昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

上海日本人租界散歩 先人たちの跡を訪ねて 第三章

上海の租界

仕事で上海に駐在していた10数年前、「旧日本租界を歩く」というライフワークがありました。
「租界」とは金で異国の土地を買い、事実上の領土とした土地で、「植民地」「租借地」とはまた違うジャンルの土地所有です。
日本史では、横浜や神戸などにあった「外国人居留地」が近いですが、またちょっと違うかなと。

中国には各都市に各国の租界があったのですが、それが都市によっては複雑に入り組み、中国の利害も絡んで中国カオス時代を演出する一つの舞台装置でした。

 

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コトバンク『租界』より)

上海にも例に漏れず租界が存在していました。というか、上海は「租界都市」と言っていいほど、租界から始まり租界をベースに発展した都市でした。
租界とはなんぞやを知らずに上海を語ることは、炭酸が抜けた炭酸水。それってただの水やんという風に、絶対にできません。
そこにはイギリス・アメリカ・フランスの租界が存在しており、中国の官憲が入れない「国の中の外国」でした。

 

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コトバンク『租界』より一部加工)

上の地図に赤い丸をつけたところは、戦前は「チャイナタウン」と呼ばれたエリアで、欧米列強が租界を設ける以前の上海です。今では「旧城内」(旧市街)と呼ばれており、中国色と下町感ただよう「上海の浅草」です。
中国にあるのに「チャイナタウン」とは、すごく違和感と矛盾を感じますが、これが租界であり、当時の上海だったのです。

 

その中に、「日本租界」と呼ばれたエリアがありましたが、結論から書くと上海に日本の租界があった事実はありません。私が「日本租界」とカギカッコをつけている理由がそれです。
「日本租界」と名前がついているんだから、上海には日本の租界もあったんだ~と思い込んでいる人も多数います。
今回は、そんな人のために「種明かし」をします。
イギリス・アメリカ共同管理の「共同租界」のある地域に、日本人が多く住んでいました。その数は、最盛期で10万人を越えたと言います。

 

上海日本租界

コトバンク『租界』より一部加工)

日本人は、「呉淞路」「北四川路」という大通り沿いやその周辺に固まり、そこで日本式に店を構え日本語が飛び交っていまいした。
そこがまるで「日本租界のようだ」となったことから、「日本租界」という別名で呼ばれるようになったわけです。
おそらく戦後、上海というノスタルジーと共に、「日本租界」という言葉のイメージが独り歩きしたのでしょう。


そんな「日本租界」は、私が上海に留学していた1994年には、色濃く、いやほぼそのまんま残っていました。建物どころか、ここには日本人が住んでいたんだなという空気まで残っており、子どもの頃日本人とよく遊んだよと、当時を知る中国人も大勢いました。
1930年代の第一次上海事変の際、旧海軍が作ったトーチカ(銃弾の痕付き)まで残っていたのには、少しビビりましたが。

その約10年後、仕事で上海に赴任することとなりました。
租界時代の建物が残る近代建築の見本市の上海を歩くと、自然にノスタルジーに浸ることができました。西洋風の建物の上流の威厳に中国風の下流の喧騒が混ざり合い、上海の独特の雰囲気を醸し出していました。
その時、「日本租界」もよく散歩に出かけていたのですが、この「上海『日本租界』を歩く」シリーズはその時に書いたものです。
つまり、約14年前のブログの焼き写しなのですが、このまま凍結させておくのももったいなく、このブログ創世記の頃にこっそり更新していました。

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

この記事は第三章となるのですが、第二章からかなりの時間が経ったので、まずは第一章から読んでいただけると幸いです。

第三章も、いきなりはじまっていますが、こういう事情があるのでご了承を。
第一章と二章は、はてなに文章を移転した時に大幅リライトし、文体も変更しました。が、第三章は文章も敢えて14年前のまんまにしています。今の文体との違い、特に文章のヘタクソ具合も味わえるかもしれません(笑)

 

 

三角マーケット跡地、元警察官舎を背にして、一路北へ向かう。
道はざわざわした小道を抜け、「呉淞路」という大きな道に入る。

 

 

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呉淞路は1856年に敷設され、租界北部の虹口地区のメインロードの一つとして早くから栄えた。

 

上海の日本租界

(1930年代の上海市街地図より)

