昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

三国志と三国演義

 

三国志三国演義

日本人は、いや、日本人男性は三国志が大好き。私もご多分に漏れない三国志好きです。中国留学時も三国志好きな男が多く、日夜三国志トークに花を咲かせていました。

 

三国志は中国の英雄伝。本場の中国人男性もみんな好きだろう。いや、嫌いなわけがないじゃない。
そんなwktkな気持ちを抱いて、中国人の友達(男)に告白しました。
「俺、おまえのこと…じゃなかった、三国志が好きなんだ」
さあいくらでも食いついてこい!期待値は最高潮。
が、彼の返事は、意外なものでした。


「ええ!あんなの好きなの?」


がっつり食いついてくるかと思っていた私は大ずっこけ。「あんなの」扱いかいな~!

 

当時(1994年)、中国の中央電視台で長編ドラマ『三国志』が放送されていました。おそらくCSの中国チャンネルでやっているあれです。
三国志好きとしては見逃すわけにはいかず、毎日夜9時以降はテレビに釘付けでした。
しかし、意外なことがわかりました。三国志を「あんなの」扱いした彼も、これを毎日見ていたのです。訳がわからない。
一連の話を、留学の先輩にぶつけてみました。
彼はあ~~!と口元で少し笑い、頷いていわく。

「君の思っとる三国志と、相手が想像してる三国志は違うよ」

どういうこっちゃ!?三国志の他に三国志があるっちゅーんか!?

 

二つの"三国志"

そもそも三国志とは、後漢の末期から魏・呉・蜀という3つの国に分かれ、天下統一にしのぎを削っていた時代の話で、西暦184年から280年の間日本は弥生時代の頃のことです。

中国にとって「現代」は歴史ではありません。彼らは前の王朝である「過去」を記すことがすなわち歴史。『三国志』も、三国時代の戦乱を統一した「晋」の陳寿によって編纂された歴史書です。
しかし、原本が記述があまりにシンプルすぎたので、裴松之(はいしょうし)という人が5世紀に注釈を加えました。現在では、陳寿の原本と裴松之の注釈本を合わせて、『三国志』と呼ばれています。

 

それから約1000年後、羅漢中という人物が『三国志』をベースに長編歴史小説を記した…とされています。
それを『三国演義』(以下『演義』)といいます*1

 

ここから日中の認識に大きな、かつ無意識的ズレが生じます。

オタク以外の日本人が指す"三国志"のほとんどは、実は後者の『演義』のこと。我々が慣れ親しんだ吉川英治の小説、横山光輝の漫画などは、すべて『演義』をたたき台にしています。

対して中国人は、『三国志』と『演義』は全くの別物と認識しています。詳しい日本人も、『正史』『演義』をきちんと分けています。
上のエピソードの彼が不思議な顔をしたのも、『歴史書』の方が好きなの?あんた変わってるね…という風に取ったからなのです。
彼が理学部数学科の学生、つまりガチ理系男子だったからかもしれないですが。


では、何故『三国志』好きが不思議なのか。
歴史書は、読んでみると実につまらない。直近の日本史の本格的歴史書に『昭和天皇実録』がありますが、読んでみると
「昭和○年○月○日 陛下はxxされた。xxについてこう仰られた」
の羅列のみ。
歴史書馴れしていないと、
「俺が知りたいのはそんなんちゃうねん!」
と怒ってしまいます。が、歴史書とは「俺が知りたいこと」を行間から推測する文字の集合体に過ぎません
そこからどんなエキスを絞り出すか…そこがヒストリア料理人である歴史家の腕の見せ所。ほとんど推理小説の世界です。

その素人が読むとつまらん歴史書をベースに、創作をふんだんに入れ、読んで楽しい英雄譚に仕上げたのが『演義』。くどいですが、日本人はこれを『三国志』、それも史実と誤認しているのです。
『演義』が全部史実なら、オカルト好き西洋人から

「諸葛孔明宇宙人説」

が出てきてもおかしくない。というか孔明宇宙人やろ。

そのため、中国人に「私は三国志が好きです」という場合、必ず
「我喜歓三国演義
としなければなりません。
「我喜歓三国志
だと、食いついてくるのは歴史学者だけの可能性が…

ここまでで、あれ?と気づいた方は偉い。
私は「三国演義」と書いています。しかし、"三国志"を読んだことがある人は、
「『三国志演義』じゃないのか!?」
と首をかしげるはず。
どちらが正解かは私からは言えませんが、少なくても中国(語圏)では『三国演義』であることに、少し注意が必要です。

 

『三国志』と日本とのかかわり

『三国志』(くどいですが、歴史書のほう)には、日本に関する記述が残っています。

『魏志倭人伝』…この名前を知らない人は、おそらくいないでしょう。
これ、実は『三国志』の一部なのです。
正式名称は、『三国志魏書第三十巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条』。これを略して『魏志倭人伝』。


倭の邪馬台国の女王卑弥呼が、魏・呉・蜀三国のうち魏に使いを送ったのは西暦238年。曹操の孫である曹叡が二代目皇帝(明帝)の頃です。
三国志の三傑である劉備・曹操は既に亡く*2、4年前(234年)には諸葛孔明も死亡、彼らの子や孫の世代となっていました。

卑弥呼はその後も何度か魏に使いを送り、『親魏倭王』の称号を下賜されたのですが、248年(諸説あり)に卑弥呼が亡くなると、「大乱」の後「倭の五王」による朝貢までの170年間、大陸との交流はいったん途絶えます。

 

三国志と卑弥呼。一見何の関係もなさそうな事柄が、実はかなり深く関係していたのです。


それでも"三国志"は面白い

『三国演義』はあくまで小説、『三国志』にはないフィクションが数多くあります。

 

三国演義桃園の誓い

劉備・関羽・張飛が義兄弟の契りを交わしたオープニング、「桃園の誓い」がそもそも創作だし、中盤のクライマックス「三顧の礼」も、全然ドラマチックではない。


そして何より、小説なので劉備という主人公がいます。彼は善、ライバル曹操などは悪と描かれ、特に曹操のワルっぷり描写は中国人にもアンチがいるほど徹底しています。
ただし、史実の曹操は文武両道、政治家・軍略家・詩人・編集者*3…どれを取っても一流のマルチ人間です。曹操こそ宇宙人説が出てきてもおかしくない。

対して、『三国志』の人物評価は比較的公平。
『演義』ではドラえもんかお前は状態の諸葛孔明ですら、


「政治は超一流だったけど、軍を動かすのは苦手だったようだ」
(『三国志蜀書諸葛亮伝』)


と、軍司令官としては落第に近い評価をしています。
ただし、『三国志』の記述はすべて正しいかというと、当時の政治事情も絡み疑わしいのも事実ですが、考証は専門研究者にお任せしましょう。

『三国志』と『演義』のどこがどう違うのか、ということを調べるだけでも、ちょっとした知の冒険。
歴史書だろうが小説だろうが、どちらも三国志といえば三国志。その面白さは変わらないし、今後も変わることはないでしょう。

 

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*1:『演義』の現存する世界一古い写本(『三国志通俗演義』)は、日本の国立公文書館が所有しています。

*2:一世代分年が離れた呉の孫権は健在

*3:現代我々が読む『孫子の兵法』の原本は曹操が整理・編集したもの。