昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

現代の遊女からのお便り

まったりブログサーフィンをしていて、偶然見つけたブログより。

 

soft34.hatenablog.com

 

言及先では、元風俗嬢だった主さんが、
「職業に貴賎はあるのだろうか」
をテーマに考察する内容ですが、私は違うところに引っかかりました。

 

 

遊郭の革命児、飛田

かつて近代遊郭史をテーマにブログを書いていた頃、地元大阪の松島新地の歴史に手を出しました。
松島新地とは、今の大阪市西区にあった明治からの血を引く古い遊郭で、かつては日本一の規模を誇った遊郭でした。
知名度を含めたブランド的な日本一は、東京の吉原と言えます。江戸落語の廓噺(くるわばなし)の舞台が決まって吉原であるように、「遊郭=吉原」と連想する人がかなり多いと思うので。

 

しかしながら、働いていた遊女の人数、客数、売上などの統計的・数字的には、松島がダントツ日本一でした。吉原は第3位か4位だったのですが、2位は同じ大阪の飛田遊郭。飛田遊郭は大正時代に出来たのでかなりの新参者だったものの、ほんの6~7年で日本第2位にまでのし上がりました。

 

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何故そんな短期間に日本トップクラスになったのか。その理由は、ずばり経営方法。
それまでの遊郭は、いわば商店街のようなもの。各妓楼が個人商店の寄り合いだったのですが、飛田は不動産会社が「飛田遊郭株式会社」を立ち上げ、資本を集中投入するという方式を採用。妓楼もすべて、基本は賃貸としました。賃貸にすると、店を開く元手が少なくて済み、新規参加がしやすくなります。
これを現代風にたとえるならば、松島や吉原が駅前商店街なら、飛田はイオンの郊外型ショッピングモール。イメージ的には、イオンモールのお店がすべて風俗店という連想でOK。飛田は規模もさることながら、遊郭=陰気臭いという概念を覆した革命児だったのです。

 

飛田遊郭新地絵葉書カラー

飛田遊郭の絵葉書(カラー化)

飛田遊郭は同時に、「遊郭の大衆化」を呼びました。様々な個性的な店を開き、半分時代遅れになっていた遊郭のイメージを払拭し、客離れが進んでいた遊郭に客を取り戻すことに成功しました。「和」である遊郭に「洋」を投入したのも飛田が初で、今の風俗街のように敷居が低くなったのも、この飛田の出現の頃からでした。

それが、老舗遊郭の没落を呼ぶこととなります。遊郭のブランド的には、坂本龍馬が遊んだ長崎丸山遊郭、女の子大好き伊藤博文が遊びすぎて倒幕資金を使い込んでしまい、桂小五郎あたりにこっぴどく怒られた下関稲荷町遊郭なども格式が高く、客ではなく遊女が上座に座るほど。
他にも、「制度上での日本最古の遊郭」こと京都の島原や、一休さんこと一休宗純も通った堺市の乳守遊郭などもありました。
しかし、飛田の出現で、これらの遊郭は急激に衰退しました。お高くとまりすぎて、時代に乗り遅れてしまったのです。
昭和初期時点で、ブランド的にも数字的にもトップクラスの「遊郭ビッグ4」を挙げるなら、
・松島(大阪)
・飛田(大阪)
・吉原(東京)
・洲崎(東京)
と断言できます。

遊郭は、平たく言ってしまえば合法的に認められた風俗街ですが、その他にも「私娼窟」という非公認の風俗街が多数あり、これも全国に点在していました。
その中でも、永井荷風の名作『濹(ぼく)東綺譚』の舞台になった「玉の井」が有名ですが、規模が大きく警察も黙認だったので、私は「准遊郭」と呼んでいます。

 

松島遊郭の話に戻ると、ここは昭和20年3月、大阪大空襲で焼失、いや、「消失」って書いて良いほど、跡形もなく焼けました。
空襲直後の松島遊郭の写真を見たことがありますが、まあ見事にきれいさっぱりと・・・と声に出したほどの更地と化してしまい、往年の賑わいの後は現在、全く残っていません。

で、生き残った経営者や遊女が、住吉大社の近くにあった「住吉新地」などに場所を移し、戦後に九条で営業を再開したのが、現在の松島新地です。

 

松島遊郭戦前と戦後の位置

戦前と戦後の場所の関係は、上の地図の通り。
近くと言えば近くですが、戦前と戦後では営業していた場所が違います。

 

