は、インテリ男性と文学や哲学、政治や社会情勢についての話し相手になるだけ。
当時の解説本には「これは職業婦人と言えるのだろうか」と?マークをつけていますが、女学生のバイトとしてはピッタリだったそうです。

  

バスガールと市電ガール

番付のトップクラスに、「女車掌」という名称があります。

今はワンマンが主流ですが、昔のバスは車掌も乗り込みきっぷの販売などを行っていました。バスの女車掌は、やはり当時の流行か「バスガール」と呼ばれることもありました。

バスガールの始まりは、大正13年(1924)の東京市バスでした。関東大震災で打ちひしがれた東京に活気を取り戻そうと、殺風景な乗り物に「花」を添えるべく新設されました。

ところが、募集人数170人に対し、希望者は70名ちょっと。予想外の不人気に東京市はそんなバカなと頭を抱えたそうです。この5年後には寝てても志願者が殺到する時代になったのですが、東京市の目は少しだけ、時代の先を行き過ぎたようです。

 

その「5年後」の昭和5年頃から、バスガールが大ブレークします。

 

f:id:casemaestro89:20180704115731j:plain

コスプレ大会の写真ではありません。昭和3年(1928)、大阪市営バスの女車掌です。

 

 

f:id:casemaestro89:20180704115747j:plain

男装の麗人のような出で立ちですが、ちょうどこの時期は、川島芳子に歌劇団の男役の「男装の麗人」が流行ったので、この奇抜すぎる制服は流行に乗ったのかもしれません。制服の色もカーキ色に赤のネクタイと、「男装の麗人」を意識している感があります。

 

f:id:casemaestro89:20180709002821j:plain

(『75年のあゆみ』阪急電鉄編より)

同じ大阪の民間バス会社、通称「青バス」のバスガール。「青バス」に対し市営バスは「銀バス」と呼ばれ、両者は血で血を洗う、壮絶な客の取り合いをしていたライバルでした。

 

f:id:casemaestro89:20170818093302j:plain

(『白線帽の青春 西日本編』より)

 

f:id:casemaestro89:20180705153032j:plain

バスガールは内地を越え、外地へも飛び出しました。

1930年代、日本統治時代の台湾台北のバスガールです。おしゃれな洋装に身を固めていますね。

 

 

「ガール」はなぜか市電と相性がよかったらしく、バス以上に各都市の市電が積極的に女性を採用していました。市電に特化したネーミングはないようですが、ここでは敢えて「市電ガール」という新語をつけてみます。

 

f:id:casemaestro89:20180704114014j:plain

1936年(昭和11)、京都市電の女車掌たちの実習風景です。

 

f:id:casemaestro89:20180705135330j:plain

昭和12年(1937)、東京市電のガールたち。写真からでもわかる気品と市電ガールとしての矜持を持つ真ん中の女性に、思わず目が向きました。他の4人が腕章をつけていますが、立ち姿がだらしないので、たぶん「研修中」と書かれた新人ではないかと。真ん中の彼女はOJT係の先輩でしょうね。

東京市電嬢は「サービスガール」と呼ばれていました。 

 

f:id:casemaestro89:20180704193058j:plain

昭和10年(1935)、神戸市電ガールです。

濃緑と薄緑の上下の制服に、斜めにかぶったおしゃれな制帽。機能性とおしゃれを両立させたモガスタイルは、さすがは神戸だね~と大評判。遠く東京から見物に来たり、車内でプロポーズされることもあったそうです。

なお、「市電ガール」は他にも、名古屋や長崎、広島などにもおり、全国規模で広がっていました。

 

もっと珍な画像を。

 

f:id:casemaestro89:20180709011232j:plain

(『阪急電車駅めぐり 神戸線』より)

電車の女車掌です。

 

f:id:casemaestro89:20180709011640j:plain

日本で初めて女性車掌を採用したのは、う○こ色電車でお馴染みの阪急電鉄。昭和13年(1938)のことで、阪急電鉄の公式社史にも、

「どうだ、我が社が日本初だぞ!」

偉そうに誇らしげに書かれています。

 

と言いますが!

 

参宮急行電鉄の女性案内嬢

昭和7年には参宮急行電鉄(元近鉄大阪線)の急行列車に女性乗務員がいたりします。

出典は『アサヒグラフ』昭和7年7月号なので、論より証拠。文句あるなら朝日新聞社まで。

が、彼女の肩書は「乗務宣伝員」であって、沿線の観光名所を紹介するPR嬢。車掌ではありません。

彼女いわく、男の酔っぱらいに冷やかされたり絡まれたりすることがあり(当時はセクハラなんて概念はないし、働く女性自体が動物園のパンダ状態)、乗務後一人で泣くこともあるという、生々しいインタビューもあります。

 

阪急の車掌の話に戻ります。

彼女らの肩書は「補助」だったものの、45名の大量採用からしても将来の主力と計算してのことだと思います。ただの補助なら「若干名」でしょう。

しかし、はやり時代が悪かったか、世の中は戦争に入ってしまい、阪急の試みはあまり知られずに終わりました。

市電車掌はすでに女性が当たり前なほど浸透していたものの、都市間を結ぶ郊外電車となると、戦争中の昭和19年以降を除いて阪急電鉄だけでした。

 

ストリートガール

これは売春婦、特に街角で客寄せをする街娼の洒落た言い方です。

 

f:id:casemaestro89:20180704164500j:plain

『モダン新語辞典』(1931年編)にも新語として記載されています。

 

 ステッキガール

上述の「ストリートガール」の亜種で、銀座の大通りを歩く独身っぽい男性に、
「どう?私と一緒に歩かないこと?新橋まで50銭でいいわ」
と色っぽい声で男性の横につく女性のことです。
歩くだけでなく、
「ねえ、そこの宿までどう?2円でいいわよ」
と男を誘惑、ホテルに誘っていました。その姿が男性の持つステッキのようだということで、「ステッキガール」と呼ばれました。

ただし!
この「ステッキガール」、実際に見た者は誰もおらず、「口裂け女」のような都市伝説です。おそらく、雑誌か新聞のデタラメ記事に尾ひれがついたものなのでしょう。
しかし、当時の人はほぼ信じ、「ステッキガール」に会えるかなと銀ブラを繰り返す紳士諸君が多かったそうな。

 

円タクガール

「円タク」とは、あるエリア内なら1円均一で走るタクシーのことで、東京や大阪など都市部に走っていました。

タクシーの運ちゃんが売春の仲介役となるのは、ほぼ世界共通。「円タクガール」はポン引き役の運ちゃんとグルになり、男性客を誘惑する女性だそうです。
客がタクシーに乗ると、助手席にはなぜか妖麗な女性が。
女性は後ろを振り向き、
「あらお久しぶり、あたしのことお忘れになって?」
とウインクし、
「このままホテルへいかが?○円でいいわよ」
などと猫なで声でささやく。こんな感じだそうな。

しかし!
実は、これも都市伝説。当時のエロ評論家は、三流作家の妄想小説と切り捨てています。

ところが、これを妄想と捨て置くには惜しい事情もあります。
その話、聞きたい?うーん、要望があれば書きます。

 

マルクスガール

1920年代は「左」が一世を風靡した時代でした。学生・インテリの間では「左にあらざる者、人にあらず」的な大流行。小林多喜二などの「プロレタリア文学」も大流行りとなりました。

そんな社会主義思想にかぶれ、理屈だけは一人前の学生を多少侮蔑した、「マルクスボーイ」「エンゲルスボーイ」という言葉がありました。

「マルクスガール」はその女性版で、またの名を「エンゲルスガール」。ロイド眼鏡をかけ社会主義の本を片手に持ち、常人にはわからない理屈をペラペラとしゃべる左翼かぶれインテリ女性を揶揄したものです。

 

f:id:casemaestro89:20180902154052j:plain

戦前の某新聞に「マルクスガール」として紹介されていた写真です。画質が不鮮明で明確ではありませんが、小脇に本のようなものを抱えています。それが社会主義の本なのでしょう。

 

その他

食堂ガール

番付の横綱を張っている「ウェイトレス」は説明不要ですが、当時の雑誌を調べてみると直感どおり「食堂ガール」と呼ばれていました。

 

f:id:casemaestro89:20180705203326j:plain

昭和12年(1937)、大阪難波高島屋の地下食堂『難波グリル』の食堂ガールたち。

 

f:id:casemaestro89:20180709003943j:plain

(『神戸100年写真集』より)

昭和11年(1936)にオープンした、神戸の阪急三宮ビル(現阪急神戸三宮駅)のフルーツパーラーのウエイトレスです。阪急直営なので、制服は百貨店のデパートガールと共通のようです。

 

f:id:casemaestro89:20180705203443j:plain

1930年代の列車の洋食堂車です。格好だけならまるでメイド喫茶です。

彼女らは総称として「(食堂)給仕」のような呼び方をされましたが、ウエイトレス、または食堂ガールはこの時代に生まれたモダンな呼び名でした。

 

テケツ

番付には一つ、不思議な職業が書かれています。

 

f:id:casemaestro89:20180705203652j:plain

この「テケツ」というものが、何者か理解に苦しみましたが、ググったらあっけなく答えが出てきました。

「テケツ」とは英語のticketsのことで、劇場などの切符売場の売り子、あるいは入り口で切符を切る人のことでした。なんや、ややこしい名前つけやがって。

 

f:id:casemaestro89:20180705203935p:plain

要するにこういうことです。これは昭和8年(1933)、新宿の落語の殿堂、末広亭の「テケツ」です。

この「テケツ」もやはり、「テケツ・ガール」と呼ばれたことがありました。

 

そして最後に。

 

f:id:casemaestro89:20180705142352j:plain

(昭和6年(1931) 雑誌『文学時代』より)

当時の雑誌の「尖端ガール盛り合わせ」です。

右上から時計回りに、「ゴルフガール」「美容師」「ガソリンガール」「マリンガール」です。「ガール」はつかないけれど、美容師が当時最尖端の職業だったことがわかります。右下の美容師は、美容師の草分け的存在吉行あぐりです。

 

 

幻に終わった言葉。「オフィスガール」

 事務所などで働く女性一般職も当然、戦前に存在していました。

 

f:id:casemaestro89:20180705143815j:plain

昭和11年(1936)、堀野正雄(1907-1998)というプロカメラマンが撮影の映画会社の事務員さんです。格好だけでなく知性も併せ持つ「戦前版キャリアウーマン」。言うなれば「スーパーモガ」といったところか!?

しかし、彼女らに対する呼び名は意外にも、戦前を通してありませんでした。

・・・と思ったのですが、戦前には「オフィスガール」という言い方があったようです。

 

f:id:casemaestro89:20180829152843j:plain

昭和15年の『アサヒグラフ』からですが、和服族と洋服族が分かれてあたたかい冬の陽のもと日向ぼっこという構図です。この写真の説明には「オフィスガール」と書かれており、戦前からそういう呼ばれ名があったことがわかります。

 

で、戦後になりまず付けられたのが、「サラリーマン」の女性版の「サラリーガール」。美空ひばり主演の映画にも出てきます。しかしダサかったか長続きせず、昭和32年(1957)あたりから「ビジネスガール」という呼び名が広まったのですが、後者は英語で売春婦を指す俗語だという指摘が入りました。

そこで女性雑誌が、新しい呼び名を募集することになりました。

その結果第一位に選ばれたのが、「オフィスレディ」、つまり「OL」です。

この言葉はめっきり聞かなくなりましたが、この「OL」、実は第一位ではなかったという話があります。

本当の第一位は「オフィス・ガール」。これで異議なし、会議はまとまりかけました。

しかし、当時の編集長が待ったをかけました。

「40代50代の女性を『ガール』って呼ぶなんて俺イヤだ」

女心理解力ゼロの編集長に毛嫌いされた結果、3位か4位くらいだった「オフィスレディ」が何階級特進で採用されたと。

この話、どこかで聞いたことがあるんですけどねー。

 その真偽はさておき、戦前のモダンが既に過去となり、高度成長期に入っていても、「ガール」の尖端さは当時の若い女性たちに残っていたのかもしれません。当時の「OL」たちは、街中を闊歩する戦前の「オフィスガール」たちを見て、明るい女性の時代をイメージしたのかもしれませんね。

 

==興味があれば、こんな記事も如何でしょうか?==

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

*1:ラブホテルのご先祖様。

*2:名目上は風呂場ながら実際は売春を行う場所。東京に多かった。

桂歌丸師匠と言語文化

桂歌丸

2018年7月2日、落語の大家桂歌丸師匠が亡くなりました。

決して身体が強い方ではなかっのですが、まだまだ落語をやるという気概は充満していたので、東京オリンピックまでは持つだろう。そう思っていた矢先のニュースでした。

歌丸師匠といえば『笑点』。私も嫌なことがあった時は大笑いして、嫌なことをすべて忘れていたという意味では、大恩がある人でもあります。

が、それは仮の姿。本当は落語という日本の唯一無二の芸能の看板を背負った大御所。それだけに近頃のお笑いのやそれを見る視聴者、出演させるテレビ側の「低レベル化」に対し、厳しいことも言っていた方でした。

また、私にとっての歌丸師匠は、遊郭を知る最後の生き証人という一面もありました。彼は横浜真金町の出身で、生涯そこから離れることはありませんでした。

真金町と言えば、横浜最大の遊郭があったところ。歌丸師匠の祖母は「真金町の三大ババア」と言われたほどの女傑で、歌丸師匠は遊郭の女たちに「若様」と呼ばれ、大妓楼のボンボンとして何不自由なく育ちました。

『笑点』をはじめて見たのは、おそらく小学生の頃、35年前くらいだと思います。その時が歌丸師匠の初見だったのですが、言動の端々に出る「女らしさ」「色っぽさ」に、
「この人オカマちゃうんか!?」
小学生なりの、ストレートな、歌丸師匠の第一印象でした。
彼の人生を見ていると、おそらく遊廓という異空間、いや女の世界で生まれ育った特殊性を身につけた結果なのかなと。

 

歌丸師匠=笑点のおじいちゃんというイメージしかない方は、歌丸師匠のこんなすさまじい芸を見たことがあるでしょうか。

 

www.youtube.com

「化粧術」という小咄で、歌丸師匠若かりし頃の伝家の宝刀です。

彼は古今亭今輔師匠に入門したのですが、落語の方向性の違いからいったん破門され落語界から身を引いています*1。「化粧術」は破門後、化粧品のセールスマン時代の女性の身支度を元にした・・・表ではそうなっています。

しかし、仕草を見てもらうとわかりますが、明らかに日本髪を結っている姿・・・おそらくですが、「若様」と呼ばれていた頃に、遊郭の妓楼で見た遊女の身支度をモデルにしているのではないかと。もし歌丸師匠に会えたら是非この質問をぶつけたかったのですが、それもかなわぬまま逝ってしまいました。

遊郭と関わりがあった人は、自分と遊郭の関係をひた隠しにします。街を歩いているだけで警察を呼ばれたほど警戒していたり、カメラを持っているだけで水をかけられたり、街の人と遊廓の話を切り出すと、

