昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

『ルンペン節』から見える昭和のニッポン

タイトルからいきなり「ルンペン」ときましたが、ルンペンって言葉を知っているでしょうか。ルンペンとはドイツ語でボロ布という意味で、それが日本に入り、転じて「浮浪者」「失業者」という意味になりました。破れた帽子をかぶり、穴が開いた服を着ている人、それがルンペンの標準イメージです。

 

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元々は、朝日新聞に連載されていた小説『街の浮浪者』の”浮浪者”に、作者の下村千秋が”ルンペン”とルビを振ったところ、それが流行語になったのが始まりだそうです。

だいたい昭和ひと桁の頃に流行した用語で、

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(「社会ユーモア・モダン語辞典」(1932年)より)

当時の新語・流行語辞典にも掲載されています。

平成生まれの人はなんだそりゃ!?でしょうが、私のような40代では、ほのかなノスタルジーを誘うような語句でもあります。小学生の頃、大阪のあいりん地区にたむろしていた身なりがよろしくない日雇労働者を、「ルンペン」と指さしていました。

また、別のクラスながら小学校に「ルンペン」というあだ名の男子がいたことを記憶しています。彼が特別身なりが悪いとか、風采が上がらないとかではなかったのですが、今考えるといじめと捉えられてもおかしくないあだ名ですね。

 

『ルンペン節』

昭和史の本を読んでいると、当時のヒット曲にこんな歌が出てきました。

 

www.youtube.com

 

『ルンペン節」という、タイトルからして強烈なインパクトがありますが、歌詞はさらに強烈です。

 

青い空から紙幣(さつ)の束が降って とろり昼寝の頬ぺたをたたく
五両十両百両に千両 費(つか)い切れずに目がさめた
アーハッハッハ アッハッハ
スッカラカンの 空財布 でもルンペンのんきだね

 

酔った酔ったよ 五勺の酒で 酔った目で見りゃスベタも美人
バット一本ふたつに折って わけて喫(す)うのもおつなもの
アーハッハッハ アッハッハ
スッカラカンの 空財布  でもルンペンのんきだね

 

プロの天国木賃ホテル 抱いて寝てみり膝っこも可愛い
柏蒲団に時雨を聴けば 死んだ女房(おっかあ)が 夢に来た
アーハッハッハ アッハッハ
スッカラカンの 空財布 でもルンペンのんきだね

 

金がないとてくよくよするな 金があっても 白髪ははえる
お金持ちでもお墓はひとつ 泣くも笑うも 五十年
アーハッハッハ アッハッハ
スッカラカンの 空財布 でもルンペンのんきだね

 

※用語説明

★スベタ:容姿の醜い女。つまりブスということ。元々はカルタ用語

★バット:「ゴールデンバット」という煙草の銘柄。1909年に発売され、現在も販売中

★木賃ホテル:貧乏人が泊まる下級旅館。木賃宿。大阪でいう「ドヤ」

★プロ:プロレタリアート(労働者階級)の略

 

 テレビの懐メロでは、こんな歌詞の歌は放送できないでしょうね。

 

ルンペン節徳山

聞いてみるとわかりますが、この歌は底抜けに明るい、とにかく明るい。植木等のスーダラ節や米米CLUBの歌に通じる明るさと、(良い意味の)くだらなさがあります。

しかし、サビの「スッカラカンの空財布 でもルンペンのんきだね」を歌ってみると、ドヨンとした暗い気分を吹き飛ばすようなエネルギーがあふれ、不思議な高揚感が湧き上がってきます。

歌にはエネルギーがあるといいますが、歌詞はふざけた調子ながらこれほどエネルギーを与えてくれる歌はなかなかない、知る人ぞ知る隠れた名曲なのかもしれません。

 

この歌の作詞は柳水巴、作曲は松平信博なのですが、柳水巴は作詞家西条八十の変名です。

 

