昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

数年で消えた幻のレジャーランド、砂川遊園と砂川奇勝の話「補足編」

 

 

砂川遊園、砂川奇勝アゲイン

 

以前、「砂川遊園」「砂川奇勝」、そして「第ゼロ号ネズミーランド(笑)」があったという話をしました。

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

場所が泉南という大阪の局地な上に、地元民としての使命感と自己満足だけで書いたので、ニッチと言えばニッチな記事。興味がない人には全く興味がわきません。
短命に終わったせいか史料も少なく、一度で掘るだけ掘り、もう堀り尽くした。もう何も出てこないだろう。そう感じつつ、記事を締めくくりました。

 

実は、砂川遊園と奇勝があった自治体の泉南市も、郷土史の一つとして独自にここを調べています。
たま~~にその研究結果を発表すべく、「泉南市埋蔵文化財センター」というところで砂川の展示会のようなものを行っています。

今回、たまたまこんな展示会が行われていました。

 

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泉南市埋蔵文化財センターHPより)

 

まことに美味しそうな、知的好奇心をくすぐる展示会であります。

さて週末にでも行くか・・・と思いきや、いかんせんこのセンター、重大な欠点があります。土日祝が休みなのです!
土日祝なんて刈り入れ時なのに、その日を敢えて休みにするこの強気設定。
まるで「展示会してるけど来なくていいよ」と言わんばかり。

 

よしその根性気に入った、有給取って行ってやろうじゃないか!
と思ったのですが、土曜日のみ「たまに臨時開館日がある」そうです。
なんや、土曜日も開いてるんやんとHPで土曜開館日をチェックしようとすると・・・「お電話でお問い合わせ下さい」
HPがあるのだからそこに書けばいいのに、このサービスする気なしの強気一点、たまらないぜ。
しかし、実際に電話で問い合わせると対応は至って親切でした。

 

自治体が我々の血税と政治権力で(?)集めた資料、私の想像もしないようなレア資料が、ここに眠っているに違いない。
期待に胸を膨らませた私は、

 

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大阪湾グルリ4分の3周ツアーのようなルートで、埋蔵文化財センターへ向かいました。

 

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泉南市埋蔵文化財センター

泉南市埋蔵文化財センターは、駅からかなり離れた位置にあります。最寄り駅の阪和線新家駅から歩いて20分と、HPにも記載があります。
駅からの道は、大阪に住んでいた頃よくロードバイクでここらを走っていたこともあり、気心知れたのどかな農村です。
しかし、けっこう歩くと言えば歩きます。足腰が弱い人や体力に自信がない人、また真夏はタクシーなどを使った方がいいかもしれません。途中、のどが渇いても自動販売機すらありません。

 

心躍らせて入り口に入ってみると、見学者は一人もおらず。
砂川遊園・奇勝というニッチな内容だからか、それとも宣伝不足か。おそらく後者だろうと思います。

 

砂川遊園・奇勝のおさらい


ここで、砂川遊園と奇勝をさらっとおさらいしておきます。

 

砂川奇勝戦前

泉南市の山の中には、数百万年前には海にあった砂岩の地層が隆起し、陸に残った石灰岩が侵食された自然の奇形がありました。言うなれば「日本のカッパドキア」*1といったところでしょうか。
江戸時代から「奇勝」として地元では知られ、岸和田藩の藩主も訪れたという記録があります。しかし、日本でも珍しい奇勝地ながら交通の便がゼロだったため、知る人ぞ知るマニアックスポットに過ぎませんでした。

 

大正末期から昭和初期、日本中が不景気の暗い雲に包まれる中、砂川の地主と不動産会社の社長がこの奇勝に目をつけます。
近くには「山中渓(やまなかだに)」という温泉郷もあり、開発すれば一大リゾート地になるのではないか。そう算盤を弾いた彼らは、砂川まで電車を開通させここを観光拠点にしたい阪和電気鉄道(阪和電鉄。現JR阪和線)と組み、砂川の開発に取り掛かりました。