「今すぐここから出て行け!」

と怒鳴られたことも何度かありました。遊廓だったことは黒歴史にしたい、恥部を見せたくないという地域側と、

「事実は事実である以上、公にすべき。なぜならそれは事実だから」

(ただし、事実に対する善悪は絶対につけない)

という私の歴史観と衝突することは、今でもあります。

歌丸師匠は逆に、遊郭育ちであることに誇りすら持っていました。落語のマクラがそのまま自身が見た遊郭の話になることも珍しくなく、人買いの話など生々しすぎて震えがくるほどでした。その分、彼の廓噺(くるわばなし)はとてつもない迫力がありました。*2

「遊郭も日本の文化の一つじゃないか。何が恥ずかしいんだい!」

歌丸師匠は遊郭出身であることを隠す人たちを叱りつけるように、一人胸を張って伝えているようでした。

 

 

歌丸師匠

歌丸師匠は去年、一芸人としてこんな言葉を残しています。

 

「言葉というのはですね、その国の文化なんですよ」

 

落語に関しては、私は観客の方に徹し、聞いて笑っている方です。文章センスを上げたいというブロガーは多いと思いますが、そんな人は落語を聞いていれば自ずと感覚が研ぎ澄まされます。

外国語を勉強している一人として、この言葉は非常に感銘を受けました。

言葉とはその国、民族が数百年、数千年間蓄えてきた文化のエキスです。そのエキスを飲み、相手のものの価値観・考え方を理解するのが、外国語の勉強というもの。キザな表現をすれば語学道です。語学は就職のためのアクセサリーでも、ペラペラになってチヤホヤされる道具でもありません。

ただし、相手の価値観の深いところまで理解できればその語学は一生ものの財産となることは間違いありません。

そしてもう一つは、日本の文化を広めていくこと。

文化は英語で "culture"ですが、元は「耕す」という意味のラテン語です。言葉を使って日本文化を耕していくのも語学の勉強の一つ。

「日本語を大切にして欲しい。特に(やたら端折りたがる)若い人は」

歌丸師匠は事あるごとに訴えかけていましたが、語学の専門家は外国語の使い手だけでなく日本語の担い手でもある。言い換えれば「噺家」として落語とは同業者なのかもしれません。

外国語を勉強している人、またこれから外国語を勉強したいと思っている人は、歌丸師匠の血を吐くような「遺言」を頭に入れて勉強して欲しいなと思います。これを胸に抱いて語学道に歩むだけでも、歌丸師匠の遺志を十分に受け継いでいるのだから。

 

心よりご冥福をお祈り致しま・・・せん、私は。噺家は身が滅んでも後世の脳内でいくらでも再生されます。身は滅んでも我々の中で永遠に、好きなだけ再生される存在となっただけ。我々の記憶の中では、逝ってはしまっても死んではいない。それでこそ噺家としての本望。そう思いませんか。

*1:のちに兄弟子の桂米丸師匠門下となり復帰、「歌丸」を名乗ります。

*2:廓噺とは江戸落語のジャンルの一つで、吉原遊廓を舞台にし遊女が主役の落語。難易度が非常に高く、演じ手も聞き手もかなりの教養を要する上級古典落語。歌丸師匠はその第一人者でもあった。

映画『太陽の墓場』の舞台を歩く【昭和考古学】

 

釜ヶ崎あいりん地区

釜ヶ崎・・・事情を知らない人は、名前を聞いただけで恐れおののく(?)、あのあいりん地区です。


よそ者が入れば身ぐるみ剥がされ、女はシャブ漬けにされて東南アジアに売り飛ばされると恐れられた地域の特質か、現在でも言われたい放題言われています。
その昔は、確かに生半可に近寄れるものではない魔気を発していましたが、今はかなり毒気を抜かれた街になりました。たとえるなら、去勢された猛獣か。
ただし、好奇心だけで人にカメラを向けるのはやめておいた方がいい。

 

しかしながら、ここは「B級歴史学」、「昭和考古学」のネタとしてはうってつけの地域。表層を抜けて深く掘っていくと面白いものが見つかるのではないか。いや、必ず見つかるに違いない。
虎穴に入らずんば虎子を得ず。敢えて「ドヤ」と呼ばれる簡易宿泊所に泊まり、同じ目線で釜ヶ崎を見てみようと。最近は、「釜」のドヤに泊まるのがマイブームになっています。

「釜」自体を考古学するのはまだ先になりそうですが、今回は一本の映画を通した釜ヶ崎と大阪を「ブラのぶ」してみようかと思います。

 


今から約60年前の昭和35年(1960)、釜ヶ崎を舞台にした一本の映画が上映されました。

映画の名前は『太陽の墓場』

 

f:id:casemaestro89:20180529002322j:plain

監督は大島渚

私が物心ついた時分には、大島渚監督といえばTVタレントとしての顔が強く、

「『監督』と呼ばれとるけど何の監督や?」
と、幼い頃はいぶかしみながらテレビを見ていました。
今回が大島渚監督の映画の初観です。もう亡くなっていますが、今回初めて認識しました。この人、本当に映画作ってたんだと。

 

 

f:id:casemaestro89:20180615091811j:plain

映画のポスターです。

「総天然色」って何やねん!?と思ったのですが、たぶん「フルカラー」ということでしょうね。映画史には疎いですが、昭和35年だと映画と言えどもカラーの方が珍しかったのかしらん。

 

映画のストーリーを超手抜きに説明すると、釜ヶ崎に住む様々なアウトローたちが繰り出すシリアスな人間模様であります。
映画でのキーワードを羅列していくと・・・
「売血」「売春」「ポン引き」「愚連隊」「通天閣」「ルンペン」「日雇い労働者」「バラック」
当時の釜ヶ崎の代名詞的用語が勢揃いです。なんちゅーところやねんと、まともな神経の持ち主ならここでドン引きです。
映像を見るとさらにビックリします。

 

f:id:casemaestro89:20180615094027j:plain

 

f:id:casemaestro89:20180627225834j:plain

f:id:casemaestro89:20180627225847j:plain

f:id:casemaestro89:20180627225902j:plain

f:id:casemaestro89:20180627225913j:plain

戦災の痕がまだ残っているところは残っている昭和30年代とは言え、ここはホンマに日本なのかと。外国のスラムで撮影されたのかと思いきや、ところがどっこい大阪市内のど真ん中。

 

よく似たタイトルに、『太陽の季節』があります。
1955年(昭和30)に、石原慎太郎氏によって書かれた小説で、裕福な若者のちょっとやんちゃな物語。当時は売れに売れ芥川賞も受賞。「太陽族」という若者も出現した社会現象となり、翌年に映画化もされました。

対して数年後に上映された『太陽の墓場』は、売春・売血、そして殺人・・・生きていくためにはなんでもあり。社会のゴミの中に生きるゴミのような若者たちの物語。

同じ若者の青春映画なのですが、『季節』が陽なら『墓場』は陰。同じ『太陽』と名がついた映画でも、背景は真逆なのです。大島監督も、おそらくそこに焦点を当てたに違いない。

 

なお、『太陽の墓場』の詳しいストーリーは、以下のリンクをご覧下さい。

movie.walkerplus.com

 

 

映画の出演者たち

映画はヒロインの花子を中心として動きます。花子は「女」を武器に日銭を稼ぎ、己の利害のためなら敵とも手を結ぶ一匹狼の女性。実の娘にさえ手を出そうとする、天性の助兵衛の父親と暮らしています。

 

f:id:casemaestro89:20180428232546j:plain

f:id:casemaestro89:20180428232558j:plain

花子役は炎加世子という女優が演じています。予告編には新人と書いてあります。

1941年生まれとWikipedia先生いわくなので、当時なんと19歳。釜ヶ崎の住人を直接スカウトしたんじゃないのかというほどの毒々しさ、泥水をすすりながら生きる「釜」の女性のたくましさを演じきっています。

ところで、劇内では花子がタバコ吸ってるシーンが所々で出現しますが、20歳未満は吸ったらあかんのとちゃうのん?今ならワイドショーの餌食となって監督謝罪会見不可避ですが、昭和30年代なのでそこらへんは、

「まあいいか~」

で済んだのでしょうね。

 

 

f:id:casemaestro89:20180428233043j:plain

もうひとりの主人公、武役は佐々木功(いさお)

彼もこの映画がデビュー作とのことなので、フレッシュな新人です。リーゼント崩れの髪型で決めた、甘いジャニーズ系の顔ですね。

 

で、この名前と顔で、

「もしかして、あの人?」

とピンと来た方、いるかもしれません。

 

その直感は正解!

彼の本業は歌手なのですが、今やこの御方は!

 

 

 

f:id:casemaestro89:20180428233506j:plain

「アニソン界の大御所」、ささきいさお氏です。

名前を知らなければ、『銀河鉄道999』(TV版)、『宇宙戦艦ヤマト』の主題歌を歌っている人と言えば、全員膝を叩くでしょう。

ちなみに、劇中でも『流氓(ルンペン)の歌』というものを披露していますが、やはり本職、ドロドロとした空気が清浄されるような声です。次に挙げる俳優の歌のヘタクソ具合とあいまって、さらにきれいに聞こえる(笑)

 

 

f:id:casemaestro89:20180428234416j:plain

もうひとりの映画の主役級である、愚連隊のボス信(しん)は津川雅彦。この人は説明不要でしょ。

血の気の多いヤンキーですが当時は20歳、ギラギラしていて若い。私が言うのもなんですが、微笑ましいほど若い。

津川雅彦と言えば、大河ドラマの徳川家康のようなずる賢い狸親父的キャラが私の頭の中にこびりついているので、こんな若い時期があったのね~と(そりゃそうや)。

 

映画にうるさい人達の間では、『太陽の墓場』に対しこんな意見があります。
「大阪が舞台なのに、みんな大阪弁ヘタクソ!」

 

映画と言ってしまえばおしまいですが、ここで敢えて弁護を。

釜ヶ崎は確かに大阪ですが、住人の出身は北海道から沖縄まで全国規模。「ルンペン最後の掃き溜め」と化したからこそなのです。現在でも釜ヶ崎の生活保護受給者の「大阪市出身と府下出身と非大阪人の割合」って、実は3:1:6です。*1 九州出身だけで7割を超え、大阪は九州の植民地ちゃうぞ!という市政への批判もあった時期もありました。
釜ヶ崎の歴史背景がわかっていれば、イントネーションがヘンテコな関西弁でも映画の背景としては特におかしくない。

さらに現実世界の問題を書くと、映画自体2ヶ月という超短スケジュールで作ったものなので、大阪弁をトレーニングする時間もなかったのでしょう。

 

ところが、津川さんの関西弁はネイティブが聞いても全く違和感なし。むしろ、あの津川雅彦がスラスラと関西弁しゃべっとるやんという、逆の違和感が。

そこに疑問を感じてWikipedia先生に教えてもらったら!

なんや、兄貴ともども京都出身やんかー。

 

 

f:id:casemaestro89:20180428235400j:plain

他の有名どころでは、「北の国から」などで有名な田中邦衛が、盗品を売って日銭を稼ぐ盗賊役として出ています。

釜ヶ崎などでは、「盗み」が職業として成り立っていました。泥棒を生業としている人が貧民街に少なからずおり、組織的に盗みを働いていたのです。釜ヶ崎とは限らないですが、戦前の大阪市調べの貧民街の職業データに、「泥棒:ん%」と書いてましたから…いやそれ捕まえろよと。

盗みはいけないって?そんな常識効かぬ通じぬ。それが魔街釜ヶ崎クオリティ。

 

 

この映画には、ちょっと変わった人も出ています。

 

f:id:casemaestro89:20180429000115j:plain

ジャイアント馬場に似ているこの人、名前も強烈ですが顔も一度見たら忘れられないレベル。

この人は羅生門綱五郎という元大相撲力士。黒澤明の『用心棒』でその異様な存在感が話題となり、映画マニアの間では有名なんだそう。

 

f:id:casemaestro89:20180429000444j:plain

劇内での花子(炎加代子)とのツーショットですが、彼女は当時の女性としてはかなり大きい162cm。それでも顔ひとつ分以上の差がありますね。羅生門の身長は203cmだったそうです。

この人のもう一つ特異なところは、本名を卓詒約(たくいやく)といい、台湾生まれの台湾人なところ。力士時代の四股名は「新高山一郎」。四股名からして納得ですが、台湾人力士は相撲史的に非常にレア。彼を入れて過去3人くらいしかいなかったはずです。

しかし数年後、羅生門は何故かプッツリと消息が途絶えてしまいます。Wikipedia先生でも「生死不明」とされているのですが、当時の台湾情勢のこと、もしかして陰で政治活動に絡んで特務(秘密警察)に…の可能性もあります。

 

 

そしてもうひとり、すごくレアな人がいます。

 

f:id:casemaestro89:20180428230606j:plain

右端の永井一郎って誰かわかりますか?

(上の画像の右下のタイトルは、単に私の記入ミスです…スルー推奨w)

 

 

 

 

え?わからない?

 

 

 

 

 

 

 

 

f:id:casemaestro89:20180428225428p:plain

 

ばかもん!!