西条八十

西条八十と言えば、古くは「踊り踊るや~ちょいと東京音頭、ヨイヨイ」の『東京音頭』や、異国情緒あふれる歌詞の『蘇州夜曲』、戦後の村田英雄の『王将』から、各学校の校歌まで幅広く詞を作った大作詞家。戦後・現代なら阿久悠や秋元康に匹敵ほどの有名人です。作詞界の神様なだけに、そんな人がこんな破天荒な詞を作っていたことに、少なからずショックを受けます。

 

『ルンペン節』の時代背景

『ルンペン節』が発売されたのは昭和6年(1931)なのですが、この時までの日本はどんな状態だったのかというと。

ここからは、大正~昭和の経済史を簡単に書いていきます。ちょっとつまらないかもしれませんが、誰でもわかるように極力専門用語は使わず、わかりやすさを優先に。当時の日本国内はどういう状態だったのか、高校日本史のおさらいと思って読んでみて下さい。そうでもないと、『ルンペン節』が生まれた背景や理由がわからないので。

 

1914年にヨーロッパで第一次世界大戦が起こりましたが、戦場となったヨーロッパ向けの輸出が伸び、戦場ではない日本に受注が殺到。
日露戦争後の「大戦恐慌」で伸び悩んでいた日本は一転好景気。「戦争は儲かる」と言いますが、第一次大戦が日本経済の良いカンフル剤となりました。

 

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「成金」という言葉が生まれたのもこの頃です。
上の有名な絵の紳士が燃やしているのは100円札ですが、当時の100円は東大卒の高級官僚の初任給に等しい額で、今なら約20万円といったところです。
そんな大金を、トイレットペーパーにもならねーやとばかりに燃やすほど儲かっていたというところが、この絵のミソなのです。

第一次大戦を通し、火事場泥棒のように儲けに儲けたのが日本とアメリカですが、第一次大戦が終わっても好景気は続き、「大正バブル」と称される投機やインフレが起こりました。
人間というのは愚かなもので、好調の時は「この勢いは永遠に続くもの」と思ってしまう、クセのような思考パターンが存在します。
1980年代のバブルもそうでしたが、この「大正バブル」も同じでした。

短期間で膨れ上がったバブルは、1920年の生糸の相場の暴落であえなくはじけ、さらに1923年の関東大震災が追い打ちをかけました。
震災による復興で少しは持ち直すかと思いきや、内需が冷え切ったままで大した効果はなく、不景気の重苦しい雰囲気を背負ったまま、昭和に入ることとなりました。

昭和という時代は、日本全体がドヨォ~~ンとした、光が全く見えない暗闇の中から始まったのです。

 

昭和の恐慌-不況の泥沼へ

そんな不景気真っ只中の日本経済に、追い打ちをかける出来事がやってきます。
一つは、昭和2年(1927)の金融恐慌
昭和元年は6日しかなかったので、この2年が実質的な「昭和元年」なのですが、

「元号が変わった、みんな元気になるんだ!」

と政府が声明を出しても、経済好転の兆しは全く見られないどころか、むしろ悪化する傾向にありました。


銀行も慢性化した不景気で軒並み経営が悪化したのですが、昭和2年の3月に、第一次若槻礼次郎内閣の大蔵大臣が、
「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」
と発言しました。実際には破綻していないのですが、この失言をきっかけに不安を煽られた民衆は、自分の預金を下ろそうと銀行に殺到、「取り付け騒ぎ」が起こりました。

それがドミノ倒しのように全国に拡散、その影響で、第一次大戦時に天才的な投機で大財閥に匹敵する規模となった、神戸の「鈴木商店」が経営破綻。そこに投資していた台湾銀行もあわや破綻の騒ぎとなり、火に油を注ぐ騒動に。
これは、次の田中義一内閣の蔵相高橋是清が対策を打ち、なんとか収拾しました。

 

破綻の危機を消火してホッとしたのもつかの間、新たな火種が舞い降りてきました。それも海の向こうから。
昭和4年(1929)10月24日木曜日、ニューヨークの株価が大暴落した「暗黒の木曜日」をきっかけに、それが世界中に波及しました。これを「世界恐慌」といい、日本では先の金融恐慌とあわせて「昭和恐慌」と呼ばれています。

