昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

上方で活躍した江戸落語家、東京で活躍した上方落語家

 

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私の中で、激しく燃えているわけではないけれど、メラメラと小さな炎が絶えることがない静かなブームが落語になっています。

というか、世間でも1960年代以来の「平成落語ブーム」なんだそうです。落語に(漫才のような爆発的)ブームはない、と言ったのは誰か忘れましたが、私の中の落語ブームのように、小さな炎があちこちであがっているのがいわゆる落語ブーム。
しかし、最近は若手(江戸落語でいう二つ目)に個性的な噺家が出てきているようで、彼らがそれぞれの場所で火を起こしている状態のようです。
 


落語を生で初めて見たのは約10年前のこと。初期のガンになった知り合いの女の子を、「ガンは笑いでやっつけろ」とばかりに、大阪のNGKでお笑いを見に行きました。
トリが笑福亭仁鶴師匠だったのですが、仁鶴さんとくれば某テレビ番組のMCくらいしかイメージがなく、着物を着て高座に上がる姿に違和感すら感じていました。
しかし口を開くと一変。気づけば腹を抱えて笑っている自分がいました。
「落語って、けっこうおもろいやん」
ここで、私を囲っていた偏見の壁の一角が崩れ落ちました。

それから数年後、ぶらりと東京に行った時に東京の寄席の前を通ったところ、ある有名落語家の演目があるというので、好奇心だけで入ってみました。
その有名落語家は、『笑点』でお馴染みだった桂歌丸師匠だったのですが、聞いてみると上方落語とは違い、面白いというより「聞かせる落語」でした。時間を忘れて語りに聞き入り、終わった時は一本の映画を見たような気分でした。
それから、江戸落語上方落語の違いを含めて、かじりかじりではあるものの、寄席に通ったりようつべで落語を聞いたりしています。

 

 

江戸落語上方落語の大きな違い


江戸落語上方落語の違いは、細かいところを挙げるとキリがありません。
しかし大きな枠での違いは、「笑わせたら勝ち」の上方に対し、江戸は「聞かせたもの勝ち」かと私は思います。

「粋」の江戸、「サービス精神」の上方とも言われます。「粋」とは曖昧ですが、落語に限っては「ミニマリズム」。日本は「小さくするミニチュアの文化」、外国人にはそう見えるようですが、その演劇版が落語という見方もあります。立川志の輔師匠は、仲がいい『笑点』の司会の春風亭昇太師匠の言葉だとして、
「無駄なものを究極にまで削ぎ落とした演劇」
とテレビで言っていましたが、私風に表現するなら、余計なものを削ぎ落としそこに美を求める江戸落語、余計なものを付け加え、そこに笑いを求める上方落語ですかね。

「落語」とは、「噺(はなし)」のジャンルの一つ、オチがある滑稽話の「落とし噺」を漢語風に言ったものです。「噺」にもジャンルがあり、泣かせる人情噺や怖い怪談噺などもあります。
落とし噺のみ一本勝負、「笑わせてなんぼ」の上方落語を聞き慣れた人には、江戸落語の人情噺を技量不足の人がやると、
「なんや、おもろないやん」
と途中で寝入ってしまうかもしれません。よって派手なパフォーマンスや、「鳴り物」という効果音を入れてお客の注意を向ける。上方落語江戸落語に比べ、着物も含めて派手なのは大道芸の頃の名残だと言われています。じっくり聞かせる人情噺を得意とする江戸落語家によっては、上方(≒大阪)は鬼門だと行きたがらない人もいるそうです。

 

その東西の落語界ですが、特に仲が悪いというわけではありません。むしろ仲が良いと言えます。東京だけでも落語(と伝統芸能)団体が4つに分かれていますが、お互いの協会員の共演可なので、犬猿の仲というわけではなさそうです。

笑点』でも毎年正月に「東西大喜利」をやっていますが、他にも東西の落語家が揃う落語会が各地であり、交流は200年近く続いています。
「時うどん」が「時そば」になったり、「酢豆腐」が「ちりとてちん」になったりと、演目の東西交流もけっこう盛んです。

 

東京で活躍する上方落語

落語家は、基本は江戸なら江戸、上方なら上方を拠点に活動するのですが、中には江戸落語界で活躍する上方落語家もいます。

 

 