 

あの世から波平さんの怒声が聞こえてきそうです。

 

永井一郎って波平さんの中の人です。

永井は「ヤリ(香車)」というあだ名のルンペン役なのですが、

 

 

f:id:casemaestro89:20180428225854j:plain

赤矢印のどちらかなんですよね・・・。でも、

 

 

f:id:casemaestro89:20180428225928j:plain

この公式プロフィールの顔のイメージが強すぎて、確証が持てません。

永井は豊中市出身の大阪人であり、アニメ『じゃりン子チエ』ではネイティブの大阪弁で演技してます。また、現時点でわかっている限り、これが彼の映画初出演でもあります。当時29歳。

 

声優という職業は、そもそも日本が発祥です。しかし永井もそうですが、アニメや映画の吹き替え創世記から活躍していた声優は皆、舞台を中心とした劇団所属の俳優でした。

俳優と声優、現在はほぼ分業されていますが、古い時代からの声優はみんな劇団員。今回の永井一郎の例も、

「声優さんが映画に出てる!」

ではなく、そもそもこっちが本業。元はみんな俳優女優、いや今でもそうなのです。

 

 

『太陽の墓場』の現代を歩く

 

映画では、当然の如く昭和30年代当時の釜ヶ崎が映像として出てきます。
一部セットを作っているものの、ほとんどはリアルの釜ヶ崎を利用しています。
その姿は、今にも壊れそうなバラックが立ち並ぶ、圧倒的なスラム力。映像から悪臭がただよって来るような、不潔・不良・不道徳の三拍子。
当時のリアルな映像がドブ川なら、今は四万十川の清流。同じ場所とは到底思えない。

今の釜ヶ崎なら全然住めますが(物価が1ランク安い)、昭和30年代の釜ヶ崎に住めと言われたら、全力で首を横に振ります。おそらく、今でも残る釜ヶ崎のスーパーダークなイメージは、昔々のものを引きずっているだけなのでしょうね。

 


通天閣

 

f:id:casemaestro89:20180627192402j:plain
現在の二代目通天閣は、1956年(昭和31)に建てられました。つまり映画の通天閣は築4年以下だった、まだできたてホヤホヤの時の姿です。

通天閣自体は当時から全く変わっていませんが、周囲の風景は当然の如くすっかり変わっています。



f:id:casemaestro89:20180627194344j:plain

このシーンも、どこか皆目検討もつきません。

しかし、昭和30年代の大阪の下町がどんな雰囲気だったのか、映画の映像が伝えてくれている気がしてなりません。

  

 

鉄道交差点のロケセット

『太陽の墓場』のすごいところは、当時の釜ヶ崎を掛け値なしで、ほぼそのまま使っていること。当時はかなり冒険だったと思いますが、そこを大胆に使ったのもまた大島マジックか。

しかし、セットは若干作っているようです。

f:id:casemaestro89:20180627222032j:plain

f:id:casemaestro89:20180627222058j:plain

田中邦衛さん演じる泥棒稼業のルンペンが、盗品を抱えて走ってくるシーン。主人公の花子の家もここあたりにあるという設定ですが、これはロケセット。上の画像の木の柵と背後にある盛り土は関西線、今のJR大和路線です。 

 

実は、『太陽の墓場』は本編の他に、予告編の映像が幸いYoutubeに残っています。本編で使われなかっただろう映像も使われているのですが、そこにセットが映っていました。

 

f:id:casemaestro89:20180627222828j:plain

国鉄関西線と南海電車が交わるところを走る汽車のシーンから、

 

f:id:casemaestro89:20180627222853j:plain

カットが切れることなくこのセットが設けられた場所へ移ります。ロケを見ている野次馬、カメラマンなどのスタッフも見えます。これで場所は確定。

どんな場所だったのかは、タイトル文字が邪魔でよく見えませんが、本編では別角度からの映像もあります。

 

f:id:casemaestro89:20180627223816j:plain

手前がロケセットで、奥はおそらく本物のスラム街。コンクリートの壁は南海電車の高架です。

 

 

f:id:casemaestro89:20180627223215j:plain

ロケセットがあった場所は、ここで間違いありません。

 

f:id:casemaestro89:20180627223626j:plain

セットが作られた場所は2018年現在、このとおり。写真正面、今は道になっている部分にセットが造られていました。関西線との線路の境界線にあった木の柵は、今は金網になっています。

 

ちなみに。

f:id:casemaestro89:20180627222828j:plain

上に挙げたこの汽車の画像ですが、なんの考えもなくTwitterにアップしました。するとこれは「珍」だと「車両鉄」というジャンルの鉄道ファンが食いつき、イイネ3,000、リツイート2,000の花火大会となりました。何故そんなにバズったのか。理由は別記事にて。

 

 

地下鉄動物園前駅

f:id:casemaestro89:20180627194550j:plain

f:id:casemaestro89:20180627194536j:plain

映画では、地下鉄の駅も出てきます。ある試みのために、釜ヶ崎中に顔が利く花子が駅周辺のルンペンをかき集めているシーンです。
釜ヶ崎にある地下鉄の駅と言えば、動物園前駅。しかし、駅を上がっても動物園はなく、むせるほどの大阪臭がたちこめる「釜ヶ崎前」です。地理的に言って「釜ヶ崎」とつけられるべきなのですけどねー。

改名の話は、あったことはあったそうです。

「動物園前って名前ダサい。名前変えない?」

という話が大阪市交通局かどこかで挙がった時、反対派が一言。

「なら『釜ヶ崎』にしまっか?」

この一声で改名の話はなくなったという話を、風のウワサで聞いたことがあります。

それほど「釜ヶ崎」はNGワード。「あいりん地区」という、ネーミングセンス意味不明の名前に変えさせられたのも、「臭いものには蓋をしろ」の行政版です。

 

 

 

それはさておき、映画に映った地下鉄の出口はどこか。

 

 

 

f:id:casemaestro89:20180627195632j:plain

f:id:casemaestro89:20180627195941j:plain

 2018年現在、映画の入口は「動物園前駅③出口」として健在です。壁面タイルなどは取り替えられていますが、外観は変わっていません。
駅の背後にある電話ボックスも、今は3台に増えていますが位置は変わっていませんね。

 

この時のシーンには、駅へ通じる階段も映っています。

f:id:casemaestro89:20180627195524j:plain

 階段の上に、地下鉄の始発・終電が書かれています。御堂筋線の「梅田行」と「あびこ行」と書かれているのですが、ここからわかることは、

・北は梅田までしか開通していない(新大阪までの開通はこの4年後)

・南はあびこまでしか開通していない(なかもずまでの延伸はもっと後)

・堺筋線がない(未開通)

 

この映像でもう一つ、わかったことがあります。

『太陽の墓場』の全国上映は、昭和35年(1960)の8月9日です。対して御堂筋線があびこまで開通したのは、年7月1日。ここから映画の上映が、1ヶ月ちょっとの間しか空いていません。

上にも書いたとおり、この映画は2ヶ月というド短期の製作でした。このカットは、あびこ開通直後の7月頭か中旬くらいに撮影されたのでしょう。かなり切羽詰った日程で作られたことを示す、さりげない発見です。

 

f:id:casemaestro89:20180627200841j:plain

2018年現在は、こうなっています。

 

 

阪堺線ガード下

愚連隊に入った武と彼の幼馴染。
幼馴染の方は数々の犯罪に手を染め、愚連隊と釜ヶ崎の空気に馴染んでいくのですが、根がやさしい武は馴染めず、悩みに悩みます。
愚連隊を何度も抜けては捕まり、仲間によるリンチ一歩手前でボスの信が庇ってお咎め無し、ということを繰り返しました。 

 

f:id:casemaestro89:20180627201529j:plain

f:id:casemaestro89:20180627201547j:plain

 

この武、今でいう草食系男子です。無鉄砲な分ヤクザより質が悪い愚連隊のメンバーにしては、純粋で優しすぎるのです。やさしいことは良いことです。ただし、釜ヶ崎ではそれが命取りにもなりかねない。

男など「釜」のドブネズミかミナミのヤクザしか知らない花子は、そんな武を見下します。が、純粋さを保つ武の心に母性を感じたのか、何かと世話を焼き始めます。

花子に声をかけられた武は後ろを振り向き、その時阪堺線のチンチン電車が前を通り過ぎます。

 

f:id:casemaestro89:20180627202748j:plain

 

f:id:casemaestro89:20180627201803j:plain

f:id:casemaestro89:20180627201827j:plain

この場所は、釜ヶ崎に詳しい人なら説明不要なほど有名な「ガード下」。
現在は金網だらけで当時の風情を感じさせませんが、金網を除くとここは変わっていません。

 

「阪堺線ガード下」は、地下鉄堺筋線動物園前駅の9番出口のすぐ前です。丈が異様に低いガードは、まるで異世界へ続く大きな洞穴のように見えることもあります。

ガードを抜けると、そこは空気の流れすら変わる別世界。人によっては先へ入ることを本能が拒否し初め、人によってはこれが俺の求めていた釜ヶ崎だと狂喜する、「真の釜ヶ崎」

 

 

f:id:casemaestro89:20180630193457j:plain

釜ヶ崎には、「広義の釜ヶ崎」「狭義の釜ヶ崎」があります。

赤枠で囲んだ「広義の釜ヶ崎」は、かつて売春や麻薬の密売が盛んで、警察が危険地帯とマークしていたところ。部外者が「釜ヶ崎」と聞いて漠然と認識するエリアは、こことなります。

阪堺線を境界線として西にある、黄色で囲んだ「狭義の釜ヶ崎」は、日雇い労働者の本拠地。ここを南北に貫く紀州街道沿いに木賃宿(ドヤ)ができ、貧民が集まった元祖です。過去に数回暴動が起きたところも、『じゃりン子チエ』の原作のモデルの街も*2、「狭義の釜ヶ崎」です。

今回は詳しく語りませんが、外国人旅行者のベースとして脱皮しつつあるのは、「広義の釜ヶ崎」の方。「狭義の釜ヶ崎」は隣の外国人ラッシュには完全に背を向け、外国人と女性の宿泊を頑なに拒絶しています。宿泊料も、「広義」と「狭義」のエリアでは2倍以上の差があります。っても、1000円か2000円の違いですけどね*3

 

 

三角公園

f:id:casemaestro89:20180627205458j:plain

「狭義の釜ヶ崎」には、「三角公園」と呼ばれる有名なルンペンのたまり場があります。

 

f:id:casemaestro89:20180627210020j:plain

「三角公園」の正式名称は「萩之茶屋南公園」というのですが、誰もそんな名前では呼んでいません。みんな「三角公園」です。私もGoogle mapを見てビックリ。

「ここって『三角公園』ちゃうのん?」

と。

 

f:id:casemaestro89:20180627205521j:plain

2018年現在の「三角公園」。映画とほぼ同じ角度で撮ったつもりです。

この写真ではわかりにくいですが、ここでは今でも住居にあぶれたルンペンが、バラックを建て生活しています。彼らに対するボランティアの炊き出しも、ここで行われます。
ここでは、好奇心だけで絶対にカメラを向けないように。上の写真も、彼らの見えない(だろう)安全圏から最大望遠で撮ったにすぎません。
何度も言いますが、釜ヶ崎は昔に比べて確かにクリーンになりました。が、そこからもあぶれた人たちの最後の牙城が「三角公園」。
無用のトラブルを避け・・・いや生命が惜しければ、スマホですら収めておいた方が良い。いや、ここの「魔気」に呑まれ自然に収めることになると思います。

 

ここでちょっとコーヒーブレイク、歴史の寄り道を。

 

歴史の小ネタ。「三角公園」にあった駅

 

f:id:casemaestro89:20180627211455j:plain

(今昔マップ京阪神版より。1974年地図)

かつて、天王寺~天下茶屋間を南海電車が走っていました。南海天王寺支線です。

平成5年(1993)に全線廃止となったのですが、昭和50年代以前生まれの大阪人なら、天王寺駅の端に居心地悪そうに止まる、1両か2両の電車に見覚えがあると思います。

この天王寺支線、たった2.4kmの短い支線だったのですが、途中駅の変遷が激しい路線でもありました。上の地図での停車駅は「今池町」のみとなっていますが、戦前は別の駅が存在していました。

 

f:id:casemaestro89:20180627212257j:plain

(1939年大阪市街地図より)

今池町駅がないかわりに、「大門前」「曳舟」の2つの駅がありました。この2つは、昭和20年の大阪大空襲で破壊され、駅として全く機能しなくなっため戦後すぐに廃駅となりました。特に曳舟駅には、1トン爆弾が直撃したのかクレーターのような穴が開き、池となっていたそうです。

この2つの駅、地図でわかるとおり存在していたことは確かです。しかし、どんな駅だったのか、写真が残っていないのです。

しかし、こんなものを見つけました。

 

f:id:casemaestro89:20180627213619j:plain

昭和17年(1942)、大阪市所蔵の航空写真です。昭和17年だと駅が消失してしまう前のこと、駅は存在しています。

 

f:id:casemaestro89:20180627214459j:plain

写真を極限まで拡大すると、ホームらしきものの他に、駅舎っぽい建物もある気配がします。ホーム(推定)は一つしか確認できないので、曳舟駅はおそらく島式一面でしょう。そんなことすらデータが残っていない、幻の駅なのです。

しかしながら、今回これらの幻の駅が、航空写真とは言え写真で確認が取れました。

その曳舟駅と同じく、爆弾の直撃を受けて更地となった跡にできたのが、あの「三角公園」です。航空写真を見ると、「三角公園」の形で住宅が密集していたことがわかります。幻の曳舟駅は、ここに存在していました。

 

 

あれ?昭和3x年?

写真の時系列がズレるのですが、オープニングで日雇い労働者が売血、つまり自分の血を売ってお金にするシーンがあります。売血という行為自体がショッキングに感じると思いますが、当時は違法ながら当たり前に行われていました。

 

f:id:casemaestro89:20180627215440j:plain

で、そこに映っていたカレンダーに妖気を感じ・・・ではなく、不可解さを感じました。

カレンダーには「7月3日 木曜日」と書いています。

 

f:id:casemaestro89:20180627215757j:plain

昭和35年7月3日は日曜日。よって、映画が上映された昭和35年のカレンダーではないことは確定。

 

なら、これはいつのカレンダーなのか。7月3日木曜日となる年を探してみました。

 

f:id:casemaestro89:20180627220646j:plain

すると、2年前の昭和33年(1958)が該当。ははん、小道具に数年前のカレンダー使いよったな(笑 まあいいや、これで解決!

・・・と思ったのですが。

 

f:id:casemaestro89:20180627215440j:plain

カレンダーの左側には、「六月六日」と書かれています。その上の文字が「暦」なので、おそらく旧暦でしょう。

なんや、昭和33年7月3日が旧暦6月6日やろ?なんやどうということはない。

ところが!!

 

f:id:casemaestro89:20180627221024j:plain

旧暦計算サイト(byカシオ)より)

 

あれ?全然違うやん。

ここまで来れば、毒を食らわばなんとかまで。「7月3日木曜日。旧暦6月6日」を徹底的に探してみました。探していくうちに、気づいたら18世紀に突入していました(笑)
しかし、170年分くらい探しても見つからず。これは一体なんなのか・・・。

はははは、それはトラップだ!

こんなところに気づいたのは褒めてやる。しかしただの小道具だ、残念だったな!!

