昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

BEのぶの語学論 第一章-何故外国語を勉強するのか

 

 

1.外国語を勉強する実情

 

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そもそも外国語って、何故勉強するのか。

就職で有利になるためのアクセサリーとして勉強する人もいます。
海外旅行のために勉強する人もいます。
訪日外国人観光客の増加で、仕事面で必要になってきたという人もいます。
本人もはっきりわからない、漠然とした海外への憧れからかもしれません。私が中学生の時は、まさにこれでした。

 

外国語を勉強する理由も様々。興味がある言語も様々。
十人十色ではありますが、日本の外国語学習者4000万人(←ホンマかいな!?)に共通する根本があります。

それは、「何故外国語を勉強するのか論」

個別の外国語勉強論はそれこそ十人十色ですが、「外国語を学ぶ必要性」という根本は学ぶことはないし、「実用性」が重んじられる現在の外国語界の実情では、そんなことどうでもいい。

「楽に外国語をマスターできる方法を授けろ!」

と鼻息を荒くしてこの記事を見ている人もいるかもしれません(笑

実用一点張りで、外国語を勉強する哲学がおざなりになっているからこそ、この根本を見直してみる機会かもしれません。


なぜ外国語を勉強するのか、というそもそも論

 

外国語を勉強する目的は、一体なんなのか。

 

「外国語を話せて外国人とコミュニケーションを取るためじゃないの?」

 

それも正解です。
しかし、その正解はまだ「低い次元の正解」です。

私の持論なのですが、外国語を学ぶ目的がコミュニケーション「だけ」であれば、この世に外国語大学なんて要りません。外大はすべて専門学校に格下げの上、ECCなりどことなり英会話学校に払い下げればいい。外国語勉強したかったら、みんなそこに通えばいい。あるいは、一部自治体ではやっていますが、中高一貫校に「外国語科」を作って6年間みっちり国際教育をすればいい。

 

低い次元と言い切るのであれば、それより高い次元があります。


「何故外国語を勉強するのか」とは、すなわち「何故外国語大学がこの世に存在するのか」。外大が何故この世にあるかという柱は、


「対象国(地域)の情勢を学ぶ」

「対象国(地域)の人が築いた文化を学ぶ」

「対象国(地域)の人の考え方を学ぶ」


この三本です。
この三本柱の前には、ある枕詞が必ず付着します。
それは、「外国語を通して」という言葉。

外国語大学がなぜ存在するのかが、ここにあります。

 

外大や外国語学部のパンフには、以下のことが書いてあります。

「外国語はあくまで対象国(地域)の文化などを学ぶための道具」

外大の根本、外国語を学ぶABCなので、案内のどこかに必ず書いています。書いていない大学は存在しません。大学によっては、もうくどいくらいに、5回も6回も強調している所もあります。

私が受験生だった頃の、東京の某国立外国語大学の案内なんざ、

「読む書く話す聞くなどの技術面だけで満足する学生なんて本学には不要。
専門学校か他大学にでも行ってちょうだい!」

と、見出しの学長あいさつから超上から目線。
うわー!全然ウェルカムされてへんやん!という衝撃に、25年経った今でも覚えています。


最近、大学が「専門学校化」して専門学校との垣根がどこまでなのか、よくわからなくなる時があります。
しかし、外国語に関しては今でも明確な垣根が存在しています。

 

外国語専門学校
あくまで「読み書き」「話す聞く」などの「技術」に特化して学ぶ。即戦力育成がメイン。「話せる」「聞ける」が卒業の必須要件。

 

外国語大学(最近の外大もちょっと専門学校化してるけど・・・)
上記「三本柱」の学習がメイン。対象国(地域)情勢に通じた専門家を養成。
「技術としての外国語」は必須要件ではないので、ゼロは論外だが(卒業できる程度なら)なくても特段支障はない。
4年のうち「技術」の学習は1~2年のみ。あとは駅前留学(セルフサービス)でよろしく。言い方変えれば、てめーら大学生なんだから1~2年ありゃペラペラになるだろ?ということ。

 

同じ「外国語学校」でも、実はベクトルの方向が違っていて、住み分けが出来ているのです。「話す聞く」などの技術面と、「対象国(地域)全般を学ぶ」ことは別ですよということも、この住み分けでわかります。
事実、東京外大や上智大学は、外国語大学とは別にオープンアカデミーという名の外国語学校も作っています。外大の存在意義がわからないと、外大が外国語学校を作るなんて屋上屋を架してどうすんの!?と混乱してしまいますが、理由は上記の通り。
語学技術だけでご満足なら、大学行かずにこちらへどうぞ!いちおう「東京外大」「上智」ブランドはありますよ!ということです。

