昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

天王寺駅の怪と阪和電気鉄道の歴史 前編【昭和考古学】

目次:

 

序章:天王寺駅の素朴な謎

好奇心のアンテナを限度いっぱいに広げていると、身近な場所や物でもさりげなく「???」と思う謎があったりします。

そして、それそれを掘り下げてみると、意外なものが見つかったりすることがあります。

 

例えば、大阪にあるJR阪和線の天王寺駅

 

阪和線の天王寺駅は、他のJRの路線とは少し離れた所に位置しています。

そもそも、

「同じJRなのに他の路線とホームが違うの?」

という疑問を持たれてもおかしくないですが、その答えは簡単。
ここは元々阪和電気鉄道(以下阪和電鉄)のターミナル駅として作られたもので、当時は私鉄なので別でした。もちろん、当時は駅舎も違いました。

今でも私鉄のターミナル駅のような、終端式のホームが私鉄時代の面影を残しています。

 


ここのホームには、気付くことはほとんどない、ちょっとした謎が隠されています。

 

阪和線天王寺駅7番線ホーム

 

これは、7~8番ホーム。

 

阪和線天王寺駅5-6番線ホーム

 

これは今は降車専用になっている5~6番ホームです。
カメラマンの腕が悪いせいでわかりにくいですが、この2つのホームを比べてみたら、なんだか変なんです。

 

そう、7~8番ホームと比べて5~6番ホームの幅が異様に広いということ。
これは、毎日この駅を使っている人でも意識しません。逆に、毎日使ってるからこそ気付かない、このアンバランスさは何か。

 

そしてもう一点。

 

阪和線天王寺駅の、ぐにゃっと曲がったレール

 

これは7番ホームから和歌山の方向を写したものですが、途中でレールがグニャッと不自然に曲がっています。
まっすぐにした方が効率が良いのに、何でわざわざこんな非効率な曲がり方しとるんやろ?

こう書くとなんか不思議に思いません?
俺はごっつい不思議に思うんですけどね(笑


で、思ったことは、

 

「こんな非効率な曲がり方には、何らかの理由があるに違いない!」

 

という謎。
そこで、名づけて「天王寺駅の怪」を解明すべく、GWのヒマつぶしに調査することにしました。

 

 

伝説の私鉄、阪和電気鉄道

本題に入る前に、阪和線の前身、阪和電鉄のことを説明しないといけません。

 

JR阪和線は大阪の天王寺駅と和歌山駅とを結ぶ路線で、今は関西空港へのアクセスラインとしても知られています。


しかし、ここが元々は私鉄だったことは知っていても、京阪電鉄の系列だったって知る人は、毎日通勤通学で使っとる人でも知っている人は少ないと思います。
今は「おけいはん」って名前で知られている京阪電鉄ですが、戦前は相当羽振りがよかったらしく、当時の鉄道省や政党にもコネがあって政治力は関西最強の私鉄でした。

今の阪急京都線も元々は「新おけいはん」ならぬ「新京阪電鉄」でした。


その代わり、大阪最強、私鉄にとっては「最凶」の交通機関、大阪市交通局に相当いじめられていたことも確かでした。

 

昔の大阪市は「市営モンロー主義」のもと、やり口は今の中国そのもの。

「俺の庭(市内中心部)には鉄道のレール一本入れさせぬ!」

と私鉄の都心部進出をさんざん邪魔しておきながら、

「あんたの庭に地下鉄通すね♪あ、文句は一切認めないから」

と自分のやることは完全棚上げで「領土侵攻」してくる、日本一の自己チュー行政機関でした。 

私鉄と組んだ大阪府とも犬猿の仲。大阪では古くから「府市合わせ(不幸せ)」という言葉があるように、市と府は何かといがみ合い張り合い、傍目から見る以上に仲が悪いのです。これが外国なら、おそらく内戦になっているレベルです。

東京(関東)と比べて大阪はなんで鉄道どうしの連携が悪いの?という理由は、半分以上ここにあります。

そう、「あの人」が出て来るまでは・・・。

 

戦前であれば、「大阪市>>>>大阪府」の力関係なので文句が言えなかったのですが、戦後に「大阪市<<<<大阪府」と力関係が逆転。しかし、市はその時代の流れを読まなかったか、相変わらず「暴君」のままでした。

その100年以上の傲慢さが、結果的に「あの人」を爆誕させることになりました。「あの人」とは、ここまでの流れを読めば書くまでもないですよね。

 

 

 

閑話休題。本題に戻ります。

 

 阪和電鉄時代の天王寺駅舎

阪和電鉄天王寺駅

 

昭和14年(1939)頃と言われている(※下記参照)阪和電気鉄道時代の天王寺駅です。しれっとWikipediaにも掲載されている写真ですが、私鉄時代を語る貴重な写真でもあります。
当時は、「阪和天王寺」と言う名前で、阿倍野橋北詰交差点(今の天王寺駅前交差点)の東南角にありました。
駅の看板にある広告から、たぶん秋頃の写真だと推定できます。

 

~追記~

上の写真、ブコメで「ナチスの旗がある」という指摘がありました。

すみません、素で気づきませんでした(笑

 

そこで顔を洗って改めて調べなおすと。

日本の旗と対になってナチスドイツの旗が立っているということは、

「日独防共協定」1936(昭和11)年

「日独伊三国同盟」1940(昭和15)年

のどちらかが締結された時期だと思います。

 

画像を改めて解析すると「みかん狩り」「松茸狩」という看板もあるので、秋なのは確定。

が、早秋と晩秋の違いはあれど、どちらの締結も「秋」なんです(笑

 

さて11年か15年のどちらかが、厄介な問題として残りました。イタリアの旗がないので、11年の防共協定の方かなとも思いました。

 

が、コメントでさらなる指摘がありました。ヒトラー・ユーゲントと関連するのではないかと。ヒトラー・ユーゲントについては省略しますが、昭和13年(1938)の10月に大阪を訪問しています。季節広告も秋で一致しているし、おそらくその時の写真ではないかと。

 

写真右隅に「泉ヶ丘」という文字が見えます。これは阪和電鉄の子会社が開発した新興住宅地のこと。泉佐野市にある東佐野駅前に広がる住宅街で、堺市にある泉北ニュータウンの泉ヶ丘とは全く別ものです。

 