と草葉の陰から大島監督の笑い声が聞こえそうです。

 

 

大阪城の横

『太陽の墓場』のロケは、釜ヶ崎だけではありません。

 

f:id:casemaestro89:20180627231941j:plain

奥に大阪城が見えていることから、ここは釜ヶ崎ではありません。

また、切り取った画像では見えないのですが、奥に城東線(大阪環状線)が走っており、本編では実際に電車が走っています。

さて、ここはどこなのか。

 

大阪城の東側は戦前、「大阪陸軍造兵廠」という陸軍経営の工場がひしめき合う工場地帯でした。

 

f:id:casemaestro89:20180627234238j:plain

(Wikipediaより)

地図でわかるように、今の大阪城ホールからOBP、JRや地下鉄の車庫やUR森ノ宮団地までの広範囲。面積は「アジア最大」と言われていました。

軍営なので基本的に兵器を作る工場ではあるのですが、それ以外にも金属製鳥居や水道管、服なども製造しており、科学実験も行っていた国営巨大重工業メーカーのようなものでした。

戦争中、ここは不思議なほど米軍の空襲を受けずでした。やっと(?)空襲されたのは、終戦1日前の1945年8月14日。しかし今まで空襲されなかった分、ここだけを集中砲火する形で爆弾が落とされ、アジア一と謳われた工場群は半日で灰燼に帰しました。

 

戦後の工廠跡地は鉄くずの山として残り、それを売って小遣いを稼ぐ人間たちの稼ぎ場となりました。終戦後は鶴橋に住んでいた我が父親もその一人で、手軽なアルバイト感覚で鉄くず拾いに行っていたそうな。記憶によると、子どもの小遣い稼ぎには十分な金になったそうです。

彼らは次第の組織化し、次第に在日朝鮮人を中心にした「アパッチ族」という集団になりました。アパッチ族と警察との格闘は、実際にアパッチ族の一人だった梁石日や開高健が小説にしています。

 

しかし、ここは不発弾も多く残り、国も大阪市も手を出せない危険地帯でもありました。オヤジも、たまに爆弾を踏んだか何人か吹き飛んだと言っていましたね・・・。

不発弾処理は平成に入るまで続きました。

「大阪城近くで不発弾発見!処理のため電車止めます」

と大阪環状線が度々止まったことは、昭和60年代までは珍しくありませんでした。

 

あいにくロケが行われた昭和35年前後の航空写真はないようですが、昭和39年の地図が残っていたので、それを参考にします。f:id:casemaestro89:20180628000808j:plain

現在は大阪城公園駅がある場所の東側に、骨組みだけになっている工廠の跡が残っています。現在は地下鉄の検車場になっていますが、映像の大阪城の角度からして、映画の中の骨組みの廃墟はここでしょう。

昭和23年(1948)の航空写真も見てみたのですが、比較すると工廠跡は高度経済成長期が始まっても、全く手付かずなことがわかります。戦後20年近く経っても放置・・・それだけ不発弾が多く手が開発が遅れたのでしょう。

 

 

 『太陽の墓場』には他にも、

f:id:casemaestro89:20180627201011j:plain

f:id:casemaestro89:20180627201025j:plain

 南海ホークスの拠点だった今は亡き大阪球場(現なんばパークス)や、

 

f:id:casemaestro89:20180630140111j:plain

道頓堀のグリコの看板など、高度経済成長時代前の貴重な大阪の映像が数多く見られます。映画の内容もさることながら、昭和30年代の大阪の一部を、カラーで見られること自体が貴重。大島渚もえらい歴史的資料を残してくれたものです。

が、そこをいちいち挙げていくとキリがなくなってきたので、今回はこれまで。

 

お次は、映画内に出てくる貴重な大阪の中でも、鉄道に関する超貴重なものをピックアップします。

 

今回の記事に関する書籍・映像等

『太陽の墓場』はAmazonからレンタルで視聴可です。 

 

戦後の大阪砲兵工廠を根拠にしていた「アパッチ族」について

 

 

*1:大阪市福祉局平成28年データより。

*2:アニメ版は、通天閣周辺の「新世界」。原作とアニメでは舞台設定が違います。

*3:ただし、最近は「広義」の方が土日祝は料金3倍増しや一泊のみ不可など、かなり高飛車設定になっています。

信太山にあった数奇なゴルフ場 後編 ※2019.7.29情報更新

 

f:id:casemaestro89:20180623092502j:plain

(信太山ゴルフ場。本格オープン前。昭和10年11月頃。『阪和電気鉄道史』より)

 

==大まかなあらすじ==

大阪南部、信太山にあったという短命のゴルフ場、「信太山ゴルフリンクス」は大阪で2番目、さらに日本ゴルフ史に燦然と輝く伝説のコース設計者、上田治が日本で2番目に手がけたゴルフ場でした。

しかし、戦争の激化と共に消滅、今やどこにあったのかさえ資料が乏しい有様となっています。場所は「信太山」にあったことは確かなものの、具体的な場所はあまり知られていなかったのですが・・・。

 

前編はこちら↓

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

 

 

 

 

ついに発見!信太山ゴルフリンクス

前編に書いた「意外なところ」とは、大阪市立公文書館でした。

公文書とくれば、読むだけで蕁麻疹が出てきそうな堅苦しい文章と数字の行列。私も出来ることなら避けたいほどの、堅苦しいお役人作文の羅列です。

しかし、そうだからこそ見逃していました。

公文書館には、太平洋戦争真っ只中の昭和17年(時期は不明)、大阪市が撮影した航空写真が「公文書」として保管されていました。

なんや航空写真やんと思うべからず。戦前の、それも戦争中の航空写真は超がつくほど貴重です。論文ではちょいちょい引用されていたので、存在自体は知っていたのですが、眼の前に現れた膨大な写真を目にした時、身震いが止まりませんでした。

こんな宝の山を目の前にして、ただ見てるだけじゃつまらない。目的を伝え申請し*1、ネタになりそうな箇所をすべて「セルフサービススマホコピー」させていただきました。「後でネタや資料になりそうなところ」だけでもその量たるや膨大、開館から閉館まで丸一日費やしたほどでした。

 

 

信太山ゴルフリンクス昭和17年

(昭和17年大阪市撮影航空写真)

その中には、「大阪市」なのに何故か泉北郡伯太村(今の和泉市伯太町)の写真も残っていました。写真で黒塗りされているところがありますが、そこは当時の野砲兵第四聯隊、今の陸自信太山駐屯地です。時代が時代なので、軍事施設は検閲により黒塗りされてしまうのです。

その右側に、何やらゴルフ場らしきものが・・・。

 

f:id:casemaestro89:20180610002210j:plain

そこの部分をアップしてみると、明らかにゴルフ場らしき形が!バンカーらしきものもくっきり見えます。

 

f:id:casemaestro89:20180623170827j:plain

 ゴルフ場らしき敷地を赤で塗ってみました。だいたいこんな感じかと思います。郷土史に記載の、「野砲兵第四聯隊の」というのは、ある意味正解だったのです。

しかし、写っているのは一部のみ。ゴルフ場は写真の下も続いている予感。ここまで来たら全景カモーン!

・・・と言いたいのですが、実はここが撮影範囲の南限。せっかく幻のゴルフ場の全容の尻尾をつかんだのに…悔しいけれど、「大阪市の航空写真」なのだから仕方ない。一部でも写真として残っていたことを、神様に感謝しましょう。

  

それにしても、野砲兵第四聯隊のすぐ隣にあったことを確認した時、思ったことがあります。

「よくこんなとこにゴルフコース作ったな」

”こんなところ”とは、信太山という地理的環境ではありません。具体的に言うならば、「陸軍聯隊のすぐ隣」という意味です。

阿川弘之のエッセイに、こんなエピソードが書かれています。

阿川が旧制広島高等学校生の頃、軍事訓練で当時広島に一つだけあったゴルフ場を通過しました。その時、引率の配属将校が言いました。

「諸君も、こういうところでゴルフをやれるほどの人物になれ」

一見、激励に思えるこの言葉、阿川によると明らかな嫌味だったらしく、

「ゴルフなんかにうつつを抜かしていたら、もう一回二・二六事件を起こして貴様ら愚民どもを締め付けてやるぞ」

と言いたげであったそうです。

 

海軍は万事英国風だったせいか、ゴルフ好きな士官が大勢いました。

昭和ひと桁の頃の連合艦隊の演習後のこと。旗艦からナンバー2である参謀長が、別の艦に乗っている見学の海軍省法務官(軍人ではなく大卒の文官)にある信号を発しました。
「発参謀長 宛○○法務官 明日0900、兵器持参の上XX埠頭に集合せられたし」
軍艦どうしの信号のやりとりといっても公文書、すべて記録に残ります。なので文面は堅苦しいですが、ざっくばらんに言ってしまえば
「演習終わった~!さて打ち上げゴルフやるぞーヒャッハー!」
ということ。この流れでわかるとおり、「兵器」はクラブセットのことです。
こういうエピソードは海軍史を紐解くと枚挙にいとまがないほど、海軍はゴルフ三昧でした。

が、 陸軍は「ブルジョアの道楽」だったゴルフを目の敵にしており、ゴルフを嗜む人はほぼ皆無。そんな陸軍からすると、「目の上のなんとか」を真横に作られたようなもの。よく許可したなと。

 信太山ゴルフリンクスがあっけなく消えた理由はもしかして、陸軍聯隊の横にあったということも一因としてあったのかもしれません。
戦争だお国のためだと猛訓練にいそしんでいる横で、
「ナイスショット!」
なんてやられたら、軍隊としては目も当てられないですしね。

 

 

 

信太山ゴルフリンクスの跡を歩く

  

f:id:casemaestro89:20180618221112j:plain

まずは、阪和線の信太山駅からスタートします。信太山へは、駅を出てまっすぐ向かう道をひたすら直進します。誰ですか?左折して線路沿いをまっすぐ600mほど・・・なんて言っている人は(笑)


ゴルフ場跡!興味ある!是非歩いてみたい!

とテンションMAXな方には、まずここで悲報をお届けしないといけません。
信太山駅からゴルフ場までは、すべて上り坂です。それも真綿で首を絞めるような、緩やかで長~~~~い坂が延々と続きます。

ここ界隈は現在、普通の住宅地です。が、昔は阪和電鉄がハイキングやクロスカントリー場として開拓した「山」。
こんな環境です。探索する時はハイキングの格好とは言わないですが、ラフな格好がベストです。サンダルやヒールなんかで行くと、後で痛い目どころか、住宅地という森で「遭難」するハメになります。

 

f:id:casemaestro89:20180618221422j:plain

駅からオール上り坂を歩くこと十数分、着きましたは陸上自衛隊信太山駐屯地
体力に自信がない人や運動不足な人は、ここでHPが1になります。しかしここでも悲報。ここはゴールにあらず、スタートラインに立っただけ。駐屯地までの行程は、これから始まる「登山」の準備体操に過ぎません。

 

f:id:casemaestro89:20180613170152j:plain

 

f:id:casemaestro89:20180618221926j:plain

駐屯地の正門を背にし、山の方向へ向かいます。
ここからも、慢性的自殺を促すような上り坂が続き、運動不足もたたってヘトヘト。信太山駅からの道のりで体力を削られた私は、たかがこんな坂でも心拍数がヤバいことになりました。そんな私の横を、下校途中の小学生たちが走りながら駆け抜けて行く・・・若いっていいな。
無理をすると心臓がオーバーヒートしそうなので、日陰・・・すらない炎天下の中、道端にへたりこんでいたところ・・・。

 

f:id:casemaestro89:20180618222141j:plain

柵の向こうでは、自衛隊員が訓練中。
おそらく新入の隊員の基礎体力向上トレーニング中なのでしょう。みんなけっこうバテています。中には隊列から離脱してしまい、先輩か上官らしき人に押されている人もチラホラと。

「下向かんと、前ちゃんと見んとこけるぞ!」

「はい・・・」

「返事が小さい!」

「はいぃぃぃ!」

上官と部下の、厳しいながらもやさしいやりとりが私の耳と目に入ってきます。その柵の手前では、バテて座り込んでいるおっさんが一人・・・という構図です。

信太山駐屯地は、自衛隊の駐屯地としてはそれほど広くはないと思います。陸軍時代の半分以下ですし*2。しかし、山だけあって敷地内のアップダウンが激しく、本気で周回するとけっこうしんどいと思います。

それに比べ、上官or先輩のタフなこと。離脱した隊員を叱咤激励しつつ、ダッシュで隊列の前まで戻る。それも、新隊員(?)が半袖に対し彼らは長袖。この日の気温は、6月にもかかわらず気温は夏日に近い。それで長袖は何のハンデやねんと。なんだかんだで自衛隊員はタフやなーと感じた6月の暑い日でした。

 

ちなみに、自衛隊の敷地と一般の道の境界線には、こんなものがあります。

 

f:id:casemaestro89:20180618222526j:plain

境界線をあらわす石標です。自衛隊の敷地なので主は防衛省となっているので、「防衛」と書かれています。実際は、昔のものなので「防衛庁」なのですけどね。

 

f:id:casemaestro89:20180618222744j:plain

中には「防衛」の字が崩れ、中国語の簡体字のようになっていた石標もありました。

 

これらの石標は、駐屯地を周ると数十個はあるのですが、その中でただ一つだけ、

f:id:casemaestro89:20180618223120j:plain

「陸」と書かれた石標があります。旧陸軍からの生き残りです。

石標マニアやミリオタによると、「陸」の文字を四角で囲んだ石標はなかなか珍しいらしい。数十本のうち一本しかないこの石標、探せるものなら探して・・・駐屯地入り口のすぐ近くにあるので、すぐ見つかります。

それにしても、他はすべて「防衛庁」に替えられたのに、何故これだけ陸軍のままなのか。それが素朴な謎として残りました。

 


電柱に注目!

ここにゴルフ場があったという現物は、おそらく残ってはいないと思います。しかし、ここには○○があったということが、意外なところで発覚したりするのです。

 

自衛隊駐屯地を離れ、景色が本格的に緑一色しかなくなってくるころ、ゴルフ場跡への道沿いにある電柱を見てみました。

 

f:id:casemaestro89:20180618224042j:plain

左側は「丸笠」となっています。近所に丸笠神社や丸笠団地があるので、おそらく昔の地名なのだと思います。

対して右側を見てみると・・・

 

f:id:casemaestro89:20180618224244j:plain

電柱に「ゴルフ」という文字が!
ここがまさしく、信太山にゴルフ場があったという間接的な証拠となります。

 

 


こんなところの「大阪市」

 

f:id:casemaestro89:20180618224515j:plain

こんなところや、

 

f:id:casemaestro89:20180618224628j:plain

こんなところをさまよいながら。

(※こんなところですけど大阪府です)

 

信太山を「トレッキング」すること数十分、ようやくたどり着いたのは、

 

 

 

f:id:casemaestro89:20180618224839j:plain

「大阪市立信太山青少年野外活動センター」というところ。

 

f:id:casemaestro89:20180618225022j:plain

f:id:casemaestro89:20180618225103j:plain

名前の通り、信太山という自然の中でキャンプやアウトドアを楽しむ公共施設です。

信太山丘陵を一つの山とすると、ここあたりが頂上近くとなります。ここまで来ると、信太「山」ではなくミニチュアの「高原」。自然いっぱいの環境で、隣は住宅地になっているものの、それを感じさせない静かな森林です。信太山にこんなところがあったのかと、改めて気付かされました。

さらに公共施設だけあって料金も控えめらしく、最近はアニメの「ゆるキャン」の影響か、若者の団体使用が増えているのだとか。

 

くどいようですが、ここは「大阪市立」です。
「和泉市なのになんで『大阪市立』なの?」
私も看板を見た当初は、先入観で「大阪『府』立」と自動変換されていたほど。

 

f:id:casemaestro89:20180618225552j:plain
ここあたりの土地、実は大阪市の所有となっています。住所は和泉市ですが、土地登記上は大阪市の飛び地のような存在となっています。なんの縁もゆかりもなさそうな信太山に、なぜ虫食いのように「大阪市」が存在しているのか。

この事実とゴルフ場、実はものすごく関係があったりします。

 


ゴルフ場の前は・・・

ここ一帯が信太山ゴルフリンクスというゴルフ場だったのは、実質1935年~1942年?です。
では、ゴルフ場になる前は何だったのか。


ここ一帯は江戸時代、「伯太藩」という小藩がありました。非常に小さい田舎の藩だったのですが、いちおう13,500石の大名でした。
明治時代以降は廃藩置県により大阪府となったのですが、そこを藤沢薬品工業*3という会社が買い占め、樟脳生産のためクスノキを植えようと試みました。

昭和10年藤沢薬品工業樟脳の広告

昭和10年藤沢薬品工業樟脳の広告

樟脳は防虫剤や外用薬の原料となり、薬品会社としては重要な商売道具となります。


しかし、信太山の土壌と環境がクスノキの生育に合わず、社長の別荘地以外を阪和電鉄に売却。阪和はそこをゴルフ場にしたという経緯です。

藤沢薬品の別荘はゴルフ場と別に存在し、戦後ゴルフ場と共に米軍に接収されてしまいます。接収中、白いペンキを塗りまくったりと度を越えたDIYを行ったらしく、解除後にそれを嫌った社長が大阪市に売却。「藤沢会館」という施設を経て現在の青少年センターに至っています。