日本人が虹口地区に住むようになったのは明治時代からだが、大正時代には、呉淞路あたりは日本人街の中心として栄えていた。
呉服屋、お菓子屋、書店、文具屋、薬局・・・、日本にあるものはここにもすべて揃っていた。その光景は、まるで日本の下町のようだったという。

1927年の上海日本総領事館の調査によると、呉淞路近辺の人口は7582人を数えていた。
のちに1930年代になり、その人口は更に増えていくことになる。
後に「日本租界」のメインロードの一つになった北四川路(現四川北路)とは、「北虹口」「虹口」と分かれた言い方をされ、二大日本人地区を形成していた。
しかし、現在でも「日本租界」当時の風景をかなりの形で残している四川北路に対し、呉淞路は再開発の波に呑まれ、かつて道沿いに並んでいた日本家屋はほとんど姿を消してしまった。

 

左手に金富運大酒店・公安局出入国管理局が見え、右手にかつて日本旅館が並んでいたという場所が見える。
今は再開発の最中で、高層ビルの土台が虹口地区に、人工の山のようにそびえ建っている。
ここから200mくらいまでは再開発地区で、特に変わった風景はない。

そのまままっすぐ進むと、左右にこれまた大きな道にぶつかる。
海寧路と呼ばれるその道は、昔の日本人地区を南北に二つに分けるように横切り、現在は呉淞路とで虹口地区の大交差点を形成している。
その呉淞路と海寧路の交差点に、ひっそりを余生を過ごすように建つ小さい建物がある。

 

大阪毎日・東京日日新聞社跡

 

歩道橋に隠れてその存在すら容易に確認できない建物、そこが「大阪毎日・東京日日新聞社跡」である。
芥川龍之介の中国滞在記に、『上海游記・江南游記』という本がある。
芥川は、1921(大正10)年に大阪毎日新聞の海外視察員として、4ヶ月の間上海や南京などを回り、中国の現実を目の当たりにしてきた。
上海に来て早々、芥川自身が病気で倒れてしまい出鼻をくじかれたせいか、それとも中国の水が合わなかったのか、文豪芥川にしては少し駄文多めの内容で少し物足りない。

しかし、さすが大作家と言える洞察力で当時の中国・上海がどのようなものであったか、この1冊でよくわかることだろう。

 

 

虹口救火会。現消防署

呉淞路と武進路の交差点、北を向いて右側に、虹口救火会の建物が見える。
小さいながら、両手を広げたような、左右に広がる建物に、物見櫓のような塔がそびえる。
建物の知識があれば、すぐに消防署とわかる建物である。
現在でも消防署として使われており、たまにここから消防車が出て行く姿を見ることができる。
その東側隣にあるのが、「中部日本小学校」である。
上海4校目の日本人小学校として1929年4月に設立され、鉄筋コンクリート造4階建ての校舎が今でもそのままの姿で残っている。

 

 

 

海軍陸戦隊租界部隊本部

虹口救火会の向かい側に建つ堂々とした建物がある。
ここは日中戦争以降、「海軍陸戦隊租界部隊本部」として日本軍が占拠し、終戦まで使われていた。
現在は虹口区政府となっているこの建物は、外から見るとそれほどの大きさではないが、普段は硬い鉄の扉で閉められている扉の隙間から覗いてみると、広い中庭があり、面積はかなり広いものに見える。
裏手には工部局病院もあり、当時の病棟と看護婦宿舎が、高い塀の外からも確認でき、いい形で残っている。

 

 

海軍陸戦隊租界部隊本部裏の看護婦宿泊所跡

 

「海軍陸戦隊租界部隊本部」裏にある看護婦宿泊所跡である。
かなりはっきりと建物が残っている。

 

 

呉淞路から武進路に入り、「海軍陸戦隊租界部隊本部」の裏を潜り抜けるように海南路へ入ると、突き当たりに古びた、しかしどこか和風っぽい様相の洋館が見える。

 

 

旧上海の大和ホテル

 

ここはかつて「大和ホテル」と呼ばれた和風旅館であったという。

 

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1930年代の上海市街地図でも、その名が確認できる。


建物の大きさからして、かつて満州で名を馳せた「大和ホテル」とは別物だとは思うが、今は託児所になっているここには、たくさんの日本人が宿泊していたに違いない。
武進路、海南路、乍浦路あたりの地域は、戦前に多くの日本旅館が立ち並んでいた場所で、建物が現存しているものだけでも、上述の大和ホテルの他に、

 

旧八千代旅館

 

旧八千代旅館

 

旧新田旅館

 