この住宅の分譲は1938(昭和13)年から始まっており、ヒトラー・ユーゲントの来阪と時期とピタリと一致します。

後で書く「黒潮号」の看板もないということからも、これは1938(昭和13)年秋、10月の写真でファイナルアンサー。『阪和電気鉄道史』やWikipediaの記述と一致します。

 

気づかせてくれた方、ここにて御礼申し上げますm(_ _)m

 

 

平成28年の天王寺駅(阪和電鉄阪和天王寺駅跡)

 

交差点の東南角にあったという記述を元にして、平成29年(2017)の現在の姿をたぶん同じような角度で撮ったら、こんな感じになりました。

当時の面影なんてま~~ったくございません。というか看板がごちゃごちゃしすぎて写真撮られへん(笑

 

阪和のエヴァンゲリオン、超特急

私鉄時代の天王寺駅をじっくり見てみると、看板広告のバラエティの豊かさに驚きます。

 

 

阪和電気鉄道(阪和電鉄)の阪和天王寺駅舎

まず挙げたいのが、阪和電鉄の名物列車であった

「超特急」

の看板です。

赤い四角で囲んだ部分には、

「ワカ山マデ超急四十五分」

と書かれています。関西の私鉄のターミナル駅には当たり前のよーにあった、看板列車の宣伝です。「超特急」が「超急」と略されて呼ばれていたことも、この看板からわかります。それが市民権を得てたかどうかは別として。


阪和電鉄は開通して10年で消滅と、私鉄としては非常に短命でした。歴史のゴミの山に埋もれ、存在ごと忘れられていてもおかしくないのですが、この「超特急」の存在が阪和電気鉄道の名前を、知る人ぞ知る的な存在たらしめています。


「超特急」というネーミングだけでもインパクト強烈ですが、もっと強烈だったのはその速度でした。
和歌山まで45分というと、同じ区間をJRの特急「くろしお」が今は42~44分*1で走っているので、何のことはないと思われがちです。

でも、それは今の常識と列車の性能での話であって、当時はまさに弾丸列車。否、エヴァンゲリオン初号機顔負けの暴走列車でした。

 

阪和電鉄超特急の時刻表

ね、ホントに45分で走っているでしょ。

 

阪和電鉄超特急
非常に珍しい、超特急の列車種別板付き写真です。これは電車の形式からロングシート車でも運転されたようですね。


半分伝説扱いですが、この超特急は最高で130km/h以上出していたと言われています。

当時の常識の130km/hは新幹線並み、東海道新幹線も最初は最高時速210km/hスタートでした。天王寺~東和歌山(今の和歌山)間の表定速度81.6km/hは、戦前のぶっちぎり最高記録。この記録は26年間破られることはありませんでした。

しかし、並の車両が130km/hなど出したらモーターが焼けて空中分解します。「超特急」に使われた列車は、当時としてはオーバースペックなほどの超高性能電車を導入していました。


その「天王寺-和歌山45分」がどれだけすごかったかというと、「超特急」が人々の記憶から消え去った後、45分の数字を戻すのに27年、45分を抜くのには40年、国鉄がJRになる寸前までかかっています。

これだけで、「45分」が化け物的数字なことがわかることでしょう。

 

しかしこれ、思い切り「電車のスピード違反」だったのです。

電車にもちゃんと制限速度があって、当時の法律では確か90km/hか95km/h以上出してはいけないことになっていました。当時の省鉄(今のJR)の看板超特急、『燕』の最高速度がこれくらいだったはず。

しかし、実際はそんなのお構いなし。特に関西の私鉄は、いや関西の省鉄(大阪鉄道局)でさえもガン無視でした。

今の阪和線でも、鳳駅より南は制限速度120km/h。特に鳳~和泉府中間はほぼ一直線、遅れが生じるとここでいつも快速が先祖返りして超特急化時間調整している「阪和線のボーナスステージ」的区間です。「あの事故」前は、ここでは書けないような速度で走ってました。電車の速度計壊れてるんじゃなかろうかと、当時は思ったものです。

 

阪和電気鉄道は昭和15年12月、南海鉄道に吸収合併されます。が、南海になった後も超特急は存在し、所要時間も45分を保っています。

「超特急」がいつなくなったのかは、南海側にも記録が残っておらず謎のままです。

昭和16年4月、南海発行の時刻表には載っていたのに、7月の全国時刻表には「超特急」の記載がなくなっているので、おそらくこの時だろうと推定できます。Wikipediaでは同年12月1日をもって「命日」としていますが、私は資料を分析した結果として、7月説を採ります。まあ、5ヶ月の差なんて誤差の範囲やけど(笑

資料を丹念に調べていったら、「超特急は少なくても昭和16年まで走っており、阪和間45分を保っていた」ことは確定です。

 

砂川遊園の広告@阪和天王寺駅

 

今の和泉砂川駅近くにあったという幻の遊園地、「砂川遊園」の広告です。

これについての詳細は、以下の記事をどうぞ。

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

魚釣広告@阪和天王寺駅

 

今でも太公望の皆さんにはお馴染みの南紀方面の魚釣りや、

 

みかん狩り@阪和天王寺駅

 

みかん狩りの案内など、バラエティ豊富です。看板にある「松尾山」「砂川山」は今はすっかりただの住宅地と化してしまい、かつてそこにみかん畑があっただなんて誰も信じないでしょう。

 

 

 

南紀直通列車、「黒潮号」

南紀直通列車看板広告@阪和天王寺駅

 

白浜温泉の看板もあります。
今でも京都・新大阪駅から阪和線経由で、南紀方面に特急「くろしお」が走っていますが、そのご先祖様は私鉄時代の戦前にまでさかのぼります。

 

黒潮号。美章園から南田辺間にて

(『黒潮号』美章園~南田辺駅間)

昭和8年(1933)に登場した「黒潮号」は、土曜日の午後に天王寺を出発し、週末は白浜温泉でゆったりと。そして日曜の午後に白浜を出るという、100%観光客を狙った列車でした。

「黒潮号」は特急でも急行でもなく、「準急」という今のJRにはない種別でした。今なら「新快速」や「特別快速」という位置づけでしょう。

戦前の準急で列車名がついていたのは、他には東京の両国駅と房総半島を結んでいた「漣(さざなみ)号」だけだったはず。急行でさえ名無しだった時代に、たかが準急に名前がつけられたのは全国でも超レアもの。暴走超特急と共に阪和電鉄の看板列車でした。