しかし、遊郭という、既に死語になった過去の遺物に興味を持つ人などいるのだろうか。

これが意外に多いのです。

戦後の赤線を含めた遊郭史・女性史はマニアックな分野ではあるけれど、マニアックな中ではメジャーな方。

遊郭・赤線となると鼻の下を伸ばしたスケベーな男が・・・まあそういう人もいますが、純粋な歴史学や建築学、はたまた経営学の形で研究する人が多いです。

 

私が意外だったのは、この分野、予想以上に女性が興味を持っていること。

10年以上前に、某元祖SNSの遊郭・赤線コミュを通してオフ会を開いたことがありました。

飛田新地鯛よし百番

場所は、この分野好きなら知らぬ者はいない聖地、『鯛よし百番』でした。

ここは、現在でも現役の飛田新地に建つ、昔の遊郭の面影を色濃く残す料亭で、中はけっこうすごいです。

そこの団体様オンリーの大広間を貸し切ったオフ会に集まった人数は、延べ33人。いちおう料亭なので、お一人様約1諭吉。まあこれは計算内でした。

しかし、計算外だったのは、参加者の半分以上が女性だったこと。場所が場所だけに、『百番』などオフ会でないと行けないということもありましたが、同じ女性として遊女に惹かれ、共感するところがあるのでしょう。

 

遊郭・赤線のことについては、またおいおいと、そしてじっくりと「歴史の一部」として書いていきたいと思います。

 

 

遊女に嫌われた職業

前置きが長くなりましたが、私が言及先で引っかかったところがここ。

 

風俗嬢をしているとお客さんから

「どうしてこんな仕事してるの??」

と聞かれることがあります。
(中略)
ちゃんとプレイしてフィニッシュまでした後に

「君ねぇ~これからどうするの?一生この仕事続ける気?親は知らないんでしょ?
知ったら悲しむよ??早くこんな仕事辞めてまっとうな仕事につかないとダメだよ。
だいたい・・うだうだうだうだうだうだうだ........((」

説教垂れだす自分のことは棚上げジジィもいる。

 

時は昭和10年くらいだったと思いますが、上に書いた「遊郭ビッグ4」の一つ、洲崎遊郭の遊女にアンケートを取りました。
その内容は、
「遊女に嫌われる職業」
というもの。
そのトップ5が記録に残っていたのですが、残念ながら上位3位しか覚えていません。
その3位とは、

1位:教師
2位:警察官
3位:官僚

彼らにはある共通点があり、それが嫌われる要素でした。それは、「説教を垂らす」というもので、内容は引用先ほぼそのまんま。
このトップ3がとにかく説教を垂らしていたらしく、それも超上から目線だったそうです。

もう一つの特徴は、トップ3が揃って公務員なこと。戦前は露骨な官尊民卑だったため、国民の下僕なんかではなく、「公務員様」と国民が頭を垂れていた存在でした。

ただでさえ国民を見下していた公務員様、さらに遊女となるともう一段見下げた形となり、それが遊女たちにビンビンと伝わっていたようです。

「あんたらも遊郭に来て一発ヤルほど『好き』なクセにお説教ばっかり。
あたしだって、別に好きでこの仕事やってんじゃないわよ!」

彼女らは吐き捨てるような気持ちだったでしょう。

 

これを見た時、
「全然変わってねーなーw」
と、人間の成長のなさを感じました。時代が変わっても、世紀が変わっても、オスどもの説教癖は変わらないのです。相手を見下し、自分の助兵衛を隠そうとする浅ましさ。男から見るとその本心が透けて見えるのです。

素直になって、姫たちに甘えてゴロニャンと膝枕してもらったらいいのに。


彼女らは何故遊女になったのか

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それでは、何故彼女らは遊女になったのか。
大阪限定ではありますが、それを調べた人がいました。
戦前には、性病などを診る遊郭の遊女専用の病院が、道府県に必ず一つ以上設置されていました。
大阪には「難波病院」というものが明治時代に作られ、名前のとおり難波に設置されていました。難波病院は戦後に一般の患者も見るようになり、現在は住吉区にある「大阪府立急性期総合医療センター」として現存しています。

その難波病院に、上村行彰という医師が働いていました。
彼は遊女を診察していくうちに、遊女や遊郭の生態に興味を持ち、診察がてら彼女らにアンケートを取りました。
その集大成が、『日本遊里史』という本にまとめられています。

その中で、「遊女になった理由」は、

遊郭の遊女になった理由ベスト3

 

■実家の借金や貧窮のため:364人

 

