昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

淳仁天皇陵後編-淳仁天皇ゆかりの地を訪ねる

以前、淡路島にある唯一の天皇陵、淳仁天皇陵のことを取り上げました。

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

天皇陵を紹介して終わり、なに、簡単なお仕事だというつもりで書き始めたつもりでした。しかし、この天皇陵、淡路島の伝承も重なりなかなか奥が深い。これが天皇陵です、はいそうですか・・・で終わるものではありませんでした。

 

今回は、淳仁天皇にちなんだ史跡を巡っていこうと思います。

 

 

 

南あわじ市

当麻夫人墓

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淳仁天皇陵から南の方向を見ると、黄色の矢印の山が見えます。

 

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近づいて見てみると、やはり周囲の田畑に比して明らかに浮いている小山が。

ここは淳仁天皇の母君である当麻山背(たいまのやませ。生没年不詳)の墓とされている陵墓です。

淳仁天皇孝謙上皇によって、天皇の位を廃された上淡路島に流されたことは、前編に書きました。それと同時に、母親である当麻山背も流されたとされています。天皇と同罪として同時に流罪になったのか、それとも自分の意思で子供について行ったのか、史料には残されていません。

 

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ここも宮内庁が管理しています。

 

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淳仁天皇陵に較べると、入口(?)に続く階段がある分、立派に見えます。

 

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淳仁天皇陵は、実は自然の丘陵を利用した陵墓で、丘の頂上を少し加工しただけなのですが、ここも『陵墓地形図』を見ると自然の丘を利用したものと見受けられます。

 

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階段の奥の部分が陵墓になっているようです。

 

 

 

大炊神社(志知中島)

淳仁天皇陵から北へ数キロのところに、天皇の名を記した神社があります。

 

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「大炊神社」と書かれた看板が見えます。

ここは、休日のサイクリングでよく通っていたところでした。良い意味で田舎なので、農繁期を除いて交通量も少なく、自転車でのんびり景色を愉しみながらサイクリングできる好コースなのです。近くに南あわじ市唯一のイオンがあり、そこへの買い物の通り道でもあります。なのでこの看板はしょっちゅう目にしていました。

しかし、それまで興味がなく1年以上華麗にガン無視していたわけですが、淳仁天皇陵と関連があるとわかると、その重みが俄然違ってきます。無視するわけにはいかない。

 

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神社は「志知中島」というところにあります。こうしてGoogle Mapで見てみると、西の大日川、東の馬乗捨川という2つの川に挟まれた地域にあり、集落が島のように見えます。しかし、馬乗捨川ってすごい名前やな。

Google mapの道の幅をイメージ通りに脳内変換してしまうと、志知中島という狭いエリアで迷子になってしまいます。淡路島全体に言えることですが、Google mapだけを見るとかなり広い道に見えるけれども、実際は軽自動車がかろうじて通れるほどの道だったりすることは、よくあります。特に都会住まいの方は、淡路島を訪れる際は気をつけましょう。

 

大炊神社淳仁天皇ゆかりの地

大炊神社南あわじ市志知中島

大炊神社は、志知中島という狭い集落の真ん中に位置しており、境内は意外に広く少し驚きでした。こんなところにこんな神社があったのかと。

向かった日は大雨だったせいか、境内には人ひとりおらず、静まり返っていました。

建物もかなり傷んでおり、大きさの割には痛々しさを感じます。

 

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ここの祭神はもちろん、大炊大神と名を変えた淳仁天皇です。

 

この大炊神社と淳仁天皇にはどんな関係があるかというと、淡路島に流された天皇はここに幽閉され、亡くなったこの地に神社が作られたとのこと。

それだけなら、はいそうですかとすぐ納得するのですが、問題はその後のこと。

 

南あわじ市大炊神社の看板

「御遺体はここ天皇塚に埋葬されたと伝えられています」

という表記が。

ここで、ふつうに考えるとこうなります。

「じゃあ、あの天皇陵は一体何やねん?」

ここから、淡路島各地に伝わる「淳仁天皇ふしぎ発見」が始まるのです。 

 

しかしその前に、「御遺体が埋葬された」天皇塚とやらを見てみましょう。

 

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まずは、『傳』淳仁天皇聖蹟の碑がお迎えしてくれます。

『傳(伝)』というのは、「~と言われている」というニュアンスで、確実ではないけれどそうだと(長くから)伝えられているということです。
そうなると、ほとんどの天皇陵は科学的調査が入っていないので、すべて『傳』になります。

