昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

【昭和考古学】「阪神飛行学校」と盾津飛行場(大阪陸軍飛行場)

大阪の大和川河口、現在の南港口周辺に「第ゼロ代関西国際空港」建設計画があったことを、先日書きました。

parupuntenobu.hatenablog.jp

「戦前、南港に空港を作る予定だったらしい」
この話は地元に伝わる伝説として小耳程度にはさんでいたものの、おばちゃんのゴシップだろうと本気にしていませんでした。
これが事実とわかり早速調べ上げたのですが、資料を追っていくいくうちに「阪神飛行学校」という謎のワードに引っかかりました。

 

 


1.「阪神飛行学校」をめぐって

きっかけは、前回紹介した当時の新聞記事から。

伊丹空港戦前

この中に、

 

大正村阪神飛行学校

大正村(阪神飛行学校)も候補、それも将来の拡張も可能な有望株として名前が挙がっています。「阪神」と名がつくので、西宮くらいかなと勝手に推定してググってみると、これがなんと、意外な場所と名称が出てくることに。

 

 

八尾空港地図

阪神飛行学校」とググってみると、セスナ機の拠点である八尾空港大阪府八尾市)に当たります。ああそうですかと八尾空港Wikipedia先生のページを開けてみると、空港の開設の経緯がなにやら不明瞭な様子。「阪神飛行学校」と関係があることは確かなようですが…何やら奥歯に物が挟まったような記述。
ここにニッチのにおいを嗅ぎ取った私、前回の記事ネタを調べるついでに不明瞭を明瞭にすべく、調査を開始しました。

 


2.八尾空港の謎

適当にググってみると、レファレンス協同データベース(以下長いのでRKDB)の問い合わせに引っかかりました。
RKDBとは、国立国会図書館が全国の図書館・博物館のおねーさんを酷使…ではなく駆使し、国民の質問にやさしく答えてくれる国のサービスです。
人文科学から自然科学までのありとあわゆる質問がデータベースとして蓄積されており、国民は無料でアクセスできます。

 

レファレンス協同データベース

その中に「阪神飛行学校」「八尾空港」についての質疑応答があるのですが、答えは「諸説あり」とあいまい。
それほど闇が深そうな、いや調べがいがある事項です。


早速私のお気に入り内データベースを駆使して調べてみると、こんなものが出てきました。

 

阪神飛行学校

昭和12年(1937)12月3日付『大阪時事新報』の新聞記事です。
ここに、興味深いことが書かれていました。

阪神民間防空機関たる阪神航空協会では、府下中河内郡大正村および志紀村を中心とする十二万坪の新飛行場を建設買収するに決定し、
(中略)その名称を阪神飛行学校大正村飛行場」と決定した」

さらにその数日前の新聞記事には、

 

八尾空港阪神飛行学校新聞記事

八尾空港阪神飛行学校新聞記事

昭和12年11月18日 『大阪時事新報』)

とわざわざ新飛行場の地図まで。位置は現在の八尾空港と一致するので、大正村飛行場が現在の八尾空港なのはこれで確定。
ここにある「阪神航空学校」は、「飛行学校」の誤植か記者の勘違いです。


そして重要なのは、

「新飛行場並に学校は本年末より着工し、明春三月に竣工、生徒募集は明年一月に開始(以下略)」

翌年の昭和13年3月に「大正村飛行場」が完成の予定と書かれています。
ここでRKDBの回答をまとめると、

 

①『日本の空港』P.119「八尾空港」に「昭和9年に農地を埋め立てて(中略)阪神飛行学校が設置」


②『全国空港ウォッチングガイド2006-2007』P.151に「1936年阪神飛行学校設立」とのみ記載。


③『大阪春秋 H17夏号 No.119』P.70に「八尾飛行場は阪神飛行学校の飛行場として1938年に着工」

 さて、どれが真実なのか。上記の資料からわかることは、

 

1.①②は年代的に絶対ありえない


2.③と新聞記事の内容が一致

 

つまり③が歴史的事実、八尾空港の開港も昭和13年(1938)が正解。誰か今すぐWikipedia編集してきて(笑)


ここで、新たな謎が浮かびます。なぜRKDBがテンパるほど「諸説あり」なのか。


新しい新聞記事があります。

 

盾津飛行場大正村飛行場阪神飛行学校

(昭和12年6月16日『大阪朝日新聞』)

ここに重要なキーワードが書かれています。

「民間飛行士養成と航空学術研究のため大阪府中河内郡盾津陸軍飛行場に阪神飛行学校を設立(以下略)」

「盾津」というところに陸軍の飛行場があり、そこに阪神飛行学校が設立されたということ。あれ?阪神飛行学校は「大正村飛行場」ちゃうのん?と、ここで少しややこしくなります。
新聞記事の流れを見ると、阪神飛行学校は最初盾津にできたのが、大正村に新訓練施設(飛行場)を作ることとなり、昭和13年に完成。阪神飛行学校の機能も大正村、のちの八尾空港に移った。こう考えるほうが自然かなと。

 

ここで出てきた「盾津陸軍飛行場」と、「盾津」とは何なのか。そこを次から追っていきます。

 

 

3.盾津飛行場

 

盾津飛行場東大阪市

(完成直後の盾津飛行場ー現地の説明板より)
盾津飛行場は昭和8年、国威向上による民間飛行士育成のために建設が始まった飛行場を母体としています。
翌年9月に飛行場は完成、同時に陸軍省に寄贈され昭和10年6月1日に正式受領、同時に「大阪陸軍飛行場」と改名されました。が、俗に「盾津飛行場」と呼ばれていたようなので、本記事では以下「盾津飛行場」に統一します。

RKDBや八尾空港Wikipedia記載の「昭和9年」とは、おそらく盾津とごちゃごちゃになっているのではないかと。

 

せっかく作られた空港でしたが、ここあたりは地盤が弱く寄贈された陸軍の方も活用に困った様子。所有は陸軍なものの、しばらく民間で使ってねーとグライダー訓練や模型飛行機大会、学生の飛行訓練などに活用されることに。
阪神飛行学校がここに作られたのも、そういう経緯があってのことだろうと思います。


対米戦争後の昭和18年(1943)、海軍指定企業だった松下電器産業(現Panasonic)が「松下航空機」に改名、航空機本体や部品製作にあたることになりました。
松下幸之助は盾津に工場を建設し、盾津飛行場もその際に「海軍によって」拡張されます。

ジュラルミンがないから木造で飛行機作ってくれ!」

と海軍にお願いされてもね~という松下は仕方なしに了承したものの、ネジすらままならない状態で、試作機を飛ばす滑走路もセメントがないために漆喰で地面を固める有様。漆喰はセメントの5~6倍のコストがかかったそうです。

 松下飛行機は1年の試行錯誤の末、木造飛行機『明星』の製造を開始、数機が完成し飛行…と思ったら即墜落。結局『明星』が日の目を見ることはありませんでした。

そして終戦GHQによっていったん接収されたのち盾津町(当時)に払い下げられ、盾津中学校などの公共敷地となりました。

 

4.盾津飛行場はどこに?

私は大阪と言っても南部、いわゆる泉州の出身なので、東の方、歴史地理学的な表現でいう北河内国の郷土史はほぼ白紙です。
なので、ひとまず場所を特定することに。

 

東大阪市盾津

「盾津」はJR学研都市線鴻池新田駅の南部一帯、地名としてはすでに消滅し盾津中学校などの学校名にとどまっているのみです。
ここに「東大阪トラックターミナル」という大規模物流施設が府東部にありますが、

 

www.semboku.jp

ここは昭和44年(1969)に大阪府が飛行場跡地を購入したもので、管理運営はあの「泉北高速鉄道」。

なんで泉北高速"鉄道"が物流事業やってんねんと思ってしまいがちですが、実はこちらが泉北高速"鉄道"の本業。元々は大阪府営の第三セクターだったので、大阪府の土地を管理運営していても矛盾はありません。

 

盾津飛行場地図

飛行場があったあたりを、戦前・戦後の地図で比較してみました。
戦前には何もなかったところに、戦後の「跡」ですが飛行場がくっきりとあらわれています。

 

昭和23年盾津飛行場跡航空写真

昭和23年(1948)の盾津町(当時)の航空写真です。
かなり薄くなっているものの、滑走路の跡が見て取れます。写真上の住宅密集地のすぐ上が、片町線鴻池新田駅と思って下さい。

 

盾津飛行場跡航空写真

飛行場の面積は約10万坪(33万㎡)で長さ940m、幅560m、滑走路750m。地図右半分が飛行場敷地、左は第四師団の練兵場として昭和14年(1939)末か15年から使われていました。

盾津中学校の場所には訓練生やパイロットの居住区だったと伝えられ、校内に飛行場があった碑が建てられています。

また滑走路の一部は、現在府立かわち野高校になっています。ここ、以前は「盾津高校」という名前だったはずですが、また一つ旧(ふる)くからの地名が一つ消えたのは少し寂しい気分です。

 

 

盾津飛行場跡現代との比較

現在の地図と比較してみると、飛行場との区割りだったと思われる水路(赤矢印)と、航空機誘導(運搬)路跡(灰矢印)が道路として残っています。数少ない飛行場の遺構で、これが残ってたからこそ跡の特定が容易でした。

航空機誘導路は北方向に一直線伸び、その先には…

 

松下飛行機盾津飛行場

なにやら工場らしきものが…ここが松下幸之助が作った松下飛行機の跡。

ここは現在の大東市住道駅近くにあたりますが、大阪人なら住道とくればSANYOを連想するほど、戦後永らく三洋電機㈱の企業城下町でした*1

三洋電機の創立は戦後ですが、場所がつい7~8年前まで三洋の工場だっただけに、三洋電機が旧松下飛行機の工場を売却してもらい、拠点にしたのかもしれません。

松下飛行機跡は現在、南半分が大阪府の朋来団地、北半分が三洋電機→京セラ工場となっています。 

で、これで終わろうかと思いきや、航空写真にはまた謎を呼ぶものが写り込んでいました。

大東市住道松下飛行機三洋電機

住道駅のすぐ南に、滑走路のような、そうでないような筋の道が確認できます。その横には格納庫か倉庫らしきものが幾棟も。盾津の飛行場からはかなり離れているのですが、これは一体なんなのか。『大東市史』でも読んだらわかるかもしれないけれど、これ以上追求すると本題から反れてしまうのでペンディングとします。

飛行場のことはこれでわかった。さて本編これにて終了。

…もう一つ、なにか残ってませんか?

 

 

5.盾津飛行場最後の謎

 

東大阪大阪府空港

大阪府が東郊に建設する計画だった「大阪国際飛行場」…ここは当時の新聞記事によると盾津に作る予定だったはず。
盾津に飛行場があったことは事実ですが、それと「50万坪の大規模空港」と府が広げた風呂敷は果たして同一なのか。
前述の大和川国際飛行場以上にニッチで、ネットで掘れる限り掘ってみたものの、これ以上のものは出てこない昭和史大阪ミステリー。

ここからは私の推測となります。
考えられるパターンは3つ。

 

①盾津飛行場をそのまま流用


②盾津飛行場を陸軍から購入、大型機離着陸可のように拡張


③盾津飛行場と全く別の空港を建設する

 

 

何の根拠もないという前提ですが、①はまあないと思うのでおそらく②か③でしょう。

しかし、大型機が発着するような空港を作るには、盾津に致命的な欠点がありました。上にサラッと記述しました。盾津飛行場は地盤が弱いと。ではなぜ弱いのか。

 

河内湖

(https://genkiayumu.exblog.jp/10459281/より)

大阪人なら社会の授業で習ったことがあるかもしれませんが、弥生時代古墳時代、ここあたりは内海が塞がって形成された「河内湖」という淡水湖がありました。

 

大阪新開池

(Wikipediaより)

河内湖は土砂の流入や治水、開墾で次第に小さくなり、江戸時代初期には「新開池(しんかいいけ)」「深野池」という大きな池となっていました。

 

18世紀はじめ、鴻池善右衛門宗利という大坂の商人が新開池を開発する権利を入札し、新田開発を行いました。
鴻池家はのちに、鴻池銀行*2日本生命を創設する財閥となりますが、鴻池が開発した新田は「鴻池新田」として駅名にも残っています。

盾津飛行場は「箕輪」の西に位置していたので、江戸時代は池の中。池を埋め立てた場所だったので、地盤が弱いのも頷けます。
「府営空港」が幻に終わったのも、大阪市に対抗して風呂敷は広げてみたものの、地盤の弱さで適地ではないことが判明。「大阪国際空港戦争」は伊丹で落ち着きつつあるのと、戦争でそれどころではなくなり、そのまま流局…。
私はこのように推測しています。

 

しかしながら、私がわかるのはここまで。
大阪市大和川国際飛行場(仮称)に次ぐ謎、大阪府営国際飛行場(仮称)はしばらくペンディングとしておきましょう。
府立公文書館に行けば、議会の記事録など資料が残っているはずですが、私は貧乏暇なし。
興味ある方はこの続きをどうぞご自由に!と見知らぬ誰かにプロジェクト(?)を託します。これ、ええネタやと思いまっせ。

 

 

<主要参考文献・サイト>
国立国会図書館デジタルコレクション
神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ
レファレンス協同データベース
Wikipedia-盾津飛行場/八尾空港
松下幸之助.com
大日本神国也-大阪陸軍飛行場
『八尾市史』

 

==こんな記事もあります==

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

*1:SANYOが消えた現在でも、「三洋町」「三洋橋」など地名に残っています。

*2:三菱東京UFJ銀行

幻の大和川国際飛行場【昭和考古学】

大阪空港の夜景

現在、大阪には

関西国際空港(関空)

大阪国際空港(伊丹空港)

八尾空港

の3つが存在しています。広義の点では神戸空港も含めてもいいでしょう。

現在はそれぞれの空港で仲良く(?)棲み分けが出来ていますが、かつて戦前の大阪で熾烈な空港誘致競争があったのをご存知でしょうか。それも、市や府、お隣兵庫県も絡んだ仁義無用のバトルを。今日はそんな熱い熱い空港の歴史を。

くどくど書くとまた「公開無期延期」となりかねないので、鉄は熱いうちに打っておきます。追加事項はこっそりリライトすればいいし(笑)

 

 

 

1.元祖大阪空港、木津川飛行場

突然ですが問題です。

Q:大阪初の空港を答えよ

知っている人は「木津川飛行場」と答えるでしょう。しかし、大阪初の空港は大阪は大阪でも、堺にあった「大浜飛行場」でした。

大浜飛行場については詳しく書きません。以前の記事をどうぞ。

 

 

木津川飛行場

木津川飛行場は、 日本の航空事業が急速に発展していくさなかの昭和4年(1929)に運用が開始されました。

 

木津川飛行場大阪

(昭和11年発行『大阪觀光地圖』)

場所は現在の住之江区の木津川の河口付近、新木津川大橋の西側に作られました。ここから東京や四国・九州など国内線の飛行機が飛んでいたことは、工場ばかりの現在の光景からは想像できません。というか、飛行場があった時から工場だらけじゃないかと。

大浜飛行場は滑走路のない水上飛行場でしたが、滑走路を備えた木津川空港は「初代大阪空港」として、絶頂期の昭和13年には年間離発着回数約8800回、旅客数約10000人と国内トップでした。

 

大阪市内に華々しくオープンした木津川空港ですが、航空産業の発展が予想以上に速く、すぐにキャパシティ不足に陥ってしまいます。

その上空港の近くの工場から出る煙霧で視界が悪くなり、それが原因による墜落事故も起こる始末。こんなにデメリットが多かったら、そんなとこに空港作らなかったらいいのにね。航空業界がまだ試行錯誤の頃ならではかもしれません。

その中で何より痛かったのが、大型機を使用する国際線が手狭さゆえに離着陸できず、大阪をスルーしたこと。工場の中に滑走路を作ったような飛行場にこれ以上の拡張性はのぞめず、開港2年にして新空港の計画が持ち上がります。

 

 

2.大阪市の新空港計画

 早速手を挙げたのが、THE GREAT大阪(大大阪)こと大阪市。

大正後期から続く慢性的な不景気に加え、急激なデフレにより虫の息だった日本でしたが、犬養毅内閣(昭和6~7年)の蔵相高橋是清による金融緩和政策により、経済は突如として蘇生します。

昭和7年末から12年まで、東京や大阪など都市部は空前の好景気となり、いわゆる日本経済無双モードに*1。この時期を私は、「戦前昭和元禄」「戦前バブル」と造語しています。

心躍ってしまうような明るさと活気を昭和10年前後の東京や大阪の写真に感じることがありますが、「戦前昭和元禄」の客観的データを持っている私から言わせれば、それは気のせいでもありません。当時の脈動(オーラ)が写真にも出ているのでしょう。

 

 本格的国際空港建設の話は、そんな時期から始まりました。 

大阪市はグレートのプライドにかけて、大和川の河口付近を埋め立て東洋一の国際空港を作るぜ!と大和川尻北岸の91万5000平方メートルの埋立予定地のうち、約60万平方メートルを飛行場に当て急ピッチで工事開始、昭和10年には完成の予定でした。これを「大和川国際飛行場計画(仮称)」といいます。

 

大阪港第二次修築計画図と大和川国際飛行場

 昭和6年(1931)の大阪港第二次拡張計画にも、大和川河口に「飛行場移転予定地」(赤丸部分)と書かれています。その上には「国際飛行場」こと木津川飛行場が。

 

大和川飛行場位置推定

他の資料とも照らし合わせたところ、大和川国際飛行場(仮称)はここあたりに建設される予定だったのではないかと推定しています。

 

ここに「第ゼロ代関西国際空港」が大阪市に完成!!

とそうは問屋が簡単におろさない。大和川国際飛行場(仮称)は、いきなり2つの課題に直面することになりました。

一つは煙霧。木津川飛行場がいらない子扱いされた主原因の一つですが、新空港予定地は木津川飛行場の近くで状況は変わらず、パイロットなどから反対が起こりました。こんなこと、すぐわかることだと思うんですけどね~。

もう一つは、

「うちも空港作るぜ!」

と名乗りを上げた兵庫県。

 

大和川飛行場鳴尾飛行場大阪空港

県は鳴尾村*2に空港建設を宣言。川西飛行機(現新明和工業)や住友財閥をバックに、権力の暴力of大阪市と激しいバトルを繰り広げます。

 

鳴尾飛行場航空写真

鳴尾飛行場とくれば、戦争中の飛行場を連想する方が多いかと思います。ここには海軍の飛行場が設置され、戦後3年目の写真でもX形の滑走路がまだくっきり見えます。甲子園球場の場所がそのままなので場所特定も楽勝ですが、ああ、ここを国際空港候補にしたのねと。

しかし、一つ引っかかっています。鳴尾飛行場はニッチな分野ではメジャーなのかWebで取り上げる人も比較的多めですが、Wikipedia先生はもちろん、どこの資料にもここは昭和18年築と書いてあるのです。新空港の話が持ち上がった昭和8~9年には影も形もないはず…。

鳴尾競馬場西宮昭和初期地図

昭和4年(1929)の地図ですが、飛行場のはずが競馬場。こちらも昭和18年海軍に接収され飛行場に…とあります。

「国際空港」としての鳴尾飛行場と、戦争中の鳴尾飛行場は別もの!?

