昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

ジョージア見聞録ー栃ノ心幕内最高優勝に添えて

2018年(平成30年)大相撲初場所

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2018年大相撲初場所春日野部屋の栃ノ心関が幕内最高優勝を遂げました。

彼の経歴は、ググればすぐ出てくる事なのでここでは語りません。ただ、彼が右膝を大怪我し、三段目に手が届きそうな幕下の下まで落ちた時は、せっかくいい力士だったのに・・・と、一相撲好きから見ると復帰は絶望的かと思い、私の脳内の記録から抹消しました。彼の右膝のケガは、それほどの重傷だったのです。

それからいくつの月日が経ったでしょうか。ふと相撲を見ると、幕下に落ちたはずの栃ノ心が幕内に復活している。何かの夢かと思いました。幕内復帰しただけでも、かつて大関候補と呼ばれながらケガで三役から幕下まで落ちた琴風(現尾車親方)や、十両から序の口にまで落ちつつ幕内筆頭まで上りつめた琴別府(今何してるんやろ?)以来の奇跡。それに加えて優勝までしてしまう奇跡。

カムバック賞を栃ノ心に贈呈したい。

 

平幕の優勝は、6年前の旭天鵬(現友綱親方)以来ですが、旭天鵬も同い年という、ただそれだけの理由で応援していました。旭天鵬があの年でまだ土俵で頑張ってるんや、俺もここで尽き果てるわけにはいかへんという、何の根拠もないエネルギーをいただいていたので、彼が引退した時は、自分の人生半分終わったなという寂寞感が体を通りました。

そして今回のジョージア人の優勝。

栃ノ心は顔を見てもわかるとおり、日本人ではなくジョージアです。相撲を見ていなとわからないですが、ジョージア人力士は彼を入れて通算3人おり、当然ジョージア人の力士の優勝は初。ジョージアはヨーロッパなのか!?地理的にはアジアじゃねーの!?という議論はさておいて、ヨーロッパ人という枠でも琴欧洲(現鳴戸親方把瑠都以来の3人目の快挙です。

 

故国ジョージアの首相ギオルギ・クヴィリカシヴィリ氏も、Facebookツイッターで彼の写真を添え喜びを伝えています。 

 

地元TVも快挙にお祭り騒ぎ。ジョージア語なので何を言っているのかわかりませんが、喜びの感情は伝わってきます。

www.facebook.com

 

個人的に、ジョージア出身力士を、初めてのジョージア出身力士である黒海以来ずっと応援しています。だからこそ今回の優勝は、もし私が酒を飲めたらお祝いに一杯やりたいほどめでたく、嬉しいことなのです。

で、何故私がジョージア出身力士を応援しているかというと・・・。

 

 

ジョージアとは

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ジョージアは、ユーラシア大陸のちょうど真ん中あたり、カスピ海黒海に挟まれるコーカサスと呼ばれる地域にある国です。白人を学術的に「コーカソイド」と呼ぶことがありますが、それはここコーカサスに由来しています。

ジョージアの国土は北海道より一回り小さい程度で、人口はだいたい3,700万人。トルコ・イランという木星級のイスラム教国家が近くに控えながらキリスト教徒が多く、豚肉食いたい!酒飲みたい!アザーン*1うるさい!とブツブツ言いながらイスラム教国を巡ってきた人には、ジョージアは清涼剤のような感覚を味わえる所でもあります。

歴史的には独自の王朝を築いてきましたが、南のオスマントルコ、北のロシア帝国の圧力を受け、19世紀には事実上のロシア帝国の植民地となりました。そこからロシアとは腐れ縁のような仲となり、ソ連邦を経て1990年代に独立を達成しました。

しかし、その後の内戦で国はガタガタ。終了後は少し落ち着いたものの、伝統的なロシア嫌いのためEUやアメリカと近づいた結果、コーカサスに影響力を行使したいロシアが黙っていませんでした。