仁徳天皇陵も、中学生の頃は「『伝』仁徳天皇陵と習った記憶があります。何せ仁徳天皇陵が歴史の一部ではなく、いつも目の前に存在している所で育った私にとっては、『伝』にものすごく違和感があったことお覚えています。

そして高校の日本史では、うって変わって「百舌鳥耳原中陵」。後にカッコがついて、

「(仁徳天皇陵)」と書かれてはいるものの、もう一体なんやねん!仁徳天皇陵でええやないかい!と思ったものです。

 

それはさておき、大炊神社の片隅に、木々に囲まれた区画が存在します。

大炊神社の天皇塚1

明らかに、「何かある」においがプンプンします。

近づいて見ると・・・

 

 

南あわじ市志知中島大炊神社天皇塚

奥に祠のようなものがあることがわかります。

伝説によると、この祠の下に淡路廃帝こと淳仁天皇が永い眠りについている、「真の天皇陵」ということです。しかし、あくまで「伝」であり、真実はこの土の下だけが知っている。

 

 

野邊の宮(十一ヶ所)

次に向かうは、大炊神社から東へ3~4kmのところにある、「十一ヶ所」という変わった地名にある「野邊の宮」と呼ばれる場所です。

 

南あわじ市十一ヶ所野邊の宮

敷地内は老人センターという名前の公民館となっており、一見するとただの公園ですが、鳥居が公園の前にあることから、ただの広場ではないなということに気づきます。 

 

 

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昭和5年(1930)に建てられた、兵庫県の史跡指定の碑も敷地内にあります。

 

 

南あわじ市野邊の宮天皇神社

ここ野邊の宮は、都から流された天皇が幽閉された屋敷の跡と伝えられており、天皇の御霊を鎮める祠が片隅に鎮座しております。この祠は小さいながらもいちおう神社で、その名も「天皇神社」です。

いや、このお社こそ天皇のお墓だと唱える人もおり、宮内庁も一時期ここを「陵墓参考地」とした時期もあるようです(陵墓参考地については後述)。

 

野邊の宮琵琶淳仁天皇

天皇神社」の横には、淡路にながされた天皇が悲しみを癒やすために自ら琵琶を弾いたという伝説の碑があります。

 

しかし、「野邊の宮」と聞いて実際に行ってみると、前述の大炊神社よりビックリ。灯台下暗しか、ここはサイクリングどころか、運動不足解消のためのジョギングルートだったりします。その上、中にある鉄棒で筋トレまでしていたという。1年以上ここの前を通っていたわけですが、ここが天皇ゆかりの地だったとはつゆ知らずでした。鳥居があるから何かあるんやろな、とは思っていたのですが。

 

 

宝積寺(十一ヶ所)

 

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「野邊の宮」から歩いて2~3分くらいの距離に、「宝積寺」というお寺があります。読みは「ほうしゃくじ」で、「ほうせきじ」ではありません。

 

南あわじ市宝積寺

一見、どこにでもあるお寺なのですが、前に「淡路四国八十八ヵ所霊場という幟があります。宝積寺はその23番目の札所だそうで、私はもらいませんでしたが御朱印もあるのではないかと思います。ちなみに、「淡路四国八十八ヵ所霊場」とお遍路さんで有名な「四国八十八ヶ所」と何の関係があるのか、そもそも関係あるのかはわかりません。

 

で、この宝積寺と淳仁天皇とは何の関係があるのかというと。

 

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天皇の位牌が納められているとのことです。ただそれだけなのですが、一度その位牌とやらを見てみたいものです。

 

 

「丘の松」(十一ヶ所)

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宝積寺とは違う方向、東にも天皇ゆかりと言われるものがあります。

 

淡路島丘の松

野邊の宮から見るとこんな風景ですが、まあただの森です。
しかし近づいてみると、

 

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ここも陵墓と同じような立て札が。

ここも宮内庁が管理している土地で、「陵墓参考地」と呼ばれるところです。
「陵墓」ではなく陵墓”参考地”・・・陵墓と何が違うのか。
陵墓参考地とは、一言でいうならば「確証は持てないけれど、天皇陵の可能性あり」というものです。形や地元の言い伝え、古書の記録などの見方により「天皇に関係あるかもしれないので、いちおう国が土地をキープ」というニュアンスです。
この陵墓参考地はそんなにレアなものではないようで、Wikipedia先生によると、2府16県に46ヶ所存在しています。遠くは安徳天皇のお墓と伝えられる参考地が、下関にあったりします。
ここもそのうちの一つで、宮内庁の正式名称は「市(いち)陵墓参考地」というものです。地元では古くから「丘の松」と呼ばれてきました。

