昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

難波病院ーその病院、訳ありにつき

先日…といっても先月になってしまいましたが、なんばパークス南側、ヤマダ電機LABI1なんば店横のホテル建設予定地から「遺跡」が出てきたという記事を書きました。

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

この記事中に、「大阪市パノラマ地図」という地図を出しました。

「大阪市パノラマ地図」とは、大正12年(1923)に作られた大阪市の俯瞰地図で、大阪が「大大阪」に変貌していく黄金期の出発点の時期のもの。大大阪を英語にすると、”The Great Osaka”、略して”TGO”…なんだか無駄に格好いい。

それはさておき、地図の専売局煙草工場の横にある建物に気づいた方はいらしゃるでしょうか?

 

難波病院

「煙草専売局」が前回の主役でしたが、その下に

「難波病院」

と書かれている建物があります。

はて?こんなところに病院なんてあったっけ?地元の人であればあるほど、脳みそをフル稼働させて記憶を探っているかもしれません。

 

府立難波病院遊廓遊女

「難波駅」の位置は基本的に変わっていません。駅と専売局の横を流れている水路が今の阪神高速、と書けばだいたいの位置関係がわかると思います。

しかし、難波にこんな大きな病院があったのか?

ところがあったのです。

しかし!

ただの病院なら、私もわざわざ別記事にしてまでネタにはしません。この難波病院、ブログのネタになるような、ほんのちょっくら特殊な病院だったのです。

今日は、そんな「訳あり」病院の物語を。

 

 

 

遊郭と性病

遊郭…かつての合法的な売春街…と言ってしまえば男の天国、無味乾燥な性欲の掃きだめですが、遊郭には実は様々な役割がありました。

一つは「犯罪者ホイホイ」。男というものは、大金を手にしたり、犯罪のような大きなことをすると、何故か女のぬくもりが恋しくなる変な習性があります。「大きなこと」をすると母親の懐(母胎)に戻りたくなるのでしょうか。

ウソ!?と思われるかもしれませんが、江戸時代の吉原遊郭の設立理由の一つにそれが挙げられているし、戦前のベテラン女郎や遣り手、娼婦はそういう人間を嗅ぎ分ける独特の嗅覚を持っていました。

一発ヤってぐったりしている男の耳元で、女がささやきます。

「ちょっと失礼…」

そのままトイレヘ…行くふりをして1階の湯婆婆ならぬ遣り手婆に報告、「抜き打ち検査」という名目で警察が踏み込み男は御用。廃娼論が湧き上がっても遊郭が成立していたのと、私娼窟が「性病検査だけちゃんと受けてや」という条件で黙認だったのも、警察との隠れたつながりがあったからでしょう。

 

もう一つは性病予防。

梅毒に淋病、軟性下疳…今でこそ初期段階なら注射一本や錠剤で治ってしまう性病ですが、抗生物質などない戦前までは不治の病でした。近代日本の国民病と言えば結核を思い浮かべる人が多いですが、正しくは梅毒・脚気と併せて「日本三大国民病」。その一角を担う(?)梅毒は、まさにザ・キング・オブ・性病として不動の地位を築いていました。

性の牙城遊郭は、常識的に考えたら性病がいちばん伝染しやすいところ。それは想像に難くないですが、そんなこと百も承知の分、週に1回の公費による性病検査があり、遊郭ではたらく遊女の義務でもありました。

昔の日本で売春が出来たのは、何も遊郭だけではありません。大袈裟でもなく「ありとあらゆる場所」で売春が行われ、うどん屋・牛乳屋が実は…という例もありました。昭和初期のエログロナンセンスの象徴、カフェーも「オプションサービス」としてあったのはお約束。元手も技能も要らない女の個人事業としては、売春がいちばん手っ取り早かった現実がそこにありました。

しかし、そこで怖いのが性病。昭和の初めあたりのデータですが、性病所有率は芸者が15~6%に対し私娼が10%。「芸は売っても体は売らない」の芸者の性病率が高いのは笑うに笑えないのですが、それに対し遊郭の娼妓の所有率はわずか2~3%*1。性病を持った娼妓は容赦なく隔離&職務停止されるので、2~3%でも遊郭基準では高い方ですが、いちばん危ないところが実はいちばん安全…という言葉にふさわしいですね。

 

話は変わって江戸時代、大坂の色町といえば新町が代名詞でしたが、そのほかにも各地に大小の遊里が散在していました。生國魂神社の近く、ラブホが固まる何やら妖しい某区画もそうだったと言われています。