ただ、「国際空港」としての鳴尾飛行場は「川西飛行場」と書いている新聞記事も存在します。

「川西」とは川西市ではなく、川西飛行機*3のこと。サクッと調べたところ昭和5年(1930)に鳴尾に飛行機開発の工場が建設されているので、それと関係あるのかもしれません。

尻尾はつかんだものの、私は絶賛島流し中、明石の県立図書館まで行くのは金かかるし面倒くさい確たる資料が手元にないのでこれが限界。ご興味があれば他の人が深掘りしてくれていいのよ。

しかし、こうして調べてみてわかることがありました。甲子園球場って西宮市だったんだなと…なんだか甲子園だけ「甲子園市」のような錯覚が(笑)

 

 この阪神国際飛行場バトルは双方とも一歩も引かず、どちらも一長一短あり空港誘致バトルは膠着状態に。

結果として、軍配は当時航空を管理していた逓信省の仲裁により大和川にあがります。

誘致に破れた兵庫県ですが、大和川の「第一飛行場」に対し、大阪との県境の川辺郡神津村に予備としての「第二飛行場」建設の許可をもらいます。国がどちらの顔も立てるため玉虫色の御沙汰を下すことは、政治史にはよくあることです。

しかしこれが、日本航空史屈指のドラマへの始まりでした。

 

一件落着と思われた戦前の「関西国際空港」バトル。ほっと胸をなでおろした大阪市ですが、まだ波乱は続きます。

 

 

3.空港の下剋上

大阪の空港は、

大阪第一国際飛行場:大和川河口(大和川飛行場)

大阪第二国際飛行場:兵庫県川辺郡神津村

の2つが建設されることになりましたが、大和川国際飛行場(仮称)は、将来を考えるとやはり手狭と海軍からクレームがあがり、煙霧の害も改善せず、ここ不適格じゃね?という声もあがってきます。しかし大阪市はそんなの関係ナッシングとお構いなし。

昭和11年に大阪市によって編纂された『大阪市政』によると、

大和川尻の海岸約百萬平方米を埋立て、これに理想的飛行場を建設する計画を樹て、昭和八年七月より工事に着手し目下埋立て工事中である。

(653ページ)

 いったん出たションベンはもう止められないようです。しかし、昭和10年には完成しているはずでは?(笑)

 

さらに興味深い記述が続きます。

これと同時に住吉公園より同飛行場に通ずる新設連絡道路の建設に着手した。(653ページ)

今を見ればわかるように、大和川国際飛行場(仮称)は未完に終わっています。

当然遺構なんて残っているはずもないですが、ただ一つ、残滓と言えるものが残っています。それが住之江区を東西に横断する通称「住之江通」。

 

住之江通大和川飛行場戦前

(1937年大阪市地図より)

赤い矢印の道路が、「飛行場に通ずる新設連絡道路」です。南港ニュータウンのために作られた道路っぽいですが、実は南港にできるはずだった空港の「連絡道路」の残滓だったのです。今なら関空の連絡橋というところか。

そんな頃、あくまで予備扱いの「第二飛行場」は、昭和11年(1936)に建設が始まりました。

 

大和川国際飛行場(仮称)がとんだポンコツプランとわかり、ニヤリと笑った組織があります。

大阪市営空港は死んだ、なら代わりに俺様が空港を作ってやるぜ!

蚊帳の外と思われていた大阪が名乗りを上げます。

くどいようですが、じゃありません、です。

 

大阪府立空港東大阪盾津

 既に建設が始まっていた「第二空港」が36万坪に対し、「大阪府営飛行場」は50万坪*4。あっちよりも敷地広いぜ!と猛アピール。

記事には、


「大阪府では逓信省、大阪市の協力のもとに優秀な「大阪国際飛行場」を大阪東郊に建設すべく具体的計画を進めている」


とありますが、大阪100年の「府市合わせ(不幸せ)」の歴史を知っている人なら、
「大阪市と協力って絶対ウソやろ!www」
と鼻で笑ってしまうはず。だって、絶賛頓挫中とは言え、大阪市は大和川国際飛行場(仮称)プランを捨てたわけではないから。大阪市の傲慢不遜っぷりからして、自分の案を捨てて府に泣きつくとは考えられない。

「そんなケンカせずに、仲良く協同で作ったらええのに…」

外野はそう思うでしょうが、府と市はね、並の国なら内戦になっているほど仲が悪いのです

 

大阪府営飛行場(仮称)が用意した土地は、上の記事にもあるように東大阪の某所。記事内では大人の事情で記述を控えていますが、その後の消息を追っていくと「盾津(たてつ)という地区だそう。この盾津の名、しばし記憶しておいて下さい。次の記事のキラーワードとなります。

 

4.そして伝説へ…

 大阪第二飛行場伊丹空港開港昭和14年

「第一」の大和川国際飛行場(仮称)計画が頓挫するなか、スペア扱いの「大阪第二飛行場」が昭和14年(1939)1月17日にオープンしました。
木津川飛行場の機能もすべて第二飛行場へ移転しお役御免、航空史から姿を消しました。

しかし、あくまでここは「第二飛行場」。「第一」はどこにするかで折り合いがつかず、ついに国が仲裁に入ります。

 

大阪第二飛行場伊丹空港開港1939年

逓信省航空局長が来阪、飛行場について話し合いを行ったという記事です。

「大阪国際飛行場は伊丹に落着こう」

見出しはこうなっていますが、書き方を変えると

「もう伊丹でええんちゃうのん?」

「大阪国際空港」の看板をめぐる大阪市vs府vs兵庫県の三国志っぷりに、長官の呆れ顔が垣間見えます。

もうここでおわかりでしょう。「川辺郡神津村の第二飛行場」とは現在の伊丹空港のこと。


そしてもう一つ、第二飛行場が無用のトラブルを生んだこんなニュースを。

 

大阪第二飛行場伊丹空港開港税関

大阪・神戸の税関が、正式に「大阪国際空港」に昇格した伊丹空港の管轄をめぐって、縄張り争いを起こしています。

記事の概要を一言でまとめてしまうと、

 

大阪税関「名前は大阪やさかいうちやろ!」


神戸税関「住所は兵庫県やからこっちやろ!


大蔵省「ケンカやめて~!」

 

3行で済みます。役所どうしでお前ら何やってんねんと。


「第二空港」の分際で目立ちやがって…と歯ぎしりしている「第一空港」のはずの大和川国際飛行場(仮称)さん。ここで大阪市は起死回生の策を持ち出…せずはずもなく、「予備」のチヤホヤぶりに指をくわえるのみ。
現実として、補欠の「第二」がエースの「第一」のお株を奪う下剋上が起こりました。

 

そして対米戦争へ。
半鎖国状態と化した日本は旅客輸送にまわす燃料の余裕すらなり、旅客としての空港の歴史は、ここでいったん幕を下ろします。。大阪市のメンツを賭けた空港計画も昭和17年5月、逓信省の指示で白紙撤回。大阪市が夢見た国際空港の夢は、完全に潰えました。

空港用の敷地は宙ぶらりんとなりましたが、戦後に貯木場や倉庫、団地等に再利用され、新交通ニュートラムが走るニュータウンとなっています。

コンクリートの林と人々の雑踏の中、文字通り煙霧の奥に消えた大和川国際飛行場(仮称)は、知る人ぞ知る伝説として昭和史の大河の中に流れています。

 

 

==さらに深い世界へ興味を持った方は、こちらをどうぞ!==

(同じことに興味を持ったエヌハルさんのブログ)

chroniclex.hatenablog.com

 

<参考資料>

『大阪市政』(大阪市/編)
『新修大阪市史 第7巻』(新修大阪市史編纂委員会/編集)
『あったかもしれない日本』(橋爪紳也 著)
『国立国会図書館デジタルコレクション』
『日文研 所蔵地図データベース』
『神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ 新聞記事文庫』
『今昔マップ Web版』
木津川飛行場跡の碑[新木津川大橋北詰] 船町 1 , 2 - 大阪市
大阪港の港勢と建設の歴史(大阪市立大学)
Wikipedia
他ブログ数点

*1:ただし、東北では地震や冷害による凶作が続き未曾有の惨事に。

*2:現在の甲子園球場の南側

*3:現在の新明和工業。

*4:同じ頃の羽田空港と同規模。

消えた遊廓・赤線跡をゆく-丹波篠山(京口新地)編

 

※注意※

このブログ記事は、2009年に前ブログにて書いた記事をやっつけ仕事で編集したものです。情報が古いのと、文章が拙い場合があるのであしからず。また、予告なしに文章が変わることもあります。

 

 


今回は、丹波篠山にあったという遊郭跡を書いてみようと思います。
丹波篠山というと今の篠山市、江戸時代は譜代の青山氏の城下町として栄えました。
今回の話題とは関係ないですが、東京にある地名の「青山」(←青山学院大学の「青山」ね)は、この青山氏の江戸屋敷があったことから名付けられました。
篠山の青山氏は分家筋だった記憶がありますが、まあそんなわけです…どんなわけや。

 

篠山の遊廓の歴史

今の篠山市は、武家屋敷が現在でも残る観光の町で、今は歓楽街とは無縁のせいか、遊廊とか赤線ってイメージが全く思い浮かばないですが、その昔、確かに遊郭は存在していました。

明治41年(1908)、篠山に歩兵第七十連隊が置かれました。過酷な訓練と兵の勇猛さで「丹波に鬼あり」と恐れられた連隊です。

「歩兵連隊あるとこ遊郭あり」

私が長年の遊廓探索で得た法則ですが、篠山にも例外なくどこかにあるだろう、と色々調べていたら、やはり存在していました。


篠山遊郭の正式名称は、「京口新地」と言います。
遊廓としての歴史は資料があまりないので詳細はわからないですが、少なくても歩兵第七十連隊が出来た時から、もしくは連隊の創設に合わせて作られたと推定できます。

 

大正5年1916篠山遊廓京口新地

大正5(1916)年の大正時代の篠山の地図です。
赤い○で囲んだ部分が篠山城、今も昔も篠山市の中心部ですが、この地図右下に「遊廓」と書かれた一画があり、この頃には地図にもはっきり遊廓があったことが伺えます。

大正2年(1913)発行の『篠山案内記』には、

「遊廓河原町京口橋より南一丁にあり、池上町に属し字湊と称す。<u>遊廓新設以来京口新地の名あり。歩兵七十連隊の新設に伴い始めて設置したるものにて明治44年7月より開業す」

(※原文旧仮名遣いを現代に読みやすいように筆者校正)

 

と簡単ながら遊廓のことも書かれています。
大正時代から篠山遊廓が「京口新地」と呼ばれていた証拠でもあるのですが、遊廓・赤線探索者が参考文献によく出す『全国遊廓案内』(昭和5年刊)には「糸口新地」と書かれています。

「京口」なんか「糸口」なんかどっちやねん!?とややこしいことになっていますが、『全国遊廓案内』は筆者の記述間違いが多く鵜呑みは厳禁な上に、後で紹介する『篠山町七十五年史』にも「京口新地」と明確に書かれているので、「京口」が正解。


また、『篠山案内記』には遊廓の他に中心部にある立町に花街、つまり芸者がいた所もあったことが記されとります。

「芸妓検番-立町の角南側にあり明治32年の創立なり。検番設立以前は各料理屋に芸妓を抱えたりしなり」

(※これも原文旧仮名遣いを読みやすいように校正)

 

これでわかることは、

1.芸妓がいる花街の方が遊廓より歴史が古い

2.場所によっては遊廓に芸妓がいたりと花街との区別がつきにくい所もあるが、
篠山は花街と遊廓の区別がはっきりついていた

こと。


京口新地を語るもう一つの貴重な資料が、『篠山町七十五年史』(1955刊)という歴史書。

個人が編集したものの当時の篠山町が出版しているので、準公式の町史のようなものですが、ここに京口新地のことが詳しく書かれています。


それによると、陸軍歩兵第七十連隊の設置により遊廓設置の動きが出たものの、候補地がいくつも上がった上に周りの村からの熱心な立候補もあったり、陸軍の「遊廓は兵営(駐屯地)から1里以上隔離すること」という条件もあって、結局は八上村糯ヶ坪地区に決定。

しかし、なぜ「風俗街」である遊廓を熱心に誘致するか言うと、遊廓は遊興税を払う義務があったので、誘致すると莫大な税金を落としてくれる遊廓は絶好の金脈。地域財政が潤う+地元に金を落としてくれて経済的にウハウハという事情があります。

 

明治41年の開設当初は「篠山楼」の一軒のみ、娼妓数7名というこじんまりとしたスタートだったものの、
半年後には、
・吉野楼 娼妓数14名
・小川楼 娼妓数6名
・彦根楼 娼妓数12名
・田中楼 娼妓数8名
・一力楼 娼妓数8名
・常盤楼 娼妓数5名
・金松楼 娼妓数2名
・高森楼 娼妓数2名
・鬼楽楼 娼妓数4名
・都 楼 娼妓数7名
・藤田楼 娼妓数5名
・戎 楼 娼妓数6名  計:79名

と、雨後のタケノコのように大増殖しています。
(篠山楼は閉店したのか改名したのか、存在しません)

娼妓の外出は監視付きで、一人で京口橋を渡ることは出来ませんでした。つまり篠山の中心部に行くには付添(監視)が必要だったということで、これは逃亡防止のため。
また、稼ぎ100円につき20円を前借金返済のため積み立てることを警察署長から言い渡されており、衣裳や部屋代、食費も警察の指導か、全部楼主持ちと決まっていました。
こう見ると、全国規模で俯瞰すると京口新地の遊女の待遇は悪くなかった方だったかもしれません。

 

また、『篠山七十五年史』には、興味深いことが書かれていました。
大正末期から始まった不況や、昭和の初めの大恐慌、さらにプラス、大阪の道頓堀が発祥のカフェー、今のキャバクラのご先祖様みたいなもの、が篠山にも進出、新しい娯楽として一世を風靡しました。

これで遊廓が大打撃を受け、
「篠山じゃ営業にならん!!」

と遊廓を宝塚に移す計画が持ち上がりましたが、許可されずお流れになった話もありました。これはどこの書物にも書かれていない、新しい事実です。
宝塚は今でこそ少女歌劇団(タカラヅカ)で知名度は全国区ですが、元々は温泉地で芸妓も確かいたはず。そこに仮に遊廓が移っていたら…歴史のIFは読者の皆さんにお任せします。

 

で、この『篠山町七十五年史』のもう一つ重要な面は、「昭和30年発行」ということ。
つまり、赤線が現役だった頃に書かれた書物なので、赤線時代の京口新地も現役ということ。
そのことも少しだけ書かれており、遊廓時代は衣食住は楼主持ちだったのが、赤線時代は全部女性持ち。分け前は女性:業者=6:4だったそうです。
つまり、京口新地は戦後も赤線として存続していたことが、この書物で明らかになりました。

そして、ついでに書いておくと、『篠山案内記』にも書いてあった篠山の芸妓は『篠山町七十五年史』にも記されています。

連隊が篠山に設置された明治41年((1908)の芸妓数80名がピークで、大正7(1918)年頃は35名、大正13(1924)年には25名、昭和3(1928)年にゃ18名と右肩下がり。
更に昭和2年にあったという「某重大事件」により検番の幹部全員が逮捕され、カフェーの進出や花街にも遊興税が導入されたのが追い打ちになり、戦争の色が濃くなったことがとどめになって、太平洋戦争寸前の昭和16(1941)年10月に解散
以後篠山に花街復活はおろか、芸者がいることはなかったそうです。
それに比べたら、遊廓はしたたかというか、原始的な欲に基づいた産業はしぶといというか、戦後も残ったことが生命力の強さを物語っています。

 

なお、くどいようですが『篠山七十五年史』は昭和30年刊行、3年後の売防法施行による赤線の消滅の顛末までは書かれていません。書かれていたら、編集者は予言者になってますしね(笑
別の資料によると、売防法施行寸前の昭和33年1月現在、業者数10軒、女性の数14名、引き手数13人。そのまま3月30日に解散となった模様です。

 

良くも悪くも地味~な篠山の、ふとしたら忘れられかねない遊廊跡がクローズアップされたのは、「阿部定事件」で有名になった阿部定が昔、ここで働いていたことから。

阿部定事件については話しだしたらキリがないので、興味ある方はググってくれたらいいのですが、その阿部定が半年だけながら、この篠山に在籍していたことが明らかになっています。
阿部定事件のことは、中学生の時からボンヤリとは知っていましたが、20年後くらい経ちまたそのことを、篠山で思いだすとは。
なお、阿部定のことは『篠山町七十五年史』にもチラリと、


「一世を鳴り響かせた『お定事件』の主、阿部定も、ここ大正楼の娼妓であったのである」


と書かれています。

 

京口新地を歩く

さて、概要はこれくらいにして、篠山遊郭、つまり「京口新地」を訪ねる旅に行ってみましょう。

なお、写真を含めた以下のレポートは2009年当時のものなので、そこはあしからず。

 

「京口新地」の跡は、篠山の中心部、篠山城跡から南東の方向にあります。
昔の遊廓は、たいてい街の中心部ではなく郊外に作られたことが多いのですが、この「京口新地」の位置が当時の町外れという意味も持っています。
他の遊廊跡も、すべてではないですが、位置から当時の市や町などの範囲を知ることが、ある程度わかったりします。

 

篠山遊廓京口新地1

「京口新地」は今はただの住宅街になっています。その昔の遊郭は遊女が逃げるのを防ぐためか、それとも別の「一般の地」と区別するためか、堀というか運河のようなもので歴然と区切られていたり、東京にあった洲崎遊廓のように、長崎の出島の如く海に突き出た埋立地に作られたり、旧飛田遊廊のように、外国の城塞都市の如き壁で囲まれていた所もありました。
この「京口新地」も、何か不自然な、田んぼに引く用水路でもなさそうな、明らかに人間が線を引いたような水路に囲まれた地域にあります。
アンテナの周波数をフルに立てながら地図を見ると、
「なんでこんなとこにこんな地形が?」
というものが、たまにあったりします。
そこが、意外と「そないなとこ」だったり。

 

篠山遊廓2

「京口新地」に限らず、篠山近辺は日本でも珍しくなった藁葺き屋根の家を見ることが出来ます。大阪生まれの私はこんな家を周囲に見ることなかったのですが、藁葺き屋根の家を見ると何か懐かしさを感じます。日本人としてのDNAがそうさせているのかはわかりませんが、不思議な気分でもあります。

「京口新地」自体はそれほどの大きさでもありません。大人の男が隅から隅まで歩いても、30分強あれば十分な大きさです。
なので、お目当ての建物を見つけるのにも、時間がかかることはありませんでした。

 

篠山遊廓大正楼阿部定

これがお目当ての大正楼でございます。
約80年前、阿部定が遊女としてこの篠山に流れ着き、そして確かにここで働いていた痕跡は、昭和、平成、そして21世紀になってもこの地に残っていました。
建物自体は老朽化が激しくて一部朽ち果てた部分もあり、現在は主のいない空き家のようですが、周囲の建物を圧倒するよーな存在感です。

これは画像の角度が悪いのですが、意外と奥行きもある建物で、一発で「それ」とわかるもの。
車で4~5時間かけてはるばるやって来たお目当ての割には、撮った写真がこの1枚だけだったという不思議な現象。かつてこの建物で数々の女性が泣いて笑って毎日を送ったと思うと、写真を撮る手も止まったのかもしれません。その時の心境は、その当時の自分しか知りません。

 

篠山京口新地遊廓

ある意味「大正楼」よりインパクトがあったのはこの建物。
「大正楼」が京口新地の中心にあったのに対して、これは片隅にポツンとあったようなものですが、果たしてこれが旧遊廓や赤線の建物かどうかは知りません。
しかしながら、藁葺き屋根の住宅の中に、明らかに個性的なこの建物、周囲に全く溶け込んでないところを見ると、昭和初期~戦後の遊郭・赤線建築の生き残りだと思います。

 

京口新地篠山遊廓大正楼

誰も住んでいる形跡がなかったので、中を玄関越しに撮影させてもらいましたが、中はまるで江戸川乱歩の小説に出てくる屋敷でした。
中は意外にも朽ち果てた感じもなく、画像にはないですが、ステンドグラスなどもそのまま残されているようで、保存状態は外観に比べたら非常に良い状態と言えると思います。
まだ修繕したら使えそうな家、金さえあったらリフォームして住んでみたい気分です。
…と書いたのが10年前でしたが、そんな金は10年経っても貯まる気配はありません(笑)



都市部や周囲のように、高度経済成長のドサクサや宅地開発、そして建物自体の老朽化で数多くの元遊郭・赤線の建物が消えていく中、篠山は建物の数自体は少なかったものの、タイムカプセルのように残ってました。
そして何より、篠山というとこが昔の日本の空気を色濃く残してる地域なのか、「京口新地」の周りの風景もそれほど変わっていないような気がします。
そして、空気も当時とそれほど変わらんのかな?とふと思うと、ここの遊女たちの声が風と共に聞こえてきそうで、ここを離れるのに後ろ髪を引かれる思いだった、というのは気のせいなのか?