笑福亭鶴光


今なら、落語芸術協会に所属している上方落語家、笑福亭鶴光師匠がいます。 

ラジオが好きな人にとっては、鶴光師匠と言えば「世界同時多発エロ」の師匠でお馴染みです。私より少し世代が上の40代後半以上の間では、今でも伝説として語り継がれている「鶴光のオールナイトニッポン(ANN)」を聞いていた人も多いはず。

九州の片隅から毎週欠かさず聞いていた、あるリスナーがいました。少年は成長し、ANNのDJとなってエロ師匠と心ゆくまでエロトークすることが夢となり、それを叶えるために上京しました。そして時が経ち少年は夢を叶えました。それが福山雅治です。
しかし、落語家としてはめちゃくちゃマジメです。お天道様が出ている時間帯の番組に出るだけで放送事故扱いされる「エロ師匠」やから、落語もさぞかし下ネタ満載やろ・・・ところがどっこい、エロとは真逆の正統派古典落語。講談・漫談ネタを落語風にアレンジした演目も多いので、歴史や文学の教養も要るという。羽目をはずしたエロ街道を期待すると拍子抜けすることもあります。

また、東京・大阪の寄席どちらでも演じることが出来るのは現在この人だけで、「真打上方」というオンリーワンの階級を持っている落語会の重鎮でもあります。

 

逆に、上方を拠点とする江戸落語家は、現在はいません。
笑いを貪欲に求める大阪の人には、「粋」がモットーの江戸落語は退屈そのもの。江戸落語にとってやはり上方は鬼門のようです。
しかし、「現在は」ということは過去にはいたということ。昔は、上方で名を鳴らした江戸落語家がいたのです。

 

第一章:上方にもいた「三遊亭」

三遊亭圓馬という人

 

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幕末~明治初期の江戸に、三遊亭圓朝という名噺家がいました。
落語を知らない人にはピンときませんが、江戸落語中興の祖で、江戸落語界ではほぼ神様扱い。名跡も事実上の永久欠番となっています。また、二葉亭四迷の言文一致体に大きな影響を及ぼした人でもあり、それ故「現代日本語は圓朝が作った」とまで言われています。
落語も超一流で、師匠の二代目三遊亭圓生が嫉妬するほどでした。才能を妬んだ師匠や兄弟子が、演目をわざとダブらせて高座に上がらせなかったというパワハラもありました。

それに対抗した圓朝は噺を自分で作り(自作噺なら演目が重複しようがない)、その多くが語り継がれ現在も古典落語として残っています。
この圓朝から数多くの弟子が生まれたのですが、現在の三遊派、『笑点』で言えば六代目三遊亭円楽・好楽両師匠がこの直系(宗家)に当たります。
圓朝の弟子は100人以上いたと言われていますが、1854(安政元年)生まれの二代目三遊亭圓馬もその一人でした。
才能にあふれ、師匠圓朝の名を継ぐのではないかとも言われていたのですが、弟の初代橘ノ圓(まどか)と共に何故か大阪に移住しました。その理由は定かではありませんが、師匠圓朝の指示とも、江戸落語界・三遊亭一門の人間関係に嫌気がさしたとも言われています。

 

二代目圓馬は、大阪城の南にある「空堀(からぼり)」という地域に居を構え、積極的に上方落語の寄席に出演しました。江戸の人なので当然関西弁は使えず、江戸前の落語を披露していたわけですが、後に空堀のおっしょはん(師匠)」と呼ばれるほどの名声を得たことから、彼の噺芸は大阪で受け入れられたようですね。

まれに東京に帰ることもあったようですが、大阪移住後は人生のほとんどを大阪で過ごし、大正7年(1918)65歳で没します。墓も大阪の天王寺にあり、文字通り大阪に骨を埋めました。

 

 

三代目三遊亭圓馬

 

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二代目が上方で活躍していた頃、同じ上方落語界に笑福亭都木松という青年落語家がいました。天才肌の落語家で、当時大人気だった音曲師、立花家橘之助に引き抜かれ、12歳で東京へと活動の場を移します。ちなみに、立花家橘之助は名前こそ男っぽいですが、女性です。
都木松は、「朝寝坊むらく(7代目)」という高座名で江戸落語で大人気となります。「朝寝坊むらく」という高座名は一見、かなりふざけた名前に見えますが、実は9代目までいる江戸落語の大名跡です。
彼の芸は、江戸弁・上方弁どちらも完璧にこなす「バイリンガル落語」でした。江戸・上方両方の落語を両方の完璧な言葉でこなすのはかなり難しく、現在これが出来る噺家は皆無です。
しかし、人気絶頂時に同僚と殴り合いのケンカしてしまい破門。東京を追放され大阪へ戻ります。