昭和10年(1935)、遊園地である砂川遊園が開園しました。どこにでもある遊園地ではありましたが、奇勝の自然の物珍しさと、昭和10年前後の空前の好景気もあいまって、ピーク時には5~6万人の観光客が訪れたと言います。
阪和電鉄も特急を砂川駅に停車させたり、往復割引きっぷを販売したりと、あの手この手で観光客を誘致しました。

しかし、開園から2年後に起こった支那事変(日中戦争)からの「非常時」の掛け声の中、レジャーはどんどん縮小されていき、戦争が本格的になった昭和17年を最後に、公式に姿を消しました。

戦争によって消えた夢の園は、戦後になって復活することはなく、遊園地は昭和40年代に住宅地となり痕跡はまったく残っていません。
奇勝の方も、所有していた泉南市が二束三文で不動産会社に払い下げ、住宅建設の邪魔だと壊される事態に。しかし、住民運動で全壊はかろうじて免れ、現在は「奇勝公園」として一部が残っています。

 


これ以上の細かいことは、前回の記事を御覧ください。

parupuntenobu.hatenablog.jp

 


泉州の宝塚

 

泉南市埋蔵文化財センター昭和の一大観光地砂川

展示会の話に戻ると、展示物は阪和電鉄が発行していた観光案内のパンフがたくさん陳列されていました。

 

 

阪和電気鉄道案内

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南海山手線パンフレット

コピーなど白黒ではよく見る資料なのですが、カラーで見るのは初めて。カラーで見るとこんなにカラフルだったのかと、違う感激がこみ上げてきました。

 

前回に書いたとおり、開園の昭和10年(1935)から昭和15年(1940)までの間に、阪和電鉄が新聞に掲載した広告は389点(住宅広告を除く)
そのうち、砂川遊園の広告が117点、全体の3割を占めています。
大阪市立大学論文『昭和初期における大都市圏郊外電気鉄道の遊覧地開発-阪和電気鉄道を事例をして-』より)
それも『大阪朝日新聞』のみで、他新聞も入れると、もっと多かったのではないかと。広告の数だけで、阪和電鉄が砂川に賭けた心意気というものがわかります。

 

今回向かった展示会では、その広告の数々が展示されていました。

阪和電鉄砂川遊園砂川奇勝広告昭和12年

阪和電鉄砂川遊園砂川奇勝広告昭和11年

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砂川だけでなく、仁徳天皇陵古墳や信太山ハイキング、和歌山の景勝地まで広告で案内していましたが、砂川遊園関係の広告の数やハンパではありません。それだけ阪和電鉄も砂川遊園・奇勝に期待し、力を入れていたのだと。

 

 

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阪和電鉄紅葉狩り広告昭和10年代

阪和電鉄が砂川近辺開発に力を入れていたのは、遊園地だけではなく自然を利用したトレッキングもそうでした。
今は住宅地が並んでいるので想像もできませんが、当時は鬱蒼とした山と森でした。

 

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(昭和8年の新聞広告より)

今でこそ阪和線は関西屈指の混雑率を誇る路線ですが、私鉄時代は沿線の人口密度が少なく、鉄道作ったはいいけれど、そもそも乗る客いるの?という有様でした。

そのため、なんとかお客さんに乗ってもらおうと、あの手この手のイベントを繰り出していました。ピクニックやハイキングも、人が住んでいない自然ばかりというデメリットを活かしたイベントなのでしょう。広告に書かれた場所は現在、山中渓を除いて住宅地となっていますが、昔はハイキングができるほど「何もなかった」のです。

「ピクニック」「ハイキング」の文字を見た、沿線にそこそこ詳しい人はこんな反応でしょう。

山中渓:わかる

砂川奇勝:わかる

犬鳴山:わかる

信太山:わかる

上野芝(付近):どこがやねん!?

