昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

台北帝国大学の歴史 中編【昭和考古学】

前編では、台北にある台湾大学の前身、台北帝国大学の歴史をざっくり書きました。はい、あれでざっくりです。

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

中編は、実際に現在の台湾大学への冒険へと旅立ち、台北帝国大学の遺構を目(写真)で味わいましょう。

 

 

目次:

 

 

台湾大学への行き方

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台湾大学は、ターミナル駅や官公庁が並ぶ市街中心部から南東の方向にあります。地下鉄なんてなかった20年前はここに行くにも一苦労だったのですが、今は地下鉄でひとっ飛びです。

 

台北MRT台湾大学までの行き方


台湾大学への最寄り駅は、緑線(G線)の「公館」駅で下車します。「公館」の二つ北寄りの「古亭」駅が旧制台北高等学校への最寄り駅なので、地下鉄一本で日本統治時代の高等教育機関建物巡りが可能です。

 

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「公館」駅には、「台湾大学」という副駅名が存在しています。日本風にいうと「台湾大学前」ですね。

もしこれが大阪なら、「四天王寺前夕陽ヶ丘」「喜連瓜破」のように二つの候補を合体させ、「公館台大」という駅名になってのかも。

 

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台湾大学の正門へは、3番出口をのぼったらすぐ・・・でもありません。大学の正門までは、この3番出口を上がって徒歩でだいたい2~3分。2~3分くらいブツブツ言わずに歩けって?それを言えるのは地上に出るまで・・・。

 

大学正門

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台湾大学の正門です。

この正門の建物(守衛室)は台北帝国大学創設当時から変わっておらず、今も守衛の詰め所として現役です。

 

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台北帝国大学当時の写真ですが、光景はほとんど変わっていないことが写真の比較からもわかると思います。

鉄道や路面電車の便がなかった台北帝国大学までの交通は、当時発展しつつあったバスで補完していました。この台北帝大の正門前には「帝大正門前」というバス停があり、中心部からの直通バスで8銭だったという記録が残っています。

 

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台湾大学の正門の向かい側は、大学前らしく学生向けのカフェやスイーツ店が立ち並んでいます。スタバやKFC、吉野家などの、日本人にもお馴染みのお店もあります。

20年前に台北に住んでいた頃にも、台湾大学前にはちょくちょく足を伸ばしていました。その時は、「吃到飽(食べ放題)」と書かれた学生向けの安食堂や、難しい本が並んだ本屋が軒を連ね、学生街はどこの国も変わらんなと感じていました。今回、大学前界隈も少しウロウロしてみましたが、完全に「今時のナウなヤング向け」になっており、20年前の面影はほとんどありませんでした。

そのうちの一軒に、台北の歴史書籍を扱う古書籍店がありました。当時研究が始まったばかりの日本統治時代の資料が数多く揃っていて、台北帝国大学のリアルタイムの資料も店先に無造作に置かれていました。

店主は戦前の内地の大学を卒業した「元大学生」らしく、台湾人訛りが全くない日本語は、ヘタな日本人より上手いなと思ったほどでした。

台北在住日本人は多かったものの、日本統治時代に興味を示しここ(台大前)まで資料を求めてやって来る日本人は、当時は相当珍しかったそうです。立ち読み御免の札をもらい、台北帝大や総督府の貴重な資料を見せてもらっていました。

しかしまあ、あれから台湾史の研究を続けていたら、今頃はいっぱしの専門家になっていたかもしれないものを。己の飽き性浮気性のバカヤロウ。

商売気が全くなかった楽隠居の道楽商売は既に終わったか、今回訪ねてみると店はありませんでした。店主のおじいちゃんの淀みのない、昭和20年でフリーズしたかのような日本語と共に、20年間おとぎ話か夢でも見ていた気がします。 

 

 大学散策に便利なツールが!

さて、ここから台湾大学散策!