 

元々自力がある彼は、橋本川柳と名を変えて上方の寄席で大人気となり、上方の爆笑王初代桂春團治に匹敵する人気を得ました。
のちに二代目圓馬から名跡を譲られる形で、三代目圓馬を襲名しました。

彼は元々上方落語出身ですが、上方で演じたのは江戸落語。何故江戸落語を貫いたかはわかりませんが、大阪に「三遊亭」の名を轟かせる人物となりました。
昭和20年1月、三代目も大阪に骨を埋める形で没しました。


四代目三遊亭圓馬

 

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四代目は東京生まれの江戸っ子でしたが、芸人だった父の仕事の都合で大阪へ移り、二代目圓馬の門を叩きました。二代目の死後は三代目の門下となり、かなりイケメンだったことから若い頃はアイドルのような人気がありました。絶頂期には、家の前にいつも紙とペンを持った若い女子が、数十人単位で待ち構えていたんだとか。


最初は上方落語界で活躍したのですが、戦後に東京に移住し江戸落語界にシフトすると同時に、四代目圓馬を襲名。約60年ぶりに、圓馬の名前が東京に戻ってきたということになります。それと同時に、大阪の地で根付くかと思われた三遊亭の亭号も消滅することとなりました。

四代目が師匠ゆずりの「バイリンガル落語」で人気を博した頃、上方落語界は危機的状況でした。落語界の内紛と漫才の台頭で、衰退どころか絶滅寸前。明治の末には200人以上いたと言われる上方落語家は、昭和20年代前半には全員合わせて15~6人。常時活動しているのは6~7人しかいなかったそうです。谷崎潤一郎をして、上方落語は死んだと言わしめた上方落語どん底の時期です。
そこから6代目笑福亭松鶴、のちに人間国宝になる3代目桂米朝などの、のちに「上方落語四天王」と呼ばれた若手4人が復興に立ち上がることとなるのですが、彼らは失われた上方落語の真髄を、戦前の上方落語絶頂期を知る四代目に伺うために東京詣でを繰り返し、徐々にそのエキスを吸収していきました。
四代目は、上方落語の奥義を知る数少ない人物となっていたのです。
四代目の弟子の一人に三遊亭遊三師匠がいます。その筆頭弟子が『笑点』の小遊三師匠という系譜。『笑点』に出ている同じ三遊亭でも、円楽・好楽師匠と小遊三師匠の関係を血筋にたとえると、150年前の先祖は同じでも今はほぼ赤の他人という関係です。

 


第二章:上方から江戸へ移ったパイオニア

 

「三遊亭」や「春風亭」、「柳家」など、落語家の名字にあたるものを「亭号」といいます。落語家の亭号は、現在使われていないものを含めるとすごい数になるそうですが、どの亭号がいちばん多いのか。
実際に数えた人によると、いちばんの大所帯が「桂」。上方落語家の68%、桂のサブ亭号である「月亭」も入れると75%にもなるそうです。
桂がいちばん多い理由は、江戸落語界にもこの亭号を持つ人が多いこと。


東西どちらにも桂があるのは偶然ではなく、桂文治という江戸時代に上方で活躍した人を始祖としています。
桂文治」という名跡は、現在東京の方にありますが、元々は上方落語の名跡でした。
三代目と四代目は上方・江戸両方に文治が存在する混乱期でしたが、5代目以降は東京に定着します。上方の三代目の弟子に上方落語の中興の祖、初代桂文枝がいるのですが、彼が上方落語の「桂」の祖となります。

 

 

上町の師匠と桂小文治

現在は江戸落語の大名跡となっており、現役で11代目もいる桂文治ですが、7代目のみ一代限りという条件で上方に里帰りします。

 

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現在の桂米朝一門の大名跡である「米團治」の初代がのちに7代目桂文治となり、明治~大正初期時代にかけて活躍しました。
上に書いた二代目三遊亭圓馬が「空堀の師匠」なら、7代目文治は「上町の師匠」。戦前上方落語界の絶頂期を支えた大人物でした。よって、「上町の大師匠」と呼ぶ人もいます。

 

