昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

【昭和考古学】「阪神飛行学校」と盾津飛行場(大阪陸軍飛行場)

大阪の大和川河口、現在の南港口周辺に「第ゼロ代関西国際空港」建設計画があったことを、先日書きました。

parupuntenobu.hatenablog.jp

「戦前、南港に空港を作る予定だったらしい」
この話は地元に伝わる伝説として小耳程度にはさんでいたものの、おばちゃんのゴシップだろうと本気にしていませんでした。
これが事実とわかり早速調べ上げたのですが、資料を追っていくいくうちに「阪神飛行学校」という謎のワードに引っかかりました。

 

 


1.「阪神飛行学校」をめぐって

きっかけは、前回紹介した当時の新聞記事から。

伊丹空港戦前

この中に、

 

大正村阪神飛行学校

大正村(阪神飛行学校)も候補、それも将来の拡張も可能な有望株として名前が挙がっています。「阪神」と名がつくので、西宮くらいかなと勝手に推定してググってみると、これがなんと、意外な場所と名称が出てくることに。

 

 

八尾空港地図

阪神飛行学校」とググってみると、セスナ機の拠点である八尾空港大阪府八尾市)に当たります。ああそうですかと八尾空港Wikipedia先生のページを開けてみると、空港の開設の経緯がなにやら不明瞭な様子。「阪神飛行学校」と関係があることは確かなようですが…何やら奥歯に物が挟まったような記述。
ここにニッチのにおいを嗅ぎ取った私、前回の記事ネタを調べるついでに不明瞭を明瞭にすべく、調査を開始しました。

 


2.八尾空港の謎

適当にググってみると、レファレンス協同データベース(以下長いのでRKDB)の問い合わせに引っかかりました。
RKDBとは、国立国会図書館が全国の図書館・博物館のおねーさんを酷使…ではなく駆使し、国民の質問にやさしく答えてくれる国のサービスです。
人文科学から自然科学までのありとあわゆる質問がデータベースとして蓄積されており、国民は無料でアクセスできます。

 

レファレンス協同データベース

その中に「阪神飛行学校」「八尾空港」についての質疑応答があるのですが、答えは「諸説あり」とあいまい。
それほど闇が深そうな、いや調べがいがある事項です。


早速私のお気に入り内データベースを駆使して調べてみると、こんなものが出てきました。

 

阪神飛行学校

昭和12年(1937)12月3日付『大阪時事新報』の新聞記事です。
ここに、興味深いことが書かれていました。

阪神民間防空機関たる阪神航空協会では、府下中河内郡大正村および志紀村を中心とする十二万坪の新飛行場を建設買収するに決定し、
(中略)その名称を阪神飛行学校大正村飛行場」と決定した」

さらにその数日前の新聞記事には、

 

八尾空港阪神飛行学校新聞記事

八尾空港阪神飛行学校新聞記事

昭和12年11月18日 『大阪時事新報』)

とわざわざ新飛行場の地図まで。位置は現在の八尾空港と一致するので、大正村飛行場が現在の八尾空港なのはこれで確定。
ここにある「阪神航空学校」は、「飛行学校」の誤植か記者の勘違いです。


そして重要なのは、

「新飛行場並に学校は本年末より着工し、明春三月に竣工、生徒募集は明年一月に開始(以下略)」

翌年の昭和13年3月に「大正村飛行場」が完成の予定と書かれています。
ここでRKDBの回答をまとめると、

 

①『日本の空港』P.119「八尾空港」に「昭和9年に農地を埋め立てて(中略)阪神飛行学校が設置」


②『全国空港ウォッチングガイド2006-2007』P.151に「1936年阪神飛行学校設立」とのみ記載。


③『大阪春秋 H17夏号 No.119』P.70に「八尾飛行場は阪神飛行学校の飛行場として1938年に着工」

 さて、どれが真実なのか。上記の資料からわかることは、

 

1.①②は年代的に絶対ありえない


2.③と新聞記事の内容が一致

 

つまり③が歴史的事実、八尾空港の開港も昭和13年(1938)が正解。誰か今すぐWikipedia編集してきて(笑)


ここで、新たな謎が浮かびます。なぜRKDBがテンパるほど「諸説あり」なのか。


新しい新聞記事があります。

 

盾津飛行場大正村飛行場阪神飛行学校

(昭和12年6月16日『大阪朝日新聞』)

ここに重要なキーワードが書かれています。

「民間飛行士養成と航空学術研究のため大阪府中河内郡盾津陸軍飛行場に阪神飛行学校を設立(以下略)」

「盾津」というところに陸軍の飛行場があり、そこに阪神飛行学校が設立されたということ。あれ?阪神飛行学校は「大正村飛行場」ちゃうのん?と、ここで少しややこしくなります。
新聞記事の流れを見ると、阪神飛行学校は最初盾津にできたのが、大正村に新訓練施設(飛行場)を作ることとなり、昭和13年に完成。阪神飛行学校の機能も大正村、のちの八尾空港に移った。こう考えるほうが自然かなと。

 

ここで出てきた「盾津陸軍飛行場」と、「盾津」とは何なのか。そこを次から追っていきます。

 

 

3.盾津飛行場

 

盾津飛行場東大阪市

(完成直後の盾津飛行場ー現地の説明板より)
盾津飛行場は昭和8年、国威向上による民間飛行士育成のために建設が始まった飛行場を母体としています。
翌年9月に飛行場は完成、同時に陸軍省に寄贈され昭和10年6月1日に正式受領、同時に「大阪陸軍飛行場」と改名されました。が、俗に「盾津飛行場」と呼ばれていたようなので、本記事では以下「盾津飛行場」に統一します。

RKDBや八尾空港Wikipedia記載の「昭和9年」とは、おそらく盾津とごちゃごちゃになっているのではないかと。

 

せっかく作られた空港でしたが、ここあたりは地盤が弱く寄贈された陸軍の方も活用に困った様子。所有は陸軍なものの、しばらく民間で使ってねーとグライダー訓練や模型飛行機大会、学生の飛行訓練などに活用されることに。
阪神飛行学校がここに作られたのも、そういう経緯があってのことだろうと思います。


対米戦争後の昭和18年(1943)、海軍指定企業だった松下電器産業(現Panasonic)が「松下航空機」に改名、航空機本体や部品製作にあたることになりました。
松下幸之助は盾津に工場を建設し、盾津飛行場もその際に「海軍によって」拡張されます。

ジュラルミンがないから木造で飛行機作ってくれ!」

と海軍にお願いされてもね~という松下は仕方なしに了承したものの、ネジすらままならない状態で、試作機を飛ばす滑走路もセメントがないために漆喰で地面を固める有様。漆喰はセメントの5~6倍のコストがかかったそうです。

 松下飛行機は1年の試行錯誤の末、木造飛行機『明星』の製造を開始、数機が完成し飛行…と思ったら即墜落。結局『明星』が日の目を見ることはありませんでした。

そして終戦GHQによっていったん接収されたのち盾津町(当時)に払い下げられ、盾津中学校などの公共敷地となりました。

 

4.盾津飛行場はどこに?

私は大阪と言っても南部、いわゆる泉州の出身なので、東の方、歴史地理学的な表現でいう北河内国の郷土史はほぼ白紙です。
なので、ひとまず場所を特定することに。

 

東大阪市盾津

「盾津」はJR学研都市線鴻池新田駅の南部一帯、地名としてはすでに消滅し盾津中学校などの学校名にとどまっているのみです。
ここに「東大阪トラックターミナル」という大規模物流施設が府東部にありますが、

 

www.semboku.jp

ここは昭和44年(1969)に大阪府が飛行場跡地を購入したもので、管理運営はあの「泉北高速鉄道」。

なんで泉北高速"鉄道"が物流事業やってんねんと思ってしまいがちですが、実はこちらが泉北高速"鉄道"の本業。元々は大阪府営の第三セクターだったので、大阪府の土地を管理運営していても矛盾はありません。

 

盾津飛行場地図

飛行場があったあたりを、戦前・戦後の地図で比較してみました。
戦前には何もなかったところに、戦後の「跡」ですが飛行場がくっきりとあらわれています。

 

昭和23年盾津飛行場跡航空写真

昭和23年(1948)の盾津町(当時)の航空写真です。
かなり薄くなっているものの、滑走路の跡が見て取れます。写真上の住宅密集地のすぐ上が、片町線鴻池新田駅と思って下さい。

 

盾津飛行場跡航空写真

飛行場の面積は約10万坪(33万㎡)で長さ940m、幅560m、滑走路750m。地図右半分が飛行場敷地、左は第四師団の練兵場として昭和14年(1939)末か15年から使われていました。

盾津中学校の場所には訓練生やパイロットの居住区だったと伝えられ、校内に飛行場があった碑が建てられています。

また滑走路の一部は、現在府立かわち野高校になっています。ここ、以前は「盾津高校」という名前だったはずですが、また一つ旧(ふる)くからの地名が一つ消えたのは少し寂しい気分です。

 

 

盾津飛行場跡現代との比較

現在の地図と比較してみると、飛行場との区割りだったと思われる水路(赤矢印)と、航空機誘導(運搬)路跡(灰矢印)が道路として残っています。数少ない飛行場の遺構で、これが残ってたからこそ跡の特定が容易でした。

航空機誘導路は北方向に一直線伸び、その先には…

 

松下飛行機盾津飛行場

なにやら工場らしきものが…ここが松下幸之助が作った松下飛行機の跡。

ここは現在の大東市住道駅近くにあたりますが、大阪人なら住道とくればSANYOを連想するほど、戦後永らく三洋電機㈱の企業城下町でした*1

三洋電機の創立は戦後ですが、場所がつい7~8年前まで三洋の工場だっただけに、三洋電機が旧松下飛行機の工場を売却してもらい、拠点にしたのかもしれません。

松下飛行機跡は現在、南半分が大阪府の朋来団地、北半分が三洋電機→京セラ工場となっています。 

で、これで終わろうかと思いきや、航空写真にはまた謎を呼ぶものが写り込んでいました。

大東市住道松下飛行機三洋電機

住道駅のすぐ南に、滑走路のような、そうでないような筋の道が確認できます。その横には格納庫か倉庫らしきものが幾棟も。盾津の飛行場からはかなり離れているのですが、これは一体なんなのか。『大東市史』でも読んだらわかるかもしれないけれど、これ以上追求すると本題から反れてしまうのでペンディングとします。

飛行場のことはこれでわかった。さて本編これにて終了。

…もう一つ、なにか残ってませんか?

 

 

5.盾津飛行場最後の謎

 

東大阪大阪府空港

大阪府が東郊に建設する計画だった「大阪国際飛行場」…ここは当時の新聞記事によると盾津に作る予定だったはず。
盾津に飛行場があったことは事実ですが、それと「50万坪の大規模空港」と府が広げた風呂敷は果たして同一なのか。
前述の大和川国際飛行場以上にニッチで、ネットで掘れる限り掘ってみたものの、これ以上のものは出てこない昭和史大阪ミステリー。

ここからは私の推測となります。
考えられるパターンは3つ。

 

①盾津飛行場をそのまま流用


②盾津飛行場を陸軍から購入、大型機離着陸可のように拡張


③盾津飛行場と全く別の空港を建設する

 

 

何の根拠もないという前提ですが、①はまあないと思うのでおそらく②か③でしょう。

しかし、大型機が発着するような空港を作るには、盾津に致命的な欠点がありました。上にサラッと記述しました。盾津飛行場は地盤が弱いと。ではなぜ弱いのか。

 

河内湖

(https://genkiayumu.exblog.jp/10459281/より)

大阪人なら社会の授業で習ったことがあるかもしれませんが、弥生時代古墳時代、ここあたりは内海が塞がって形成された「河内湖」という淡水湖がありました。

 

大阪新開池

(Wikipediaより)

河内湖は土砂の流入や治水、開墾で次第に小さくなり、江戸時代初期には「新開池(しんかいいけ)」「深野池」という大きな池となっていました。

 

18世紀はじめ、鴻池善右衛門宗利という大坂の商人が新開池を開発する権利を入札し、新田開発を行いました。
鴻池家はのちに、鴻池銀行*2日本生命を創設する財閥となりますが、鴻池が開発した新田は「鴻池新田」として駅名にも残っています。

盾津飛行場は「箕輪」の西に位置していたので、江戸時代は池の中。池を埋め立てた場所だったので、地盤が弱いのも頷けます。
「府営空港」が幻に終わったのも、大阪市に対抗して風呂敷は広げてみたものの、地盤の弱さで適地ではないことが判明。「大阪国際空港戦争」は伊丹で落ち着きつつあるのと、戦争でそれどころではなくなり、そのまま流局…。
私はこのように推測しています。

 

しかしながら、私がわかるのはここまで。
大阪市大和川国際飛行場(仮称)に次ぐ謎、大阪府営国際飛行場(仮称)はしばらくペンディングとしておきましょう。
府立公文書館に行けば、議会の記事録など資料が残っているはずですが、私は貧乏暇なし。
興味ある方はこの続きをどうぞご自由に!と見知らぬ誰かにプロジェクト(?)を託します。これ、ええネタやと思いまっせ。

 

 

<主要参考文献・サイト>
国立国会図書館デジタルコレクション
神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ
レファレンス協同データベース
Wikipedia-盾津飛行場/八尾空港
松下幸之助.com
大日本神国也-大阪陸軍飛行場
『八尾市史』

 

==こんな記事もあります==

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

*1:SANYOが消えた現在でも、「三洋町」「三洋橋」など地名に残っています。

*2:三菱東京UFJ銀行

幻の大和川国際飛行場【昭和考古学】

大阪空港の夜景

現在、大阪には

関西国際空港(関空)

大阪国際空港(伊丹空港)

八尾空港

の3つが存在しています。広義の点では神戸空港も含めてもいいでしょう。

現在はそれぞれの空港で仲良く(?)棲み分けが出来ていますが、かつて戦前の大阪で熾烈な空港誘致競争があったのをご存知でしょうか。それも、市や府、お隣兵庫県も絡んだ仁義無用のバトルを。今日はそんな熱い熱い空港の歴史を。

くどくど書くとまた「公開無期延期」となりかねないので、鉄は熱いうちに打っておきます。追加事項はこっそりリライトすればいいし(笑)

 

 

 

1.元祖大阪空港、木津川飛行場

突然ですが問題です。

Q:大阪初の空港を答えよ

知っている人は「木津川飛行場」と答えるでしょう。しかし、大阪初の空港は大阪は大阪でも、堺にあった「大浜飛行場」でした。

大浜飛行場については詳しく書きません。以前の記事をどうぞ。

 

 

木津川飛行場

木津川飛行場は、 日本の航空事業が急速に発展していくさなかの昭和4年(1929)に運用が開始されました。

 

木津川飛行場大阪

(昭和11年発行『大阪觀光地圖』)

場所は現在の住之江区の木津川の河口付近、新木津川大橋の西側に作られました。ここから東京や四国・九州など国内線の飛行機が飛んでいたことは、工場ばかりの現在の光景からは想像できません。というか、飛行場があった時から工場だらけじゃないかと。

大浜飛行場は滑走路のない水上飛行場でしたが、滑走路を備えた木津川空港は「初代大阪空港」として、絶頂期の昭和13年には年間離発着回数約8800回、旅客数約10000人と国内トップでした。

 

大阪市内に華々しくオープンした木津川空港ですが、航空産業の発展が予想以上に速く、すぐにキャパシティ不足に陥ってしまいます。

その上空港の近くの工場から出る煙霧で視界が悪くなり、それが原因による墜落事故も起こる始末。こんなにデメリットが多かったら、そんなとこに空港作らなかったらいいのにね。航空業界がまだ試行錯誤の頃ならではかもしれません。

その中で何より痛かったのが、大型機を使用する国際線が手狭さゆえに離着陸できず、大阪をスルーしたこと。工場の中に滑走路を作ったような飛行場にこれ以上の拡張性はのぞめず、開港2年にして新空港の計画が持ち上がります。

 

 

2.大阪市の新空港計画

 早速手を挙げたのが、THE GREAT大阪(大大阪)こと大阪市。

大正後期から続く慢性的な不景気に加え、急激なデフレにより虫の息だった日本でしたが、犬養毅内閣(昭和6~7年)の蔵相高橋是清による金融緩和政策により、経済は突如として蘇生します。

昭和7年末から12年まで、東京や大阪など都市部は空前の好景気となり、いわゆる日本経済無双モードに*1。この時期を私は、「戦前昭和元禄」「戦前バブル」と造語しています。

心躍ってしまうような明るさと活気を昭和10年前後の東京や大阪の写真に感じることがありますが、「戦前昭和元禄」の客観的データを持っている私から言わせれば、それは気のせいでもありません。当時の脈動(オーラ)が写真にも出ているのでしょう。

 

 本格的国際空港建設の話は、そんな時期から始まりました。 

大阪市はグレートのプライドにかけて、大和川の河口付近を埋め立て東洋一の国際空港を作るぜ!と大和川尻北岸の91万5000平方メートルの埋立予定地のうち、約60万平方メートルを飛行場に当て急ピッチで工事開始、昭和10年には完成の予定でした。これを「大和川国際飛行場計画(仮称)」といいます。

 

大阪港第二次修築計画図と大和川国際飛行場

 昭和6年(1931)の大阪港第二次拡張計画にも、大和川河口に「飛行場移転予定地」(赤丸部分)と書かれています。その上には「国際飛行場」こと木津川飛行場が。

 

大和川飛行場位置推定

他の資料とも照らし合わせたところ、大和川国際飛行場(仮称)はここあたりに建設される予定だったのではないかと推定しています。

 

ここに「第ゼロ代関西国際空港」が大阪市に完成!!

