昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

君は、日本初の冷房車を知っているか

非冷房車があった頃

 

f:id:casemaestro89:20180508162305p:plain

冷房がついた電車・・・今の時代、そんなものはついてて当たり前の時代になりましたが、昔は「そうじゃない時代」もありました。 

私が小さい頃の昭和50年代、母親に手を引かれて祖母の家へ行っていた時のこと。

当時の住まいは南海沿線だったのですが、祖母の家が阪和線沿線だったので、羽衣で下り東羽衣から阪和線の支線(羽衣線)へ。鳳から阪和線に乗り堺市で下車。そこからタクシーで向かっていた記憶があります。

途中からタクシーがなくなり浅香から徒歩となったのですが、ああ家の経済状態が悪くなったんだなと、大人になって悟ったこともあります。

 

ちょっとここからは鉄分が豊富な話になりますが、当時の冷房率は南海の方が断然に上でした。当然、南海も非冷房車はあったのですが、それ以上にヤバかったのが阪和線。快速(主に113系)には冷房車があったものの(それでも冷房車率100%だなんて誰も言ってない)、各駅停車の103系はほとんど非冷房。真夏でも当然容赦なく、天井に扇風機が回っているだけ。たま~~~に冷房車に当たると、ガッツポーズをして喜んだものです。

それから30年、今の阪和線の新型車両てんこ盛りぶりと、関空アクセスラインとしての優遇っぷりを見るに、あれは阪和線の暗黒時代だったのだなと感慨無量です。

 

さて、日本で初めての冷房車はどこが作ったのか。

 

南海電鉄難波駅

大阪南部の私鉄の雄、南海電鉄です。

何かとガラの悪い泉州と河内を走る私鉄ということもあって、「南海もなんだかガラが悪いよね」と風評被害を被っている感がなきにしもあらずの鉄道会社です。

ところが、日本初のトイレ付き長距離電車を走らせたり、戦前から国鉄への乗り入れを行ったり、関空特急の「ラピート」のようなクレイジーな(←褒めてます)デザインの電車を走らせたりと、意外にも斬新なことをやっている攻撃型の私鉄だったりします。

そんな南海が、過去に攻めの姿勢で投入したエース候補が、冷房車でした。

 

日本初の冷房車

南海電鉄の母体となった今の南海本線の設立は1884年(明治18)。実は創業130年の「現存する日本最古の私鉄」なのですが、最初は難波~堺間の開業でした。
大阪南部の玄関口となり、今でこそ常時人大杉警報発令中の難波駅界隈ですが、開業当時は
「人家は多少あったが多くは葱(ねぎ)畑だった」
(『開通五十年』-国会図書館デジタルコレクション所蔵 1936年南海鉄道編纂)
という有様でした。

 

明治時代難波周辺地図

(大阪圖-1872年。この12年後に南海と難波駅が開業)

 

駅開業前の地図を見ても、今の喧騒ぶりが夢幻のような「何もない」っぷりです。むしろ右隣の南北に延びる赤線の部分(今の堺筋とでんでんタウン)の方が、「訳あり地区」だけれども全然栄えていました。
難波近辺は昔からネギの産地で、ネギのことを八百屋用語で「なんば」と呼ばれていたほど広く知られていました。
ネギがのった「鴨南蛮」「カレー南蛮」などの「南蛮」は、「なんば」が訛ったもの、あるいは聞き間違って伝えられたものと言われています。
現在の和歌山市まで開通したのは1903年(明治36)、日露戦争寸前の頃ですね。

 

昭和に入るまでは、大阪~和歌山間を結ぶ鉄道は南海一本のみ。旅客も貨物も独占していました。南海ウハウハ、我に敵なしと完全に胡座をかき鼻くそをほじくっていました。
が、昭和に入り強敵が出現します。それは天王寺~和歌山を結ぶ阪和電気鉄道(阪和電鉄)、現在のJR阪和線です。

計画上の和歌山側ターミナルは、当時の繁華街寄りだった和歌山市駅に作る予定でした。当然南海はお・こ・と・わ・り。
和歌山市駅を「出禁」になった阪和電鉄は仕方なしに、当時は「東和歌山」という辺鄙な省鉄(国鉄)の田舎駅にターミナルを作らざるを得ませんでした。それが今のJR和歌山駅です。

