昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

消えた遊郭・赤線跡をゆく-和歌山天王新地編

遊郭・赤線跡探索がライフワークの私だが、興味の範囲はあくまで歴史であり過去である。「現役」には特に興味を持たないので和歌山県にいくつ「現役」があるのか、それはわからない。
が、和歌山県で私が唯一知っている場所がある。それが今日のお題、天王新地である。

 

 

天王新地はいつからあったのか

 

業態者集団地域ニ関スル調

「業態者集団地域ニ関スル調」という、内務省衛生局*1の資料がある。表紙にマル秘の印がついている非公開だった資料で、最近ある人の手により復刻された。
衛生局なので花柳病(性病)の蔓延の実態調査報告なのだが、業態者集団地域=性病危険地帯=私娼窟でもあり、本資料は事実上の私娼窟リストとなっているのが大きな個性である。

 

遊郭の資料は、探す努力さえ怠らなければ様々な形で見つけることができる。
そして、見つけた資料の断片的な情報をパズルのように組み合わせ、知らなかった事実を構築する。それが過去を料理する調理師としての歴史家の腕の見せ所である。
だが、私娼窟になるとそうはいかない。
私娼窟はそもそも「存在するはずのない」「存在してはいけない」場所にある売笑地帯。いわば黒歴史中の黒歴史。

東京の「玉の井」は有名だが例外中の例外、玉の井以外は歴史の大河に流され、文字としてほとんど残っていない。70年以上の月日が経った今、存在の証明が非常に困難なのである。

 

ところで、和歌山県は全国に遊郭多しと言えど最後まで置娼に抵抗した県である。

「陸軍聯隊あるところ、遊郭あり」
近代遊郭・赤線史を研究して得た私の説である。

陸軍は遊郭の設置に積極的だったのだが、その理由はシンプル。
日曜しか休みがなく、かつ現在のように娯楽の選択肢がない兵隊にとっての愉しみは、ぶっちゃけてしまえば食うか飲むかヤること。
自由時間なので何をしようが勝手だが、かといって街娼に手を出し性病に罹ってくれると困る。同じヤるなら性病検査を定期的に行い、憲兵も定期的に周回(または常駐)している遊郭でお願いしたい。*2
軍と遊郭がワンセットなのは何もスケベ心だけでなく、兵隊の性病感染防止という、やむにやまれぬ事情があったのである。

上記の事情もあり、陸軍聯隊所在地にはほぼ例外なく遊郭があった。が、その法則に当てはまらない地域が日本に3つだけ*3存在した。和歌山はその一つだった。

明治以降も、遊郭設置の懇願は幾度もあったが県は頑として拒否し、ようやく置娼を認めたのが明治30年のことであった。それも新宮・大島・白崎(糸谷)の3ヶ所のみ。それ以後増えることはなかったので、県が新設を許可しなかったのだろう。


しかし、和歌山市内には遊郭ありませんとクリーンを装っても、隠れて商売していた私娼窟はあった。

和歌山市で有名な私娼窟の一つに、阪和新地がある。
省鉄・阪和電鉄東和歌山駅前に公然と作られたこの娼館街は、「和歌山の玉の井」として遠く大阪からも客が駆けつけるほど繁盛したという。
その阪和新地と双璧を成した市内の私娼窟が、今日の主役天王新地である。

 


天王新地がいつできたのか、確かな年代はわからない。
おそらく自然発生的なものだっただろうが、「生年月日不明」というのが私娼窟すべてにただよう孤児みなしご感である。

 

業態者集団地域ニ関スル調天王新地

上記資料によると、昭和8年に存在していたことが現時点で判明する最も古い消息である。9年、13年、14年にも引き続き記載されており、戦前からあったということはこれで確証が持てる。
昭和8年の資料では、業者数43件、「業態者」すなわち売笑婦の数87人となり、昭和14年になると業者数40件と少し数を減らしているが、「業態者」は110人と増加している。

昭和12年から始まった支那事変(日中戦争)で出征してゆく兵隊たちの「筆下ろし」で繁盛したことが、容易に想像できる。これは遊廓も同様で、数字を追ってみるとだいたいこの時期がピークな場所が多い


が、それ以上のことは数字からは何も語られてこない。それが私娼窟ゆえの限界。
ただ、戦後も残ったことから、戦争中も絶えず営業されていただろう。人間の原始的な欲が絡まった商売は、どんな状況でもなくならない、ホテルやレストランがなくならないように。

 