とそうは問屋が簡単におろさない。大和川国際飛行場(仮称)は、いきなり2つの課題に直面することになりました。

一つは煙霧。木津川飛行場がいらない子扱いされた主原因の一つですが、新空港予定地は木津川飛行場の近くで状況は変わらず、パイロットなどから反対が起こりました。こんなこと、すぐわかることだと思うんですけどね~。

もう一つは、

「うちも空港作るぜ!」

と名乗りを上げた兵庫県。

 

大和川飛行場鳴尾飛行場大阪空港

県は鳴尾村*2に空港建設を宣言。川西飛行機(現新明和工業)や住友財閥をバックに、権力の暴力of大阪市と激しいバトルを繰り広げます。

 

鳴尾飛行場航空写真

鳴尾飛行場とくれば、戦争中の飛行場を連想する方が多いかと思います。ここには海軍の飛行場が設置され、戦後3年目の写真でもX形の滑走路がまだくっきり見えます。甲子園球場の場所がそのままなので場所特定も楽勝ですが、ああ、ここを国際空港候補にしたのねと。

しかし、一つ引っかかっています。鳴尾飛行場はニッチな分野ではメジャーなのかWebで取り上げる人も比較的多めですが、Wikipedia先生はもちろん、どこの資料にもここは昭和18年築と書いてあるのです。新空港の話が持ち上がった昭和8~9年には影も形もないはず…。

鳴尾競馬場西宮昭和初期地図

昭和4年(1929)の地図ですが、飛行場のはずが競馬場。こちらも昭和18年海軍に接収され飛行場に…とあります。

「国際空港」としての鳴尾飛行場と、戦争中の鳴尾飛行場は別もの!?

ただ、「国際空港」としての鳴尾飛行場は「川西飛行場」と書いている新聞記事も存在します。

「川西」とは川西市ではなく、川西飛行機*3のこと。サクッと調べたところ昭和5年(1930)に鳴尾に飛行機開発の工場が建設されているので、それと関係あるのかもしれません。

尻尾はつかんだものの、私は絶賛島流し中、明石の県立図書館まで行くのは金かかるし面倒くさい確たる資料が手元にないのでこれが限界。ご興味があれば他の人が深掘りしてくれていいのよ。

しかし、こうして調べてみてわかることがありました。甲子園球場って西宮市だったんだなと…なんだか甲子園だけ「甲子園市」のような錯覚が(笑)

 

 この阪神国際飛行場バトルは双方とも一歩も引かず、どちらも一長一短あり空港誘致バトルは膠着状態に。

結果として、軍配は当時航空を管理していた逓信省の仲裁により大和川にあがります。

誘致に破れた兵庫県ですが、大和川の「第一飛行場」に対し、大阪との県境の川辺郡神津村に予備としての「第二飛行場」建設の許可をもらいます。国がどちらの顔も立てるため玉虫色の御沙汰を下すことは、政治史にはよくあることです。

しかしこれが、日本航空史屈指のドラマへの始まりでした。

 

一件落着と思われた戦前の「関西国際空港」バトル。ほっと胸をなでおろした大阪市ですが、まだ波乱は続きます。

 

 

3.空港の下剋上

大阪の空港は、

大阪第一国際飛行場:大和川河口(大和川飛行場)

大阪第二国際飛行場:兵庫県川辺郡神津村

の2つが建設されることになりましたが、大和川国際飛行場(仮称)は、将来を考えるとやはり手狭と海軍からクレームがあがり、煙霧の害も改善せず、ここ不適格じゃね?という声もあがってきます。しかし大阪市はそんなの関係ナッシングとお構いなし。

昭和11年に大阪市によって編纂された『大阪市政』によると、

大和川尻の海岸約百萬平方米を埋立て、これに理想的飛行場を建設する計画を樹て、昭和八年七月より工事に着手し目下埋立て工事中である。

(653ページ)

 いったん出たションベンはもう止められないようです。しかし、昭和10年には完成しているはずでは?(笑)

 

さらに興味深い記述が続きます。

これと同時に住吉公園より同飛行場に通ずる新設連絡道路の建設に着手した。(653ページ)

今を見ればわかるように、大和川国際飛行場(仮称)は未完に終わっています。

当然遺構なんて残っているはずもないですが、ただ一つ、残滓と言えるものが残っています。それが住之江区を東西に横断する通称「住之江通」。

 

住之江通大和川飛行場戦前

(1937年大阪市地図より)

赤い矢印の道路が、「飛行場に通ずる新設連絡道路」です。南港ニュータウンのために作られた道路っぽいですが、実は南港にできるはずだった空港の「連絡道路」の残滓だったのです。今なら関空の連絡橋というところか。

そんな頃、あくまで予備扱いの「第二飛行場」は、昭和11年(1936)に建設が始まりました。

 

大和川国際飛行場(仮称)がとんだポンコツプランとわかり、ニヤリと笑った組織があります。

大阪市営空港は死んだ、なら代わりに俺様が空港を作ってやるぜ!

蚊帳の外と思われていた大阪が名乗りを上げます。

くどいようですが、じゃありません、です。

 

大阪府立空港東大阪盾津

 既に建設が始まっていた「第二空港」が36万坪に対し、「大阪府営飛行場」は50万坪*4。あっちよりも敷地広いぜ!と猛アピール。

記事には、


「大阪府では逓信省、大阪市の協力のもとに優秀な「大阪国際飛行場」を大阪東郊に建設すべく具体的計画を進めている」


とありますが、大阪100年の「府市合わせ(不幸せ)」の歴史を知っている人なら、
「大阪市と協力って絶対ウソやろ!www」
と鼻で笑ってしまうはず。だって、絶賛頓挫中とは言え、大阪市は大和川国際飛行場(仮称)プランを捨てたわけではないから。大阪市の傲慢不遜っぷりからして、自分の案を捨てて府に泣きつくとは考えられない。

「そんなケンカせずに、仲良く協同で作ったらええのに…」

外野はそう思うでしょうが、府と市はね、並の国なら内戦になっているほど仲が悪いのです

 

大阪府営飛行場(仮称)が用意した土地は、上の記事にもあるように東大阪の某所。記事内では大人の事情で記述を控えていますが、その後の消息を追っていくと「盾津(たてつ)という地区だそう。この盾津の名、しばし記憶しておいて下さい。次の記事のキラーワードとなります。

 

4.そして伝説へ…

 大阪第二飛行場伊丹空港開港昭和14年

「第一」の大和川国際飛行場(仮称)計画が頓挫するなか、スペア扱いの「大阪第二飛行場」が昭和14年(1939)1月17日にオープンしました。
木津川飛行場の機能もすべて第二飛行場へ移転しお役御免、航空史から姿を消しました。

しかし、あくまでここは「第二飛行場」。「第一」はどこにするかで折り合いがつかず、ついに国が仲裁に入ります。

 

大阪第二飛行場伊丹空港開港1939年

逓信省航空局長が来阪、飛行場について話し合いを行ったという記事です。

「大阪国際飛行場は伊丹に落着こう」

見出しはこうなっていますが、書き方を変えると

「もう伊丹でええんちゃうのん?」

「大阪国際空港」の看板をめぐる大阪市vs府vs兵庫県の三国志っぷりに、長官の呆れ顔が垣間見えます。

もうここでおわかりでしょう。「川辺郡神津村の第二飛行場」とは現在の伊丹空港のこと。


そしてもう一つ、第二飛行場が無用のトラブルを生んだこんなニュースを。

 

大阪第二飛行場伊丹空港開港税関

大阪・神戸の税関が、正式に「大阪国際空港」に昇格した伊丹空港の管轄をめぐって、縄張り争いを起こしています。

記事の概要を一言でまとめてしまうと、

 

大阪税関「名前は大阪やさかいうちやろ!」


神戸税関「住所は兵庫県やからこっちやろ!


大蔵省「ケンカやめて~!」

 

3行で済みます。役所どうしでお前ら何やってんねんと。


「第二空港」の分際で目立ちやがって…と歯ぎしりしている「第一空港」のはずの大和川国際飛行場(仮称)さん。ここで大阪市は起死回生の策を持ち出…せずはずもなく、「予備」のチヤホヤぶりに指をくわえるのみ。
現実として、補欠の「第二」がエースの「第一」のお株を奪う下剋上が起こりました。

 

そして対米戦争へ。
半鎖国状態と化した日本は旅客輸送にまわす燃料の余裕すらなり、旅客としての空港の歴史は、ここでいったん幕を下ろします。。大阪市のメンツを賭けた空港計画も昭和17年5月、逓信省の指示で白紙撤回。大阪市が夢見た国際空港の夢は、完全に潰えました。

空港用の敷地は宙ぶらりんとなりましたが、戦後に貯木場や倉庫、団地等に再利用され、新交通ニュートラムが走るニュータウンとなっています。

コンクリートの林と人々の雑踏の中、文字通り煙霧の奥に消えた大和川国際飛行場(仮称)は、知る人ぞ知る伝説として昭和史の大河の中に流れています。

 

 

==さらに深い世界へ興味を持った方は、こちらをどうぞ!==

(同じことに興味を持ったエヌハルさんのブログ)

chroniclex.hatenablog.com

 

<参考資料>

『大阪市政』(大阪市/編)
『新修大阪市史 第7巻』(新修大阪市史編纂委員会/編集)
『あったかもしれない日本』(橋爪紳也 著)
『国立国会図書館デジタルコレクション』
『日文研 所蔵地図データベース』
『神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ 新聞記事文庫』
『今昔マップ Web版』
木津川飛行場跡の碑[新木津川大橋北詰] 船町 1 , 2 - 大阪市
大阪港の港勢と建設の歴史(大阪市立大学)
Wikipedia
他ブログ数点

*1:ただし、東北では地震や冷害による凶作が続き未曾有の惨事に。

*2:現在の甲子園球場の南側

*3:現在の新明和工業。

*4:同じ頃の羽田空港と同規模。

大阪の「中華街」 後編ー川口を歩く

 時間が空いてしまいましたが、以前、大阪市西区の川口に戦前、「中華街」があったことを記事にまとめました。

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

前編はその歴史の概要を書きましたが、今回はフィールドワークと実際に川口を歩いてみました。その繁栄は空襲で灰と化したと言われていますが、もしかして、カケラでも残っているかもしれない、そんなわずかな期待を込めて。

 

 

周辺の中華料理屋

 

大阪川口中華料理屋

大阪川口北京料理

川口を南側から歩いてみると、何軒かの中華料理屋が目に入りました。
川口周辺には、中華料理屋がいくつか存在しているのですが、そろって川口華商たちの故郷である北京(華北)料理…。
訪問したのが正月で閉店していたため話は聞けなかったですが、「大阪DEEP案内」さんによると、中華街にあったという中華料理屋の子孫とのこと。

前編では、
「川口中華街は貿易拠点であり、美味い中華を食う所ではなかった」
と書きましたが、
「大正初年頃よりは東海楼・天華倶楽部等の料理店が中国人により経営せられ、町には華僑の店が頗(すこぶ)る多く」
と西区の公式史書にあり*1、川口には数軒の本格的中華料理レストランがあったことが判明しています。

『事変下の川口華商』には、


「(川口には)料理業者として東海楼、天仙閣、大東楼、天華倶楽部等あり、その他簡易食堂式のものが三軒ほどある」
 

とあり、『大阪案内』*2には、

『西区川口町は支那人の居住が多いだけに、支那料理店多く、支那人客が目立つ。ここで第一は東海楼で、客はほとんど支那人紳商。味では随一だろう。(中略)天仙閣には曽て支那人芸者をおいて、支那気分をあおったが、今濃艶な姿は見られない。

と書かれており、当時の様子がなんとなくうかがえます。

 

 

 

1938大阪市電話帳
昭和14年(1939)の電話帳でも確認できました。『事変下~』にある「簡易食堂式」のものは、電話帳には見当たりませんでした。

 

 

昭和13年大阪川口東海楼北京料理
こちらは昭和12年(1937)の「東海楼」の広告。

 

天華倶楽部

こちらは『大阪案内』にあった天華倶楽部の広告です。

 


「美味い中華を食いたければ川口へ行け」
戦前の大阪では、こんな言葉があったそうです。
中華といっても北京料理ですが、川口の中華レストランはそもそも大陸から来た商人のためのはず。客も川口華商か中流以上の日本人、特に中国人の舌を満足させる必要があるので、コックを大陸から呼び寄せたりと、かなりのクオリティだったのだと思われます。

 

厳密に言えば川口ではないものの、これらの中華料理屋も川口華商の繁栄の残滓といえるのかもしれません。

 

川口を歩く

 

大阪川口本田

川口の中華街は、中央大通りより北のエリアです。
現在でも国道172号線が本田地区を串刺しするように走っていますが、川口華商たちが行き交っていた時代も本田のメインロードでした。

 

昭和16年大阪川口華商

前回に出した、昭和16年(1941)の川口の風景です。
長いワンピース風の中国服を着た母子が道を渡ろうとし、大阪市電(路面電車)が道の真中を走っています。
写真奥の左側にうっすら見える四角い大きな建物は、現在でも残る住友倉庫の上屋です。

 

大阪川口住友倉庫

住友倉庫はコンクリート製で味気なく、外見だけはレトロ建築愛好家の興味をそそるものではありません。しかし歴史は意外に古く、昭和6年(1931)築です。なので上の写真の時には既に存在していたということ。


戦前の写真の場所は昔の地図から判明しているので、定点撮影を試みました。

 

大阪川口

同じような角度で撮影してみました(2019年)。めちゃわかりにくいですが、左側の高層マンション手前に先っちょだけ出ている白い建物が、住友倉庫です。

 

大阪西区川口

歩道橋からも撮影してみました。

 

 

唯一の行桟の遺構? 

 

日本聖公会川口基督教会
川口にある教会です。

これは「日本聖公会川口基督教会」(登録有形文化財)といい、竣工は大正9年(1920)です。「居留地時代の遺構」と書いている人もいますが、既に居留地としての機能を失い、中華街となっていた頃に建てられたものです。

しかし、今回のメインはこれではありません。

 

大阪川口アパート行桟

教会の向かい側には、こんな香ばしい建物が並んでいました。
川口華商の拠点だった「行桟(ハンサン)は、2階建てのアパート形式だったと文献にありますが、これはまさにビンゴ。
建物の構造からして大正末期~昭和初期のものなので、川口華商が活躍していた行桟の残骸に違いない。
正式名称はないようですが、これを「川口アパート(仮称)」と名付けましょう。

 

1948年大阪市西区川口空中写真

1948年の航空写真です。位置が変わっていない本田小学校を目安にすると、空襲でけっこうなエリアが焼けていることがわかります。

大阪市西区川口アパート航空写真

そんな中、「川口アパート(仮称)」が現在と同じ位置で写っていました。

 

事変下の川口華商行桟リスト
「川口アパート(仮称)」があったかつての住所は川口町。行桟と仮説を立てると、旧川口町にあった行桟は「公順桟」「永信桟」の二つ。ここのサイトによると「川口アパート」の建築年は大正10年(1921)ですが、「永信桟」の設立は昭和7年なので除外。よって「公順桟」一択となります。

 

大阪川口行桟川口華商

 

大阪川口華商建物

長屋風洋風建築とも言えるこの建物は、現存するだけでも9~10個の玄関があり、行桟と仮定してもかなり大規模だということがわかります。
「公順桟」は店員数30名、抱える華商数40、行桟としては3~4番目の規模の「大行桟」です。「川口アパート」の大きさに収まるでしょう。
「永信桟」は「公順桟」と同住所になっているため、「公順桟」の建物の一部を間借りしていたと推定できます。

この「川口アパート」、今でも個人宅ではなくオフィスとして使われていることからも、見方を変えれば現代に残るただ一つの現役行桟かもしれません。

 

 

大阪川口安治川岸

川口の安治川岸です。ここがかつての居留地の船着場で、今でも上屋(倉庫)が立ち並んでいます。
かつては川岸に、大型船が入れないために小舟のみだったものの、かつては川岸に船が並び貨物の出し入れで賑わっていた時があったのでしょう。

 

大阪川口倉庫

今でも倉庫街として現役といえば現役ではありますが、私が訪問した時は人の気配が全くなく、ただ河口から吹き付ける強い風の音だけが聞こえるだけでした。おそらく、正月だったからでしょう。少なくてもそう思いたい。

 

その中で、また面白そうな建物を発見。

大阪川口近代建築

「三榮工業株式会社」のビルヂングのようです。近代建築としてググってみると、建物の詳細は不明ながら、おそらく昭和初期に建てられたものとみえます。丸窓+曲線的を使った外観は、 昭和モダン建築として見ると毎度おなじみ。

ここのHPを覗いて沿革を見てみると、川口に移ったのが昭和44年(1969)。創業自体が戦後なので、おそらく空き家だったこの建築に入ったのでしょう。HPには、

 

三榮工業

こういう声もあるので、近代建築マニアのアンテナには引っかかっているのでしょう。しかし詳細は不明とのことで、いつ建てられたのか、設計はどこなのか、そして、三榮工業が入る前はどこの所有だったのかなど、謎は深まるばかり。

 いつもなら、三榮工業さんに直接連絡して詳細を聞くのですが、この様子だと知らないよう。

 

隠れた川口の生き証人?

