昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

横山やすし-昭和最後の芸人の幼少期を訪ねる【昭和考古学】

昭和最後の芸人の死

平成8年(1996)1月の大阪摂津市。ある男が、自宅で短くも太く濃い波乱の人生に幕を閉じました。その男は死の前夜酒を飲み、長年の深酒に肝臓が悲鳴を上げたアルコール性肝硬変でした。
「あんた、これ以上飲んだら死ぬで」
と医者に通告されていた中の深酒。傍目から見ると自殺そのものでした。しかし当人にその自覚はなく、当然遺書もありませんでした。

 

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その男の名は横山やすし。本名は木村雄二。非常にクセのあった、しかしどこか愛された昭和最後の、そして空前絶後の破滅型芸人でした。

昭和に生き、戦後昭和に彗星の如くあらわれ、そのピークを笑いで支え、そして昭和の終わりと共に消えていった芸人、横山やすし。
「昭和考古学」は今まで、建物などの「モノ」を中心にしてきましたが、彼の人生もまた、「昭和考古学」として取り上げるべき材料としてうってつけでしょう。

 

 

 

あの時、あなたはヒーローだった

平成生まれや昭和60年代生まれの人には、西川きよしを知っていても、横山やすしという名前を聞いたことがないかもしれません。「やすしきよし」(以下「やすきよ」)という漫才も、聞いたことすらないかもしれません。

しかし、昭和40年代生まれの、特に関西に生まれた人は、「やすきよ」は絶頂を極めた漫才コンビとして記憶に強く残っていると思います。そして、漫才100年の歴史上最強のコンビとして、現在でも伝説として語り継がれ、動画サイトにも数々の漫才がアップされています。

私は「やすきよ」の漫才を、テレビ越しとは言えリアルタイムで見ていました。小学生の子どもだったので、そこに思想や哲学が入り込むことはなかったのですが、この年になるとあれは漫才ではなく、「漫才という名の歴史の一部」を見ていたのだなと。

 

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ここで、「やすきよ」について説明しておく必要があります。
もう知っている方は、今40代以上の大阪人なら100%知っていると思うので、簡単に流してもらうだけで結構です。
「やすきよ」は、天才と呼ばれながら泣かず飛ばすだった漫才師「横山やすし」と、
新喜劇の役者ながら目が出なかった「西川きよし」との漫才コンビでした。
昭和41年にデビューした彼らは、瞬く間に漫才界のスター街道を爆走、漫才師として頂点を極めます。
ブレーキが壊れたスポーツカーやすしに、生真面目一筋のトラックきよし。水と油のコンビのやりとりが客にウケました。
トヨタのハイブリッドカーのキャッチフレーズに、

HYBRID SYNERGY DRIVE

という言葉があります。これは電気とガソリンという、全く異なる2つのものが相互作用し、別のものを生み出すというニュアンスがあります。

「やすきよ」の漫才はこの漫才版。やすし・きよしという真逆の性格の人間がシナジーを起こし、笑いというエネルギーを発生させた

HYBRID SYNERGY MANZAI

だったと、リアルタイムで見た人間として感じます。

当時の吉本興業の芸人は、野球に例えてエースの桂三枝(現6代桂文枝)キャッチャー笑福亭仁鶴代打の切り札月亭可朝。そして、3番4番がやすしきよしと表現されていました。彼らは当時の吉本の稼ぎ頭で、テレビのチャンネルをひねれば誰かが画面に出ている、テレビに出ない日はないというほど大人気でした。
今の吉本なら、エースは明石家さんま、3番4番はダウンタウンの二人、キャッチャーは・・・さて誰やろ?といったとこでしょうかね。島田紳助がいれば、間違いなく彼のポジションだったのですが。

 

しかし、人気絶頂だった昭和45年(1970)、やすしは無免許運転の上、タクシー運転手に暴行を加えるトラブルを起こし、執行猶予付きの有罪判決を受けます。
執行猶予期間(2年)の間やすしは芸能活動を自粛、「やすきよ」もこれまでかと解散の危機を迎えました。

しかし、きよしはやすし謹慎中の間にがむしゃらに働き、なんとかしのぐことができました。働かざるを得なかったのです。

それは何故か。やすしを待つということもありましたが、本人いわく月賦(ローン)で家電から家まで購入し、返済期間も「いつでもいいよ」と借りたお金が、やすしの自粛と「やすきよ」コンビ解散の噂が立つやいなや、手のひら変えて返済を迫ってきたそうです。とても現実的な理由ですが、これは一家の長として働かざるをえない。

しかし、これがとんだ怪我の功名となります。

 

www.gw2.biz

コテコテ大阪人の(だと勝手に思ってる)まけもけさんが、「素人名人会」という関西限定のテレビ番組のことを書いていました。

確かこれは関西でしかやってなかったはずなので、関西以外の方は知らないかもしれません。しかし、この番組は47年間続いた番組で、40代以上の関西人なら一度は見たことがあるだろう名番組。西川きよし司会のもと、素人が歌うNHKのど自慢のようで漫才ありピン芸ありと、いかにも関西らしいゴチャゴチャ感満載な番組でした*1