赤線時代の天王新地

私娼窟と遊郭を明確に分ける要素は、
「業者数・女性数・遊客数などを警察が把握している」
「道府県統計書に数字が出ている」
この2つである。逆に言えば、統計書に出ていない場所はイコール私娼窟と言っても良い。*4
天王新地は統計書に名前がないので私娼窟に分類されるが、前述したとおり、私娼窟は決して表に出ることがない。
しかし、戦後になりGHQにより形だけ遊郭が廃止になったあと、かつての遊郭・私娼窟は「赤線」として再デビューを果たした。
「赤線」も戦前の区分であれば「私娼窟」、遊郭が廃止になり警察黙認の私娼窟に「格下げ」になっただけなのだが、それによって色街の裏街道で泥水をすすっていた戦前の私娼窟が、一躍表に出る面白い現象が発生することともなった。

 

赤線時代の天王新地のデータは、ほとんどないに等しい。
『和歌山県警察史』を紐解いても、まるで存在しなかったかのように記述ゼロ。唯一、『全国女性街ガイド』には以下のように紹介されている。

「紀州五十万石の御城下も戦災から面目一新。芸者より赤線が繁昌。
阪和新地に三十軒、天王新地に六十五軒、女は合わせて四百名。
最近は、三年前の風水害で付近の湯浅、御坊辺から素人娘が流れ込みうまく行くと情緒てんめん」

天王新地単独の従業婦の数字は明らかではないが、半分ずつとしても200名の女性たちがここに集結していた。

 そして昭和33年(1958)の売春防止法施行でその歴史に幕を閉じ…ずに現在に至るまで半ば公然に現役を続行している。


なぜここに作られたのか


天王新地は、JR阪和線紀伊中ノ島駅からは徒歩6~7分ほどの距離。辺鄙と言い捨てるほどのものではない。
かといって、決して交通利便な場所と胸を張れる場所でもない。
なぜそんな中途半端な地域にできたのか、素朴な疑問が残った。

しかし、天王新地が隆盛をきわめていた戦後の売春防止法施行寸前のエリアを見ると、そのヒントがうかがえた。

 

紀和駅

紀和駅は、かつては「和歌山駅」として大看板を背負っていたことは、先日書いた。
「和歌山駅」だったころの周辺地図を俯瞰してみると、戦後最盛期と思われる新地の範囲から紀和駅まで、それほど遠くないことに気づく。実際に歩いてみても、大人の足であれば6~7分で入り口まで着く。全くの徒歩圏内である。

紀和駅前から南へ続く道は、和歌山市の繁華街や官公庁街へと続き、一時は通勤・通学客で賑わったという。が、夕方以降、東へ向かう別の流れも戦前から昭和中期にかけてあったはずである。
新地周辺に中小の工場(特に鉄工所)が結集し、金離れが早い労働者(潜在客)が集まっていたこともあるが、天王新地がここに作られた理由は、2つの駅の中間に位置しどちらの駅からでも、列車で通う中距離客の集客もできるという利便性だったのではなかろうか。

 


現在の天王新地

過去の探求はここで止め、現在の天王新地へと足を進めてみた。

 

天王新地入り口

見ていて痛々しいほどに朽ちた新地の入り口。長年の劣化の中新しいものに替えられることなく、自然に朽ちるに任されている。
かつてはこれに明かりが灯り、夜のオスどもを誘っていたのだろうが、この無残な姿を見ると、まともな神経を持っているならば先へ進む気がなくなることだろう。
ヤル気満々のオスのテンションを下げるにはもってこいの玄関ではあるが、これが天王新地の現状を伝える最大の現物と言えよう。

 

和歌山天王新地入口

裏側はこのとおり。

「天王料…」

と途切れた看板が痛々しいが、表は

「理組合」

と続いているため、表裏で「天王料理組合」となるユーモアなのだろうか。そんなわけはない。ただ崩壊しているだけである。

 

 

天王新地

先へ進んでも、店の看板はあるが営業してるのかどうかわからない。訪問時が朝なので「お休み中」なのだろうが、人の気配すらしないのは気のせいだろうか。

 

 

 

天王新地の現在

突き当りまで進み、やっと現役らしき店を見つけた。
天王新地の敷地を周回し営業してそうな店はここくらいか…おそらく営業しているのは3軒か4軒くらいだろうと思うが、「人の気配」がしたのはこの店だけである。

 

この店の角を左に曲がると、また北への道が続く。その道筋に営業中の店はなさそうで、一部は民家になったり、取り壊されて介護施設などになっている。昭和33年の住宅地図によると赤線時代は裏路地になっており小さい店が数軒存在していた。「天王ゆ」と書かれた銭湯らしきものまであった。接待婦や客が常連だったのだろう。

 

天王新地香月繁乃家

営業はしていないが、かつての店が残っていた。資料によると、ここは「香月(右)」「繁乃家(左)」という名前だったそうな。

 