 

大阪中国総領事館

(写真撮り損ねたので、Google mapのストリートビューから)


川口の対岸にある阿波座には現在、中国総領事館があります。
警察官がところどころに配備され少し物々しい雰囲気ですが、悪さをしなければ向こうから何か言われることはありません。写真も別に構わないのですが、やはり警察が目を光らせている中でカメラを向けることは、本能的に遠慮してしまいます。

 

中国総領事館前の旅行社

私のアンテナが反応したのは、むしろここ。領事館前の旅行社の中国行き航空料金を見て、久しぶりに北京のPM2.5を浴びてくるかと触手が伸びそうになりました(笑)

 

それはさておき、なんでこんなとこに領事館があるのか?
領事館がどこにあろうが自由ではないか。言われればそうなのですが、川口のチャイナタウンの歴史を知ると、何故領事館が、川口華商で賑わった地区の対面にあるのか。

これは偶然でしょうか。


中国総領事館もしかして、川口の中華街を知る間接的な証人なのかもしれません。これも中国領事館に聞いてみる手もあるのですが、政治的な問題が絡むこともあるので、腫れ物に触るような怖さもあることは事実です。よって、これは今後のペンディングとしておきましょう。

 

 

※参考資料

大阪市産業部貿易課編『事変下の川口華商』(昭和14年)
東出清光著『大阪案内』(昭和11年)
大阪市編『西区史 第二巻』
大阪市編『西区史 第三巻』
西口忠『川口華商の形成』
ブログ『旧川口居留地 - 大阪DEEP案内』

 

 

==こんな記事もあります。お一ついかがですか?==

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

*1:『西区史』第三巻 393頁

*2:東出清光著。昭和11年

消えた遊廓・赤線跡をゆく-丹波篠山(京口新地)編

 

※注意※

このブログ記事は、2009年に前ブログにて書いた記事をやっつけ仕事で編集したものです。情報が古いのと、文章が拙い場合があるのであしからず。また、予告なしに文章が変わることもあります。

 

 


今回は、丹波篠山にあったという遊郭跡を書いてみようと思います。
丹波篠山というと今の篠山市、江戸時代は譜代の青山氏の城下町として栄えました。
今回の話題とは関係ないですが、東京にある地名の「青山」(←青山学院大学の「青山」ね)は、この青山氏の江戸屋敷があったことから名付けられました。
篠山の青山氏は分家筋だった記憶がありますが、まあそんなわけです…どんなわけや。

 

篠山の遊廓の歴史

今の篠山市は、武家屋敷が現在でも残る観光の町で、今は歓楽街とは無縁のせいか、遊廊とか赤線ってイメージが全く思い浮かばないですが、その昔、確かに遊郭は存在していました。

明治41年(1908)、篠山に歩兵第七十連隊が置かれました。過酷な訓練と兵の勇猛さで「丹波に鬼あり」と恐れられた連隊です。

「歩兵連隊あるとこ遊郭あり」

私が長年の遊廓探索で得た法則ですが、篠山にも例外なくどこかにあるだろう、と色々調べていたら、やはり存在していました。


篠山遊郭の正式名称は、「京口新地」と言います。
遊廓としての歴史は資料があまりないので詳細はわからないですが、少なくても歩兵第七十連隊が出来た時から、もしくは連隊の創設に合わせて作られたと推定できます。

 

大正5年1916篠山遊廓京口新地

大正5(1916)年の大正時代の篠山の地図です。
赤い○で囲んだ部分が篠山城、今も昔も篠山市の中心部ですが、この地図右下に「遊廓」と書かれた一画があり、この頃には地図にもはっきり遊廓があったことが伺えます。

大正2年(1913)発行の『篠山案内記』には、

「遊廓河原町京口橋より南一丁にあり、池上町に属し字湊と称す。<u>遊廓新設以来京口新地の名あり。歩兵七十連隊の新設に伴い始めて設置したるものにて明治44年7月より開業す」

(※原文旧仮名遣いを現代に読みやすいように筆者校正)

 

と簡単ながら遊廓のことも書かれています。
大正時代から篠山遊廓が「京口新地」と呼ばれていた証拠でもあるのですが、遊廓・赤線探索者が参考文献によく出す『全国遊廓案内』(昭和5年刊)には「糸口新地」と書かれています。

「京口」なんか「糸口」なんかどっちやねん!?とややこしいことになっていますが、『全国遊廓案内』は筆者の記述間違いが多く鵜呑みは厳禁な上に、後で紹介する『篠山町七十五年史』にも「京口新地」と明確に書かれているので、「京口」が正解。


また、『篠山案内記』には遊廓の他に中心部にある立町に花街、つまり芸者がいた所もあったことが記されとります。

「芸妓検番-立町の角南側にあり明治32年の創立なり。検番設立以前は各料理屋に芸妓を抱えたりしなり」

(※これも原文旧仮名遣いを読みやすいように校正)

 

これでわかることは、

1.芸妓がいる花街の方が遊廓より歴史が古い

2.場所によっては遊廓に芸妓がいたりと花街との区別がつきにくい所もあるが、
篠山は花街と遊廓の区別がはっきりついていた

こと。


京口新地を語るもう一つの貴重な資料が、『篠山町七十五年史』(1955刊)という歴史書。

個人が編集したものの当時の篠山町が出版しているので、準公式の町史のようなものですが、ここに京口新地のことが詳しく書かれています。


それによると、陸軍歩兵第七十連隊の設置により遊廓設置の動きが出たものの、候補地がいくつも上がった上に周りの村からの熱心な立候補もあったり、陸軍の「遊廓は兵営(駐屯地)から1里以上隔離すること」という条件もあって、結局は八上村糯ヶ坪地区に決定。

しかし、なぜ「風俗街」である遊廓を熱心に誘致するか言うと、遊廓は遊興税を払う義務があったので、誘致すると莫大な税金を落としてくれる遊廓は絶好の金脈。地域財政が潤う+地元に金を落としてくれて経済的にウハウハという事情があります。

 

明治41年の開設当初は「篠山楼」の一軒のみ、娼妓数7名というこじんまりとしたスタートだったものの、
半年後には、
・吉野楼 娼妓数14名
・小川楼 娼妓数6名
・彦根楼 娼妓数12名
・田中楼 娼妓数8名
・一力楼 娼妓数8名
・常盤楼 娼妓数5名
・金松楼 娼妓数2名
・高森楼 娼妓数2名
・鬼楽楼 娼妓数4名
・都 楼 娼妓数7名
・藤田楼 娼妓数5名
・戎 楼 娼妓数6名  計:79名

と、雨後のタケノコのように大増殖しています。
(篠山楼は閉店したのか改名したのか、存在しません)

娼妓の外出は監視付きで、一人で京口橋を渡ることは出来ませんでした。つまり篠山の中心部に行くには付添(監視)が必要だったということで、これは逃亡防止のため。
また、稼ぎ100円につき20円を前借金返済のため積み立てることを警察署長から言い渡されており、衣裳や部屋代、食費も警察の指導か、全部楼主持ちと決まっていました。
こう見ると、全国規模で俯瞰すると京口新地の遊女の待遇は悪くなかった方だったかもしれません。

 

また、『篠山七十五年史』には、興味深いことが書かれていました。
大正末期から始まった不況や、昭和の初めの大恐慌、さらにプラス、大阪の道頓堀が発祥のカフェー、今のキャバクラのご先祖様みたいなもの、が篠山にも進出、新しい娯楽として一世を風靡しました。

これで遊廓が大打撃を受け、
「篠山じゃ営業にならん!!」

と遊廓を宝塚に移す計画が持ち上がりましたが、許可されずお流れになった話もありました。これはどこの書物にも書かれていない、新しい事実です。
宝塚は今でこそ少女歌劇団(タカラヅカ)で知名度は全国区ですが、元々は温泉地で芸妓も確かいたはず。そこに仮に遊廓が移っていたら…歴史のIFは読者の皆さんにお任せします。

 

で、この『篠山町七十五年史』のもう一つ重要な面は、「昭和30年発行」ということ。
つまり、赤線が現役だった頃に書かれた書物なので、赤線時代の京口新地も現役ということ。
そのことも少しだけ書かれており、遊廓時代は衣食住は楼主持ちだったのが、赤線時代は全部女性持ち。分け前は女性:業者=6:4だったそうです。
つまり、京口新地は戦後も赤線として存続していたことが、この書物で明らかになりました。

そして、ついでに書いておくと、『篠山案内記』にも書いてあった篠山の芸妓は『篠山町七十五年史』にも記されています。

連隊が篠山に設置された明治41年((1908)の芸妓数80名がピークで、大正7(1918)年頃は35名、大正13(1924)年には25名、昭和3(1928)年にゃ18名と右肩下がり。
更に昭和2年にあったという「某重大事件」により検番の幹部全員が逮捕され、カフェーの進出や花街にも遊興税が導入されたのが追い打ちになり、戦争の色が濃くなったことがとどめになって、太平洋戦争寸前の昭和16(1941)年10月に解散
以後篠山に花街復活はおろか、芸者がいることはなかったそうです。
それに比べたら、遊廓はしたたかというか、原始的な欲に基づいた産業はしぶといというか、戦後も残ったことが生命力の強さを物語っています。

 

なお、くどいようですが『篠山七十五年史』は昭和30年刊行、3年後の売防法施行による赤線の消滅の顛末までは書かれていません。書かれていたら、編集者は予言者になってますしね(笑
別の資料によると、売防法施行寸前の昭和33年1月現在、業者数10軒、女性の数14名、引き手数13人。そのまま3月30日に解散となった模様です。

 

良くも悪くも地味~な篠山の、ふとしたら忘れられかねない遊廊跡がクローズアップされたのは、「阿部定事件」で有名になった阿部定が昔、ここで働いていたことから。

阿部定事件については話しだしたらキリがないので、興味ある方はググってくれたらいいのですが、その阿部定が半年だけながら、この篠山に在籍していたことが明らかになっています。
阿部定事件のことは、中学生の時からボンヤリとは知っていましたが、20年後くらい経ちまたそのことを、篠山で思いだすとは。
なお、阿部定のことは『篠山町七十五年史』にもチラリと、


「一世を鳴り響かせた『お定事件』の主、阿部定も、ここ大正楼の娼妓であったのである」


と書かれています。

 

京口新地を歩く

さて、概要はこれくらいにして、篠山遊郭、つまり「京口新地」を訪ねる旅に行ってみましょう。

なお、写真を含めた以下のレポートは2009年当時のものなので、そこはあしからず。

 

「京口新地」の跡は、篠山の中心部、篠山城跡から南東の方向にあります。
昔の遊廓は、たいてい街の中心部ではなく郊外に作られたことが多いのですが、この「京口新地」の位置が当時の町外れという意味も持っています。
他の遊廊跡も、すべてではないですが、位置から当時の市や町などの範囲を知ることが、ある程度わかったりします。

 

篠山遊廓京口新地1

「京口新地」は今はただの住宅街になっています。その昔の遊郭は遊女が逃げるのを防ぐためか、それとも別の「一般の地」と区別するためか、堀というか運河のようなもので歴然と区切られていたり、東京にあった洲崎遊廓のように、長崎の出島の如く海に突き出た埋立地に作られたり、旧飛田遊廊のように、外国の城塞都市の如き壁で囲まれていた所もありました。
この「京口新地」も、何か不自然な、田んぼに引く用水路でもなさそうな、明らかに人間が線を引いたような水路に囲まれた地域にあります。
アンテナの周波数をフルに立てながら地図を見ると、
「なんでこんなとこにこんな地形が?」
というものが、たまにあったりします。
そこが、意外と「そないなとこ」だったり。

 

篠山遊廓2

「京口新地」に限らず、篠山近辺は日本でも珍しくなった藁葺き屋根の家を見ることが出来ます。大阪生まれの私はこんな家を周囲に見ることなかったのですが、藁葺き屋根の家を見ると何か懐かしさを感じます。日本人としてのDNAがそうさせているのかはわかりませんが、不思議な気分でもあります。

「京口新地」自体はそれほどの大きさでもありません。大人の男が隅から隅まで歩いても、30分強あれば十分な大きさです。
なので、お目当ての建物を見つけるのにも、時間がかかることはありませんでした。

 

篠山遊廓大正楼阿部定

これがお目当ての大正楼でございます。
約80年前、阿部定が遊女としてこの篠山に流れ着き、そして確かにここで働いていた痕跡は、昭和、平成、そして21世紀になってもこの地に残っていました。
建物自体は老朽化が激しくて一部朽ち果てた部分もあり、現在は主のいない空き家のようですが、周囲の建物を圧倒するよーな存在感です。

これは画像の角度が悪いのですが、意外と奥行きもある建物で、一発で「それ」とわかるもの。
車で4~5時間かけてはるばるやって来たお目当ての割には、撮った写真がこの1枚だけだったという不思議な現象。かつてこの建物で数々の女性が泣いて笑って毎日を送ったと思うと、写真を撮る手も止まったのかもしれません。その時の心境は、その当時の自分しか知りません。

 

篠山京口新地遊廓

ある意味「大正楼」よりインパクトがあったのはこの建物。
「大正楼」が京口新地の中心にあったのに対して、これは片隅にポツンとあったようなものですが、果たしてこれが旧遊廓や赤線の建物かどうかは知りません。
しかしながら、藁葺き屋根の住宅の中に、明らかに個性的なこの建物、周囲に全く溶け込んでないところを見ると、昭和初期~戦後の遊郭・赤線建築の生き残りだと思います。

 

京口新地篠山遊廓大正楼

誰も住んでいる形跡がなかったので、中を玄関越しに撮影させてもらいましたが、中はまるで江戸川乱歩の小説に出てくる屋敷でした。
中は意外にも朽ち果てた感じもなく、画像にはないですが、ステンドグラスなどもそのまま残されているようで、保存状態は外観に比べたら非常に良い状態と言えると思います。
まだ修繕したら使えそうな家、金さえあったらリフォームして住んでみたい気分です。
…と書いたのが10年前でしたが、そんな金は10年経っても貯まる気配はありません(笑)



都市部や周囲のように、高度経済成長のドサクサや宅地開発、そして建物自体の老朽化で数多くの元遊郭・赤線の建物が消えていく中、篠山は建物の数自体は少なかったものの、タイムカプセルのように残ってました。
そして何より、篠山というとこが昔の日本の空気を色濃く残してる地域なのか、「京口新地」の周りの風景もそれほど変わっていないような気がします。
そして、空気も当時とそれほど変わらんのかな?とふと思うと、ここの遊女たちの声が風と共に聞こえてきそうで、ここを離れるのに後ろ髪を引かれる思いだった、というのは気のせいなのか?

 

遊郭のことは前ブログでけっこう書いていたのですが、これを機会にこのブログに順次転載していきます。ある意味お楽しみに。

 

~おまけ 篠山遊郭簡単年表~

※京口新地関連のものは青字、その他は色なしです。
新しいことがわかり次第随時追加、変更していきます。

■明治32(1899)年 町中心部の立町に篠山検番開設
■明治40(1907)年 歩兵第七十連隊、篠山に開設
■明治41(1908)年 篠山遊郭開設(妓楼1軒、娼妓7名)
■明治45(1912)末 妓楼10軒、娼妓数32名
■大正4(1915)年 篠山軽便鉄道開業(→昭和19年廃止)
■大正8(1919)末 妓楼11軒、娼妓数44名
■大正15(1926)年2月 遊廓廃止が議会に上がるが否決
■昭和4(1929)頃 妓楼2軒、娼妓数110名
■昭和7(1932)年頃 阿部定が篠山に娼妓として滞在
■昭和8(1933)年12月 遊廓を宝塚に移転する計画が上がるが許可されず
■昭和10(1935)年 娼妓総出の盆踊が行われたという
■昭和20(1945)年 敗戦

■昭和21(1946)年頃 赤線に移行か
■昭和30(1955)年 業者10軒、女性30名
■昭和33(1958)年1月 業者10軒、女性14人
■同年3月31日 売防法施行により解散・消滅

 

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大阪の「中華街」 前編ー川口華商の興亡

 

大阪の中華学校

大阪市浪速区大国町。ここにある学校があります。

 

大阪の中華学校

中華学校です。

中華料理専門学校ではありません。在阪華僑のための学校です。

 

在大阪中華学校
大阪に中華学校…関西で「中華」だと神戸が真っ先に連想されるせいか、大阪となると少し違和感があるかもしれません。事実、そこには有名な中華街と中華学校が存在するのだから。

しかし、大阪に中華学校がある以上、一定の需要と歴史があるはず。
そんなことを考えながら周囲を散策してみたのですが、チャイナタウンのような雰囲気は微塵も感じません。

では、何故ここに…というかなぜ大阪に中華学校が存在しているのか。
その歴史を掘ってみると、戦禍に消えたある地域の、忘却された歴史が浮かび上がります。

 

大阪にあった「チャイナタウン」

 

大阪川口中華街川口華商

大阪は、安政五年(1858)に締結された条約に基づき明治元年元旦(1868)より開港され、川口の地、現在の本田1~2丁目に外国人居留地が建設されました。
が、川口は本来海から離れ、川底も浅く大型船が入港できず貿易には非常に不便な地。
明治10年(1877)には、ほとんどの西洋人が適地の神戸へ引っ越していきました。

ここまでは漠然と知っていることだと思いますが、その後を知っている人は少ないと思います。


西洋人が去った後の新しい住人は、中国人たちでした。
川口の中国人の記録は明治初期からあり、金儲けの甘い汁を求めて密航する者、長崎より移住する者、買弁(西洋人と日本人の貿易仲介兼通訳)から独立した者など、背景は様々。
中国人は大阪の西洋文化伝播の触媒的存在となり、日本人は彼らから西洋式クリーニングやパン製造法を学び、大阪のラムネ屋・パン屋・クリーニング屋は川口が発祥となっています。
明治9年(1876)の川口の中国人人口は114名*1。同12年の神戸には約6倍の617名でした*2

川口に定住した最初の中国人は広東・福建系でしたが、やはり不便だったのと、おそらく他地方出身中国人との勢力争いに敗れたのでしょう、明治30年までにはまとめて神戸にお引っ越し。
途中で上海などの華中・華東出身者も入ってきたものの、日清戦争で数は激減、または神戸行き。
その後は華北出身者が、神戸とは別の中国人コミュニティを形成、川口中華街の主となっていきました。

 

川口への中国人の流入をまとめると、以下の通り
第一期:1867(慶応3)-1881(明治14)年。広東・福建出身者
第二期:1882(明治15)-1894年(明治27)。上海・浙江など華中出身者
第三期:1895(明治28)年以降。山東など華北出身者
(1895年~1897年にかけ広東福建系全員、華中出身者の大多数が川口を離れる)*3