ジョージアのアキレス腱は、モザイクのように分布する民族でした。コーカサスは民族の交差点と言えるほど民族が複雑に交差しており、「ジョージア人」「グルジア人」と言ってもジョージア人自身が自分はどの民族かよくわかっていないほど曖昧で、そこをロシアが突いてきたのです。

日本ではあまり報道されませんでしたが、2008年にロシアとジョージアの間で紛争が起こり、今も根本的な解決には至っていません。確か、この両国は今でも絶賛国交断絶中のはず。

2016年末時点での、日本に滞在するジョージア人の数は78人(外務省データ)。同時期の中期以上滞在外国人数が238万2822人なので、78人はレアポケモンなんてレベルではありません。栃ノ心はその78分の1となります。

大国の思惑に翻弄されながらも、しぶとく生き残るコーカサスの小さな国、それがジョージアです。

その他細かいことは、Wikipedia先生におまかせします

 

いざジョージア

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1999年の冬、私はバックパッカーとしてトルコの黒海沿岸をさまよっていました。そこからイランへとGo WestならぬGo East、目的地を日本に定めユーラシア大陸を東へ向かっていました。

しかし、トルコからイランへそのまま突っ切っただけでは、実に芸がない。そこで、当時一緒に旅をしていた旅の連れと思いついたのが、

 

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トルコ→ジョージアアルメニア→イランという変則ルート。

地図だけ見ると、トルコからアルメニアに抜ければいいじゃないかと思います。しかし、トルコとアルメニアは歴史的経緯から非常に仲が悪く、国境が開いたり閉まったりと不安定で、アテにはなりません。そのためジョージアという「緩衝材」を入れた方が楽。急がば回れです。

ちなみに、トルコとアルメニアが何故仲が悪いかは、こちらをご覧下さい。

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

トルコトラブゾンの町並み

トラブゾンの町並み)

このルートでイランへ行くために、旅人にとって重要な場所がありました。それが黒海沿いにあり、かつジョージアとの国境に近いトラブゾンという都市。

ここが重要な理由は二つ。

一つはジョージアへ向かうバスのターミナルだということ。もう一つは、当時ジョージアとイラン両方の領事館があり、一つの町で両方のビザが、それも楽勝で取れたこと*2。ちなみに、現在日本人ならジョージアのビザ取得は不要です。

 

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旅ノートにリアルタイムに書いた、トラブゾン中心部の地図です。

 

 

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ここに、グルジア領事館」と書いていますね。我ながらマメな自分。これを仕事に活かせればなぁ。

 

そう、ジョージアとは最近から呼ばれた国名で、それまではロシア語風にグルジアと読んでいました。栃ノ心の14日目の優勝インタビューでは自分で「グルジア」と言っていましたが、現在は「ジョージア」です。アメリカのジョージア州ではありません。

国旗も、

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私がビザを取りに行った時はこれだったのですが、

 

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現在はこれになっています。

 

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トラブゾンの領事館で取得した、「グルジア」時代のビザです。

いちおう当時の旅ノートを書庫の奥から抜き出し、記憶を手繰り寄せながら書いているので、「ジョージア」と書くと記憶がごちゃごちゃになる。よって、以後の文章は一身上の都合で、当時の呼び名である「グルジア」に統一させていただきます。

 

そしてグルジア

 

トラブゾンからグルジアの首都トビリシまでは、一昼夜の旅でした。悪路を予想していたのですが、意外に揺れることもなく、無事トビリシへ。

グルジア初日は、中央駅からさほど離れていないホテルに宿を取りました。

 

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Google Mapを開き、旅ノートの記述を頼りに道と記憶をたどっていきましたが、赤で丸をしたところにあったホテルに宿泊したようです。

しかし、この時はまだ昼だったので私は知りませんでした。グルジアが「ただの国」ではなかったことを。

 