上野芝から鈴の宮(神社)経由鳳までのハイキングルートが、阪和電鉄の観光案内に残されていますが、このルートはけっこうアップダウンが激しい。阪和電鉄推しのハイキングコースがそのまま小中学生の頃の私の縄張りでしたが、がっつり歩けば今でもけっこうな「住宅地ハイキング」です。

 

 

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砂川遊園地の近辺にある池の周辺には、テントやハンモック貸出のキャンプ場も作っていたのですが、もし今もあったなら、アニメの『ゆるキャン』でブームになっていたかもしれません。

 

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(昭和10年秋の広告)

そこまでせんでええやんか(笑)とちょっと笑ってしまったのが、この松茸狩りイベント。

美木多(堺市南区)や池田、松尾寺(和泉市)などは、今や分譲住宅地が立ち並ぶ平凡な住宅街。当然、「ま」の面影すらありません。こんなとこで松茸が採れたの!?と。

しかし、この広告を見て思い出したことがあります。

松尾寺近辺などは、泉北高速鉄道延伸に合わせて開発され、確か1997年くらいに人口増加率日本第二位*2になったところです。私の記憶が確かならば高校生の頃、具体的には泉北高速鉄道が和泉中央まで開通するまでは、たぬきが走り回ってると当時の地元の友達が言っていた森でした。

こんな何もないとこに鉄道通すのかよ、泉北高速(≒大阪府)頭おかしいんちゃうの!?と高校生時分の私は思ったものですが、確かに(昔の)あそこなら松茸が生えていそうだなと。

 

それはさておき、砂川近辺でも松茸が「山ほど採れた」らしく、すき焼きなどにしてよくお客さんに出していたと、遊園内にあった料亭「砂川楼」の店主のインタビューも掲載されていました。

 

というか、経営努力とはいえ、阪和電鉄はあの手この手のイベントを催して、企画・営業はさぞかし四苦八苦してたやろなと。元営業マンとしては心が痛いです。

 

そんな死に物狂いの経営を行う阪和電鉄が、ことさら力を入れたのが砂川の開発でした。

そこに遊園地を作り、隣に住宅地や別荘地も建設することにより、泉南の地に一大レジャーランドを造ろうという、鉄道会社と地主、不動産会社の三角コラボの壮大な計画が、ここ砂川に実現することとなりました。
これを当時、「泉南の宝塚」プロジェクトと銘打っていました。
ちょうど宝塚が、歌劇団の成功などでひなびた温泉郷から脱出、リゾート地や高級住宅街として開発される姿を見て、砂川に第二の宝塚のにおいを感じたのでしょう。宝塚に続け!という声が、史料の隅から聞こえてくる気がします。

 

砂川遊園と阪和砂川駅和泉砂川駅

(観光客で殺到する阪和砂川(現和泉砂川)駅。伝昭和11年)


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(砂川遊園の遊具 昭和13年頃)

 

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(砂川遊園内にあったモンキーハウス 昭和10年代)

 

砂川遊園・奇勝の観光地としてのピークは、おそらく昭和11~13年だと思われます。
この時代は、226事件や支那事変(日中戦争)など、戦争へのきな臭いにおいが世間にただよい始めた頃ですが、一面では空前の好景気でした。

景気は戦前の日本のピークに達し、昭和十二年の経済成長率は24%になります。高度経済成長時代と言われた昭和40年代の最高が13%、1980年代バブル時代の最高が8%と考えると、昭和11~13年はとんでもない伸び率です。
とにかくナチスドイツの統制経済のマネがしたい、しかし経済の「け」も知らない陸軍が急ブレーキをかけてしまいますが、惰性が15年末~16年はじめあたりまで続いていたといいます。

当時、阪和電鉄は天王寺~砂川間の往復キップが販売されていましたが、その売上の1割が地主の田中源太郎に入っていました。
日・祝日には1日6万人、3年間で200万人が訪れたという記録もあり、田中が砂川開発で投じた資金20万円は3年で元が取れたというから、阪和電鉄の必死の営業努力もあいまって、かなり人気があったと推測できます。

 

砂川遊園の最期

砂川遊園・奇勝が「幻」と呼ばれているのは、昭和10年にオープンした後、実質7年間しか稼働していなかったこと。
そしてもう一つの謎は、正式に「何年何月何日閉園」というデータがなく、誰にも知られぬ間にひっそりなくなっていたことです。

 

 