それが明治初期に一箇所に集結統合され、郊外に追いやられます。それが明治4年(1871)のこと。場所は松ヶ鼻。かの松島遊廓の始まりです。

その翌年、その松島に「駆梅院」という施設の稼働が開始されました。本当は「駆黴院」と書くのですが、ここは現代当用漢字で「梅」に統一します。

「梅」とは梅毒のことで、「駆梅院」とは性病専門病院のこと。松島遊廓のグランドオープンはその翌年の明治6年なので、その前にまず病院を作る…当局も性病の蔓延にはかなり神経質になっていたことがわかります。

 

駆梅院、難波へ移る

駆梅院は松島の端っこ、今の西区の松島公園あたりにあったと言われています、しかしすぐにキャバオーバーになったか、明治16年(1883)に難波へ移転、「府立難波病院」として再オープンします。

といってもしばらくは「駆梅院」と呼ばれていたらしく、明治38年(1905)の大阪府の資料にも「大阪府立駆黴病院」との記載があります。

 

難波病院遊郭

(大阪市街全圖(1916年)より)

難波に移転した後の難波病院は、大阪府下の遊郭の遊女の総合病院として、性病その他に罹った娼妓たちの入院先となりました。おそらく性病検査や、今で言う健康診断もここで行っていたと思われます。

難波病院が何故いわく付きか。それは、ここがあくまで遊郭ではたらく女性のための性病専用病院であり、一般の患者様お断りだったということ。性質上、かなり特殊な病院だったのです。

 

難波病院の位置

複数の地図や資料を参考にした難波病院の敷地を、現在のGoogle mapに落とし込んでみました。

 

難波病院の実情

 難波病院の中、その実情はどうだったのか。

娼妓専用の病院という、誰でも入れるわけではない特殊性からあまり伝わってこないですが、いくつかの資料に断片的に書かれています。

『紅灯ロマンス』という大正時代の本に難波病院について一章が割かれていますが、の中に、

『この病院を参観した者は、庭園の中央に鉄錠を固く下した古井戸を見るであろう』

(原文は旧漢字旧仮名遣い)

 という記述があります。難波病院には学校の中庭のような「庭園」があり、そこになにやら訳ありの『封じられた井戸』があったそうです。

そしてもう一つ。

『又各寮付属の便所数ヶ所の内一ヶ所或は二ヶ所に釘付けになって出入を禁じてある便所を見るであろう』

(原文は旧漢字旧仮名遣い)

 便所には「開かずのトイレ」まであるという、なんとも怖いお話です。『紅灯ロマンス』に書かれた難波病院の話は幽霊話、井戸に飛び込んだり、便所で首を吊ったりする遊女がいて怪談話には事欠かない…というのが話の趣旨なのですが…

 

難波病院遊廓

上述の『大阪市パノラマ地図』の難波病院を限界にまで拡大すると、吹き抜けになっている中庭があったことがわかります。『封じられた井戸』はここにあったのでしょう。 

 

さらに、『松島遊廓の研究』(木村俊秀)という松島遊廓研究者のコラムの中に、一章を割いて難波病院の様子が書かれています*2

それによると、難波病院は七棟、43部屋あり部屋の広さは30~35畳、そこに2~30名の入院患者が寝泊まりするとのこと。一人あたりのスペースは1畳ちょっと…プライベートなんかありゃしません。

3食賄いで1日20銭、朝は味噌汁と漬物、昼夜は煮物などでしたが、味は不味かったそうです。うどん一杯3銭の時の20銭は日当たりとは言えけっこう高い。それで不味いとなると、もしSNSがあったら、なんだこのブラック病院はと炎上不可避。

ご飯は当時「南京米」と呼ばれたインディカ米で、時代的に台湾からの移入*3だと思われます。それが「臭気あるため食慾が進まず閉口する」ほどだったそうな。

「食慾が進まず閉口する」気持ちは非常~~によくわかります。南京米の「臭気」は私も中国広東省で経験しましたが、あのおぞましいほどの激臭を目の当たりにすると、口に移すまでの不快感たるや言葉では表現できません。口にさえ含めばどうということはないのですが…あれに馴れるのには、ちょっと時間が必要です。

 

