中国人はなぜ声が大きいのか
日本を訪れる外国人観光客は年々増加の一方です。先日、大学の公開講座で京都へ行ってきたのですが、右を向いても左を向いても外国人だらけ。全国規模で見ればローカル線の叡山電鉄ですら、乗客の半分は外国人な状態。日本旅行のリピーターは京都なんてもううんざり、地方都市や日本人しか知らない穴場へ逃げている傾向があるのですが、その気持ちはなんだかわからんでもない。
その中でも訪日外国人の四強は韓国、中国、台湾、香港、総数の7割を占めています。
中国人観光客の数は、2017年で567,149人で総数の約24%を占めていますが、どこの街でも中国人観光客の姿を見ることが多くなりました。
しかし、それによる軋轢も発生しています。
中国人に対しいちばん眉をひそめるのは、「マナーの悪さ」。
列に平気で割り込む、ホテルのドアを開けっ放しにしてどんちゃん騒ぎをする、トイレでもないのにおしっこをする・・・etc.
本場で「もっとおぞましいもの」を山ほど見続け、良くも悪くも中国人慣れしてしまった私にとっては、日本に来る中国人なんざドラクエで言えばバブルスライム。本場のキングスライムを山のように見てきた私にとっては、ふーん程度。しかし、中国人慣れしていない日本人にとっては、面食らうことも多いと思います。
その中でも、クレーム第一位を誇るのが、
「中国人がうるさい」
ということ。
所構わず大声で話し、ワーワーと騒ぎ立てる観光客に、うるさいなと癪に障った人はかなりいるはず。その理由を様々な人が様々な角度で書いています。
その大多数はこう片付けています。
「中国語の発音の関係」
これは、確かに私も中国語を話す大声になります。語気も荒いらしく、台湾人に「中国語上手いけど・・・口調が(台湾の)ヤクザっすねww」と言われたほど。
これは仕方ない、毎日中国人と喧々諤々、ケンカしながら覚えた中国語なのだから(笑)
それとは逆に、中国人が日本語を話す時は声が小さくなる傾向があり、留学していた20年前から不思議だなとは感じていました。
特に、中国南部の広東省の人間の声の大きさは、とにかく有名です。
アメリカには、こんな笑い話があります。
空港で、中国人二人連れがケンカをしていました。通行人が警察に通報し、警察官が駆け注意したところ、彼らはキョトンとした顔でいわく。
「我々はひそひそ話をしていただけなのですが・・・」
ここでは中国人となっていますが、アメリカでの大雑把なChineseというのはCantonese(広東人)のこと。これは声が大きい広東人・香港人を揶揄したものなのです。
先日、関西空港からの急行に乗っていたときのこと。私が座った席の対面に、スーツケースを抱えた外国人の家族連れがいたのですが、声が大きい大きい。私の横に座っていた人(日本人)が、
「中国人、ホンマうるさいな・・・」
と舌打ちしていました。一点に集中すれば、横でいびきかかれようがエッ○されようが私は気になりません。それでもちょっとうるさいなと感じたくらいなので、ふつうの人には不快を越えた「騒音」でしょう。
しかし、彼らが話していたのは北京語ではなく明らかに香港の広東語。ChineseではなくHonkonese(香港人)だったのです。さすがに語学の素人には北京語と広東語の区別はつかない。
とばっちりを食らった中国人こそいい面の皮でしたが、それほど「うるさい=中国人」というイメージが、日本人の中に定着していることを再確認したエピソードでした。
確かに中国人の中でも広東人(香港人含む)の声の大きさは、レベルが2つくらい突き出てます。そんなところに7~8年もいたから、私も慣れてしまったのでしょうね!?