 

すでに人口密度が高い紀州街道沿いを南海に独占されていたので、阪和電鉄は人なき原野を突っ走る暴走電車を運転し、阪和間の高速移動を売り物にしました。所要時間はノンストップで45分。

 

f:id:casemaestro89:20180507204345j:plain
それが、今でも鉄道マニアの間で伝説となっている「超特急」です。
今でこそ特急「くろしお」が同じ区間を42~44分(2018年5月現在)で走っているので、「阪和間45分」なんて大したことないじゃないかと思うかもしれません。
しかし、よく考えて下さい。今の特急車両の性能をもってしても42分です。80年前に45分で走らせた自体、気が狂っているんじゃなかろうかというレベルです。

 

南海もスピードで対抗しようとしますが、元々人口密度が高いところを縫うように建設しているため、阪和の45分に対し、南海はどれだけ飛ばしても60分が限界*1。真正面からスピード競争に挑むと、「堕ちろ蚊トンボ」と撃墜されるのは南海の方。赤い彗星抜きでリアル通常の3倍のスピード(推定)で爆走されたら、「ええい、阪和の超特急は化物か」と嘆きの一つも言いたくなります。

かといって、老舗の暖簾を下ろし新参者に白旗を振るつもりもない。
まだだ、まだ終わらんよと南海が繰り出した阪和電鉄殺戮兵器が、日本史上初の冷房車だったわけです。

 

冷房車とは具体的にどんなものだったのか

 

日本初の冷房車は、1936年(昭和11)7月に誕生しました。この5ヶ月前に東京で二・二六事件が起こっています。

 

f:id:casemaestro89:20180507211800j:plain

(昭和11年7月9日 大阪朝日新聞)

試運転が行われた当時の新聞記事が残っています。

貴重な記事なので、チョー面倒くさいけど下記引用します。

 

こんどは冷房電車ー省線の「食堂車」よりお先に

きょう南海で初めての試運転

いよいよ盛夏のころを迎えてお芝居でもデパートでも流行の冷房サービスに汗だくだが、こんどは「冷房電車」があらわれて日本最初を誇っている。

南海鉄道がこのほど大阪金属工業会社に委託して設備した一両がそれで八日午後二時二十五分から難波・和歌山間で試運転を行ったが成績まづ良好、だいたい車内の温度は外気より五、六度低くなり、これなら外気三十五度盛夏の時分でも満員電車の中で二十七度の爽涼さが楽しめるだろうと……。

設備は車の床下に二十馬力の冷凍機をとりつけ、コンデンサーで窒化メタンを高圧液化させ、これをパイプで屋根裏の四ヶ所に分配、膨張弁を通して得た低温空気を車内にファンで送りこむ。気化したガスはまたコンデンサーへという循環をくりかえすもので、車内温度が二十三度に下ると自動的にスイッチが切れるようになっている。

電車一台に設備する費用ざっと一万五千円というから安くない*2。南海では成績次第ではもう少し作ってもいいような話だがこの中旬には実際に使用するというから鉄道省がいま食堂車にとりつけている冷房装置よりもひと足お先にお目見得するわけ。

なお車両の冷房装置は現在満鉄の列車が蒸気式のものを採用しているだけで全国にも例がない。世の中はだんだん便利になる。真夏の電車に乗っても『みなさん窓を開けないで下さい』という貼紙が見られるようになった。

 

※スマホコピーした非圧縮の記事を間違えて圧縮上書き保存してしまったので、文字が判別不能になっちゃいましたが、ブコメ欄で指摘していただいた方、ありがとうございます。

 

f:id:casemaestro89:20180507214654j:plain

これが日本初の冷房車の有名な写真です。
制御車一両に冷房装置が組み込まれ、車掌室に空気冷却装置が設置されました。電源は隣の車両(電動車)から供給という形です。
冷風は車両の屋根中央部に設けられたダクトによって、車内の数ヶ所に吹き出す構造となり、客室から車掌室に空気が戻るように設計されました。また、新聞記事にも書いてあるとおり、車内温度が23℃を下回ると自動的にエアコンが切れる原始的なセンサーまで搭載していました。

 