といきたいのですが。

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台湾大学の総面積は35,000haと言われ、台湾の総面積の100分の1なんだとか。逆の言い方をすると、台湾の面積は台湾大学100個分。とにかくデカい。

あくまで「総面積」なので、公館キャンパスが35,000haもあるわけではないのですが、当てずっぽうにキャンバスを歩いてもたちまち体力が尽きることになります。特に夏場はアスファルトの熱の跳ね返りが酷く、フライパンの上で弱火でこんがり焼かれるような感覚になります。ムニエルとして料理される鮭の気持ちがわかる気がしました。

それは台北帝大時代も同じだったようで、

「臺北の夏は額にヂリヂリ焦げる程の殺人的狂熱

(『帝国大学案内昭和13年度版 臺北帝國大學 p229』)

と表現されたほど。これ、面白おかしく編集したのではなく原文ママです。しかし、実際に真夏のカンカン照りの下を歩くと、「殺人的狂熱」という字面の意味がよ~~くわかります。

ちなみに、日本の大学トップの敷地面積は、だいたい予想がつくでしょうが北海道大学の66,000ha。ぶっちぎりの一位です。二位の東大は32,700haで台大とさほど変わらず。東大1000個+ちょっと分がほぼ日本の総面積となります。

 

迷ったら大変という部外者のために、文明の利器を利用したこんなものがあります。

 

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台大キャンパスを歩いていると、こんなものをよく目にします。

「臺大校区地図」

という文字と共にバカでかいQRコードが貼られていますが、なんのこっちゃとスマホでQRコードを読み取ってみると!

 

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あら不思議、スマホ上に大学の地図が表示されるではありませんか!Google mapと連動して現在地もわかります。

このQRコードは大学のあちこちにあるようで、スマホさえ持っていれば大学内で迷子になることはありません。これ、日本の大学でもやればいいのに。

 

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臺灣百年歷史地圖より)

台北帝国大学を真上から写した航空写真(昭和20年6月撮影)ですが、この約2ヶ月後に終戦なので、敷地としてはこれが台北帝大としての最終形態です。

クソ熱いから旧台北帝大の建物散策だけでええわという人ならば、

 

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赤で囲んだ区域だけを見て回れば結構です。それでも全部回るとざっくりで小一時間、一棟ずつじっくりだと数時間かかります。もし夏場の暑い時期なら、できれば早朝など涼しい時間帯の方がいいと思います。

 

椰林大道 

台湾大学椰子大道1

台湾大学椰子大道2017年夏

正門からは、台湾大学を東西に横切る、片道2車線はありそうな道幅の大きな道を目にすることができます。やたら背丈が大きいヤシの木の並木道は台湾大学のシンボルとなっており、いかにも南国らしい光景を引き立たせています。この椰子は「大王椰子」と呼ばれ、人間と比べるとその大きさがわかります。
台湾に椰子の木は南国なのでイメージにピッタリですが、意外にも元々台湾にはない植物でした。日本領有後すぐの明治31年(1898)に数種持ち込まれたのですが、その一種がこの「大王椰子」でした。

 

この道は椰林大道(Royal Palm  Blvd)と呼ばれ、台湾大学のシンボル的存在となっていますが、これもヤシの木ごと台北帝国大学からの遺構です。

 

1935年台北帝国大学学内写真

臺灣文化部國家文化資料庫より)

これは、帝大開学7年後の昭和10年(1935)の椰林大道の写真ですが、82年後の2017年の写真と見比べると、ヤシの木のかわいいこと。摩天楼と化した椰林大道の木が赤ちゃんだった時の貴重な写真ですが、80年後にあんな化物のような大きさに成長しています。また、今と違い椰子大道は砂利道だったことが、この写真からわかります。

 

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臺灣文化部國家文化資料庫より)

そこから5年しか経っていない、昭和15年(1940)の椰子大道ですが、たった5年でけっこう成長していることがわかります。ヤシの木って成長早いのねん。

 

理農学部1号館

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正門を出て真っ先に当たる矢印の位置にあるのは、「理農学部1号館」と呼ばれる建物です。

 

台湾大学生物学系校舎(台北帝国大学理学部1号館)

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昭和5年(1930)に建てられたもので、ほぼ台北帝大創立時の建物でもあります。今も現役の校舎であり、日本で言えば理学部生物学科と、演劇学科が使用中です。

 

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月日が経ち、生えに生えた木々の緑と、赤いレンガのコントラストがまた独特の色使いを醸し出しています。

 

理農学部2号館

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1号館の隣に建つのが、同じく理農学部の2号館です。

 

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1931年(昭和6年)に完成した建物は、戦前からつい最近の2000年まで、長年理学部の物理学科が使用していました。しかし新校舎の完成で物理学科は離れ、現在は「臺大物理文物館」として博物館となっています。