夜の○○地獄

バスの旅に疲れた私と連れは、部屋で少し昼寝をし夜に街をブラブラしてみようかということになりました。

そして夜。部屋は真っ暗で懐中電灯を片手に電気のスイッチを探してONにしました。

・・・しかし、なにもおこらなかった。

おかしいな、ともう一度ON、OFFにしてもなにもおこらない。

廊下に出てみると、廊下も真っ暗なのです。冷静になって窓の外を見てみると、外も暗い。まるで停電が起こったかのような有様でしたが、実はそのまさかでした。

窓の外の人を見ると、懐中電灯やろうそく片手に歩いているし、ホテルのスタッフもろうそくを持って歩いているではありませんか。

停電かと聞いてみると、そうだとスタッフ。それも今日だけでなく、冬の時期は毎晩らしい。そうなるとトイレにも行けないし、首都でこの状態だから地方だともっとひどいはず。我らのグルジア紀行は、初日から雲行きが怪しい展開となりました。結果的に、グルジア滞在の最後の最後まで、停電地獄とお付き合いすることとなります。

当時のグルジアは内戦が終わったばかりでした。戦争となると発電所や変電所が真っ先に狙われるのは必定、よって内戦が終わったとは言え電力事情は悲惨の極致だったのです。

その上、トビリシには内戦で家を失った難民が大量に駆け込み、ホテルというホテルが難民収容所と化していました。私が初日に泊まったホテルはそうではないのですが、ホテルの数が慢性的に不足しやたら高かった記憶があります*3

後で知ったことですが、この停電地獄にもめげないものが二つありました。

一つはメトロ(地下鉄)。トビリシには中心部を南北に貫き、郊外へと達する地下鉄が通っています。もう一つはマクドナルド。世界中にあるマクドナルドですが、ファーストフード以前の状態だったグルジアにも、マクドはあったのです。といっても、一軒だけでしたけどね。

 

ジョージア(グルジア)のマクドナルドの下敷き

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当時のトビリシ唯一のマクドの下敷きです。裏にどこの国のものかわかるように、「グルジア」と走り書きしてありました。私はカメラ不精で写真はあまり撮らない代わりに、各国のマクドナルドの下敷きをコレクションしていたのですが、グルジアのもきっちりとGETし、私のコレクションの一つとなっています。

書いてある文字はグルジア文字ジョージアンアルファベット)といい、グルジアアルメニアでしか見られない独自の文字です。

当然何を書いてあるかわかりませんが、所詮はアルファベット、何日か滞在して見慣れてくると、この文字はこう読むくらいの解読はできるようになります。もちろん今は完全に忘れていますが。

 

グルジア人のやさしさに触れる

私と連れは、あまりに高いホテルを変え、郊外にあるホテルに移ることとなりました。

次のホテルは次の目的地アルメニア行きのバスが発着するバスターミナルの2階にあり、一泊6ラリでした。ラリとはグルジアの貨幣の単位です。当時は1US$=2ラリだったとノートにあるので、6ラリだとUS$3となります。

300円ちょっとで泊まれるのか!?とビックリするかもしれませんが、バックパッカーな旅をしているとよくあること。そして、300円ちょっとということは、設備もお値段相応。某家具店のような「お値段以上」ということは、海外ではめったにありません。

では、どこがお値段相応なのかというと、ここも難民の収容所と化していたのです。おまけにシャワー・トイレは共同。トイレは難民も一緒に使用するので中国のニーハオトイレ真っ青の有様。バックパッカーは言わばバガボンドですが、この時の気分はバガボンドではなく難民でした。

 

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19年前にノートで書いた、バスターミナルまでのルートです。

これを、現代のGoogle mapに落とし込んでみました。

 

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かつてたどった道を自宅のPCの前でなぞるのは、自分史を書いているようで楽しい。

残念ながらストリートビューはなかったものの、道筋をたどってゆくだけで、かつて地下鉄の「イサニ」駅からホテル(=バスターミナル)まで15分の道のりを歩いていたことを思い出しました。これを書きながら、街灯がない夜道を寒い寒いと言いながら歩いていた記憶が、とても鮮明に蘇ってきます。

赤線で引いたホテルまでの道筋には、トラム(路面電車)が走っていたのですが、航空写真に変えてみると健在のようです。19年前は真っ暗闇で何もなかったこの道筋にも、航空写真を見てみると家や高層マンションが建っているようです。今道を歩いてみると、どんな風景が見えるのでしょうか。