昔から地元の人の間では良い意味でのアンタッチャブルな地だったのか、周りは住宅地と農地なのにここだけ手付かずの「ジャングル」と化しています。

 

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その中でも、かなり幹が太い樹木を発見。樹木は専門外なので何の木かは知りませんが、相当大きい。ド素人目から見ても樹齢5~600年、もしかしてそれ以上じゃないのかと。
もしかして、この「丘の松」が出来た時の生き残りの木かもしれません。そう考えると、たかが木から歴史のロマンを感じませんか!?
せめてこの木の樹齢だけでも調べたいのですが、特例なんて絶対認めない宮内庁がOKを出すわけがないか。

 

 

 天皇陵は一体どこか

この天皇陵にまつわる伝説・伝承にはいくつかの謎があります。
淡路に流された後の幽閉場所だけでも2ヶ所あり、埋葬場所も2ヶ所。
真実は常にひとつですが、ここからは、三原郡史』などの公式郷土史や、淡路島歴史学会(?)の研究結果などを参考に、天皇の埋葬場所を書いていくことにします。

 

そもそも、今の天皇陵が天皇陵だと主張したのは、江戸時代の地元の庄屋だった仲野安雄という人物でした。彼は8代将軍吉宗の治世だった1730年頃、続日本紀に記された、

廃帝陵は淡路国三原郡にあり、東西六町、南北六町」

を根拠に『延喜式』や『東鑑』などの史料を読み解き、根拠のない民間伝承を排除した上で、「天王の森」と地元で呼ばれていた丘陵を陵墓だと断定しました。

天皇陵がある旧三原郡は、今でもそうですが、一帯は見渡すかぎりの平野です。そこに「山陵」と呼べるものは「天王の森」と当麻夫人のお墓以外、ほとんどありません。実際に見ると、田畑の緑の海の上に浮かぶ島のようです。

それ以上に驚きなのが、江戸時代、それも田舎の一農民が、今の歴史学者の研究と変わらない科学的アプローチで導き出したこと。「庄屋」は確かに村の名士でありインテリなのですが、藩や代官所から行政を委任され、その特権として苗字帯刀が許された地元の農民でした。今で言えば、村長兼教育委員長という感じでしょうね。

淡路島という、言っちゃ悪いが日本という国の島の一つに過ぎない農民が、古今の歴史書を読み解き考察し仮説を出す。やっていることは大学の研究者レベルです。それほどの教養があったなどと言えば、農民がそんな教養あるわけないじゃんと、外国人は信じてくれません。欧州の農民は、無知蒙昧で字が読めるなんてとんでもないというのが常識ですから。

日本史を日本史のスケールで勉強してもあまり面白みはないですが、世界史レベルにまで俯瞰して見てみると、全く違ったもう一つの日本史が見えてきます。

それはさておき、淳仁天皇陵が宮内庁から陵墓に指定されたのは明治時代のことですが、その根拠もおそらく仲野安雄の説に説得力があったのでしょう。それから、淳仁天皇は淡路陵に葬られているというのが、現在では公式設定となっています。

 

それとは別に、野辺の宮、あるいは「丘の松」を埋葬地と唱える人たちも、古くから存在していました。

 

蒲生君平肖像

仲野安雄の説の約70年後、水戸の儒学者である蒲生君平という人物が、野辺の宮と「丘の塚」説を唱えます。この人物はガッチガチの尊王攘夷派なのですが、そのイデオロギーの一つとして各地の天皇陵を調査し、『山陵志』という全国の天皇陵の研究書を記しました。

『山陵志』は尊皇攘夷論を正当化するための政治的書物なのですが、意外に現代考古学的なアプローチをしており侮れないと、近年再評価されている「天皇陵研究入門」になっています。我々が普通に古墳に対して使っている前方後円墳の名前もこの『山陵志』が出典元で、蒲生の造語です。

ちなみに、『山陵志』の直筆原典は国会図書館にデジタル保存され、ネットで公開されているので誰でも閲覧可です。ただし、原文は漢文なので見ても意味不明だと思います。私も数ページ見て謎の頭痛が起こり、静かにタブを閉じました。