また、「黒潮号」は一般公募で付けられたものだったのですが、11月4日(往路)・5日(復路)の初運転の時、実はまだ名前が決まっておらず名無しでのスタートでした。しかし、8日に「黒潮」と正式決定し、次の週からは名前がついたという、ちょっとドタバタした出発でした。 

 

「黒潮号」は電車ではなく客車だったので、阪和電鉄内は超特急の後ろに連結され、超特急が電気機関車代わりになってました。和歌山からは蒸気機関車にバトンタッチ。

上の写真では7両編成になってますが、前の2両は電車の「超特急」、その後ろの3~4両が客車の「黒潮号」。最後尾は、よく見るとパンタグラフがついているので、電車というのがわかります。

 

この「黒潮号」は南海も難波から発車、和歌山市から省鉄(国鉄)に入り、東和歌山駅*2で天王寺からの「黒潮号」とドッキングし、白浜まで運転していました。

このダブル「黒潮号」を利用したトリックを題材にしたのが、日本初の鉄道ミステリー小説である『船富家の惨劇』(1935年)です。西村京太郎などでお馴染みの鉄道ミステリーの原点は、この列車でもあったのです。

 

「黒潮号」は、公式には戦争の「非常時」につき昭和12年に廃止になるのですが、それは実は世を忍ぶ仮の姿。

大阪~南紀直通列車は他にも何本かあり、「黒潮号」はなくなったものの南紀直通列車がなくなったわけではなかったのです。

廃止から3年後の昭和16年10月28日、大阪府交通課からのお達しで、

「黒潮列車の如き観光列車を休止せよ」

という文章があります。南紀直通列車は事実上、「黒潮号」扱いされていたというわけですね。

どちらの列車も阪和電鉄内ノンストップは変わりないのですが、「黒潮号」は2等車(今のグリーン車)が連結され、和歌山を出たら白浜までほぼノンストップに対し、名無し南紀直通列車は基本各駅停車で3等車のみという、大きな違いがあります。

しかし、それでも廃止どころか白浜から新宮まで延長されていたので、運行責任者の大阪鉄道局が

「やだねww」

と拒否ったのでしょう。

 

さらに、戦争真っ只中の昭和18年、

消えぬ温泉街への遊客

戦時下の軍需輸送に全力をあげている鉄道当局では温泉街への遊客抑制のため切符発売を制限したり、車両を減らしたりあらゆる方法で銃後の粛正を行っているが、このほど和歌山県から(※筆者註:大阪)府に達した情報によると、相変わらず商都近くの温泉街への遊客の流れがやまず、昨年中の遊客を調べてみると、白浜、勝浦両温泉街だけでも二十一万人に達しその4割9分は大阪人、次が兵庫県人というおもしろからぬ傾向を示している。
これは(中略)南海による電車客が多いものとみられるので、府保安交通課では同問題を大阪地方交通委員会にとりあげて鉄道当局と連絡、電車客に対しても(中略)和歌山行の切符販売に抑制を行うとなっている。

昭和18年2月7日 大阪毎日新聞 旧仮名遣い、漢字の旧字体は現在のものに改め済)

 と新聞にも書かれ、

「戦争してんのに南紀への年間観光客21万人ってどうなってんねん!」

と国が激怒。

 

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そのペナルティーか、すぐに廃止されました。逆の見方をすれば、そんな時期まで「観光列車としての需要」があったってことですな。

 

『黒潮列車』が廃止になった時期は、世の中は日中戦争が始まり「非常時」という言葉が流行った時でもあります。廃止の2~3年後になりますが、「贅沢は敵だ!」のスローガンが流れ、陸軍が「精神力強化のため男はみんな丸坊主、女はパーマ禁止」と言い出して、聯合艦隊司令長官の山本五十六に


「髪型変えただけで精神力が強くなるかい!

あいつら(陸軍)マジでバカだなwww」


と鼻で笑われた時期であります*3


しかしまあ、「みかん狩り」に「魚釣り」に「白浜温泉」・・・陸軍が見たら激怒しそーな看板ばっかしですね。陸軍の鼻息の荒さなんてどこ吹く風(笑 
ただ、砂川遊園の看板には、「擧(こぞ)って体位向上」ってコピーがあるので、これも時代だなと感じます。

少なくても、看板や写真に写っている人の服装などを見ても、とても「贅沢は敵だ!」の時代とは思えない日常に見えるんですけどね。

 

 

 

大阪と和歌山の間には、すでに私鉄の南海鉄道(現在の南海電鉄)が開通していました。日露戦争の頃に国が南海を買収(国有化)しようと画策したのですが、失敗します。

阪和間の新線計画は、大正時代から始まりました。阪和電気鉄道は大正15年に設立され、阪和間の高速鉄道建設を担うこととなります。

 

昭和4年大阪商工大観の阪和電気鉄道の広告

『大阪商工大観』という書物内にあった、阪和電気鉄道の紹介です。この書物が刊行されたのは昭和4年(1929)で阪和電鉄が開通したのと同じ年のもの。生まれたての鉄道路線の将来も含めて生き生きと書かれていますが、国鉄紀勢本線や城東線(現大阪環状線天王寺~鶴橋~大阪間)とのリンクを上手く活かせば、阪神間の阪神電鉄に対する阪急のような存在になれると胸を張っています。

 

阪和電鉄天王寺から和泉府中間開通広告

 

昭和4年7月18日、阪和電気鉄道は開業しました。
ここで、ジモピーなら「あれ???」と思うはず。


「阪和線って・・・和歌山までちゃうのん?」


と。


そう、実は最初は「天王寺~和泉府中」間の開業だったのです。
なぜかと言うと、天王寺駅からの高架線建設に金がかかりすぎ、大阪から和歌山を越える和泉山脈を貫くトンネルを掘る資金が足りなくなったから。
これを知った時は高校生の時だったのですが、
「もしかして、阪和線の『和』って和歌山やのーて、『和泉』の『和』ちゃうんか?」
という仮説を立てたことがあります。しかし私の考え過ぎでした。

 

おいおい、ちゃんと和歌山まで開通するんやろな?
と当時の人は心配したんかどうかは知りませんが、そこは心配ご無用。

 

阪和電鉄和歌山まで全通広告

 