この番組の司会、実は最初はやすしも入っていたのです。しかし、司会が代わって二ヶ月後に上の暴行事件を起こしてしまい、やすしが降板。きよし単独の司会が数十年続いたというゆえんがあります。なので、素人名人会にやすしも出ていたと知っている人はほとんどおらず、ましてやリアルで見たことある人は、いても記憶に残っていないと思います。

 

そして自粛期間が終了しコンビ復活となったのですが、「やすきよ」がすごかったのは、実はここからでした。
デビュー当初の「やすきよ」は、天才やすしが漫才ド素人のきよしを引っ張っていくスタイルで、ボケとツッコミも固定されていました。しかし、やすし復活後はきよしも芸に磨きをかけ、二人で変幻自在のボケとツッコミが出来るようになりました。
漫才はふつう、「ボケ担当」「ツッコミ担当」と役割が固定されています。ボケがツッコミをすることは、あまりありません。
しかし、「やすきよ」はそれが変幻自在。やすしがボケたかと思ったら、数秒後にきよしがボケる。見ている側は当然のように見ていましたが、これも「やすきよ」が作り上げた芸でした。どこが計算でどこが素なのか、全くわかりません。
このボケ・ツッコミが瞬時に入れ替わるのが「やすきよ」漫才の真骨頂であり、我々はそんな「やすきよ」漫才をずっと見てきました。しかし、これは実はやすしの謹慎後のスタイル。「鈍カメ」が相方の謹慎中にパワーアップし、「天才ウサギ」について行けるようになったからこそ出来た芸だったのです。

ガンダムに例えると、ニュータイプ横山やすしのオールレンジ攻撃に全くついていけなかったジムのパイロット西川きよしが、努力を重ねファンネルを避けながら撃墜する技術が身についたという感じでしょう。


このやすし謹慎解除後から1980年代の漫才ブームの波に乗り、名実ともに日本一の漫才師となりました。これが、「やすきよ」の第二次絶頂期。この時の収入は、年5億円以上給7000万の時もあったとか)と言われていました。

私がテレビで「やすきよ」の漫才を見ては大笑いしていたのは、この頃でした。

 

順風満帆に見えたこの凸凹コンビも、やはり凸凹だけにいったん亀裂が入ると止まりません。やすしはこの頃から趣味のモーターボートにのめりこみ、仕事も空ける(サボる)ようになります。
「俺は趣味(モーターボート)のために仕事(漫才師)やっとんや」
という発言まで飛び出し、芸人にしてはあまりに常識的でど真面目なきよしは危機感を抱きます。

そして1986年、きよしは参議院議員選挙に出馬を表明、当時としてはダントツの投票数を得てトップ当選を果たします。

この時、やすしは相方を「裏切り者!」とテレビで罵倒していましたが、それには理由があります。
きよしは政界進出のことを、相方の前に吉本興業に相談していました。次に家族。やすしの優先順位はその下でした。社会人としては当然の行為で筋が通っているのですが、社会のルールなどへったくれの、生粋の芸人やすしには知ったことではありません。
「なんで真っ先にワシに相談せーへんかったんや!相方であるワシにいちばん相談せなあかんのとちゃうんか!」
やすしには、それが腹立たしくてたまらなかったのです。
やすしの師匠でもある故横山ノックも先に政界に進出しており、師匠と相方、どちらも自分から離れていった・・・その寂しさを紛らわすため、酒の量が増えていきました。やっさんと親しい人や元マネージャーも、あれがやすしの歯車を狂わせたと述べています。
だからといって、きよしを責めるのは筋違いだと私は思います。それについては、また文が長くなってしまうので省略しますが、ただ言えるのは、もし私がきよしの立場だったら、彼と同じ道を取るだろうなと。

きよしの政界進出で、「やすきよ」は活動休止状態となりました。

 

その後の横山やすし

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その顔と名前を一度見聞きしたら忘れられない個性を持つやすしは、事実上のピン芸人になってもテレビ・ラジオから引っ張りだこでした。あんな強烈すぎる個性を芸能界がほっとくわけがない。

有名なところでは、『久米宏のTVスクランブル』という報道番組でしょう。久米宏とくれば『ニュースステーション』を思い浮かべる人が多いと思いますが、その原型がこの番組でした。

 

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インテリアナウンサーと破天荒芸人がMCのニュースという、実にわけのわからない報道番組。このコンビを思いついたのは久米宏氏の方でした。知り合いだったきよしに頼み込み、やめとけ、君にはコントロールできへんと渋るきよしを説得し、やすしを紹介してもらい直接スカウトしたのだそう。