蒲生の根拠は、地元で語り継がれている言い伝えから。野辺の宮辺りは、天皇と一緒に淡路へやって来たお供の子孫、天皇の墓守の子孫を名乗る人も江戸時代に居住しており、古くから天皇陵はここにあると言われていたそうです。

阿波藩から指名を受けて調査した学者も、やや尊皇攘夷派寄りだった影響もあるものの、この説を支持していました。しかし阿波藩の偉かったところは、「丘の松」説はあくまで言い伝えなので他の説も参考にしてねと、他説を排除しなかったこと。江戸時代にしてはかなりの慧眼です。

また、『陵松ノ義』という地元の古くから伝わる里謡には、こんな一節があります。

「ココハ淡路ノ廃帝様ノ御陵松カヨ尊シヤ」

「ココ」とは丘の松のことで、地元ではここが御陵だとかなり古くから伝えられているそうです。

宮内庁も、島に古くから残る伝承を無視できなかったのでしょう、「丘の松」を陵墓参考地に指定し、キープしています。

 

天皇陵野辺の里説もう一つの根拠は、律令時代の淡路国国府の場所。

奈良~平安時代の「淡路国」の国司が駐在する国府がどこにあったのか。実は今もって不明です。

 

 天皇陵の近くに国衙(こくが)」という地名があります。「国衙」は昔の国府を指す言葉なので、ここじゃないかと思われがちです。何せ地名として残っているのだから。Yahoo!知恵袋などのネットでも、ここだと断定している人がいます。

しかし、地域史の『三原郡史』は、違いますとあっさり否定しています。ここは鎌倉時代国府が置かれ、それに基づいた地名だと。

じゃあ、どこにあったのかという目星はあるのかと。実はあります。

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淡路島の歴史を阿波藩が藩の公費を使って調査した、『味地草』という報告書などをまとめると、だいたいここあたりになります。ここもかつては「国衙」と呼ばれていたそうで、文献上の理屈ではほぼ確定とのこと。ただ、国府があったという考古学的証拠(現物)がないのが玉に瑕。逆に言うと、国府にまつわる何か出てきさえすれば確定ということですね。

地図で見てみると、伝幽閉地の野辺の宮や「丘の松」と目と鼻の先です。流罪の天皇国司に厳重に監視されていたと『続日本紀』に記されているので、監視するには手元に置いておく方がやりやすいでしょう。地理的条件はバツグンです。

上に書いた『山陵志』も、淡路国司館近く廃帝陵あり。祠あり」と書いています。

 

もう一つの、大炊神社の天皇塚説は言い伝えはあるものの、他の2つに比べ信憑性は落ちるそうです。「地元ではそう言われている」ということだけで、歴史学的には全く証拠がありません。ただ、大炊神社という、古くからある「現物」はどう説明するのかなど、はい違いますと斬り捨てるのも・・・という感じみたいです。

 

現代の常識的な考察だと、以下のようにまとまっています。

1.淡路廃帝が幽閉された場所:野辺の宮か大炊神社

2.廃帝死去後の初葬地:「丘の松」

3.光仁天皇即位後に改葬:「天王の森」こと今の天皇

 

きれいにまとまって一件落着。これにて本記事は終了!

といきたいのですが、まだこれで終わらない。もう「淡路ふしぎ発見」のミステリーハンター気分。

 

 淡路市

下川井の史跡

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 次の舞台は、南あわじ市から一気に北上し淡路市へ。中間にある洲本市は、豪快にパッシングします。高速道路なら30分ほどで料金は310円(軽自動車の場合)。

津名一宮ICを下りて車で10分ほど北上すると、

 

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伊弉諾(いざなぎ)神宮が鎮座しております。

名前のまま国産みの神、イザナギイザナミを祀った神社です。忘れていませんか、『古事記』でイザナギイザナミが最初に作った大地は、本州でも四国でも九州でもなく、淡路島だということを。

この神社と国産み伝説は、本編に関係ないので省略しますが、さすが知名度が高い神社か大雨でも大型バスで観光の参拝客が多く、見る限り何故か9割が女性でした。縁結びの神様と言えば出雲大社ですが、ここも縁結びの神社として女性に人気があるんだとか。また、「記録に残る日本でいちばん古い夫婦」を祀る神社か、結婚式も行われていました。

