昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

大阪の「中華街」 後編ー川口を歩く

 時間が空いてしまいましたが、以前、大阪市西区の川口に戦前、「中華街」があったことを記事にまとめました。

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

前編はその歴史の概要を書きましたが、今回はフィールドワークと実際に川口を歩いてみました。その繁栄は空襲で灰と化したと言われていますが、もしかして、カケラでも残っているかもしれない、そんなわずかな期待を込めて。

 

 

周辺の中華料理屋

 

大阪川口中華料理屋

大阪川口北京料理

川口を南側から歩いてみると、何軒かの中華料理屋が目に入りました。
川口周辺には、中華料理屋がいくつか存在しているのですが、そろって川口華商たちの故郷である北京(華北)料理…。
訪問したのが正月で閉店していたため話は聞けなかったですが、「大阪DEEP案内」さんによると、中華街にあったという中華料理屋の子孫とのこと。

前編では、
「川口中華街は貿易拠点であり、美味い中華を食う所ではなかった」
と書きましたが、
「大正初年頃よりは東海楼・天華倶楽部等の料理店が中国人により経営せられ、町には華僑の店が頗(すこぶ)る多く」
と西区の公式史書にあり*1、川口には数軒の本格的中華料理レストランがあったことが判明しています。

『事変下の川口華商』には、
「(川口には)料理業者として東海楼、天仙閣、大東楼、天華倶楽部等あり、その他簡易食堂式のものが三軒ほどある」
 

とあり、

 

1938大阪市電話帳
昭和14年(1939)の電話帳でも確認できました。『事変下~』にある「簡易食堂式」のものは、電話帳には見当たりませんでした。

 

 

昭和13年大阪川口東海楼北京料理
こちらは昭和12年(1937)の「東海楼」の広告。


「美味い中華を食いたければ川口へ行け」
戦前の大阪では、こんな言葉があったそうです。
中華といっても北京料理ですが、川口の中華レストランはそもそも大陸から来た商人のためのはず。客も川口華商か中流以上の日本人、特に中国人の舌を満足させる必要があるので、コックを大陸から呼び寄せたりと、かなりのクオリティだったのだと思われます。

 

厳密に言えば川口ではないものの、これらの中華料理屋も川口華商の繁栄の残滓といえるのかもしれません。

 

川口を歩く

 

大阪川口本田

川口の中華街は、中央大通りより北のエリアです。
現在でも国道172号線が本田地区を串刺しするように走っていますが、川口華商たちが行き交っていた時代も本田のメインロードでした。

 

昭和16年大阪川口華商

前回に出した、昭和16年(1941)の川口の風景です。
長いワンピース風の中国服を着た母子が道を渡ろうとし、大阪市電(路面電車)が道の真中を走っています。
写真奥の左側にうっすら見える四角い大きな建物は、現在でも残る住友倉庫の上屋です。

 

大阪川口住友倉庫

住友倉庫はコンクリート製で味気なく、外見だけはレトロ建築愛好家の興味をそそるものではありません。しかし歴史は意外に古く、昭和6年(1931)築です。なので上の写真の時には既に存在していたということ。


戦前の写真の場所は昔の地図から判明しているので、定点撮影を試みました。

 

大阪川口

同じような角度で撮影してみました(2019年)。めちゃわかりにくいですが、左側の高層マンション手前に先っちょだけ出ている白い建物が、住友倉庫です。

 

大阪西区川口

歩道橋からも撮影してみました。

 

 

唯一の行桟の遺構? 

 

日本聖公会川口基督教会
川口にある教会です。

これは「日本聖公会川口基督教会」(登録有形文化財)といい、竣工は大正9年(1920)です。「居留地時代の遺構」と書いている人もいますが、既に居留地としての機能を失い、中華街となっていた頃に建てられたものです。

しかし、今回のメインはこれではありません。

 

大阪川口アパート行桟

教会の向かい側には、こんな香ばしい建物が並んでいました。
川口華商の拠点だった「行桟(ハンサン)は、2階建てのアパート形式だったと文献にありますが、これはまさにビンゴ。
建物の構造からして大正末期~昭和初期のものなので、川口華商が活躍していた行桟の残骸に違いない。
正式名称はないようですが、これを「川口アパート(仮称)」と名付けましょう。

 