犯人は中国語の発声・・・これで答えが決まったかのように思えます。
しかし、これだけでしょうか。
さらっとググってみると、
「中国人は何故大声なのか、その3つの理由」
という、アフィリエイト目当ての下心・・・もといSEO対策丸出しのタイトルが並んでいますが、内容を見てみるといくつかの部類に分けられます。
①中国語には四声(声調)があるから
なら、言語の親戚で同じ声調がある、チベット語・ベトナム語・タイ語などはどう説明するのでしょうか。ダライ・ラマ法王猊下がうるさいという話は聞いたことがありませんが如何。
②方言が多いから
その理屈が成立するなら、方言が多ければ多いほど声が大きいということになります。が、中国並みに方言の多様さがある日本は「うるさい」のでしょうか。
③騒音など、周りがうるさいから
まあ、これは0.7理くらいはあるかなと思います。しかしながら、中国の環境も昔と比べかなり良くなっているけれど、中国人のボリュームは下がってないよ。
こういう類のブログ記事は、下の「レコチャイ」ことRecord Chinaというニュースコラムを参考にしています。要はこれの切れ端をつまんで、それらしいことを書いているだけ。
少し長いですが、引用します。
第一の要因は、私たち中国人の大声に対する感覚です。
声が大きいことは他の人に元気で朗らかという印象を与えられるし、スピーチやプレゼンテーションでも大きい声での発表が必要です。第二の要因は、中国語の発音の難しさによるものです。
中国語には有気音と無気音の違いや破裂音や数多くの子音があります。
破裂音は字の通り音の破壊力が必要です。それに4つの声調があり、それを正確に発音しないと意味が異なってしまいます。第三の要因は、地域差による違いです。
広大な中国には幾多の高山や高原や平野があります。それぞれの地域で話されているのは数え切れないほどの方言です。
方言は口の開け方も、声の高さも速さも異なります。特に、農業を主とする地域では大声で喋るのが普通です。第四は、中国の教育方法によるものです。
子供たちは幼稚園の時から「大きい声で読み、大きい声で歌い、大きい声で答える」ことを教えられます。
授業中に大きい声で答える生徒は先生に褒められます。
そのため、生徒たちは時と場所を構わず、大声で喋ることが普通になり、それが大人になっても直らないわけです。
しかし、これはあくまで表面だけに過ぎない。私はそう思いました。
さすがはレコチャイか、中国人=大声のいちばん重要な視点が抜けている。
いや、急所を外すかのように、敢えて書かなかったのかもしれない。
そこを、長年中国(人)を見てきた私が、独自の視点から書いてみようかと。
中国人の「ウチ」と「ソト」の概念。そこから導き出す中国人の声の大きさ
中国人はマナーがない、礼儀がない・・・と日本だけでなく世界中で非難轟々ですが、ここで私は多くの読者を敵に回し、中国人を熱烈弁護します。
彼らにもマナーはあります!
彼らは非常に礼儀正しいのです!
ただ、ただね・・・彼らの「礼儀」「マナー」はね・・・。
射程距離が非常に、非常に短いのです(笑
まあこれに関しては、日本人がアウトレンジすぎるという方が正しいかもしれません。
中国人には、「ウチ」と「ソト」という概念があります。これは日本にも朝鮮半島にもあり、それぞれ特色があるのですが、ここでは中国社会でのことを。
中国人は伝統的に、血のつながった「宗族」という集団で固まる傾向があります。彼らにとってこれが「家族」であり「親戚」であり、「国家」であり「世界」であり「宇宙」です。
この宗族が「ウチ」となります。
近代中国への号砲を鳴らした孫文(孫中山)は、
「中国人は一握の砂である」
という、有名な発言を遺しました。
中国人は各個がバラバラで、固めようとしても(砂のように)すぐにバラバラになってしまうということを比喩したものです。
中国人の世界は、砂粒一つひとつ(=ウチ)が世界であるので、国民国家という概念がゼロなのです。
それを中華民族がどうだのと、砂粒に民族主義というセメントを注入し固めようとしている状態が現代です。この流れは、だいたい1999年ころから始まったのですが、習近平になってそれが加速しています。習ちゃん頑張ってねーと、私は生暖かく見守ることにしています。
この「ウチ」以外はすべて「ソト」。「ソト」はイコール他人、ほぼイコールで自分に害を及ぼす敵です。
昔の中国の街は、上のように四方を城壁に囲まれていました。これを「城郭都市」と言います。中国語で「街」のことを「城市」と言いますが、これは街が城内にあったことの名残です。
城壁が撤去されている都市でも、城壁の跡は環状道路になって残っていることがあります。
北京なんかは有名ですね。
中国を旅行すると、
「XX門」
という地名を目にすることがありますが、それはかつてそこに城壁と、街へ入る門があったことが地名として残っているということ。
西洋の建物が並ぶ上海も実はかつては城壁があり、この中を「旧城内」とジモピーは呼んでいます。この「旧城内」が元祖中の元祖上海。欧米の建物が並ぶあれ?あんなの飾りです、偉い人にはそれがわからんのです。