ちなみに、伊弉諾神宮本殿から真東に線を引くと伊勢神宮の本殿に当たる・・・という説がネットで流れています。実際に引いてみると、まあ確かに本殿は言い過ぎだけど、神宮の敷地とはほぼ同緯度だろうなというくらい、際どい位置。伊弉諾神宮と伊勢神宮の敷地は同じ緯度にある、ということは確かです。

 

伊弉諾神宮と淳仁天皇との関連はありません。しかし、神宮がある「多賀」という地区にも淳仁天皇の伝説が言い伝えられています。

 

淳仁天皇の位牌その2

 伊弉諾神宮から数百メートルくらいの距離に、「妙京寺」というお寺があります。

 

 

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ここも実は、淳仁天皇が流罪になって幽閉された所と伝えられており、南あわじ市の宝積寺に同じく位牌もあるんだとか。

妙京寺自体はどこにでもあるお寺で、中は別段見るべきものはありません。

 

で、妙京寺の門前には上の写真の他に、

 

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 「淳仁天皇御遺跡」と書かれた碑が立っています。立てられている場所が場所なので、てっきり妙京寺のことを指しているのではないかと思いがちです。ほとんどのサイトがそう紹介しています。「遺跡」と書いてあるから、もしかして、妙京寺には「すごいもの」が眠っているのかも・・・。

しかし、そういう人はこれを逃しています。

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「御遺跡はあっち(北500m)」伊弉諾神宮の方向を指しています。しかし、間違えるのは無理もない。確かに妙京寺の入口という紛らわしい位置に立っている上に、この文字が風化しかけてパッと見気づかないことが多そうです。かく言う私も、一度写真だけ撮ってスルーしたものの、ふとピンと直感がよぎり道を戻って見るとこれでした。

さて、北500mにあるという「御遺跡」とは、一体何なのか、何があるのでしょうか。

 

天皇衣冠塚

伊弉諾神宮の隣の地に、淡路市立香りの公園という所があります。

 

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この中に淳仁天皇ゆかりの遺跡があるというのですが・・・

 

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見渡すかぎりこんな感じ。

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 公式地図にも何も書いておらず。なら人に聞いてみようと思ったのですが、雨で冬に入る季節のせいか、360度誰もおらず。園内ほぼ私の貸し切り状態でした。

敷地は広そうですが、ここまで来て手ぶらで帰るわけにもいきません。雨の中園内を歩き回り、しらみ潰しに探し回りました。

 

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園内を歩き回ること約30分、ようやく見つけました。見つけた瞬間ガッツポーズ、なんだかドラクエファイナルファンタジーで、ダンジョンを迷っていたら隠しアイテムを見つけたようなワクワクさがありました。

 

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この看板がなければ見つけることはまず無理でしょ、というくらいの難易度でした。

 

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かなり風化していますが、淳仁天皇御衣冠塚地主妙京寺・・・」とまでは、なんとか読めました。後で調べると、ここは元々妙京寺境内で、衣冠塚はお寺の境内にあったということでした。

 

そもそも衣冠塚とは何か。聞きなれない言葉だと思います。

日本では習慣として定着していませんが、昔の中国では衣服を遺体の代わりに収め、墳墓とすることがよくあります。なので、古代中国の著名な人物は「墓」が2つも3つもあることがあり、中国史好きな日本人を戸惑わせています。

 

中国ではその人物への最大限の屈辱として、仇の墓を暴く習慣があります。そこから遺体を出して鞭で打つことにより、最大級の屈辱を与えることとなります。ウソと思うなら中国史をひっくり返して見てみましょう。古くは紀元前の春秋戦国時代、最近でも文化大革命時代まで枚挙にいとまがありません。

今年4月、台湾でダム建設に尽くした日本人、八田與一銅像の首が切断された事件がありました。

犯人は中国に「注射」された台湾人でした。が、犯人がまだ中国に「中華民族エキスを注射」されても、魂まで中国に売ってなかったなということを、下のブログで指摘しました。

parupuntenobu.hatenablog.jp

八田與一の像の後ろには彼の墓がありますが、犯人はそこに一切手を付けていません。台湾にはそんな習慣が全くありませんが、もし犯人が骨の髄まで中国人であれば、必ず後ろの墓を掘り返した上で破壊すると。

行為自体は許されるものではありません。ただ、犯人には「一寸の虫けらにも五分の台湾人魂」が残っていたなと私は思っています。

で、何が言いたかったかというと、衣冠塚は遺体を暴かれないためのカモフラージュの役目もあったということ。だから墓が複数必要だったという、なんとも物騒な事情もあるようです。