上の写真の肝心の屋根の部分が白くなって見えないので、こんな写真は如何でしょ。

 

f:id:casemaestro89:20180508114922j:plain

(出典:『南海電鉄のひみつ』)

 屋根の上に、今とあまり変わりない冷房装置が設置されているのが、うっすらと見えると思います。また、全面から屋根に向かってダクトが伸びていることもはっきりわかります。

 

南海日本初冷房車内

(出典:『ダイキン50年史』)

これが実際の車内です。冷房車は特急・急行用だったので今でいうセミクロスシートです。

 

南海日本初の冷房車

(出典:『ダイキン50年史』)

赤で囲んだ窓のところに、何か貼られています。これは冷房車という初の試みに、

「窓を開けぬようお願いします」

と窓に注意書きを貼っているのでした。

  

試運転が好調だったので、7月19日から営業運転に入りましたが、冷房車に改造された車両自体が大型モーター搭載の電気代キラー。その上さらに電気を食う冷房装置がフル稼働なので、電気代が「ものすごいこと」になったそうです。
「これやったら乗客全員にコーヒーおごりの方が安上がりやわ!」
ある役員は、こう嘆いたといいます。

また、冷房車の好評ぶりはある弊害も起こしました。乗客が非冷房車に乗らず冷房車の到着を待ち、ホームに人があふれてしまったのです。冷房車が来ても車内は乗客ですし詰めとなり、かえって非冷房車より暑かったという伝説も残っています。

 

冷房車というだけでも当時はかなり画期的な試みでしたが、南海の冷房車は3つの意味で画期的でした。

1.私鉄が自己資本(持ち銭)で搭載したこと

2.特別料金不要の一般車両に搭載したこと

3.「電車」に搭載したこと

日本初の冷房車というけれど、細かく分けると3つの意味で日本初だったのです。

 

・・・と、ここまではちょっと検索すればすぐ出てくる話です。逆に言えば、これ以上の情報は、ググった程度では出てきません。
ネットでは出てこないもの、それは冷房のスペック表。つまり仕様です。

 

1.圧縮機
形式:A-1000 V型
容量:20冷凍トン

気筒数:6

回転数:350回転/分

電動機:直流直捲(ちょっけん)式 600V 15kw 1400回転/分

 

2.凝縮器および送風機

1)冷却方式:空冷にして送風機で強制通風を行う。しかし、その補助として空気冷却器において生じた凝縮水をこれに導き、注水するようになっている。

2)送風機:多翼型 電動機 600V 3.75kw  2000回転/分

 

3.空気冷却器

二組あって一組6個の蒸発器からできていて、各組1個ずつガス濾過器、感温膨張弁を備えている。

 

4.室内送風機

形式:多翼型 800回転/分

電動機:600V 37.5kw 2000回転/分

 

5.冷媒ガス

メチルクロライド(CH3Cl)*3
(『南海鉄道株式会社 電車の空気調整装置』昭和12年5月 電気協会関西支部発行)

エンジニアではない私のような人間が見ても、何がなんだかさっぱりですが、歴史学的にではなく工学的に日本初の冷房車に興味を持っている人には、この仕様が何かの役に立つかもしれません。

 


冷房車を製造した会社とは?

この冷房車を作った会社は一体どこなのか。
当時エアコン製造の大手であった荏原製作所や日立製作所、外資系ではなく、大阪金属工業という地元のベンチャー企業でした。
大阪金属工業は1924年(大正13年)創立の小さなメーカーで、南海の冷房の製造を受け持った時は、まだ10年ちょっとのキャリアしかありませんでした。
ガリバー日立などに比べると、まだ発展途上の会社でしたが、冷媒を利用した冷却装置の国産に初めて成功し、『ミフジレーター』冷凍機として全国に売り出した、これから伸びつつある企業でした。
そんな野心あふれる企業が、電車に冷房を載せてみませんかという試みに燃えないわけがありません。客車空調なら1929年にアメリカに先例があるとは言え、「電車」はもしかして世界初の試みじゃなかろうかと思います*4

 

そんなチャレンジャー、大阪金属工業という名前は、現在我々が耳にすることはありません。しかし、倒産したわけでも、どこかに吸収合併されたわけでもありません。

 

 

 

 