川口を拠点に対中国貿易に従事した中国人商人を、
「川口華商」
と呼んでいました。

 

大阪中華北幇公所
川口華商たちは1895年、日清戦争が起こった年、商業親睦組合の「大清北幇商業会議所」を設立し、1916年(大正5)に「社団法人大阪中華北幇公所」に改称しました*4
そこには神戸の中国領事館の支所も設けられ副領事が常駐していました*5
場所は「本田小学校の南」*6、「電車道路の東」*7にあったそうですが、昭和40年(1965)の築港深江線(中央大通り)建設のために取り壊されたそうです。

 

大阪中華北幇公所の位置

記述を元にした場所は、ここ(あたり)のはずです。


1930年、大阪中華北幇公所が敷地内に付属の学校(振華小学校)を開校しました。
それ以前から学校開設の動きはあったものの、資金不足でなかなか実行には移せなかったそうですが、
これが大国町にある中華学校の直接のご先祖様にあたります。

 


川口中華街の特徴

川口の中国人街は、我々が連想するチャイナタウンとは少し違う特徴を持っていました。

「華僑」といえば、中国南方の福建・広東省出身者が中心です。
これは日本だけでなく世界的な傾向で、チャイナタウンによって主要出身者は違いますが、ルーツをたどると十中八九どちらかです。
中華街で「焼豚(チャーシュー)」や「ゴマ団子」「シューマイ」が食えるのも、構成人員が広東出身者だったから。これらは元をたどると、広東省でしか食えないご当地グルメ。今でも北京など、というか広東省以外で「ゴマ団子食べたい」なんか言えば、ハァ?と冷たい反応をされるし、私もはぁ?と言います。
横浜と神戸の古参は広東系、長崎は福建系が多いと聞いていますが、横浜は古参が出ていき現住人は全然違うという話を、中華街で100年以上続いたチャーシュー屋の倅が15年前に言っていました。
そんな彼も、
「僕、日本人になりま~す♪」
さっさと帰化し中華街を去っていきました。

大阪川口の場合、上述したとおり旧満州や天津、山東省など華北が中心。「チャイナタウン」としてはけっこう珍しいのではないかと思います。

 

もう一つの特徴は。

 

「中華街」とくれば中華料理屋が所狭しと並び、観光客が本場の味を堪能する…写真のような光景をイメージするかと思います。
しかし、川口の中国人はほぼ全員、対中貿易従事者の「華商」かその家族。

 

大阪川口中華街川口華商1939

昭和14年(1939)の川口の写真が残っていますが、全然「チャイナタウン」っぽくありません。手前の中国服を着た親子連れ(?)がいなければ、ただの大阪の町並みです。
そう、ここは貿易拠点、メシ食うところではなかったということ。だから中華街に「」をつけている理由がこれでおわかりかと思います。


神戸の南京町も、今の形(食い物屋中心)になったのは1980年代に入ってからで、今の形になったのは1985年頃。戦前は日本人の店と混ざり合い、食い物屋というより市場。南京町の特徴は、「よそ者」を快く受け入れる神戸の懐の深さもあり、日本人社会と華僑社会が100年以上仲良く共存しているところです。

 


行桟

川口には、「行桟」という独特のシステムがありました。
「行」は商売、「桟」は上屋(倉庫)・宿屋という意味で、合わせて商売拠点のような意味となります。
北京語では「ハンチャン(hang2 zhan4)」ですが*8、大阪では日中語が混じり「ハンサン」と呼ばれていました。

 

海外で商売をしたい…言うのは簡単ですが、商習慣や法律、ルート開拓など様々な障壁があります。私も元商社マンだったのですが、毎日血を吐く思いでした。ゼロからカネを稼ぐとはこんなに辛いものなのかと。
でもお給金高かったでしょって?それは三○商事や三○物産の世界ですがな。

 

そんなあなたのお悩み、すべて我々がサポートします!

 

それが「行桟」という存在でした。

 

川口華商行桟

行桟は基本2階建てのアパートになっており、そこに事務所兼寝室を完備。
日本語や大阪の商習慣に通じた通訳兼秘書*9も、1名以上ご用意。銀行との仲介や保証人代行や海上保険の代理店機能、さらに不在・帰国時のカスタマーサービスまで。
人間はかばん一つでOK牧場!

至れり尽くせりとはこのこと。これなら現地事情がわからない商人Lv.1も不安なく商売ができます。


無論、行桟の利用料金はタダではないのですが、右も左もわからないLv.1は、ひとまず年間売上の2割。
日本での商売に慣れると、使用料として6~70円/月、他は売上に応じたご祝儀*10を、旧正月など年1~2回*11
商人が儲かれば儲かるほど行桟も儲かるわけだから、win-winの関係。商売としてもかなり旨みがある。


行桟を拠点に活動する商売人は、山東省出身者、天津出身者と、故郷で固まる傾向がありました。

これには、中国人の人間観が影響しています。
基本的に、中国人は家族・親類以外を信用しません。
現在も、中国人観光客は中国人経営の店で買い物をし、中国人ドライバーの白タクに乗り、中国人所有の家で民泊するなど、中国人の中だけで経済を回していますが、これは「騙すより騙された方が悪い」世界を生き抜く中国人の他人不信が形になったものです。

 

他人不信の文化に基づいた中国社会では、自分と家族、親類の「宗族」の間が世界であり宇宙。革命家の孫文はそれを、「一握の砂」と表現しました。中国人に国という概念はない、あるのは宗族(砂)のみと。
バラバラの中国人を「中国人」として団結させるため、毛沢東は宗族社会を一度破壊し更地にしました。その結果は大失敗。
ならば宗族を国にまで拡大させよう!
と方法を変えたのが現在の「愛国心教育」なのですが…書き出すとキリがないのでまた機会があれば。

 

同郷出身者以外には容易に心を開かない中国人は、自然に同郷出身者どうしで固まる傾向があり、その中での団結力は非常に強い。秘密結社的なところがあるので、外からはなかなかわかりません。

行桟もそれぞれの地方別に分かれていますが、商売人も同郷経営の行桟ではないと利用しません。いつ寝首をかかれるかわからないから。
言うなれば、行桟はそんな中国人の生態系を利用したビジネスの一種なのです。

 

昭和12年(1937)の行桟の数は13、店員の数は平均22名。日中関係のきな臭さもあり、明治後期~大正初期の27件に比べれば半分以下ですが、
それでも店員も入れると約1500人の華商が住んでいました*12

商売人が行桟に集まる理由は、それだけではありません。
世界を旅するバックパッカーにとって、命とパスポートの次に大切なのが情報。今でこそインターネットがありますが、情報はナマモノ、活きの良い獲れたてピチピチは現地で収集が必要です。
バックパッカーは「安宿」と呼ばれるところに泊まるのですが、理由は値段が安いだけでなく、そこに旅人も集まり、同時に情報も集まるから。ドラクエで言えば「ルイーダの酒場」のようなもの。
華商が行桟に集まる理由も同じ。商売人サロンとして情報収集のしやすさもあるのではないかと、元バックパッカー&商社マンとして容易に想像がつきます。

 

ある輸出品と、ある企業

川口華商を通した対中貿易は、大正後期にそのピークを迎えました。
その年の貿易額は1億2000万円。戦前の大阪は、対中貿易に関しては神戸をしのいでいましたが、大阪港の対中貿易の6割を川口華商が商っていました。
主な輸出品は綿布や人絹などの原料で56%を占め、他は雑貨・生活必需品がほとんど。変わり種は自転車、鏡の名前も品目にあります*13

その中に、魔法瓶の名もありました。

昭和11年(1936)の売上は13万円(全輸出の0.4%)と、割合はごくわずかながら、扱う華商の数は20軒とまずまずの数字です*14

川口華商の活躍華やかな頃、川口の隣町の九条に「市川兄弟商会」という、愛知県から上阪した兄弟が経営する小さな魔法瓶工場がありました。魔法瓶の国内需要はあまりなかったものの、水は沸騰させないと飲めず、さらに習慣的に温かいものしか口にしない中国や東南アジアにはこれが大ウケ。特に中国向け輸出販売は川口華商が代理店として一手に引き受け、会社は大いに繁盛しました。

輸出が軌道に乗り、さて商標(ロゴ)を造ろうと考えた結果、主な輸出先の東南アジアでは神の使い、長寿の象徴である象をシンボルにしました*15

 

 

象印商標ロゴ戦前

これが当時のロゴです。これが現在では…

 

 

 

 

 

象印商標

これ。

そう、市川兄弟商会とは今の象印マホービンのことです。

 

象印の前身市川兄弟商会が商売を軌道に乗せ始めた同じ時期、同じ大阪市西区に「菊池製作所」という同業他社があらわれました。

こちらは創業当初から虎マークの商標を掲げ、国内を中心に台湾・朝鮮・満州へ販路を伸ばしていきました。それを見た市川兄弟商会さん、

「あちらはんが虎やったら、こっちは象や!象で虎を踏み潰したる!」

という理由で「象印」にしたという説があります。主にネットで散見する話ですが(Wikipediaにも載ってる)、象印の公式HP・社史ともにそんな話はなく、いわゆる「そんなことは言ってない」*16

で、虎のマークの魔法瓶…連想ゲームすればおわかりでしょう、菊池製作所は現在のタイガー魔法瓶です。

現在は調理家電の大手としてしのぎを削る両社ですが、人間で言えば同じ町の産湯を浸かった幼馴染(象印の方が2018年、お先に100周年)、「象」「虎」のブランドは同い年(大正12年生まれ)です。

象印の社史には、川口華商とのタッグを組んだ活躍が公式HP上の沿革にも書かれていますが、タイガーの方は特に記載なく、川口華商との絡みはないようです。

 

戦争に消えた川口華商と中国人町

川口の中国人の数は、昭和5年(1930)には1,737人とピークを迎えました*17
実際に行くとわかりますが、華商が固まっていた本田一番町・二番町(現在の本田1,2丁目)は決して広くはありません。そこに1000人以上の中国人がいたとすると、けっこうな密度です。
大正末期~昭和5年くらいが、中華街としての川口の絶頂期でした。

 

その後の日中貿易は、大陸情勢の硝煙臭さの濃度と共に不安定となっていきます。
昭和6年(1931)の満州事変以後、日本と大陸との関係が怪しくなったと同時に、華商が独占していた日中間貿易に日本の大資本が参入。対中貿易の半分を占めていた原料の現地生産も始まり、それによって1,500人いた華商は300人に急減しました*18
3年後の9年には再び1000人越えと商売も回復するものの、昭和12年の支那事変(日中戦争)とその泥沼化により日中貿易は再び先細り、川口に住む華商の数も再び減少しました。
しかし、川口華商の数の最後のデータは昭和15年(1940)でも1000人強*19

 

大阪川口中華街川口華商

上の川口の写真は、ちょうどこの時のものとなります。

昭和16年の対米戦以後は貿易も統制され、商売どころではなくなった中国人は次々と帰国。さらに昭和20年の空襲で川口界隈は焼失、大阪の中華街の歴史はここで幕を下ろしました。


大阪中華北幇公所付属中華学校も空襲で焼け*20、1946年に本田小学校の校舎の一部を借り、「関西中華国文学校(すぐに大阪中華学校に改名)として再スタートしましたが、1956年代に現在の地に移り、現在に至っています*21。場所こそ違うものの、大阪中華学校は川口中華街の残滓だったのです。

 

毎度のごとく文章が長くなってしまった、ここでいったん中入り。
実際に川口を訪ねた後編は次回へ。

parupuntenobu.hatenablog.jp


※参考資料

①大阪市産業部貿易課編『事変下の川口華商』(昭和14年)
②大阪市編『西区史 第二巻』
③大阪市編『西区史 第三巻』
④西口忠『川口華商の形成』
⑤宋晨陽論文『チャイナタウンとしての南京町の戦略-南京町商店街振興組合に注目して』
⑥論文『日本における華僑学校の現状』張澤崇
⑦ブログ「中華街たより(2018年5月) 『大阪川口華商』 - 日韓・アジア教育文化センター」
⑧大阪中華学校HP-学校案内
⑨象印マホービンHP「象印のあゆみ」
⑩象印マホービン経営推進部企画・編集『象印マホービンの90年』
⑪タイガー魔法瓶HP

 

*1:参考資料④付録年表

*2:参考資料⑤

*3:参考資料④p105

*4:※華中出身者たちは1895年に大清南幇商業会議所を設立、1919年社団法人中華南幇公所に改称。

*5:参考資料③p394。

*6:参考資料④ P115

*7:参考資料③ P393

*8:「商売」を意味する「行」は、xing2ではなくhang2と発音

*9:「店友」と呼ばれていました

*10:資料①によると、1200円ほどが相場

*11:資料①。

*12:資料①

*13:資料②

*14:参考資料②

*15:参考文献⑨

*16:産経新聞記事:【関西企業のDNA】「暮らしを創る」 市川兄弟から始まった象印マホービン

*17:参考資料③ 106頁

*18:参考資料①

*19:参考資料④

*20:参考資料⑤

*21:参考文献⑥⑧

三国志と三国演義

 

三国志三国演義

日本人は、いや、日本人男性は三国志が大好き。私もご多分に漏れない三国志好きです。中国留学時も三国志好きな男が多く、日夜三国志トークに花を咲かせていました。

 

三国志は中国の英雄伝。本場の中国人男性もみんな好きだろう。いや、嫌いなわけがないじゃない。
そんなwktkな気持ちを抱いて、中国人の友達(男)に告白しました。
「俺、おまえのこと…じゃなかった、三国志が好きなんだ」
さあいくらでも食いついてこい!期待値は最高潮。
が、彼の返事は、意外なものでした。


「ええ!あんなの好きなの?」


がっつり食いついてくるかと思っていた私は大ずっこけ。「あんなの」扱いかいな~!

 

当時(1994年)、中国の中央電視台で長編ドラマ『三国志』が放送されていました。おそらくCSの中国チャンネルでやっているあれです。
三国志好きとしては見逃すわけにはいかず、毎日夜9時以降はテレビに釘付けでした。
しかし、意外なことがわかりました。三国志を「あんなの」扱いした彼も、これを毎日見ていたのです。訳がわからない。
一連の話を、留学の先輩にぶつけてみました。
彼はあ~~!と口元で少し笑い、頷いていわく。

「君の思っとる三国志と、相手が想像してる三国志は違うよ」

どういうこっちゃ!?三国志の他に三国志があるっちゅーんか!?

 

二つの"三国志"

そもそも三国志とは、後漢の末期から魏・呉・蜀という3つの国に分かれ、天下統一にしのぎを削っていた時代の話で、西暦184年から280年の間日本は弥生時代の頃のことです。

中国にとって「現代」は歴史ではありません。彼らは前の王朝である「過去」を記すことがすなわち歴史。『三国志』も、三国時代の戦乱を統一した「晋」の陳寿によって編纂された歴史書です。
しかし、原本が記述があまりにシンプルすぎたので、裴松之(はいしょうし)という人が5世紀に注釈を加えました。現在では、陳寿の原本と裴松之の注釈本を合わせて、『三国志』と呼ばれています。

 

それから約1000年後、羅漢中という人物が『三国志』をベースに長編歴史小説を記した…とされています。
それを『三国演義』(以下『演義』)といいます*1

 

ここから日中の認識に大きな、かつ無意識的ズレが生じます。

オタク以外の日本人が指す"三国志"のほとんどは、実は後者の『演義』のこと。我々が慣れ親しんだ吉川英治の小説、横山光輝の漫画などは、すべて『演義』をたたき台にしています。

対して中国人は、『三国志』と『演義』は全くの別物と認識しています。詳しい日本人も、『正史』『演義』をきちんと分けています。
上のエピソードの彼が不思議な顔をしたのも、『歴史書』の方が好きなの?あんた変わってるね…という風に取ったからなのです。
彼が理学部数学科の学生、つまりガチ理系男子だったからかもしれないですが。


では、何故『三国志』好きが不思議なのか。
歴史書は、読んでみると実につまらない。直近の日本史の本格的歴史書に『昭和天皇実録』がありますが、読んでみると
「昭和○年○月○日 陛下はxxされた。xxについてこう仰られた」
の羅列のみ。
歴史書馴れしていないと、
「俺が知りたいのはそんなんちゃうねん!」
と怒ってしまいます。が、歴史書とは「俺が知りたいこと」を行間から推測する文字の集合体に過ぎません
そこからどんなエキスを絞り出すか…そこがヒストリア料理人である歴史家の腕の見せ所。ほとんど推理小説の世界です。

その素人が読むとつまらん歴史書をベースに、創作をふんだんに入れ、読んで楽しい英雄譚に仕上げたのが『演義』。くどいですが、日本人はこれを『三国志』、それも史実と誤認しているのです。
『演義』が全部史実なら、オカルト好き西洋人から

「諸葛孔明宇宙人説」

が出てきてもおかしくない。というか孔明宇宙人やろ。

そのため、中国人に「私は三国志が好きです」という場合、必ず
「我喜歓三国演義
としなければなりません。
「我喜歓三国志
だと、食いついてくるのは歴史学者だけの可能性が…

ここまでで、あれ?と気づいた方は偉い。
私は「三国演義」と書いています。しかし、"三国志"を読んだことがある人は、
「『三国志演義』じゃないのか!?」
と首をかしげるはず。
どちらが正解かは私からは言えませんが、少なくても中国(語圏)では『三国演義』であることに、少し注意が必要です。

 

『三国志』と日本とのかかわり

『三国志』(くどいですが、歴史書のほう)には、日本に関する記述が残っています。

『魏志倭人伝』…この名前を知らない人は、おそらくいないでしょう。
これ、実は『三国志』の一部なのです。
正式名称は、『三国志魏書第三十巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条』。これを略して『魏志倭人伝』。