ゴルフ場がなくなった後

信太山ゴルフリンクスが廃止されたのは、資料により1943年(昭和18)だったり1942年だったり、情報が錯綜しています。たった72~3年前のことなのにね。
謎度が高い案件ですが一つだけ明確なことがあります。それは、「大阪市がゴルフ場の跡地を買収した」ということ。
大阪市が契約したということは、公文書が大阪市に残っているということ。やはりちゃんと資料が残っていました。
契約したのは1942年のことで、買収土地も86,293坪とゴルフ場の面積と一致します。
買収目的は「健民生活指導所」と、市立中学校の運動用地確保のためでした。

 

謎の施設、健民修練所

後者はさておき、前者の「健民生活指導所」とは一体なのか。
これはまたの名を「健民修練所」といい、
「強い兵は健康な男子から生まれる」
をモットーに全国に3000ヶ所ほどつくられたとされています。
数ヶ月~1年間の集団生活で「お国の役に立たない男子」を鍛える施設・・・と書くと聞こえはいいですが、実際は悪名高き収容所と伝えられています。


健民修練所に収容された一人に、あの手塚治虫がいます。
手塚は西宮にあった大阪府立の健民修練所に収容されました。子供向けに書かれた手塚の随筆、『ガラスの地球を救え』にはそこの記述がありますが、本人がここを「ラーゲリ(強制収容所)」と称しており、環境が劣悪すぎて逃げ出したほどでした*4


そもそも、健民修練所自体が謎の施設扱いになっており、そんなのあったんだと初めて聞く人も多いと思います。

私もこれを機会に、ざっくりとながら全国のデータを探してみたのですが、ほとんど出てきません。手塚治虫が漫画やエッセイで書いていなければ、健民修練所なんて歴史のヘドロの中に埋もれたままだったでしょう。もしかして、それほど「ヤバい施設」だったのかもしれません…。

信太山の健民修練所も実在までは確認できます。ただ、中身がどのようなものだったのか、規模はどれくらいだったのかなど、阪大や市立大学の研究者が数年かけて調べても資料が出ないようで、詳細は未だに闇の中です。

 

ゴルフ場の夢のあと

ゴルフ場の跡は現在、「大阪市立信太山青少年野外活動センター」と前述しました。そこで果たして、ゴルフ場だったという痕跡は中に残っているのだろうか。

中に入って探索した瞬間、巡回していた係員に止められました。

 

「ここにゴルフ場があったと聞いて見学に」

そう言うと、

「ああ、ここがそうですよ!」

と意外な返答。

「ぶっちゃけ、ゴルフ場の跡なんか残ってます?」

と聞いたところ、もう70年も経ってますからねー、残ってませんと前置きして、こんな話が。

関係者以外立入禁止のところに、あるコンクリートの基礎が見つかったそうです。山の中なのでもしやゴルフ場の何かの痕跡か!?と関係者は舞い上がったそうですが、それにしては基礎がやけに新しいと確証が持てず、現在まで放置プレイされているそうです。

 

f:id:casemaestro89:20180618231216j:plain

 

f:id:casemaestro89:20180618231247j:plain

許可を得て、足元に野生のキノコが生えているようなセンター内をくまなく探索したものの、ゴルフ場らしき跡は見つからず。どうせダメモト、あったら奇跡という心持ちだったのでガックリはしていません。むしろ、信太山にこんな自然豊かな場所があったのかと、違う方向のベクトルに関心が向いていました。

 

なお、信太山青少年野外活動センターをウロウロする場合は、事務所で申請が必要です。事務所に行き職員に声をかけ、名札をもらうだけの簡単なお仕事(当然無料)なので、面倒臭がらず申請しましょう。

 

 

「ゴルフ」を追って

ふつうのブログであれば、

「信太山のゴルフ場の跡は、何も残っていませんでした。調査終了、おしまい」

と終了宣言でしょう。

しかし、ないですか、ああそうですかで終わる私ではない。ヘトヘトになってここまで山を登って、ここで終わってたまるか。これが「昭和考古学者」スピリット。

 

真夏に近い日照りの中、汗をかきながらひととおりゴルフ場敷地と推定されるエリアを周回してみました。すると、あることに気づきました。

電柱に書かれた「ゴルフ」の範囲が、想像より広いぞと。

 

f:id:casemaestro89:20180618235931j:plain

赤で塗ったところは、航空写真を含めた探索前の事前調査で、ゴルフ場跡だと目星をつけたところです。信太山青少年野外活動センターが黄色くなっていますが、ここに上述した藤沢薬品の社長別荘が建てられており、戦後に会社がイラネと大阪市に売却した敷地です。

 

f:id:casemaestro89:20180618234440j:plain

昭和17年の地図でも、ゴルフ場の横に広々とした敷地の屋敷が建っていることがわかります。

ゴルフ場をしのばせる現物は残っていませんが、道筋をよく見ると、

f:id:casemaestro89:20180619000237j:plain

ゴルフ場を縦断していた道が、現在でもそのままの筋として残っていることがわかります。

 

f:id:casemaestro89:20180619000445j:plain

上の矢印あたりがこんな感じで、

 

f:id:casemaestro89:20180619000534j:plain

下の矢印はこんな感じになっています。道幅もいじくっていないはずなので、当時のままのはずです。

かつてゴルフ場があったエリアは金網が張られ、中にはいることはできません。

 

信太山ゴルフ場跡

信太山ゴルフリンクス跡

しかし、現在は完全に自然に還っています。かつてここに、芝生の緑がまぶしいゴルフ場があったなど、とても信じられません…。

その森を抜けると、「山荘」という信太山高原の住宅地に到着します。 

 

「山荘」という、まるで別荘地のような優雅な名前ですが、 

 

f:id:casemaestro89:20180619001550j:plain

ここも阪和電鉄が開発・・・ではなく不動産業者が分譲型高級住宅地として開発した町でした。ゴルフ場のすぐそこに住宅地…という響きだけでもブルジョアジーの響きがします。

といっても、阪和電鉄と全く関係がなかったわけではなく、ここで家を買うと阪和電鉄の半年間無料パスがプレゼントされました。もっとも、上野芝などの直営住宅地の一年間フリーパスに比べると、お前ら直営じゃないから半分ねとちょっとセコい。

山荘町は昭和17年の航空写真には残念ながらギリギリ写っていなかったものの、昭和23年の航空写真では住宅が建っているので、今回ここは関係あるまい。そう思いながらも、「念のために」電柱を見てみました。

 

f:id:casemaestro89:20180619002632j:plain

すると、やはり「ゴルフ」なんですよね。この山荘町も、「ゴルフ」電柱が多いのです。

 

f:id:casemaestro89:20180619003910j:plain

黄線を中心に、山荘町の電柱を追っていったのですが、けっこう奥地まで「ゴルフ」が続いています。

 

 で、体力の限界まで山荘や隣の黒鳥町周辺の「ゴルフ」電柱を調べていったところ、奇妙な地図が出来上がりました。

f:id:casemaestro89:20180618235954j:plain

 緑で塗った部分が、電柱に書かれた「ゴルフ」から推定される、ゴルフ場の敷地(?)です。思ったより広範囲です。

この山荘町から「下山」していく道の途中の電柱も、上の地図の下の方にある「黒鳥山公園」を境界線に「ゴルフ」が並んでいます。その電柱はちょうど山を降り住宅地が見えるところで途切れていました。

 

 

阪和電鉄、もう一つの謎の施設

この信太山ゴルフリンクスを追っていくうちに、阪和電鉄が絡んだもう一つの謎が浮かび上がってきました。謎が謎を呼ぶ謎の私鉄、実にミステリアスや。

昭和6年8月1日、阪和電鉄は信太山に「阪和スヰートハウス」なるものを建設します。

 

f:id:casemaestro89:20180619004327j:plain

上の広告はオープン初日に『大阪朝日新聞』に載せた新聞広告ですが、これを見た最初の感想は、なんじゃこりゃ!?でした。貸し別荘のように見えるけれど、これでは何の施設なのか皆目検討もつきません。

郷土史の『和泉市の歴史4 信太山地域の歴史と生活』(和泉市教育委員会篇)によると、ハイキング・トレッキング客のために料亭や休憩所、宿泊所などが作られたそうで、利用料金は1棟昼間1.5円、夜間2円。さらに後年には温泉も引かれるようになったそうです。やはり貸し別荘のようなもののようですね。

 

ここの謎は、2つあります。

一つは場所。上述の本には、

「黒鳥山の野砲兵聯隊練兵場の裏手にあった」

と書かれています。しかし、裏手って一体どこやねん。ゴルフ場の「横」といい、これの「裏手」といい、この本は煙に巻くような表現ばかりです。

という愚痴はおいといて、これがどこにあったのかを探してみました。

 

f:id:casemaestro89:20180624182253j:plain

昭和21年(1946)6月、終戦1年足らずの頃に撮影された、信太山界隈の航空写真です。

 

f:id:casemaestro89:20180624182407j:plain

薄い赤は、陸自信太山駐屯地となっている旧野砲兵第四聯隊、緑はゴルフ場推定地、黄色は別荘、そして濃い赤の部分が練兵場です。ここは現在、黒鳥山公園の一部と黒鳥第二住宅という住宅地になっています。

この練兵場の「裏手」に、「スヰートハウス」が作られたそうですが・・・。

 

f:id:casemaestro89:20180624184810j:plain

とりあえず、「練兵場の裏手」とやらを拡大してみたのですが、家すらありません。

 

f:id:casemaestro89:20180624184920j:plain

最初は、赤で丸をした家が怪しいと睨んだのですが、記述によると「スヰートハウス」の建物は複数あったはずなので、おそらくハズレでしょう。

 

他にもめぼしいところを探してみたのですが、結論は

 

わからん!

 

以上。

 

 

 第二の謎は、その宣伝の少なさ。

 

阪和電鉄新聞広告

阪和電気鉄道観光案内

阪和電鉄は、とにかく客を増やそう、電車に乗ってもらおうと様々な経営努力をしていた会社でした。

新聞広告も数多く打ち、カラフルなパンフも作成。広告を追っていくと「阪和電鉄新聞広告コレクション」が出来ると思います。それだけに、広告費はけっこうバカにならなかったと思われます。

そんな広告狂(?)の阪和電鉄が「スヰートハウス」に関しては、ほとんど広告を打っていないのです。ひととおり「聞蔵」*5でオープン日より少しの間探してみたのですが、全く見当たらずでした。「スヰートハウス」の広告を掲載したのはオープン初日のみだそうで、大々的にオープンならもっと頻繁に宣伝するはず。それが一度キリなのが実に阪和電鉄らしからぬ謎です。

『和泉市の歴史4 信太山地域の歴史と生活』も、どうやらそこに引っかかったらしく、確かなことは「わからん」としています。

隣の軍の接待所として使われていたのではないかと推測していますが、確かな証拠はありません。私以外の物好き…もとい研究者の探求を待つことにします。 

 

おわりに

このゴルフ場の件は、何で知ったのか。今となっては思い出せません。しかし、ここで自分の中の郷土史のミッシング・リングがわずかに、しかし確実に判明したことは、さらなる歴史発掘の良き経験になったかと思います。

しかしまあ、まさかこの界隈、自動販売機すらないとは思いませんでした。しんどい以上にのどが渇き、本当に「遭難」するかと思いました(笑

 

探索するみなさん、気をつけて下さい。

 

f:id:casemaestro89:20180624190347j:plain

信太山には「ノドカワイーター」という魔物が棲んでいます。信太山を登る人間から水分を奪い取る、怖い魔物です。

これを強調しておいて、今回の「発掘」は締めとします。

 

 

*1:写真という名の公文書なので口頭じゃダメ

*2:残り半分は現在、和泉市黒鳥町の住宅地になっています。

*3:現在は山之内製薬と合併し「アステラス製薬」に。

*4:ただし、当時の環境から逃げ出したのはフィクションだったと主張する元収容者もいます。

*5:過去の朝日新聞の記事がネットで閲覧できるサイト。

信太山にあった数奇なゴルフ場 前編 ※2019.7.29情報更新

 

 

大阪の幻のゴルフ場

f:id:casemaestro89:20180619004647j:plain

我がブログを読んでくれている読者の中にも、ゴルフが好きな人はいると思います。

海外でよく知られた日本人のステレオイメージの一つに、ゴルフ好きが挙げられます。世界には35,000ヶ所のゴルフ場があるそうですが、そのうち7%を日本が占めているのだとか。これは米国に次ぐ世界第二位。日本人、やっぱりゴルフが好きだった。

 

f:id:casemaestro89:20180623160947j:plain

(神戸のゴルフ場でレッスン中の外国人女性)

日本にゴルフが入ったのは、20世紀に入ってからでした。イギリス人貿易商によって持ち込まれ、その2年後には日本初のゴルフ場となる「神戸ゴルフ倶楽部」が完成しました。このコースは現在も残っています。

 

昭和に入り、ゴルフの大衆化はいっそう進みました。以前は入会金だけでも200円*1と高額だったゴルフ場も20~50円と安くなり、大正デモクラシーによる中産階級の広がりにより、ゴルフ人口は着実に増えていきました。

 

f:id:casemaestro89:20180609174226j:plain

大阪に話を絞ると、現存するいちばん古いゴルフ場は大正14年(1925)設立の「茨木カンツリー倶楽部」です。「カンツリー」の名がクラシックな老舗ということを漂わせています。

下の緑地が戦後の大阪万博が開かれた会場ですが、こんなところにゴルフ場なんてあったっけ?とGoogle Mapを開けた自分がビックリでした。

 

f:id:casemaestro89:20180609174351j:plain

2番目は、昭和12年(1937)に作られた「大阪ゴルフクラブ」。大阪府の南部、シーサイドビューの風光明媚な土地に作られたコースは、茨木カンツリー倶楽部に比べると狭いですが、実に個性がある名コースなんだそうです。

このゴルフ場が現在、「大阪で2番目のゴルフ場」となっています。ところが、この2つのゴルフ場の間にもう一つ、「真の2番目のゴルフ場」が存在していました。

ただ、あまりに短命すぎたため、幻のゴルフ場として歴史の土の中に埋もれていたのですが、今回はそんな悲劇のゴルフ場を、約75年の眠りから覚ませてみようかと思います。

 

 

大阪2番目のゴルフ場があった場所は、ここでした。

 

f:id:casemaestro89:20180609175731j:plain

 

f:id:casemaestro89:20180609175602j:plain

大阪市から電車で南へ進むこと20分弱、和泉市に「信太」という場所があります。

大阪人なら反射神経で「しのだ」と読めるのですが、これが地元以外となるとなかなか読めない、お好み焼き・たこ焼きに次ぐ大阪名物、難読地名の一つです。

 