訪れた当時はそれを知らなかったので、中には入りませんでした。少し惜しいことをしたなーと思っても、時既に遅し。

 

文政学部

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椰子大道の真ん中に位置するのが、旧文政学部の校舎です。

 

 

台湾大学文學院

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昭和4年(1929)完成のこの校舎は、現存する旧台北帝国大学の校舎の中でも、いちばん威厳を感じさせます。台北帝大のシンボルとなるべく、この建物にかなりお金と気合を入れた感が、今になってもひしひしと伝わってくるようです。
そしてこの校舎のレンガ、写真ではわかりにくいですが、赤に少しくすんだ緑色が混ざったレンガを採用しています。これはアジア情勢が緊迫さを増し、「国防色」という防空上の簡易迷彩色をほどこしているから。当時の世界情勢が、校舎にもあらわれているのですね。

 

台北帝国大学文政学部校舎昭和3年

(『臺灣事情 昭和4年』(台湾総督府刊)より)

出来たばかりの旧文政学部校舎です。今と違って周りには何もなく、草原に校舎をドン!と作った感じですね。

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おそらく昭和10年代の絵葉書ですが、校舎が今と全く形を変えていないことがわかります。

 

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「文政学部」とは、今の文学部と法学部・経済学部などが合体した学部ですが、現在でもこの校舎は、「文學院」として現役です。「學院」は学部、看板に書かれている「系」は学科に相当すると思っておいて下さい。

 

この「文學院」には、「人類学系」という変わったものもあります。これは台北帝大文政学部の「土俗人類学講座」を継承したもので、台湾考古学・民俗学・文化人類学を包括したものです。

この講座は日本どころか、世界でもここだけのオンリーワンofオンリーワン。研究内容があまりにニッチすぎたため、戦後も日本人研究者に全員居座ってもらったという経緯があります。

その中に、金関丈夫(1897-1983)国分直一(1908-2005)という人がいました。ふたりとも台湾では知る人ぞ知る人物で、Wikipedia先生一つ取っても、金関は日本語ページはあるものの中国語ページの方が充実し、国分に至っては日本語ページすらありません(中国語のみ)。台湾大学図書館のページにも国分単独のページがあり、功績が讃えられています。

 

金関丈夫台北帝国大学教授名簿

台北帝国大学案内(昭和14年度)、医学部教員名簿より。

金関は医学部を卒業した解剖学者だったのですが、片手間で人類学をやり考古学をやり、小説まで書いていずれも一流の腕というスーパー学者でした。台湾考古学は当時、誰も手を付けていない学問の原野。それを金関が一人でせっせと耕していました。

言い方を変えれば、現在に残る台湾大学人類学系は、一人の学者の「暇つぶし」から始まったとも言えなくもない。

長年日本考古学を牽引した金関恕氏(大阪府立弥生文化博物館名誉会長)は、金関丈夫の息子です。

父とともに台湾へ渡った彼は、乳の「暇つぶし」に付き合うにつれ考古学の面白さに目覚め、それを生涯の生業としました。残念ながら今年3月に亡くなってしまいましたが、彼も「湾生」(台湾育ちの日本人)の一人でした。

 

ところで、上の名簿の右から2番目に、「森於菟(おと)という名前が見えます。なんやねんこの変な名前の人とお思いでしょうが、実は文豪森鴎外の長男

森鴎外はご存知の通り、陸軍軍人と文学者の二足のわらじを履いていましたが、父の文学DNAを継いだ妹たちに対し、医者としてのDNAを継いだ人でした*1

昭和11年(1936)に台北帝国大学教授に赴任したのですが、同僚として金関の「副業」にも興味を示し、共同研究もしていました。彼も戦後の台湾に残り、台湾大学の初代医学部長(かつ台北帝国大学最後の医学部長)となっています。

 

国分は京都帝国大学を卒業後、25歳で女学校教師として台湾にやってきました。その後、金関からは考古学、旧制台北高等学校物語第2話で解説した鹿野忠雄からは台湾博物学の薫陶を受け、世界でただ一人の台湾考古学者として台湾中を掘り続けていました。国分は2005年に96歳で亡くなりましたが、その寸前まで研究を続けていた好学の徒でもありました。