輸出をアメリカに頼っていた上に、金解禁という金融政策を実施したばかりの日本は、この恐慌の津波をまともにかぶってしま、空すら見えない深い谷の底に落とされてしまいました。

 

 エログロナンセンス

 この不景気の世の中を代表する言葉と言えば、「エログロナンセンス」。どこかで聞いたことがあるかと思います。

エロ=Erotic=官能的

グロ=Grotesque=猟奇的

ナンセンス=Nonsense=ろくでもない

先が見えない不景気で自分が明日どうなるかわからない。そんな閉塞感漂う混沌の闇から生まれた、艶かしくも奇々怪々な刹那的世界、それがエログロナンセンス。

この言葉は昭和4~5年頃に流行った言葉ですが、ルンペンが流行語の西の横綱なら、エログロナンセンスは東の横綱。不景気という黒く厚い雲が空を覆った時代が生んだ、双子の流行語と言えます。

 

「エログロナンセンス」のうち、「エロ」の代表として大正末期から増え始めたのが、「カフェー(またはカフヱー)」と呼ばれる飲食店。
喫茶店の「カフェ」ではありません、「カフェー」です。両者は語尾に棒線を一つ増やしただけの違いだけやんと認識しがちですが、全く違う存在として認識しなければなりません。
じゃあ、「カフェ」と「カフェー」、何が違うかというと。

 

1.「カフェ」は単にコーヒーやお茶するところ(要するに喫茶店)なのに対し、「カフェー」は食事もでき、アルコールなども飲める。

2.「カフェ」も「カフェー」も「女給さん」という女性従業員がいるけれど、「カフェー」は女給さんが横につき接待してくれる

3.「カフェ」の女給さんが今のコスプレに近い主に洋装に対し、「カフェー」は和装が中心。(※東京・大阪の場合)

4.「カフェ」の女給さんは日給・月給制だが「カフェー」の女給さんは完全歩合制


カフェーはそもそも名の通りコーヒーを出す大人の社交場でした。しかし、麦酒を出す「ビアホール」、料理を出す「レストラン」、そしてアルコール中心の「バー」、飲み食いより女給さんとの触れ合いメインの「キャバレー」、すべてが「カフェー」と呼ばれていたので、「カフェー史」を勉強しないとこれらが混同してメチャクチャになります。

しかし、エログロナンセンス文化的な「カフェー」は、やはり女給さんが接待するあれ。これはそもそも、大阪のとあるカフェーが、客集めの「オプション」としてエロい接客サービスを始めたのですが、これが客に大受け。エロサービスが一気に全国に広まることになりました。2階にある「日本間」ですごい「オプションサービス」もあったカフェーもあったのですが、ここまで来るとほぼ売春宿です。

それで割りを食ったのが「カフェ」の方。もともと「カフェー」と根っこが同じなので境界線が曖昧のまま、「カフェー」のほうが爆発的に広まってしまいました。「カフェ」は純粋にコーヒーを飲むところなのに、エロサービス目当ての野郎が多くなり、女給さんにセクハラし放題。そこで、「喫茶店」と名乗るカフェが多くなり、現在に至っています。
こうして昭和初期には、「カフェー」は「エロ」の代名詞として大流行。赤い灯青い灯をともす派手なネオンは、上は文豪から下は大学生まで、男どもを引き寄せる灯台となっていきました。カフェーは都会だけでなく、地方都市や田舎、果ては台湾や朝鮮など外地にまで波及し、「日本同時多発エロ」というべき社会現象となりました。

 

台湾では、こんな書籍が売られています。

 

女給時代台湾本

去年台湾に旅行した時に本屋で偶然見つけた、「女給時代」という本です。

読んでみると、内容がなかなかDEEPなカフェー研究本。カフェー研究本は日本でもほとんど売っておらず、表紙だけを見て即購入しました。

日本統治時代を歴史学のまな板に載せ、客観的に評価する「懐日」が現在進行中の台湾、ウワサには聞いていたけれども、こんな分野にまで「懐日」が及んでいたのかと。台湾カフェー史を通して日本カフェー史を覗くことができる、面白い書籍です。