翌年、無事に和歌山まで開通しています。
当時の新聞記事によると、東和歌山駅(今の和歌山駅)で全通セレモニーが行われて、鉄道大臣に大阪府・和歌山県知事など600人が出席して盛大に祝ったそうです。

 

阪和間の料金に見る戦前の物価

資料によると、開通当時の天王寺からの運賃は、

 

土生郷(今の東岸和田):42銭
熊取駅:52銭
信達駅(同和泉砂川):64銭
東和歌山(同和歌山):96銭

 

阪和間の96銭はどこから来たかはわかりませんが、当時南海の難波~和歌山市間が1円だったので、それを意識して少し安めに設定したのでしょう。南海も阪和の料金設定に合わせ、1円から96銭に下げています。


この価格、今の物価だといくらになるか。

この計算がけっこう難しいのですが、日本銀行が公式に出してる数値に、「企業物価指数」というものがあります。

国の公式なので、テレビや新聞などのニュースでも、昔の値段を現代の価値に換算する時、けっこうこの数値が使われております。

昭和22年以前の場合は、「企業物価戦前基準指数」という指数も使用します。


最新のデータである平成28(2016)年の指数が658.2で、阪和線開通時の昭和5年が0.885であります。
これを元に計算してみると、


658.2÷0.885743.73


これに当時のお金を掛けたら、目安的に今の価格に換算できます。
阪和電鉄の天王寺~和歌山間の運賃でやってみると、

 

0.96(96銭)×743.73≒¥713.97(713円97銭)

 

今のJRの運賃が¥840なので、これくらいの価格が妥当なところか!?

しかし、上の物価指数はあくまで机上の理論値。時のリアル価格と比較すると、

かけうどん一杯:10~11銭

コーヒー一杯:15銭

朝日新聞の月刊購読料:1円

(昭和11(1936)年の大阪の値段)

 

今の朝日新聞の月刊購読料が約¥4,000、喫茶店のコーヒー一杯¥400と考えると、感覚的な96銭は2200~3500円くらいかなと思います。

 

リアルの日給を比較すると、同じ時期の阪急百貨店の名物食堂の、ウエイトレスの日給(10時間労働)が80銭でした。

また、こんな証言も残っています。

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泉南市埋蔵文化財センター企画展「昭和の一大観光地砂川」より)

「天王寺までの往復料金は、日給と同じくらい」

正真正銘、阪和電鉄の元社員(運転士)の回想ですが、「往復」とはおそらく天王寺~和歌山間だと思います。同区間の往復料金は1円92銭。当時の東京のガテン系肉体労働の日給が1.5~2円だった時代なので、この証言は当時の平均給与水準に合致。やはり阪和間¥4000くらいの感覚で間違いないと思います。

そう思うと、昔の鉄道料金って高かったのねん。いや、今が安いだけか!?

 

 

阪和電気鉄道、開業早々に事故る


無事全線開通し順風満帆に見えた阪和電鉄ですが、2ヶ月後にとんでもない事故をしでかします。
その新聞記事がこれ。

 

阪和電鉄事故の新聞記事。杉本町から百舌鳥御陵前駅間

 

ニュースの原稿風に書いてみると、以下のようになります。

昭和5年8月23日午後5時15分頃、大阪の阪和電気鉄道の杉本町~仁徳御陵前*4で架線故障が発生し、天王寺発東和歌山行き各駅停車が停止信号に従って緊急停車しました。

そこへ後続を走っていた、天王寺発阪和浜寺(今の東羽衣)行き臨時急行が停止信号を無視して追突、重軽傷者47人を出し近くの病院に搬送されました。

なお、全員命に別状はない模様です。

Q1:「あれ?浅香に堺市に三国ヶ丘駅は?」

A1:「当時はありません」 

 
これだけでもかなりの大事故です。

死者が出なかっただけが不幸中の幸いでしたが、現場保全の必要があるのに勝手に電車を車庫に送ったり、割れたガラスを片付けたりと、独断で現場を「きれいさっぱりお掃除」してしまいました。

それが悪質な証拠隠滅と見なされ、警察から大目玉を喰らったそうです。

 

 

 阪和線、真の秘密兵器

「超特急」に「黒潮」にと、何かと話題をさらった阪和電鉄ですが、最初はかなりの赤字でした。


今でこそ阪和線沿線は関西でも屈指の通勤路線で、混雑率は関西のJRトップクラス。

海外から朝に関空に着いてそのまま関空快速で大阪市内に向かうと、阪和線に入る日根野駅で朝6時台から、仁義なき椅子取りゲーム、通称「日根野戦争」「大阪日根野の陣」が始まります。

さらに、電車の遅延伝説を数多く残しました。今ははるかに改善されたのですが、いったんついてしまったイメージはなかなか拭えず、2ちゃんねるでは

「また阪和線か!」 (意味はここで調べてね)

という言葉で有名です。Googleで「またはん」と入力すると、「阪和線か」というワードが続きます。一度Googleで試してみて下さい。 

 

が、開通した当時は天王寺を離れると、畑や原野の中に線路を敷いたが如く。信じられないかも知れませんが、沿線のうち住宅地が見えるのは南田辺までで、あとはお察し。上に書いた運賃の高さ以前に、乗ってくれる客がいるのか?いうほど、人が住んでいる気配ない原野でした。

 

大阪の南の方は、堺や岸和田、貝塚など紀州街道沿いに町が形成されていたので、そこは南海鉄道(今の南海本線)が既に独占していました。

阪和電鉄も、最初の計画路線は紀州街道の近くまで近づいて、南海の客をぶん取ろうと画策していました。

が、たぶん南海が邪魔したのか何度かの変更の上、今のルートに。人が少ない無人の野を走ることになりました。

しかしその分、

まっすぐに線路を敷く

スピードが出せる

阪和間を高速で結べる

というメリットもあります。阪和線って今でも直線区間が多いのですが、これは「スピード出せるように」なのと、「障害物がなかったから土地買収が楽だった」という理由があります。
おまけに、ここぞとばかりに地盤も硬くして「高速志向」に拍車をかけました。だからこそ「超特急」を走らせることが出来たのだろうと。

 

そこで、もう一つの阪和線の「謎」が出てきます。

 

阪和線の半地下区間

 

三国ヶ丘~百舌鳥間は、地下を走っているが蓋をしていない「半地下」状態になっているのですが、その理由が

「天皇陵の横を通ると不敬だから」

という俗説が伝わっています。私も、幼いころに地元民として聞いたことがありますし、ある程度は信じていました。大人になり以下の疑問が沸いてくるまでは。

 

「本当に不敬」なら、少し考えたらいくつかの疑問が出てきます。

 

三国ヶ丘駅より堺市駅側から既に「半地下」になっていますが、堺市駅から南側と仁徳天皇陵は何の関係もありません。天皇陵と関係がないところも「半地下」になっている理由は?