今はだいぶ開発されてしまいましたが、私が住んでいた頃は人ひとりがやっと通れるような細い道が入り組み、晴れてるのに時折、「雨」が上から降ってきた迷宮そのもの。中国濃度300%の濃縮ジュースのような世界でした。
あんな所に足を突っ込むなんて、野蛮な人・・・と周囲の日本人留学生からは変人扱いされましたが、Google Mapもない頃に上海ラビリンスに入り込むのは、インディー・ジョーンズ的冒険。あのワクワク感が今の知的好奇心のマグマとして、グツグツと音を立てているのかもしれません。
それはさておき、そんな上海にも、黄色で囲んだところに「門」と書かれた地名や地下鉄駅があります。かつてはここに、城門があったのです。
また、こんな城郭は都市だけでなく農村にもあります。
どこの要塞やねんというような建築物ですが、これは「方楼」と言い、客家(はっか)人と呼ばれる人たちの住居です。
客家は「よそ者」という意味で、北方の戦乱から逃れ福建省や広東省などに移住した漢民族の一派です。他の漢民族と風俗習慣が少し異なっており、「中国のユダヤ人」とも呼ばれています。よって、「方楼」は中国でも主に広東省にしかない珍な建築物です。
客家人は移住先で、原住民から敵とみなされ迫害されてきました。
中国の迫害は、日本のように生易しいものではありません。「民vs民の戦争」です。自分たちを守るために、「要塞」でも作らないと一族が生き残れなかったのです。
この「方楼」ひとつとっても、彼らが生きてきた環境が「リアル北斗の拳」のような厳しい世界だったかが伺い知れます。
城郭都市や「方楼」は、中国人のメンタルにも深く潜んでいます。
中国人の「ウチ」「ソト」の間には、万里の長城のような大きく高い壁がそびえたち、「ソト」の侵入を拒んでいます。
城内は親戚縁者が集まる「ウチ」、城外は「ソト」。「ウチ」の中では実は、彼らは非常に礼儀正しく、彼らなりのマナーもあります。
しかし、「ソト」に対するマナーは皆無。「ウチ」に対しては異常なほど気を使う彼らですが、「ソト」に対する認識は虫けら、いやプランクトン以下なので全く気にもならない。
海で泳ぐとき、プランクトンにいちいち気をつかいますか?息をする時、チリやホコリを気にしますか?それと同じことです。
中国人が「ソト」の世界を行く時、実際はそうでないにしろ、周囲は「ソト」、つまり敵だらけ。
飼い犬が部外者に牙をむいて威嚇するのと同じく、大声を出すことによって「ソト」の連中を威嚇している。これは無意識、つまり生きるための生存本能です。
私は「ウチ」と「ソト」という中国人のメンタル的背景から、何故大声なのかをこう解釈しています。
この「ウチ」と「ソト」の概念、中国文化を知る上で非常に重要なキーワードになるので、頭の片隅で覚えておくと便利です。
「公」と「私」
「公(共)」の反対語は「私」ですが、中国社会は数千年間、多分に「私」な社会でした。
皇帝が天下を支配する「私」なら、王朝の領土人民も、そして手先となって働く官僚も皇帝の「私物」です。
そうなれば、官僚も「私」を振りかざします。
「清廉潔白な役人でも、辞める時には銀百万両貯まってる」
原文は忘れましたが、中国にこんな言葉が残っています。
中国の官僚に賄賂がつきものですが、それを全く受け取らない真っ白な官僚でも、数年やったら大金持ちになっているということです。じゃあ、「真っ黒」な官僚はどうか。それは書くまでもありません。
その「銀百万両」は、錬銀術を使って出てくるわけではありません。当然、人民から搾り取ったものです。
人民も、上の「私」の勝手気ままに財産を奪われるのは気に食わない。対抗するためには自ずから「私」で対抗し、結果「公」が生まれる土壌も存在しない。
こうして、上から下まで「滅私奉公」ならぬ「滅公奉私」の社会の出来上がり。
これがどういう経緯を経てそうなるのか。ここでは書きませんが台湾の戦後史を見ればよくわかります。
「中国人は公の場で(ry」
とブツブツ言う人も多いですが、それは仕方ない。中国社会にそもそも「公」は存在しないのだから。無い袖は振れません。
中国人にとって、「私」とは究極の「ソト」の世界。「ソト」である以上傍若無人に振る舞おうとなんだろうと、それに対し他人がどう思おうと、知ったことではない。
それが、他人から見ると
「マナーが悪い」
「公の場で大声を出す」
などのマイナスに見えてしまうのです。
しかし、他人に気を遣いすぎ神経をすり減らす日本人は、中国人の傍若無人の垢を少し飲んだくらいがちょうどいい塩梅かもしれない。私が傍若無人・傲慢不遜、謙虚のかけらもないのは、煎じる垢の分量を間違えてしまったからです。
ここまで書いてきましたが、他にもいろいろな「中国人うるさい論」がネットに転がっているので、時間があれば複数の記事を見て比べ、そして考えてみてください。
中国人うるさいと感情的に排除するのは簡単です。しかし、何故にベクトルが向いた時、もう一つの、違った見方をする眼があなたを知らない中国人の世界へいざなってくれるでしょう。それを知った時、あなたの知の皮がまた一枚、剥けることになります。
★重要なお知らせ★
中国・台湾関連のブログ記事をワードプレスに移転しました。
記事は順次新ブログへ引っ越し中ですが、よかったらこちらもどうぞ!
台湾史.jp