大阪金属工業ダイキン南海冷房
大阪金属工業?どこそれ?と思っても、「ダイキン」と言えば、日本国民ほぼ全員、膝を叩いて納得すると思います。そう、「大阪金属工業」とは今のダイキン工業のことなのです。属工業、略して「大金」と昔から言われていたのでしょう。

「大阪金属工業株式会社」が「ダイキン工業株式会社」に社名変更したのは、東京オリンピック開催前年の1963年(昭和38)のことでした。
ちなみに、中国語でダイキンは「大金」と書き、大阪金属工業だった名残がわずかに残っています。

南海とタッグを組んだダイキンは、冷房車の成功がよほど誇らしかったのでしょう。公式HPの沿革にも、「日本初の電車冷房はうち製やで~( ̄ー ̄)」と胸を張って掲載されています。

 

 

戦前の冷房

エアコンと言えば、戦後に発明されたものだというイメージが強いと思います。確かに、一般に普及したのは戦後です。高度経済成長時代の「三種の神器」の一つとしても有名でしたね。
しかし、エアコン自体は戦前、いや19世紀から存在していました。
冷凍機(冷却機)を使って冷風を発生させる現在の方式だけでも、日本だけ取り上げても実は大正時代からあったりします。

1921年(大正10)日本興業銀行本店に日本初の完全冷房を実施
1922年(大正11)帝国人絹広島工場に設置
1923年(大正12)小田良治*5邸に個人宅として初めて冷房を設置
(出典:http://www.pu-kumamoto.ac.jp/~m-tsuji/kougi.html/jyuu.html/jyuu10.html/jyuu1005.pdf

鉄道車両も、南海以外にも「あることはありました」。

 

満州国あじあ号

f:id:casemaestro89:20180508230235j:plain

(上の写真のカラー化)

f:id:casemaestro89:20180508225630j:plain
有名なところでは、満洲国になりますが、特急『あじあ』号が冷暖房完備だったことは有名です。
『あじあ』に採用された冷房装置は「キャリア式」といい、蒸気機関車から蒸気を取り、その気化熱で冷気を出す米国のキャリア社の特許でした。蒸気の気化熱で涼を取る方法は、古代ギリシャやインドの文献にも記載があり、古代ローマ帝国では実用化されていた原始的な冷房でした。

 

また、省鉄こと国鉄の特急『燕』『鷗』の食堂車に冷房が積まれていたことも有名です。

 

f:id:casemaestro89:20180507205156j:plain


戦後の写真ですが、これが冷房付き食堂車です。
『燕』の冷房は「川崎式」といい、川崎造船(後の川崎重工)が開発したものでした。
列車の車輪から動力を取り、ベルトを通してコンプレッサーを作動させるという、これもこれで原始的なシステムでした。
このシステムは構造が複雑ではなく動力も車輪から取るので電気代ゼロ、その上取り付けも簡単でローコストだと当時の鉄道省が食いつき採用されました。

しかしこの装置、風力は車輪の回転数に比例するという、致命的な欠点を持っていました。35km/h以下では作動せず食堂車は低温サウナと化し、全速力で走っている時は逆に冷蔵庫の中にいるほど寒かったそうです。
「川崎式」の機械工学的な解説は下のリンクにあるのでどうぞ。

http://pcdc.cho88.com/HP/meca/kmdrive/kmdv.htm

 


対して、南海の冷房車は冷媒を使ったものでした。
技術的なことは省略しますが、これの最もすぐれていたところは、大雑把ながら温度調整が出来たというところ。キャリア式、川崎式は当時それができなかったのです。
この冷媒式は、現在鉄道に搭載されているエアコンのご先祖様のようなもので、基本構造は今の電車冷房とほとんど変わりありません。

 

なお、省鉄の『燕』などに搭載された冷房は南海より早かった、つまり日本初は「省鉄」の方という説もあります。
確かに、省鉄も昭和11年に試験運用はされているのですが、それでも8月からです。この時のエアコンは荏原製作所製だったそうですが、不具合多発で使い物にならなかったらしく、本格運用は昭和12年、上述した川崎式が運用されるのは翌13年から。「営業運転」は南海の方が早いのです。上の新聞記事に「省線の「食堂車」よりお先に」と書いてあったのは、そのため。



f:id:casemaestro89:20180507222939j:plain

(昭和12年8月3日 東京朝日新聞)

 ガセネタ乙と言われないよう、いちおう証拠を提示しておきます。

 

現在の冷房車は?

