昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

【昭和考古学】飛田墓をたずねて

BS歴史館

以前、「BS歴史館」という歴史番組がNHKで放送されていました。歴史好きとしては見逃せない番組だったのですが、偶然見たときのお題が大塩平八郎でした。
それをボケーっと見ているうちに、

「お?」

と琴線に触れるもんがありました。
大塩平八郎の乱の詳細はWikipedia先生に任せるとして、大塩は乱が失敗した後、40日ほど逃亡していました。が、最後は隠れ家を追っ手に見つかり、持ってた火薬に火を放って壮絶な爆死。

その屍は当然バラバラになったものの、執念の縫合により乱に参加した同志とともに磔になったそうです。

 

大塩平八郎処刑鳶田

九州は松浦藩の藩主、松浦静山が大塩平八郎の乱に興味を持ち、早馬で仕入れた情報をもとにして作った「甲子夜話」という詳細な記録があります。上の写真はその中に書かれた、鳶田での大塩平八郎以下の磔の図で、赤丸が大塩です。

ここで私のアンテナが反応しました。

「鳶田?」

鳶田、今のJR新今宮駅の南側周辺、に墓場があったって話は以前から小耳にははさんでいましたが、こんなところで出てくるとは。

気になって早速調査してみると、江戸時代の地図にこんな記述を発見。

 

昔の今宮鳶田飛田の地図

【増脩改正摂州大阪地図 文化3(1803)年】

住吉(紀州)街道の道外れに「鳶田墓」と記述されているところがあり、その横に「刑場」と書かれています。その上には、処刑場の執行・管理人である非人村の文字も見えます。飛田に処刑場があったことはこれで間違いありません。
墓はおそらく、処刑された罪人の墓だったのでしょう。
大阪には、有名な千日前をはじめいくつか刑場があったのですが、鳶田の方は大塩平八郎のような磔か、主に火付け(放火犯)が服する火あぶりの刑用の刑場でした。

 

(写真)

【出典:『続 大阪古地図むかし案内』】

明治16年(1883)発行の「新雕大坂細見全図」です。「今宮村」と書かれているのは現在の恵美須町駅あたり、「今」より北が現在のでんでんタウンという認識で結構です。

それより南、鳶田に「埋葬地」と表記されています。

 

 

第五回内国勧業博覧会

明治36年1903年大阪新世界内国勧業博覧会

(出典:『第五回内国勧業博覧会』国会図書館デジタルコレクション所蔵)

明治36年(1903)、大阪の地に「第五回内国勧業博覧会」が行われました。
天王寺周辺が会場となり、会場跡は現在、新世界・天王寺公園などに変わっていますが、その時の地図には鳶田の墓は跡形もなくなり更地に。

記録によると、江戸時代の刑場の墓・火葬場はすべて阿倍野墓地に集約されたとあるので、鳶田の墓もこの頃には阿倍野にまとめられたのでしょう。

 

1914年大阪飛田釜ヶ崎地図

が、1914年発行の『大阪市内詳細図』には、鳶田墓があったとされる部分に墓地の記号があらわれています。この時期にはまだ「片鱗」があったのでしょうか。

 

この明治後期、鳶田墓の西、住吉街道沿いにあらわれたものが木賃宿。木賃宿とは日割りの宿のことで、大阪では宿をさかさに読んだ「ドヤ」として知られています。そう、この頃成立したと言われているのが、「釜ヶ崎」です。
詳しくはまだ追って書きますが、ここあたりに人が集まり始めたのが1899年に電光社というマッチ製造業者が工場と社宅を作ったのが始まりです。社宅は社員以外も居住可能だったこともあり、工場を中心とした一集落が出来上がりました。

 そこから日露戦争の戦争景気で周辺に労働者が集まったのが、現在まで続く、地域としての釜ヶ崎の始まりとされています。

 


大正時代、昭和の地図を見てみたら、墓があったところはすっかり整地されて、釜ヶ崎の貧民街の巣窟になっていりました。
そして、ここに墓があったことは完全に忘れ去られましたとさ・・・。



太子交差点新今宮駅前
JR新今宮駅東口を降り、南へ向かってすぐにある太子交差点。そのすぐ南側に、200年前は墓場と処刑場があるだけの荒れ地だとは、現在の光景を見ると到底信じられません。
その墓がどこにあったのか、現在の光景では想像すらできません。が、幸いにも江戸時代から変わっていない目印が一つあります。
それが、紀州街道。