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その文治が目をかけた弟子の一人に、桂米丸という若手がいました。
彼は東京の落語界に招かれ、一ヶ月契約で出張のはずだったのが、そのままズルズル東京に居座ることとなるのですが、師匠文治の引退の際に大阪へ戻った際、兄弟子の初代桂春団治とケンカしてしまいます。
上方に戻り辛くなった米丸は、亡命の形で東京に定住することとなるのですが、東京の落語家として生きようと決意したか、春団治とのケンカの後すぐに二代目桂小文治を襲名しました。

小文治が大阪に見切りをつけたのは、上方落語の衰退を見抜いたからとも言われています。

上方落語界は、大正前期から諸派が分裂する戦国時代のようになり、徐々に衰退し始めていきます。桂春団治という太陽はまだまだ燦然と輝いていたものの、その光の陰の部分で落語家どうしが蹴り合ってエネルギーを消耗していたのです。
さらに昭和初期になり「しゃべくり漫才」が大流行。上方落語は内部争いで既にエネルギーを使い果たし対抗できず、ほぼ息の根を止められた状態となりました。
焼け野原になった日本と同じく、戦後すぐの上方落語界は戦いの跡の廃墟だったのです。

 

実は江戸落語界も五十歩百歩でした。

しかし、小文治には、落語の才能の他にも、政治力という隠れた才能を持っていました。群雄割拠していた江戸落語界をまとめ上げ、上方のような内部抗争による衰退を食い止めつつ、今の落語芸術協会に合流し副会長となります。東京で活動する上方落語家は昔からいれど、幹部となったのは小文治が初めてでした。
また、小文治は同じく上方から東京へ移った三遊亭百生と共に上方落語江戸落語の交流を行い、現在に至る東西交流の橋架けの役割も担っていました。

この小文治の弟子には、前の落語芸術協会会長だった10代目桂文治や、40代以上ならみんな見ていたでしょう、テレビの「それは秘密です」の司会で有名だった桂小金治などがいましたが、孫弟子に四代目桂米丸という人物がいます。
その弟子が、『笑点』でお馴染みだった桂歌丸師匠と、「突撃!隣の晩御飯」で有名になった桂米助師匠(タレントとしての名はヨネスケ)です。

同じ桂でも、東京の桂は上方の米朝一門との関係は近い親戚のような関係になっており、文枝一門とは遠い先祖が同じだけという遠縁です。
歌丸師匠がよく大阪に出向き、米朝師匠に上方ネタの稽古をつけてもらっていたと言っていましたが米朝師匠死去数ヶ月前にも稽古をつけてもらう約束をしていたとか)、近い親戚という縁があったのかと、系譜を見て感じました。


上方落語のもう一つの流れ

江戸落語にはもう一つ、上方落語の筋を引く系列が存在していました。

 

明治から大正にかけて東京で活躍した桂小南(初代)は、東京から親の事情で大阪へ引っ越し、そこで落語の道を志しました。その後真打になったのと同時期に東京へ仕事の場を移し、東京で上方落語を演じ続けました。

時は少し下って昭和のはじめ、山遊亭金太郎という落語家がいました。彼は京都の丹後地方の生まれながら江戸落語界に入ったのですが、関西訛りがなかなか抜けず苦労していました。
そこで師匠の3代目三遊亭金馬が意表を突くアイデアを出します。
「関西訛りが抜けないなら、上方落語やりなさい」
そこで江戸落語界の上方落語マスター桂小文治預かりとなるのですが、小文治も自身が「上町の師匠」から身につけた芸のすべてを授けました。
また、本人も大阪へ落語修行の旅に出、当時まだ若手だった3代目桂米朝、6代目笑福亭松鶴などと切磋琢磨して上方落語の芸を身につけました。

 

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そして満を持して二代目桂小南を襲名、東京の上方落語の名人として平成まで現役で活躍していました。二代目小南の落語は当然関西弁ですが、アクが強くないまったりとした上方ことばだったといいます。

ちなみに、桂小南の名跡は2017年9月、二代目の弟子が襲名し三代目を名乗っています。三代目は埼玉県出身で、関西人から見ると残念ながら上方落語の系列ではなく、「東京の上方落語」の系列はここに途絶えた感があります。
しかし、三代目は師匠から伝えられた上方ネタも演じる、今風のハイブリッド落語家となっています。


昔は方言に対する抵抗が激しかったテレビやラジオと違い、落語界ですんなり上方落語と関西弁が受け入れられたのも、小文治や小南などの先人が種を撒いてくれていたから。
現在の在東京上方落語家、笑福亭鶴光師匠もこう述べています。