 

遊郭のことは前ブログでけっこう書いていたのですが、これを機会にこのブログに順次転載していきます。ある意味お楽しみに。

 

~おまけ 篠山遊郭簡単年表~

※京口新地関連のものは青字、その他は色なしです。
新しいことがわかり次第随時追加、変更していきます。

■明治32(1899)年 町中心部の立町に篠山検番開設
■明治40(1907)年 歩兵第七十連隊、篠山に開設
■明治41(1908)年 篠山遊郭開設(妓楼1軒、娼妓7名)
■明治45(1912)末 妓楼10軒、娼妓数32名
■大正4(1915)年 篠山軽便鉄道開業(→昭和19年廃止)
■大正8(1919)末 妓楼11軒、娼妓数44名
■大正15(1926)年2月 遊廓廃止が議会に上がるが否決
■昭和4(1929)頃 妓楼2軒、娼妓数110名
■昭和7(1932)年頃 阿部定が篠山に娼妓として滞在
■昭和8(1933)年12月 遊廓を宝塚に移転する計画が上がるが許可されず
■昭和10(1935)年 娼妓総出の盆踊が行われたという
■昭和20(1945)年 敗戦

■昭和21(1946)年頃 赤線に移行か
■昭和30(1955)年 業者10軒、女性30名
■昭和33(1958)年1月 業者10軒、女性14人
■同年3月31日 売防法施行により解散・消滅

 

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三国志と三国演義

 

三国志三国演義

日本人は、いや、日本人男性は三国志が大好き。私もご多分に漏れない三国志好きです。中国留学時も三国志好きな男が多く、日夜三国志トークに花を咲かせていました。

 

三国志は中国の英雄伝。本場の中国人男性もみんな好きだろう。いや、嫌いなわけがないじゃない。
そんなwktkな気持ちを抱いて、中国人の友達(男)に告白しました。
「俺、おまえのこと…じゃなかった、三国志が好きなんだ」
さあいくらでも食いついてこい!期待値は最高潮。
が、彼の返事は、意外なものでした。


「ええ!あんなの好きなの?」


がっつり食いついてくるかと思っていた私は大ずっこけ。「あんなの」扱いかいな~!

 

当時(1994年)、中国の中央電視台で長編ドラマ『三国志』が放送されていました。おそらくCSの中国チャンネルでやっているあれです。
三国志好きとしては見逃すわけにはいかず、毎日夜9時以降はテレビに釘付けでした。
しかし、意外なことがわかりました。三国志を「あんなの」扱いした彼も、これを毎日見ていたのです。訳がわからない。
一連の話を、留学の先輩にぶつけてみました。
彼はあ~~!と口元で少し笑い、頷いていわく。

「君の思っとる三国志と、相手が想像してる三国志は違うよ」

どういうこっちゃ!?三国志の他に三国志があるっちゅーんか!?

 

二つの"三国志"

そもそも三国志とは、後漢の末期から魏・呉・蜀という3つの国に分かれ、天下統一にしのぎを削っていた時代の話で、西暦184年から280年の間日本は弥生時代の頃のことです。

中国にとって「現代」は歴史ではありません。彼らは前の王朝である「過去」を記すことがすなわち歴史。『三国志』も、三国時代の戦乱を統一した「晋」の陳寿によって編纂された歴史書です。
しかし、原本が記述があまりにシンプルすぎたので、裴松之(はいしょうし)という人が5世紀に注釈を加えました。現在では、陳寿の原本と裴松之の注釈本を合わせて、『三国志』と呼ばれています。

 

それから約1000年後、羅漢中という人物が『三国志』をベースに長編歴史小説を記した…とされています。
それを『三国演義』(以下『演義』)といいます*1

 

ここから日中の認識に大きな、かつ無意識的ズレが生じます。

オタク以外の日本人が指す"三国志"のほとんどは、実は後者の『演義』のこと。我々が慣れ親しんだ吉川英治の小説、横山光輝の漫画などは、すべて『演義』をたたき台にしています。

対して中国人は、『三国志』と『演義』は全くの別物と認識しています。詳しい日本人も、『正史』『演義』をきちんと分けています。
上のエピソードの彼が不思議な顔をしたのも、『歴史書』の方が好きなの?あんた変わってるね…という風に取ったからなのです。
彼が理学部数学科の学生、つまりガチ理系男子だったからかもしれないですが。


では、何故『三国志』好きが不思議なのか。
歴史書は、読んでみると実につまらない。直近の日本史の本格的歴史書に『昭和天皇実録』がありますが、読んでみると
「昭和○年○月○日 陛下はxxされた。xxについてこう仰られた」
の羅列のみ。
歴史書馴れしていないと、
「俺が知りたいのはそんなんちゃうねん!」
と怒ってしまいます。が、歴史書とは「俺が知りたいこと」を行間から推測する文字の集合体に過ぎません
そこからどんなエキスを絞り出すか…そこがヒストリア料理人である歴史家の腕の見せ所。ほとんど推理小説の世界です。

その素人が読むとつまらん歴史書をベースに、創作をふんだんに入れ、読んで楽しい英雄譚に仕上げたのが『演義』。くどいですが、日本人はこれを『三国志』、それも史実と誤認しているのです。
『演義』が全部史実なら、オカルト好き西洋人から

「諸葛孔明宇宙人説」

が出てきてもおかしくない。というか孔明宇宙人やろ。

そのため、中国人に「私は三国志が好きです」という場合、必ず
「我喜歓三国演義
としなければなりません。
「我喜歓三国志
だと、食いついてくるのは歴史学者だけの可能性が…

ここまでで、あれ?と気づいた方は偉い。
私は「三国演義」と書いています。しかし、"三国志"を読んだことがある人は、
「『三国志演義』じゃないのか!?」
と首をかしげるはず。
どちらが正解かは私からは言えませんが、少なくても中国(語圏)では『三国演義』であることに、少し注意が必要です。

 

『三国志』と日本とのかかわり

『三国志』(くどいですが、歴史書のほう)には、日本に関する記述が残っています。

『魏志倭人伝』…この名前を知らない人は、おそらくいないでしょう。
これ、実は『三国志』の一部なのです。
正式名称は、『三国志魏書第三十巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条』。これを略して『魏志倭人伝』。


倭の邪馬台国の女王卑弥呼が、魏・呉・蜀三国のうち魏に使いを送ったのは西暦238年。曹操の孫である曹叡が二代目皇帝(明帝)の頃です。
三国志の三傑である劉備・曹操は既に亡く*2、4年前(234年)には諸葛孔明も死亡、彼らの子や孫の世代となっていました。

卑弥呼はその後も何度か魏に使いを送り、『親魏倭王』の称号を下賜されたのですが、248年(諸説あり)に卑弥呼が亡くなると、「大乱」の後「倭の五王」による朝貢までの170年間、大陸との交流はいったん途絶えます。

 

三国志と卑弥呼。一見何の関係もなさそうな事柄が、実はかなり深く関係していたのです。


それでも"三国志"は面白い

『三国演義』はあくまで小説、『三国志』にはないフィクションが数多くあります。

 

三国演義桃園の誓い

劉備・関羽・張飛が義兄弟の契りを交わしたオープニング、「桃園の誓い」がそもそも創作だし、中盤のクライマックス「三顧の礼」も、全然ドラマチックではない。


そして何より、小説なので劉備という主人公がいます。彼は善、ライバル曹操などは悪と描かれ、特に曹操のワルっぷり描写は中国人にもアンチがいるほど徹底しています。
ただし、史実の曹操は文武両道、政治家・軍略家・詩人・編集者*3…どれを取っても一流のマルチ人間です。曹操こそ宇宙人説が出てきてもおかしくない。

対して、『三国志』の人物評価は比較的公平。
『演義』ではドラえもんかお前は状態の諸葛孔明ですら、


「政治は超一流だったけど、軍を動かすのは苦手だったようだ」
(『三国志蜀書諸葛亮伝』)


と、軍司令官としては落第に近い評価をしています。
ただし、『三国志』の記述はすべて正しいかというと、当時の政治事情も絡み疑わしいのも事実ですが、考証は専門研究者にお任せしましょう。

『三国志』と『演義』のどこがどう違うのか、ということを調べるだけでも、ちょっとした知の冒険。
歴史書だろうが小説だろうが、どちらも三国志といえば三国志。その面白さは変わらないし、今後も変わることはないでしょう。

 

==こんな記事もあります。よかったらどうですか?==

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*1:『演義』の現存する世界一古い写本(『三国志通俗演義』)は、日本の国立公文書館が所有しています。

*2:一世代分年が離れた呉の孫権は健在

*3:現代我々が読む『孫子の兵法』の原本は曹操が整理・編集したもの。

大阪新世界のレトロゲーセン「ザリガニ」で懐かしのゲームを満喫しよう!

以前、といっても1年以上前ですが、大阪新世界の「ジャンジャン横丁」にあった、「ザリガニ」という小さなゲーセンのことを書きました。 

大きなお友達たちの、日常生活で失った童心を揺さぶった記事でしたが、書いた後で知りました。ここはあくまで「支店」「本店」は別に、新世界の一角に存在することを。

 

記事を読んでもらうとわかりますが、「支店」も懐かしいと叫んでしまうほどのレトロゲーム目白押しです。

しかし「本店」はもっとすごい。ネット上にあったゲームのリストを見ただけでも、私の青春の約10ページが新世界の一角に沈殿している。ここは行く、這ってでも行かねばならぬ。

 

 

なおここからは、「支店」の方は今後「支店」とし、「本店」を「ザリガニ」とすることにします。

 

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「ザリガニ」の場所は、地下鉄と阪堺線恵美須町駅(恵美須町交差点)から通天閣へ続く道の、ちょうど中間に位置します。

 

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恵美須町駅から、通天閣を目印にこの道をまっすぐ行くと、

 

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この看板が目印!

 

大阪新世界のゲーセンザリガニ

向かって右側にこのような店が見えます。そこが「ザリガニ」。写真はビニールカーテンがあるので夏の写真です。

 

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これは去年(2017年)の写真で、2018年7月時点では筐体がかなり位置替えされています。しかし敷地が広くなったというわけではないので、基本的にこんな様子になっていると思っていただいて結構です。

中には1980~90年代に一斉を風靡したゲームがビッシリ。1970~80年代前半生まれの方は、子供の頃に見たあのゲーム、このゲームにおおはしゃぎ。目から汗が止まらない懐メロならぬ懐ゲーの博物館です。

客層は老若男女まんべんなくいるのですが、口コミで広がりつつあるのか、最近は外国人観光客の姿が増えています。外国人アレルギーを持ってる方は一度ここへいらっしゃい、ゲームで血まなこになったりはしゃいでいる姿を見ると、なんだ同じ人間じゃないかと感じますから。

 

ここからは、「ザリガニ」にはどんなゲームがあるのか軽く紹介を。

 

なお、設置ゲームは時期により違うそうなので、以下のゲームが今もあるとは限りません。

 

 

 

 

グラディウス

コナミが世に送り出した名作ゲームです。

上上下下左右左右BA・・・わかる人には、これで私が何を言おうとしているのかわかってしまう、国境も簡単に越えられる魔法のコマンドです。

このゲームは名作中の名作、ゲーム界の古典作品です。このゲームを知らないゲーム好きは、音楽家なのにベートーヴェンモーツァルト知らないの?と心得よ。

 

グラディウスシリーズ」は、アーケードだけでも9種類あるのですが、「ザリガニ」には、そんな本家シリーズ、つまり初代~Ⅳまで+「沙羅曼蛇」が揃い、今日も元気に稼働しています(2018年7月時点)。去年の一時期は幻のライフフォースまであったんですが、今はない模様。

 

グラディウス新世界ザリガニ

これが初代。昭和60年(1985)登場なので、今年でデビュー33年となります。

 

沙羅曼蛇

翌年に急遽作られた沙羅曼蛇です。元々は「グラディウス2」として開発されたものの、大人の事情で別作品となりました。その経緯もあり、「グラディウス1.25(そのこころは中途半端)」と口の悪い人は言います。

 

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しかし、内容は中途半端どころか、非常に完成度が高いゲームです。

初代と比べグラフィックが大幅に向上し、上のようなプロミネンス(炎)は当時のガキどもには衝撃と賞賛をもって迎えられました。

 

 

グラディウスⅡ新世界ザリガニ

完成度はシリーズNo.1ではないかと思う(※あくまで個人的感想です)グラディウスⅡ」です。同時期、MSXというパソコンでグラディウス2」が発売されていましたが、それとこれは全く別物のゲームです。

私のゲーム魔としての成長期に登場したこのゲーム、これに吸い取られた私のなけなしの100円玉は数知れず。しかし良い思い出しか残っていない、素晴らしいゲームでした。

 

グラディウスシリーズを名作たらしめているのは、内容もさることながら、音楽のクオリティの素晴さ。

ゲームの完成度はBGMも含まれます。ゲームをしていない人にはわからないと思いますが、いくらゲーム内容が素晴らしくても、音楽がヘボければ感情移入はできない。人間とは勝手なものですが、そんなものです。

この記事も、久しぶりにグラディウスⅡのサントラをようつべで聞きながら書いているのですが、30年以上経っても色あせていません。ボスの音楽が流れてくると何故かキーボードさばきが早くなり、反射神経が通常の2割増しになる自分がいる。

 

ちなみに、「グラディウスⅡ」のコイン投入音は、効果音として様々なTV番組で使われています。この音、たぶん一度は聞いたことがあると思いますよ。

www.youtube.com

 

グラディウスⅢ新世界ザリガニ

日本中がバブル景気で踊り狂っていた1989年に登場した、グラディウスⅢ」です。

これもそこそこはやった記憶があるのですが、内容まではさほど覚えていません。

 

グラディウスⅣ新世界ザリガニ

Ⅳに至ってはリアルでやったことすらないですし。よって、特筆すべき感想もありません。

 

 

パロディウス

上記グラディウスのパロディー版です。だからパロディウス

しかしパロディーと侮るべからず。自社ゲームを茶化しまくりながらも、内容も非常に充実した伝説の名作です。グラディウスシリーズがコナミ80年代後半の古典なら、パロディウスシリーズは90年代前半の古典と言えるでしょう。 

このゲームは何もかも斜め上なため、音楽もモーツアルトから軍艦マーチ、果ては自社のゲームまで、古今東西の音楽をパロっています。このゲームの音楽担当はさぞかし編曲が楽しかったでしょう。

 

また、ただパロっているだけでなく、「かわいく」パロってっているのも特徴。画面を見ればだいたい察しがつきますが、男性的なグラディウスに対し、かわいく女性的なのがパロディウス

この後リラックマくまモンなどのゆるキャラが出てくるのを考えると、パロディウスゆるキャラの先駆けだったのではないかと。

 

パロディウスだ新世界ザリガニ

パロディウスだ

(「パロディウスだ」(初代パロディウス)。貼り紙には1989年と書いていますが、1990年の間違い)

 

極上パロディウス新世界ザリガニ

(極上パロディウス。その横は実況パロディウスだったのですが、写真撮るの忘れてたorz)

 

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(セクシーパロディウス・・・なんですが何故か画面を撮っていなかった)

 

 

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もともと「パロディウス」は、MSXというパソコンで1988年に発売されたゲームでした。

その翌年にアーケードのパロディウスだ」(俗に初代)が登場、それから、「極上パロディウス」「セクシーパロディウス」「実況パロディウスと4作発表され、ファミコンを始め数々のゲーム機にも移植されました。

特に、初代のX68000*1への移植(1991年)は、当時の技術では絶対不可能と言われた完全移植を達成*2。30年経った現在でも、神ゲーとして元ユーザーたちの間で語り継がれています。

X68000については、こちらの記事をお読み下さい)

 

信じられないことに、「ザリガニ」にはパロディウスシリーズ4台が全員集合でした。グラディウスパロディウスの対面だけでも、長嶋茂雄王貞治まさかの現役復帰くらいのインパクトなのに。

パロディウスの満塁ホームランっぷりに理性のリミッターが外れた私は、一日パロディウスをやるハメに。そして我に返った頃、私の財布の中から樋口一葉が約1枚蒸発していました。

 

しかし!ここまでパロディウスを神推ししてテンションを上げたところで、悲報をお届けしないといけません。

何回か「ザリガニ」に通ったのですが、パロディウスを置いていたのは去年8~9月だけで、現在は置いていません。だから文章が過去形なのです。

せっかく一人で約1樋口使ったのに撤収とはけしからんですが、またいつか復活する時を待ちましょう。店主に復活希望リクエストしてみるか。・・・ってどないするんやろ? さあ(笑

「そんなん待てるかいな!今すぐやりたいんや!」という方は、PSPMSX版も含めた完全復刻版『パロディウスポータブル』が発売されています。

 

ちなみに、このゲームのSE(効果)音も、使い勝手があるのかテレビ等でよく耳にします。

これなんかよく聞くと思いますが、出典は初代パロディウスです。

(再生時、音量に注意してね)

www.youtube.com

 

ドルアーガの塔

 

ドルアーガの塔アーケード版ザリガニ

これも言わずと知れたゲームの古典名作です。昭和59年って、そうかこのゲームはこんなに古かったのかと、いまさらその古さに感銘を受けてしまいます。

実はこのゲーム、ゲーセンでやったことがありません。ファミコンではそれこそテレビにヒビが入るほどやったのですが、私と同世代の人は少なからずそうではないかなと。それどころか、

「『ドルアーガの塔』ってアーケード版なんてあったんや!」

と意外な驚きになっているかもしれません。はい、アーケード版が元祖でファミコン版は移植です。しかし私も人のことは言えません、間近でアーケード版を見たのは初めてだから。

 

ファミコン版はイヤになるほどやったので、さてゲーセンでもやるか!と筐体の前に座ったものの、我に返ってやめました。

その理由は・・・やったことがある人なら、この時点でお察し。

このゲーム、難易度が超高すぎて攻略本がないとクリアは無理なのです。ドラクエは攻略本なしでクリアできるけれど、ドルアーガの塔は無理無理、絶対無理。やれるものならやってみろ。

60面分のクリアと宝物出現条件を丸暗記できれば話は別ですが、その記憶力と脳細胞分裂を、できれば他の所で使いたい。

ようつべには、ステージすべてのお宝出現条件がプレイ画面で紹介されている素晴らしい動画があるので、次はそれを見ながら、スマホ片手にプレイすることにしましょう。

・・・しかしここでも悲報。2018年7月時点では遺憾ながら撤収されております。

 

 

ストリートファイター

80~90年代のゲームが並ぶ「ザリガニ」の中でも、平成3年(1991)登場と比較的新しい方のゲームです。略してスト2

説明不要のカプコンの名作ゲームです。たぶん、平成初期の10代20代男子の2人の1人はやったのではないでしょうか!?

 

新世界ザリガニスト2

ああ~懐かしいな~!

と思わず声を出してしまった人もいるのではないでしょうか。

 

スト2」にハマった人でも、意外に気づかないことが一つあったりします。

タイトルは「ストリートファイター」。ということは、ストリートファイター、つまり初代があったはず。これを指摘すると、

「あ、言われてみれば!」

ここで気づく人、意外に多いのです。

二代目がヒットしすぎて存在感がなくなってしまった、かわいそうな初代さん・・・。

 

 

新世界ザリガニストリートファイター

「ザリガニ」には、そんな悲劇の(?)初代もあったりします。画面に「Ⅱ」ってないでしょ?

スト2」今でも身体が波動拳昇龍拳を覚えているほどやりまくった口。ここは敢えてあまのじゃくに初代に手を出してみました。

・・・なるほど、「スト2」がヒットして初代が忘れられるわけやわ。体験して初めて納得できた事実。私の意図するところは、実際にプレイしてみて下さい(笑

 

 

いっき

「いっき」って・・・もしかしてあの・・・

この名前にドン引きし、過去のトラウマを思い出した人もいるでしょう。残念ながらその予測は当たりです。 

そう、メーカーさえもクソゲーと認めてしまった空前絶後のゲーム、「いっき」アーケード版が33年の眠りを経て今、大阪でよみがえる!!