倭の邪馬台国の女王卑弥呼が、魏・呉・蜀三国のうち魏に使いを送ったのは西暦238年。曹操の孫である曹叡が二代目皇帝(明帝)の頃です。
三国志の三傑である劉備・曹操は既に亡く*2、4年前(234年)には諸葛孔明も死亡、彼らの子や孫の世代となっていました。

卑弥呼はその後も何度か魏に使いを送り、『親魏倭王』の称号を下賜されたのですが、248年(諸説あり)に卑弥呼が亡くなると、「大乱」の後「倭の五王」による朝貢までの170年間、大陸との交流はいったん途絶えます。

 

三国志と卑弥呼。一見何の関係もなさそうな事柄が、実はかなり深く関係していたのです。


それでも"三国志"は面白い

『三国演義』はあくまで小説、『三国志』にはないフィクションが数多くあります。

 

三国演義桃園の誓い

劉備・関羽・張飛が義兄弟の契りを交わしたオープニング、「桃園の誓い」がそもそも創作だし、中盤のクライマックス「三顧の礼」も、全然ドラマチックではない。


そして何より、小説なので劉備という主人公がいます。彼は善、ライバル曹操などは悪と描かれ、特に曹操のワルっぷり描写は中国人にもアンチがいるほど徹底しています。
ただし、史実の曹操は文武両道、政治家・軍略家・詩人・編集者*3…どれを取っても一流のマルチ人間です。曹操こそ宇宙人説が出てきてもおかしくない。

対して、『三国志』の人物評価は比較的公平。
『演義』ではドラえもんかお前は状態の諸葛孔明ですら、


「政治は超一流だったけど、軍を動かすのは苦手だったようだ」
(『三国志蜀書諸葛亮伝』)


と、軍司令官としては落第に近い評価をしています。
ただし、『三国志』の記述はすべて正しいかというと、当時の政治事情も絡み疑わしいのも事実ですが、考証は専門研究者にお任せしましょう。

『三国志』と『演義』のどこがどう違うのか、ということを調べるだけでも、ちょっとした知の冒険。
歴史書だろうが小説だろうが、どちらも三国志といえば三国志。その面白さは変わらないし、今後も変わることはないでしょう。

 

==こんな記事もあります。よかったらどうですか?==

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

*1:『演義』の現存する世界一古い写本(『三国志通俗演義』)は、日本の国立公文書館が所有しています。

*2:一世代分年が離れた呉の孫権は健在

*3:現代我々が読む『孫子の兵法』の原本は曹操が整理・編集したもの。

今は亡きゲーム会社を偲ぶ

自分史はすなわちゲームと共にあり。ゲームをすれば寝食を忘れ時間を忘れ、そして我を忘れたゲーム少年でもありました。
現在ゲームをやることはほとんどないですが、たまにレトロなゲームが置いてあるゲーセンなどに行くと、やはり時間を忘れ夢中になっています。
こんな有様なので、プレステなどゲーム機を買うと途端に生活に支障が出てしまうのは明白。「やらない」というより「封印中」と表現した方が正解です。

そのきっかけは、やはりファミコンでしょう。
ファミコンの発売日も、スーパーマリオの発売日も覚えている、さらに初代ドラクエの発売日にお札を手に持ちおもちゃ屋へ走った世代。
我が人生、ファミコンと共にあり。そういう意味では、私の人生、いや日本の子供数千万人の人生を狂わせたファミコンの罪は深い。

 

今まで市場で販売されたゲームの種類は、それこそ神のみぞ知るの数量になります。自分ではかなりの数のゲームをやったつもりですが、実際は氷山の一角程度なのでしょう。ファミコンからプレステ4まで、一体いくつのゲームが販売されたのか。それをカウントした人はいるのだろうか。おそらく、世界のどこかにいると思います。

そんな星の数ほどある、もしくはあったゲームは、土の中に種を植えて水を撒けばできるものではありません。ちゃんとゲームメーカーというものが存在します。
ゲーム会社も、開発会社から販売会社まで星の数ほどあるのでしょうが、ゲーム業界は常に戦国時代、小さな牌を奪い合う修羅場と聞きます。
プレステのSONYだって、SWITCHの任天堂だって、いつ倒産するかわかりません。実際、あのSEGAでさえハード機の失敗で倒産1分前まで追い詰められ、創業者が全財産をはたいてなんとか死亡を免れたというほどの際どいところでしたから。

今は全く聞かないあのメーカーも、ゲーム業界から撤退しただけで会社自体は存続しているケースがほとんどですが、中には倒産・破産で跡形もなく消え去ったメーカーも多数あります。
今回はその中でも、
「え?こんな有名なゲームを作っていたのに!」
と驚くような、「今は亡き」なメーカーを。

 

 

1.ジャレコ

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ジャレコと言えば、ファミコンのあの伝説のゲームが真っ先に思い浮かびます。

 

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「燃えろ!プロ野球です。

 

 

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40代以上なら、ファミコンの野球ゲームとくれば「ファミスタ」かこれを思い浮かべる人も多いと思います。
また、
「さすがは落合だ、バントでホームランが打てるぜ!」
という裏キャッチフレーズでもお馴染みの野球ゲームです。
私がこれを初めてやったのが中学校1年の時。同級生が買ったというのでやりに行った記憶があるのですが、Wikipedia先生によると発売日は1987年6月。記憶とばっちり一致します。
おっと、また長くなってしまうのでこのゲームの話はこれまでだ。

 

ジャレコの他のゲームと言えば、

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(画面はアーケード版)

主人公は実はかわいいおねーちゃんだったと、当時の二次元好きの萌えバロメーターを急上昇させたシティコネクションや、

 

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(画面はアーケード版)

ゲーセンでもファミコンでも人気があった「忍者くん」も、ファミコン版はジャレコからでした(アーケード版は別会社ですが、それは後述)。

 

 

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その続編的な忍者じゃじゃ丸くんもありましたね~。これはファミコン中期の名作の一つでした。

 

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また、30年の月日を経てもいまだ内容が賛否両論、究極のクソゲーなのか名作なのか議論が続くレジェンド、ミシシッピー殺人事件」ジャレコでした。

 

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個人的には、うる星やつら ラムのウェディングベル」というゲームも意外に面白かったのを覚えています。

 

ファミコン世代な方はおそらく、これらのゲームすべてを記憶していることでしょう。それほどの名作を夜に送り出したメーカーだったのです。

 

しかし、2000年頃に外資に買収されてからジャレコは迷走し始め、2006年に「新ジャレコ」(謎)を設立するも数年後には事実上の休眠状態に入りました。
そして2014年、親会社の破産と共にジャレコは共倒れという形で消滅しました。
これだけの記憶に残るゲームを作った会社が、最後は誰にも知られることもなく消滅…世はかくも非情なのか。

 

 

 

2.データイースト

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 データイーストは、ゲーム業界の中では老舗の一つでした。「DECO」という名でも知られていました。 

 

 この会社が世に出したファミコンでの名作と言えば、

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このヘラクレスの栄光でしょう。

ギリシャ神話をベースにしたRPGで、基本システムは言っちゃ悪いが、ドラクエのン番目のどじょうです。 が、防具の「耐久力」が斬新でかつ結構うざかった記憶があります。

とは言うものの、RPGとしてはかなり面白かったことは確かで、続編も出てデータイーストのシリーズ作品となったことからも評判は良かったのでしょう。

 

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新宿・歌舞伎町に事務所を構える私立探偵の活躍を描いた推理アドベンチャーゲーム「探偵 神宮寺三郎シリーズもありましたね。

…というか、神宮寺三郎はいまだ死なず。新作が12月に発売される予定の現在進行系シリーズです。

データイーストが現存しない現在、神宮寺シリーズは版権を得た別メーカーが発売しています。

 

 

空手道アーケード

(画像は大阪のレトロゲーセン『ザリガニ』にて)

ゲーセン派なら、「世界初の格闘ゲーム」という真偽不明の伝説を持つ「空手道」も、データイースト製です。

 

バーガータイムゲームデータイースト

また、具を踏んでハンバーガーを完成させるという、保健所から営業停止を食らいそうな「バーガータイム」というゲームのメーカーも、データイーストです。てっきりナムコと思っていました。 

 

しかし、データイーストのゲームと言えば、この「珍」…いや「奇」なゲームを外すわけにはいきません。

 

チェルノブ

「チェルノブ 戦う人間発電所という、なんのこともないアクションゲームなのですが、これが伝説の「奇ゲーム」と呼ばれるゆえんはそのネーミング。

このゲームが出る2年前の1986年、ソ連(現ウクライナ)で起こったチェルノブイリ原子力発電所爆発事故が起こりました。事故もひどかったのですが、大量の放射線漏れで世界中(特にユーラシア大陸)が、

「もう世界は終わりだ」

とパニック、ノストラダムスの大予言はやはり本当だったとか、北斗の拳の世界が現実になるだとテンパる始末。テレビでは、当時画期的だたCGを駆使して核の冬とやらをビジュアルで再現。さんざん国民を煽っていたのは、30年後の今から見ると一体何だったのかと。

そんな矢先に出たのがこの「チェルノブ」。

これで誰の逆鱗に触れてしまったのか、チェルノブイリを、原発を茶化したと非難轟々。データイースト側は関係ないと言い訳するも誰も信じず。やっちまったデータイースト

まあ、当時中学校2年だった私でも、直感でチェルノブイリを茶化したなと思いました。ATMIC RUNNERにチェルノブでは、中学生でも容易に想像できる。
今後も日の目を見ることができない、ゲーム界の永久封印中のゲームとして「奇」なのです。

 

「名」から「奇」まで、幅広いゲームを生み出したデータイーストですが、バブルで手を広げすぎたのか1990年代から経営の雲行きが怪しくなります。

経営に行き詰まった挙句、データイーストはとんでもないものに手を出します。

 

 

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(画像はイメージです)

なんですとぉぉぉぉぉ!!!!

椎茸の栽培にまで手を出してしまったのです。溺れる者は藁をも掴むとはこのことか。

しかし、起死回生の(?)椎茸攻撃も実を結ばず、2000年に負債33億円で和議成立。2003年に破産宣告して消滅しました。

 

 

3.ハドソン

 

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 バァ~~イ、ハドソン!

ファミコンを朝から晩までやり尽くした1980'sキッズにとって、ハドソンは神にも匹敵する存在でした。本社があった北海道に足を向けて寝ていた人は、おそらくいるまい。

ファミコン史を語るには不可避のこんな会社が現存せず…まだどこかに「コドモ」な心を残している私には、それが未だに信じられない気分だったりします。

 

それはさておき、ハドソンと言えばやはり高橋名人でしょうね。

 

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(1980年代の高橋名人

プロゲーマーの先駆けとして海外でも有名な人です。大人になって冷静に見れば、ただのハドソン宣伝部のサラリーマンだったのですが、そんな大人の事情など知らないコドモたちには大人気。今で言えばヒカキンのような立ち位置です。

高橋名人が我々コドモにどれだけの影響を及ぼしたのか。

関西には、東日本と比べ高橋姓の比率が高いのですが*1、その例に漏れず私の同級生・同期生は高橋だらけ。そんな周囲の高橋姓が男女問わず全員、

「高橋名人

というあだ名に変わったほどでした。彼らが名人と呼ばれる特技があろうとなかろうと、そんなものコドモには関係ない。

ちなみに、私の記憶が確かならば、コナミ毛利名人っていましたよね?

オリンピックでは現在、競技としてのゲーム、e-sportsを採用するか否かが海外で議論されているそうですが、高橋名人はその開拓者とも言える人と言えるでしょう。

 

その高橋名人がどれだけコドモたちの心を揺さぶったか、一つの証明があります。

 

www.youtube.com

 懐かしすぎてようつべに残っていたCMを持ってきてしまいましたが、高橋名人の冒険島という名ゲームです。

ただのサラリーマンたっだ高橋名人を冠に抱いているところに、当時の名人がどれだけ人気だったかを物語っています。

このゲーム、うちの地元では品薄になってなかなか手に入らなかったのですが、それもそのはず、あれだけ人気があったのに100万本しか出荷しなかったから。

奇跡的に(?)「冒険島」を手に入れることが出来た小学校の友人は、まるで超レアポケモンをGETした時のようなチヤホヤぶりで、彼の家は押すな押すなの超満員。今冷静に考えると、彼のお母さんが出してくれていたお菓子代だけでもすごい額になっていたと思います。

しかし、あの歴史に残るクソゲー、「いっき」で100万本弱「売れた」のに、大人気だったこのゲームが100万本しか「出荷」してない、そりゃ品薄になるわけやわ。

 

 

 

ハドソンのゲーム業界におけるもう一つの功績は、

 

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これです。そう、家庭用ゲーム界で無敵モードだったファミコンにあらわれた任天堂殺戮マシーン、PCエンジンです。

当時を知っている人は、こう書くとこんな疑問が浮かぶはず。

「これって確か、NECが作ったんじゃ・・・」

いえ、これCPUやOSなど中身はハドソンで、販売担当がNECなだけ。技術屋集団のハドソンには独自の販路がなく、パソコンで販路も知名度もあるNECに販売を委託したというのが歴史の事実ですが、覇王NINTENDOに真っ向からケンカを売りたくないという大人の事情もあったと思います。

今や当たり前になった円盤型ソフト(CDやDVD、ブルーレイなど)を日本で初めて作ったのも、今にして思えばハドソンでしたしね。

そういう意味では、ハドソンはゲーム業界を変えるほどの実力を持つすごいメーカーだったのです。高橋名人?あんなの飾りです、コドモにはそれがわからんのです。

 

ハドソンは他にも、「ファミコン界初のクソゲー」という冠を持つ(?)

 

バンゲリングベイ

バンゲリングベイ』という移植ゲームも販売していました。個人的にはけっこう面白かったんやけどな~。

 

以前、レトロゲーセンザリガニの時に熱く語った、

 

ボンバーマン

ボンバーマン』もハドソン。

 

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今でもシリーズ化されている『桃鉄』こと『桃太郎電鉄』など、ハード力もソフト力もあるすごい会社だったのです。 

 

そんなハドソンも、メインバンクだった北海道拓殖銀行が1998年経営破綻して、風向きが一気に変わります。ハドソンは拓殖銀行と心中、いや拓殖がハドソンを道連れに無理心中する形となり破産寸前になったのですが、コナミが助け舟を出し子会社化(事実上の買収)。2012年には会社としても解散、現在はゲームブランドも含め、ハドソンの形跡は跡形も残っていません。嗚呼、つわものどもが夢のあと。

ちなみに、「高橋名人」はハドソンが商標登録しており本来は使えないはずなのですが、会社に貢献してくれたのでと無料で使用認可を得ているそうです。

 

 

4.UPL

 

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UPLという名前の知名度は、おそらくかなり低いと思います。はて?そんな会社あったっけ?と頭上に「??」が飛んでいる人もいるかもしれません。

しかしこの会社。

 

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かの「忍者くん」を作ったメーカーです。ジャレコの欄で既に書いたとおり、「忍者くん」のファミコン版はジャレコが販売しましたが、アーケード版はUPLです。

 

 

5.日本物産

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日本物産というどこかの海鮮問屋のような名前ですが、「ニチブツ」といえば、あああそこかと気づく人がチラホラいるかもしれません。以下ニチブツにします。

こちらは1975年にゲーム界に進出したのですが、ニチブツを大手ゲームメーカーにのしあげたのが、

 

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 『クレイジークライマーです。

私の記憶が正しければ、インベーダーブームが終息した次に出現し、たちまちゲーマーたちの心をつかんだ名作でした。

ファミコンのゲームも作ってはいましたが、家庭用ゲームでの名作は、

 

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『F1サーカス』というゲームです。これはファミコンではなくPCエンジンで発売されたのですが、F1ブームに乗って売れに売れ、内容も面白かったPCエンジン界の名作と言われています。

 

他にもセガサターンなどのゲーム製作も行っていたニチブツでしたが、バブルの頃に自社ビルを建てたりした放漫経営のツケがバブル崩壊で回ってきたのと、脱衣麻雀などエロゲーム路線に偏ってしまい、健全な社員が去ってしまったなどの要因で経営が傾き、2009年に事業を停止しました。のちに、別のゲーム会社がニチブツのオーナー社長だった人物と直接交渉し、版権を得ています。

 

 

 

6.テクノスジャパン

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あまり馴染みがない名前ですが、上のロゴを見れば膝を叩く人も多いはず。

ザリガニくにおくん

くにおくんドッジボール

(どちらも大阪新世界のゲーセン『ザリガニ』にて)

くにおくん』シリーズを作った会社と言えば、大きなお友達にはお馴染みですね。

テクノスジャパンは、上で述べた椎茸栽培会社・・・もといデータイーストから独立した会社でした。「くにお」とは社長の滝邦夫から取られています。

くにおくん」シリーズは、当時の世のヤンキーブーム(?)に乗ってヒット作となりました。今でも懐かしいなーと目を細めている人もいるはず。

しかし、それ故に成功体験に溺れたテクノスジャパンは、それ以後ヒット作に恵まれず、さらに何を血迷ったか自社ビルまで建てる始末。これが仇となってしまい、1995年に破産。『くにおくん』というゲームだけを遺し、消えていきました。

  

 

7.コンパイル

こちらも、会社名ではピンとこないと思います。

 

しかし、このゲームは少なからずやったことはあるでしょう。

ぷよぷよコンパイル

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あの大人気ゲームぷよぷよを作った会社でした。

ぷよぷよ』のような、上から何かが落ちてくるパズルゲームを「落ち物」というのですが、その代表が、

 

アーケード版テトリス

テトリスですね。

落ち物ゲームは、やもすれば単調すぎてゲーム中に寝てしまいそうなのですが、『ぷよぷよ』は対戦プレイを重視した「バトル」を持ち込み、革命を起こしました。社会現象にまでは至っていませんが、「ぷよぷよしない者は人に非ず」なほどのブームを引き起こした記憶があります。落ちゲーは女性ウケするという傾向がありますが、『ぷよぷよ』でゲームにハマったという女性も多いと思います。

