昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

時代の先を行き過ぎた!?とある企業の珍製品「電気手拭機」

突然ですが、冒頭からクイズです。

 

 

ハンドドライヤージェットタオル

写真の製品の正式名称を答えよ。 

 

昨今のトイレには必ずある、風で手を乾かす機械。これのことです。

この正式名称、即答できるでしょうか。

 

私はかなり頭を抱えました。これって正式名称を何というのだろう…「ジェットタオル」は…確か三菱電機の商標だったしな…。

白旗を上げて調べてみると、「ハンドドライヤー」と言うのを知りました。世の中、身近にあるけれど呼び名が出てこないものは、けっこうあるものです。

 

今や公共トイレの必須アイテムになったこのハンドドライヤー、いつの間にかあった感があって具体的にいつ発明されたのか。いざ問われると、なんだかいつの間にか見るよになったな感が強いかと思います。

とりあえずWikipedia先生を覗いてみると、モノ自体は昭和30年代後半から40年代からあったようですが、爆発的に普及したのは1990年代。公衆トイレの必需品としてふつうに見かけるようになったのは、たぶん2000年代前半じゃないかなと。

ハンドドライヤーを「ジェットタオル」というのも、これを真っ先に普及させた三菱電機の力が大きいかと思います。

1993年に発売されたジェットタオルは、またたく間に全国に普及しました。このジェットタオルは高速風を発生させ、風で水滴を吹き飛ばし手を乾かす、現在普及しているものの先駆で世界初の特許でした。現在でも世界で5割のシェアを占めているそうです。

このように、ハンドドライヤーは戦後、それも20世紀も終わりの時代の最先端家電製品といえます。

 

これが、一般に伝わっている「ハンドドライヤー」の常識です。

 

しかし、これにNO!!と言ったら、どう思われるでしょうか。

こいつ、ヘンな歴史ばっかりに手を出したばかりに、ついに気が触れたかと思うかもしれません。大丈夫、今日もニコニコ平常運転です。

 

今回はある企業の新製品。いや「珍製品」のお話ですが、もしかしてあなたの常識が今日、覆るかもしれない・・・?

 

 

 とある企業の珍奇な製品

まずは、この写真をご覧下さい。

 

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洋服を着た女性が、機械に手を当てています。女性の服装といい髪型といい、レトロなような現代的なような曖昧さを醸し出していますが、実は1933年(昭和8)のものです。

これはある製品のパンフレット写真なのですが、これは一体何なのか。

この製品名を、「電気手拭機」といいます。

電気の手拭・・・これでピンとくるかもしれません。これぞ戦前にあったハンドドライヤーの元祖中の元祖なのです。

しかし、三菱電機は「ジェットタオル」で特許を取り、世界初の技術と銘打っています。じゃあ三菱電機は嘘つきなのかというと、違うのです。

「ジェットタオル」と「電気手拭機」とは、明らかに違う点があります。「手を乾かす」というゴールは同じでも、「ジェットタオル」は風の力で水滴を吹き飛ばすのに対し、「電気手拭機」は熱風で水分を蒸発させるという、方法に大きな違いがありました。

「電気手拭機」の原理は至ってシンプル。電熱器を加熱し、その熱風を機械の下にある足踏みを使いファンで送り出すという方式でした。原理は今のドライヤーと同じです。

本品はタオル・手拭の代用として経済と優美と衛生的欲求に合致して、高価非実用的なる舶来品を一蹴、今や多様に利用の道を展(ひら)かれつつあります。

伝染病予防の見地よりしても、建築美による近代人の視野を満足せしむる意味においても、是非ご利用願います。

 

利用の一端として、浴場、結髪業*1、ビルヂング、デパート、駅、カフェー、喫茶店、公衆集会所、倶楽部、別荘、一般家庭等特に衛生と美を愛せらるる向きに、絶賛を浴びつつあります。

 

(「電気手拭機」メーカーのパンフレットより。原文は旧字体カナ)

 下線を引いたところに注目。「電気手拭機」はタオル・手拭(ハンカチ)の代わりに使い、経済的で清潔という製品のコンセプトが書かれています。これは現在のハンドドライヤーのコンセプトと全く同じ、私がこれを「第ゼロ号ハンドドライヤー」と認定する理由です。

これは主にデパートや病院などに納入されたのですが、「特殊な納入先」として浴場や髪結業(今の美容院)もありました。これは「電気手拭機」を使って髪の毛を乾かそうという試みだったのでしょう。

 

 

電気手拭機の製作会社はここだ!