信太とくれば、ある分野に詳しい人なら、知る人ぞ知る有名な場所だったりします。

一つはミリオタ。上の地図の真ん中に陸上自衛隊の駐屯地があり、その歴史は大正時代に大阪市内から移転された陸軍野砲兵第四聯隊にまでさかのぼります。毎年4月に駐屯地祭りがあるのですが、当日は人・ヒト・ひとで身動きが取れないほど。数千円するミリタリーグッズも売れに売れ、自衛隊好き、ミリタリー好きの裾野は予想以上に広いということを思い知らされます。

二つ目は陰陽師(おんみょうじ)。陰陽師とくれば平安時代に活躍した安倍晴明ですが、その母親が信太に住んでいた白狐だった伝説があります。白狐が狩りをしてケガをした男を介抱しているうちに恋仲になり、生んだのがあの安倍晴明。安倍晴明は人間とキツネのハーフだったという衝撃の事実。

といっても、これは伝説です。が、信太の北部には江戸時代まで、神社に仕える神官や巫女たちが住んでいた(と思われる)、「陰陽師村」という集落がありました。伝説が生まれる土壌が、古くから信太にはあったということです。

また、映画『陰陽師』が公開された時、地元の白狐ゆかりの葛の葉神社が参拝者であふれていたことがありました。それも、何故か女性ばかり。

もう一つは、ウフフが好きな方。「信太山」とくればムフフ・・・あれ?今は理性がモザイクロックをかけて書けないや。それはいつか解除された日に改めて。

 

これだけを見ると、地元民でも

「こんなところに本当にゴルフ場なんかあったの?」

と首をかしげるだろうと思います。

ところが、あったのです。

 

 

信太山

 

信太山は、「信太山丘陵」と呼ばれる高台にあります。

信太山界隈の土壌は酸性が強く、農業には適しません。それ故に村の共有地として放置プレイされていました。それが明治以降に軍用地として転用され、砲弾の射撃実験場などとして使われていました。

f:id:casemaestro89:20180609182220j:plain

現在でも信太山一帯は、自衛隊の演習地となっています。米軍基地ではないので周囲をウロウロしているだけで射殺されたりはしないですが、少しながら物々しい雰囲気を漂わせています。

 

信太山の行政区域は和泉市ですが、丘陵地帯はお隣の堺市にも及んでいます。

この演習地は旧陸軍時代を経て、戦後の一時期米軍に取り上げられたのですが、射撃場に転がっていた薬莢を拾ってくず鉄として売ったり、信太山の倉庫にこっそり忍び込び射撃的用の白板を盗んで絵を描いていた悪ガキがいました。「ゴルゴ13」の作者であるさいとう・たかお氏です。

さいとう氏は、信太山(っても堺市側)を遊び場にしていた地元中の地元民。演習場のすぐ近くに堺市立福泉中学校がありますが、彼はそこの卒業生です。「デューク東郷」が、さいとう氏に強い印象を与えた中学時代の先生が由来なのは、ファンの間では知られたな話。

射撃場のすぐ近くだけに、『ゴルゴ13』の発想の原点はもしかして、少年時代に走り回った信太山だったのかもしれません。

下のリンク先に、中学校時代のさいとう氏と、デューク東郷の元になった東郷先生の写真があります。

堺をおもえば… さいとう・たかをさん 思い出の場所と店 堺市

  

 

阪和電鉄と信太山ゴルフ場

そんな陸の孤島、信太山に転機が訪れたのは、大正時代の野砲兵聯隊の移転と、昭和初期の鉄道の開通でした。

信太山ゴルフ場建設には、ある会社が関わっています。それが私のブログを古くから見てくれている方はみんな大好き、

 

「また阪和電鉄か!」

 

まいどお馴染みネタ満載の鉄道会社です。 

 

現在のJR阪和線は元々、「阪和電気鉄道」(以下阪和電鉄)という私鉄としてスタートしました。

 

f:id:casemaestro89:20180609193527j:plain

(昭和17年大阪市撮影の航空写真)

信太山の麓に駅ができたのは、阪和電鉄開業と同時の昭和4年(1929)でした。写真は開通13年目の昭和17年のものですが、風景は開業当時と変わっていないと思います。

 

今でこそ阪和線は、関西空港アクセス路線としてJR西日本のエース級の活躍ですが、開通当時は人家なんてロクにない、人なき原野を突っ走るだけの鉄道でした。そのため、鉄道は敷いたけれど乗ってくれる乗客がいない有様。

そこで阪和電鉄は、芋掘りやらいちご狩りやら遊園地やらと、経営の安定のために様々な事業に手を出していました。この会社ってイベント会社か広告代理店じゃないよね?と思えるほどの経営努力。

おかげさまで80年後の現在、絶好のブログネタ供給源として私の睡眠時間を削ってくれているのですが、実はこの阪和電鉄、ゴルフ場経営にも手を伸ばしていました。

 

阪和電鉄は、住宅地にしろ遊園地にしろ直営がモットーだったのですが、ゴルフ場は何故か直営とせず、「信太山ゴルフ株式会社」という子会社を設立し監査役の橋本喜作*2を社長としました。が、本社事務所はイコール阪和電鉄本社、ほとんど直営みたいなものでした。これではなんのために子会社を作ったのか、さっぱりわかりません。

まあ、そこが伝説の迷私鉄クオリティ。

 

阪和ニュース第41号昭和10年11月

(『阪和電気鉄道史』より-『阪和ニュース』第41号 昭和10年11月)

ゴルフ場建設プロジェクトを立ち上げた阪和電鉄…もとい信太山ゴルフ株式会社は昭和10年(1935)11月1日、とりあえずなのか練習場だけオープン。翌年の4月、9ホール設置の南大阪唯一の本格的ゴルフ場「信太山ゴルフリンクス」としてフルオープン、ついに「大阪で2番目のゴルフ場」が信太山に完成しました。

 

信太山ゴルフ場

当時の阪和電鉄の案内から抜粋したものですが、「ゴルフ練習場」と書かれてあるので昭和10年(1935)のものですね。

「練習場」と書いておきながらコースはけっこう完成しているようで、写真から見える芝生からも景色の良さそうなコースかなと。

ゴルフ場の敷地は約8.6万坪(約285,000 m2)。みんな大好き「東京ドーム○個分」で換算すると、6個強となります。9ホールしかなかったようなので、ゴルフ場としてはそれほど大きくないように思えます。

 

国会図書館のデジタルアーカイブの山の中に、こんな資料が保存されていました。

 

信太山ゴルフリンクス会員名簿表紙

「信太山ゴルフリンクス」の会員名簿です。「昭和11年5月」と書いているので、ほぼ設立時会員です。よくもまあ、こんなものが残っとったわ。

 

信太山ゴルフリンクス会員名簿

f:id:casemaestro89:20180609205634j:plain

聞いたこともないような人たちの名前が並んでいますが、サラリーマンを含めた中産階級だと思われます。中には伊藤忠や住友銀行、福助など聞いたことがある企業の名前もありますが、会社の重役クラスなのでしょう。

下の名簿の右から二番目の河田嗣郎という人物は、住所が大阪商科大学となっています。彼は大阪商科大学(現大阪市立大学)の初代学長で、この名簿の中では唯一Wikipedia先生に記載されていた人物でもあります。

 

f:id:casemaestro89:20180609210206j:plain

最後に「連絡先」が書かれていますが、信太山ゴルフリンクスの事務所(本社)は阪和電鉄内。子会社とは言え「ほぼ直営」ということですね。

また、現地の住所が信太山ではなく、「泉北郡和泉町黒鳥」になっているのですが、これについてはまた後ほど。

 

当時の営業形態の一部も残っています。

営業時間は7:00~19:00。1籠3打(ダース。36個)入りのボールが、「一般50銭。会員30銭」。ゴルフクラブの貸出も行っており、1本10銭と記録に残っています。

ゴルフをやらないので、これが高いのか安いのかさっぱりわからないのですが、とりあえず現代と比べてみましょう。

 

 信太山にいちばん近い「鶴田池ゴルフセンター」の打ちっぱなしは、60球(5ダース)で500円*3。これを平均的と価格とみなしましょう。

 同時期の昭和11年(1936)、たいやき1個3銭、コーヒー1杯15銭、小学生のお小遣いが1日1~2銭の時代でした。30銭だとたいやきが10個食える計算となりますが、感覚的にわかりやすい「当時の値段を2500倍すれば現在の価格に近い」単純計算でいくと、¥750くらい。今よりちょっと高いかな!?という程度とみなしていいでしょう。

 

しかし、そのゴルフボールを素で買うとどうなっていたのか。

『明治・大正・昭和 値段の風俗史』という本には、「ゴルフボール1球あたりの値段」も書かれていたのですが、そのお値段1円25銭*4。1ダースちゃうのん?と本を見てみると、「1個あたり」と書いてある。いやいや、海外からの輸入もので関税かかってるんやろ?と思ったら、「国産」と書いてある。

1円25銭=125銭やから…3銭のたいやきいくつ食えるねん!?私の算数能力では、もはやいくつなのか数えられません。今なら吉野家の牛丼並が5杯は軽く食えそうです。

いや、たいやきじゃ済みません、近くの貝塚市の遊廓で女の子と1時間みっちり、ィュ縺�や△※ィ遉コができるやんという値段です。なお、大人の事情により一部文字化けしております。

言いたいのは「クソ高い」ということなのですが、ゴルフボールの高額さを考えれば、3ダース30銭(or50銭)はタダ同然な値段と言えます。

 

 

阪和がやればあそこが黙っていなかった

我がブログを古くから見てくれている方は、

「阪和が何かをしたら、あそこが黙ってへんやろな」

という流れが連想できるはず。

 

 

南海電鉄難波駅

やはり永遠の天敵、南海電鉄(当時は南海鉄道)が黙っていなかった。

 

信太山ゴルフリンクスに遅れること1年、南海の沿線に「大阪ゴルフ倶楽部」がオープンしました。冒頭で紹介した、現存する「大阪ゴルフクラブ」のことです。

大阪ゴルフクラブの公式HPによると、ゴルフ好きの有志が中心となり、南海沿線にゴルフコースを作ったと書かれています。南海との絡みは何も書かれていません。

しかし、

 

f:id:casemaestro89:20180609221555j:plain

(1941年『南海沿線厚生施設篇』より)

昭和16年、太平洋戦争寸前のものですが、南海電鉄関連の福利厚生施設が書かれた一覧の中に、大阪ゴルフクラブ(リンクス)がありました。連絡先も南海本社の事業部と書かれているので、何らかの形で経営に絡んでいたと思われます。

ライバルとして何かと張り合っていた阪和と南海ですが、ゴルフ場で張り合っていたとしても何らおかしくない。 

 

ゴルフコースの設計者

こう見ると、信太山ゴルフリンクスは鉄道会社の副業です。しかし、この信太山のゴルフ場に賭けた阪和電鉄の熱い思想は、設計者にも現れていました。

 

上田治ゴルフコース設計者

設計者は上田治(1907~1978)。京都帝国大学で林学や造園学を学んだ日本のゴルフ場設計のパイオニアで、現存するだけでも56個のゴルフ場の設計に携わりました。2011年時点の日本のゴルフ場の数が2413軒なので、その2%が彼の手によるものとなります。

ゴルフ発祥の地イギリスにも勉強に向かい、本場のゴルフコースを研究。帰国後に数々のゴルフコースを設計し、現在でも名コースとして愛好家を唸らせているコースもあります。

日本のゴルフ場設計においてもうひとり、井上誠一という人物がいます。井上は東日本を中心にゴルフ場設計を行い、西日本中心の上田と共に「東の井上、西の上田」と呼ばれました。そんなゴルフ場設計の東西横綱ですが、ゴルフ場の環境選びに厳しく、適さない土地には一切触れなかった井上に対し、上田は

「難しい土地でも、依頼されたら造るのがプロである」

という信念で次々と難所をゴルフ場に変えていったといいます。

 

そんな上田がヨーロッパでの勉強後、日本で2番目に手がけたゴルフ場、それが信太山ゴルフリンクスだったのです。

翌年オープンの大阪ゴルフクラブも上田の手によって作られたものですが、今でも関西屈指の名コースとして数多くのゴルフファンに愛されているそうです。

残念ながら信太山は現存していないので、上田が手がけたコースのリストから外れている資料もあります。しかし、新進気鋭のコース設計者に依頼した阪和電鉄の思いは、資料から伝わってくるようです。

 

史上空前の好景気と共に

 

f:id:casemaestro89:20180610003110j:plain

(昭和11年or12年『阪和電鉄案内』より)

信太山ゴルフリンクスが完成した昭和11年、日本は暗い時代でした・・・って思ってません?そう思っても仕方ありません。学校ではそう習うのだから。

しかしさにあらず。実は日本史上空前の好景気でした。

昭和11~12年の経済成長率は、24%とも言われました。不景気日本を覆っていたエログロナンセンスのダークな雲は完全に吹き飛び、東京や大阪などの都市では、ネオンの灯りが消えぬ不夜城の繁栄を見せました。二・二六事件という冷や水もあったものの、そんなもの効かぬわの絶好調ぶり。経済史という視点からこの時代を見ると、日本史の中でこれだけ輝いていた時代があったのか!?と思えるほどの、キラキラしていたのです。当時の写真を見て、

「活気があるな、明るそうだな」

という感覚を持つことがありますが、これ、気のせいではないのです。

ただ、この好景気、富の分配が都市と中産階級以上に偏っていたのが玉に瑕でした。

その裏には農村、特に東北地方が冷害に台風、地震、大津波の災害コンボが発生しました。東日本大震災級の自然災害が3年連続で訪れたようなもので、政府による支援も、回復が早かった宮城県以外は焼け石に水。226事件が起こった遠因もこれにありました。

 

ゴルフのさらに追い風となったのは、大衆化。
金持ちの道楽だったゴルフを、格安で誰でもプレイできる「パブリックゴルフ」の動きが、昭和6年頃から広がりつつありました。

それが形となった一つが、昭和10年(1935)に作られた千里山田ゴルフ場です。現在は千里ニュータウンとなっている敷地を大阪府が借り受け公園としたのですが、その一部を気軽に楽しめるゴルフ場として開放しました。
府営なので、1ラウンド(9ホール)50銭、2ラウンド以上は1円と料金は激安。ゴルフ場の価格破壊に来場者が殺到したといいます。

 

昭和初期にはこんなものも出来ました。「ベビーゴルフ」と名付けられたミニゴルフです。

 

ベビーゴルフ

 

ベビーゴルフ女性昭和初期



ベビーゴルフ女性

今でいうパットゴルフですね。

 

1936年女性ゴルファー

信太山ゴルフリンクスができた昭和11年と同時期の、女性ゴルファーの写真です。

この時代には、今まで蚊帳の外だった女性にもゴルフを愉しむ余裕が生まれ、大衆文化が戦前最後の花を咲かせようとしていた時。それが、史上空前の好景気の時代にあったのです。

 

ただ、やはり生まれた時代が悪すぎた。

 

 

戦争とともに消えた信太山ゴルフリンクス

翌年から起こった支那事変が泥沼化し、贅沢は敵だの掛け声のもと、ゴルフは「ブルジョアの遊戯」扱いされ軍部の標的にされてしまいます。

ゴルフに対する締め付けは厳しくなり、昭和15年から30歳以下のゴルフは禁止*5。兵隊さんが異国の戦場で泥水飲んで頑張っているこの非常時に、ゴルフなんてやってる場合か!というわけです。

さらに親会社の阪和電鉄が南海に吸収され、昭和15年12月より「南海山手線」となりました。泣きっ面に蜂とはこのことです。

 

f:id:casemaestro89:20180609233625j:plain

昭和16年刊行の『南海沿線厚生施設篇』では、「兄弟」となった大阪ゴルフクラブと並んで掲載されています。

 

が、アメリカとの戦争に突入した昭和17年になると様子が一変します。

 

1942年南海案内

昭和17年(1942)の南海鉄道の案内ですが、赤い丸のところに「大阪ゴルフ場」と書かれています。しかし、本来黄丸のところに書かれているべき信太山ゴルフリンクスが何も書かれていません。

この案内の発行月日は不明ですが、「昭和17年3月1日検閲済」と書かれていることから、3月以降であることは確かです。

南海テコ入れの大阪ゴルフクラブは残ったものの、吸収合併した阪和電鉄の形見である信太山は、戦争の掛け声のなかさっさと切り捨てられたのでしょう。

大阪ゴルフクラブは、昭和19年3月18日という「命日」もわかっています*6。それに対し、信太山ゴルフリンクスのはっきりとした「命日」は、現在でもよくわかっていません。正直なところ、今回の調査で昭和17年3月以前だろうと、間接的証拠で絞れただけでも儲けものです。

 

信太山のゴルフ場はどこにあったのか?