 

新世界ザリガニいっき

ゲーム自体も筐体を含めて、よく30年以上も残っていたなと思うほど「国宝級」なのですが、

 

いっきアーケード版

このゲーム説明まで残っていたとな。それも申し訳なさげに「Sun Electronic Corp.」(サン電子とメーカー名まで残ってる。こっちの方が国宝級かも。

 

この「いっき」には、個人的な思い入れがあります。少しだけ私の人生の小咄にお付き合いを。

実は、私が初めて買ったファミコンソフトがこの「いっき」でした。確か1986年の正月前(=1985年12月)に買った記憶があるのですが、Wikipedia先生を覗くと記憶に間違いはなかったようです。

このファミコン版が、このゲームを伝説のクソゲーたらしめている主原因かと思われるのですが、とにかく周囲からの評判はボロカス。

「こんなクソゲー買ったお前もクソ」

買い主の人格まで全否定される始末。

しかし、Wikipadia先生を見てビックリ!なんとこのゲーム、100万本弱売れたらしい。100万本売ったクソゲーって、世界記録ではなかろうか。

 

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「いっき」の傷心冷めやらぬ翌月、お年玉で買ったのがボンバーマン(初代)」でした。

これも結果から書くと評判はボロカス。あのボンバーマンが酷評!?と驚く人いると思いますが、少なくとも私の周辺ではケチョンケチョンでした。

というか、同時期発売のコナミツインビーが名作すぎた不運も重なりました。

ツインビー」を買った友達はモテモテ。私はまたもや全人格否定。あの時どれだけ「ツインビー」を恨んだことか。

 

しかし、酷評だったこの二つ、方やメーカーの看板ゲームとしてシリーズ化された名作。方や「伝説のクソゲー」として、世代を超えて語り継がれる迷作となりました。30年以上語り継がれているゲームを2回連続でGETした意味では、私の目は狂っていなかったんじゃないかと。

 

涙に濡れた年末と正月も過ぎ、次こそはと次に買ったゲームが、忘れもしない1986年5月27日、あのドラゴンクエスト(初代)です。

今でこそ、知らんと言おうものなら一般常識を疑われる知名度ドラクエですが、当時は予約もなく近所の玩具店で、

ドラゴンクエストいっちょ!」

「あいよ!」

豆腐屋で豆腐を買うが如し。

だからブログのPVが伸びないという方も、これで元気を出しましょう。あのドラクエも、最初はこんなんだったのです。

こうして振り返ってみると、やはり私の目はクソではなかった。32年の時を経て自分に自信がつきました(笑)

 

閑話休題

なにせメーカーが認めたクソゲーファミコン版ではやったけれどゲーセン版は初体験。さてどんなクソっぷりだったのだろうかと、100円はたいて体験してみました。

結果は・・・やっぱしこれクソゲーやわ(笑

 

ちなみに、「いっき」を作った名古屋のサン電子という会社は、クソゲーを世に放った呪いで倒産したというウワサがネットで流れていますが、生きています。ちゃんとHPもあるので勝手に殺さないで下さい。


 

ファンタジーゾーン

 

セガファンタジーゾーン

ファンタジーゾーン新世界ザリガニ

SEGAことセガのゲームです。

ファミコンなど家庭用ゲーム機しか知らない人にとっては、セガというとゲーム界の覇王任天堂に何度も挑戦しては負け続ける、ドン・キホーテ的ゲーム機メーカーとしての印象が強いと思います。

しかし、あれだけ家庭用ゲーム機がコケても破産しなかったのは(結果的にスカンピンになって破産しかけたけど)アーケードゲームの名作をガンガン世に送り出し、それでペイしていたから。実際、ゲームソフトの開発技術はゲーム界ナンバー1じゃなかったのかと。

ファンタジーゾーンも、昭和61年(1986)にデビューした名作ゲームです。私ごときが何も書く余地がないほどに名作。画面も難易度も、そして音楽もすべて優秀。本当に非の打ち所がなさすぎて、かえって書く内容がありません。あまりに優等生すぎてかえって個性がないとは、このゲームのことを言うのかもしれない。

ただ、さすがは秀才ゲーム、30年以上経っても内容が色あせていない。難易度も前述のグラディウスなどと比べ低く、小学生から大人までまんべんなく楽しめるという意味では、名作中の名作と言っていいのではないでしょうか。

 

アフターバーナー(After Burner)

ファンタジーゾーンに同じSEGAが、昭和62年(1987)に製作した3Dシューティングゲームです。これも名作中の名作、ゲーム界に大きな風穴を開けたと言って良いほど、子供たちがこのゲームにかじりつきました。

おまけに音楽も傑作。正直、内容より音楽の方が好きという人も、私を含めて少なからずいると思います。かく言う私は、アフターバーナーのサントラを車のHDDに入れ、運転時に聞いていたりします。高速道路に乗った時に聞こうものなら、前の車をロックオンしてミサイルで撃破してやろうかと思うこともあります。 

 

そんな「アフターバーナー」まで、「ザリガニ」にはあったのです!今年に入って入荷したものですが、これもこれでよく残ってたもんだ。

さて、ゲーム好きなお友達必見!アフターバーナーが今また通天閣の下でよみがえる!

 

 

 

新世界ザリガニアフターバーナー

あ、あれ?「アフターバーナー」ってこんなんだったっけ?なんだか記憶と全然違うぞ?これを見ている10人中7人くらいは、現在頭が混乱していると思います。

 

確かアフターバーナーの筐体って・・・

 

afterburner筐体SEGA

こんなのや、

 

セガアフターバーナーⅡ筐体

こんなのだったはずなんじゃ!?

あのデカい筐体も、30年の技術進化でこんなにコンパクトになったのです…。

 

なわけない。

なんてかわいくなったんだ感満載の筐体になっちゃいましたが、当然ちゃんとプレイできます。

 私も懐かしさのあまりプレイしてみましたが、年齢には勝てないか、反射神経がついて行けませんでした。頭の中ではミサイルをヒョイヒョイ避けてるはずやのに、脳と末梢神経の指令の伝達が上手くいっていないようです(笑

 

 

 

古すぎる、あまりに古すぎるゲームたち

「ザリガニ」には、登録無形文化財として文化庁に申請した方がいいのではないか!?という超レトロゲームまであります。

エントリーNo.1 空手道

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 「ザリガニ」の入口には、

「世界初の対戦格闘ゲームあります」

奥さん、活きのいい魚が入りましたぜ!と大々的に謳っています。

 

 

そのゲームがこちら!

 

空手道新世界ザリガニ

「対戦 空手道」

というゲームです。

 

空手道ゲーム

 レトロすぎて血圧上昇不可避。よくこんなゲームがこの世に残っていたなと、神に向かって十字を切りたいほどの骨董品です。懐かしさのあまり涙に濡れて画面が見えません。

ゲーム内容は、空手の修行や試合を通して強くなっていくという、RPGの要素もなくにしもあらずの格闘ゲーム・・・と言えるのかは個人的にはビミョーですが、少なくとも「カラテカ(わかる人だけわかればよろしいw)よりかは面白いことは確かです。

 

エントリーNo.2 River Patrol

先月に「ザリガニ」に来てみると、新入りのゲームが一つ、プレイ客を待ちわびていました。

ほう、新入りかい?

遊郭の顔見世よろしくそのゲームをちょっと覗いてみると・・・

 

riverpatrol新世界ザリガニ

ナンデスカコレハ!!!

あまりに懐かしすぎて口あんぐり、出てくる言葉が何もありません。筐体も年季が入りすぎていて、ちゃんと動くの?と心配にすらなってくる老兵です。

「River Patrol(リバーパトロール)」というゲームなのですが、知ってる人います?

私は知っています。家の近くの駄菓子屋にあった記憶があるゲームで、当時6歳か7歳。筐体の前で、私は走馬灯のように己の記憶を振り返ってみたのですが、やはり間違いないと思う・・・。

 

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そしてこれは1981年製。1981年といえば昭和56年。やはり記憶に間違いはなさそうです。

ここまで来ると絶滅危惧種ではなく、絶滅したと思われた生物が生きていた状態。クニマスを発見したさかなクンの喜びがわかった気がします。

 

ダライアス

「ザリガニ」が神推し中のゲームがあります。それがダライアス

 

ダライアスタイトーザリガニ

内容はただのシューティングゲームですが、ダライアスの個性はこの筐体。ディスプレイを贅沢に3つも使った、まことに化物な筐体なのです。

「ジオンの精神が形になったようだ」はガンダム0083アナベル・ガトーのセリフですが、ダライアスは「バブル景気が形になったようだ」と言いたくなる筐体。進撃の巨人ならぬ進撃のダライアス

タイトーはこの他にも、ニンジャウォーリアーズ「ミッドナイト・ランディング」などのバブリー筐体を輩出しましたが、当時これ1台なんぼやったんやろか?

こんな電気代バカ食い不可避のモンスターが、町中のゲーセンにあった・・・それがバブルという時代だったのです。

 

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このゲームを作ったメーカーは、TAITO(タイトーという大手ゲーム会社でした。タイトーは元々、ロシア革命でハルピン経由で日本に亡命してきたユダヤウクライナ人が作った「太東貿易」という会社で、会社名も「極東ユダヤ人」という意味が込められています。

 

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また、「日本中から100円玉が消えた」と社会現象になったスペースインベーダーを作った会社でもあります。

ダライアス」の怪物筐体を作ったタイトーも、バブル崩壊でコケたか、2,000年代は段違いの格下だったゲーム会社の子会社として、ゲーム開発もストップ。その姿は、かつてゲーム界を牽引していたなど到底想像できない瀕死の病人。ついには企業の生命維持装置と言える資本金もがっぽり減らされ、会社としての命運はもはやこれまで…。

と思われた時、ついにゲームメーカーとして再び復活するという朗報が。その復活第一弾が、この「ダライアス」。今年、「ザリガニ」にこの筐体がデビューしたのも、タイトーの復活を祝してのことでしょうか。まあ違うと思うけど。

 

これもこれで、バブル崩壊で捨てられた筐体はずなのによく残ってたなと感心してしまうのですが、

 

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どこかで長い眠りについていたようです。縄文時代の竪穴式住居を復元しました!的扱いですな。

 

バブルを体感したことがない平成生まれの人は、是非「ザリガニ」でこのジオンの精神が・・・やなかった、バブル経済が形となったゲームに1980年代を感じては如何でしょうか。おっさんどもがガキだった頃こんな贅沢なゲームをやってたのかと、日本経済史の現物標本的存在、それがダライアスです。

 

 

 その他のゲームたち

 

文字数の都合、というより、執筆者がハッスルしすぎて執筆疲れを起こしてしまい、詳細を省略したゲームたちもあります。

 

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「支店」の方にもあったゼビウス

 

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懐かしいな~と弾を撃ちまくっていたらすぐ弾切れになり、すぐ終了した「怒(いかり)」

弾数制限ありって、こっちが「怒」たいわ。

 

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これも名作、R-TYPE

 

ザリガニスパルタンX

スパルタンX

これも懐かしい、スパルタンXファミコンでやった人も多いと思いますが、こちらがオリジナルです。こちらも数十年ぶりにやってみたのですが、ゲーセン版ってファミコン版に比べて難易度高めですな!?

 

ザリガニ魔界村

こちらもかなりやりまくった人、多いのではないでしょうか、魔界村

 

 

ザリガニくにおくん

つっぱり学生がすごく時代を感じさせる熱血硬派くにおくん
くにおくんがあれば・・・

 

熱血高校ドッジボール部ザリガニ

熱血高校ドッジボール部もあります!

 

 

 

バーチャファイター

3D格闘ゲームの火付け役、バーチャファイターです。このゲームが出た時、私は中国在住。週末は中国人と第二次支那事変(=対戦)をやっていましたが、それも20年前になったのかと、昔が遠くなりにけり。

 

 

そして極めつけは!

 

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 ベラボー参上!!

 

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ナムコ「ベラボーマン」というゲームです。

Namcoの精神が形と…ではなく、ナムコらしいコミカルで誰でも楽しめるアクションゲームです。知る人ぞ知るゲームですが、知っている人はいるかな?

筐体の説明によると、日本でも数台しか残っていない絶滅危惧種らしく、ワシントン条約により輸出が禁止されております。

 

他にも、

究極タイガー

・SAMURAI SPIRITS

マリオブラザーズ

パックマン

・キャラクシアン

ドンキーコング

クレイジークライマー

などなど、紹介しきれないゲームが目白押し。もうこれ以上紹介は無理、気になる方はどうぞ現地で実際に確認してみて下さい。

ただし!重要なのでもう一度いいます。紹介したゲームが今もあるとは限りません。

 

 レトロなゲームは、今や家庭用ゲーム機で「完全復刻版」が発売されているものや、スマホアプリでプレイできるものも多くなっています。かつての名作ゲームが電気代のみでプレイできる「完全復刻版」は、それはそれで懐かしくも面白い。

が、アーケードゲームの醍醐味は、やはりあの筐体とにらめっこしながらプレイすること。懐かしさ補正も大幅プラスされます。

 

アラフォー以上の方、子供の時のひそかな夢だった、

「筐体の上に100円玉を山積みして、お腹いっぱいゲームに浸る」

を、ここ「ザリガニ」で叶えてみませんか?

もしくは、物心ついた子供を連れて、

「お父さんがお前くらいの頃、このゲームでよく遊んだんだよ」

と親子で80~90'sゲームを満喫してみませんか?

我々がどこかへ置き忘れた童心と、懐かしの昭和のあの時を取り戻しに・・・。

 

「ザリガニ」の営業時間などはこちら!

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おまけ:その他レトロゲーセンの紹介

なお、新世界界隈には「ザリガニ」の他にいくつかレトロゲーセンがあります。

ジャンジャン横丁の中には、「かすが」というこちらも規模が大きいゲーセンがあります。

こちらもこちらで、「出たなツインビー源平討魔伝」「電車でGO!」など、在りし日のゲーマーにはお涙頂戴の懐ゲーが揃っているので、「ザリガニ」とのはしごをすれば、精神年齢は30歳は若返ることでしょう!?

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

また、こんなゲーセンもあります。

 

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「ニュースター」というのが名前なんだと思いますが、入口からしてなんだか怪しそう・・・いえいえ、中はちゃんとゲーセンです。

正直、ゲームは「ザリガニ」や「かすが」のように特筆すべきものがなかったのですが、1ゲーム50円というのが嬉しいじゃありませんか。

 

地元大阪の人だけではありません。大阪に帰省の方も、観光に来る方も、新世界でレトロゲーセン三昧というもう一つの観光は如何でしょうか。レトロゲーセンのご訪問をお待ちしております。お金落として行ってや~。

 

★重要なお知らせ★

ブログをワードプレスに移転しました。

記事は順次新ブログへ引っ越し中ですが、よかったらこちらもどうぞ!

野良学徒の歴史研究
https://yonezawakoji.com/

 

*1:シャープが製造販売していたパソコン。アーケードゲームと同じCPUを採用し、移植ゲームに定評があった。

*2:音楽が多少劣っているが許容範囲。

映画『太陽の墓場』に見る釜ヶ崎@鉄道編

 

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以前、昭和35年(1960)に大島渚監督によって撮られた『太陽の墓場』という映画の話を書きました。

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

今回はその続きなのですが、すぐに続きを書こうという意思だけは持ち続けた結果、かなりの月日が経ってしまいました。本当はすぐ後にアップしようかと。
しかし、忘れていたわけではありません。亀のようなスローペースながら、徐々に堀を埋めていっていたのです。
そして今回、やっと書き終えました。


が、鉄道編と銘打ったように内容が超マニアックになってしまったので、少し「濃度」を調整した上で今回の公開です。

それでも、ここからは鉄分と大阪史濃度の濃い、マニアックな話となります。

マニアックな話に興味がない方は、ここでお引取りいただいても大丈夫です。でも、できれば読んでね(笑

 

なお、少し時間を置いてしまったので、キャストなどのおさらいは上のリンク先をどうぞ。といっても、あまりする必要はないかも。

 

 

 

 南海電車

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愚連隊を抜けたいと悩む武(佐々木功)を花子(炎加世子)が見つけ、うちがボスの信に話つけたるわと彼と道端で交渉しているシーンです。左の男は20歳の津川雅彦、まだ映画出演2作目の初々しい姿です。

(※このブログを書いている最中、津川雅彦さんの訃報が飛び込んできました。ご冥福をお祈りします)


信の後ろにコンクリートの壁があります。これは南海電鉄の高架線で、アングルを変えると

 

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電車が走っています。
南海電車なのは明らかなのですが、さてどの車両なのか。映像に残る「現物」だからこそ、ここは「考古学」の出番なのです。

 

次のシーンを見てみましょう。

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これで形式を答えよ、となると鉄道イントロクイズになるのですが、他サイトの情報も加味すると、

 

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高野線用の「ズームカー」(21000系)か、

 

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本線で使われていた旧1000系(11001系)のどちらかになります。こちらは形式がややこしいため、「11001系」に統一します。

え?この二つ、何が違うの?全く同じやんか!