南海の冷房車に関して、こんな資料があります。 

昭和11年南海冷房車温度調査

 (出典:『ダイキン工業50年史』『南海電気鉄道百年史』)

冷房車が営業運転を開始して一週間後に調査された、冷房車と非冷房車の温度・湿度比較です。純粋な「気温」は、乾球の方の温度を見ていただければ結構です。
あいにく、当日の現地の天気が掲載されていないのですが、ありがたいことに気象庁には残っていました。
昭和11年7月26日の大阪の気候は、
・天気:晴れ

・降水量:0mm
・最低気温:23.8℃
・最高気温:33.1℃
・風向/平均風速:西/2.5m/s
(※湿度の記載はなし)

となっていますが、表の非冷房車の温度と気象庁の記録が33℃と一致しているので、資料的に間違いないと思われます。

この表を見れば、冷房車がかなり涼しかったことがわかります。

 

これを、現代の冷房車と較べてみます。
現在の首都圏の冷房の設定温度は以下の通り。下線を引いているものは、会社HPに書いてある公式回答です。

・26℃(弱冷房車は28℃):東京メトロ・首都圏の私鉄のほとんど
・23~26℃(同26~28℃):JR東日本(路線によって違う)
・25℃(同28℃):都営地下鉄
・22℃(同24℃):都営大江戸線

 

一方、関西では、

 

・26℃(弱冷車28℃):南海京阪
・26.5℃(同27.5℃):阪急
・27℃(同28℃):阪神大阪メトロ*6
・28℃(同29℃):近鉄
・25~27℃(同26~28℃):神戸電鉄
・26℃(弱冷車なし):京都市営地下鉄
・車両・路線によって違い、23~26℃(同25~29℃):神戸市営地下鉄

・「時と状況によって変わるので」とノーコメント:JR西日本*7

 
こうしてまとめてみると、関東はほぼ26℃デフォルトで横並びなことがわかります。
この横並びっぷりは、「お客様の反応をまとめた結果、26℃が最適と判断しただけ。ただの偶然」(by東急電鉄)だそうですが、東京は地下鉄を経由した複雑な相互乗り入れがあるので、逆に横並びにしないと混乱してしまうという事情があると思います。


対して関西は、けっこうバラバラ。
京阪は、「27℃:暑い!25℃:寒い!という声が多かったので、なら中間取って26℃」という設定基準。26℃は良い塩梅の適温のようです。阪急もしばらく26℃だったのですが、近年0.5℃上げました。

今は車両の至るところにセンサーが設置され温度をコンピュータ制御で微調整しており、乗務員の負担を軽くしているそうです。それゆえ、「お客様に『暑い』『寒い』と車内で言われても新型車両はマニュアル調節できませんww」(by某関東私鉄)という弊害も発生しています。
さらに、最近の新型車両には強力な除湿機能がついており、除湿だけの運転も行っています。

 

戦前の話に戻すと、表に挙げた南海の冷房車の温度を見ると、平均は24.3℃。最低が23℃となっていますが、これは相当寒いと思います。
近鉄が試しに25℃にしたことがあるそうですが、寒いやんけ!というクレームが殺到し、慌てて2℃上げたそうです。
25℃で「寒い」のだから、23℃とかだとカーディガンが要るんじゃないか!?というほどの体感温度かもしれません。


が、「乗客が冷房車に殺到して、非冷房車より暑かった」という伝説が今に残っています。これは果たして本当なのか。
上の現在の電車の設定温度を見ると、トンネルの深さの都合などで低くしている都営大江戸線・神戸市営地下鉄以外にも、JR東日本に「23℃(寒」に設定している路線があります。

これは混雑率が特にひどい埼京線・中央線だそうで、山手線・京浜東北線はおおむね24~26℃だそう。JR東日本の出典は孫引きなので、信憑性はなんとも言えないですが、大阪の大混雑路線である地下鉄御堂筋線はラッシュ時に24℃にしていると、大阪市交通局時代に公式に回答しています。
つまり、「超満員」だと23~24℃でちょうどいい塩梅と、冷房バンザイの現代社会でもみなしているということ。「非冷房車より暑かった」はまんざらオーバーでもなかったようです。