この二人は戦後も、「帰っちゃダメ」という中華民国からの要請で日本に帰らず、台湾大学文學院の教授・副教授として研究を続けたのですが、日本には帰りたし、でも遺跡は掘りたしというのが悩みの種でした。遺跡が見つかると、以前は「やった!」だったのですが、それは帰国日が延びるということでもあり、今は「しまった!(また日本に帰れなくなった orz)」になったと、家族への手紙で述べています

 

 

ウワサによると、この文學院は中身も豪華絢爛ですごいらしい。おそらく台北帝大の威信をかけて作られたこの建物、画像検索でググってみただけでもこれはすごい・・・と中に入ろうとすると。

 

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その門は固く閉ざされていた・・・。

そう、私が訪問したのは(去年の)8月。大学は夏休み真っ最中(それも週末)だったのです。

中身を見たかったなーと思いつつ、扉が閉まっている以上仕方がない。なので、画像だけお楽しみ下さい。

 

台湾大学文學院台北帝国大学文政学部

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農学部

台湾大学行政大楼

台湾大学付属農林専門部校舎

台北帝大の敷地は、元々「台北高等農林学校」という農業専門学校だったことは、前編で紹介しました。
映画「KANO」で有名になった「嘉義農林学校」は、今の学制で言えば高校ですが、台北は「高等」がつくとおり今の大学に相当します。
主に台湾の作物の品種改良などに携わった実業学校でしたが、台北帝大にキャンパスを譲り学校は台中に移転しました。
しかし、一部は帝大農学部付属の「農林専門部」として残ります。
農学部と「農林専門部」って何が違うのかはよくわかりませんが、おそらく現場指導者の育成と、研究者育成の違いなのでしょう。

 

日本人が知らない台湾米の歴史

 

台湾大学校内には、日本人のほとんどが通り過ぎてしまう、台湾の歴史において非常に価値のある場所が存在します。

 

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ここ台湾大学の敷地は、「蓬莱米」の生まれ故郷でもあります。

台北帝大創立以前にあった「台北高等農林学校」では、台湾の米を変える一大事業が行われていました。それを記念した碑なのですが、「蓬莱米」とは一体何なのか。

それを作り上げたのは、ある日本人技師の存在でした。

 

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彼の名は磯永吉。彼も日本人が知らない、台湾の歴史に残った日本人の一人。

農学者だった磯は1912年に台湾に渡り、農作物の品種改良に力を注ぎます。その中には、台湾米の品種改良もありました。

当時の台湾米は、東南アジアで栽培されている長細い粒のインディカ米で、日本にも輸出されていたものの日本人の口には当然合わない。ジャポニカ米をそのまま台湾で栽培しても、熱さで全滅する始末でした。

台湾の気候に合い、かつ日本人の口にも合い、かつ生産性が高い米の開発という無理ゲーに挑戦した磯は、同じ技師だった末永仁と協力し、1000回以上の試行錯誤を繰り返した結果、「台中65號」という品種を開発しました。「台中65號」の開発は1930年代ですが、それ以前からの品種改良の実績から、大正15年(1926)に台北で行われた日本米穀大会で、当時の総督だった伊沢多喜男によって「蓬莱米」と命名されました。台湾大学創設に心血を注いだ伊沢多喜男ですが、蓬莱米の命名者でもあったのです。

 

これだけだと、日本人のために米を開発しただけじゃねーかと思われます。

しかし、蓬莱米がすごいのはここから。蓬莱米は害虫にも強く、二期作にも適応したスーパー米。台湾の農業生産高が増加した上に高値で売れるため、農民が著しく豊かになることに。

蓬莱米は、台湾人の食生活をも変えることにもなりました。総督府が高値で買い取ってくれるため、最初は商品として栽培していたのですが、自分らも食ってみるとこれが美味い。次第に彼らも主食として食べるようになりました。

 

そして蓬莱米の隠れた特徴は、冷えても美味いこと。

日本人は冷えたご飯やおかずを食べる文化があります。
炊飯器や電子レンジが普及する前までは、朝に炊きたてのご飯をいただき、昼と夜はお櫃(ひつ)に入れた冷えたメシを食うというのが習慣でした。
なので、朝は「ご飯」と言い、昼と夜は「メシ」と呼ぶ・・・という話を中学生の時に聞いたことがあります。本当かどうか裏は取っていませんが。