 

バスターミナル上のオンボロホテルのスタッフは、英語は多少わかる程度でしたが、非常に親切な対応でした。

ある日私は、長旅の疲労で部屋で待機するという連れと別れ、一人で中心部の百貨店に行くことにしました。

トビリシの銀座のような大通りでブラブラしていると、夜が更けたのと同時に道に人がほとんどいなくなっていました。店は開いていて明かりもついているのだけれど、道に私以外誰もいなくなったのです。

なんだおかしいな・・・と思いつつ、ふつうに地下鉄に乗り、ホテルまで15分の真っ暗闇の道を歩いて帰ったのですが、帰ってみると連れとホテルのスタッフが真っ青な顔をして待ち構えていました。

私の顔を見た途端、ホッとした様子だったのですが、私は何のこっちゃ!?と。

話を聞いてみると、その日はグルジアの大統領か総選挙か何かで、投票が終わった夕方以降には夜間外出禁止令が出ていたようでした。禁止令が出ている以上、外をほっつき歩いていたら警察に逮捕されます。

私が出かけたことを知ったホテルのスタッフは大慌て。不審な日本人を収容していないかと、ホテル総出で警察に手当たり次第電話をかけてくれていたそうです。念のためにパスポートは携帯していたものの*4日本大使館もない国では誰もフォローしてくれません。無知はバカより怖いとよく言いますが、夜の街を歩いていたという「犯罪」を犯していた私、一歩間違えたらグルジアの牢屋で朽ち果てていたかもしれません。

一介の異邦人に対し、街中の警察に電話をかけて安否を心配してくれたグルジア人たちのやさしさに感動いたしました。

ちなみに、当時のグルジア大統領の名はエドゥアルド・シェワルナゼ。40代以上であれば、この名前にどこか聞き覚えがあるかもしれません。

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シェワルナゼはソ連最後の書記長、ゴルバチョフ政権の外務大臣だった人物でした。日本のニュースでもよく流れていた名前なので、中学~高校生だった私も彼の名前は知っていました。

まさかグルジアの大統領をやっていたとはつゆ知らずでしたが、彼もまたグルジア人だったのです。

 

ムツヘタへ

グルジア滞在期間、せっかくだからトビリシ以外にもどこか行ってみよう、ということになりました。

私のたっての希望は、グルジアが産んだ最強の英雄、いや最凶の化物とも言えるスターリンの故郷であるゴリという町。スターリンはロシア人じゃないですよ、グルジア人ですよ。

当時は世界で唯一残っていたスターリン像があり、後で知ったことですが世界唯一のスターリン博物館もあった、スターリンのテーマパークのような所だったのですが、交通事情の都合であえなく断念。今思えば、ゴリをゴリ押ししておけば良かったと少し後悔しています。

 

ジョージアのムツヘタ、ムツケタの位置

代わりに候補にあがったのが、トビリシから30kmほど離れたムツヘタ(ムシュヘタ)というところ。どうやら町ごと世界遺産でもあるらしい。ムツヘタについての予備知識はゼロながら、世界遺産なんだから何かあるだろうと、何も考えずに向かいました。

ノートの記述によると、バスで1ラリ(≒55円)、所要時間45分でムツヘタに到着。世界遺産という2つの教会を見物したのですが・・・ただの古い教会でした。

ノートには、こう書かれていました。

「教会はともかく、町並みのどこをどのように見たら世界遺産なのか、考えさせられてしまう。ただの田舎町である。風強く鼻水止まらず寒かった」

よっぽど印象に残っていないのでしょう。

 

そしてムツヘタは、栃ノ心関の故郷でもあります。

 

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相撲協会での力士紹介でも、ここが故郷だと記載されているので公式です*5。厳密に言うとムツヘタの町から少し離れた村の出身だそうですが、私がムツヘタを訪れた時、栃ノ心ならぬレヴァニ・ゴルガゼ少年は12歳。もしかして、町のどこかで両者はすれ違っていたかもしれません。そう思うと、彼の優勝がさらに感慨深くなります。