非常時戦前支那事変

昭和12年に起こった支那事変(日中戦争)が泥沼化し、「非常時」という言葉がところどころから叫ばれる時代となってきました。
「非常時」によるレジャー自粛の空気もある中、砂川遊園もだんだんと「軍国化」「全体主義化」していきます。

 

昭和非常時阪和電鉄広告

昭和14年のハイキングの広告です。のどかなピクニックの広告の上に、「挙(こぞ)って体位向上」という言葉が出てきます。この言葉は、拙記事「天王寺駅の怪」で天王寺駅の看板でも見かけたので、阪和電鉄のキャッチコピーなのでしょう。
この時は「非常時」の掛け声のもと、頭脳明晰より体力旺盛の健康体がもてはやされ、男子はお国のために兵隊さんに、女子は立派な子どもを生むためにと体位(体格)の向上が叫ばれました。

 

この翌年の昭和15年、砂川奇勝の近所にあった佐野町(今の泉佐野市)の女学校で、前代未聞の一風変わった入試が行われました。
大阪府立佐野実践女学校*3の入試当日、受験番号が書かれた名札をつけた受験生がいくつかの班に分かれ、雑草が生えた運動場に集合しました。
校長先生が登場し、班を運動場に配分した後、
「かかれ!」
という掛け声のもとにみんなで草むしり開始。
何の説明も受けていない受験生は、なんでわたしたち草むしりやらされてんの?と首を傾げながら黙々と草を刈っていましたが、これが実は「入試」だとわかると、みんな目の色を変えて必死になりました。
そう、この年のこの女学校の入試科目は「草むしり」のみ。頭脳など要らぬ、大和撫子は体力、健康な「兵隊予備軍」を生む健康な身体の方が大和撫子として重要。スタミナはもちろん、効率的な草むしりやチームワーク、積極性が「入試問題」であり「合否基準」だったのです。
ウソのようなホントのクレイジーな入試でしたが、これも時代ならではです。

同時期に中学校に入った作家・歴史家の半藤一利氏も、入試は内申書と体力測定と面接だけでペーパーテストは一切なかったと著書に書いています。

 

阪和電鉄模擬空中戦

昭和15年5月25日、海軍記念日(5月27日)に合わせて飛行機による「空中大模擬戦」が海軍主催で行われました。おそらく上空で海軍の飛行機がデモンストレーションを行ったのでしょう。

 

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 阪和電鉄に負けてたまるかと、南海も同日に「愛国歌謡大会」なるイベントを行っています。

 

だんだんときな臭い空気になってきましたが、昭和15年ならまだ「終わりの始まり」に過ぎません。

 


そして同年12月、砂川遊園・奇勝を事実上経営していた阪和電鉄は、ライバル・・・もとい天敵の南海に吸収合併されます。

 

阪和南海合併新聞記事

(昭和15年7月18日 『大阪朝日新聞』)

埋蔵文化財センターにあった阪和関連の新聞記事ですが、赤で囲んだ阪和の記事の横にある緑の「代用食」の記事が時代を感じさせます。もう「贅沢は敵だ」に入っていたのです。

その右隣にデカデカと、「新体制」の記事があります。昭和史を発掘している身としては、むしろこっちが気になりました。


同年はじめ、昭和天皇が「戦争阻止への切り札」と期待した米内光政内閣が発足したのですが、この新聞記事の2日前、陸軍大臣畑俊六が辞表を提出しています。

陸軍は後任の大臣を出さないということで内閣は継続できず、22日に崩壊。次は陸軍の思い通りに二次近衛内閣が発足しました。

結果的に、第二次近衛内閣によって日独伊三国同盟が締結され、日本は滅亡への片道切符を手にしてしまったのですが、その切替えの時期にあたる貴重な記事です。

最近の研究から、米内内閣は昭和天皇の「指名」だということがわかっています。戦争を避けたい天皇の、「次は米内にしろ」というご意志ですが、あからさまに出すと思い切り憲法違反なので、表向きは「側近(内大臣)の推薦」ということになっています。