 

三国志で有名な人物に、諸葛亮孔明がいます。

三国志ではヒーロー的な彼は、主君の劉備の意志を継ぎ魏の国を攻めたのですが、五丈原というところで寿命が尽きます。三国志が好きな人は、五丈原と聞いただけで何か哀愁のようなものを感じるかもしれません。

その五丈原に、約18年前に行ったことがあります。

 

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今はたぶん、そこそこ観光地化されて交通の便も良くなっているはずですが、私が行った頃はただの村。本人も西安市の地図をぼーっと眺めていて、

「うわ!五丈原や!」

と偶然見つけただけでした。

村で偶然、ツアー中の日本人観光客と現地旅行社の中国人ガイドに出会ったのですが、地図だけを頼りに路線バスとバイクタクシー乗り継いで自力で来たと言うと、

「よくこんな田舎まで一人で来ましたね。中国人みたい」

とガイドさんに変な褒められ方をしました。

 

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実際に行ってみてわかったのですが、孔明が力尽きた五丈原は、魏の国の長安と目と鼻の先。今なら車で2時間弱で行ける距離なので、当時でも1日あれば行けるでしょう。
孔明が陣を張ったと言われる山の上にお廟(孔明廟)があるのですが、そこから西安市街地の方向を見るとホント「すぐそこ」なのです。
三国志好きなら誰でも知ってる、「死せる孔明生ける仲達を走らす」という言葉の舞台もここ五丈原ですが、すぐ目の前で志果たせずとは、仏教風に言うと心残りがありすぎて成仏できないだろうなと。

この地に立つと、うわ~!(目的地の長安まで)すぐそこやんか~!と孔明の無念が感染(うつ)ってしまう悔しい気分になります。

 

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これが五丈原にある諸葛孔明の衣冠塚です。残念ながら、これは私が撮った写真ではありません。写真を撮ったはずなのですが、探してみても見つかりませんでした。

孔明の遺体は全く別のところにあるのですが、「蜀」の都だった成都には武侯祠という、日本風に言えば「孔明天満宮」があり、御霊はそこに祀られています。孔明のお墓は事実上3つあるということですね。

こういう風に中国では、三国志の武将はもちろん、色んな歴史人物の衣冠塚があるのですが、日本ではこの習慣が定着しなかったか、ほとんど聞いたことがありません。試しにググってみても、出て来るのは中国のみ。

意識していなかったですが、国内にある衣冠塚はかなりレアなものかもしれません。

 

高島陵

衣冠塚をはじめ、淳仁天皇伝説が残る伊弉諾神宮周辺ですが、「天皇陵」も存在しています。

 

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Google Mapで見てみても、そこには何もないように見えます。

しかし、航空写真に切り替えてみると、

 

淡路市淳仁天皇高島陵の位置

 水色で囲った部分に小山が見えます。ここがどうやら高島陵らしい。

しかし、実際にここに行けと言われると、なかなか厄介です。なぜかというと、文明の利器カーナビが利かないから。良くも悪くもただの小山なので、住所の番地など存在しないのです。私もなまじナビ頼りだったので、正直めちゃくちゃ迷いました。行きたいなー興味あるなーと思う方は、まあ十中八九車で行くこととなると思いますが、ナビなら伊弉諾神宮より、高島陵のすぐ近くにある「多賀保育所」(兵庫県淡路市下河合50 TEL:0799-85-0800)でセットするのがベストです。バスなどで来る方は・・・うーん、まあ頑張ってくださいとしか言いようがありません。

 

淳仁天皇高島陵1

 上にある森が「高島陵」ですが、

 

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観光名所として整備されているわけじゃない上に、距離は短いとは言えけっこうな急勾配、足場はけっこう悪いです。私はウォーキングシューズでしたが、女性はヒールやパンプスなんかで来ると死亡フラグが立ちます。

 

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陵墓と言われる丘からの眺めはなかなかのもの。伊弉諾神宮も眼下に見ることができます。

 

 

淳仁天皇高島陵2

森の中に入ると、そこは木々のトンネルのような形になっていました。道は意外なほど整備されています。それならここまで来る道も整備せい、せめて看板くらい設置せいと言いたくなりますが、それはさておき、『伝』天皇のお墓は左折したところにあり、正面は個人のお墓なのでご注意を。