たぶん、ついて行けない人は放置プレイされてそのまま落第の本科と違い、お客様として扱ってくれるとは思います。うん、たぶん。

 

レアリア


「対象国(地域)の情勢を学ぶ」

「対象国(地域)の人の文化を学ぶ」

「対象国(地域)の人の考え方を学ぶ」

この三本柱を、ある人は「レアリア」と名付けました。
「レアリア」でググるとアニメが出てきますが、本編とは一切関係ありません(笑)
レアリアとは、千野栄一という言語学者が著書で述べた言葉で、


チェコ語に「レアーリエ」(realie)という語があり「ある時期の生活や文芸作品などに特徴的な細かい事実や具体的なデータ」という説明がついている。
これは本来ラテン語から来た語で、英語にも realia、ドイツ語にも Realien、ロシア語にも реалии という形で姿を留め、これらの語はいずれも複数扱いされている。


『外国語上達法』P178

何のことかさっぱりわかりません。私もこれだけ引用されてもわかりません(笑)
この言葉を離乳食くらいに噛み砕くと、「言語に含まれる文化全般」のことです。熟語風なら「言語背景」とでも表現できるかと。
しかし、英語のrealiaをオックスフォード英英辞典で調べても本に書かれた意味はないので、意味は著者のオリジナルと思われます。

レアリアの重要性も、表現は各々違うものの、外大や外国語学部のパンフに必ず書かれています。

言葉とは話し手の祖先たちが積み重ねてきた文化の積み重ね、言葉にもその話し手の祖先がたどってきた、歴史や思想などの文化が残っています。特に、歴史にはその言語を話す民族のストーリーが刻まれており、歴史を深く勉強すると民族の行動パターンまで読めてきます。

そのレアリア3本柱を実践した、ある人物がいます。

 

リヒャルト・ゾルゲ

リヒャルト・ゾルゲという人です。

学者?政治家?ジャーナリスト?いいえ、世界屈指のスパイです。

ゾルゲは日本を本拠地にして、ソ連のスパイとして日本の政治中枢の情報をソ連に流していた人ですが、日本でのスパイ活動を命じられた時、日本とのつながりは全くありませんでした。

そこで彼は日本に「赴任」してすぐ、ある行動に移りました。

それは、日本史について書かれた本を片っ端から購入し、すべて読破したこと。そして、それを理解できるほどの日本語力を身につけたこと。昭和16年、彼がスパイとして警察に捕まった時、家(アジト)には1000冊ほどの日本史関連の本があったと記録に残っています。

これは実はスパイ活動の基本中の基本。スパイ活動の第一歩は、特定国(地域)のレアリアを身につけることです。密かに部屋に侵入して盗むのがスパイ・・・それ007の見すぎです(笑

007ファンには申し訳ないですが、ジェームズ・ボンドは諜報活動全体で言えばただの犬です。上級スパイは表舞台に出ず、その地域情勢に360度精通し、それを土台に犬が咥えてきた情報を分析し、判断・評価するオンリーワンの存在。つまりゾルゲです。

 

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ゾルゲの相棒、我々から見るととんだ国賊ですが、同じスパイだった尾崎秀実(ほつみ)も当時の内閣の政策に影響を与えるほどの、中国情勢のスペリャリストでした。私など足元にも及びませんが、大先輩のような人ですね。

ゾルゲ本人が、日本を知るための勉強をこう述べています。

「日本における我々の情報目的を首尾よく達成するためには、歴史に対して深い理解を持つこと。これが私の信念である。

私は、日本の古代史、政治史、経済史をよく勉強した。日本の歴史に照らし合わせてみると、現代の問題も容易に理解することができた。

こうして私は、日本の政治・外交などをすぐに評価できるようになった」

ゾルゲ獄中手記より)

 スパイという動機ではありますが、彼は外大の授業レベルのことを、独学でやっていたのです。

ゾルゲのこの言葉、私も経験からすごくわかります。私も中国史を勉強し、毛沢東語録まで丸暗記して中国人を「革命無罪!」と「打倒」しながら「中国」を勉強した結果、彼らの行動パターンがある程度読めるようになりました。