また、この会社はこんな名作ゲームも作っています。

 

ザナック

 

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ザナックというシューティングゲームです。これはMSXファミコンでけっこうヒットし、私もやった覚えがあります。ファミコン版は確かディスクシステムでしたが、販売元はコンパイルではなく、ブランド力が高いポニーキャニオンという会社になっています。

他にも、MSX版のロードランナー(販売はソニー)も作っています。

 

結果として、『ぷよぷよ』で予想以上の大ヒットを叩き出したのが、逆にコンパイルの息の根を止めることとなりました。

質素な生活をしていた人間が、大金を手に入れると人生が狂うとよく言われます。コンパイルはその会社版でした。

すっかり調子に乗ってしまった経営陣は急速に事業を拡大、ぷよぷよ肉まんやぷよぷよもみじ饅頭まで作ってしまう始末。しかし、『ぷよぷよ』以外にこれといった自社ブランドでのヒット作もないのに無理をした結果、これらはすべて大ずっこけ。結局、1998年に経営破綻しました。

のちに他の会社の支援もあって復活するものの、『ぷよぷよ』の地縛霊に取り憑かれたかぱっとせず、2003年に再び経営破綻しこの世から消えることとなりました。

 

ちなみに、『ぷよぷよ』の版権はコンパイル破産時にセガが版権を取得しており、ユーザー(消費者)的には特に影響はありません。

 

ご臨終メーカーのアンカーを務めるのはこの会社。

 

8.SNK

SNKネオジオ

SNKとくれば、そう、あれです。

 

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NEOGEOネオジオというハードがあったことを覚えているでしょうか。

「THE 100 MEGA SHOCK!」

という言葉と共に1990年に登場したこのゲーム機、プレステ4なら「THE 50 GIGA SHOCK!」ですが、ゲーセンの格闘ゲームがそのまま移植が売りのこのハード、当時のアーケードゲームの容量がそんなものだったのでしょう。

そのSNKが売りにしてたのは格闘系のゲームですが、カプコンストリートファイターⅡ』(以下ストⅡ)なら、SNK餓狼伝説というゲームでした。

 

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奇しくも同い年、それも同じ大阪のメーカー産のこの二つのゲームは、1990年代前半の格闘ゲームを引っ張る機関車としてゲーマーたちを虜にしました。当然、私はどちらもゲーセンにかじりつきかなりの数プレイしましたが、正直面白さは甲乙つけがたい。現在の知名度はストⅡの方が上ですが、餓狼伝説も同じくらいのクオリティでした。

SNKの本社は、大阪府北部の吹田市江坂という場所でした。SNK絶頂期の頃は江坂駅がSNKNEOGEOの広告ばかり。地下鉄江坂駅が「SNK駅」か「ESK駅」に変わるのではないかと思ったほどの勢いでした。


しかしこのNEOGEO、本体が58,000円、ソフトが30,000円以上(!!)こんなの大きなお子様かスネ夫しか買えません。おまけに販売がバブル崩壊直後。バブル絶頂期ならPCエンジンCD-ROM2(価格はほぼ同じ)のように売れたものの、ちょっと販売時期が悪いんじゃないのかしらん。

それ故最初はレンタルから始めたのですが、これが意外にも好調でした。これで気を良くしたSNKはコストを下げ、家庭普及版を販売させました。

 

が!!!!

運の悪いことに、「奴」がゲーム界にあらわれます。

 

 

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それがあのプレイステーション」(初代)任天堂との仲が上手くいっていなかったナムコ*2スクウェア*3に近づき、ファミコンから寝返らせるなど準備万端のプレステに、格闘ゲームしか能がないNEOGEOは打つ手なしでした。のちにCD-ROM版の「ネオジオCD」も発売されるものの、効かぬわとプレステの高笑いのみが響くだけでした。

 そして格闘ゲームブームの終焉。

良くも悪くも格闘ゲームしか能がなかったSNKは時代の進化についていけず、2001年に経営破綻しました。その負債額は約380億円。ゲーム界では当時最大の額でした。100 MEGA でSHOCKを起こした会社は、最後に380億SHOCKを起こして壊れました。

 

しかし、ググってみたらわかりますが、株式会社SNKは生きてます。

www.snk-corp.co.jp

ロゴも同じです。

え?どういうことやねん?BEのぶ、お前ウソついたんか?

いえいえ、ウソはついていません。

SNKは破産後、プレイモアという会社にすべての権利を譲りました。そのプレイモアは「SNKプレイモア」となり、2016年に「二代目SNK」に商号を変更、現在に至っています。上にあるサイトは、生まれ変わったSNKであり、ネオジオを作ったSNKとはある意味関係がありません。

おわりに

 

このように、ゲーム業界は百家争鳴と同時に、大ヒット作に恵まれても消えてしまう戦国時代でもあります。この記事を見て、あのメーカーが、自分も楽しんだあのゲームを作った会社がなくなったとは・・・とショックを受けた方もいるかと思います。

ゲームには夢があっても、作る側には夢はなし。なんだか砂漠のようなドライな世界を垣間見てしまった、今回の記事でした。

 

==こんな記事もあります。よかったらいかがでしょうか==

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

*1:そのかわり、佐藤・鈴木は東日本の方が圧倒的に多い。

*2:バンダイナムコゲームス

*3:スクウェア・エニックス

大阪新世界のレトロゲーセン「ザリガニ」で懐かしのゲームを満喫しよう!

以前、といっても1年以上前ですが、大阪新世界の「ジャンジャン横丁」にあった、「ザリガニ」という小さなゲーセンのことを書きました。 

大きなお友達たちの、日常生活で失った童心を揺さぶった記事でしたが、書いた後で知りました。ここはあくまで「支店」「本店」は別に、新世界の一角に存在することを。

 

記事を読んでもらうとわかりますが、「支店」も懐かしいと叫んでしまうほどのレトロゲーム目白押しです。

しかし「本店」はもっとすごい。ネット上にあったゲームのリストを見ただけでも、私の青春の約10ページが新世界の一角に沈殿している。ここは行く、這ってでも行かねばならぬ。

 

 

なおここからは、「支店」の方は今後「支店」とし、「本店」を「ザリガニ」とすることにします。

 

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「ザリガニ」の場所は、地下鉄と阪堺線の恵美須町駅(恵美須町交差点)から通天閣へ続く道の、ちょうど中間に位置します。

 

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恵美須町駅から、通天閣を目印にこの道をまっすぐ行くと、

 

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この看板が目印!

 

大阪新世界のゲーセンザリガニ

向かって右側にこのような店が見えます。そこが「ザリガニ」。写真はビニールカーテンがあるので夏の写真です。

 

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これは去年(2017年)の写真で、2018年7月時点では筐体がかなり位置替えされています。しかし敷地が広くなったというわけではないので、基本的にこんな様子になっていると思っていただいて結構です。

中には1980~90年代に一斉を風靡したゲームがビッシリ。1970~80年代前半生まれの方は、子供の頃に見たあのゲーム、このゲームにおおはしゃぎ。目から汗が止まらない懐メロならぬ懐ゲーの博物館です。

客層は老若男女まんべんなくいるのですが、口コミで広がりつつあるのか、最近は外国人観光客の姿が増えています。外国人アレルギーを持ってる方は一度ここへいらっしゃい、ゲームで血まなこになったりはしゃいでいる姿を見ると、なんだ同じ人間じゃないかと感じますから。

 

ここからは、「ザリガニ」にはどんなゲームがあるのか軽く紹介を。

 

なお、設置ゲームは時期により違うそうなので、以下のゲームが今もあるとは限りません。事前に確認をお願いします。

…ってどうやって確認すんねんて? さあ(笑

==2019年3月14日追記==

「ザリガニ」にTwitter垢ができました。フォローしてね~と斜め上の方から声が聞こえる。

レトロゲーセン ザリガニ (@RETROZARIGANI) | Twitter

 

 

 

グラディウス

コナミが世に送り出した名作ゲームです。

「上上下下左右左右BA」・・・わかる人には、これで私が何を言おうとしているのかわかってしまう、国境も簡単に越えられる魔法のコマンドです。

このゲームは名作中の名作、ゲーム界の古典作品です。このゲームを知らないゲーム好きは、音楽家なのにベートーヴェンとモーツァルト知らないの?と心得よ。

 

「グラディウスシリーズ」は、アーケードだけでも9種類あるのですが、「ザリガニ」には、そんな本家シリーズ、つまり初代~Ⅳまで+「沙羅曼蛇」が揃い、今日も元気に稼働しています(2018年7月時点)。去年の一時期は幻の「ライフフォース」まであったんですが、今はない模様。

 

グラディウス新世界ザリガニ

これが初代。昭和60年(1985)登場なので、今年でデビュー33年となります。

 

沙羅曼蛇

翌年に急遽作られた「沙羅曼蛇」です。元々は「グラディウス2」として開発されたものの、大人の事情で別作品となりました。その経緯もあり、「グラディウス1.25(そのこころは中途半端)」と口の悪い人は言います。

 

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しかし、内容は中途半端どころか、非常に完成度が高いゲームです。

初代と比べグラフィックが大幅に向上し、上のようなプロミネンス(炎)は当時のガキどもには衝撃と賞賛をもって迎えられました。

 

 

グラディウスⅡ新世界ザリガニ

完成度はシリーズNo.1ではないかと思う(※あくまで個人的感想です)「グラディウスⅡ」です。同時期、MSXというパソコンで「グラディウス2」が発売されていましたが、それとこれは全く別物のゲームです。

私のゲーム魔としての成長期に登場したこのゲーム、これに吸い取られた私のなけなしの100円玉は数知れず。しかし良い思い出しか残っていない、素晴らしいゲームでした。

 

グラディウスシリーズを名作たらしめているのは、内容もさることながら、音楽のクオリティの素晴さ。

ゲームの完成度はBGMも含まれます。ゲームをしていない人にはわからないと思いますが、いくらゲーム内容が素晴らしくても、音楽がヘボければ感情移入はできない。人間とは勝手なものですが、そんなものです。

この記事も、久しぶりにグラディウスⅡのサントラをようつべで聞きながら書いているのですが、30年以上経っても色あせていません。ボスの音楽が流れてくると何故かキーボードさばきが早くなり、反射神経が通常の2割増しになる自分がいる。

 

ちなみに、「グラディウスⅡ」のコイン投入音は、効果音として様々なTV番組で使われています。この音、たぶん一度は聞いたことがあると思いますよ。

www.youtube.com

 

グラディウスⅢ新世界ザリガニ

日本中がバブル景気で踊り狂っていた1989年に登場した、「グラディウスⅢ」です。

これもそこそこはやった記憶があるのですが、内容まではさほど覚えていません。

 

グラディウスⅣ新世界ザリガニ

Ⅳに至ってはリアルでやったことすらないですし。よって、特筆すべき感想もありません。

 

 

パロディウス

上記グラディウスのパロディー版です。だからパロディウス

しかしパロディーと侮るべからず。自社ゲームを茶化しまくりながらも、内容も非常に充実した伝説の名作です。グラディウスシリーズがコナミ80年代後半の古典なら、パロディウスシリーズは90年代前半の古典と言えるでしょう。 

このゲームは何もかも斜め上なため、音楽もモーツアルトから軍艦マーチ、果ては自社のゲームまで、古今東西の音楽をパロっています。このゲームの音楽担当はさぞかし編曲が楽しかったでしょう。

 

また、ただパロっているだけでなく、「かわいく」パロってっているのも特徴。画面を見ればだいたい察しがつきますが、男性的なグラディウスに対し、かわいく女性的なのがパロディウス。

この後リラックマやくまモンなどのゆるキャラが出てくるのを考えると、パロディウスはゆるキャラの先駆けだったのではないかと。

 

パロディウスだ新世界ザリガニ

パロディウスだ

(「パロディウスだ」(初代パロディウス)。貼り紙には1989年と書いていますが、1990年の間違い)

 

極上パロディウス新世界ザリガニ

(極上パロディウス。その横は実況パロディウスだったのですが、写真撮るの忘れてたorz)

 

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(セクシーパロディウス・・・なんですが何故か画面を撮っていなかった)

 

 

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もともと「パロディウス」は、MSXというパソコンで1988年に発売されたゲームでした。

その翌年にアーケードの「パロディウスだ」(俗に初代)が登場、それから、「極上パロディウス」「セクシーパロディウス」「実況パロディウス」と4作発表され、ファミコンを始め数々のゲーム機にも移植されました。

特に、初代のX68000*1への移植(1991年)は、当時の技術では絶対不可能と言われた完全移植を達成*2。30年経った現在でも、神ゲーとして元ユーザーたちの間で語り継がれています。

(X68000については、こちらの記事をお読み下さい)

 

信じられないことに、「ザリガニ」にはパロディウスシリーズ4台が全員集合でした。グラディウスとパロディウスの対面だけでも、長嶋茂雄と王貞治まさかの現役復帰くらいのインパクトなのに。

パロディウスの満塁ホームランっぷりに理性のリミッターが外れた私は、一日パロディウスをやるハメに。そして我に返った頃、私の財布の中から樋口一葉が約1枚蒸発していました。

 

しかし!ここまでパロディウスを神推ししてテンションを上げたところで、悲報をお届けしないといけません。

何回か「ザリガニ」に通ったのですが、パロディウスを置いていたのは去年8~9月だけで、現在は置いていません。だから文章が過去形なのです。

せっかく一人で約1樋口使ったのに撤収とはけしからんですが、またいつか復活する時を待ちましょう。店主に復活希望リクエストしてみるか。・・・ってどないするんやろ? さあ(笑

「そんなん待てるかいな!今すぐやりたいんや!」という方は、PSPでMSX版も含めた完全復刻版『パロディウスポータブル』が発売されています。

 

ちなみに、このゲームのSE(効果)音も、使い勝手があるのかテレビ等でよく耳にします。

これなんかよく聞くと思いますが、出典は初代パロディウスです。

(再生時、音量に注意してね)

www.youtube.com

 

ドルアーガの塔

 

ドルアーガの塔アーケード版ザリガニ

これも言わずと知れたゲームの古典名作です。昭和59年って、そうかこのゲームはこんなに古かったのかと、いまさらその古さに感銘を受けてしまいます。

実はこのゲーム、ゲーセンでやったことがありません。ファミコンではそれこそテレビにヒビが入るほどやったのですが、私と同世代の人は少なからずそうではないかなと。それどころか、

「『ドルアーガの塔』ってアーケード版なんてあったんや!」

と意外な驚きになっているかもしれません。はい、アーケード版が元祖でファミコン版は移植です。しかし私も人のことは言えません、間近でアーケード版を見たのは初めてだから。

 

ファミコン版はイヤになるほどやったので、さてゲーセンでもやるか!と筐体の前に座ったものの、我に返ってやめました。

その理由は・・・やったことがある人なら、この時点でお察し。

このゲーム、難易度が超高すぎて攻略本がないとクリアは無理なのです。ドラクエは攻略本なしでクリアできるけれど、ドルアーガの塔は無理無理、絶対無理。やれるものならやってみろ。

60面分のクリアと宝物出現条件を丸暗記できれば話は別ですが、その記憶力と脳細胞分裂を、できれば他の所で使いたい。

ようつべには、ステージすべてのお宝出現条件がプレイ画面で紹介されている素晴らしい動画があるので、次はそれを見ながら、スマホ片手にプレイすることにしましょう。

・・・しかしここでも悲報。2018年7月時点では遺憾ながら撤収されております。

 

 

ストリートファイターⅡ

80~90年代のゲームが並ぶ「ザリガニ」の中でも、平成3年(1991)登場と比較的新しい方のゲームです。略して「スト2」

説明不要のカプコンの名作ゲームです。たぶん、平成初期の10代20代男子の2人の1人はやったのではないでしょうか!?

 

新世界ザリガニスト2

ああ~懐かしいな~!

と思わず声を出してしまった人もいるのではないでしょうか。

 

「スト2」にハマった人でも、意外に気づかないことが一つあったりします。

タイトルは「ストリートファイター」。ということは、「ストリートファイター、つまり初代があったはず。これを指摘すると、

「あ、言われてみれば!」

ここで気づく人、意外に多いのです。

二代目がヒットしすぎて存在感がなくなってしまった、かわいそうな初代さん・・・。

 

 

新世界ザリガニストリートファイター

「ザリガニ」には、そんな悲劇の(?)初代もあったりします。画面に「Ⅱ」ってないでしょ?

「スト2」今でも身体が波動拳と昇龍拳を覚えているほどやりまくった口。ここは敢えてあまのじゃくに初代に手を出してみました。

・・・なるほど、「スト2」がヒットして初代が忘れられるわけやわ。体験して初めて納得できた事実。私の意図するところは、実際にプレイしてみて下さい(笑

 

 

いっき

「いっき」って・・・もしかしてあの・・・

この名前にドン引きし、過去のトラウマを思い出した人もいるでしょう。残念ながらその予測は当たりです。 

そう、メーカーさえもクソゲーと認めてしまった空前絶後のゲーム、「いっき」アーケード版が33年の眠りを経て今、大阪でよみがえる!!