百舌鳥駅あたりは地上に出ており、天皇陵を横目に走っています。本当に不敬であれば、百舌鳥駅こそ半地下にすべきではないか?

仁徳天皇陵の他にも、上野芝駅のほぼ前に履中天皇陵があります。天皇陵のほぼ前を通り駅を作るのは不敬ではないのか?なぜ仁徳天皇陵だけ超がつく別格扱いなのか?それには何の説明もない。

(それは天皇陵の横を通る鉄道線すべてに言えること)

「上野芝」という駅名の起源である履中天皇陵に対しては何の配慮もしない。それこそ「不敬」ではないのか?

 

じゃあ何故半地下なのか。本当の理由はわかりません。『阪和電気鉄道史』にも、「半地下」の理由も書いていないし、「不敬」の「ふ」も触れず。

何も書いていないということは、「特筆すべきことなし」ということじゃないですかね!?

 

半地下の理由をシンプルに考えたら、

1.スピード命のため

(「超特急」が130km/h出していたのは、「半地下」区間周辺と言われています。

なお、阪和電鉄時代に三国ヶ丘駅はありません

2.地形の都合

(三国ヶ丘近辺は、「丘」とついているとおり台地。阪和線が潜っているのではなく周囲が盛り上がってるだけ)

ということではないでしょうかね。

 

阪和電鉄 vs 南海鉄道の仁義なき戦い


「超特急」はライバルの南海電鉄を相当刺激させたらしく、負けじと南海もスピードで勝負しようとしたものの、集客力優先で紀州街道の町を縫うように作られた南海は、スピードでは全く敵いません。阪和45分に対し、南海はどれだけ飛ばしても60分でした*5

南海の言葉をガンダム風に解説すると、

開通前

「見せてもらおうか、阪和の超特急の性能とやらを」

 

(阪和「超特急、行きまーす!」)

 

開通後

「ええい、阪和の電車は化物か!」

 

南海の嘆きも仕方ありません。

超特急は「白いヤツ」だったのです。

まあ、信号だらけの一般道が、スピード違反し放題の高速道路に勝てるわけがない。

 


しかし、このまま引き下がる南海ではありません。

「まだだ、まだ終わらんよ!」

これでどうだと、当時の常識の斜め上をゆく最終兵器を投入しました。

 


その最終兵器とは・・・

 

 

南海バスにかつてあった冷房車のヘッドマーク


冷房車

 

エアコン自体は戦前、いや19世紀からあり、冷房車自体もアメリカではすでに実用化されていましたが、南海は列車に冷房をつけるという日本初の試みを行いました。 

この南海の冷房車は、三つの意味で革命的な「事件」でした。

1.特別料金不要の一般車両に装備したこと

2.「電車」に冷房を積んだこと

3.今の電車の冷房と同じ方式(冷媒式)を採用したこと

現在日本を走る電車の、すべての冷房車の原点がここにあります。

 

が、冷房車に客が殺到して非冷房車より暑かったとか、電気代も革命的に食ったらしく社長が「これなら客全員にコーヒーおごりの方が安いわ!」と涙目だったとか、好評だったので量産しようと思ったら、軍部から「贅沢じゃ!」とクレームを受けて1年で中止になったとか、革命的名車というより、悲劇的「迷車」として鉄道史に刻まれています。

 

しかしながら、この冷房車は有名な話でもあります。むしろ意外なのはこれから。
このエアコンは、「大阪金属工業」という当時設立10年ほどの地元ベンチャーメーカーの技術の結晶でした。「大阪金属工業」なんて会社、見たことも聞いたこともないって?そりゃそうでしょ。

 

 

それじゃ、

「ダイキン」

って書いたら全員が「あ!!!」と思うはず。

 

 

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そう、伝説の珍車を彩ったエアコン、実はダイキン製だったのです。

「大阪金属工業」略して「大金(ダイキン)」と昔から呼ばれていたのでしょう。「大阪金属工業」が今の「ダイキン工業」に名前が変わったのは、東京オリンピック前年の昭和38年です。中国語では「大金」と書き、「大阪金属工業」だった面影がチラリと残っています。
鉄道史では「迷車」として粗末な扱いの日本初の冷房電車でしたが、日本技術史から見るとダイキンの公式社史にも載ってるくらいの重大事でした。ダイキンは電車だけではなく、海軍のイ号、ロ号潜水艦のエアコン、陸軍の三式潜航輸送艇(「まるゆ」)の冷却機も担当しています。

(※大和型戦艦のエアコンは、荏原製作所と日立の合作と聞いています)

それにしても、ダイキンはこんな時代からエアコン作っていたのねん。

 

面白い資料があります。

 

昭和初期南海冷房車と非冷房車の温度・湿度比較表

冷房車が出来た時に、南海と大阪金属工業が「冷房車」と「非冷房車」の温度・湿度を調べたデータがあるのですが、それをエクセルで編集しなおしたものです。

数字からも、当時の冷房車がけっこう快適だったことがわかりますね。伝説だと「非冷房車より暑かった」そうですが、上の数字なら冷房車の車内温度は25℃前後。現在は南海電鉄をはじめ、関西の大手私鉄は26〜28℃(弱冷車はプラス1℃くらい)になるようセンサーで自動調整しています。が、一度25℃にしていた近鉄が、寒いやないかと客からクレームが殺到したというから、24℃など乗客が風邪をひきそうな温度設定です。

 

南海電車の冷房車については、こちらで詳しく解説しました。

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

 

阪和vs南海の仁義なき闘いはまだ続きます。

 

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(昭和17年撮影 大阪市撮影航空写真より)

今は臨海工業地帯になっていますが、南海本線の浜寺公園近辺は、かつて「東洋一」と呼ばれた天然の海水浴場でした。

 

浜寺公園浜寺海水浴場戦前

戦前の浜寺海水浴場

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大阪府営公園デジタルアーカイブスより。1,2枚目は昭和初期、3枚目は昭和39年)

毎年夏になると関西中から海水浴客が訪れ、輸送を独占していた南海はウハウハでした。

 

そんな敵なしの南海に、真正面から凶器を持ってケンカを挑んできたのが阪和電鉄。

その「凶器」が、今は「東羽衣線」という名の阪和線の支線です。阪和電鉄時代は「浜寺支線」と呼ばれていました。

 

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今はJRになっている線路に、「東羽衣」(阪和電気鉄道時代は「阪和浜寺」)という駅があります。まるで南海の喉元に「ナイフ」を突きつけて、「刺すぞ!」って配置になっているでしょ?