もう一つの謎は、信太山ゴルフリンクスがどこにあったのかということ。

信太山は信太山ちゃうのん?とツッコミを入れたい気持ちはわかりますが、信太山と一言で言ってもかなり大きいのです。

 

信太山ゴルフ場ハイキングクロスカントリー戦前

上の地図のように、

「信太山にゴルフ場ありましたで~」

と書かれた資料は複数存在するのですが、どれもこれも地図がざっくりすぎて、場所が特定できないのです。

その中でも、『和泉市の歴史4 信太山地域の歴史と生活』という地元の郷土史には、

「野砲兵第四聯隊のにあった」

具体的・・・な場所が書かれているのですが、うーん、「横」ねぇ…。


それならばと、戦後すぐの航空写真を引っ張り出してきました。

 

f:id:casemaestro89:20180609202221j:plain

戦後の航空写真は国土地理院のHPから容易に検索可能です。目を皿にして航空写真とにらめっこすると、「横」という本の記述から、野砲兵第四聯隊の右側の更地らしき部分がにおう…私の長年の直感が申しておりました。

 

しかし、それ以上の確証が得られず調査が頓挫してしまったまま少し月日が経ったところ、意外なところからそれが判明することに!

 

それについては、書くと長くなるので後編へ続く。

*1:今の価値で50万円ほどか

*2:のちに専務の平松憲夫。平松は阪和電鉄二代目社長にも就任しました。

*3: https://www.tsurutaike-golf.co.jp/

*4:日本ダンロップ社提供のデータより。

*5:大阪ゴルフクラブのHPより。

*6:この日に軍によって接収。大阪ゴルフクラブHPより。完全返還は昭和28年。

なぜ中国人は声が大きいのか。そこから考察する彼らの文化的背景

 

中国人はなぜ声が大きいのか

日本を観光する中国人
 日本を訪れる外国人観光客は年々増加の一方です。先日、大学の公開講座で京都へ行ってきたのですが、右を向いても左を向いても外国人だらけ。全国規模で見ればローカル線の叡山電鉄ですら、乗客の半分は外国人な状態。日本旅行のリピーターは京都なんてもううんざり、地方都市や日本人しか知らない穴場へ逃げている傾向があるのですが、その気持ちはなんだかわからんでもない。

その中でも訪日外国人の四強は韓国、中国、台湾、香港、総数の7割を占めています。
中国人観光客の数は、2017年で567,149人で総数の約24%を占めていますが、どこの街でも中国人観光客の姿を見ることが多くなりました。


しかし、それによる軋轢も発生しています。
中国人に対しいちばん眉をひそめるのは、「マナーの悪さ」
列に平気で割り込む、ホテルのドアを開けっ放しにしてどんちゃん騒ぎをする、トイレでもないのにおしっこをする・・・etc.
本場で「もっとおぞましいもの」を山ほど見続け、良くも悪くも中国人慣れしてしまった私にとっては、日本に来る中国人なんざドラクエで言えばバブルスライム。本場のキングスライムを山のように見てきた私にとっては、ふーん程度。しかし、中国人慣れしていない日本人にとっては、面食らうことも多いと思います。

 

その中でも、クレーム第一位を誇るのが、

「中国人がうるさい」

ということ。

 

f:id:casemaestro89:20180403164154j:plain


所構わず大声で話し、ワーワーと騒ぎ立てる観光客に、うるさいなと癪に障った人はかなりいるはず。その理由を様々な人が様々な角度で書いています。
その大多数はこう片付けています。

「中国語の発音の関係」

これは、確かに私も中国語を話す大声になります。語気も荒いらしく、台湾人に「中国語上手いけど・・・口調が(台湾の)ヤクザっすねww」と言われたほど。
これは仕方ない、毎日中国人と喧々諤々、ケンカしながら覚えた中国語なのだから(笑)


それとは逆に、中国人が日本語を話す時は声が小さくなる傾向があり、留学していた20年前から不思議だなとは感じていました。

 

特に、中国南部の広東省の人間の声の大きさは、とにかく有名です。

アメリカには、こんな笑い話があります。

空港で、中国人二人連れがケンカをしていました。通行人が警察に通報し、警察官が駆け注意したところ、彼らはキョトンとした顔でいわく。

「我々はひそひそ話をしていただけなのですが・・・」

ここでは中国人となっていますが、アメリカでの大雑把なChineseというのはCantonese(広東人)のこと。これは声が大きい広東人・香港人を揶揄したものなのです。

 

先日、関西空港からの急行に乗っていたときのこと。私が座った席の対面に、スーツケースを抱えた外国人の家族連れがいたのですが、声が大きい大きい。私の横に座っていた人(日本人)が、

「中国人、ホンマうるさいな・・・」

と舌打ちしていました。一点に集中すれば、横でいびきかかれようがエッ○されようが私は気になりません。それでもちょっとうるさいなと感じたくらいなので、ふつうの人には不快を越えた「騒音」でしょう。

しかし、彼らが話していたのは北京語ではなく明らかに香港の広東語。ChineseではなくHonkonese(香港人)だったのです。さすがに語学の素人には北京語と広東語の区別はつかない。

とばっちりを食らった中国人こそいい面の皮でしたが、それほど「うるさい=中国人」というイメージが、日本人の中に定着していることを再確認したエピソードでした。

確かに中国人の中でも広東人(香港人含む)の声の大きさは、レベルが2つくらい突き出てます。そんなところに7~8年もいたから、私も慣れてしまったのでしょうね!?

 犯人は中国語の発声・・・これで答えが決まったかのように思えます。

 

しかし、これだけでしょうか。

 さらっとググってみると、

「中国人は何故大声なのか、その3つの理由」

という、アフィリエイト目当ての下心・・・もといSEO対策丸出しのタイトルが並んでいますが、内容を見てみるといくつかの部類に分けられます。

 

①中国語には四声(声調)があるから

なら、言語の親戚で同じ声調がある、チベット語・ベトナム語・タイ語などはどう説明するのでしょうか。ダライ・ラマ法王猊下がうるさいという話は聞いたことがありませんが如何。

 

②方言が多いから

その理屈が成立するなら、方言が多ければ多いほど声が大きいということになります。が、中国並みに方言の多様さがある日本は「うるさい」のでしょうか。

 

③騒音など、周りがうるさいから

まあ、これは0.7理くらいはあるかなと思います。しかしながら、中国の環境も昔と比べかなり良くなっているけれど、中国人のボリュームは下がってないよ。

 

こういう類のブログ記事は、下の「レコチャイ」ことRecord Chinaというニュースコラムを参考にしています。要はこれの切れ端をつまんで、それらしいことを書いているだけ。

少し長いですが、引用します。

第一の要因は、私たち中国人の大声に対する感覚です。
声が大きいことは他の人に元気で朗らかという印象を与えられるし、スピーチやプレゼンテーションでも大きい声での発表が必要です。

第二の要因は、中国語の発音の難しさによるものです。
中国語には有気音と無気音の違いや破裂音や数多くの子音があります。
破裂音は字の通り音の破壊力が必要です。それに4つの声調があり、それを正確に発音しないと意味が異なってしまいます。

第三の要因は、地域差による違いです。
広大な中国には幾多の高山や高原や平野があります。それぞれの地域で話されているのは数え切れないほどの方言です。
方言は口の開け方も、声の高さも速さも異なります。特に、農業を主とする地域では大声で喋るのが普通です。

第四は、中国の教育方法によるものです。
子供たちは幼稚園の時から「大きい声で読み、大きい声で歌い、大きい声で答える」ことを教えられます。
授業中に大きい声で答える生徒は先生に褒められます。
そのため、生徒たちは時と場所を構わず、大声で喋ることが普通になり、それが大人になっても直らないわけです。

 

しかし、これはあくまで表面だけに過ぎない。私はそう思いました。
さすがはレコチャイか、中国人=大声のいちばん重要な視点が抜けている。
いや、急所を外すかのように、敢えて書かなかったのかもしれない。

そこを、長年中国(人)を見てきた私が、独自の視点から書いてみようかと。

 

 

中国人の「ウチ」と「ソト」の概念。そこから導き出す中国人の声の大きさ

中国人はマナーがない、礼儀がない・・・と日本だけでなく世界中で非難轟々ですが、ここで私は多くの読者を敵に回し、中国人を熱烈弁護します。

 

彼らにもマナーはあります!

 

彼らは非常に礼儀正しいのです!

 


ただ、ただね・・・彼らの「礼儀」「マナー」はね・・・。

射程距離が非常に、非常に短いのです(笑

まあこれに関しては、日本人がアウトレンジすぎるという方が正しいかもしれません。

中国人には、「ウチ」と「ソト」という概念があります。これは日本にも朝鮮半島にもあり、それぞれ特色があるのですが、ここでは中国社会でのことを。
中国人は伝統的に、血のつながった「宗族」という集団で固まる傾向があります。彼らにとってこれが「家族」であり「親戚」であり、「国家」であり「世界」であり「宇宙」です。
この宗族が「ウチ」となります。

近代中国への号砲を鳴らした孫文(孫中山)は、
「中国人は一握の砂である」
という、有名な発言を遺しました。
中国人は各個がバラバラで、固めようとしても(砂のように)すぐにバラバラになってしまうということを比喩したものです。
中国人の世界は、砂粒一つひとつ(=ウチ)が世界であるので、国民国家という概念がゼロなのです。
それを中華民族がどうだのと、砂粒に民族主義というセメントを注入し固めようとしている状態が現代です。この流れは、だいたい1999年ころから始まったのですが、習近平になってそれが加速しています。習ちゃん頑張ってねーと、私は生暖かく見守ることにしています。


この「ウチ」以外はすべて「ソト」。「ソト」はイコール他人、ほぼイコールで自分に害を及ぼす敵です。

 

f:id:casemaestro89:20180403164000j:plain

昔の中国の街は、上のように四方を城壁に囲まれていました。これを「城郭都市」と言います。中国語で「街」のことを「城市」と言いますが、これは街が城内にあったことの名残です。


城壁が撤去されている都市でも、城壁の跡は環状道路になって残っていることがあります。

f:id:casemaestro89:20180613103501j:plain

北京なんかは有名ですね。

中国を旅行すると、

「XX門」

という地名を目にすることがありますが、それはかつてそこに城壁と、街へ入る門があったことが地名として残っているということ。

 

f:id:casemaestro89:20180613103707j:plain

西洋の建物が並ぶ上海も実はかつては城壁があり、この中を「旧城内」とジモピーは呼んでいます。この「旧城内」が元祖中の元祖上海。欧米の建物が並ぶあれ?あんなの飾りです、偉い人にはそれがわからんのです。

今はだいぶ開発されてしまいましたが、私が住んでいた頃は人ひとりがやっと通れるような細い道が入り組み、晴れてるのに時折、「雨」が上から降ってきた迷宮そのもの。中国濃度300%の濃縮ジュースのような世界でした。

あんな所に足を突っ込むなんて、野蛮な人・・・と周囲の日本人留学生からは変人扱いされましたが、Google Mapもない頃に上海ラビリンスに入り込むのは、インディー・ジョーンズ的冒険。あのワクワク感が今の知的好奇心のマグマとして、グツグツと音を立てているのかもしれません。

 

それはさておき、そんな上海にも、黄色で囲んだところに「門」と書かれた地名や地下鉄駅があります。かつてはここに、城門があったのです。


また、こんな城郭は都市だけでなく農村にもあります。

f:id:casemaestro89:20180403164021j:plain

どこの要塞やねんというような建築物ですが、これは「方楼」と言い、客家(はっか)人と呼ばれる人たちの住居です。

客家は「よそ者」という意味で、北方の戦乱から逃れ福建省や広東省などに移住した漢民族の一派です。他の漢民族と風俗習慣が少し異なっており、「中国のユダヤ人」とも呼ばれています。よって、「方楼」は中国でも主に広東省にしかない珍な建築物です。
客家人は移住先で、原住民から敵とみなされ迫害されてきました。
中国の迫害は、日本のように生易しいものではありません。「民vs民の戦争」です。自分たちを守るために、「要塞」でも作らないと一族が生き残れなかったのです。
この「方楼」ひとつとっても、彼らが生きてきた環境が「リアル北斗の拳」のような厳しい世界だったかが伺い知れます。

 

城郭都市や「方楼」は、中国人のメンタルにも深く潜んでいます。
中国人の「ウチ」「ソト」の間には、万里の長城のような大きく高い壁がそびえたち、「ソト」の侵入を拒んでいます。
城内は親戚縁者が集まる「ウチ」、城外は「ソト」。「ウチ」の中では実は、彼らは非常に礼儀正しく、彼らなりのマナーもあります。
しかし、「ソト」に対するマナーは皆無。「ウチ」に対しては異常なほど気を使う彼らですが、「ソト」に対する認識は虫けら、いやプランクトン以下なので全く気にもならない。
海で泳ぐとき、プランクトンにいちいち気をつかいますか?息をする時、チリやホコリを気にしますか?それと同じことです。
中国人が「ソト」の世界を行く時、実際はそうでないにしろ、周囲は「ソト」、つまり敵だらけ。
飼い犬が部外者に牙をむいて威嚇するのと同じく、大声を出すことによって「ソト」の連中を威嚇している。これは無意識、つまり生きるための生存本能です。

私は「ウチ」と「ソト」という中国人のメンタル的背景から、何故大声なのかをこう解釈しています。

この「ウチ」と「ソト」の概念、中国文化を知る上で非常に重要なキーワードになるので、頭の片隅で覚えておくと便利です。
 

「公」と「私」

「公(共)」の反対語は「私」ですが、中国社会は数千年間、多分に「私」な社会でした。
皇帝が天下を支配する「私」なら、王朝の領土人民も、そして手先となって働く官僚も皇帝の「私物」です。
そうなれば、官僚も「私」を振りかざします。