 

 南海夢の「量産型冷房車計画」

アメリカには7年遅れたものの、南海が導入した冷房車はすこぶる好調でした。
スタート当初はお試しの制御車一両だけだったものの、翌年には一気に4編成分(8両)を冷房化、主に特急に導入され「冷房特急」の名がつけられました。

これに焦ったライバル阪和電鉄は、車内に大きな氷を置いて涼を取らせたり、冷たい水の無料サービスを行っていたと乗客の回想に出てきます。ただし、公式資料には何も書かれていないので、真偽のほどはわかりません。

 

当時は南海の難波と阪和電鉄の天王寺から国鉄に直通する、白浜行きの「黒潮号」が運転されていました。JRの特急「くろしお」のご先祖様です。

 

f:id:casemaestro89:20180508201917j:plain

目的地は同じなので、客サイドから見るとどっちに乗ってもいいのですが、南海は冷房車を連結させ、「冷房黒潮」としてアピールしたのに対し、阪和はいつもの「暴走超特急」に連結させ阪和間45分。さてどちらに乗りますか?と両者は必死の客の奪い合いを繰り広げていました。

 


予想外の好評ぶりに調子に乗った南海は、冷房標準装備の流線型電車量産計画を立てました。

 

f:id:casemaestro89:20180507224121j:plain

(昭和11年7月9日 大阪朝日新聞)

冷房車の試運転の新聞記事にも、「冷房完備の流線型電車作っちゃおうっかなー♪」なんて口を滑らせて(?)いますが、どうも翌年には「本気モード」になったようです。


さらに、バスにも冷房車を投入するという前提で、実験まで行っていました。

 

f:id:casemaestro89:20180507141448j:plain
ダイキンHPより

ダイキンの公式社史には、「1937年【日本初】バス内に冷房を納入」と書いていますが、どこに納入したかまでは書かれていません。
しかし、ダイキンか南海の公式社史に、「バスにも冷房を導入すべく実験を始めた」とかなんとかの記述がありました。ダイキンHPの記載は、おそらく南海で当たりでしょう。
歴史好きや鉄道マニア的には、南海の冷房電車など今さら何を言っているんだ的な知識ですが、バス冷房チャレンジは初耳でした。なのでこりゃネタになるわと該当ページをコピーしたはずなのですが、どこでロストしたのか手元には残っていません。気になる方やヒマな方は、大阪府立中之島図書館にあるダイキン・南海の社史をしらみ潰しに当たってみて下さい。どこかに書いています(震え声
ただし、「日本初の量産型冷房電車」となるはずだった流線型電車は戦局の悪化でボツとなり、バスの方も同じ理由で実験倒れに終わったはずです。だから「納入」なんだと思います。ダイキン目線では、確かに「納入」はした、あとは知らねーですから。

 

しかしまあ、南海の「流線型」の電車とはどんなものを作ろうとしていたのか・・・と想像してみると、

 

f:id:casemaestro89:20180507224759j:plain

インパクトが強烈だからか、どうしてもラピートが頭に浮かんでしまいます。

もしかして、ラピートは60年前にボツになった「流線型量産型冷房電車」の焼き写しなのかもしれない・・・ってそれはないか。


南海よ、目の付け所は非常に良かったのだけれども、時代が・・・ただ投入した時代が悪すぎた。

 

冷房車の結末

地元のベンチャー企業と組んだ南海の野心的な賭けは、成功を収めたかに見えました。
しかし、一民間企業ではどうすることもできない歴史の大きな渦が、鉄道史の名車となるはずだった南海の冷房車を、「悲劇の迷車」に陥らせることとなりました。


1937年(昭和12)の盧溝橋事件に始まった支那事変(日中戦争)の泥沼化は、国民の生活にも徐々に影響を及ぼすこととなりました。
上に書いたように、冷房車は好評につき昭和12年には4編成分を改造し、本格運用させました。
「幻の量産型冷房電車」も製造するはずだったのですが、昭和13年に