 

 

グルジアワインの洗礼

グルジアには1週間ほど滞在したと思いますが、その短い滞在も終わりアルメニアの首都イェレバンに向かうこととなりました。

日本では体感できない「国際バス」ですが、バスターミナルには国際バスっぽいピカピカの豪華バスが並んでいました。しかし、

「イェレバン行きのバスはあっち」

と指さされたのは、ソ連社会主義がそのまま形になったような、見るも無残なオンボロバス。目前に止まっていた資本主義の権化のピカピカバスは、みんなトルコナンバーのトルコ行きバスだったのです。

仕方ないのでそれに乗り、さらばグルジア

・・・と思ったのですが、ここでとんだトラブルに。

情報によると、アルメニアの国境でビザを取得できるはずでした。しかし、アルメニアの首相が暗殺されるという緊急事態が発生し、外国人の入国が不可になっていたのです。

この記事を書くために改めてWikipedia先生で裏取りをすると、確かに1999年10月27日に「アルメニア議会銃撃事件」が発生し、首相が暗殺されています。

アルメニア議会銃撃事件 - Wikipedia

ノートにも、「10月下旬に首相が暗殺された」と書かれていたので、ノートに書かれた情報と私の記憶が19年目にして一致しました。

国境で取るつもりだったのでビザを持っていない我々は、当然入国拒否。仮に持っていたとしても、この非常事態ではダメだったでしょう。

しかしながら、「昨日はOKでも今日はダメ」なんてことは、ほんの海外旅行あるある。こういう予期せぬことくらいは、地を這うバックパッカーにはつきものです。

仕方なくグルジアに戻ることにした我々ですが、グルジア側でも出国してビザが切れているので入国させるわけにはいかないと入国拒否。国境でサンドイッチになってしまった我々は、一体どうなるのか!?ユーラシア大陸の真ん中の国境で朽ち果てるのか!?

後者はないでしょう。事実こうやって生きているのだから。

交渉の結果、とりあえず外務省まで出頭しててビザを取り直せということとなりました。何がともあれ、ここでビザの再発行申請をしないと、我々はグルジアから出られない。

 

 

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しかも、ビザ再発行の部署は何故かトビリシにはなく、黒海沿いのバトゥミという街にあるという。東京の外務省に出頭したら、大阪に行けと言われるようなものです。

仕方なしに一晩バスに揺られバトゥミへ。そこで状況を説明すると再発行は可能。ただし再発行は夕方までかかるとのこと(行ったのは午前中)。それまでどこかで食事がてら時間を潰すこととなりました。

そこで、近くにあったバール(居酒屋)に入ったのですが、店の主人はロシア語すらわからず、主人がちょっと待てというジェスチャーの後、どこかへ電話をかけていました。

電話を切った後やってきたのは、若い男女の大群でした。10人ほどはいたでしょうか。彼らは私たちを見るや英語で話しかけ、我々も言葉が通じるとホッと地獄に仏。

彼らは地元の大学生らしく、その一人がバールの主人の姪っ子さんとのこと。

「英語話すアジア系が店に来てんだけど、通訳しに来てくれ」

とSOSを受け、アジア系というので動物園の珍獣を見に行く気分で参じたらしい。

彼らは当然、日本・日本人の存在は知っている。しかし、現物は見たことがない。彼らにとって、我々が「初日本人」だったのです。なんだかスゲー、本物のサムライだよとか言っていたようです。

彼らと心地よく会話していくうちに、連れがあることを思い出しました。

「あ、わたしグルジアワイン飲んでない!」

 

グルジア周辺は、ぶどうの原産地だと言われています。日本では通以外には知られていないと思いますが、グルジアはワインの名産地でもあり、世界でもかなり有名なんだそう。

 グルジアワイン飲んでないと言うと、学生たちは立ち上がりました。

「ちょっと待ってて」

言われるがままに待つこと30分ほど、退散した彼らが手にしていたのはワイン。グルジアの家庭ではワインを家で作っており、自宅から「自家製のマイワイン」を持ってきてくれたということでした。