鉄道マニアでも何でもない人、いや、鉄道マニアでも車両に詳しくないと見分けがつきません。正直、私もわかりませんでした。

さてこういう時はどうするか。

このネット多様化時代、わからなければSNSに晒すべし。自分に知識・知恵がなければ人のを拝借すればいい、これが21世紀の賢い調べ方。

そこでTwitterで大募集をかけてみると、鉄道車両に詳しい「車両鉄」が速攻で食いついてくれました。

「これは本線用の11001系です」

 その人はきっぱりと即答・断言しました。

 

なぜそこまで断言できるのか聞いてみたところ、さすがは専門オタクだと敬礼したくなるような答えが返ってきました。

まずは基本知識として、高野線用21000系の1両あたりの全長は17m。これは山奥に入る山岳用車両なので、車体長が他の車両より短いのです。
対して本線用11001系は20m車体長に3mの差があります。


これが、側面の窓の数になってあらわれてきます。

 

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ズームカー21000系の窓の数は13個。先頭から2-8-3という配置です。

 対して11001系はどうなっているのか。

 

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窓の数は16個3-9-4の配置で高野線の電車より3つ多くなり、これが3mの差となります。

これを頭に入れつつ、映画内の電車の窓の数を数えてみます。

 

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窓の数で11001系だということが判明しました。

私も広く浅くのライト鉄マニアとして、21000系の車長の知識は持っていました。しかしながら、窓の数まではさすがに把握できず。このBEのぶ、車両鉄の深き専門知識に脱帽であります。

 

現地で映像の場所を探索してみると、11001系であることが更に明確となります。

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映画のシーンの高架は現在でも残っており、地図の位置であることは確定です。

映画のカメラは北を向いていたこととなり、電車が進んでいた方向は難波駅。つまり電車は難波行き。
それならいちばん左の線路は本線用。17mの高野線用車両が走っているわけがない。この理屈でも1000系なことが確定です。

 

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映像のいちばん右端あたりは、現在新今宮駅難波方面ホームとなっています。映画のシーンを意識して似たような角度で撮影した2018年の姿が上の写真です。

ちなみに、後で詳しく書きますが、南海の新今宮駅は映画の当時は存在していません。

 

 


謎の線路

逆に、同じ鉄道でもどこかわからないシーンがあります。

『太陽の墓場』オープニングで、戦争を煽る謎のルンペン(煽動屋)が花子に絡み、おもろいやっちゃと花子が仲間に引き入れるシーンがあります。

 

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このシーンで、建設中の鉄道の高架線が映っています。まだ架線が敷かれていない架線柱が見えるので、鉄道で間違いありません。

 

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次のシーンでは、奥に駅が見えます。

さて、ここは一体どこなのだろうか。
これを指摘しているほぼずべてのサイト・ブログ・SNSでは、当時建設中だった大阪環状線西九条~天王寺間と結論づけています。

 

今は大阪市内をグルリと回っている大阪環状線ですが、

 

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戦前は

「城東線」:天王寺~鶴橋~京橋~大阪

「西成線」:大阪~西九条(終点は桜島)

「臨港線」:今宮駅から大阪築港(大阪港)。貨物専用

の3つに分かれていました。

見ての通り線路がつながっていないので、現在のような環状運転は不可能です。しかし、これら3つの線路をくっつけ「環状線」にしようという計画は、戦前からありました。

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(昭和10年(1935)1月11日『大阪毎日』より)

計画自体は戦前からあったものの、戦争と敗戦、そして戦後復興の中おそらく後回しにされ、戦後に余裕が出てきた昭和30年代に実現したと考えるのが自然でしょう。

 
そういうわけで、西九条-弁天町-大正-天王寺間が開業したのは、映画上映翌年の昭和36年。映画製作中は工事中と言われると、ああなるほどなと。
しかし、この高架線の曲がり具合が、釜ヶ崎周辺、具体的に言うと現在の新今宮駅周辺には見当たらない。
どの角度で撮影されたのかがわからないのですが、Google Mapで分析してみる限り、うーんと首を傾げざるを得ない。
すべてが大阪で撮影されたとは限らないと推測すれば、もはやどこか解明不可能。
個人的に、工事中だった大阪環状線とは断言し難いので、ペンディングとしておきます。大阪環状線なら、建設途中の姿が映像、それもカラーで残る映像の有形文化財ものなんですけどね~。

 

 

映画予告編に出た超レア車両

映画のラストシーンでは、武と花子がデキちゃった上に、花子と寝た武がうっかり愚連隊のアジトの場所を言ってしまいます。
愚連隊は人殺しもいとわないヤンキー集団だけれども、組織として固まっているヤクザは商売敵でもあり天敵でもあります。ヤクザが正式な軍隊ならば、愚連隊はゲリラ。人員も練度も豊富な「軍隊」に本気で襲撃されたら、愚連隊はひとたまりもありません。だから、見つからないようにアジトを変え、裏社会のゲリラ、いや安らぐ場所のない流浪人として生きて行かざるを得ない。


ヤクザとも一脈相通じている花子は、アジトの場所をヤクザに知らせヤクザが愚連隊を襲撃。信の手下は武を除いて全員殺されてしまいます。


花子がバラしたことを知った信は、当然彼女を殺しにかかります。

 

太陽の墓場ラストシーン

太陽の墓場ラストシーン2

これは、信に追いかけられた花子が国鉄の線路へ逃げているシーンです。

 

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彼女が上った場所は、赤で丸をした位置となります。

 

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花子が上った関西本線の土手は現在コンクリートで固められ、家や倉庫も建っているので近寄れません。 

 

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 が、映画に映った勾配標識は当時と同じ場所に立っています。まあ、表示が違うので当時のものではないはず。

 


信のカンで花子に教えたのが武だとわかると、殺意の矛先は武の方へ。
信は持っていたピストルを取り出し、武の心臓を貫きました。しかし、武は最後の力を振り絞り、信の足を離さないまま、二人は汽車に轢かれ…
愛してしまった男が目に前で轢死したのを見た花子は、茫然自失のまま近くの酒場へ転がり込みます。
自暴自棄になってしまった花子は、
「こんな時代、いつになったら終わるんや!」
と飲んでいた人に絡み、最後はケンカとなります。

 

二人を轢いた汽車は、本編では汽笛の音だけで本体は出てきません。
しかし、宣伝用の予告編にはその姿が残されていました。

 

 

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 『予告篇』の映像を切り取ったものです。

時間にして2秒ほどのシーンですが、この1枚には貴重な歴史情報が詰まっています。


①関西本線(大和路線)が非電化

写真は現在の新今宮駅付近で、SLが走っている線路が現在の関西本線、それを高架で跨いでいるのが南海本線です。
今は電車が走っているところですが、映画のロケ時の昭和35年は非電化でした。よく見ると架線がないでしょ?

この区間が電化されたのは昭和48年(1973)、「大和路線」という愛称がついたのはJR化後です。

 

②大阪環状線がない

これについては上述したとおりです。
当時の新今宮駅付近は大和路線の線路しかないので、当然複線ですが、その跡が駅の真下に残っています。

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南霞町・・・じゃなかった、今は新今宮駅前駅と名を変えた阪堺線の駅ですが、JR線と交差するホーム奥に、昔のレンガ積みの土台の跡がくっきり残っています。
映画の頃を含めて昔は内側の線路2本分(複線)だったのが、大阪環状線開通後に外側2本が作られ、レンガの土台の上をコンクリートで固めた作りになっていることが一目瞭然です。

今は堤防のようなコンクリートの壁になっていて、到底線路上には登れません。しかし、昭和35年当時の線路の土手がレンガの角度なら、確かに花子のような女性でも登って行けるかも。

 

③新今宮駅がない

今しか見ていないと到底想像もできないですが、SLが走っている場所、今の新今宮駅です。①や②以前に、そもそも新今宮駅がないのです。
新今宮駅は、映画が上映された4年後の昭和39年(1964)に作られた、意外に新しい駅だったりします。南海の方の開業は、そのさらに数年後となります。
なので、昭和35年には新今宮駅なんて影も形もありゃしません。

 

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(『定点観測 釜ヶ崎』より)

新今宮駅がない頃の国鉄・南海交差点の写真は、上の写真のように何枚か残っているのもあるのですが、映像として残っているのは『太陽の墓場 予告篇』くらいじゃないかと。

 

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この映像切り取り部分の汽車は湊町駅・・・現在のJR難波駅方向を走っていますが、現在位置は、大和路線JR難波方面行きホームということです。

ただし、新今宮駅の地点に駅を作ろうという計画も、戦前からありました。

 

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(昭和12年7月4日『大阪毎日』より)

南海が昭和初期に国鉄をまたぐ形で高架になった時も、
「国鉄と交差するところに駅を作れるような構造にしろ」
という条件で許可されました。


以上のことで食いついてくるかな~と予想しつつ、Twitterにアップしました。「新今宮駅があらへんやん」ということだけでも、文明が破壊されない限り二度と再現できないシーン。歴史を知らない人には十分ネタになるかなと。


しかし、さすがはDEEPな鉄道マニア。食いつき方が私の予想のはるか斜め上でした。

 彼らが指摘したのは、下の写真赤矢印の車両。

 

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別にどうということはない、ただの客車やんかと。

私も最初はそう思いました。なんでそんなとこに集団で騒いでんねんと。
ところが、これが鉄道史の常識をひっくり返すようなレア車両だったらしいのです。

 

戦災復旧車

先の戦争で被害(戦災)を受けた国鉄の車両は、

蒸気機関車852両(全両数の14.8%)
電気機関車39両(13.4%)
電車563両(25.1%)
客車2,228両(19.1%)
貨車9,557(7.5%)

合計:13,239両

 

と相当の数にのぼりました。

戦災を受けた電車は、

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こんなものや、

 

戦災車両終戦直後

こんなものまで多種多様。

当然、無傷の車両もあったのですが、それらはすべて進駐軍に接収され。

 

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(『終戦直後 大阪の電車』より。石橋駅に止まる阪急宝塚線の専用車)

白帯を巻いた「連合国専用列車」として利用されました。
「連合国専用列車」というと、イコール進駐軍、イコールアメリカ軍専用、つまりガイジンしか乗っていないというイメージがあります。
が、あくまで「連合国」なので中国人や、「中国人」となった台湾人も乗車可能だったということは、意外に知られていません。

さらに戦争が終わり移動の制限がすべてなくなったのはいいけれど、車両が戦災を受けまともな車両が少なく、少ない列車に人が押し込められるような修羅場でした。

 

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(『思い出の省線電車』より)

これが一例ですが、

 

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インドの通勤電車顔負けの光景が、70年前の日本に存在していました。

そんな状態に鉄道会社はじっと見ているだけではなく、戦災での車両不足と急激な需要に応えるべく急ごしらえの車両を大量増産することとなりました。
それが「戦災復旧車」と呼ばれている車両グループで、戦災で死亡した客車の台車だけ流用したり、逆に車体を急ごしらえで改造したり…フランケンシュタインの鉄道車両版というべきものでした。

 

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国鉄版「戦災復旧車」は、「70系客車」と呼ばれている一群でした。
全国にあった戦災被害を受けた車両のうち、17mのものや20mの車体のものを急ごしらえで改造し投入したもので、全国で260両ほど存在していたものです。
車両鉄によると、映画に映っていたのは「オハ70」という系列で、17m客車をフランケンシュタインしたものだそう。扉を見ると2つしかないのが「オハ70」の特徴だそうです。

 

しかし、しょせん70系客車は応急処置的なつなぎ役。輸送も車両のやりくりも落ち着いた昭和30年までには、荷物車などに転用され淘汰されました。
「オハ70」も、旅客用としては昭和29年には全車引退、荷物車としても昭和30年代前半にはお役御免、車庫で放置プレイのまま朽ち果て・・・のはずだったのですが、昭和35年でもその戦災復旧車が現役で走っていた動かぬ証拠が映画の中にあるとくれば、鉄道好きの大きなお友達が食いつかないわけがない。
(映画から)4~5年前に絶滅したはずの魚がまだ生きていた!と、彼らはワクワクドキドキです。
当然、私はそんなつもりでアップしたわけではないのですが、これが超レアお宝映像だったのです。

 

おわりに


映画は、俳優たちの演技やストーリー、映像美などエンターテイメントとして見るのがふつうです。
ところが、視点を一つ変えて見てみるととんだ歴史学のネタになることが、『太陽の墓場』で証明されました。これはこの映画に限ったことではなく、昔の映画を歴史学の視点で見返すと、予想だにし得なかったお宝が見つかるかもしれません。

大島渚監督はすでに故人ですが、映画を通してこんな映像の大阪史を遺してくれていたとは、「死せる大島、生けるBEのぶを走らす」か。

 

そして最後に改めて、この映画に準主役として出演した津川雅彦さんのご冥福をお祈りします。惜しい昭和の名優がまた一人逝ってしまいましたが、時は非情なり、仕方ない。

今頃は、兄貴と奥さん、そして大島監督とあの世でワイワイやっていることでしょう。

 

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中国語の「勉強」

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中国語という言語は、基本的に漢字を使います。

今の情報化時代、
「え、そうなの?」
と目からうろこが落ちる人は、まずいないと思います。

じゃあ、どれくらい漢字を使うの?というと。それがすべて漢字です。漢字アレルギーの人は即死するほど漢字です。

さすがにCDやDVDはそのままですが、それでも「光盤」「数字視頻光盤」という、きちんとした正式名称(?)があります。

 

漢字の便利なところは、視覚的に意味がわかるということです。これは「表意文字」といい、文字が意味を表すもの。アートというか、象形文字として理解することができます。

その反対として、「表音文字」というものがあります。これは我々が日常ええ使う平仮名や片仮名、アルファベットなどが該当します。

漢字が表意文字であるメリットは、たとえば「文」という文字があると、日本人も中国人も「文」が文であると理解し、その認識が一致することです。

 

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たとえば、町並みを歩いていると

「洗衣店」

という看板を見つけたとします。「洗衣店」は日本語ではなく中国語なので、日本人には日本語としてインプットされていません。

しかし、漢字を見て

「衣を洗う店・・・衣服を洗う店だからクリーニング屋か!」

と連想することは、十分可能です。日本人なら漢字がひととおり理解できる中学生以上なら、余裕で連想できるでしょう。

 

日本語と中国語の単語の意味は、熟語においてもほぼ一致します。「警察」と書かれたベストを着た制服の人を見たら、日本人も中国人も台湾人も皆、警察(官)だと認識します。誰も「消防」だなんだと見当違いを起こすことはありません。

 

しかし、日本語と中国語の漢字の意味はだいたい同じといっても、すべてが違うわけではありません。中には同じ漢字なのに意味やニュアンスが全く違う場合があり、それが原因で笑いの種になる勘違いを起こしたりします。

 

我結束了作業。

 

これは中国語なのですが、中国語がわからない日本人がこの漢字を見て想像する意味は、おそらくこうなると思います。

「なにかやらなければならない仕事(作業)があって、そのために結束する必要があった。『了』がついているから、それが完了した」

しかしこの意味は、

「私は宿題をやり終えた」

と実にシンプルなのです。

この場合、

結束:終わる(英語のfinish)

作業:宿題(同homework)

と、日本語での意味と全く違い、漢字であれこれと類推せざるを得なかったということです。

 

中国語で「勉強する」は、「学(習)」「読書」などがよく使われます。「学習」なら視覚的にもすぐにわかります。

でも、「読書」もこうして書いてみると日本語と意味が違ってきますね。

 

我在東京大学読書。

 

となると、日本人はふつう、

「東大の図書館で読書でもしてきたのだな」

と解釈してしまいますが、さにあらず。

正しい意味は、

「私は東大で勉強しています」

転じて、

「私は東大の学生です」

となるのです。

 

では、中国語で「勉強」は使わないのか。日本独特の熟語なのか。

答えはNO。「勉強」も中国語ではよく使われます。ただし、日本語の意味とは全く異なり、使い方も全く違ってきます。

中国語での「勉強」の意味は、「いやいや~する」「無理に~させる」というニュアンスとなります。「

本当はやりたくないんだけど、第三者から圧力がかかったりどうしてもやらざるを得ない。しゃーないわ、やるか・・・。

強いて言えば、こんなニュアンスとなります。

 

我勉強答応把新書借給他看三天

 

「勉強」を使った典型的な文です。なお、中国語の勉強ブログではないので、中国語がわからない人でもわかるよう、簡体字や旧字体(繁体字)は使っていません。

これは、「彼はしぶしぶ新しい本を彼に3日間貸した」という意味になりますが、「勉強」を使うことによって、本当は貸したくないんだけどな・・・と嫌々感を出している文です。この嫌々感を出したい時、「勉強」を使います。

 

 

她不愿意去就算了,不要勉强她。

 

この場合の「勉強」は「無理強いさせる」というニュアンスとなり、全文は「彼女が行きたくないというならそれでいい。無理強いさせるな」という意味となります。

これを日本語の「勉強」として解釈してしまうと、

「彼女を勉強させるな」

という意味になり、何だこりゃ?と混乱するのみです。

 

日本語で、「勉強」するにはもう一つ、使い方があります。

「これ5つ買うさかい、勉強してーなー」

大阪名物(?)値引き交渉ではよく使われるフレーズですが、この「勉強」は値引きのこと。

「勉強する」がなぜ「まける(値引き)」なのか。幼い頃からの疑問でした。

それがなんとなくわかった・・・気がしたのは、中国語を勉強した後のこと。

「無理強いする」というニュアンスで解釈すれば、値引きの「勉強」は、

「ホンマは無理やろうけど、無理を承知でなんとかして値引きしてほしいな」

という意味が込められているのではないか。だから「勉強」が使われているのかもしれない。

もちろん、これはただの私の仮説です。しかし、こう解釈すると「勉強してーなー」がなんとなくしっくりくるような気がする。

 

中国に留学していた頃、留学生初級クラス担当の先生がいました。彼女は染め物の勉強のために京都に留学していたことがあり、日本語、というか関西弁がペラペラ。本来は大学の芸術学部の専任講師なのですが、日本語が話せるという理由だけで留学生の中国語教育担当を「勉強」させられたそうな。この「勉強」は、

「わたし、中国語が専門じゃないんだけど…」

という嫌々感なのは、記事を読んだ方にはわかると思います。

 

その先生がある日、唐突に、

「日本に行って『勉強』の本当の意味がわかったの」

こんなことを言い出したかと思えば、次の一言が、

「『勉強』って、いやいやするものだって」

日本語と中国語の「勉強」の意味の違いを踏まえたユーモアでした。たぶん、先生はこのジョークをどこかで思い浮かべ、言ってみたかったのでしょう。顔はヘラヘラ笑っていました。

 

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モダンガール、エアガール…昭和の「尖端ガール」たち

昭和初期とはどんな時代か。これは政治・経済・文化・・・人によって切り口が変化します。それが歴史の多様性というもので、見方は一つではありません。

その中でも、社会史・女性史という点という観点から見ると、女性の社会進出が急激に広まった時代という見方があります。

 

女性は家庭に入り家事をやっていればいい・・・そんな古い価値観にヒビが入り始めたのは1920年代、大正末期のこと。

本格的な社会進出が始まったのは昭和初期の5~6年頃ですが、その間接的な証拠に、女性の社会進出をもじった新語が、この時代に雨後の竹の子の如く出現しました。1930年前後の流行語辞典を見てみると、

「○○ガール」

という言葉が山ほどあらわれます。1920年代の辞書には全くなく、明らかにこの時代に生まれた言葉ということを物語っています。

 

大手を振って社会に出る女性たちを世間は、

「尖端ガール」

と呼んでいました。

「尖端ガール」って何やねんと解釈はなかなか難しいですが、要は「流行にのったファッショナブルでナウい女性」ということ。え?「ナウい」って何?ならば「トレンディーな女性」のことや・・・って余計わからなくなってきた?