それを知っているメディアと陸軍は、天皇の御意志などクソくらえと蹴飛ばすかのように「新体制」を熱烈歓迎し、何も知らない国民もそれに煽られ両手を挙げて歓迎。

もう「新体制」、つまり新内閣ができたも同然のような書き方をしていますが、記事の時点で米内内閣はまだ崩壊していないところがミソ。もう今の内閣なんてさっさとさようならしようぜという、メディアの傲慢っぷりが気持ち悪いほどにあらわれています。

 

 

南海山手線駅名改称広告

(昭和16年『大阪朝日新聞』より)

阪和電気鉄道は「南海山手線」と改名されましたが、その後の砂川遊園はめぼしい広告もなく、存在感は徐々に薄くなってきました。
駅名も、昭和16年8月1日に「阪和砂川」から「砂川園」と改名されました。

 

昭和17年南海電車案内

展示会では「昭和17年」と書かれた南海の沿線案内です。本線や高野線だけでなく、阪和線も赤線になっていることがわかります。

阪和線にだけ限定すれば、これが戦前、そして私鉄として最後の観光案内です。

 

しかし、これ、なんだかおかしい。

 

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前回の砂川遊園・奇勝の記事で、私が図書館から探し当ててきた「昭和17年南海沿線案内」です。砂川遊園は「砂川園」となっています
戦争中に「遊園」とつけると、
「兵隊さんが異国で戦い国民は歯を食いしばって我慢しているのに、『遊』とは何事か!」
と国や軍・・・の前に目が釣り上がった「模範国民」の目がうるさく、「遊」を外したのでしょう。その証拠に、元々南海経営だった「さやま遊園」「淡輪遊園」も「遊」が消えています。

 

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しかし、この「昭和17年」ものは「砂川遊園」となっており、「遊」が消えていない。展示会にあったものは、「昭和17年3月1日由良要塞司令部検閲済」と書いてあるので4月頃のものだと思われるので、同じ17年でも時期が違うのか!?

うーん、これはペンディングとして、後で調べておくことにしましょう。

 

 

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展示会にあった広告の変遷パネルですが、昭和17年から先は全くの白紙です。戦争とは言え、この白紙が砂川遊園だけではなく、日本全体の暗い時代を感じさせます。

ここがイコール砂川遊園・奇勝の大きな謎でもあります。この白紙に何か新しい記述があるかもしれない。私がわざわざ大阪湾を3分の2周してまで見に来た大きな理由がこれです。

 


そして戦争が激化した昭和19年、「南海山手線」は国営化され阪和線となりました

ここで砂川遊園のミステリーが浮かび上がります。

阪和電鉄が「国鉄」となったことにより、阪和→南海のと所有が移った(はずの)砂川遊園と奇勝の所有権はどこへ行ったのか。
展示会には、かすかながらその間接的な記述がありました。

遊園の地主だった田中源太郎は、戦時中か戦後かは不明ながら遊園の土地を文部省に寄付しています。寄付とはなんだか引っかかりますが、それ以上の証拠がないので文字通り受け止めておきます。
阪和電鉄所有だった奇勝も、国営化と同時に国の所有となり、その後信達村に払い下げられていることは確認できました。
文部省に寄進された遊園は、その後民間に払い下げられたのでしょう。
あくまで推論にすぎませんが、こう考えるのがいちばん筋が通っているように思えます。

 

 

戦後の砂川遊園と奇勝


この展示会での新しい発見は、上でも述べたように、砂川遊園時代の遊具は戦争による資材供出で姿を消したこと。

 

昭和19年砂川遊園畑

上述したとおり、砂川遊園の「美しい花畑はいも畑になった」のですが、その貴重な写真です。食糧が足らずみんなお腹をすかせていたこの頃は、「遊」なんて余裕は全くなく、本当に「生きるために食うのが精一杯」の時代でした。それでも、まだ戦争だと神経が張り詰めていただけマシだった(本当に苦しかったのは、それに加え気まで抜けた終戦後)と、当時を知る人は語っています。

 

しかし、戦後になり復活しないままだった旧砂川遊園に、「遊具」が復活しています。

 

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砂川遊園跡の遊具で遊んでいる昭和45年の写真ですが、これらは誰かが戦後に新設したものだそうです。