 

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淳仁天皇御陵』という、最近作られた碑が立っています。

 

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この塚がいわゆる「高島陵」。地元ではここも・・・ではなく此処こそ淳仁天皇が葬られたところだと信じられています。陵墓どころか陵墓参考地指定もされていないので、宮内庁からはガン無視されているということですが、

 

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菊の御紋が刻まれており、根強い淳仁天皇伝説を物語っています。

人が全くいないので塚をゆっくり見させていただいたところ、塚の石が案外新しく、果たしてこれが本当に天皇陵かどうかという感想を抱きましたが、同じ淡路島でも全然違う2ヶ所に天皇伝説が残るということは、天皇ゆかりの地をめぐる伝説は根強いのだなと。

 

淳仁天皇伝説はまだあった!滋賀県

さて、淳仁天皇は淡路島に流されてうんぬん・・・と思いきや、天皇伝説はこれで終わりではありませんでした。

 

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場所は、淡路島から一気に飛んで滋賀県へ。

琵琶湖の北部、湖に突き出た半島の先に「菅浦」という集落があります。ここは昭和46年まで陸路で行く手段がなかったという隠れ里だったそうで、今でも「隠れていないかくれ里」として知る人ぞ知る地です。平成生まれの人には昭和46年は大昔ですが、昭和生まれの人間にとって昭和46年なんて「ほんの数年前」の感覚。そんな時期にまで人知れず(?)残された集落があったとは。

ちなみに、今回はさすがに滋賀県までは行けませんでした。

 

菅浦には、須賀神社という名の社があります。

 

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ここは日本でも珍しい「土足禁止」の神社で、写真の先からは土足厳禁です。今はご丁寧にスリッパが用意されているそうですが、信仰心の篤い人や地元の人は、靴下すら脱ぎ素足で入内するそうです。菅浦集落自体が昭和46年まで船で行くしかなかった隠れ里、もしかして、神のおわす領域は土足禁止という古代の参拝の原型を残しているのかもしれません。

土足厳禁なだけでも現代では変わった神社ですが、ここにはもっと変わったことがあります。この須賀神社のご祭神が、実は淳仁天皇なのです。

この神社の創建は天平宝字3年(764年)と伝えられていますが、この年は藤原仲麻呂の乱が起きた年であり、淳仁帝が廃帝となり淡路に流された年でもあります。

しかし、流されたのは淡路ではなくここだ!と、須賀神社とここの伝説が強く自己主張しています。天皇の「御陵」も神社の裏にあるという言い伝えがあります。

 

そんな隠れ里と淳仁天皇、何の関係があるのか。

淳仁帝のバックにいた藤原仲麻呂恵美押勝)が反乱を起こしたことは、前編で書きました。その反乱の場所が近江国の北部で、朝廷軍と実際に戦った戦場や藤原仲麻呂が指揮を執った砦も今の湖北地方です。

 

藤原仲麻呂の乱と菅浦と須賀神社

Wikipedia先生の地図を引っこ抜いてきた上で、菅浦の場所を追加したものですが(赤い★印が菅浦の場所)、乱の現場のすぐ近くということがわかると思います。

藤原仲麻呂は琵琶湖から船で脱出しようとしたものの捕まり、首を斬られたのですが、淳仁天皇は中立を守り近江にいなかった。それが歴史学の定説になっています。しかし、乱の主戦場だった近くの集落に天皇が逃げ、ここで生涯を閉じたという、平家の落人ならぬ淳仁帝落人伝説が、今でも根強く残っているのです。

科学的アプローチでは、淳仁天皇近江国に行った記録はありません。なのでよほどの物的・史料的証拠がない限り伝説乙でこの話は終わってしまいますが、地理的につながりがないこともない土地に伝説が残っているのは伊達ではない。

おまけに、くどいようですが45年前まで陸路で行くのはほぼ不可能だった土地、隠れる条件としてはこの上ない場所でもあります。

私は歴史に関しては冷血な実証主義者ではありますが、こういうロマンも歴史の隠し味として味わうのも悪くないと思います。冷血ばかりじゃ面白くないですからね~。

 

淡路島から、実際には行ってないのでサラっとながら滋賀県まで飛んでしまった淳仁天皇伝説。まさか近江まで飛ぶとは思ってもみなかったですが、たかが一人の天皇でもこれだけの伝説が各地に残っているだけでも、古代史のミステリーとして十分楽しめただろうと思います。