まあ、どんなものかは後でわかることでしょう。

 

ところで、こういうものがあります。

 

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 『実業の日本』昭和6年新年号掲載「女商売新旧番付」という、明治(左)と昭和(右)の女性職業の新旧を番付風に描いたものです。

上の番付を見ても、明治時代の職業は「女工」「芸者」「女中」など古びた単語が並びますが、いちいち説明しなくともどんな仕事内容か、一般常識で理解できます。「びらまき女」でさえ、すぐイメージがつくでしょ(笑

それに対し、昭和の新職業は、「アナウンサー」やら「ピアニスト」などはさておき、ガールばかりで何かよくわからないのが多いですね。

しかし、今に通じる職業がこの時代に数々出てきます。

一例が、二段目にある「美容家」。これは現在の美容師。古い方に「髪結い」とありますが、かつてはそう呼ばれた賤業でした。ところが、女性のファッションスタイルが多様化したこの時代、「最尖端」な職業として注目され始めました。美容家と書かれているのは、まだ美容師という言葉が定着していなかったということです。

 

ちなみに、これから「○○ガール」が山ほど出てきます。が、これはフィクションではありません、すべて史実です。

 

 

華麗なる尖端ガールたち

 

では、尖端ガールはどんなものがあったのか。

 

モダンガール

 

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これは歴史に疎くても、一度は聞いたことがあると思います。

関東大震災の衝撃冷めやまぬ大正末頃の東京銀座、一部の女性たちが、当時「尖端」だった洋服をまとい街を歩きはじめました。実は「尖端」とは「モダンな」というニュアンス。「尖端ガール」は大なり小なり「モダンガール」という意味に通じるのです。

当時、洋服といえば子供服に限られ、大人は着物が当然の時代でした。洋服で町中を歩くのは、今で言えばコスプレ感覚。

モダンガールが「尖端」なところは、服装だけではありません。髪の毛をばっさり切り、今でいうショートボブくらいの短さにしたのです。
「断髪」と当時呼んだのですが、これは女性の髪は長いというのが普遍の真理だった日本の女性史・美容史の革命でした。

モダンガール=洋装というイメージがありますが、和服のモダンガールも存在していました。といっても、街角では洋服でおめかししても、家では着物だったという女性が大多数だったそうです。

では、「和服姿のモダンガール」ってなんじゃ!?と問われれば簡単。髪の毛を断髪(ショートカット)、または結ったり束ねていなければすなわちモダンガールなのです。つまり、モダンガールか否かの基準はファッションではなく、髪型だったと。


髪の毛が短いと、髪型をキープするのに手間暇お金がかかります。よっておしゃれのためのプロが必要となる。そこで生まれたのが美容師や、後に触れる「マニキュアガール」という流れです。
そこにお金をかけられるということは、それだけ豊かになったというあらわれです。 

のちに「モダンボーイ」も出現し、総称で「モガモボ」と略されて呼ばれるようになります。

「モボとモガ、どちらが先だったの?」

という素朴な疑問がありますが、明らかにモガが先。モボはモガから生まれた子どもです。

これについては百聞は一見にしかず。「モガ」というものはどんなものか、写真でどうぞ。

 

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(かなり「尖端的」なモガ。これで1920年代の約100年前)

 

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(大阪道頓堀を歩くモガ。1928~29年頃)

 

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(『阪急百貨店50年史』より)

昭和5年(1930)、車の前での一枚。 

 

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(市電に乗ろうとする東京のモガ。1932年) 

 

1936堀野正雄撮影風

(1936年、飛行機に乗ろうとして風にあおられるモガ。堀野正雄撮影)

 

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(千人針を縫うモガたち。1937年)

 

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(銀座の喫茶店、「コロンバン」の窓から見えたモガ。1937年)

 

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(『贅沢は敵だ!』の標語の前を通るモガ。1940年7月)

 

 

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(対米戦争勃発の新聞記事を見るモガ。1941年12月) 

 

しかし、こういう写真を見ると、いつも思うことがあります。写真に写る彼女らは、あの戦争を生き抜いたのだろうかと。

 

モダンガール旋風は、内地(日本)を越えて外地へも広まりました。 

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戦前の朝鮮鉄道には、京城(ソウル)~釜山間に「あかつき」という快速急行が走っていました。どちらかの駅でしょうか、見送りの女性も見送られる方もモダンガールです。

 

エレベーターガール

昭和初期に生まれた「◯◯ガール」の中で唯一、今でも使われている名称です。

エレベーターガールは、昭和初期の「もっとも尖端的な職業」として大人気の花形職業でした。だって、制服を着ただけで「モダンガール」をやれるのだから。

日本で初めてエレベーターガールを採用した松坂屋のHPによると、最初は「昇降機ガール」と呼ばれていたそうです。

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(1930年代、大阪心斎橋大丸のエレベーターガール)

 

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昭和8年(1933)8月19日『大阪毎日』に掲載された、京阪デパートのエレベーターガール募集広告です。細かいところですが、「エ」が「ヱ」になってますね。

 

また、エレベーターガールがいればエスカレーターガールもいました。

 

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(『神戸100年写真集』より)

昭和11年、阪急電鉄が念願の神戸市内(三宮)延長を完成させたのですが、ホームまでの階段に「動く階段」ことエスカレーターが敷設されました。写真の階段の先は、阪急線のプラットホームです。

たかがエスカレーターにガールは要らんやろと思うのですが、当時は珍しい分危険を伴ったのでしょうか。

写真では確認していませんが、同時期に開通した阪神電鉄元町駅にもエスカレーターガールがいたそうです。

 

 

マッチガール

『マッチ売りの少女』という、涙腺崩壊不可避の悲しい物語がありましたね。
あれは童話ですが、『マッチ売りの少女』は実在していました。
それが、番付の上位にもいる「マッチガール」でした。
よく考えたら、「マッチガール」を和訳すると「マッチ売りの少女」でしょ?
童話と違い、「マッチガール」は喫茶店の中などでマッチを売り、寒くてひもじい…という悲しい思いはしないということ。


ところで、なんでマッチなのか。当時のタバコは男子の嗜み、吸っていない方が男らしくないと敬遠されていました。これは私が小学生だった昭和50年代まで常識として社会に浸透し、私も「大人への階段」として喫煙したようなものでした。あ、今はすっかり禁煙者です。

それはさておき、戦前はライターもない時代、タバコはみんな吸うのでマッチが必然的に売れます。現在の街角のティッシュ配りのような「マッチ配り」もありました。当然、マッチにはお店や企業の広告が入っています。

 

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喫茶店では、マッチならぬ「タバコ売りの少女」もいました。人呼んで「たばこガール」。写真は昭和10年のもので、白黒写真をカラー化したもの。

 

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服が同じなので上の写真と同じ「たばこガール」でしょう。

残念ながら「マッチガール」の写真が見つからなかったので、「たばこガール」で我慢してください。

 

 

 

エアガール

昭和に入り大きく進化・発展したもの・・・それは飛行機。

「エア」はAirなので飛行機のガール・・・まあお察しのとおりスッチー・・・というと年齢がバレるか、CA(客室乗務員)です。

日本で「エアガール」を初めて採用したのは、「日本航空輸送」という会社でした。昭和6年(1931)2月5日に一次試験が行われ、応募者141人から10人に絞られました。3月に二次試験が行われた結果、女学校卒業予定の3人が日本初のCAとして採用されました。

めでたく決まったエアガールですが、実は裏話があります。

実はこの3人、翌月の4月には退職してしまいます。

理由は給料の安さ。給料は「フライト1往復あたり3円」だったのですが、1日一便として20日働けば月60円。いや、10日働いて30円ゲットでも、当時の女性としては十分。月給10~15円が相場だった当時の女性にしては、破格の給料だったはずなのですが…。おそらくですが、飛行機の性能も良くなく、給料に見合わないほど当時の空の旅は過酷かつ危険だったのでしょう。なにせ海軍パイロット養成学校が、「人類虐殺学校」と陰口を叩かれたほど死亡率が高かった時代でしたから。

 

それからエアガールの空白時代が続き、本格かつ大量採用となったのは昭和12年(1937)、国際線が就航し始めた頃でした。

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いずれも昭和15年(1940)前後、大日本航空のエアガールたちです。

 

また、空にガールあれば海にもガールあり。

この当時は船も重要かつ常用される交通手段の一つでしたが、そこに現れたのが!

 

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「マリンガール」でした。

彼女らは乗務員として船に乗り込み、客向けのサービスを行っていました。

 

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 こちらは昭和15年(1940)、琵琶湖遊覧船のガイドをする「マリンガール」です。

 

 

ガソリンガール

モータリゼーションといえば、戦後の昭和40年代を思い浮かべる人が多いと思います。高嶺の花だった乗用車が大衆化した時代です。

しかし、大衆化とは言い難かったものの、昭和初期にも小さなモータリゼーションが日本で起きていました。乗用車の増加で「渋滞」という言葉が生まれ、トヨタや日産自動車が生まれたのもこの頃です。

車の追加によって増えるもの、それはガソリンスタンド。もうこれでお察しでしょう。

 

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(1930年、女学生風ガソリンガール)

 

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(1935年、神戸市内のガソリンガール)

 

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(時期不明、和服姿のガソリンガール。和服はちょっとやりにくそうw)

 

そう、ガソリンスタンドの女性店員が「ガソリンガール」なのです。

しかし、世のオスどもはメスに弱いのは、人類がいくら進化しても変わらない法則。
「ガソリンガールが給油してさしあげるわよ♪ 窓も拭くわよ(ハァト」
と、美人な店員がいる所には車が殺到したそうな。

このガソリンガールはかなり人気と需要があった証拠に、上の番付では堂々の関脇に位置しています。

 

 

マネキンガール

今でいうモデルです。しかし、ただのモデルではありません。

デパートやブティックにあるマネキン。当然今は人形を使っています。

しかし、昔は生身の人間を使っていました。

 

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こんな感じです。

 

 

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これはマネキンガールの面接会場なのですが、作家の久米正雄(右端)が試験官をしています。

 

 

ショップガール

 

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(1935年、都内某デパートのネクタイ売り場のショップガール)

お店の売り子、女性販売員のことです。

 特に百貨店のショップガールは1,2位を争う大人気の職業で、想像通り「デパートガール」と呼ばれていました。

 

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(『75年のあゆみ』阪急電鉄編より)

屋上で営業前の準備体操をする、大阪梅田の阪急百貨店のデパートガールたち。

 

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採用試験には女性が殺到。セーラー服の女学生から妙齢の婦人まで、様々な階層、年齢層がいたことが伺えます。

 

デパートとくれば案内嬢。「ガール」はつかなかったですが、こちらも女性花形の職業でした。

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 (顔にあどけなさすら残る都内某百貨店の案内嬢。1931年)

 

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(1933年、白木屋の案内嬢)

やはりデパートの顔だけに容姿端麗、育ちの良いお嬢さんを選んだそうです。

 

スヰートガール

今で言う企業のキャンペーンガールです。 

 

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昭和初期に発展したものの一つに、広告宣伝があります。
それまでの広告宣伝は、新聞でデカデカと自己アピールするのが常でしたが、昭和に入ると「店頭販売」が盛んになりました。
森永製菓はそれに女性を採用。「スヰートガール」と名付けて全国のデパートなどでキャンペーンを行いました。

 

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採用条件は

”高等女学校卒以上の18〜20歳の健康な女性”

”近代的な感覚を有すること”

など全部で31カ条、モデル募集並みの厳しさです。それにもかかわらず昭和7年(1932)の第1回募集には600名の応募があり、第1期のスイートガール5名が誕生しました。

 

この「スヰートガール」第一期生の中には、のちに女優になった人もいました。

 

桑野通子

惜しくも若くして亡くなった桑野通子(1915-1945)もその一人ですが、

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スヰートガール時代の写真が残っています。写真右端が彼女ですが、まだ田舎娘風の(っても彼女は江戸っ子ですが)あどけない顔ですね。

 

 

マニキュアガール

昭和ヒトケタ女子に流行るもの。洋服日傘、ハイヒール、そしてマニキュア

モガの出現と共に生まれた「マニキュアガール」は、女性たちの爪にやすりをかけてお手入れをしたり、マニキュアを塗ったりと、今のネイリストと変わりません。ネイリストは最近生まれたトレンドのように思えますが、80年の歴史を持つ老舗(?)なのです。

 

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(当時の「マニキュアガール」)

マニキュアガールは百貨店の化粧品売場や、やはり当時最先端だった美容室のスタッフとしていることが多かったそうな。

 

大阪マニキュアガール

『アサヒグラフ』昭和7年(1932)5月4日号で紹介されていた、大阪の美容院で働くマニキュアガールです。名前は加藤田鶴子さんですが、「かとう たづこ」なのか、「かとうだ つるこ」なのかはわかりません。

 

1936年マニキュアの広告

昭和11年(1936)のマニキュアの広告です。かなりカラフルな色が揃っていますが、お値段は35銭。3銭でたい焼き、10~15銭でラーメンが食えた時代なので、美容のためとは言え35銭は一般庶民にはけっこう厳しい。

 

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(『エロエロ草紙』酒井潔より)

昭和前期の珍書『エロエロ草紙』(酒井潔著)によると、同じ頃のイギリスでは

「爪に絵を描く婦人があらわれ」

と書かれており、今のネイルアートもこの時代に生まれたような記述があります。

 

 

ゴルフガール

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昭和6年(1931)頃の『文学時代』(新潮社)という雑誌が出典の尖端ガールです。要は「ゴルフを楽しむ女性」ってことでしょう。今風に言えば「ゴルフ女子」ってことですね。

 

麻雀ガール

 「○○ガール」を調べていて、これがいちばん頭の上に「???」が飛び交いました。麻雀はわかるがそのガールって?

しかし、上の「番付」には上位に来る人気職業。一体なんじゃ!?と。

 

 

 

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(『アサヒグラフ』昭和5年7月16日号より)

ところで、麻雀が日本に広まったは昭和初期のころです。昭和4~5年には麻雀がブームとなり男性だけでなく女性も牌を片手にジャラジャラやっている姿が雑誌に残っています。

写真を見ていると捨て牌がバラバラなので、現在のリーチ式ではなく純中国式ルールだったのでしょう。


麻雀にハマった有名人といえば作家の菊池寛。得意の筆で麻雀の面白さを新聞や雑誌を通し世間に広めました。戦前の麻雀ブームは、もしかして菊池が発火点かもしれません。

菊池が社長の文藝春秋社は、社長が社長なので仕事中の麻雀と将棋OK。しかも勤務時間に含め残業も可。

これはさすがに業務に支障をきたし中止命令が出たのですが、このお触れで

「や~め~て~!」

といちばん悲鳴を上げたのは社長の菊池だった・・・。
という、ウソのような本当の話があります。

 

戦前麻雀ブーム

(『アサヒグラフ』昭和5年7月16日号より)


麻雀の広まりと共に、麻雀をする場所である雀荘も増え始めました。昭和初期は雀荘ではなく、「麻雀倶楽部」だったようです。
麻雀ガールとは雀荘で働き、飲み物を運んだりお客様の麻雀の相手をする女性従業員のことだったりします。そんな職業が成り立ったほど、麻雀は日本中でブームになったということでしょうね。

 

麻雀ガールって・・・本当にそんなものあったのか!?と疑う人もいるでしょう。
そんなこともあろうかと、こんな資料を用意しました。

 

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『最新婦人職業案内』(婦人就職指導会編)という、昭和8年(1933)に発行された本の「麻雀ガール」の概要です。昭和初期版「とらばーゆ」にちゃんと書いている、れっきとした職業だったのです。

 

ちなみに、玉突き(ビリヤード)場にも女性がおり、スコアを採ってくれたり人恋しい男性プレイヤーのお相手をしてくれたそうです。これは、上の番付左側の上位にいる「ゲーム取り」という職業です。ゲーム取りって変な名前ですが、「ゲーム(のスコアを)取る(女性)」ということでしょうね。

 

大正末期昭和初期ゲーム取り

ビリヤードに興じる人の傍らで、微笑みながら座っている彼女。これが「玉突きガール」こと「ゲーム取り」です。

しかし、「玉突きガール」と呼ばれていると…なんだか勘違いしそうなオスが数匹出てきそうです(笑

 

個人的に麻雀は三度の飯より好きなのですが、もし麻雀ガールが今でも雀荘にいれば…毎日仕事帰りに行きますよ。麻雀ができる上に女の子とトークができる、激烈に復活希望です(笑)

  

レビューガール

劇あり踊りあり歌ありの、フランス生まれの舞台を「レビュー」と言います。日本で最初に取り入れたのは宝塚歌劇団。タカラヅカは今でも日本レビューを牽引している先頭集団ですが、「レビューガール」とくれば宝塚や松竹のような歌劇団の女性じゃないかと想像できます。

私もそう想像したのですが、どうやら違うよう。

レビューに出演することはするのですが、主役ではないその他大勢の人のこと。「通行人A」という感じですかね。

それでも番付の上位に来るのだから、端役でいいから華やかな芸能界にいたい、という乙女心なのでしょうか。

 他にも、大部屋女優のことを「ワンサガール」と呼んでいたそうです。人が「わんさか」いるから「ワンサ」…なんちゅー単調な名付け方や。

 

ヅカガール

「ヅカ」とは、宝塚歌劇団用語で「宝塚」という意味になります。「ヅカファン」になると宝塚ファンのこと。
これで察しがつくように、「ヅカガール」はタカラジェンヌのこと。

 

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(1942年『宝塚年鑑』より。当時の花組のスターたち)

タカラジェンヌって、昔からタカラジェンヌじゃないの?確かにタカラジェンヌという名称自体は、研究者によると昭和12年(1937)の雑誌にすでに登場し、言葉の生みの親もわかっています。

しかし、タカラジェンヌの名が世間一般に浸透したのは、1970年代の「ベルばらブーム」から。それまでは「ヅカガール」が一般的でした。
宝塚市生まれ、かつ宝塚の熱狂的ファンに手塚治虫がいますが、たぶん1980年代のエッセイで「ヅカガール」を使っていました。今でも古参のファンは「ヅカガール」と言う人がいるのだとか。

しかし、創始者の小林一三は「タカラジェンヌ」推しで、「ヅカガール」の呼び名をあまり気に入らなかったという話が残っています。

 

 

エキストラガール

 「エキストラ」はその他大勢という演劇用語でもあるので、これもそれに関連するかと想像するでしょう。
実は、全く違います。
男がどこそこへ行きたいと言えば黙って同伴。それがカフェーでも連れ込みホテル*1でも砂風呂*2でも、どこへでも行く女のこと。
要は「尻軽女」「淫乱女」、ストレートに言ってしまえば◯ッチのことです。

 

 

 スピーキングガール

 戦前には、「カフェー」と呼ばれる飲食店がありました。カフェーと言っても喫茶店ではなく、洋食やアルコールも出すレストランの一種で、女給さんと呼ばれる女性従業員が客の横につき、話し相手になってくれました。

そんなカフェーの女給さんですが、大学生などインテリ男性の話し相手としては役不足。なにせ彼女らは小学校をかろうじて卒業できた、自分の姓名を漢字で書けるかビミョー(たぶん無理)な学歴が多かったから。
女の子と気軽にトークしたいけど、知的レベルが違いすぎる…そんな欲求不満の男性のお相手をするのが、スピーキングガールです。
内容は、インテリ男性と文学や哲学、政治や社会情勢についての話し相手になるだけ。
当時の解説本には「これは職業婦人と言えるのだろうか」と?マークをつけていますが、女学生のバイトとしてはピッタリだったそうです。

  

バスガールと市電ガール

番付のトップクラスに、「女車掌」という名称があります。

今はワンマンが主流ですが、昔のバスは車掌も乗り込みきっぷの販売などを行っていました。バスの女車掌は、やはり当時の流行か「バスガール」と呼ばれることもありました。

バスガールの始まりは、大正13年(1924)の東京市バスでした。関東大震災で打ちひしがれた東京に活気を取り戻そうと、殺風景な乗り物に「花」を添えるべく新設されました。

ところが、募集人数170人に対し、希望者は70名ちょっと。予想外の不人気に東京市はそんなバカなと頭を抱えたそうです。この5年後には寝てても志願者が殺到する時代になったのですが、東京市の目は少しだけ、時代の先を行き過ぎたようです。

 

その「5年後」の昭和5年頃から、バスガールが大ブレークします。

 

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コスプレ大会の写真ではありません。昭和3年(1928)、大阪市営バスの女車掌です。

 

 

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男装の麗人のような出で立ちですが、ちょうどこの時期は、川島芳子に歌劇団の男役の「男装の麗人」が流行ったので、この奇抜すぎる制服は流行に乗ったのかもしれません。制服の色もカーキ色に赤のネクタイと、「男装の麗人」を意識している感があります。

 

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(『75年のあゆみ』阪急電鉄編より)

同じ大阪の民間バス会社、通称「青バス」のバスガール。「青バス」に対し市営バスは「銀バス」と呼ばれ、両者は血で血を洗う、壮絶な客の取り合いをしていたライバルでした。

 

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(『白線帽の青春 西日本編』より)

 

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バスガールは内地を越え、外地へも飛び出しました。

1930年代、日本統治時代の台湾台北のバスガールです。おしゃれな洋装に身を固めていますね。

 

 

「ガール」はなぜか市電と相性がよかったらしく、バス以上に各都市の市電が積極的に女性を採用していました。市電に特化したネーミングはないようですが、ここでは敢えて「市電ガール」という新語をつけてみます。

 

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1936年(昭和11)、京都市電の女車掌たちの実習風景です。

 

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昭和12年(1937)、東京市電のガールたち。写真からでもわかる気品と市電ガールとしての矜持を持つ真ん中の女性に、思わず目が向きました。他の4人が腕章をつけていますが、立ち姿がだらしないので、たぶん「研修中」と書かれた新人ではないかと。真ん中の彼女はOJT係の先輩でしょうね。

東京市電嬢は「サービスガール」と呼ばれていました。 

 

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昭和10年(1935)、神戸市電ガールです。

濃緑と薄緑の上下の制服に、斜めにかぶったおしゃれな制帽。機能性とおしゃれを両立させたモガスタイルは、さすがは神戸だね~と大評判。遠く東京から見物に来たり、車内でプロポーズされることもあったそうです。

なお、「市電ガール」は他にも、名古屋や長崎、広島などにもおり、全国規模で広がっていました。

 

もっと珍な画像を。

 

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(『阪急電車駅めぐり 神戸線』より)

電車の女車掌です。

 

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日本で初めて女性車掌を採用したのは、う○こ色電車でお馴染みの阪急電鉄。昭和13年(1938)のことで、阪急電鉄の公式社史にも、

「どうだ、我が社が日本初だぞ!」

偉そうに誇らしげに書かれています。

 

と言いますが!