 

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展示会では、現時点で唯一残る戦後の旧砂川遊園地や砂川奇勝の映像が流れていましたが、遊園地のような動く遊具がたくさん映っていました。

砂川遊園は戦争のどさくさに消え、その後公には復活していないのですが、もしかして地主が戦後の復活を期して投資したものなのだろうか。
それについては、展示会では何の説明もありませんでした。

砂川遊園の復活を期した(?)これらの遊具も、昭和40年代に旧遊園の部分が住宅地として開発され、撤去されました。
しかし、まだ時代が浅いせいか、ここでよく遊んだなーという、元を含めた地元民の証言は多く、泉南市では今でも回想談を募集中だそうです。
このブログを見てここを思い出した方は、泉南市に問い合わせてね。


砂川奇勝保存運動

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すでに書いたように、その昔和泉砂川駅の山側には、「泉州のカッパドキア」な奇勝の光景が広がっていました。

 

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その後は戦争のどさくさに放置プレイされましたが、奇景は手付かずのまま戦後も残っていました。

しかし、現在は1ヘクタールを残してすべて住宅地と化しており、往年の面影はほとんどありません。

 

奇勝の部分は、昭和37年(1962)に泉南市が不動産会社に払い下げたことは、前回の記事で書きました*4
その後はどんどん開発され、奇勝はどんどん消えていったのですが、そこで住民が「これ以上開発しないで」と開発反対運動を起こしました。
行政が間に入って話し合いを設け、奇勝の一部保存が決まったのですが、その遺産が現在に残る奇勝だったのです。

 

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戦前の写真を見ると、奇勝の方は本当に「日本のカッパドキア」にふさわしい絶景で、人間が到底作りえない自然の造形美がそびえていました。

しかし、それも今は写真往時を偲ぶしかありません。
「奇勝公園」も、住民どもうるせーなーだったら残しといてやるよ程度の、子どもの遊び場レベル。戦前の写真を見た後行くと、なんだこの程度かと「大阪三大ガッカリ」のリストに入ってしまうことは必至。

もし泉南市が不動産会社に売り渡さずそのまま残しておれば、今頃は世界遺産・・・とまではいかないけれど、自然の観光遺産としてけっこう話題になっていたと思います。

私も昔の写真を見た時、衝撃を受けました。大阪に、地元にこんな「カッパドキア」があったのか!?と。


住宅作れば寝てても儲かるのご時世だったとは言え、砂川奇勝の払い下げは泉南市史最大のミスチョイスだと個人的には思います。

泉南市が砂川の歴史発掘に力を入れているのも、もしかしてそれに対する懺悔なのか。ついつい邪推してしまいます。

 


泉南市が目指す目標

お失くなりになった砂川遊園・奇勝を、まるで死児の齢を数えるような力の入れようは、どこから来ているのか。
泉南市のビジョンにはこう書かれていました。
「NHKの有名番組で取り上げてくれることを目標にしています」

ははん、ブラタモリのことか。

 

地質学的には、砂川奇勝は日本でも2つともない奇景で非常におもしろい。地質マニア(?)のタモリさんならけっこう喜ぶでしょう。
ただし、それは「残っていれば」の話。これだけ木っ端微塵に壊してしまったら、奇勝も奇景もへったくれもない。確かに1ヘクタール分は残っているとは言え、砂川奇勝だけではとてもネタにならない。

仮に「砂川」をブラタモリのネタにするのなら、犬鳴山や日根野神社(ここもネタとしては面白い)、岸和田城など、「泉南市」だけではなく「泉南地域」として広く取り上げないと、到底ネタとしては持たない。ブラタモリならぬ「ブラのぶ」をやっている身としての視点は、こうです。
かく言う私は散々ネタにしていますが、我がブログは、知名度はブラタモリにとても敵わないが、ブラタモリという大樹が取り上げないニッチなブログ。私はこれくらいの自負を持って書いています。

万が一、万が一ですよ、仮に取り上げられたとしたら・・・とっくにネタにしている私のブログにアクセスが殺到し・・・ウハウハやん。
できればブラタモリ誘致を応援したいので、是非誘致委員会(仮名)の顧問に・・・と今から取らぬ狸の皮算用をしても仕方がない。

 

 

展示会、行く価値ありか

最後に、この『企画展「昭和の一大観光地砂川」』は行く価値ありなのか。ここを書いていきます。

結論から言うと・・・

 

めちゃ価値があります!!