 

阪和電気鉄道浜寺海水浴場広告

(阪和電鉄パンフレットより)

 

阪和電鉄浜寺海水浴場

阪和電鉄は、夏の海水浴シーズンになると天王寺から阪和浜寺駅(現東羽衣駅)までノンストップの急行をガンガン走らせ、広告でも大々的に宣伝し南海を煽りました。


阪和電鉄の宣戦布告に、南海はもちろん激怒。

毎年夏になると客の取り合いが始まり、阪和電鉄と南海電鉄の社員の殴り合いが始まるという「仁義なき戦い 場外乱闘編」まで起こったそうです。

南海も南海。阪和浜寺駅に電車が着くや、南海側は羽衣駅を通過する特急ですらわざとトロトロ走らせ、開かずの踏切にして通せんぼしたとかいう伝説が残ってます。
やることがヤクザな阪和もさることながら、南海もやることが実にセコい(笑

 

涙ぐましい必死の経営努力

しかし、無人の原野を爆走するだけじゃ経営が火の車な阪和電鉄。手をこまねいて我慢しているだけではなく、涙も枯れる経営努力を模索し始めます。

 

 

阪和電鉄いちご狩りの広告

 

阪和電鉄チューリップ狩り広告

 

 

阪和電鉄広告
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まずは、沿線に何もないことを幸いに、キャンプ場を作ったり、ピクニックコースを作ったり、「◯◯狩り」を開催したり。とにかく理由をつけて電車に乗ってもらおうと、色んなイベントを計画したりしました。

その姿には、もう涙ぐましいという表現しか思いつきません。

 

阪和射撃場(上野芝射撃場)の位置と広告

そしてなんと、阪和電鉄は直営の射撃場まで作っています。

なんぼ経営努力言うてもそこまでせんでもええやん(笑)と思うのですが、それほど必死だったのだろうなと思います。

 

上野芝射撃場。『南海沿線厚生施設篇』昭和16年刊行 より

(『南海沿線厚生施設篇』昭和16年刊行 より)


しかしここ、「日本初の総合射撃場」と銘打った本格的な射撃場のようで、16歳以上なら男女問わず撃つことができました。200mもの射撃場やクレーン射撃施設など、なかなかのレジャーランドぶりです。

それも設立は昭和13(1938)年。学校通りの歴史で言うならば、上に書いたように、国中で「非常時」が叫ばれて不用なレジャーは控えましょうと言われていた時代です。こんな時期にこんなものを作るなんて、何というチャレンジャーでしょう。

 

この射撃場についても「発掘」していくと面白そうなので、また別記事で詳しく書こうと思います。

 

阪和電鉄直営住宅地上野芝聖が岡

阪和電鉄は他の私鉄の例に漏れず、住宅地の開発にも手を出していました。
鉄道沿線に住宅を作り電車に乗ってもらう経営戦略は、元々阪急の創業者小林一三の独創です。

他の鉄道会社もそれに倣って住宅経営に手を出したのですが、阪和電鉄も沿線に何もない分伸びしろは十分。逆に人口を増やせるチャンスでもありました。


阪和電鉄が開発した住宅地は主に4つでした。

 

・上野芝向ヶ丘・霞ヶ丘(上野芝駅周辺)
・信太聖ヶ岡(北信太駅前)
・泉ヶ丘(泉北ニュータウンではなく東佐野駅前のこと)

・富木の里(今の富木駅前周辺)

 


こうして見ると、富木以外は全部「◯◯ヶ丘(岡)」とついてます。

未完のままで終わった富木以外の3つは、今でも静かで道筋もきれいに整備された、家一軒がけっこうデカい住宅街になっています。
しかし、阪和電鉄も住宅経営のノウハウに乏しく、いちばん最初に作った上野芝の向ヶ丘住宅は、新築なのに2年で雨漏りするわ、飲料水は濁って飲めないわ、おまけに南海の嫌がらせで電気は通らないわ・・・今なら虚偽広告及び詐欺まがいの欠陥住宅でワイドショーの餌食でしょう。

上野芝向ヶ丘の住宅地(現上野芝向ヶ丘町)については、下の記事でさらに詳細に書いていますので、よかったらどうぞ。

parupuntenobu.hatenablog.jp


天王寺駅の次の駅の「美章園」も、阪和電鉄開業後に開発された住宅街なのですが、これは鉄道が通る→不動産が売れる→地価上がる→ウハウハと踏んだ個人が土地を買い占め、不動産会社を作ったという歴史なので、電鉄直営ではありません。

 

 

 阪和電鉄、時代の大波に消える

血と涙の(?)経営努力が実ったか、どうにか数年後には黒字になった阪和電鉄ですが、今度は戦争というどうしようもない大波によって、揺れに揺れます。
上にも書いたように、「非常時」に娯楽なんてけしからん!とどんどんレジャーが縮小されていった上に、昭和15年12月になんと宿命のライバルの南海に吸収合併されてしまいます。

最近でも阪神と阪急が経営統合しましたが、阪和電鉄は経営統合ではなく吸収合併。阪神タイガースが「阪急タイガース」になるくらいの衝撃でした。

 

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(昭和15年7月17日 大阪朝日新聞)

 

阪和と南海の合併広告(南海山手線)


この時点で阪和電気鉄道は消滅、「南海山手線」として再スタートします。

 

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(昭和16年『大阪朝日新聞』より)

駅名も、「南海風?」に変更されました。

 

 

ちなみに、今の三国ヶ丘駅は合併後に、南海高野線との連絡駅として作られました。

 

三国ヶ丘停留所(駅)の平面計画図

 