旧新田旅館

(上海市重要建築指定)

 

上海三大日本旅館の一つと言われた常盤館

 

かつて上海三大日本旅館の一つと言われた常盤館が残っていた。

他にも山崎ホテル、豊陽ホテル、井上旅館、などがあり、一大宿屋街を構成していた。
現在はほとんどが一般市民の住む民家になっているが、宿屋がここに集まっていることから見ると、「虹口」の日本人がここあたりに集まっていたことが容易に伺える。
気のせいと言われるかもしれないが、ここあたりを歩いていると、どこか日本を感じてしまう。
裏道にはかつて多くの婦人が井戸端会議に花を咲かせ、道には子供たちが走り回っていたのだろう。
タイムカプセルのように、かつての先人たちの名残を留めるこの道も、すぐ横まで再開発の波が押し寄せており、次に来る時には残っているのか、それはわからない。
残念なことではあるが、建物の老朽化もあり、仕方のないことであろう。

 

日本の面影は、元ホテルだった建物だけではない。

 

上海の西本願寺別院跡

 

乍浦路には、インド風の築地本願寺を模したという西本願寺別院跡が残っている。

道の向かい側に行かないと気づきにくいが、周りの建物と比較しても一目でわかるほど明らかに浮いているこの建物は、1931年に建てられたインド風建築のもので、1944年にはストゥーパ(仏塔)まであったというが、現存はしていない。
戦後は、最近までディスコとして使われていたのだが、今はそのディスコも閉店し、時代の流れの中、静かに余生を過ごすかのように新しい住人を待っている。
その隣には、日蓮宗の寺院であった「本圀寺」の跡がある。
1899年に妙覚寺として乍浦路に建てられ、1904年に移転するも、1922年に再び乍浦路に戻り、現在地に立て直された。
本堂の入口が現存し、現在は民家として使われているそうだが、入口を見ると、素人でも人目でわかる日本式の寺院のたたずまいである。
11年前にもここを通り、かつては信徒がここに集まった寺の面影を伺ったのだが、嬉しいことにまだそのままの姿で残っていてくれていた。

 

ウヰルス劇場(現勝利大劇院)

虹口の盛り場のシンボルでもあった「ウヰルス劇場」(現勝利大劇院)を横目に、海寧路を再び越えて南下していく。
乍浦路は、海寧路を越えると現在は「美食街(レストラン街)」として、レストラン、特に海鮮料理店が立ち並んでいる。戦前は一大娯楽地帯で、劇場・映画館等が所狭しと並んでいたという。
その建物が、改修ののちに現在のレストランの建物となっているが、ネオンの華やかさは今も昔も変わらないとは思う。
その乍浦路と塘沽路の交差点、南下すれば右手に、レンガ建築の高層マンションを見ることができる。

 

ピアスアパート


戦前は「ピアス・アパート」と呼ばれた高級マンションで、7階建ての建物の住民すべてが外国人か、金持ちの中国人だった。

上のあたりの壁の色が違うのだが、これは戦後に増築されたもののようだ。

 

塘沽路を左に曲がると、左右には租界時代の建物がずらりと、きれいな形で並んでいる。
ここあたりは、1920年代まではロシア娼婦が並ぶ娼館街であったが、上海事変後は日本人にとって変わっていった。
当時、中国・上海に新天地を求めてやってきた日本人は、繁華街で一杯やり、その後に娼館に駆け込み、日本人娼婦と夜を楽しんだに違いない。

 

上海の元私娼街の建物

当時の「トルコ風呂」の建物が現在も残り、かつての男と女の駆け引きの場の名残をとどめている。
その中に、和風の屋根を頂いた建物を見ることができる。

 

上海の料亭六三亭の跡

上海でも老舗であった、料亭「六三亭」である。
香港~上海航路で皿洗いをしていた、長崎生まれの白石六三郎が1898年に「六三庵」を開業し、1900年に現在地に「六三亭」を開業した。
その名は日本人社会で知らぬ者はいないというくらい広まり、1912年には虹口郊外に純日本式庭園である「六三花園」を開園。六千坪の敷地を日本人には無料で開放し、ここで様々なイベントが行われていたという。
残念ながら、「六三花園」は跡形もなく整理されてしまったが、本家の「六三亭」はかつての日本人居留区の繁栄の証人として、21世紀になってもそこに残っている。

 

 (続く)

 

くどいようだけど、意味がよくわからなかったら第一章から読んでね。

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