 

新世界ザリガニいっき

ゲーム自体も筐体を含めて、よく30年以上も残っていたなと思うほど「国宝級」なのですが、

 

いっきアーケード版

このゲーム説明まで残っていたとな。それも申し訳なさげに「Sun Electronic Corp.」(サン電子)とメーカー名まで残ってる。こっちの方が国宝級かも。

 

この「いっき」には、個人的な思い入れがあります。少しだけ私の人生の小咄にお付き合いを。

実は、私が初めて買ったファミコンソフトがこの「いっき」でした。確か1986年の正月前(=1985年12月)に買った記憶があるのですが、Wikipedia先生を覗くと記憶に間違いはなかったようです。

このファミコン版が、このゲームを伝説のクソゲーたらしめている主原因かと思われるのですが、とにかく周囲からの評判はボロカス。

「こんなクソゲー買ったお前もクソ」

買い主の人格まで全否定される始末。

しかし、Wikipadia先生を見てビックリ!なんとこのゲーム、100万本弱売れたらしい。100万本売ったクソゲーって、世界記録ではなかろうか。

 

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「いっき」の傷心冷めやらぬ翌月、お年玉で買ったのが「ボンバーマン(初代)」でした。

これも結果から書くと評判はボロカス。あのボンバーマンが酷評!?と驚く人いると思いますが、少なくとも私の周辺ではケチョンケチョンでした。

というか、同時期発売のコナミ「ツインビー」が名作すぎた不運も重なりました。

「ツインビー」を買った友達はモテモテ。私はまたもや全人格否定。あの時どれだけ「ツインビー」を恨んだことか。

 

しかし、酷評だったこの二つ、方やメーカーの看板ゲームとしてシリーズ化された名作。方や「伝説のクソゲー」として、世代を超えて語り継がれる迷作となりました。30年以上語り継がれているゲームを2回連続でGETした意味では、私の目は狂っていなかったんじゃないかと。

 

涙に濡れた年末と正月も過ぎ、次こそはと次に買ったゲームが、忘れもしない1986年5月27日、あの「ドラゴンクエスト」(初代)です。

今でこそ、知らんと言おうものなら一般常識を疑われる知名度のドラクエですが、当時は予約もなく近所の玩具店で、

「ドラゴンクエストいっちょ!」

「あいよ!」

豆腐屋で豆腐を買うが如し。

だからブログのPVが伸びないという方も、これで元気を出しましょう。あのドラクエも、最初はこんなんだったのです。

こうして振り返ってみると、やはり私の目はクソではなかった。32年の時を経て自分に自信がつきました(笑)

 

閑話休題。

なにせメーカーが認めたクソゲー、ファミコン版ではやったけれどゲーセン版は初体験。さてどんなクソっぷりだったのだろうかと、100円はたいて体験してみました。

結果は・・・やっぱしこれクソゲーやわ(笑

 

ちなみに、「いっき」を作った名古屋のサン電子という会社は、クソゲーを世に放った呪いで倒産したというウワサがネットで流れていますが、生きています。ちゃんとHPもあるので勝手に殺さないで下さい。

実際に倒産・破産して現存しないゲーム会社は、こちらの記事をどうぞ。

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

ファンタジーゾーン

 

セガファンタジーゾーン

ファンタジーゾーン新世界ザリガニ

SEGAことセガのゲームです。

ファミコンなど家庭用ゲーム機しか知らない人にとっては、セガというとゲーム界の覇王任天堂に何度も挑戦しては負け続ける、ドン・キホーテ的ゲーム機メーカーとしての印象が強いと思います。

しかし、あれだけ家庭用ゲーム機がコケても破産しなかったのは(結果的にスカンピンになって破産しかけたけど)、アーケードゲームの名作をガンガン世に送り出し、それでペイしていたから。実際、ゲームソフトの開発技術はゲーム界ナンバー1じゃなかったのかと。

「ファンタジーゾーン」も、昭和61年(1986)にデビューした名作ゲームです。私ごときが何も書く余地がないほどに名作。画面も難易度も、そして音楽もすべて優秀。本当に非の打ち所がなさすぎて、かえって書く内容がありません。あまりに優等生すぎてかえって個性がないとは、このゲームのことを言うのかもしれない。

ただ、さすがは秀才ゲーム、30年以上経っても内容が色あせていない。難易度も前述のグラディウスなどと比べ低く、小学生から大人までまんべんなく楽しめるという意味では、名作中の名作と言っていいのではないでしょうか。

 

アフターバーナー(After Burner)

ファンタジーゾーンに同じSEGAが、昭和62年(1987)に製作した3Dシューティングゲームです。これも名作中の名作、ゲーム界に大きな風穴を開けたと言って良いほど、子供たちがこのゲームにかじりつきました。

おまけに音楽も傑作。正直、内容より音楽の方が好きという人も、私を含めて少なからずいると思います。かく言う私は、アフターバーナーのサントラを車のHDDに入れ、運転時に聞いていたりします。高速道路に乗った時に聞こうものなら、前の車をロックオンしてミサイルで撃破してやろうかと思うこともあります。 

 

そんな「アフターバーナー」まで、「ザリガニ」にはあったのです!今年に入って入荷したものですが、これもこれでよく残ってたもんだ。

さて、ゲーム好きなお友達必見!アフターバーナーが今また通天閣の下でよみがえる!

 

 

 

新世界ザリガニアフターバーナー

あ、あれ?「アフターバーナー」ってこんなんだったっけ?なんだか記憶と全然違うぞ?これを見ている10人中7人くらいは、現在頭が混乱していると思います。

 

確かアフターバーナーの筐体って・・・

 

afterburner筐体SEGA

こんなのや、

 

セガアフターバーナーⅡ筐体

こんなのだったはずなんじゃ!?

あのデカい筐体も、30年の技術進化でこんなにコンパクトになったのです…。

 

なわけない。

なんてかわいくなったんだ感満載の筐体になっちゃいましたが、当然ちゃんとプレイできます。

 私も懐かしさのあまりプレイしてみましたが、年齢には勝てないか、反射神経がついて行けませんでした。頭の中ではミサイルをヒョイヒョイ避けてるはずやのに、脳と末梢神経の指令の伝達が上手くいっていないようです(笑

 

 

 

古すぎる、あまりに古すぎるゲームたち

「ザリガニ」には、登録無形文化財として文化庁に申請した方がいいのではないか!?という超レトロゲームまであります。

エントリーNo.1 空手道

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 「ザリガニ」の入口には、

「世界初の対戦格闘ゲームあります」

奥さん、活きのいい魚が入りましたぜ!と大々的に謳っています。

 

 

そのゲームがこちら!

 

空手道新世界ザリガニ

「対戦 空手道」

というゲームです。

 

空手道ゲーム

 レトロすぎて血圧上昇不可避。よくこんなゲームがこの世に残っていたなと、神に向かって十字を切りたいほどの骨董品です。懐かしさのあまり涙に濡れて画面が見えません。

ゲーム内容は、空手の修行や試合を通して強くなっていくという、RPGの要素もなくにしもあらずの格闘ゲーム・・・と言えるのかは個人的にはビミョーですが、少なくとも「カラテカ」(わかる人だけわかればよろしいw)よりかは面白いことは確かです。

 

エントリーNo.2 River Patrol

先月に「ザリガニ」に来てみると、新入りのゲームが一つ、プレイ客を待ちわびていました。

ほう、新入りかい?

遊郭の顔見世よろしくそのゲームをちょっと覗いてみると・・・

 

riverpatrol新世界ザリガニ

ナンデスカコレハ!!!

あまりに懐かしすぎて口あんぐり、出てくる言葉が何もありません。筐体も年季が入りすぎていて、ちゃんと動くの?と心配にすらなってくる老兵です。

「River Patrol(リバーパトロール)」というゲームなのですが、知ってる人います?

私は知っています。家の近くの駄菓子屋にあった記憶があるゲームで、当時6歳か7歳。筐体の前で、私は走馬灯のように己の記憶を振り返ってみたのですが、やはり間違いないと思う・・・。

 

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そしてこれは1981年製。1981年といえば昭和56年。やはり記憶に間違いはなさそうです。

ここまで来ると絶滅危惧種ではなく、絶滅したと思われた生物が生きていた状態。クニマスを発見したさかなクンの喜びがわかった気がします。

 

ダライアス

「ザリガニ」が神推し中のゲームがあります。それが「ダライアス」

 

ダライアスタイトーザリガニ

内容はただのシューティングゲームですが、ダライアスの個性はこの筐体。ディスプレイを贅沢に3つも使った、まことに化物な筐体なのです。

「ジオンの精神が形になったようだ」はガンダム0083のアナベル・ガトーのセリフですが、ダライアスは「バブル景気が形になったようだ」と言いたくなる筐体。進撃の巨人ならぬ進撃のダライアス。

タイトーはこの他にも、「ニンジャウォーリアーズ」「ミッドナイト・ランディング」などのバブリー筐体を輩出しましたが、当時これ1台なんぼやったんやろか?

こんな電気代バカ食い不可避のモンスターが、町中のゲーセンにあった・・・それがバブルという時代だったのです。

 

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このゲームを作ったメーカーは、TAITO(タイトー)という大手ゲーム会社でした。タイトーは元々、ロシア革命でハルピン経由で日本に亡命してきたユダヤ系ウクライナ人が作った「太東貿易」という会社で、会社名も「極東ユダヤ人」という意味が込められています。

 

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また、「日本中から100円玉が消えた」と社会現象になった「スペースインベーダー」を作った会社でもあります。

「ダライアス」の怪物筐体を作ったタイトーも、バブル崩壊でコケたか、2,000年代は段違いの格下だったゲーム会社の子会社として、ゲーム開発もストップ。その姿は、かつてゲーム界を牽引していたなど到底想像できない瀕死の病人。ついには企業の生命維持装置と言える資本金もがっぽり減らされ、会社としての命運はもはやこれまで…。

と思われた時、ついにゲームメーカーとして再び復活するという朗報が。その復活第一弾が、この「ダライアス」。今年、「ザリガニ」にこの筐体がデビューしたのも、タイトーの復活を祝してのことでしょうか。まあ違うと思うけど。

 

これもこれで、バブル崩壊で捨てられた筐体はずなのによく残ってたなと感心してしまうのですが、

 

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どこかで長い眠りについていたようです。縄文時代の竪穴式住居を復元しました!的扱いですな。

 

バブルを体感したことがない平成生まれの人は、是非「ザリガニ」でこのジオンの精神が・・・やなかった、バブル経済が形となったゲームに1980年代を感じては如何でしょうか。おっさんどもがガキだった頃こんな贅沢なゲームをやってたのかと、日本経済史の現物標本的存在、それがダライアスです。

 

 

 その他のゲームたち

 

文字数の都合、というより、執筆者がハッスルしすぎて執筆疲れを起こしてしまい、詳細を省略したゲームたちもあります。

 

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「支店」の方にもあった「ゼビウス」

 

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懐かしいな~と弾を撃ちまくっていたらすぐ弾切れになり、すぐ終了した「怒(いかり)」

弾数制限ありって、こっちが「怒」たいわ。

 

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これも名作、「R-TYPE」

 

ザリガニスパルタンX

スパルタンX

これも懐かしい、「スパルタンX」。ファミコンでやった人も多いと思いますが、こちらがオリジナルです。こちらも数十年ぶりにやってみたのですが、ゲーセン版ってファミコン版に比べて難易度高めですな!?

 

ザリガニ魔界村

こちらもかなりやりまくった人、多いのではないでしょうか、「魔界村」

 

 

ザリガニくにおくん

つっぱり学生がすごく時代を感じさせる「熱血硬派くにおくん」
くにおくんがあれば・・・

 

熱血高校ドッジボール部ザリガニ

「熱血高校ドッジボール部」もあります!

 

 

 

バーチャファイター

3D格闘ゲームの火付け役、「バーチャファイター」です。このゲームが出た時、私は中国在住。週末は中国人と第二次支那事変(=対戦)をやっていましたが、それも20年前になったのかと、昔が遠くなりにけり。

 

 

そして極めつけは!

 

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 ベラボー参上!!

 

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ナムコの「ベラボーマン」というゲームです。

Namcoの精神が形と…ではなく、ナムコらしいコミカルで誰でも楽しめるアクションゲームです。知る人ぞ知るゲームですが、知っている人はいるかな?

筐体の説明によると、日本でも数台しか残っていない絶滅危惧種らしく、ワシントン条約により輸出が禁止されております。

 

他にも、

・究極タイガー

・SAMURAI SPIRITS

・マリオブラザーズ

・パックマン

・キャラクシアン

・ドンキーコング

・クレイジークライマー

などなど、紹介しきれないゲームが目白押し。もうこれ以上紹介は無理、気になる方はどうぞ現地で実際に確認してみて下さい。

ただし!重要なのでもう一度いいます。紹介したゲームが今もあるとは限りません。

 

 レトロなゲームは、今や家庭用ゲーム機で「完全復刻版」が発売されているものや、スマホアプリでプレイできるものも多くなっています。かつての名作ゲームが電気代のみでプレイできる「完全復刻版」は、それはそれで懐かしくも面白い。

が、アーケードゲームの醍醐味は、やはりあの筐体とにらめっこしながらプレイすること。懐かしさ補正も大幅プラスされます。

 

アラフォー以上の方、子供の時のひそかな夢だった、

「筐体の上に100円玉を山積みして、お腹いっぱいゲームに浸る」

を、ここ「ザリガニ」で叶えてみませんか?

もしくは、物心ついた子供を連れて、

「お父さんがお前くらいの頃、このゲームでよく遊んだんだよ」

と親子で80~90'sゲームを満喫してみませんか?

我々がどこかへ置き忘れた童心と、懐かしの昭和のあの時を取り戻しに・・・。

 

「ザリガニ」の営業時間などはこちら!

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==2019年3月14日追記==

「ザリガニ」に、ついに、ついにTwitter垢ができました。皆さんフォローしてね~。

twitter.com

 

 

 

おまけ:その他レトロゲーセンの紹介

なお、新世界界隈には「ザリガニ」の他にいくつかレトロゲーセンがあります。

ジャンジャン横丁の中には、「かすが」というこちらも規模が大きいゲーセンがあります。

こちらもこちらで、「出たなツインビー」「源平討魔伝」「電車でGO!」など、在りし日のゲーマーにはお涙頂戴の懐ゲーが揃っているので、「ザリガニ」とのはしごをすれば、精神年齢は30歳は若返ることでしょう!?

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

また、こんなゲーセンもあります。

 

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「ニュースター」というのが名前なんだと思いますが、入口からしてなんだか怪しそう・・・いえいえ、中はちゃんとゲーセンです。

正直、ゲームは「ザリガニ」や「かすが」のように特筆すべきものがなかったのですが、1ゲーム50円というのが嬉しいじゃありませんか。

 

地元大阪の人だけではありません。大阪に帰省の方も、観光に来る方も、新世界でレトロゲーセン三昧というもう一つの観光は如何でしょうか。レトロゲーセンのご訪問をお待ちしております。お金落として行ってや~。

 

★重要なお知らせ★

ブログをワードプレスに移転しました。

記事は順次新ブログへ引っ越し中ですが、よかったらこちらもどうぞ!

野良学徒の歴史研究
https://yonezawakoji.com/

 

*1:シャープが製造販売していたパソコン。アーケードゲームと同じCPUを採用し、移植ゲームに定評があった。

*2:音楽が多少劣っているが許容範囲。

映画『太陽の墓場』に見る釜ヶ崎@鉄道編

 

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以前、昭和35年(1960)に大島渚監督によって撮られた『太陽の墓場』という映画の話を書きました。

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

今回はその続きなのですが、すぐに続きを書こうという意思だけは持ち続けた結果、かなりの月日が経ってしまいました。本当はすぐ後にアップしようかと。
しかし、忘れていたわけではありません。亀のようなスローペースながら、徐々に堀を埋めていっていたのです。
そして今回、やっと書き終えました。


が、鉄道編と銘打ったように内容が超マニアックになってしまったので、少し「濃度」を調整した上で今回の公開です。

それでも、ここからは鉄分と大阪史濃度の濃い、マニアックな話となります。

マニアックな話に興味がない方は、ここでお引取りいただいても大丈夫です。でも、できれば読んでね(笑

 

なお、少し時間を置いてしまったので、キャストなどのおさらいは上のリンク先をどうぞ。といっても、あまりする必要はないかも。

 

 

 

 南海電車

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愚連隊を抜けたいと悩む武(佐々木功)を花子(炎加世子)が見つけ、うちがボスの信に話つけたるわと彼と道端で交渉しているシーンです。左の男は20歳の津川雅彦、まだ映画出演2作目の初々しい姿です。

(※このブログを書いている最中、津川雅彦さんの訃報が飛び込んできました。ご冥福をお祈りします)


信の後ろにコンクリートの壁があります。これは南海電鉄の高架線で、アングルを変えると

 

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電車が走っています。
南海電車なのは明らかなのですが、さてどの車両なのか。映像に残る「現物」だからこそ、ここは「考古学」の出番なのです。

 

次のシーンを見てみましょう。

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これで形式を答えよ、となると鉄道イントロクイズになるのですが、他サイトの情報も加味すると、

 

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高野線用の「ズームカー」(21000系)か、

 

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本線で使われていた旧1000系(11001系)のどちらかになります。こちらは形式がややこしいため、「11001系」に統一します。

え?この二つ、何が違うの?全く同じやんか!