 

参宮急行電鉄の女性案内嬢

昭和7年には参宮急行電鉄(元近鉄大阪線)の急行列車に女性乗務員がいたりします。

出典は『アサヒグラフ』昭和7年7月号なので、論より証拠。文句あるなら朝日新聞社まで。

が、彼女の肩書は「乗務宣伝員」であって、沿線の観光名所を紹介するPR嬢。車掌ではありません。

彼女いわく、男の酔っぱらいに冷やかされたり絡まれたりすることがあり(当時はセクハラなんて概念はないし、働く女性自体が動物園のパンダ状態)、乗務後一人で泣くこともあるという、生々しいインタビューもあります。

 

阪急の車掌の話に戻ります。

彼女らの肩書は「補助」だったものの、45名の大量採用からしても将来の主力と計算してのことだと思います。ただの補助なら「若干名」でしょう。

しかし、はやり時代が悪かったか、世の中は戦争に入ってしまい、阪急の試みはあまり知られずに終わりました。

市電車掌はすでに女性が当たり前なほど浸透していたものの、都市間を結ぶ郊外電車となると、戦争中の昭和19年以降を除いて阪急電鉄だけでした。

 

ストリートガール

これは売春婦、特に街角で客寄せをする街娼の洒落た言い方です。

 

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『モダン新語辞典』(1931年編)にも新語として記載されています。

 

 ステッキガール

上述の「ストリートガール」の亜種で、銀座の大通りを歩く独身っぽい男性に、
「どう?私と一緒に歩かないこと?新橋まで50銭でいいわ」
と色っぽい声で男性の横につく女性のことです。
歩くだけでなく、
「ねえ、そこの宿までどう?2円でいいわよ」
と男を誘惑、ホテルに誘っていました。その姿が男性の持つステッキのようだということで、「ステッキガール」と呼ばれました。

ただし!
この「ステッキガール」、実際に見た者は誰もおらず、「口裂け女」のような都市伝説です。おそらく、雑誌か新聞のデタラメ記事に尾ひれがついたものなのでしょう。
しかし、当時の人はほぼ信じ、「ステッキガール」に会えるかなと銀ブラを繰り返す紳士諸君が多かったそうな。

 

円タクガール

「円タク」とは、あるエリア内なら1円均一で走るタクシーのことで、東京や大阪など都市部に走っていました。

タクシーの運ちゃんが売春の仲介役となるのは、ほぼ世界共通。「円タクガール」はポン引き役の運ちゃんとグルになり、男性客を誘惑する女性だそうです。
客がタクシーに乗ると、助手席にはなぜか妖麗な女性が。
女性は後ろを振り向き、
「あらお久しぶり、あたしのことお忘れになって?」
とウインクし、
「このままホテルへいかが?○円でいいわよ」
などと猫なで声でささやく。こんな感じだそうな。

しかし!
実は、これも都市伝説。当時のエロ評論家は、三流作家の妄想小説と切り捨てています。

ところが、これを妄想と捨て置くには惜しい事情もあります。
その話、聞きたい?うーん、要望があれば書きます。

 

マルクスガール

1920年代は「左」が一世を風靡した時代でした。学生・インテリの間では「左にあらざる者、人にあらず」的な大流行。小林多喜二などの「プロレタリア文学」も大流行りとなりました。

そんな社会主義思想にかぶれ、理屈だけは一人前の学生を多少侮蔑した、「マルクスボーイ」「エンゲルスボーイ」という言葉がありました。

「マルクスガール」はその女性版で、またの名を「エンゲルスガール」。ロイド眼鏡をかけ社会主義の本を片手に持ち、常人にはわからない理屈をペラペラとしゃべる左翼かぶれインテリ女性を揶揄したものです。

 

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戦前の某新聞に「マルクスガール」として紹介されていた写真です。画質が不鮮明で明確ではありませんが、小脇に本のようなものを抱えています。それが社会主義の本なのでしょう。

 

その他

食堂ガール

番付の横綱を張っている「ウェイトレス」は説明不要ですが、当時の雑誌を調べてみると直感どおり「食堂ガール」と呼ばれていました。

 

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昭和12年(1937)、大阪難波高島屋の地下食堂『難波グリル』の食堂ガールたち。

 

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(『神戸100年写真集』より)

昭和11年(1936)にオープンした、神戸の阪急三宮ビル(現阪急神戸三宮駅)のフルーツパーラーのウエイトレスです。阪急直営なので、制服は百貨店のデパートガールと共通のようです。

 

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1930年代の列車の洋食堂車です。格好だけならまるでメイド喫茶です。

彼女らは総称として「(食堂)給仕」のような呼び方をされましたが、ウエイトレス、または食堂ガールはこの時代に生まれたモダンな呼び名でした。

 

テケツ

番付には一つ、不思議な職業が書かれています。

 

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この「テケツ」というものが、何者か理解に苦しみましたが、ググったらあっけなく答えが出てきました。

「テケツ」とは英語のticketsのことで、劇場などの切符売場の売り子、あるいは入り口で切符を切る人のことでした。なんや、ややこしい名前つけやがって。

 

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要するにこういうことです。これは昭和8年(1933)、新宿の落語の殿堂、末広亭の「テケツ」です。

この「テケツ」もやはり、「テケツ・ガール」と呼ばれたことがありました。

 

そして最後に。

 

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(昭和6年(1931) 雑誌『文学時代』より)

当時の雑誌の「尖端ガール盛り合わせ」です。

右上から時計回りに、「ゴルフガール」「美容師」「ガソリンガール」「マリンガール」です。「ガール」はつかないけれど、美容師が当時最尖端の職業だったことがわかります。右下の美容師は、美容師の草分け的存在吉行あぐりです。

 

 

幻に終わった言葉。「オフィスガール」

 事務所などで働く女性一般職も当然、戦前に存在していました。

 

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昭和11年(1936)、堀野正雄(1907-1998)というプロカメラマンが撮影の映画会社の事務員さんです。格好だけでなく知性も併せ持つ「戦前版キャリアウーマン」。言うなれば「スーパーモガ」といったところか!?

しかし、彼女らに対する呼び名は意外にも、戦前を通してありませんでした。

・・・と思ったのですが、戦前には「オフィスガール」という言い方があったようです。

 

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昭和15年の『アサヒグラフ』からですが、和服族と洋服族が分かれてあたたかい冬の陽のもと日向ぼっこという構図です。この写真の説明には「オフィスガール」と書かれており、戦前からそういう呼ばれ名があったことがわかります。

 

で、戦後になりまず付けられたのが、「サラリーマン」の女性版の「サラリーガール」。美空ひばり主演の映画にも出てきます。しかしダサかったか長続きせず、昭和32年(1957)あたりから「ビジネスガール」という呼び名が広まったのですが、後者は英語で売春婦を指す俗語だという指摘が入りました。

そこで女性雑誌が、新しい呼び名を募集することになりました。

その結果第一位に選ばれたのが、「オフィスレディ」、つまり「OL」です。

この言葉はめっきり聞かなくなりましたが、この「OL」、実は第一位ではなかったという話があります。

本当の第一位は「オフィス・ガール」。これで異議なし、会議はまとまりかけました。

しかし、当時の編集長が待ったをかけました。

「40代50代の女性を『ガール』って呼ぶなんて俺イヤだ」

女心理解力ゼロの編集長に毛嫌いされた結果、3位か4位くらいだった「オフィスレディ」が何階級特進で採用されたと。

この話、どこかで聞いたことがあるんですけどねー。

 その真偽はさておき、戦前のモダンが既に過去となり、高度成長期に入っていても、「ガール」の尖端さは当時の若い女性たちに残っていたのかもしれません。当時の「OL」たちは、街中を闊歩する戦前の「オフィスガール」たちを見て、明るい女性の時代をイメージしたのかもしれませんね。

 

==興味があれば、こんな記事も如何でしょうか?==

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

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parupuntenobu.hatenablog.jp

*1:ラブホテルのご先祖様。

*2:名目上は風呂場ながら実際は売春を行う場所。東京に多かった。

桂歌丸師匠と言語文化

桂歌丸

2018年7月2日、落語の大家桂歌丸師匠が亡くなりました。

決して身体が強い方ではなかっのですが、まだまだ落語をやるという気概は充満していたので、東京オリンピックまでは持つだろう。そう思っていた矢先のニュースでした。

歌丸師匠といえば『笑点』。私も嫌なことがあった時は大笑いして、嫌なことをすべて忘れていたという意味では、大恩がある人でもあります。

が、それは仮の姿。本当は落語という日本の唯一無二の芸能の看板を背負った大御所。それだけに近頃のお笑いのやそれを見る視聴者、出演させるテレビ側の「低レベル化」に対し、厳しいことも言っていた方でした。

また、私にとっての歌丸師匠は、遊郭を知る最後の生き証人という一面もありました。彼は横浜真金町の出身で、生涯そこから離れることはありませんでした。

真金町と言えば、横浜最大の遊郭があったところ。歌丸師匠の祖母は「真金町の三大ババア」と言われたほどの女傑で、歌丸師匠は遊郭の女たちに「若様」と呼ばれ、大妓楼のボンボンとして何不自由なく育ちました。

『笑点』をはじめて見たのは、おそらく小学生の頃、35年前くらいだと思います。その時が歌丸師匠の初見だったのですが、言動の端々に出る「女らしさ」「色っぽさ」に、
「この人オカマちゃうんか!?」
小学生なりの、ストレートな、歌丸師匠の第一印象でした。
彼の人生を見ていると、おそらく遊廓という異空間、いや女の世界で生まれ育った特殊性を身につけた結果なのかなと。

 

歌丸師匠=笑点のおじいちゃんというイメージしかない方は、歌丸師匠のこんなすさまじい芸を見たことがあるでしょうか。

 

www.youtube.com

「化粧術」という小咄で、歌丸師匠若かりし頃の伝家の宝刀です。

彼は古今亭今輔師匠に入門したのですが、落語の方向性の違いからいったん破門され落語界から身を引いています*1。「化粧術」は破門後、化粧品のセールスマン時代の女性の身支度を元にした・・・表ではそうなっています。

しかし、仕草を見てもらうとわかりますが、明らかに日本髪を結っている姿・・・おそらくですが、「若様」と呼ばれていた頃に、遊郭の妓楼で見た遊女の身支度をモデルにしているのではないかと。もし歌丸師匠に会えたら是非この質問をぶつけたかったのですが、それもかなわぬまま逝ってしまいました。

遊郭と関わりがあった人は、自分と遊郭の関係をひた隠しにします。街を歩いているだけで警察を呼ばれたほど警戒していたり、カメラを持っているだけで水をかけられたり、街の人と遊廓の話を切り出すと、

「今すぐここから出て行け!」

と怒鳴られたことも何度かありました。遊廓だったことは黒歴史にしたい、恥部を見せたくないという地域側と、

「事実は事実である以上、公にすべき。なぜならそれは事実だから」

(ただし、事実に対する善悪は絶対につけない)

という私の歴史観と衝突することは、今でもあります。

歌丸師匠は逆に、遊郭育ちであることに誇りすら持っていました。落語のマクラがそのまま自身が見た遊郭の話になることも珍しくなく、人買いの話など生々しすぎて震えがくるほどでした。その分、彼の廓噺(くるわばなし)はとてつもない迫力がありました。*2

「遊郭も日本の文化の一つじゃないか。何が恥ずかしいんだい!」

歌丸師匠は遊郭出身であることを隠す人たちを叱りつけるように、一人胸を張って伝えているようでした。

 

 

歌丸師匠

歌丸師匠は去年、一芸人としてこんな言葉を残しています。

 

「言葉というのはですね、その国の文化なんですよ」

 

落語に関しては、私は観客の方に徹し、聞いて笑っている方です。文章センスを上げたいというブロガーは多いと思いますが、そんな人は落語を聞いていれば自ずと感覚が研ぎ澄まされます。

外国語を勉強している一人として、この言葉は非常に感銘を受けました。

言葉とはその国、民族が数百年、数千年間蓄えてきた文化のエキスです。そのエキスを飲み、相手のものの価値観・考え方を理解するのが、外国語の勉強というもの。キザな表現をすれば語学道です。語学は就職のためのアクセサリーでも、ペラペラになってチヤホヤされる道具でもありません。

ただし、相手の価値観の深いところまで理解できればその語学は一生ものの財産となることは間違いありません。

そしてもう一つは、日本の文化を広めていくこと。

文化は英語で "culture"ですが、元は「耕す」という意味のラテン語です。言葉を使って日本文化を耕していくのも語学の勉強の一つ。

「日本語を大切にして欲しい。特に(やたら端折りたがる)若い人は」

歌丸師匠は事あるごとに訴えかけていましたが、語学の専門家は外国語の使い手だけでなく日本語の担い手でもある。言い換えれば「噺家」として落語とは同業者なのかもしれません。

外国語を勉強している人、またこれから外国語を勉強したいと思っている人は、歌丸師匠の血を吐くような「遺言」を頭に入れて勉強して欲しいなと思います。これを胸に抱いて語学道に歩むだけでも、歌丸師匠の遺志を十分に受け継いでいるのだから。

 

心よりご冥福をお祈り致しま・・・せん、私は。噺家は身が滅んでも後世の脳内でいくらでも再生されます。身は滅んでも我々の中で永遠に、好きなだけ再生される存在となっただけ。我々の記憶の中では、逝ってはしまっても死んではいない。それでこそ噺家としての本望。そう思いませんか。

*1:のちに兄弟子の桂米丸師匠門下となり復帰、「歌丸」を名乗ります。

*2:廓噺とは江戸落語のジャンルの一つで、吉原遊廓を舞台にし遊女が主役の落語。難易度が非常に高く、演じ手も聞き手もかなりの教養を要する上級古典落語。歌丸師匠はその第一人者でもあった。

映画『太陽の墓場』の舞台を歩く【昭和考古学】

 

釜ヶ崎あいりん地区

釜ヶ崎・・・事情を知らない人は、名前を聞いただけで恐れおののく(?)、あのあいりん地区です。


よそ者が入れば身ぐるみ剥がされ、女はシャブ漬けにされて東南アジアに売り飛ばされると恐れられた地域の特質か、現在でも言われたい放題言われています。
その昔は、確かに生半可に近寄れるものではない魔気を発していましたが、今はかなり毒気を抜かれた街になりました。たとえるなら、去勢された猛獣か。
ただし、好奇心だけで人にカメラを向けるのはやめておいた方がいい。

 

しかしながら、ここは「B級歴史学」、「昭和考古学」のネタとしてはうってつけの地域。表層を抜けて深く掘っていくと面白いものが見つかるのではないか。いや、必ず見つかるに違いない。
虎穴に入らずんば虎子を得ず。敢えて「ドヤ」と呼ばれる簡易宿泊所に泊まり、同じ目線で釜ヶ崎を見てみようと。最近は、「釜」のドヤに泊まるのがマイブームになっています。

「釜」自体を考古学するのはまだ先になりそうですが、今回は一本の映画を通した釜ヶ崎と大阪を「ブラのぶ」してみようかと思います。

 


今から約60年前の昭和35年(1960)、釜ヶ崎を舞台にした一本の映画が上映されました。

映画の名前は『太陽の墓場』

 

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監督は大島渚

私が物心ついた時分には、大島渚監督といえばTVタレントとしての顔が強く、

「『監督』と呼ばれとるけど何の監督や?」
と、幼い頃はいぶかしみながらテレビを見ていました。
今回が大島渚監督の映画の初観です。もう亡くなっていますが、今回初めて認識しました。この人、本当に映画作ってたんだと。

 

 

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映画のポスターです。

「総天然色」って何やねん!?と思ったのですが、たぶん「フルカラー」ということでしょうね。映画史には疎いですが、昭和35年だと映画と言えどもカラーの方が珍しかったのかしらん。

 

映画のストーリーを超手抜きに説明すると、釜ヶ崎に住む様々なアウトローたちが繰り出すシリアスな人間模様であります。
映画でのキーワードを羅列していくと・・・
「売血」「売春」「ポン引き」「愚連隊」「通天閣」「ルンペン」「日雇い労働者」「バラック」
当時の釜ヶ崎の代名詞的用語が勢揃いです。なんちゅーところやねんと、まともな神経の持ち主ならここでドン引きです。
映像を見るとさらにビックリします。

 

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戦災の痕がまだ残っているところは残っている昭和30年代とは言え、ここはホンマに日本なのかと。外国のスラムで撮影されたのかと思いきや、ところがどっこい大阪市内のど真ん中。

 

よく似たタイトルに、『太陽の季節』があります。
1955年(昭和30)に、石原慎太郎氏によって書かれた小説で、裕福な若者のちょっとやんちゃな物語。当時は売れに売れ芥川賞も受賞。「太陽族」という若者も出現した社会現象となり、翌年に映画化もされました。

対して数年後に上映された『太陽の墓場』は、売春・売血、そして殺人・・・生きていくためにはなんでもあり。社会のゴミの中に生きるゴミのような若者たちの物語。

同じ若者の青春映画なのですが、『季節』が陽なら『墓場』は陰。同じ『太陽』と名がついた映画でも、背景は真逆なのです。大島監督も、おそらくそこに焦点を当てたに違いない。

 

なお、『太陽の墓場』の詳しいストーリーは、以下のリンクをご覧下さい。

movie.walkerplus.com

 

 

映画の出演者たち

映画はヒロインの花子を中心として動きます。花子は「女」を武器に日銭を稼ぎ、己の利害のためなら敵とも手を結ぶ一匹狼の女性。実の娘にさえ手を出そうとする、天性の助兵衛の父親と暮らしています。

 

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花子役は炎加世子という女優が演じています。予告編には新人と書いてあります。

1941年生まれとWikipedia先生いわくなので、当時なんと19歳。釜ヶ崎の住人を直接スカウトしたんじゃないのかというほどの毒々しさ、泥水をすすりながら生きる「釜」の女性のたくましさを演じきっています。

ところで、劇内では花子がタバコ吸ってるシーンが所々で出現しますが、20歳未満は吸ったらあかんのとちゃうのん?今ならワイドショーの餌食となって監督謝罪会見不可避ですが、昭和30年代なのでそこらへんは、

「まあいいか~」

で済んだのでしょうね。

 

 

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もうひとりの主人公、武役は佐々木功(いさお)

彼もこの映画がデビュー作とのことなので、フレッシュな新人です。リーゼント崩れの髪型で決めた、甘いジャニーズ系の顔ですね。

 

で、この名前と顔で、

「もしかして、あの人?」

とピンと来た方、いるかもしれません。

 

その直感は正解!

彼の本業は歌手なのですが、今やこの御方は!

 

 

 

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「アニソン界の大御所」、ささきいさお氏です。

名前を知らなければ、『銀河鉄道999』(TV版)、『宇宙戦艦ヤマト』の主題歌を歌っている人と言えば、全員膝を叩くでしょう。

ちなみに、劇中でも『流氓(ルンペン)の歌』というものを披露していますが、やはり本職、ドロドロとした空気が清浄されるような声です。次に挙げる俳優の歌のヘタクソ具合とあいまって、さらにきれいに聞こえる(笑)

 

 

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もうひとりの映画の主役級である、愚連隊のボス信(しん)は津川雅彦。この人は説明不要でしょ。

血の気の多いヤンキーですが当時は20歳、ギラギラしていて若い。私が言うのもなんですが、微笑ましいほど若い。

津川雅彦と言えば、大河ドラマの徳川家康のようなずる賢い狸親父的キャラが私の頭の中にこびりついているので、こんな若い時期があったのね~と(そりゃそうや)。

 

映画にうるさい人達の間では、『太陽の墓場』に対しこんな意見があります。
「大阪が舞台なのに、みんな大阪弁ヘタクソ!」

 

映画と言ってしまえばおしまいですが、ここで敢えて弁護を。

釜ヶ崎は確かに大阪ですが、住人の出身は北海道から沖縄まで全国規模。「ルンペン最後の掃き溜め」と化したからこそなのです。現在でも釜ヶ崎の生活保護受給者の「大阪市出身と府下出身と非大阪人の割合」って、実は3:1:6です。*1 九州出身だけで7割を超え、大阪は九州の植民地ちゃうぞ!という市政への批判もあった時期もありました。
釜ヶ崎の歴史背景がわかっていれば、イントネーションがヘンテコな関西弁でも映画の背景としては特におかしくない。

さらに現実世界の問題を書くと、映画自体2ヶ月という超短スケジュールで作ったものなので、大阪弁をトレーニングする時間もなかったのでしょう。

 

ところが、津川さんの関西弁はネイティブが聞いても全く違和感なし。むしろ、あの津川雅彦がスラスラと関西弁しゃべっとるやんという、逆の違和感が。

そこに疑問を感じてWikipedia先生に教えてもらったら!