図書館で偶然見つけた資料の中にあった、三国ヶ丘駅の計画図です。

けっこう貴重です。

 

吸収合併という形でライバルを消した南海でしたが、合併してみると腰を抜かす事態が。

 

阪和電鉄の車両は、長年の酷使でみんなボロボロ。人間で言えば過労死一歩手前で、よくこんな状態で走らせてたな・・・とエンジニアが唖然としたそうです。

阪和電鉄と南海の合併の理由は様々あってちょっとした謎なのですが、そのうちの一つに挙げられているのが、「阪和電鉄経営破綻説」

あれ?阪和電鉄って黒字じゃなかったの!?とお思いかもしれません。実際黒字として株主配当までされています。

しかし、それが実は粉飾決済だったという説があります。つまり営業収支など表向きは黒字でも、建設費の利子などが膨らんで中身は超赤字。昭和12~13年には経営破綻しており、国のサポートで南海がひとまず吸収したということ。

その間接的な証拠の一つに、初代社長の木村清の自殺があります。

昭和12年11月26日、彼はカミソリで頸動脈を切り自殺をしますが、遺書には「経営責任を感じる」と書かれているといいます。

(※遺書はあるものの、遺族の意向か公開されていないようです)

これが本当なら、自殺の動機は「経営責任」。株主配当が出来るまで黒字を出した社長が「経営責任を感じ」て自殺とは、全く道理に合わないし、日本語にすらなっていない。本来なら、少々天狗になっても周りは文句が言えません。

 

この「経営破綻説」は旧阪和、南海の経営陣は否定しているのですが、現場からはこんな証言も出ています。

合併後、南海の技術者が阪和に来たらビックリ。電車のモーター一つ、壊れたパンタグラフ一つ修理していませんでした。株主配当できるほど経営に余裕があれば、乗客の命がかかっている部品くらいさっさと交換しろよと。

修理しなかったのではなく、実は経営が火の車でそんな金がなかったのではないか。元阪和の車両のメンテにあたった技術者は述べています。

その人いわく、元阪和の車両の状態は「そりゃひどかった」らしく、モーターの歯車が長年の酷使で摩耗しすぎ、ノコギリ状になっていたそうです。f:id:casemaestro89:20170928210733p:plain

当時を知るエンジニアが書いた歯車の図を、ペイントで書き直したものです。絵がヘタクソなのは否めないですが、摩耗しすぎて先が尖ってしまった状態はわかると思います。

 

さらに厄介なことに、車両の性能が良すぎて当時の南海の技術力ではメンテが難しい。

阪和電鉄の車両は、結果的に国営化された後も阪和線専用車両として残り、昭和40年代まで走り続けました。ふつうは国に買収された私鉄の車両は、性能が国鉄車に劣るためさっさと廃車させられました。しかし、阪和電鉄は例外的に残ったどころか、昭和30年当時でも国鉄車21両に対し旧阪和の車両は68両と、主力として走り続けていました。

その理由はただ一つ。阪和電鉄の車両が国鉄型をはるかにしのいでたから。中のパーツを国鉄車両と共用するために、性能はダウンしたものの、そもそも高速運転に堪えうる構造になっているのでボディーも非常に頑丈なつくりに。晩年は地方私鉄で1980年代前半まで走り続けた名車だったのです。

しかし、あまりにボロボロすぎて南海技術陣が選抜チームを組んで鳳車庫に派遣され、必死の努力で事故はなんとか防いだものの、車両故障が頻発しダイヤはメチャクチャな事態となりました。

上に書いた「超特急」の廃止も、車両に限界がやって来てついに「ドクターストップ」がかかったという、戦争以前の事情の方が強いようです。

 

そして国鉄へ・・・


そして波乱はまだ続きます。
戦争まっただ中の昭和19年、「南海山手線」は、南海の言い分を借りると国家権力で有無を言わさず「強奪」されて「国鉄阪和線」となり、国鉄→JRになって今に至ります。

『南海百年史』という南海電鉄公式の歴史書でも、

「国から電報一本で呼び出され、何事かと思えば(山手線の)強制買収だった。反対意見を述べようにも、国家総動員法が後に控えており、いかんともしがたく不本意ながら調印するほか仕方がなかった。

阪和電鉄を買収する時は『国有化はしない』と約束したのに(以下略」

など、恨み節をつらつらと書き記しています。よほど腹に据えかねたのでしょう。

南海も南海で、ただでは渡さぬ!と、鳳駅の車庫にあった資材を、全社員を総動員し根こそぎ南海の住之江や天下茶屋の車庫まで持って帰ったという話が伝わっています。

 

「東羽衣線」の謎

 

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鳳~東羽衣間の支線も、阪和電鉄時代は複線だったのですが、国に引き渡されたときはいつの間にか単線になっていました。

ここで、ちょっとした阪和線の謎が浮かび上がります。

Wikipediaでは、ソース付きで国有化後に単線になったと書いていますが、南海山手線時代の阪和線に関する唯一の資料集、『南海鉄道山手線史の考察』によると、国有化時点で既に単線になっていたと書かれています。

 

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戦後間もない昭和21年(1946)の写真になりますが、右の鳳駅から枝のように出ているのが現在の羽衣線です。航空写真では線路があったかわかりませんが、明らかに複線だったという痕跡が見えます。

 

昭和30年代阪和線東羽衣駅

おそらく昭和30年代と思われる、東羽衣駅の写真です。

何気ない写真ですが、複線だった線路一本分をホームで埋めていることが、この写真で丸わかりです。左側にある板張りの仮ホームらしきところに、かつては線路がもう一本敷かれていたということです。

 

個人的には、在野とは言え数十年間阪和線の歴史を追ってきた研究者の説を取ります。その上、単線が国有後なら国にきちんと記録が残り、Wikiの「不要不急線」の記事にでも書かれているはず。個人的に納得がいかん。

しかし、ウィキペディアのソース元も日付まで書いているので、それなりの根拠があるはず(調べるとソースは孫引きでしたが)。フェイクニュースと片付けるわけにもいかない。

真実は一つ。さてどちらが正解か。

 