台湾人研究者が書いた中国語の本なので、中身は当然中国語。こんなDEEPな本、誰も翻訳しなさそうなので現在こっそり翻訳中です。金儲けではなく全くの翻訳道楽ですが、こういう時外国語がわかる方が有利です。外国語は、やらないよりはやる、知らないほりが知っている方が絶対にアドバンテージがつきます。

 

カフェーはのちに「特殊喫茶店」として風俗営業の対象に、そして戦後は「特殊飲食店」として赤線の営業店、つまり風俗店の代名詞となるのですが、上述のとおりクラブやキャバクラなどに発展解消し、現存はしていません。
しかし、これがどれだけ社会的影響を与えたか。
俗に「風俗営業法」と呼ばれる法律の第二条第一項第二号には、
「待合、料理店、カフェーその他設備を設けて客の接待をして客に遊興又は飲食をさせる営業」
とあり、「カフェー」の文字がありし日の残骸として法律用語に残っているのです。

 

缶コーヒーBOSSの「宇宙人ジョーンズ」シリーズに、こんなCMがありました。

www.youtube.com

メイドカフェ編ですが、メイドが客のジョーンズの横について、「あーん」しています。

実はこれがカフェーです。

私に言わせれば、メイドカフェは21世紀に甦ったカフェー。もし「裏メニュー」にお触りやキスなどがあれば、昭和初期のエログロナンセンスカフェー完全復活です。
戦前の「カフェー」も、元々「ファミレス」が徐々にエロく過激な風俗営業に進化していった歴史があります。メイドカフェは「飲食店」で営業許可を取ってるはず、おおっぴらにこんなことしてたら警察の指導が入るやろな~と思っていたら、やはり入りました。

よって現在のメイドカフェは、こういう接待はできないはず。そもそも客の横に女の子が座ること自体、「飲食店」ではNG。客とサシで「萌え萌えじゃんけん」なんかしたら、メイドカフェどころかスタバでも即営業停止です。風俗営業店の許可を取ればいいのですが、営業時間や立地条件などに制限が入り、秋葉原ではとても営業できなくなると思います。

カフェーとメイドカフェ、どちらも不景気の世の中から生まれた営業形態というのも、すごく似ています。カフェーが関東大震災後の「震災恐慌」に、メイドカフェはITバブル崩壊後に誕生。生まれた背景までそっくり。
目新しそうに見えるメイドカフェも、実はカフェーという直系のご先祖さまがいたということなのです。


そんな女給さんを載せて走る、「女給電車」と呼ばれたものが戦前の大阪で走っていました。

 

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1930年(昭和5)の南海鉄道(現南海本線)の時刻表です。

 

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いちばん下に、深夜2時難波発の電車があります。
種別に「新聞」と書いているとおり、もともとは印刷所で刷り終えた翌日の朝刊新聞を載せ、ついでに客も乗せた電車でした。
こういう電車は当時の鉄道では珍しくなく、各鉄道会社でもあったはずです。南海の天敵、阪和電気鉄道(現JR阪和線)も、同じ時間帯に新聞電車を走らせていました。


しかし、南海の新聞電車は一風変わっていました。
大阪のカフェーの中心は、道頓堀など「ミナミ」界隈だったのですが、仕事を終えたカフェーの女給さんたちが一斉に新聞電車に乗り、帰宅の途についていました。当時の女給さんたちは、天下茶屋や萩之茶屋周辺に固まって住んでいたそうです。
新聞電車は水商売の女性たちであふれ、化粧や香水のにおいと共に花が咲いたようになり、誰が呼んだか「女給電車」と呼ばれるようになりました。

 

南海の女給電車昭和初期

南海新聞電車女給電車

(昭和11年『開通五十年』-南海鉄道編 より)