1948年大阪市西区川口空中写真

1948年の航空写真です。位置が変わっていない本田小学校を目安にすると、空襲でけっこうなエリアが焼けていることがわかります。

大阪市西区川口アパート航空写真

そんな中、「川口アパート(仮称)」が現在と同じ位置で写っていました。

 

事変下の川口華商行桟リスト
「川口アパート(仮称)」があったかつての住所は川口町。行桟と仮説を立てると、旧川口町にあった行桟は「公順桟」「永信桟」の二つ。ここのサイトによると「川口アパート」の建築年は大正10年(1921)ですが、「永信桟」の設立は昭和7年なので除外。よって「公順桟」一択となります。

 

大阪川口行桟川口華商

 

大阪川口華商建物

長屋風洋風建築とも言えるこの建物は、現存するだけでも9~10個の玄関があり、行桟と仮定してもかなり大規模だということがわかります。
「公順桟」は店員数30名、抱える華商数40、行桟としては3~4番目の規模の「大行桟」です。「川口アパート」の大きさに収まるでしょう。
「永信桟」は「公順桟」と同住所になっているため、「公順桟」の建物の一部を間借りしていたと推定できます。

この「川口アパート」、今でも個人宅ではなくオフィスとして使われていることからも、見方を変えれば現代に残るただ一つの現役行桟かもしれません。

 

 

大阪川口安治川岸

川口の安治川岸です。ここがかつての居留地の船着場で、今でも上屋(倉庫)が立ち並んでいます。
かつては川岸に、大型船が入れないために小舟のみだったものの、かつては川岸に船が並び貨物の出し入れで賑わっていた時があったのでしょう。

 

大阪川口倉庫

今でも倉庫街として現役といえば現役ではありますが、私が訪問した時は人の気配が全くなく、ただ河口から吹き付ける強い風の音だけが聞こえるだけでした。おそらく、正月だったからでしょう。少なくてもそう思いたい。

 

その中で、また面白そうな建物を発見。

大阪川口近代建築

「三榮工業株式会社」のビルヂングのようです。近代建築としてググってみると、建物の詳細は不明ながら、おそらく昭和初期に建てられたものとみえます。丸窓+曲線的を使った外観は、 昭和モダン建築として見ると毎度おなじみ。

ここのHPを覗いて沿革を見てみると、川口に移ったのが昭和44年(1969)。創業自体が戦後なので、おそらく空き家だったこの建築に入ったのでしょう。HPには、

 

三榮工業

こういう声もあるので、近代建築マニアのアンテナには引っかかっているのでしょう。しかし詳細は不明とのことで、いつ建てられたのか、設計はどこなのか、そして、三榮工業が入る前はどこの所有だったのかなど、謎は深まるばかり。

 いつもなら、三榮工業さんに直接連絡して詳細を聞くのですが、この様子だと知らないよう。

 

隠れた川口の生き証人?

 

大阪中国総領事館

(写真撮り損ねたので、Google mapのストリートビューから)


川口の対岸にある阿波座には現在、中国総領事館があります。
警察官がところどころに配備され少し物々しい雰囲気ですが、悪さをしなければ向こうから何か言われることはありません。写真も別に構わないのですが、やはり警察が目を光らせている中でカメラを向けることは、本能的に遠慮してしまいます。

 

中国総領事館前の旅行社

私のアンテナが反応したのは、むしろここ。領事館前の旅行社の中国行き航空料金を見て、久しぶりに北京のPM2.5を浴びてくるかと触手が伸びそうになりました(笑)

 

それはさておき、なんでこんなとこに領事館があるのか?
領事館がどこにあろうが自由ではないか。言われればそうなのですが、川口のチャイナタウンの歴史を知ると、何故領事館が、川口華商で賑わった地区の対面にあるのか。

これは偶然でしょうか。


中国総領事館もしかして、川口の中華街を知る間接的な証人なのかもしれません。これも中国領事館に聞いてみる手もあるのですが、政治的な問題が絡むこともあるので、腫れ物に触るような怖さもあることは事実です。よって、これは今後のペンディングとしておきましょう。

 

 

※参考資料

大阪市産業部貿易課編『事変下の川口華商』(昭和14年)
大阪市編『西区史 第二巻』
大阪市編『西区史 第三巻』
西口忠『川口華商の形成』

ブログ『旧川口居留地 - 大阪DEEP案内』

 

==こんな記事もあります。お一ついかがですか?==

 

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*1:『西区史』第三巻 393頁