『南海山手線史の考察』によると、昭和18年(1943)に南海が鉄道大臣に、

「東羽衣線、夏以外は電圧を下げてバージョンダウンさせて、南海の車両投入していい?」

という申請を出します。

当時、南海の電圧は600vだったのですが旧阪和は1500v、南海の車両はそのまま投入できません。そこで、電圧を下げて南海の車両を走らせようとしました。

何故そこまでしようとしたかというと…それだけまともに走る旧阪和電鉄の車両がなかったから。

 

しかしこれ、国はOKを出したものの、南海が「やっぱやめた」と5ヶ月後に自ら取り下げました。

同時に、

「東羽衣線は折り返し運行で。天王寺からの直通運転はしないようにします」

と信号機の変更の申請をしています。

『関西国電50年』という数字と写真だけのマニアックな本によると、国有化の際「浜寺支線(東羽衣線)専用に改造された車両」が1両引き渡されているのですが、この時に作られたと思われます。

 

要するに、天王寺からの直通列車を廃止して折り返し運転一本にした時点で、

「こんな路線に複線も要らんやろ」

と南海が線路を撤去し、単線にした可能性があるということ。私はこう推定しています。

残念ながら、南海側にも記録が残っていないので状況証拠のみですが*6、この方が筋が通っているし、国の不要不急線(単線化)のリストに載っていない矛盾も解決できます。

この真相は・・・誰かが解決してくれることを祈ります。

 

阪和線、売ります

『堺市史』には、戦後の阪和線のこんな話が、一項を割いて書かれています。

 

戦後の混乱は、国鉄にまで大きな影響を及ぼしました。

昭和24年のこと。政府予算が大幅な赤字となり、その補填に運輸省と国鉄が路線の民間払い下げを行うこととなりました。ターゲットとなったのは、戦争中に買収した元私鉄だったのですが、そのリストの中に阪和線も入っていました。つまり、借金返済のため国が阪和線のバーゲンセールを行うというのです。

その情報が堺市の耳に入ると、南海電鉄・堺市議会・堺市商工会、そして市民を巻き込む賛否両論の大激論となりました。

 

賛成派の筆頭は、かつて阪和電鉄を吸収した南海電鉄。戦後すぐの昭和22年、

「おい国、阪和線をうちに返せ!」

と国会議員を通して請願します。南海山手線だった路線の国有化(南海に言わせれば強奪)の理由となった法律は、敗戦となりGHQによって廃止されているので、国有化は無効という理屈です。しかし、

「戦災でお前んとこも被害受けてるのに、阪和線を運営できる体力あるのか!」

と逆ギレされあえなく断念。

そんなところに、国から売りますの話が。南海が飛びつかないわけがありません。

売りますといっても、南海に売りますとは一言も言ってないのですが、すっかり俺のもの気分になった南海は、堺市の商工会議所と市民を味方につけ、昭和24年4月に堺東駅前で「阪和線を南海様に引き渡せ大集会」なるものを開きました。

払い下げに満場一致で猛反対したのが、堺市議会でした。その理由は、

1.杉本町から臨港までの路線建設がチャラになる

(「臨港」がどこを指すのか不明ですが、『堺市史』によると土地買収も進んでいたそうです。我が母親が、いつの時期か忘れたけど阪和線の支線を臨海工業地帯まで作るというウワサを聞いたことがあるそうですが、市議会の議事録でもたどればわかるかな?)

 

2.南紀行きの直通列車がなくなり、不便になる

(戦前から南海も南紀直通列車を走らせています。節子それは屁理屈やw)

 

3.阪和線も南海になれば堺の鉄道が全部南海になり、「競争相手」を残しておいた方がサービスや料金面でメリットがある

(これは案外説得力があるかも・・・)

議会は議会で、同じく昭和24年4月に「民営化反対集会」を行い、行政として反対の猛アピールを行いました。

南海&商工会議所vs議会がにらみ合いを続ける中、もう一つの動きがありました。旧阪和電鉄経営陣と沿線市民が、阪和電鉄の復活という、もう一つの民営化の道筋を唱え始めたのです。

堺市の、阪和線をめぐる「堺三国志」の始まりを予感させます。

しかし、この三国志はあっけなく終わりを告げました。「阪和線売却案」が参議院で否決されてしまい*7、払い下げ計画自体が白紙となったのです。落語のようなオチでした。

この話は、ネットでは全く話にも上がっていませんが、堺市議会が動いた上に泉南市の行政資料にも残っていたので、フェイクニュースではなさそうです。私も地元民として、「戦後すぐ南海が阪和線を取り戻そうとした」「阪和電鉄の旧経営陣がによる復活の動きが戦後にあった」という話は、漠然とながら聞いたことがあります。おそらくこの話だったのでしょう。

 

またもや国に振り回された南海はその腹いせか、三国ヶ丘駅にはJRは快速が止まって利用客数激増なのに、南海は急行ガン無視。利用者にとっちゃ不便極まりない。

三国ヶ丘に急行止めろ!って投書や要望、絶対あるはずです。

戦後のほんの一時期は停車していたのですが・・・いつ止まるの?今でしょ!

しかし、

「我が社のプライドにかけて全力で通過します!

ただのお客様のご要望に興味ありません!」

と思っているのかどうか知りませんが、今日も元気に猛スピードで通過中なことは確かです。

 
南海は大阪市にいじめられ、国に翻弄され、けっこうひどい目に遭っているのは同情するのですが、せめて区間急行くらいは止めて~な~。

なんば方面は準急あるからまだいいけれど、高野山方面(中百舌鳥より先)が行きにくーてしゃーないし。

しかし、止めたら止めたで関空へ向かう客が一気に三国ヶ丘でJRに流れてしまい、敵に塩を送ることになってしまうという事情もあるので、望み薄でしょうな。

 

阪和電気鉄道は人間に例えるとかなり波乱の人生なのですが、たかが鉄道と侮るなかれ。たった一つの路線でもこれだけ書ける、もとい歴史が詰まっています。

 

で、当の天王寺駅の謎は?

文章が長くなりすぎたので、これは続編で。

 

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*1:2018年5月現在。

*2:今の和歌山駅。

*3:山本五十六らしい発言ですが、直に聞いた記者は忖度し記事にせずオフレコ扱いに。

*4:現在の百舌鳥駅

*5:現在の特急『サザン』でもそれくらい。

*6:ただし、阪和線某駅構内の引込線を撤去し、駅舎の柱に使った「前科」があります。

*7:泉南市史紀要『史料・戦後の国鉄阪和線民営化運動の一展開』宇田正