 

展示スペースは決して大きくはありません。畳で言えば12畳くらいでしょうか。
しかし、小さくまとまっている分、濃度、ニッチ度が実にすごい。展示パネルも丁寧に作られているし、年譜もすべてソース付きと、初心者からマニアックまでやさしいつくりとなっています。さらに、年表などのソースになった新聞記事などもスクラップとして残し、ご自由にご覧下さいと。

ここでアップした写真は、全資料の中のごく一部です。私の画像フォルダには、ネタにならずお蔵入りしたファイルがこの数倍ほど保存されています。

 

訪れる前の滞在予定時間は、せいぜい1時間くらいと見積もっていました。砂川遊園・奇勝のおさらい程度に、リライトできるような新しいネタがあったらいいなーという、ほんの軽い気持ちでした。
ところがどっこい。
予想外の濃さと、資料見たい放題、写真取り放題というサービスぶりに、予定時間を2時間半もオーバーしてしまいました。
後の予定がなければ、おそらくここだけで1日中いたかもしれません。
濃くないと、面白くないと、ここまで「補足」で書けません。というか、本編が8000文字で「補足」が1万文字オーバー。文字数が本末転倒になってしまいました。

 

砂川遊園・奇勝は、決して万人受けするテーマではありません。テーマ的には相当ニッチ。日本史の、大阪市の、泉州史の、泉南史の、ほんのごく一瞬の光です。
興味がない人にとっては、何の価値があるのやらという感慨しか浮かばないと思います。
しかし、興味がある方であれば、最寄り駅から20分歩いてでも行って見る価値があります。
阪和電鉄の広告を見ているだけでも、ブログネタが3つも4つも出てきます。全資料の6割しか見ていないのに。
ブログネタがないと嘆いている者よ、書を捨てよ、泉南市埋蔵文化財センターへ出よ。どうせ入場無料なのだから。

もしこの記事を見て、おもしろそうだな・・・と興味が湧いてきたら、是非この展示会を見てみて下さい。6月29日まで開催しています。

非常に濃く、非常にマニアックで、そして非常に郷土史の勉強になります。


ただし、重要なのでもう一度言っておきます。
ここは・・・

土日祝は休みです!!!


土曜日開館日は、HPか電話で要問い合わせです!!


事もあろうに、GWは休みです!!

 

GWも当たり前のように休む博物館、見てもらう気があるのかないのか、わからなくなってきた。

 


最後に、展示場内にアンケート用紙がありました。
そこに、
「もし現在でも砂川(遊園と奇勝)が残っていれば、観光遺産になっていたと思いますか?」
という質問がありました。
大いに楽しませていただいたので、お礼代わりに。

「150%なっていました。壊したのは実に、実にもったいない!
残しておけば、今頃は世界遺産とは言わないけれど、日本三大奇景くらいの価値はあったのに。
しかし覆水盆に返らず、自然の造形は二度と、永遠に戻ることはありません。
日本に二つもない奇勝を不動産会社に売り渡し壊すに任せたことは、泉南市の大チョンボとして歴史に残るでしょう」

ここぞとばかりにボロカスに・・・もとい正直に書き殴らせていただきました。

 しかし、これだけ書いてもあの風景は二度と戻らない・・・せめて「ブラタモリ」で罪滅ぼしをしていただきたいと祈りつつ、締めとさせていただきます。

 

*1:カッパドキアとはトルコの自然世界遺産のこと。

*2:その時の一位は、私の記憶が確かなら同じく新興住宅地として開発され、神戸電鉄の路線が開通した兵庫県三田市。

*3:佐野高等女学校→現府立佐野高校。

*4:砂川遊園跡地は、その2年後の39年に払い下げ。