「清廉潔白な役人でも、辞める時には銀百万両貯まってる」

原文は忘れましたが、中国にこんな言葉が残っています。
中国の官僚に賄賂がつきものですが、それを全く受け取らない真っ白な官僚でも、数年やったら大金持ちになっているということです。じゃあ、「真っ黒」な官僚はどうか。それは書くまでもありません。
その「銀百万両」は、錬銀術を使って出てくるわけではありません。当然、人民から搾り取ったものです。
人民も、上の「私」の勝手気ままに財産を奪われるのは気に食わない。対抗するためには自ずから「私」で対抗し、結果「公」が生まれる土壌も存在しない。
こうして、上から下まで「滅私奉公」ならぬ「滅公奉私」の社会の出来上がり。

これがどういう経緯を経てそうなるのか。ここでは書きませんが台湾の戦後史を見ればよくわかります。

「中国人は公の場で(ry」
とブツブツ言う人も多いですが、それは仕方ない。中国社会にそもそも「公」は存在しないのだから。無い袖は振れません。

中国人にとって、「私」とは究極の「ソト」の世界。「ソト」である以上傍若無人に振る舞おうとなんだろうと、それに対し他人がどう思おうと、知ったことではない。
それが、他人から見ると
「マナーが悪い」
「公の場で大声を出す」
などのマイナスに見えてしまうのです。
しかし、他人に気を遣いすぎ神経をすり減らす日本人は、中国人の傍若無人の垢を少し飲んだくらいがちょうどいい塩梅かもしれない。私が傍若無人・傲慢不遜、謙虚のかけらもないのは、煎じる垢の分量を間違えてしまったからです。

  

ここまで書いてきましたが、他にもいろいろな「中国人うるさい論」がネットに転がっているので、時間があれば複数の記事を見て比べ、そして考えてみてください。

中国人うるさいと感情的に排除するのは簡単です。しかし、何故にベクトルが向いた時、もう一つの、違った見方をする眼があなたを知らない中国人の世界へいざなってくれるでしょう。それを知った時、あなたの知の皮がまた一枚、剥けることになります。

 

★重要なお知らせ★

中国・台湾関連のブログ記事をワードプレスに移転しました。

記事は順次新ブログへ引っ越し中ですが、よかったらこちらもどうぞ!

台湾史.jp

http://taiwanhistoryjp.com/

 

日本最強のレトロ学生寮、京大吉田寮に潜入!【昭和考古学】

 ブログをご覧いただきありがとうございます。

本記事は、新ブログに移転の上アップしております。

yonezawakoji.com

 

こちらをご覧いただければと思いますので、宜しくお願い致します。

 

野良学徒の歴史研究
https://yonezawakoji.com/

ドムドムバーガーを食らう!

先日、かつての小売業界のティラノサウルス、ダイエーの話をしました。

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

栄えるものはいつか滅びる。これは時空という大きな大河の流れに生きる世界の理(ことわり)ですが、ダイエーの滅びっぷりは日本経済史に残る伝説となりました。

かつては小売界の恐竜として君臨したダイエーの勢いのまま店舗数を増やしていた、ダイエーグループのファーストフード店がありました。

 

f:id:casemaestro89:20180518200101j:plain

彼の名を、ドムドムハンバーガーと言います。

この名前を聞いた反応は、おそらく二手に分かれると思います。

一つは、

「あー!そんなお店あったな!」

と膝を打って懐かしむグループ。

もう一つは、

「まだあったんや?」

とビックリするグループ。 

共通点はどちらも本人の中では既に過去の記憶の存在となっていたドムドムバーガーですが、過去の存在なんてとんでもない。実はまだあるのです。

 ちなみに、私は前者の後、後者の感情がこみ上げてきました。そういう方も案外多いかもね。

 


ドムドムバーガー誕生の背景

時は高度経済成長時代真っ只中の昭和40年代の日本。

日本進出の機会を伺っていたマクドナルドは、ダイエーと組んで合弁会社を設立しようとしたのですが、資本比率の食い違いからこの業務提携はおじゃんとなりました。
マクドナルドはのちに、日本のファーストフードに将来性を見出した藤田田によって「日本マクドナルド」が設立され展開していくのですが、ダイエーも独自のルートでハンバーガーショップを模索し始めました。こうして「日本初のハンバーガーショップ」ドムドムは誕生しました。
あれ?日本初のハンバーガー店はマクドじゃないのかって?
日本のマクドナルド第一号店は1971年(昭和46)ですが、ドムドムバーガー第一号店は1970年(昭和45)。実はマクドより一年早いのです。
昭和20年代からあったとされる佐世保バーガーは横においておいて、「日本初のハンバーガーショップ」の栄冠は、今でもドムドムが持っています。

 

かつてのマクドナルドがそうであったように、ドムドムも、
「ハンバーガー?なにそれおいしいの?」
「そんなメリケンの食べ物、売れるわけないじゃん!」
という逆風の中のスタートでしたが、ダイエー創業者中内功の先見の明が光る大決断でした。結果的にダイエーを潰した中内でしたが、当時は神の如き決断だったのです。


そもそも、名前はダイエーの経営理念だった「良い品をどんどん安く」から「ドンドン(DON DON)」となるはずでした。
しかし、「どんどん」が既に商標登録されており、仕方なしに「ドムドム(DOM DOM)」となった経緯があります。
ガンダム好きな私としては、ドムドムとくるとどうしてもモビルスーツのドムが2機いる姿を思い浮かべてしまいますが、そんなことはどうでもいいか。

 


ドムドムはダイエーの勢いと共にどんどん店舗を増やし、1997年には355店舗、最盛期には全国に400店舗以上存在していたと言います。ピークも1990年代~2000年前半くらいだそうです(byドムドムの中の偉い人)。

マクドナルドの2017年末時点での店舗数は2,884件、2位のモスバーガーが1,353件。ロッテリアが359件なので、最盛期のドムドムは現在のロッテリアに匹敵します。それに比べると、私が見ていたドムドムってけっこうレアなのかもしれない。

 

f:id:casemaestro89:20180529100734j:plain

現在の店舗数は、最盛期の10分の1以下の35件(ドムドムHPより)。

昔はもうええわ!というほどあった大阪でも6店舗、他は関東・関西に集中しているため、他地方ではほとんど見ることがない絶滅危惧種です。動物だと絶滅危惧種は保護されるのに、ハンバーガー屋は保護されないこの世の理不尽さよ。

 

2017年、ダイエーは47年手がけたドムドムを手放し、身売りさせることとなりました。
ドムドム事業に手をあげたのは、ホテル事業などを展開するレンブラントホールディングス(神奈川県厚木市)。そういう意味ではイチからのスタートとなったドムドムですが、減り続ける一方の店舗に2017年末、久しぶりに厚木市に新店がオープンしました。


HPを見ると、今年2月に姫路広畑にも新店がオープンしたようですが、試しにググってみると・・・

 

f:id:casemaestro89:20180510165941j:plain

あ、あかんやん、出てこえへんやん。

せめてここに名前が出てくるまで頑張れドムドム!


ダイエーはブランド消滅確定フラグが立ってしまい、消滅5分前の風前の灯ですが、里子に出されたドムドムはわずかながら新店舗をオープン。売上も、身売り前(2016年)より増加しているという明るいニュース。
本当は食って援護射撃したいものですが、あいにく淡路島にドムドムはない。ドムドムの前にモスバーガー作れ(マクドはある)の淡路島ではどうしようもないですが、ドムドムには是非頑張っていただきたいものです。

 


BEのぶ、久しぶりにドムドムバーガーを食らう

 

 ダイエー帝国住民だった私は、当然ドムドムとはご縁が深い。
マクドナルドは、私の近所には存在しませんでした。ダイエー店舗内は当然アウトですが、その周辺にも店舗はなく、もしかしてダイエー帝國領にはマクドを置けなかったのか。

なので、私にとっての身近なハンバーガーはドムドムでした。私達のアラフォー世代にとって、ドムドムは学校帰りに身近に寄って食べることができた、思い出のハンバーガーなのです。

 

そんな中、とっくに死んだと思っていたドムドムが大阪にまだ残っていることに気づき、次に大阪に行った時は絶対ドムドムを食べてやる!と決意を固めていましたが、ついにその日がやってきました。

そういう意味では、今記事のジャンルは「食べログ」ではなく「昭和考古学」になるのかもしれない。私の中ではそうなっているので、さりげなく「昭和考古学」に入れています。

 

 

ドムドムハンバーガー深井店

大阪には6店舗あるドムドムハンバーガーですが、今回はその最南端、深井店に向かいました。深井まで行ったのには、ちょっと深い理由があり・・・いや、この勢いで書いてみたかっただけです。
それにしても、一時は大阪・関西にもうええわというほどあったドムドムも、今や6店だけなのか。盛者必衰の理を感じ戦死した仲間を思うような気持ちになりました。
それはさておき、店は泉北高速鉄道深井駅の構内の一階にあり、深井駅自体が少しくたびれているせいか、あまりファストフード店っぽい感じがしません。
街角にある古い喫茶店のような感じかな!?

 

f:id:casemaestro89:20180531141532j:plain
ドムドムと生き別れの兄弟であるダイエーは、「グルメシティ」に名を変えて駅前にまだ存在しているので、コンビだったと思われるドムドムも古くからあったのかもしれません。
実はここ周辺も、私の中学生時代の縄張りでした。が、深井近辺は縄張りの中でも優先順位が低かったせいか、当時からドムドムがあったかどうか、記憶にはありません。ググって深井にあると知った時も、

「そんなとこにあったっけ?」

というのが正直な感想でした。

 

 

f:id:casemaestro89:20180517000948j:plain

シンボルマークの象さんマークも健在でした。このマーク、なんだか懐かしいなー。

ちなみに、彼の名前を「ドムぞう」と言います。
Twitterのアカウントもあるので、みんなでフォローしてあげて下さい。 

 

twitter.com

 

中に入ると、駅前という立地条件の良さもあってか客はそこそこ入っていました。ガラガラだったらちょっとショックだと思っていただけに、この客の入り様は少し嬉しかったりします。

 

f:id:casemaestro89:20180517001009j:plain

 2018年5月初旬時点でのメニューは、こんな感じです。
アジフライバーガーやお好み焼きバーガー、厚焼き玉子バーガーなど、他のハンバーガー店にはない個性的なメニューが名を連ねています。ここからも、ドムドム頑張ってるなという意気込みが感じられます。
何年行ってなかったかすら忘れたほど、久しぶりのドムドム訪問。メニューも当然ガラッと変わっていましたが、昔の記憶がほとんど残っていないだけに、「新しいハンバーガー屋」に入ったと思えばそれでOK。
他の人のレビューを見ると、上の3つはかなり美味しいらしいのだけれども、食い物は冒険しない私、無難なバーガーのモーニングセットを頼みました。

 

 

f:id:casemaestro89:20180517001024j:plain

私が注文したのは、 名前が「ビックドム」
ビッグマックをもじったのでしょうが、私の脳内変換器はやはりリック・ドムに変換されてしまいました。おい、ガンダムネタで一つおもしろいことを言ってみろと、挑戦状を叩きつけられたようなネーミングです。
うーん、リックはつかないけれど、食べる前に黒い三連星にジェットストリームアタックをかけられそうです。いっそのこと「ビックドム」を3つ揃えて「黒い三連星セット」なんて・・・。
あ、いやいや、わかる人だけわかってもらえれば結構です(笑

 

 

f:id:casemaestro89:20180517001045j:plain

 中はレタスにジューシーな肉が2枚はさまっており、味はちょっとデミグラスソース風だったかな。
おそらく好き嫌いが分かれる味だと思いますが、私にとってはなかなかのもの。マクドやモスとは全然違うテイストですが、決して高くもないので近くにあったら土日の休みに通ってあげるのに。
残念ながら、小中学生の頃よく食っていたドムドムの味を舌が覚えていなかったのですが、ほのかに懐かしい気もしないでもありませんでした。

 

ドムドムバーガーは、私にとっては立派な昭和の遺物であり、昭和を容易に連想させる代名詞の一つ。

しかし、今のドムドムは昔とは打って変わった「ネオドムドム」です。

松尾芭蕉の有名な言葉に、「不易流行」という言葉があります。

「不易流行」とは芭蕉が俳句道の中で得た一種の哲学なのです。「不易」はいつまでも変化しない、またしてはいけない本質。「流行」は時代や情勢によって変化すべきもの。そう解釈して良いかと思います。
ドムドムハンバーガーは確かに「昭和」の生き残りであり、「不易」であるべきもの。しかし、それをキープしつつ、中身は時代に合わせるために「平成」ナイズされている。これが「流行」。
ドムドムに芭蕉イズムを見た春の終わりでした。

 

というか、みんなドムドムに食いに行かへん?

 

==お腹が空いてきましたか?もう一息、こんな記事もいかがでしょ?==

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

日本軍=丸坊主!?【昭和史万談】

 「日本軍=坊主頭」というイメージ

私が高校に合格し、さて入学式と校門をくぐった時、そこには今まで見たことがなかった、少し異様に思えた光景がありました。全員ではないものの、男子のだいたい半分からそれ以上が、坊主頭だったのです。
中には丸刈りな男子もいたのですが、私の中学時代、つまり一般中学生の常識の範疇では「丸刈り・坊主頭=野球部」。特に野球部が強いというわけでもない、ごく普通の公立高校でしたが、こんなに野球部入部希望の男子がいるのかと。


しかし、その認識は大きく間違っていました。
良くも悪くも地元ローカルの高校だったのですが、入学する生徒も地元の中学出身が大多数。その大多数の中学が、実は校則で丸坊主だったのです。
私の中学はそうではなかったのですが、仲が良くなった友達に中学の卒業アルバムを見せてもらうと、揃いに揃って男子は全員丸坊主。

今の中高生には考えられないと思います。いや、今でもあるのかな!?

 

近代日本では、何故か坊主頭が推奨されていました。大人の世界はそうではないものの、子供の世界は丸坊主一択と言ってもいいでしょう。

 

f:id:casemaestro89:20180518092802j:plain

(昭和10年頃 旧制高知高校の学生)

以前紹介した旧制高校くらいになると、「長髪」が流行りだったのですが、今の時代ではこの程度は長髪でもなんでもない。しかし、戦前の常識ではこれで十分「ロン毛」だったのです。

ちなみに、自由・自主・自治の三本柱の旧制高校も時代の流れには勝てず、昭和14年(1939)には全員丸坊主令が出ています。

 

f:id:casemaestro89:20180418105926j:plain

組織での強制丸坊主の最たる例は、旧日本軍です。
メディアに出てくる軍人の映像のほとんどが偉いさん。年齢を重ねて頭が砂漠化しペンペン草すら生えなくなった姿のことが多いですね。
いちばん下の一般の兵隊などはどうだというと、それは青々しい、いや痛々しいほどの丸坊主。

 

では、軍隊では全員坊主が必須だったのか!?
おそらく、日本軍に対しぼんやりとしたイメージしかないと、ついついそう思ってしまいます。
ところが、坊主ではなくても良い例外がいくつか存在します。

 

続きを読む