逆に中国それがなく、必ず熱を通して熱いうちに食べるのがふつうです。冷製麻婆豆腐や冷やしビーフンなんて聞いたことないでしょ?
特にご飯は徹底しており、日本在住数十年、頭の中はすっかり日本人なほど日本文化に慣れていても、冷や飯とざるそばだけは慣れない中国人もいるほど。だいいち、冷えた中国米のマズさは、ちょっとした米PTSDになるほどすさまじいものがあります。
蓬莱米は戦前~戦後を通して日本に輸出され、知らず知らずのうちに日本人も食べていたのですが、日本人に受け入れられたのは冷えてもOKだったことが大きいと思います。

 

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日本の「冷や飯文化」が生んだ文化の一つ、それが弁当です。英語でもJapanese lunch boxだなんていちいち訳す必要はなく、Bentoです。
弁当は海外には見られない独特の食文化ですが、一つ例外があります。それが台湾。

日本統治時代に台湾でも「弁当」文化が広がり、現在でも「便當」と字を変えて残っています。台湾を旅行すると、おそらく20から30mおきに「便當」の文字と出会うこととなります。「便當」の文字を見ずして台湾を旅行するなど不可能と言っていいほど、「便當」の文字と「弁当文化」は台湾にすっかり定着しています。

台湾にはいわゆる駅弁(鐵路便當)も存在しています*2。台湾鉄道局(国鉄)もHPを作ってアピールしていますが、日本の駅弁との大きな違いは「必ずあたたかい」ということ。
そう、冷えた「便當」は台湾人には受け入れられないのです。
コンビニおにぎりはふつうに食べるのに、「弁当」の冷や飯は何故ダメなのか。ちょっとした台湾人の七不思議です。

 

しかし最近、驚くようなことを知りました。日本統治時代、台湾人は冷めた飯を食っていたのです。
台湾の駅弁は、早くも1910年代前半には台北・新竹・高雄(当時は「打狗」)などの主要駅に駅弁が存在していたことが記録に残っています。基隆~高雄間の鉄道が開通したのが1908年なので、その数年後には駅弁があらわれていたということになりますね。

で、メニューを見るとそれは100%日本風。当然冷や飯でしたが、日本人台湾人問わずみんな食べていました。

また、駅弁も時代を経ると日本風だけでなく、ホテル手作りの西洋風や、焼きビーフン、ちまきなどの中華風も出来たそうです。


日本統治時代が終わり、大陸から逃げてきた「外省人」が台湾に流入するのですが、ある外省人の元政府高官は、

「台湾人は昼食に冷めた弁当を食べるが、外省人は温かい飯でなければ絶対口にしない」

と、当時受けたカルチャーショックを回想しています。
外省人のある作家も、エッセイに書いています。

台湾に来るまでは弁当どころか、『便當』という中国語自体見たことも聞いたこともなかった*3という彼が台湾で鉄道に乗った時、前に座った台湾人が「駅弁」を食べていました。見た感じ美味そうなので、「冷えた飯と揚げ魚と焼肉とたくあん」が入った駅弁を買い、おそるおそる食べてみたそうです。

「めちゃ美味いやん!」

大阪弁で言ってはないと思いますが、彼はそれ以来駅弁大好きになってしまったそうな。
彼が特においしいと思ったのが、駅弁に入っていた冷えた蓬莱米。

「蓬莱米のご飯は冷えても柔らかく、良い香りがした。冷えたご飯がこんなに美味しいとは」

張天心『弁当への恋』*4

と脱帽ものだったそうですが、これは日本の昭和30年前半の話。この時期までは台湾人にも「冷えた飯を食う習慣」があったようです。
それから時代を経て、外省人は「弁当文化」を、台湾人は「あたたかい飯文化」を受け入れた結果、生まれたのが台湾式「便當」。そういう意味では、「便當」とは日本・台湾、そして中国の食文化が混ざりあった「蓬莱弁当」ですね。

 

この「蓬莱米」はその後も品種改良を重ね、「台南越光米(台南16號)」のようなコシヒカリとのハイブリッド種*5も生まれるなど、現在でも台湾米の99%を占めているお米のご先祖様となっています。