■家族(特に親)の死亡or病のため:160人

 

■自分の借金のため:101人

 

■家族を養うため(親・兄弟):86人

 

■その他家族の事情(親の事業失敗など):55人

 

■家族を養うため(子ども):29人

 

■その他(特に理由なし、ノーコメント等):14人

 

(大正時代、大阪難波病院で遊女809人から聞き取り。出典元:『売られゆく女』)

 となっております。

「恩人の冤罪を晴らすための裁判費用稼ぎ」や、「自分よりブサイクな友人が娼妓(遊女)になりきれいな着物を着て帰郷し、『こいつに稼げるなら私も・・・』と嫉妬」という珍しい理由もありますが、半分以上が「家の事情」です。
意外と知られていませんが、遊郭の遊女には、誰でも、すぐなれるわけではありません。警察に所定の書類を提出し、審査が必要です。その中に、「遊郭で働かざるを得ない理由」があり、「遊郭で働く、やむにやまれぬ理由」がないとダメなのです。上の理由も、「やむを得ない無難な理由」を答えたものの、さらに突っ込んで本音を聞き取った結果としています。

 

言及先の別の記事でも、上の調査から100年後、現代の風俗嬢になった理由ランキングが書かれています。
当時の遊女の年齢とダブる、18~24歳のランキングを抜粋すると、

 

21世紀の風俗嬢ベスト5

★1位.学費を稼ぐため:18%

★2位.遊ぶお金が欲しいから:12%

★3位.興味があったから:11%

★4位.スカウトされたから:7%

★5位.貯金をためるため:5%

 

出典:風俗嬢になった理由ランキング - 全力で緩く生きていきたい

 

昔は女性が従事できる職業がかなり少なかったので、低学歴は実家手伝い以外の職業の選択肢がほぼありませんでした。現代は女性が活躍できる場所がはるかに増えた上に、健康保険や生活保護などの社会福祉が充実し、わざわざ風俗で働く必要がないという事情もあります。

それにしても、こうして「苦海に身を沈めた理由」を比較してみると、昔と現代の社会情勢が見えてきて興味深いですね。


「現代の遊女」からの便り

 

大阪松島遊郭桜筋

大阪松島遊郭のメインストリート、桜筋

はてなに移住する前のブログでは、遊郭のことを中心に書いていたのですが、上に書いた松島新地のことも、自分で言うのも何ですが、かなり詳しく書きました。

 

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松島新地に関しては、新地の組合が編さんした『松島新地誌』という本があります。
売春防止法で廃止が確定し、せめて歴史を文字に残そうと、当事者たちが書いた歴史書であり、赤線の灯が消える前に遺した「遺書」でもあります。っても新地は今も残っていますけどね。

これ自体が史料として超一級品、裏話も豊富でブログネタとしては最高級の読み物ですが、おそらく関係者だけに配られた非売品。それも数百部~1000部未満の発行らしく、中古市場では10諭吉以上の値がつくことも。大阪にまで来れば、府立・市立図書館どちらにも所蔵していますが、貸出禁止の貴重資料となっています。

 

そうして松島新地のブログ記事を書いてしばらく経ったある日、一通のメールが届きました。

それは、松島のある風俗嬢からのお便りでした。

届いた時間から、お仕事の合間にでも読んだのでしょうか、自分の働いている仕事場の歴史を知りたくてググって私の記事にたどり着いたのです。
風俗嬢というと、言及先でも述べられている通り、なんでそんな仕事に就いているの?と一段見下げられることが多い職業。
しかし、そんな彼女らも、自分の仕事場がどんな歴史を持っているのか、知りたくて調べているのです。自分の職場の歴史なんて、どうでもいい、興味すらない人の方が多いのではないでしょうか。
私は彼女らのその「知りたい」という気持ちに、心打たれました。

 

 

風俗街で働いている姫たちは、それぞれ抱えている事情があるのでしょう。

しかし、 過去は人それぞれ。過去は一切不問。

海軍屈指のモテ男に、海軍提督米内光政大将がいます。女性にも、男性にもモテモテ。昭和天皇や吉田茂も個人的なファンだったほどですが、モテたい気マンマンの若い部下にこんな言葉を残しています。

「女にモテたければ、彼女らの過去を詮索しないことだよ。知ってても知らんフリをしなさい」

 

米内の伝記に書かれたこの言葉を読み、電気が走りました。「漢」はこうでありたいと。

最後にダジャレが出てきたところで、そろそろこの話は終わりにします。