 この「電気手拭機」を作ったメーカーは、一体どこなのか。
実は、こんな企業でした。

 

 

 

 

 

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先日、「君は、日本初の冷房車を知っているか」という記事を書いたことは記憶に新しいと思います。

「またダイキンか!」

と思う方もいるかもしれませんが、そこは長い目でお付き合い下さい。

 

ダイキンは、「大阪金属工業所」という大正時代末に創業した小さな町工場が前身です。

創業者は山田晁(あきら)という人で、元は大阪砲兵工廠という大工場のエンジニアでした。砲兵工廠とは陸軍直営の国営工場で、敷地は大阪環状線大阪城公園駅の東西、大阪城公園やホール、大阪メトロの森ノ宮車庫やUR森ノ宮団地という広大なエリアを占めていました。

ここは戦争の大阪大空襲で爆弾の集中砲火を受け、木っ端微塵に破壊されるのですが、私のオヤジは終戦後、ここで鉄くず拾いをしては小銭を稼いでいたそうです。ただし、不発弾も落ちていて、不幸にもそれを踏んで爆死した人もいたそうです。今はほとんど聞かないですが、昭和の終わり頃までここ界隈でよく不発弾が発見され、大阪環状線が止まっていたことを覚えています。

山田は砲兵工廠で、ある発明をしています。

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もともと陸軍の軍用品だった飯盒ですが、山田が開発したのは飯盒自体ではなく、その上に塗る塗料でした。

それまでの塗料は火を浴びると有毒ガスが発生してえらい問題になっていたのですが、山田は独学で専門外の化学を勉強し、無毒の塗料を開発しました。

ダイキンは空調だけでなく、フッ素コーティング技術でも世界のトップを走っていますが、その種が実は創業者のこういうところに隠されていたのです。

待遇は良かったものの、国営ならではの学歴重視かつ保守的で新しいものにチャレンジしない工廠の空気に、山田はこのままでは腐ってしまうと危機感を抱き退職。いくつか転職の末、工場を建設しました。

 

大阪の小さな工場が「大阪金属工業所」に変わったのは、1924年(大正13)のこと。

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(實地踏測大阪市街全圖(1918)より)

『ダイキン工業70年史』によると、丸をつけた場所に「大阪金属工業所」がありました。遊廓の娼妓専門の病院だった「難波病院」の真裏にあったんですな。創業当時の事業内容は、飛行機部品の製造・一般金属部品のプレス加工。そこらへんの町工場とさほど変わらず、エアコンのエのかけらもありませんでした。

ちなみに、創業の地から川(今は阪神高速)を一つ隔てたすぐ東側、地図の「區」と書いている場所に、現在はクボタの本社があります。


モノを冷やす冷媒に目をつけたのは、創業から6年後の1930年のことでした。米海軍の冷房搭載の文書を海軍提督から見せられたある社員が、うちもやろうと社長に直訴。社長もいっちょやるかと乗ったのが始まりでした。

『ルンペン節』から見える昭和のニッポンでも書きましたが、1930年(昭和5)は昭和恐慌のどん底。日本全体が不景気の暗闇に閉ざされ、先が全く見えない頃でした。そんな時期に新しいことをするギャンブル精神が、大阪金属工業を世界のダイキンへと脱皮させる起点となりました。

大阪金属工業がすごかったのは、冷媒ガスだけではなく、冷凍機、つまり冷房装置もセットにして売ってしまえという目のつけ所でした。何故すごかったのか?そんなことを発想し実行した会社は日本、いや世界でも大阪金属工業しかなかったから。

1935年12月、大阪金属工業は国内では初となる冷媒、フロンガスの製造に成功しました。

冷媒の生産に先駆け、1934年(昭和9)末に初の国産冷媒冷凍機『ミフジレーター』も完成させ、1936年(昭和11)に今の高島屋難波店で展示されました。

結果はほとんど見向きもされなかったそうですが、目をつけた南海鉄道(現南海電鉄)が、

「うちの電車にそれ(冷房)つけられへん?」

と話をもちかけました。

当時、南海のライバルとして阪和電気鉄道(現JR阪和線)が台頭してきたのですが、南海が対阪和電鉄の最終兵器として投入したのが、

 

戦前南海冷房特急

(南海電車の日本初の冷房車。それを使った「冷房特急」。昭和12年難波駅)