軍部「贅沢じゃ、資源の無駄遣いじゃゴルァ!」


とクレームが入り、わずか2シーズンで終了となりました。冷房は非常に電気を食ったため、その分をお国のために回せということです。
戦争によって潰された「南海冷房王国」の夢。悲しいけど、これ戦争なのよね。

 

その1年半後の昭和14年8月30日、山本五十六が連合艦隊司令長官(以下GF長官)となります。
それと南海がどういう関係があるねんと思われるかもしれませんが、当時連合艦隊は新長官を迎えるべく、和歌山沖で待機していました。
それに合わせ山本は特急『鷗』の一等車で東京→大阪へと向かい、大阪で一泊後、南海電車を使って和歌山まで移動しています。
歴史のIFではありますが、もしこの時に冷房車が生きていれば、南海の目玉商品である冷房車を、是非GF長官に満喫していただこうとサービスを提供し、山本のことなので何らかの感想を遺していたことでしょう。GF長官のお墨付きをもらおうものなら、南海冷房車ブランド価値は最高潮に達すること間違いなし。
ちなみに、南海ではGF長官の移動に貴賓車が使われたと阿川弘之の『山本五十六』に描かれていますが、南海の公式資料にそういう記載はありません。

 

しかし、ここまで読むと、あれ?と思う人がいるはずです。
私鉄には「贅沢なんじゃゴルァ!」と冷房を中止させておいて、鉄道省は12年に冷房を設置しています。それも、昭和17年まで使われていたとか。
その理由は簡単。「自分たちも使う(可能性がある)から」。官尊民卑がひどかった戦前とは言え、民には我慢しろと忍耐を強制しておきながら、官の贅沢は見なかったことにする理不尽体質は、現代でもあまり変わらないですね。

 

その後は対米戦争に入り、南海も国策で合併させられたり、空襲で多数の車両が戦災に遭ったりと踏んだり蹴ったりでしたが、近鉄から分離した昭和22年から血流(金の流れ)が急に良くなり、V字回復していきます。

冷房車となった車両は、装置が取り外された後も廃車になることなく、1960年代まで走り続けました。しかし、これらに再び冷房がつくことはなく、南海のその後の冷房車は、昭和36年(1961)製造の「こうや号」こと20000系まで待つこととなります*8ただし、自信がないので間違っていたら指摘してやって下さい。

 

 すべての冷房車は南海に通ず

南海が満を持して登場させた日本初の冷房車は、戦争という大きな激流の前に悲劇的最期を遂げました。

しかし、この冷媒式電車冷房はその後の鉄道冷房の標準スタイルとなりました。戦後の電車冷房は昭和32年の近鉄特急から始まり、34年の「日本初の量産型冷房車」が名古屋鉄道に誕生、関東では京王が積極的に冷房化に取り組んでいました。今では日本の民鉄の冷房化率は99.9%(日本民営鉄道協会の資料より。予備車を除く)となっています。

そんな彼らも、元をたどると南海に行き着きます。南海の冷房車は中止という理不尽に耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、後世のために太平を開いた、現在の冷房車すべてのご先祖様と表現することができます。今我々が、夏の暑い時にも快適に電車で移動できるのも、すべてはこの短命に終わった「迷車」のおかげなのです。

「すべての道はローマに通ず」という諺がありますが、日本の鉄道車両史・技術史においては「すべての冷房車は南海に通ず」と言って良いでしょう。

そんなことを知ってか知らずか、今日も南海電車は黙々と走り続けています。

 

 

*1:現在の特急「サザン」でも所要時間はほとんど変わらず。

*2:当時の総理大臣の年俸が8600円なので、冷房取り付け料は首相の給料二年分なり。

*3:死なない程度の有毒で発がん性もあるので現在では劇物扱いとなり、冷媒としては法律により使用禁止。

*4:私が知っている限りの海外の冷房「電車」は、1941年のアメリカ。

*5:明治~昭和に活躍した実業家。

*6:市営地下鉄時代の回答。混雑する朝夕の御堂筋線や先頭・最後尾車両は24~25℃にしていることもあり。

*7:ただし、弱冷車はそうじゃない車両より1~2℃上とのこと。また、個人が計測したらだいたい25℃だそうな。

*8:20000系の冷房はダイキンではなく東芝製。