鉄道マニアでも何でもない人、いや、鉄道マニアでも車両に詳しくないと見分けがつきません。正直、私もわかりませんでした。

さてこういう時はどうするか。

このネット多様化時代、わからなければSNSに晒すべし。自分に知識・知恵がなければ人のを拝借すればいい、これが21世紀の賢い調べ方。

そこでTwitterで大募集をかけてみると、鉄道車両に詳しい「車両鉄」が速攻で食いついてくれました。

「これは本線用の11001系です」

 その人はきっぱりと即答・断言しました。

 

なぜそこまで断言できるのか聞いてみたところ、さすがは専門オタクだと敬礼したくなるような答えが返ってきました。

まずは基本知識として、高野線用21000系の1両あたりの全長は17m。これは山奥に入る山岳用車両なので、車体長が他の車両より短いのです。
対して本線用11001系は20m車体長に3mの差があります。


これが、側面の窓の数になってあらわれてきます。

 

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ズームカー21000系の窓の数は13個。先頭から2-8-3という配置です。

 対して11001系はどうなっているのか。

 

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窓の数は16個3-9-4の配置で高野線の電車より3つ多くなり、これが3mの差となります。

これを頭に入れつつ、映画内の電車の窓の数を数えてみます。

 

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窓の数で11001系だということが判明しました。

私も広く浅くのライト鉄マニアとして、21000系の車長の知識は持っていました。しかしながら、窓の数まではさすがに把握できず。このBEのぶ、車両鉄の深き専門知識に脱帽であります。

 

現地で映像の場所を探索してみると、11001系であることが更に明確となります。

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映画のシーンの高架は現在でも残っており、地図の位置であることは確定です。

映画のカメラは北を向いていたこととなり、電車が進んでいた方向は難波駅。つまり電車は難波行き。
それならいちばん左の線路は本線用。17mの高野線用車両が走っているわけがない。この理屈でも1000系なことが確定です。

 

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映像のいちばん右端あたりは、現在新今宮駅難波方面ホームとなっています。映画のシーンを意識して似たような角度で撮影した2018年の姿が上の写真です。

ちなみに、後で詳しく書きますが、南海の新今宮駅は映画の当時は存在していません。

 

 


謎の線路

逆に、同じ鉄道でもどこかわからないシーンがあります。

『太陽の墓場』オープニングで、戦争を煽る謎のルンペン(煽動屋)が花子に絡み、おもろいやっちゃと花子が仲間に引き入れるシーンがあります。

 

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このシーンで、建設中の鉄道の高架線が映っています。まだ架線が敷かれていない架線柱が見えるので、鉄道で間違いありません。

 

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次のシーンでは、奥に駅が見えます。

さて、ここは一体どこなのだろうか。
これを指摘しているほぼずべてのサイト・ブログ・SNSでは、当時建設中だった大阪環状線西九条~天王寺間と結論づけています。

 

今は大阪市内をグルリと回っている大阪環状線ですが、

 

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戦前は

「城東線」:天王寺~鶴橋~京橋~大阪

「西成線」:大阪~西九条(終点は桜島)

「臨港線」:今宮駅から大阪築港(大阪港)。貨物専用

の3つに分かれていました。

見ての通り線路がつながっていないので、現在のような環状運転は不可能です。しかし、これら3つの線路をくっつけ「環状線」にしようという計画は、戦前からありました。

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(昭和10年(1935)1月11日『大阪毎日』より)

計画自体は戦前からあったものの、戦争と敗戦、そして戦後復興の中おそらく後回しにされ、戦後に余裕が出てきた昭和30年代に実現したと考えるのが自然でしょう。

 
そういうわけで、西九条-弁天町-大正-天王寺間が開業したのは、映画上映翌年の昭和36年。映画製作中は工事中と言われると、ああなるほどなと。
しかし、この高架線の曲がり具合が、釜ヶ崎周辺、具体的に言うと現在の新今宮駅周辺には見当たらない。
どの角度で撮影されたのかがわからないのですが、Google Mapで分析してみる限り、うーんと首を傾げざるを得ない。
すべてが大阪で撮影されたとは限らないと推測すれば、もはやどこか解明不可能。
個人的に、工事中だった大阪環状線とは断言し難いので、ペンディングとしておきます。大阪環状線なら、建設途中の姿が映像、それもカラーで残る映像の有形文化財ものなんですけどね~。

 

 

映画予告編に出た超レア車両

映画のラストシーンでは、武と花子がデキちゃった上に、花子と寝た武がうっかり愚連隊のアジトの場所を言ってしまいます。
愚連隊は人殺しもいとわないヤンキー集団だけれども、組織として固まっているヤクザは商売敵でもあり天敵でもあります。ヤクザが正式な軍隊ならば、愚連隊はゲリラ。人員も練度も豊富な「軍隊」に本気で襲撃されたら、愚連隊はひとたまりもありません。だから、見つからないようにアジトを変え、裏社会のゲリラ、いや安らぐ場所のない流浪人として生きて行かざるを得ない。


ヤクザとも一脈相通じている花子は、アジトの場所をヤクザに知らせヤクザが愚連隊を襲撃。信の手下は武を除いて全員殺されてしまいます。


花子がバラしたことを知った信は、当然彼女を殺しにかかります。

 

太陽の墓場ラストシーン

太陽の墓場ラストシーン2

これは、信に追いかけられた花子が国鉄の線路へ逃げているシーンです。

 

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彼女が上った場所は、赤で丸をした位置となります。

 

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花子が上った関西本線の土手は現在コンクリートで固められ、家や倉庫も建っているので近寄れません。 

 

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 が、映画に映った勾配標識は当時と同じ場所に立っています。まあ、表示が違うので当時のものではないはず。

 


信のカンで花子に教えたのが武だとわかると、殺意の矛先は武の方へ。
信は持っていたピストルを取り出し、武の心臓を貫きました。しかし、武は最後の力を振り絞り、信の足を離さないまま、二人は汽車に轢かれ…
愛してしまった男が目に前で轢死したのを見た花子は、茫然自失のまま近くの酒場へ転がり込みます。
自暴自棄になってしまった花子は、
「こんな時代、いつになったら終わるんや!」
と飲んでいた人に絡み、最後はケンカとなります。

 

二人を轢いた汽車は、本編では汽笛の音だけで本体は出てきません。
しかし、宣伝用の予告編にはその姿が残されていました。

 

 

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 『予告篇』の映像を切り取ったものです。

時間にして2秒ほどのシーンですが、この1枚には貴重な歴史情報が詰まっています。


①関西本線(大和路線)が非電化

写真は現在の新今宮駅付近で、SLが走っている線路が現在の関西本線、それを高架で跨いでいるのが南海本線です。
今は電車が走っているところですが、映画のロケ時の昭和35年は非電化でした。よく見ると架線がないでしょ?

この区間が電化されたのは昭和48年(1973)、「大和路線」という愛称がついたのはJR化後です。

 

②大阪環状線がない

これについては上述したとおりです。
当時の新今宮駅付近は大和路線の線路しかないので、当然複線ですが、その跡が駅の真下に残っています。

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南霞町・・・じゃなかった、今は新今宮駅前駅と名を変えた阪堺線の駅ですが、JR線と交差するホーム奥に、昔のレンガ積みの土台の跡がくっきり残っています。
映画の頃を含めて昔は内側の線路2本分(複線)だったのが、大阪環状線開通後に外側2本が作られ、レンガの土台の上をコンクリートで固めた作りになっていることが一目瞭然です。

今は堤防のようなコンクリートの壁になっていて、到底線路上には登れません。しかし、昭和35年当時の線路の土手がレンガの角度なら、確かに花子のような女性でも登って行けるかも。

 

③新今宮駅がない

今しか見ていないと到底想像もできないですが、SLが走っている場所、今の新今宮駅です。①や②以前に、そもそも新今宮駅がないのです。
新今宮駅は、映画が上映された4年後の昭和39年(1964)に作られた、意外に新しい駅だったりします。南海の方の開業は、そのさらに数年後となります。
なので、昭和35年には新今宮駅なんて影も形もありゃしません。

 

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(『定点観測 釜ヶ崎』より)

新今宮駅がない頃の国鉄・南海交差点の写真は、上の写真のように何枚か残っているのもあるのですが、映像として残っているのは『太陽の墓場 予告篇』くらいじゃないかと。

 

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この映像切り取り部分の汽車は湊町駅・・・現在のJR難波駅方向を走っていますが、現在位置は、大和路線JR難波方面行きホームということです。

ただし、新今宮駅の地点に駅を作ろうという計画も、戦前からありました。

 

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(昭和12年7月4日『大阪毎日』より)

南海が昭和初期に国鉄をまたぐ形で高架になった時も、
「国鉄と交差するところに駅を作れるような構造にしろ」
という条件で許可されました。


以上のことで食いついてくるかな~と予想しつつ、Twitterにアップしました。「新今宮駅があらへんやん」ということだけでも、文明が破壊されない限り二度と再現できないシーン。歴史を知らない人には十分ネタになるかなと。


しかし、さすがはDEEPな鉄道マニア。食いつき方が私の予想のはるか斜め上でした。

 彼らが指摘したのは、下の写真赤矢印の車両。

 

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別にどうということはない、ただの客車やんかと。

私も最初はそう思いました。なんでそんなとこに集団で騒いでんねんと。
ところが、これが鉄道史の常識をひっくり返すようなレア車両だったらしいのです。

 

戦災復旧車

先の戦争で被害(戦災)を受けた国鉄の車両は、

蒸気機関車852両(全両数の14.8%)
電気機関車39両(13.4%)
電車563両(25.1%)
客車2,228両(19.1%)
貨車9,557(7.5%)

合計:13,239両

 

と相当の数にのぼりました。

戦災を受けた電車は、

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こんなものや、

 

戦災車両終戦直後

こんなものまで多種多様。

当然、無傷の車両もあったのですが、それらはすべて進駐軍に接収され。

 

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(『終戦直後 大阪の電車』より。石橋駅に止まる阪急宝塚線の専用車)

白帯を巻いた「連合国専用列車」として利用されました。
「連合国専用列車」というと、イコール進駐軍、イコールアメリカ軍専用、つまりガイジンしか乗っていないというイメージがあります。
が、あくまで「連合国」なので中国人や、「中国人」となった台湾人も乗車可能だったということは、意外に知られていません。

さらに戦争が終わり移動の制限がすべてなくなったのはいいけれど、車両が戦災を受けまともな車両が少なく、少ない列車に人が押し込められるような修羅場でした。

 

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(『思い出の省線電車』より)

これが一例ですが、

 

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インドの通勤電車顔負けの光景が、70年前の日本に存在していました。

そんな状態に鉄道会社はじっと見ているだけではなく、戦災での車両不足と急激な需要に応えるべく急ごしらえの車両を大量増産することとなりました。
それが「戦災復旧車」と呼ばれている車両グループで、戦災で死亡した客車の台車だけ流用したり、逆に車体を急ごしらえで改造したり…フランケンシュタインの鉄道車両版というべきものでした。

 

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国鉄版「戦災復旧車」は、「70系客車」と呼ばれている一群でした。
全国にあった戦災被害を受けた車両のうち、17mのものや20mの車体のものを急ごしらえで改造し投入したもので、全国で260両ほど存在していたものです。
車両鉄によると、映画に映っていたのは「オハ70」という系列で、17m客車をフランケンシュタインしたものだそう。扉を見ると2つしかないのが「オハ70」の特徴だそうです。

 

しかし、しょせん70系客車は応急処置的なつなぎ役。輸送も車両のやりくりも落ち着いた昭和30年までには、荷物車などに転用され淘汰されました。
「オハ70」も、旅客用としては昭和29年には全車引退、荷物車としても昭和30年代前半にはお役御免、車庫で放置プレイのまま朽ち果て・・・のはずだったのですが、昭和35年でもその戦災復旧車が現役で走っていた動かぬ証拠が映画の中にあるとくれば、鉄道好きの大きなお友達が食いつかないわけがない。
(映画から)4~5年前に絶滅したはずの魚がまだ生きていた!と、彼らはワクワクドキドキです。
当然、私はそんなつもりでアップしたわけではないのですが、これが超レアお宝映像だったのです。

 

おわりに


映画は、俳優たちの演技やストーリー、映像美などエンターテイメントとして見るのがふつうです。
ところが、視点を一つ変えて見てみるととんだ歴史学のネタになることが、『太陽の墓場』で証明されました。これはこの映画に限ったことではなく、昔の映画を歴史学の視点で見返すと、予想だにし得なかったお宝が見つかるかもしれません。

大島渚監督はすでに故人ですが、映画を通してこんな映像の大阪史を遺してくれていたとは、「死せる大島、生けるBEのぶを走らす」か。

 

そして最後に改めて、この映画に準主役として出演した津川雅彦さんのご冥福をお祈りします。惜しい昭和の名優がまた一人逝ってしまいましたが、時は非情なり、仕方ない。

今頃は、兄貴と奥さん、そして大島監督とあの世でワイワイやっていることでしょう。

 

==こんな記事もあります。よかったらどうぞ==

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中国語の「勉強」

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中国語という言語は、基本的に漢字を使います。

今の情報化時代、
「え、そうなの?」
と目からうろこが落ちる人は、まずいないと思います。

じゃあ、どれくらい漢字を使うの?というと。それがすべて漢字です。漢字アレルギーの人は即死するほど漢字です。

さすがにCDやDVDはそのままですが、それでも「光盤」「数字視頻光盤」という、きちんとした正式名称(?)があります。

 

漢字の便利なところは、視覚的に意味がわかるということです。これは「表意文字」といい、文字が意味を表すもの。アートというか、象形文字として理解することができます。

その反対として、「表音文字」というものがあります。これは我々が日常ええ使う平仮名や片仮名、アルファベットなどが該当します。

漢字が表意文字であるメリットは、たとえば「文」という文字があると、日本人も中国人も「文」が文であると理解し、その認識が一致することです。

 

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たとえば、町並みを歩いていると

「洗衣店」

という看板を見つけたとします。「洗衣店」は日本語ではなく中国語なので、日本人には日本語としてインプットされていません。

しかし、漢字を見て

「衣を洗う店・・・衣服を洗う店だからクリーニング屋か!」

と連想することは、十分可能です。日本人なら漢字がひととおり理解できる中学生以上なら、余裕で連想できるでしょう。

 

日本語と中国語の単語の意味は、熟語においてもほぼ一致します。「警察」と書かれたベストを着た制服の人を見たら、日本人も中国人も台湾人も皆、警察(官)だと認識します。誰も「消防」だなんだと見当違いを起こすことはありません。

 

しかし、日本語と中国語の漢字の意味はだいたい同じといっても、すべてが違うわけではありません。中には同じ漢字なのに意味やニュアンスが全く違う場合があり、それが原因で笑いの種になる勘違いを起こしたりします。

 

我結束了作業。

 

これは中国語なのですが、中国語がわからない日本人がこの漢字を見て想像する意味は、おそらくこうなると思います。

「なにかやらなければならない仕事(作業)があって、そのために結束する必要があった。『了』がついているから、それが完了した」

しかしこの意味は、

「私は宿題をやり終えた」

と実にシンプルなのです。

この場合、

結束:終わる(英語のfinish)

作業:宿題(同homework)

と、日本語での意味と全く違い、漢字であれこれと類推せざるを得なかったということです。

 

中国語で「勉強する」は、「学(習)」「読書」などがよく使われます。「学習」なら視覚的にもすぐにわかります。

でも、「読書」もこうして書いてみると日本語と意味が違ってきますね。

 

我在東京大学読書。

 

となると、日本人はふつう、

「東大の図書館で読書でもしてきたのだな」

と解釈してしまいますが、さにあらず。

正しい意味は、

「私は東大で勉強しています」

転じて、

「私は東大の学生です」

となるのです。

 

では、中国語で「勉強」は使わないのか。日本独特の熟語なのか。

答えはNO。「勉強」も中国語ではよく使われます。ただし、日本語の意味とは全く異なり、使い方も全く違ってきます。

中国語での「勉強」の意味は、「いやいや~する」「無理に~させる」というニュアンスとなります。「

本当はやりたくないんだけど、第三者から圧力がかかったりどうしてもやらざるを得ない。しゃーないわ、やるか・・・。

強いて言えば、こんなニュアンスとなります。

 

我勉強答応把新書借給他看三天

 

「勉強」を使った典型的な文です。なお、中国語の勉強ブログではないので、中国語がわからない人でもわかるよう、簡体字や旧字体(繁体字)は使っていません。

これは、「彼はしぶしぶ新しい本を彼に3日間貸した」という意味になりますが、「勉強」を使うことによって、本当は貸したくないんだけどな・・・と嫌々感を出している文です。この嫌々感を出したい時、「勉強」を使います。

 

 

她不愿意去就算了,不要勉强她。

 

この場合の「勉強」は「無理強いさせる」というニュアンスとなり、全文は「彼女が行きたくないというならそれでいい。無理強いさせるな」という意味となります。

これを日本語の「勉強」として解釈してしまうと、

「彼女を勉強させるな」

という意味になり、何だこりゃ?と混乱するのみです。

 

日本語で、「勉強」するにはもう一つ、使い方があります。

「これ5つ買うさかい、勉強してーなー」

大阪名物(?)値引き交渉ではよく使われるフレーズですが、この「勉強」は値引きのこと。

「勉強する」がなぜ「まける(値引き)」なのか。幼い頃からの疑問でした。

それがなんとなくわかった・・・気がしたのは、中国語を勉強した後のこと。

「無理強いする」というニュアンスで解釈すれば、値引きの「勉強」は、

「ホンマは無理やろうけど、無理を承知でなんとかして値引きしてほしいな」

という意味が込められているのではないか。だから「勉強」が使われているのかもしれない。

もちろん、これはただの私の仮説です。しかし、こう解釈すると「勉強してーなー」がなんとなくしっくりくるような気がする。

 

中国に留学していた頃、留学生初級クラス担当の先生がいました。彼女は染め物の勉強のために京都に留学していたことがあり、日本語、というか関西弁がペラペラ。本来は大学の芸術学部の専任講師なのですが、日本語が話せるという理由だけで留学生の中国語教育担当を「勉強」させられたそうな。この「勉強」は、

「わたし、中国語が専門じゃないんだけど…」

という嫌々感なのは、記事を読んだ方にはわかると思います。

 

その先生がある日、唐突に、

「日本に行って『勉強』の本当の意味がわかったの」

こんなことを言い出したかと思えば、次の一言が、

「『勉強』って、いやいやするものだって」

日本語と中国語の「勉強」の意味の違いを踏まえたユーモアでした。たぶん、先生はこのジョークをどこかで思い浮かべ、言ってみたかったのでしょう。顔はヘラヘラ笑っていました。

 

==こんな記事も如何でしょうか。よかったらどうぞ==

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