実際の「女給電車」の写真ですが、「女のにおい」が写真から立ち込めてくる感がすごい。書いている本人が女子校の前でもじもじする男子高校生の気分です。

「当社は明治時代から『新聞電車』を運転しているが、この電車はいつしか南地歓楽街に夜を更かした酔客や道頓堀千日前に通う幾百千もの若き女性に利用せられ車内は嬌笑と脂粉に渦巻き、(中略)南海の名物電車として知られている」
(『開通五十年』より)

公式社史にも写真付きで書かれているほどだから、よほど「名物」だったのでしょう。
今回は写真も資料も残っている南海電車を取り上げましたが、東京や他の地域にも「女給電車」とは呼ばれなかったものの、女給さん満載の夜遅い電車は存在していたはずです。お暇な方は一度探してみては如何でしょ。

 


もう一つ、「エロ」と「グロ」の中間のようなものがこの時代に流行しました。それが「オカマ」

オカマは昔からおり、明治時代には荒木繁子という「美人」がいたという記録もあります。ただ、エログロナンセンスの暗雲の中、オカマが裏の世界から表に出てきたのがこの時代。

こんな文章があります。

変態性慾者は、俗にオカマと称する男性である。
彼は男性であり乍ら先天的に或は後天的に、女性的心理を有し、立居振舞、言語等全く女型で中には全然女の服装容色を造るものもあり、勿論専ら本能的に同性にのみ愛着を覚えるものであって、更に又一定の夫を持って据養(すゑやしな)ひをしたり、所謂売淫行為を事として暮すと云ふ洵(まこと)に厄介な存在である。

『今宮釜ヶ崎の特異性』(塩井文夫 昭和12年)

 
論文なので「変態性欲者」とお硬い表現を使っていますが、「俗にオカマ」と書いているとおりオカマのこと。この時にはすでに「オカマ」が世間に定着していたことがわかります。

 

釜ヶ崎男娼

戦後に阿倍野の街角に立つ男娼(1948年1月『奇譚クラブ』より)

 

戦後釜ヶ崎男娼

釜ヶ崎の男娼(戦後の写真)

上の論文にいう「変態性欲者」は、天王寺駅界隈から「釜ヶ崎」と呼ばれた現在のあいりん地区に集まり、「男娼婦」として春を売っていました。今のあべのハルカスの真下なんぞ、その昔男娼が立つ妖しい界隈だったのです。

新今宮周辺の「釜ヶ崎」、のちの「あいりん地区」は労働者の町として知られていますが、それは表の顔。裏の顔は「男娼の町」だったのです。

 

東京のオカマのメッカと言えば、隠語で「ノガミ」と呼ばれた上野でした。昭和初期から戦後すぐの上野公園は男娼のメッカでしたが、「彼女」らが総本山と崇めたのが釜ヶ崎。なぜならば、オカマ=女装した男娼という定義なら、おそらく釜ヶ崎の男娼が間違いなく日本初だったから。

釜ヶ崎には、12歳からその道一筋、「飛田のエミちゃん」としてその界隈で知らぬ者はいないという上田笑子という人がいました。オカマは古くからいたのですが、「女装したオカマ」第一号と言われています。カルーセル麻紀や美輪明宏氏も、その世界で生きるため「彼女」に挨拶に行ったそうです。

「彼女」はまた、「女装して客を取った日本初の男娼」だと自称しています。当時の男娼(≒オカマ)は、紋付袴や背広の男装に口紅を塗ったりして、見た目は明らかに「変態」。保毛尾田保毛男に和服を着せたような感じのようです。

釜ヶ崎のオカマの歴史は1923年の関東大震災後だと言われていますが、昭和のはじめには聖地と崇められるほどの「歴史と伝統」を持つコミュニティが、釜ヶ崎には成立していたのです。

 
この大阪の「オカマ史」、表の歴史、「A級大阪史」で語られることは絶対にありません。しかしながら、その裏街道に生きた「オカマ」たちも、「B級大阪史」、つまり裏大阪史を刻んだ人たちの一部なのです。

 