ゾルゲのあまりの見識に、取り調べを行った検察官がこのまま死刑にするのはもったいないと、タイプライターで手記を書く特別許可を与えました。そのため彼の考えの基本が文字に残っているどころか、彼の著書が今でも書店に並んでいます。それを見ると彼の日本に対する深い分析力に驚愕、いや、寒気すら感じます。こいつ、学者になってたら日本学の大碩学になっていたものを。

ゾルゲのおかげで日本の昭和史がメチャクチャになったと言っても言い過ぎではないので、彼に対する評価は様々です。が、スパイという芯を抜けば、これから外国語を勉強したい、外大で勉強したいと決意した人は、ゾルゲのこの姿勢を真似すべきだと、一語学屋さん視点で思います。

 

ゾルゲが日本でスパイ活動をしていた全く同時期、ある日本人スパイがソ連のスパイとして、ゾルゲたちとは全く別のソースから情報を取っていました。その名はエコノミスト。当然コードネームで、ゾルゲも「ラムゼイ」というコードネームを持っていました。

この「エコノミスト」、ゾルゲ以上の日本の政治中枢の情報、例えば大臣どうしのヒソヒソ話や御前会議の細かい話まで報告していたので、かなり高い地位の人物だったことは確かです。しかし、日本は1990年代のソ連崩壊まで「エコノミスト」の存在に気づかず。彼が一体誰だったのか、正体は今でも謎のまま。日本史の暗い闇の一部です。

 

 

日本語に残る「歴史」

日本語は、海外の大陸国家のような異民族の侵略などの民族シャッフルがないため、言語的には化石のように古語が残っています。我々はネイティブの当事者なので気づかないですが、世界的にはシーラカンス並みの希少価値があります。良い意味で、古代中国語や北方系言語、果ては東南アジア系(?)言語が、日本語という壺の底に沈殿している感じです。


外国語の勉強を含めた「ことば」を学んでいると、こんな言葉にぶつかります。

「辺境には古語が残りやすい」

日本語に例えると、言葉の発信基地だった畿内(特に京都)から遠く離れた、東北・九州・沖縄にこそ大昔の日本語を残しているという理屈です。
東北弁で「めんこい」という言葉があります。
これは東北にしか使われていないので、アイヌ語語源や東北独特の表現と思われがちです。そう思っているめんこいユーザー(東北人)も多いと思います。
しかしこれ、実は「めぐし」という上代奈良時代以前の日本語)が語源。意味も同じです。
アホを「アフォ」とネットで書く人がいますが、平安時代から江戸時代初期のハ行は「ふぁ行(英語のf)」に近い発音だったので、「ほ」は「ふぉ」となります。ということは、「はしばひでよし(羽柴秀吉)」は秀吉が生きていたリアルタイムでは、「ふぁしばふぃでよし」だったことは、当時のキリシタン文書(ローマ字で書かれた日本語文書)から明らかになっています。

日本も、「にほん」「にっぽん」の二種類の呼び名がありますが、なんで2つもあるの?と疑問に思ったことありませんか?これもは行の変化と関係があります。

「にっぽん」の方が、言い方として古いのは確定です。何故ならば「ハ行」が「ふぁ行」になる前、つまり奈良時代以前は「ぱ行」だったから。また、織田信長が生きていた頃は「にふぉん」と言っており、「にっぽん」と同じように使われていたことが、南蛮の宣教師の記録からわかっています。信長も秀吉も、家康も「にふぉん」と言っていたのです。そして、「ふぁ行」が江戸の元禄年間には、九州の一部を除きほぼ全国的に今の「はひふへほ」になりました。

しかし、ふつうは古い言い方として「にほん」に駆逐されて消滅しているはずの「にっぽん」が、何故か「にほん」と共存して現在に至っている。意味が同じなのに共存する例は、日本語はおろか世界の言語でも珍しいケース。ふつうはどちらかが死語となり古典の中に安住の地を求めます。

あくまで個人的な身勝手仮説ですが、「にほん」と「にっぽん」は、過去は少しだけニュアンスが違っていたのではないかと。大昔の人は、「にほん」と「にっぽん」を何かしらで使い分けていたのではないかと。事実、同じ意味で競合する場合、一方の意味が少し変化し生き残りを図る例は数多くあります。

「アフォ」も、ネット時代に1000年分先祖返りしてしまったのか。DNAにかすかに残る「ふぁ行」の亡霊が現代に蘇り、そう書かせているのか。

ちなみに中国語も、辺境+民族入れ替わりが激しくなかった南方の辺境方言に、唐時代の古語やアクセントが油かすのように固まって残っています。

さらに、春秋戦国時代三国志時代の中国語の再現音を聞いてみると、タイ語ベトナム語そっくりだったりします。試しに古代中国語を聞いた後でタイ語のニュースをようつべで聞いてみると、ほとんど違和感がない。

これもことばの辺境であるタイやベトナム語に、古代中国語の片鱗が残されていると、私は思います。

 

こういうのを「歴史言語学と言うのですが、こういう積み重ねによって、日本語の歴史や文化をより深く知ることができる。日本語なので「外国語学」ではないですが、立派な「語学」です。

 

国語学習の究極の目標!?