これには大酒飲みの連れは大喜び。私は普段酒を呑まない、飲みたくても体がアルコールをほとんど受け付けないのですが、この日は折角持ってきてくれたワインを飲まないわけにはいかない。ちょっと昼食がワインパーティーとなり、ビザを取りに行く主題を忘れそうになりました。

で、味はどうだったのかって?私はほぼ下戸で酒なんてほとんど飲まない。少なくても自分から飲むことはまずない。そんな私がたらふく飲んだということは、味は書くまでもあるまい。

たまたま立ち寄ったバールで、異邦人がワイン飲んでないと言っただけで、寄ってたかってワインを飲ませてくれたグルジア人の親切心は、今でも忘れません。敢えて言うならば、自分の下戸っぷりを呪うばかりです。

そしてそのままトルコへの国境へと向かったのですが、ワインの飲み過ぎでいわゆる泥酔状態。国境越えというものは、何度経験しても緊張するものですが、ベロンベロンに酔っ払っての国境越えは初めての試みでした。陸路での国境越えは日本人にとってロマンがあり、これぞ海外という趣があり、20年経っても細部まで覚えているものです。が、ここだけは、どうやって国境を越えたのか全く覚えていません。

 

 当時のグルジアは、ソ連から独立してまだ10年も経っていませんでした。グルジアという国は、ロシア革命後もソ連邦にいったん加入拒否したほど、独立心の強いお国柄です。やはりグルジアの死神だったスターリンの策略でソ連に強制加入させられますが、ソ連崩壊まで「ソ連の中の反ソ連」を貫いていました。

ソ連からの独立後もロシアとは距離を置き、アメリカやEUと近づき英語教育に力を入れつつあった時期でした。グルジアジョージアと読んでくれというのも、その政策の一つでした。ロシア風の「グルジア」を彼らは嫌ったのです。

 その上、内戦がようやく落ち着きいたばかりで、街には難民があふれ国内はかなり混乱していました。

しかし、それでも彼らは優しかったことをはっきり覚えています。人の優しさ、温かさにこれだけ触れられた国は珍しいと断言できます。ここに書いていないエピソードもありますし。

私は一介の小市民なので、グルジアグルジア人に対して何ができるという立場ではない。だからこそ、せめて相撲という経験したことのない異世界で健闘している、グルジア人力士を無条件で応援しようと。栃ノ心の優勝は、だからこそ余計に嬉しいのです。

黒海から始まり、現在は栃ノ心関の他に、明るく愛嬌がある「ガガちゃん」こと臥牙丸関も十両で頑張っています。 彼らを応援しよう、それが私がグルジアで受けたやさしさに対する最大の恩返しだと。

 

旅ノートの最後には、走り書きでこう書かれていました。

「本当にいい奴らだった、グルジア人は。こんないい人ばかりのグルジアに幸あれ」

 

*1:イスラム教のお祈りの呼びかけ。時期によっては午前3時か4時に大音量で響き渡るので、モスク近くのホテルに泊まると睡眠不足不可避。上手い人が放つアザーンは歌のように美しく、かえって眠れるのだけれども、音痴のアザーンはただの公害。美しいアザーンは、これがおすすめ。

*2:海外での外国のビザ取得方法は、大使館や領事館によって全く違います。特に領事館は領事のさじ加減一つ。「あそこの領事館だと楽勝でビザGETできるぜ」「XXでのビザ取得はUS$50とぼったくってくるからやめとけ」などという情報が、旅人たちの間でやりとりされます。

*3:旅ノートにはUS$30の記載あり。缶コーラ一杯50円のUS$30です。

*4:国によっては外国人のパスポート携帯が義務の所もあります。だからパスポートは手元に持って置いた方が身のため。どうしてもという場合は、コピーとビザ(カラー推奨)を携帯しておくこと。かくいう日本も入管法第23条の規定により、外国人はパスポートor在留カードを常に持っていないといけません。持っていないと不法滞在とみなされ逮捕。

*5:表記は「ムツケタ」になっていますが、そこは誤差なので気にしない。