この功績もあり、磯はその後、台北帝国大学理農学部の教授に就任します。

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じゃあ戦前の台北帝大の資料に名前が残っているだろうと調べたら、昭和15年(1940)の理農学部の教授一覧に彼の名前が載っていました。

そのまま昭和20年の終戦となりますが、磯は中華民国に請われて台湾に残り、引き続き「蓬莱米」の改良に取り組み、1950年代まで台湾農業に貢献しました。

台湾と磯永吉

1957年、40年以上住んだ台湾を離れ帰国しましたが、その際台湾(中華民国政府)は文化勲章に相当する「特種領綬景星勲章」を贈り、帰国した磯に毎年20俵(1.2トン)の米を終生贈り続け、その貢献に感謝しました。

「プロジェクトX」で取り上げられてもおかしくない、台湾の農業史を180度ひっくり返した男の一生涯が、「蓬莱米」という一言に凝縮されている大事業でした。現在でも、磯永吉は「蓬莱米の父」、末永仁は「蓬莱米の母」と呼ばれ、その功績を讃えられています。

 

最近は「台湾の歴史に影響を与えた日本人」として、八田與一がクローズアップされています。確かに八田の功績も大きいですが、それなら「蓬莱米」の磯永吉もセットみたいなものでしょと私は声を大にして言いたい。一国の主食を変えたという面では、八田以上の功績です。

日本人が台湾に旅行して、

「台湾料理はおいしいね♪」

と言える理由の半分は、磯永吉のおかげにあるのです。もし台湾が今でもインディカ米だったら・・・少なくても美味いと言えるのだろうか。たぶんマズいよ。

 

 旧高等農林学校作業室(磯永吉小屋)

台湾大学に行く予定があるなら、是非訪ねて欲しい場所が大学構内にあります。

 

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旧台北高等農林学校の敷地内、現在の農学部試験農場の構内に、磯永吉の記念館があります。ガイドブックにも載っていない上に、日本語での案内があまりない隠れた日本統治時代探索スポットです。

 

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大正14年(1925)に建てられた、台北農林学校時代の木製の作業所が今でも残り、中が記念館になっています。学生などは、「磯永吉小屋」などと親しみを込めて呼んでいるそうな。それにしても、日本でも大正時代の、それも木製の建物はかなりレアになってきたのに、台湾にまだ残っているとは驚きです。

記念館の中は農業研究器具や書籍などが展示され、台湾農業史には欠かせない歴史の1ページの記念館なので、台湾人の来訪が多いそうです。なぜならば、今自分たちが毎日食べているお米の起源がここにあるから。間接的な自分のルーツ探しともなり、密かに熱いスポットとなっています。

しかし、日本人の来訪は非常に少ないそう。そりゃほとんど知られていない上に(私も大学地図をタップしまくってたら偶然当たっただけなので、偉そうなことは言えない)、広い台湾大学構内の奥、「ここって関係者以外入っていいのかしら?」と遠慮してしまうような場所にあるので、そりゃ知られないだろうと。

その上、建物自体は築100年近く経っているため老朽化が激しく、改修したくても日本円で600万NT$(2,200万円)かかり大学側が渋っているとのこと。去年、大学OBたちが70万NT$(約250万円)を同窓会費から捻出し、台湾でニュースになっていましたが、それでもまだ目標の半分にも届かず(2017年3月時点)。

磯永吉を知る日本人の一人として、日本語で記事を書くことにより、これが少しでも援護射撃となることを祈っています。

磯永吉記念館(磯永吉小屋)

開館日:毎週水・土・日(※開館日に注意)

開館時間:9:30~12:00/14:00~16:30

入場料:無料

公式HP公式Facebookページ)(※ただし、どちらも中国語のみ)

※老朽化が激しく大量に人が入ると冗談抜きで床が抜けるそうなので、入場は10人以内と制限されています。団体で来る場合、人数にご注意を。

 

 隠れた台北帝大時代の建物

大学内には、由来がわからない細かい建物も含めると、台北帝大時代の遺構が意外なほど残っています。その中でも、何故か日本人の間でまったく知られていないものを紹介します。

 

台湾大学機械旧館への地図

それはここにあります。

 

台湾大学機械工程館(旧台北帝国大学工学部)