鳶田墓処刑場推定位置

江戸時代の地図と明治16年の地図と、google mapを見比べて作成した予想図です。
鳶田墓の敷地は「けっこう広かった」そうなので、ざっくりながらここあたりかなと。
ここあたりは、特に阪堺線から西は戦争の空襲で焼け野原になり、その後道筋も含めて整理されてしまったので確定が難しかったですが、幸い大正時代~昭和初期までは、江戸時代の地図に書いてた、墓を囲むようにクニャって曲がった道(川?)が残っていたので、それも参考にしました。
そこの南東隣に、大塩平八郎も処刑された刑場があったようです。

 

俗説をぶっ飛ばせ!

「飛田遊廓は鳶田墓&刑場の跡に作られた!」

こんな俗説をネットで散見します。
しかし、上の古地図と比べると一目瞭然。ギリギリではあるものの、飛田新地と鳶田の刑場は何の関係もないことが、ここまでの流れでわかります。
それ以前に、飛田新地あたりの旧地名は堺田、「飛田」は飛田遊廓が出来てからの俗地名(公式には認められていない地名)。もし遊廓の名前が地名に忠実に名付けられるなら、飛田ではなく「堺田遊廓」になっているはずだし、なっていないといけません。

正式な、というかそもそもの「鳶田」(飛田)は、紀州街道が大阪環状線新今宮駅を跨ぐ「ガード下」及び南側周辺でした。では何故飛田新地が「飛田」になったのか。

 

同廓の地は前にも記した通り、天王寺村大字堺田が固有の地名で、飛田と称へるのは今宮ガードから南の辻の地域だったのだが、それをどういう訳か、廓の名としたのである。

『上方 第廿八号 飛田遊廓の沿革』1933年刊

 1933年(昭和8年)といえば、飛田遊郭が出来てそれほど時が経っていないですが、それでも「どういう訳か」飛田という名前になってた…つまり由来は「知らん」としています。「飛田」が飛田と名乗っている自体が謎なわけで。

当時は当事者が当然存命だったので、当人に聞けばいいのにと思うのですが、それはいまさら言っても仕方ない。

 

そんな飛田新地にはさらなる謎があります。
それは、「何故か北西の角だけ取れている」こと。
 

飛田遊郭の嘆きの壁

飛田遊廓は四方をぐるりとコンクリートの壁で囲まれていたのですが、北西の壁の部分だけ何故か不自然になっています。それも何か意図的に。
遊廓が出来る前、ここはは人家もない荒地か畑なことは資料で確認済みなので、建物があったからということは、まずあり得ない。

だいいち、当時は廃娼運動のピーク、角を削る必要がある建物密集地に遊廓なんか作ったら、とんでもないことになっています。


この「北西壁の謎」、10年ほど気になっているのですが、今回ある仮説を思い浮かべました。
「もしかして魔除け?」
今回の調査で、飛田新地のちょうど西北、つまり角が取れている方向に墓と刑場があったことがわかったので、それに対しての魔除けかな?

発見してから10年、わからないなりにこう推理してみたのですが、読者のみなさんはどう推理するでしょうか。

 

 

釜ヶ崎あいりん地区のドヤ

鳶田の墓があった周辺をくまなく探してみました。
現在の「鳶田」にあるのは墓標ではなく、現代の木賃宿と鉄筋コンクリートの森林。聞こえるのは車のエンジンと阪堺線のチンチン電車が走る音。そして、鼻につく釜ヶ崎独特の、あの「小便と汗と安物の洗剤が混ざり合った、何とも言えない」においと、日本酒ともビールともつかぬアルコールのにおいだけ。
予習にググってみると、15年前まで片隅に「太子地蔵尊」というお地蔵さんがあり、ここに墓場があったことを語る唯一の遺構だったそうです。しかしそれも今はなく、ここの露に消えた名も知れぬ人たちの無念は、今は都会の喧騒と共に完全に消え去ってしまいました。
まあ、それも数万年、数十万年という歴史の大河で演じられた劇の、ほんの一幕に過ぎません。


鳶田の露の亡霊は

歴史の土に埋もれたり

大塩無念の刑場の

ビルがかれらの墓標かな