それはさておき、『松島遊廓の研究』によると難波病院の入院患者は平均で500人前後。すでに書いたとおり、難波病院には大阪府下の遊郭の娼妓が収容されるのですが、そのうち松島の娼妓が300人強。松島は娼妓数・売上・登楼客数日本一、戦前の遊郭三冠王でしたが*4、それだけに性病患者数もケタ違いといったところでしょうか。

それを物語る公的資料があります。

衛生年報難波病院大阪の遊郭

『衛生年報』という大阪府の公的資料で、こちらは明治45年(1912)の統計です。一年間の入院患者7856人中、松島の娼妓が4995人(約63%)とダントツ。ふふふ、圧倒的ではないか我が遊廓は…とギレン・ザビ総帥なら言いかねない。

入院期間は短くて数日、長いと数ヶ月に及び、将来を悲観して自殺する人もいたそうです。それが『紅灯ロマンス』の難波病院怪談話につながるというわけですな。

ちなみに、この遊郭リストを見て少し違和感を持った人がいるかもしれません。

「あれ?飛田は?」

飛田遊郭の誕生は大正7年のこと。誕生までには、あと数年の歳月が必要です。

 

大阪には、「難波病院数え唄」という民謡が伝わっています。

「一つ~ 人も知ってる大阪のところは難波の~病院が嫌で~」

 から始まる調子の唄は、遊女の恨みというか悲しみ、これも運命かという諦めの文言が並び、今でも住吉区・住之江区の盆踊りで歌われることがあるそうです。

難波病院、住吉へ移る

大正13年(1924)、難波病院は難波を離れ、住吉村、現在の大阪市住吉区へと移転します。住吉に移転したのだから名前は「住吉病院」…とはならず、難波病院のまま。住吉なのに難波…なんかそれはちゃうんとちゃう?…という違和感は、当時の人も感じたに違いありません。

 

府立難波病院住吉 

住吉府立大阪病院難波病院(大阪急性期・総合医療センター動画より切り抜き)

上の画像は戦後のものですが、建物は難波から住吉へ移転した時そのままと思われます。建物も病棟5棟と診察棟が竣工し、鉄筋コンクリートの近代的な設備になっています。

移転した翌年、大正13年の予算計上で「難波病院新築移転に伴い需用費に於て金五万五千余円を増加」とあります。今のお金で3億円弱ですが、上のような病院が3億円で絶対建てられないので、単純な「移転のための雑費」かもしれません。

遊郭の遊女専用病院が、なぜここまで「立派」になったのか。

それは人権意識の向上とも関係があったと、私は考察しています。難波時代の難波病院は、記述だけを見ていると、病院というより刑務所か強制収容所。彼女らの親でさえ面会は妓楼主の許可(面会券)が必要なほどでした。

それが大正に入り、全国で廃娼論が持ち上がると同時に遊郭に対する風当たりは強くなり、さらにカフェーという新しい風俗産業があらわれ、娯楽としての遊郭はほぼオワコンでした。

その危機感から、遊郭の改革が始まりました。

一つはシステム。それに革命をもたらしたのが遊郭界にあらわれた超新星、飛田。飛田がすごかったところは何も規模だけではなく、経営システムが他と抜本的に違っていました。一言で表現するならば、既存の遊郭が「商店街」に対し、飛田は「ショッピングモール」。戦前と思われる飛田遊郭の俯瞰図を見たことがありますが、整然と並んだ妓楼の姿に「美」さえ感じ、こりゃ遊郭のイオンモールやわ…と私の仮説が確信に変わりました。この「飛田スタイル」は、のちの今里新地などにも流用されています。

もう一つが、娼妓たちの「働き方改革」。遊郭の管理は都道府県によってけっこうな温度差がありましたが、それが大正~昭和にかけて行政指導により改善されています。中には、奈良県のように警察のナンバー2が妓楼の主に頭を下げ、娼妓たちの待遇改善など遊郭の近代化に努めたところもあります。

明治以前の遊女たちの待遇は、病院でも臭い飯を食わされるほど酷い待遇でしたが、この時代になり彼女たちも「人並」を手に入れたということでしょう。

 

移転の理由は定かではありません。が、だいたいの予想はつきます。

遊郭は基本的に「穢れ」です。性欲は人間が人間として生きていくためには欠かせない本能的な欲なのに、食欲などに比べてあまり良い扱いとは言えません。排泄も欲ならば、遊郭は「性欲のトイレ」と言いかえることができるかもしれません。

昔の日本家屋のトイレは、離れに設けられていることが多かったですが、悪く言えばトイレだけ隔離されているようなもの。「穢れ」を落とすためには隔離しないといけないのです。