昭和11年夏の日本初の列車冷房車だったことは、上の記事で書きました。ダクト丸出しでゴツゴツしているものの、屋根には現在と同じ形の冷房機が4つ載っていることが、上の写真ではっきりわかるでしょう。こちらはフロンガスではなく、一つ古いメチルクロライドという冷媒を使ったものですが、冷房の構造は今の電車冷房と同じです。

これだけを見ると、「エアコンのダイキン」は古くから実績があると思ってしまいますが、実はこの時、冷房装置を作って1年も経っておらず、創業してから10年強と得体の知れないベンチャー企業。依頼主の南海ともども、とてつもないギャンブルだったことが、歴史を追っていくとわかります。そのギャンブルの証拠に、冷房装置自体は無料支給、南海が払ったのは工賃だけだったそうです。さすが良くも悪くも大阪の私鉄、そこらへんは狸親父でした。

この『ミフジレーター』に目をつけた海軍が、潜水艦につけるべく小型化の研究を依頼し、数年で実戦配備されました。昭和16年以降に建造された新型イ号・ロ号潜水艦には冷房が標準装備、既存の艦にも順次取り付けられ、

 

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(『ダイキン70年史』より)

最後には陸軍の潜水艦(!)こと「まるゆ」にも冷凍機が搭載されました。ただし、イ・ロ号潜水艦は「冷房」とはっきり書かれているのに対し、「まるゆ」は冷凍機だけなので、冷房はついていなかったと推測できます。

ついでに書いておくと、軍艦では戦艦『大和』『武蔵』がエアコン完備だったことは有名です*2。が、それらのエアコンはダイキンではなく、日立か荏原製作所製作のものだと言われています。

Wikipediaには、この冷房についてこう書かれています。

「当時の潜水艦において、冷房装置の装備は画期的であり、南太平洋での長期作戦行動を可能とした一因である」

いかにも「日本の冷房はすごい!」と思わせられますが、木を見て森を見ず。アメリカ潜水艦の冷房搭載は1933年(昭和8)から始まり、対米戦争開始時点で搭載率100%。アメリカから見ると、

「おっそーーーいwww」

と鼻をほじほじされる次元、ダイキンも社史で「潜水艦冷房はアメリカに8年遅れていた」と書かれています。Wikipedia先生に書いた人、ちゃんとダイキンの社史くらい目を通して書けよと。

 

そんな我らが大阪金属工業は冷房だけでなく、消化用炭酸ガス(二酸化炭素)製造装置やガス瞬間湯沸器も作っていたのですが、「電気手拭機」はその中でも相当な「珍」。ダイキンが公式社史で「珍製品」認定しているのが、この「電気手拭機」です。

 

 

 

 忘れ去られた電気手拭機

「電気手拭機」は昭和8年、満を持して(?)発売されたものの、日中戦争が始まり「非常時」の声が大きくなった昭和12年(1937)に販売中止となってしまいました。

販売期間は4年間。時期が悪かったという不運もありますが、公式社史の書き方を見ると、単に売れなかったのだろうと勘ぐってしまいます。電熱器での熱発生のランニングコストがかかったのかもしれない。そういう意味では、これは立派な「ネタ担当」です。

確かに目の付け所はよかった。発想の方向は決して間違っていなかったのだけれども・・・ただ実用化した時期が少しばかり、ほんの60年ほど先へ進みすぎたのだよ。

 

この「電気手拭機」の話は、現時点ではググっても一件もヒットしません。私のこの記事が、ネット上では第一号となります。

といっても、ダイキンの社史には書かれているものではありますが、記載のボリュームは半ページほど。斜め読みしていればおそらくスルーする程度のものでしょう。

 

「電気手拭機」なんて、ネタにしろとダイキンが提供してくれているようなものなのに、何故他の人は書かなかったのか。やはり、同じ情景を見ても何も感じない人と感動する人がいる違いなのでしょう。自分で言うのもなんですが、アンテナの感度が人より少し鋭いのかもしれません。

しかし、これだけは言えます。埋もれていた歴史を「再発見」する悦びは、どこかのカードのCMではないですがプライスレス。プライスレスのとおり、こんなことをしても1銭の儲けにもならないのですが、それでも掘り起こしていこうとする欲求は何なのだろうか。興奮から覚め我に返ったとき、ふと考えてしまうことでもあります。

 

==興味があれば、下の記事も如何でしょうか==

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

*1:今の美容院。

*2:利根型重巡、軽巡『大淀』にも搭載されていました。