「機械工程館」と書かれた建物がそれにあたります。「機械工程館」はこの建物の正式名称ですが、学生の間では「舊(旧)機」「機械舊館」と呼ばれているそうで、台大の学生によるとこっちの呼び名の方が通じやすいとのこと。

 

台湾大学機械旧館(台北帝国大学工学部)

台北帝国大学には、昭和16年(1941)に工学部が新設されました。

計画では、写真のような建物を工学部用に17棟も建てるはずだったのですが、戦争による物資の不足と敗戦により、数棟が建てられただけでした。現在残っているのは、この「機械旧館」のみとなっています。

 

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 (臺灣百年歷史地圖より)

昭和20年6月、終戦直前の台北帝国大学の航空写真にも、「機械旧館」が写っています。

 

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この「機械旧館」は昭和18年(1943)に建てられたもので、台北帝国大学が建てた最後の建物でした。

 

この「機械旧館」、台湾ではWikioedia先生中文版に独立した記事があるほど有名なのです。

が、台北帝国大学の遺構を訪ねて台湾大学を訪れ、ネットで公開している日本人数多けれど、誰一人ここを採り上げておらずガン無視状態。歴史の専門家ではないものの、東大の学者ですらスルーしている。逆に、台湾人版には必ず紹介されています。

この建物も立派な台北帝大の遺構なのに、何で知られていないのか?ちょっとした不思議です。

その理由の一つは、「建物として面白みがない」ことがあるかもしれません。

既に紹介した文政学部や理農学部の建物は、バロック建築の風格を持った、いかにも金かけました的な立派な建物です。美的にも美しく、建築学の観点から見てもかなりハイレベルだと思います。

しかし、「機械旧館」は太平洋戦争中のさなかに建てられたもので、空襲に備えて壁を厚くするなど頑丈に作られています。しかし、「贅沢は敵だ」の時代に華美な建物は贅沢の極み。結果、味気のないどこにでもある建物になってしまったという経緯があります。建物として話題性に乏しいと言うべきだろうか。

逆に言うと、余計なものを削ぎ落とした、いかにも工学部機械学科らしい機械的でシンプルな作りとも言えます。これはこれで、建物の美としては成立するのではないかと。

しかし、現文學院などの華美さをまず見た後となるため、それと比べると味も素っ気もない、ただのボロい建物なことは否めないかなと。実際、手入れされていないのかボロいですし。

まあ、私も中国語がわかるからこそ、台湾のサイトもほじくって「機械旧館」を知ったわけで、わからなければ私も無視していたことでしょう。

 

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「機械旧館」は台湾大学になった後も、長年工学部機械科の校舎として使われてきました。しかし、老朽化で2012年に使用停止、工学部の学生によってお化け屋敷のイベントに使われたこともありました。取り壊しも予定されていましたが、2014年に台北市の有形文化財に指定されています。

 

その他の写真については、こちらのブログにいろんな角度からの写真がアップされています。こうして見てみると、とても美とはいえず無骨なものの、それが逆に光を放っているような気がするのですがどうでしょう。

 

他にも、帰国後にブログを書くために再調査したら、
「あ、ここ行ってへんかったわ」
というところが数多くあったので、ここで取り上げた以外にもまだあります。それは次回以降の宿題としておきましょう。

 

台湾大学は、Google mapのストリートビューでも探検することが出来ます。
また、台湾大学の公式地図(中国語版と英語版あり)をクリックかタップすると、その建物の歴史も書かれています。
どうしても行く機会がないというなら、これを見ながらバーチャル台大探索も暇つぶしに良いのではないでしょうか。

 

しかし、ここまででまだ「中編」。学生かOB、あるいは実際に台湾大学を回った人なら、

「あれ?なんで『あそこ』が抜けているんだろ?」

と記事を見て不思議に思うことだと思います。


お次の「後編」は、その『あそこ』を取り上げます。

 

*1:ただし、戦後にエッセイも書いています。

*2:「駅で売っているテイクアウト式食事」なら世界中にありますが、組織的な駅弁が現存し、食文化として定着しているのは日本と台湾のみ。

*3:『便當』は日本の「弁当」からの外来語で、中国には単語自体存在しません。今でも台湾未経験の中国人には『便當』の意味がわからない。

*4:『人人身上都是一個時代』という本の翻訳。

*5:聞くところによると、「台湾米穀史最高級の美味さ」らしい。