遊郭も考え方としては同じで、一部の例外を除いて郊外に作られる傾向にありました。戦前の松島や現在も位置が変わらぬ飛田も、作られた当時は市街地から遠く離れたド郊外でした。

しかし、大正後期になると大阪の市街地が急激に広がり、"TGO"への序章が始まります。と同時に、ネギ畑ばかりしかなかった難波近辺も市街地化し、「穢れ」である難波病院も、遊郭と同じく郊外へ移転せざるを得なかったのでしょう。

あとは、「遊郭界の木星」こと松島と同じ市内に、「土星」こと飛田が出来た事情で娼妓の数が爆発的に増え、難波病院が急速に手狭になった事情もあったことは、飛田遊廓の発展を数字で追えば容易に想像ができます。

 

戦前を通して遊郭の娼妓、そして性病専用の病院として機能した難波病院ですが、戦争終結により公娼制度は廃止、同時に遊郭も全廃されます。といっても赤線として現実は継続したのですが、それは横に置いておきましょう。

それと同時に難波病院は役目を終えます。といっても廃院になったわけではなく、一般客の受け入れを開始し性病専門という看板も外し、「めっちゃふつうの病院」になっただけですけどね。

 

 

難波病院跡のその後

大正13年7月に住吉に移転した難波病院ですが、跡地はどうなったのか。

 

難波病院浪速区役所

(大阪市街全圖(1928)より)

浪速区役所になっています。現在でも同じ位置に区役所がありますが、他の地図や昭和17年の航空写真を見ると跡地すべてが区役所に…というわけではなさそうです。

 

難波病院が住吉に移転した3ヶ月後の10月、山田晁(あきら)という人物が難波に小さな町工場(大阪金属工業)を建てました。現在のダイキン工業なのですが、

時代の先を行き過ぎた!?とある企業の珍製品「電気手拭機」

ダイキンが戦前に作った珍製品の記事の執筆のため、図書館でダイキンの社史を読みあさりました。そのときの創業の地の位置に、私の頭の上に「!!!!」が炸裂しました。

あれ?難波病院の跡地やん??

ダイキンの社史の地図がいささかざっくりなので断定はできないのですが、難波病院のすぐ近くか敷地内なのです。難波病院の敷地の広さを考えると、払い下げられた府有地の一角を大阪金属工業が工場として利用した…そんな仮説が成り立ちます。もう少し精査が必要ですが、難波病院がダイキンに…と思うと胸が躍ります。

 

難波病院の現在

上述したとおり、難波病院は戦後すぐの1946年「府立大阪病院」に改名し、「ふつうの病院」として再スタートしました。元の性質上、最初は性病・泌尿器科を得意としていたそうですが、のちに数々の診療科を併設し総合病院としての道を歩みました。

 

大阪急性期・総合医療センター

ホームページより)

そして現在、「大阪府立病院機構 大阪急性期・総合医療センター」として難波から住吉に移転した場所に現存しています。

 

遊廓が「穢れ」だったと述べました。その間接的な証拠に、「穢れ」に携わったとして遊郭の関係者が一様に口を閉ざすことが多いことが挙げられます。自分が関係者だったこと、そして該当エリアが色里だったことを隠し、そのまま風化して黒歴史化を待つ人が多いのも事実で、「新地もん」と小学校でいじめられたという妓楼の子息の話も聞いたことがあります。なので、隠そうとする、傷ものなので触れてくれるなという人の気持ちもわからないでもない。

大阪急性期・総合医療センターはどうなのか。

 

PR動画で松島の駆梅院が発祥という紹介をしており、黒歴史化していないようです。遊郭を知らない人がこの動画を見ると、

「楳毒院(=駆梅院)って何じゃそのおどろおどろしい名前は!?」

と一抹の不安を覚えるかもしれませんが、きちんと理解すればどうということはありません。

遊郭はなくなりましたが(とも言えないけれどそれはおいといて)、それをルーツに持つ病院は、フルモデルチェンジして今日も大阪の医療の最前線に立っています。

 

==こんな記事もあります==

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

*1:『軍隊を誘致せよ: 陸海軍と都市形成』松下孝昭著より

*2:法律新聞 大正5年9月13日付

*3:台湾は外地扱いなので、輸入ではなく移入

*4:妓楼数は吉原・洲崎遊廓に及ばず3位(昭和12年)