しかし、外国語の勉強にはさらに高み、究極の目標があります。

「外国文化を鏡にし、自国を鑑みること」

これは外大のパンフには書いていません。私の外国語人生から学んだ経験訓です。
といっても、外国語を勉強していくと自然と学ぶ外国語の悟りみたいなものなので、特に珍しいことではありません。
この悟りを得るには、おそらく10年単位の時間がかかる上に、それを文字化し可視化する人が少ないだけだと思われます。

 

「外国語を一つ会得するということは、違う見方をする別の眼を持つに等しい」

という言葉が残されています。誰の出典かは忘れましたがゲーテだとずっと思ってましたが違うらしい)、この言葉は非常に的確です。
海外に住み、外国語をある程度習得すると、自然と「第二の眼」を持つようになります。その第二の眼とは、日本と日本人を客観的に見る眼のこと。
私のブログをよく見ると、「日本人は」「日本人が」など、自分が日本人なのに日本人を突き放したような、第三者的な書き方をしていることがあります。
最近は読者に忖度し、「我々」と枕詞をつけたりして主観的な表現を心がけていますが、無意識なので探してみるとけっこうありますよ(笑)
これも海外で身についた「第二の眼」のしわざ。
日本人なのに日本人から一歩引いて日本と日本人を客観的に見る目、冷静に日本と日本人を見ているもう一人の自分の存在が、自然についてしまったのです。
もちろん、これは外国語を学んだ副産物ですが、その鏡となったのが中国と中国語。
日本語は中国語の影響が強い言語なので、鏡にすると反射が非常に強いのです。これも書き出すとまた長くなるので、また機会があれば。

 

”外国人から見た日本“という観点の番組が最近流行っています。
人によっては、

「日本ホルホル番組うぜー」

とか言っていますが、外国人という「第二の眼」で日本を見るということは、外国語学部で学ぶ究極の目標である「外国文化を鏡にし、自国を鑑みること」に適っている上にそれをお茶の間で体験できる、角度を変えると素晴らしいコンセプトの番組なのです。
一昔前なら大学、それも文学部か外大でしか学べなかった専門的な比較文化論が、テレビ風に調理された上で勉強できるすごい時代です。
それをバラエティ番組風にやるから、ホルホルとか言われるわけです。かといって、同じテレビでも放送大学チャンネルで偉い学者が生真面目に講義してくれても、さっぱりわからなくなりますけどね(笑)

 

実際、その典型的な番組である『Youは何しに日本へ』は、テレビ東京内のジャンルでは「教養・ドキュメンタリー番組」。ジャンルだけならNHKスペシャルと同じ枠です。

しかし、このジャンル分けは誰が決めたかは知りませんが、テレビ東京はなかなかの慧眼だと非常に感心しました。

 

「読み書き」「スピーキング」などの技術を外国語における「ステージ1」、諸国の文化を習うレアリアが「ステージ2」、レアリアを通して日本を知るのを「ステージ3」とすると、外国語の勉強のゴールが見えてくると思います。

ちなみに、このレベルは優越ではなくただの区別のためのアイコンです。
冒頭に書いたように、外国語の勉強の目的は人によって様々。よって全員が全員が上の目標を目指す必要はありませんし、私も強制しません。

また、外国語によって目標の強弱をつけるのも良いと思います。英語は仕事で使いたいからステージ3を目標にし、フランス語は教養程度でいいからステージ2という風に、複数の外国語を勉強する優先順位をつけることもできます。

 

目標をステージを2か3に設定すると、外国語の勉強が一生ものの学習になり、かつ実用的な学問となる。さらに外国の文化を学び、ブーメランで日本文化まで理解できる。こんな面白く奥深い「暇つぶし」はないです。毎日「暇つぶし」している私が言うのだから、間違いない(笑

 

お次は、時間を置いて外国語の勉強のコツを少し。