天王新地に残る赤線時代の店

「繁乃家」跡には黒と白で模様されたタイルが残っている。

 

天王新地の門

そのまま前進すると、新地のもう一つの門に出くわすが、ここもすっかり朽ち果てて門の体をなしていない。天王新地のお寒い現実を、この門が黙って語っているかのようである。

 

現役の天王新地は、これで終わりである。

知名度は高いものの、いざ現地を探索すると猫の額ほどの広さである。こんなものかとつぶやきたくなる。こんな狭いエリアにかつて「65軒」の店がひしめいていたなど誰が信じろというのか。

 しかし、

「天王新地はかつてもっと大きかった」

としたらどうだろうか。

 

 

 

ここだけではなかった天王新地

 

天王新地の地図赤線時代

現在の天王新地のエリアは、「コ」を時計回りに90度回転させた道沿いだが、昭和33年売春防止法施行直後と思われる住宅地図を紐解くと、現在の2~2.5倍の広さはあったことはほぼ確かである。今の範囲だと紀和駅(当時和歌山駅)からはちょっと遠く、最寄り駅としては不適格である。が、赤線、または戦前(推定)のエリアだと十分最寄り駅足り得る。

 

 

和歌山天王新地

現在は場末の少しくたびれた下町の住宅地という感があるが、実はここもかつて天王新地の一部として店が軒を連ねていたという。

 

 

和歌山天王新地の昔の場所

暗渠と化した川に沿う道は、東京の玉の井を思い出させる。
店はすっかりなくなったが、
「ちょっとお兄さん、寄っとくれよ」
という声が、今にも家々から聞こえてきそうである。実際に聞こえるのは家から漏れ聞こえるテレビの音声だけだが。

 

 

天王新地若葉会事務所跡

天王新地

朽ち果てた看板にいわく「天王新地料理組合」だが、現在それが本当にあるのかすら定かではない。稼働中が数軒だと組合もへったくれもないだろうが…。
しかし、かつては「天王新地料理組合」の前身の建物が存在していた。写真の場所がそうである。おそらく赤線時代の組合のままだろう、丸電灯だけが寂しげに家の前を見守っている。
全盛期は6~70件の店に100人近い娼婦が嬌声と嬌体を競った歓楽街、ここの賑わいも夜が更けると男と女の臭いがムンムンして盛んだったことだろう。
もちろん、現在はここも空き家となり当時の面影は見る影もない。

 

バス停名からも消え…

天王新地バス停

天王新地の前にはかつて、名前そのままのバス停が存在していた。「現役」をバス停名にしているのは、非常に珍しい。


すでに廃線になったが、飛田新地の前には南海平野線の「飛田」停留所があった。設立時期と位置的から察するに、新地への客を見込んだのだが、「飛田新地前」などとストレートに書くのは、さすがにはばかられたのだろう。
天王新地バス停には、そんなためらいを全く感じさせない。
だが、見方を変えるとこれは吉事である。天王新地が「穢(けがれ)」として忌み嫌われていたのではなく、現地コミュニティに溶け込んでいたあらわれだと、私は思う。でもないとわざわざバス停名にはすまい。したらしたで猛烈な反対運動が起きるのは明白だからだ。

しかし、この「現地密着」にも終わりが訪れた。バス停が「地蔵の辻」に改名されたのである。新地の入り口があの有様なので、天王新地の終わりを和歌山バスに通告されたかのような措置であった。

 

 

天王新地の現状を目の前にすると、黄昏などという美しい言葉では表現できない。
前述のとおり数店舗は営業しているものの、それは風前の灯火。
その灯が消え、歴史の固有名詞となるのはそう遠くない。その流れにいくら抗っても、かつての繁華はもう望めまい。
ここがかつて嬌声で賑わっていたことを想像するだけで、寂しさ以上に虚しさを感じる。かといって往年の繁栄を想像するのは、死んだ児の歳を数えるようなものだろう。
これが私の率直な感想である。

私の見た新地の姿は、老いた蛍が絞り出している最期の光かもしれない。
「現役」には興味ないとは言え、その一つが灯を閉じる姿に後ろ髪をひかれつつ、ここで筆を置くとする。
この記事が天王新地最期の姿にならないことを祈りつつ。

 

==こんな記事もあります==

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

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*1:厚生労働省の前身

*2:藝妓・娼妓・私娼のうち性病所有率がいちばん低いのが遊郭の娼妓。「芸は売っても身体は売らない」がモットーの芸妓の感染率がいちばん高いのが、笑うに笑えない問題

*3:和歌山・高崎・水戸

*4:ただし、廃娼県宣言した群馬県・秋田県などは除く