そしてエログロナンセンスを代表するもう一つのものが、プロレタリア文学。社会主義や共産主義の思想が入った左翼文学です。

これをエログロナンセンスと定義するのはちょっと抵抗があるのですが、荒俣宏氏はプロレタリア文学も時代が生んだエログロナンセンスだと定義しています。

小林多喜二の『蟹工船』が発表されたのが昭和4年(1929)のことですが、それと同時期にヒットしたのが『マルクス・エンゲルス全集』。「円本」と呼ばれた定価1円の本の一種でしたが、これが飛ぶように売れる始末。

直近も、2008年のリーマンショックによる不況の際、『蟹工船』が再ブームになったことがありましたが、不況の閉塞感滲む時代にはこういった文学が売れるそうです。

 

 『ルンペン節』はナンセンス歌謡

残りの「ナンセンス」、これは何か。これこそが『ルンペン節』だと私は考察しています。

 

『ルンペン節』が夜に出たのは昭和6年(1931)ですが、昭和5~6年が昭和初期の中でのどん底とも言える時期でした。

公務員の給料は10%減。そうなると公務員の利用が多かったタクシーの利用者が減り、運ちゃんが悲鳴をあげる。タクシー料金は「円タク」と言って1円均一だったのですが、客がいないので「半円(50銭)」にまで値下げする。タクシー料金だけではなく、この昭和5~6年で全体の物価が10%も下落しました。株価も-30%、経済成長率も-9%と目も当てられない状態に。超氷河期なんて次元ではありません。

農作物の価格も下がったため、「キャベツ30個でやっとタバコ1箱が買える値段」にまで暴落。農村では餓死者が出たり、娘の身売りが横行することとなりました。

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昭和の不況を表す代表的な写真ですが、農村のこの写真はまさにこの時代のものです。

が、正直なところ大根が食えるだけ全然「裕福」な方。本当に食うものがないと、家の壁や土を食っていたそうです。

  

『ルンペン節』の底抜けの明るさは、実は底抜けの不景気の裏返し。もう全く光が見えなくなると、 反作用でケ・セラ・セラ的な空元気さ、根拠なき楽天さが出てくるのでしょう。そうでもないとやってられねーという、民衆の悲鳴なのかもしれません。

これを「ナンセンス歌謡曲」と呼んでよいのではないでしょうか。

 

 

『ルンペン節』の後

『ルンペン節』が発表された翌月、日本を揺るがす事件が「海外」で起こります。それが満州事変でした。

満州事変は、「新聞で事件を知った」昭和天皇がいったんストップをかけたのですが、軍はもちろんマスコミも民衆もやれやれとお祭り騒ぎ。関東軍も「国民が支持しているじゃないか」を建前にどんどん調子に乗る。

満州事変は、関東軍が暴走して言うこと聞かなかったんですよ~という歴史的評価で落ち着いています。それはそれで事実ですが、彼らが調子に乗れた背景には国民の熱狂的支持があったことを、我々は決して忘れてはいけません。

なぜ民衆が両手を挙げて支持したかというと、日本を覆っていた不景気というどす黒い雲に、満州事変が穴を開け、そこから光が見えてきたから。この窒息寸前の閉塞感が、この事変をきっかけに打破できるのではないか。民衆はそう感じたのです。

事実、満州事変による軍事特需や、犬養毅内閣の蔵相高橋是清による金融・経済対策で、日本はデフレからインフレへ針の方向が変わり、世界恐慌から世界でいちばん早く抜けることとなりました。そこから昭和9年~12年の好景気につながります。

学校の教科書的な歴史物語では、昭和は大不況の暗い時代のまま戦争が始まった・・・ということになっていますが、実はとんでもない。数字だけなら1980年代のバブルをしのぐまばゆい光が、戦前にあったのです。

その光によってエログロナンセンスはニフラムされ・・・もとい消え、プロレタリア文学は古本屋の棚の上で、静かに埃をかぶることとなりました。「昭和景気」は昭和初期の日本が放った、最後の大花火大会でもありました。

ただし、花火大会の「開催期間」があまりに局地的かつ短命だったため、気づかない人は気づかなかった・・・それが「昭和景気」だったのです。

「昭和景気」の話は、また機会があれば。

 

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