なんや、兄貴ともども京都出身やんかー。

 

 

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他の有名どころでは、「北の国から」などで有名な田中邦衛が、盗品を売って日銭を稼ぐ盗賊役として出ています。

釜ヶ崎などでは、「盗み」が職業として成り立っていました。泥棒を生業としている人が貧民街に少なからずおり、組織的に盗みを働いていたのです。釜ヶ崎とは限らないですが、戦前の大阪市調べの貧民街の職業データに、「泥棒:ん%」と書いてましたから…いやそれ捕まえろよと。

盗みはいけないって?そんな常識効かぬ通じぬ。それが魔街釜ヶ崎クオリティ。

 

 

この映画には、ちょっと変わった人も出ています。

 

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ジャイアント馬場に似ているこの人、名前も強烈ですが顔も一度見たら忘れられないレベル。

この人は羅生門綱五郎という元大相撲力士。黒澤明の『用心棒』でその異様な存在感が話題となり、映画マニアの間では有名なんだそう。

 

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劇内での花子(炎加代子)とのツーショットですが、彼女は当時の女性としてはかなり大きい162cm。それでも顔ひとつ分以上の差がありますね。羅生門の身長は203cmだったそうです。

この人のもう一つ特異なところは、本名を卓詒約(たくいやく)といい、台湾生まれの台湾人なところ。力士時代の四股名は「新高山一郎」。四股名からして納得ですが、台湾人力士は相撲史的に非常にレア。彼を入れて過去3人くらいしかいなかったはずです。

しかし数年後、羅生門は何故かプッツリと消息が途絶えてしまいます。Wikipedia先生でも「生死不明」とされているのですが、当時の台湾情勢のこと、もしかして陰で政治活動に絡んで特務(秘密警察)に…の可能性もあります。

 

 

そしてもうひとり、すごくレアな人がいます。

 

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右端の永井一郎って誰かわかりますか?

(上の画像の右下のタイトルは、単に私の記入ミスです…スルー推奨w)

 

 

 

 

え?わからない?

 

 

 

 

 

 

 

 

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ばかもん!!

 

あの世から波平さんの怒声が聞こえてきそうです。

 

永井一郎って波平さんの中の人です。

永井は「ヤリ(香車)」というあだ名のルンペン役なのですが、

 

 

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赤矢印のどちらかなんですよね・・・。でも、

 

 

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この公式プロフィールの顔のイメージが強すぎて、確証が持てません。

永井は豊中市出身の大阪人であり、アニメ『じゃりン子チエ』ではネイティブの大阪弁で演技してます。また、現時点でわかっている限り、これが彼の映画初出演でもあります。当時29歳。

 

声優という職業は、そもそも日本が発祥です。しかし永井もそうですが、アニメや映画の吹き替え創世記から活躍していた声優は皆、舞台を中心とした劇団所属の俳優でした。

俳優と声優、現在はほぼ分業されていますが、古い時代からの声優はみんな劇団員。今回の永井一郎の例も、

「声優さんが映画に出てる!」

ではなく、そもそもこっちが本業。元はみんな俳優女優、いや今でもそうなのです。

 

 

『太陽の墓場』の現代を歩く

 

映画では、当然の如く昭和30年代当時の釜ヶ崎が映像として出てきます。
一部セットを作っているものの、ほとんどはリアルの釜ヶ崎を利用しています。
その姿は、今にも壊れそうなバラックが立ち並ぶ、圧倒的なスラム力。映像から悪臭がただよって来るような、不潔・不良・不道徳の三拍子。
当時のリアルな映像がドブ川なら、今は四万十川の清流。同じ場所とは到底思えない。

今の釜ヶ崎なら全然住めますが(物価が1ランク安い)、昭和30年代の釜ヶ崎に住めと言われたら、全力で首を横に振ります。おそらく、今でも残る釜ヶ崎のスーパーダークなイメージは、昔々のものを引きずっているだけなのでしょうね。

 


通天閣

 

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現在の二代目通天閣は、1956年(昭和31)に建てられました。つまり映画の通天閣は築4年以下だった、まだできたてホヤホヤの時の姿です。

通天閣自体は当時から全く変わっていませんが、周囲の風景は当然の如くすっかり変わっています。



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このシーンも、どこか皆目検討もつきません。

しかし、昭和30年代の大阪の下町がどんな雰囲気だったのか、映画の映像が伝えてくれている気がしてなりません。

  

 

鉄道交差点のロケセット

『太陽の墓場』のすごいところは、当時の釜ヶ崎を掛け値なしで、ほぼそのまま使っていること。当時はかなり冒険だったと思いますが、そこを大胆に使ったのもまた大島マジックか。

しかし、セットは若干作っているようです。

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田中邦衛さん演じる泥棒稼業のルンペンが、盗品を抱えて走ってくるシーン。主人公の花子の家もここあたりにあるという設定ですが、これはロケセット。上の画像の木の柵と背後にある盛り土は関西線、今のJR大和路線です。 

 

実は、『太陽の墓場』は本編の他に、予告編の映像が幸いYoutubeに残っています。本編で使われなかっただろう映像も使われているのですが、そこにセットが映っていました。

 

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国鉄関西線と南海電車が交わるところを走る汽車のシーンから、

 

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カットが切れることなくこのセットが設けられた場所へ移ります。ロケを見ている野次馬、カメラマンなどのスタッフも見えます。これで場所は確定。

どんな場所だったのかは、タイトル文字が邪魔でよく見えませんが、本編では別角度からの映像もあります。

 

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手前がロケセットで、奥はおそらく本物のスラム街。コンクリートの壁は南海電車の高架です。

 

 

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ロケセットがあった場所は、ここで間違いありません。

 

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セットが作られた場所は2018年現在、このとおり。写真正面、今は道になっている部分にセットが造られていました。関西線との線路の境界線にあった木の柵は、今は金網になっています。

 

ちなみに。

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上に挙げたこの汽車の画像ですが、なんの考えもなくTwitterにアップしました。するとこれは「珍」だと「車両鉄」というジャンルの鉄道ファンが食いつき、イイネ3,000、リツイート2,000の花火大会となりました。何故そんなにバズったのか。理由は別記事にて。

 

 

地下鉄動物園前駅

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映画では、地下鉄の駅も出てきます。ある試みのために、釜ヶ崎中に顔が利く花子が駅周辺のルンペンをかき集めているシーンです。
釜ヶ崎にある地下鉄の駅と言えば、動物園前駅。しかし、駅を上がっても動物園はなく、むせるほどの大阪臭がたちこめる「釜ヶ崎前」です。地理的に言って「釜ヶ崎」とつけられるべきなのですけどねー。

改名の話は、あったことはあったそうです。

「動物園前って名前ダサい。名前変えない?」

という話が大阪市交通局かどこかで挙がった時、反対派が一言。

「なら『釜ヶ崎』にしまっか?」

この一声で改名の話はなくなったという話を、風のウワサで聞いたことがあります。

それほど「釜ヶ崎」はNGワード。「あいりん地区」という、ネーミングセンス意味不明の名前に変えさせられたのも、「臭いものには蓋をしろ」の行政版です。

 

 

 

それはさておき、映画に映った地下鉄の出口はどこか。

 

 

 

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 2018年現在、映画の入口は「動物園前駅③出口」として健在です。壁面タイルなどは取り替えられていますが、外観は変わっていません。
駅の背後にある電話ボックスも、今は3台に増えていますが位置は変わっていませんね。

 

この時のシーンには、駅へ通じる階段も映っています。

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 階段の上に、地下鉄の始発・終電が書かれています。御堂筋線の「梅田行」と「あびこ行」と書かれているのですが、ここからわかることは、

・北は梅田までしか開通していない(新大阪までの開通はこの4年後)

・南はあびこまでしか開通していない(なかもずまでの延伸はもっと後)

・堺筋線がない(未開通)

 

この映像でもう一つ、わかったことがあります。

『太陽の墓場』の全国上映は、昭和35年(1960)の8月9日です。対して御堂筋線があびこまで開通したのは、年7月1日。ここから映画の上映が、1ヶ月ちょっとの間しか空いていません。

上にも書いたとおり、この映画は2ヶ月というド短期の製作でした。このカットは、あびこ開通直後の7月頭か中旬くらいに撮影されたのでしょう。かなり切羽詰った日程で作られたことを示す、さりげない発見です。

 

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2018年現在は、こうなっています。

 

 

阪堺線ガード下

愚連隊に入った武と彼の幼馴染。
幼馴染の方は数々の犯罪に手を染め、愚連隊と釜ヶ崎の空気に馴染んでいくのですが、根がやさしい武は馴染めず、悩みに悩みます。
愚連隊を何度も抜けては捕まり、仲間によるリンチ一歩手前でボスの信が庇ってお咎め無し、ということを繰り返しました。 

 

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この武、今でいう草食系男子です。無鉄砲な分ヤクザより質が悪い愚連隊のメンバーにしては、純粋で優しすぎるのです。やさしいことは良いことです。ただし、釜ヶ崎ではそれが命取りにもなりかねない。

男など「釜」のドブネズミかミナミのヤクザしか知らない花子は、そんな武を見下します。が、純粋さを保つ武の心に母性を感じたのか、何かと世話を焼き始めます。

花子に声をかけられた武は後ろを振り向き、その時阪堺線のチンチン電車が前を通り過ぎます。

 

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この場所は、釜ヶ崎に詳しい人なら説明不要なほど有名な「ガード下」。
現在は金網だらけで当時の風情を感じさせませんが、金網を除くとここは変わっていません。

 

「阪堺線ガード下」は、地下鉄堺筋線動物園前駅の9番出口のすぐ前です。丈が異様に低いガードは、まるで異世界へ続く大きな洞穴のように見えることもあります。

ガードを抜けると、そこは空気の流れすら変わる別世界。人によっては先へ入ることを本能が拒否し初め、人によってはこれが俺の求めていた釜ヶ崎だと狂喜する、「真の釜ヶ崎」

 

 

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釜ヶ崎には、「広義の釜ヶ崎」「狭義の釜ヶ崎」があります。

赤枠で囲んだ「広義の釜ヶ崎」は、かつて売春や麻薬の密売が盛んで、警察が危険地帯とマークしていたところ。部外者が「釜ヶ崎」と聞いて漠然と認識するエリアは、こことなります。

阪堺線を境界線として西にある、黄色で囲んだ「狭義の釜ヶ崎」は、日雇い労働者の本拠地。ここを南北に貫く紀州街道沿いに木賃宿(ドヤ)ができ、貧民が集まった元祖です。過去に数回暴動が起きたところも、『じゃりン子チエ』の原作のモデルの街も*2、「狭義の釜ヶ崎」です。

今回は詳しく語りませんが、外国人旅行者のベースとして脱皮しつつあるのは、「広義の釜ヶ崎」の方。「狭義の釜ヶ崎」は隣の外国人ラッシュには完全に背を向け、外国人と女性の宿泊を頑なに拒絶しています。宿泊料も、「広義」と「狭義」のエリアでは2倍以上の差があります。っても、1000円か2000円の違いですけどね*3

 

 

三角公園

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「狭義の釜ヶ崎」には、「三角公園」と呼ばれる有名なルンペンのたまり場があります。

 

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「三角公園」の正式名称は「萩之茶屋南公園」というのですが、誰もそんな名前では呼んでいません。みんな「三角公園」です。私もGoogle mapを見てビックリ。

「ここって『三角公園』ちゃうのん?」

と。

 

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2018年現在の「三角公園」。映画とほぼ同じ角度で撮ったつもりです。

この写真ではわかりにくいですが、ここでは今でも住居にあぶれたルンペンが、バラックを建て生活しています。彼らに対するボランティアの炊き出しも、ここで行われます。
ここでは、好奇心だけで絶対にカメラを向けないように。上の写真も、彼らの見えない(だろう)安全圏から最大望遠で撮ったにすぎません。
何度も言いますが、釜ヶ崎は昔に比べて確かにクリーンになりました。が、そこからもあぶれた人たちの最後の牙城が「三角公園」。
無用のトラブルを避け・・・いや生命が惜しければ、スマホですら収めておいた方が良い。いや、ここの「魔気」に呑まれ自然に収めることになると思います。

 

ここでちょっとコーヒーブレイク、歴史の寄り道を。

 

歴史の小ネタ。「三角公園」にあった駅

 

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(今昔マップ京阪神版より。1974年地図)

かつて、天王寺~天下茶屋間を南海電車が走っていました。南海天王寺支線です。

平成5年(1993)に全線廃止となったのですが、昭和50年代以前生まれの大阪人なら、天王寺駅の端に居心地悪そうに止まる、1両か2両の電車に見覚えがあると思います。

この天王寺支線、たった2.4kmの短い支線だったのですが、途中駅の変遷が激しい路線でもありました。上の地図での停車駅は「今池町」のみとなっていますが、戦前は別の駅が存在していました。

 

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(1939年大阪市街地図より)

今池町駅がないかわりに、「大門前」「曳舟」の2つの駅がありました。この2つは、昭和20年の大阪大空襲で破壊され、駅として全く機能しなくなっため戦後すぐに廃駅となりました。特に曳舟駅には、1トン爆弾が直撃したのかクレーターのような穴が開き、池となっていたそうです。

この2つの駅、地図でわかるとおり存在していたことは確かです。しかし、どんな駅だったのか、写真が残っていないのです。

しかし、こんなものを見つけました。

 

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昭和17年(1942)、大阪市所蔵の航空写真です。昭和17年だと駅が消失してしまう前のこと、駅は存在しています。

 

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写真を極限まで拡大すると、ホームらしきものの他に、駅舎っぽい建物もある気配がします。ホーム(推定)は一つしか確認できないので、曳舟駅はおそらく島式一面でしょう。そんなことすらデータが残っていない、幻の駅なのです。

しかしながら、今回これらの幻の駅が、航空写真とは言え写真で確認が取れました。

その曳舟駅と同じく、爆弾の直撃を受けて更地となった跡にできたのが、あの「三角公園」です。航空写真を見ると、「三角公園」の形で住宅が密集していたことがわかります。幻の曳舟駅は、ここに存在していました。

 

 

あれ?昭和3x年?

写真の時系列がズレるのですが、オープニングで日雇い労働者が売血、つまり自分の血を売ってお金にするシーンがあります。売血という行為自体がショッキングに感じると思いますが、当時は違法ながら当たり前に行われていました。

 

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で、そこに映っていたカレンダーに妖気を感じ・・・ではなく、不可解さを感じました。

カレンダーには「7月3日 木曜日」と書いています。

 

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昭和35年7月3日は日曜日。よって、映画が上映された昭和35年のカレンダーではないことは確定。

 

なら、これはいつのカレンダーなのか。7月3日木曜日となる年を探してみました。

 

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すると、2年前の昭和33年(1958)が該当。ははん、小道具に数年前のカレンダー使いよったな(笑 まあいいや、これで解決!

・・・と思ったのですが。

 

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カレンダーの左側には、「六月六日」と書かれています。その上の文字が「暦」なので、おそらく旧暦でしょう。

なんや、昭和33年7月3日が旧暦6月6日やろ?なんやどうということはない。

ところが!!

 

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旧暦計算サイト(byカシオ)より)

 

あれ?全然違うやん。

ここまで来れば、毒を食らわばなんとかまで。「7月3日木曜日。旧暦6月6日」を徹底的に探してみました。探していくうちに、気づいたら18世紀に突入していました(笑)
しかし、170年分くらい探しても見つからず。これは一体なんなのか・・・。

はははは、それはトラップだ!

こんなところに気づいたのは褒めてやる。しかしただの小道具だ、残念だったな!!

と草葉の陰から大島監督の笑い声が聞こえそうです。

 

 

大阪城の横

『太陽の墓場』のロケは、釜ヶ崎だけではありません。

 

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奥に大阪城が見えていることから、ここは釜ヶ崎ではありません。

また、切り取った画像では見えないのですが、奥に城東線(大阪環状線)が走っており、本編では実際に電車が走っています。

さて、ここはどこなのか。

 

大阪城の東側は戦前、「大阪陸軍造兵廠」という陸軍経営の工場がひしめき合う工場地帯でした。

 

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(Wikipediaより)

地図でわかるように、今の大阪城ホールからOBP、JRや地下鉄の車庫やUR森ノ宮団地までの広範囲。面積は「アジア最大」と言われていました。

軍営なので基本的に兵器を作る工場ではあるのですが、それ以外にも金属製鳥居や水道管、服なども製造しており、科学実験も行っていた国営巨大重工業メーカーのようなものでした。

戦争中、ここは不思議なほど米軍の空襲を受けずでした。やっと(?)空襲されたのは、終戦1日前の1945年8月14日。しかし今まで空襲されなかった分、ここだけを集中砲火する形で爆弾が落とされ、アジア一と謳われた工場群は半日で灰燼に帰しました。

 

戦後の工廠跡地は鉄くずの山として残り、それを売って小遣いを稼ぐ人間たちの稼ぎ場となりました。終戦後は鶴橋に住んでいた我が父親もその一人で、手軽なアルバイト感覚で鉄くず拾いに行っていたそうな。記憶によると、子どもの小遣い稼ぎには十分な金になったそうです。

彼らは次第の組織化し、次第に在日朝鮮人を中心にした「アパッチ族」という集団になりました。アパッチ族と警察との格闘は、実際にアパッチ族の一人だった梁石日や開高健が小説にしています。

 

しかし、ここは不発弾も多く残り、国も大阪市も手を出せない危険地帯でもありました。オヤジも、たまに爆弾を踏んだか何人か吹き飛んだと言っていましたね・・・。

不発弾処理は平成に入るまで続きました。

「大阪城近くで不発弾発見!処理のため電車止めます」

と大阪環状線が度々止まったことは、昭和60年代までは珍しくありませんでした。

 

あいにくロケが行われた昭和35年前後の航空写真はないようですが、昭和39年の地図が残っていたので、それを参考にします。f:id:casemaestro89:20180628000808j:plain

現在は大阪城公園駅がある場所の東側に、骨組みだけになっている工廠の跡が残っています。現在は地下鉄の検車場になっていますが、映像の大阪城の角度からして、映画の中の骨組みの廃墟はここでしょう。

昭和23年(1948)の航空写真も見てみたのですが、比較すると工廠跡は高度経済成長期が始まっても、全く手付かずなことがわかります。戦後20年近く経っても放置・・・それだけ不発弾が多く手が開発が遅れたのでしょう。

 

 

 『太陽の墓場』には他にも、

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 南海ホークスの拠点だった今は亡き大阪球場(現なんばパークス)や、

 

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道頓堀のグリコの看板など、高度経済成長時代前の貴重な大阪の映像が数多く見られます。映画の内容もさることながら、昭和30年代の大阪の一部を、カラーで見られること自体が貴重。大島渚もえらい歴史的資料を残してくれたものです。

が、そこをいちいち挙げていくとキリがなくなってきたので、今回はこれまで。

 

お次は、映画内に出てくる貴重な大阪の中でも、鉄道に関する超貴重なものをピックアップします。

 

今回の記事に関する書籍・映像等

『太陽の墓場』はAmazonからレンタルで視聴可です。 

 

戦後の大阪砲兵工廠を根拠にしていた「アパッチ族」について

 

 

*1:大阪市福祉局平成28年データより。

*2:アニメ版は、通天閣周辺の「新世界」。原作とアニメでは舞台設定が違います。

*3:ただし、最近は「広義」の方が土日祝は料金3倍増しや一泊のみ不可など、かなり高飛車設定になっています。