果たしてどうなるかバクチでしたが、やすしの放送禁止用語も辞さない爆弾発言の連発と、久米宏のとっさの切り返しが視聴者には大ウケでした。この番組は大河ドラマの裏番組でしたが、当時日曜夜8時のガリバー、大河ドラマとがっぷり四つに組めたほどで、一人勝ちだった大河ドラマの牙城を崩すはじめての番組となりました。

久米宏は、つい最近(2018年正月)に『TVスクランブル』時代を回想しています。

「ただ、(やすしさんは)やっぱり、居心地が悪かったんでしょうね、最終的に。自分が信じていることを言って、それが僕に「バカ」って言われたりなんかしたりして、でも、評判はいいという、妙な立場に置かれたのが嫌だったのかもしれないですね。
きよしさんと二人でやっている漫才師から逸脱することが嫌だったのかもしれないし、自分がちょっと上から目線で人を見るような立場に立つことが嫌だったのかもしれない。言ってみれば、漫才師が評論家みたいなポジションに行くのが嫌だったのかもしれないですね」

けれど、その後にお笑いの人たちがキャスターをやる流れができていくなかで、やすしさんがやったことは大きいことでした。

『TVスクランブル』で新たな境地を開き、新しい居場所を見つけたかに思えたのですが、俺は芸人やという看板を外すことができなかった不器用な面があったことを、久米宏は見抜いていたのでしょう。

自分は芸人、漫才がしたいだけなんやと思っていたか、仕事は増えても心にぽっかり空いた穴を埋めることはできませんでした。共演者とトラブルを起こしたり、酒が原因で遅刻したり趣味で仕事をサボったりと、相変わらずでした。
東京はよくわかりませんが、大阪には「芸人はトラブルから新しい芸が生まれる」「なんかおもろいやっちゃな」と、芸人のトラブルやスキャンダルには寛容な風土がありました。いや、むしろ芸人はそれくらい元気でないとあかん、という空気がありました。

初代桂春団治が典型的な例ですが、あの人は死後に盛られた話もあり、どれが本当でどれがフィクションか曖昧なところがあります。新しいところでは、今も落語界・芸能界の第一線で活躍する笑福亭仁鶴・鶴光・鶴瓶の師匠にして、見方によっては明石家さんまの叔父師匠(さんまの師匠の兄弟子)にあたる6代目笑福亭松鶴も、とんでもエピソードが多かった芸人でした。

では、やすしのトラブルをなぜ吉本が許容していたのか。当時の吉本興業のドン林正之助が、やすしのやんちゃぶりをずっと大目に見、終始彼をかばっていました。

しかし、非常識でなんぼの芸人にも社会人としての常識を求め、その枠にはめる時代になっていました。
残念ながら、やすしはその時代の変化を読めなかったのです。

何度もトラブルによる謹慎処分を受けたやすしは、吉本から
「次何かやったら問答無用でクビにする」
という警告を受け、その時は反省します。が、やはりダメでした。
謹慎処分が明けてすぐに飲酒運転を起こし、相手に怪我を負わせてしまいます。相手のケガは大したことなかったこともあり、やすし本人も事態を重く見ておらず、テレビカメラの前で笑顔すら見せていました。
しかし、吉本の堪忍袋の緒は、これでプッツンと切れてしまったのです。
この事故で吉本は緊急会見を開き、即日契約打ち切りとなりました。一般企業でいう懲戒解雇です。吉本も、

「これ以上庇うと会社としてのモラルを問われる」

と公に述べたように、やすしと縁を切る非情の決断をしたのです。終始彼をかばってきた林正之助も限界を感じ、「もうええわ」と覚悟を決めました。
芸能界の懲戒解雇はほぼ芸能界追放と同じこと。やすしは漫才もできない、仕事ができないとますます酒に溺れることとなりました。「やすきよ」もこの時点で自然消滅となり、この二人は二度と顔を合わせることはありませんでした。

やすしは、テレビカメラの前では、
「漫才なんか誰でもできるわい!」
と強がっていたものの、親しい人には、
「俺はキー坊(きよしのこと)としか漫才ができん、キー坊とやりたいんや・・・」
とうなだれていたと言います。

しかし、数年の時が経ち、フリーとして活動を再開したやすしは、Vシネマなどの映画に活動の場を移しました。漫才をそのまま演技に応用した独特の存在感は、やすし健在をアピールさせたのですが・・・。


やすし謎の暴行事件、そしてあっけない死

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1992年8月、酒を飲んで自宅に帰ろうとしていたやすしは、自宅前で待ち伏せしていた何者かに襲われ、危篤状態になったことも幾度かあったほどの大けがを負いました*2

頭を強く打った彼は一時言葉が話せなくなりますが、リハビリで驚異的な回復力を見せます。
しかし、それを第三者として見ていた「やすきよ」の元マネージャーは、
「このケガで漫才師復活への道は完全に途絶えた」
と冷静に分析しています。いくら強がっても失語症の後遺症の影響は残り、身体のキレも全くない。芸人横山やすしはこの時点で「死亡」したと。

吉本所属の芸人との共演NG、他の事務所も敬遠する中、その後も細々と活動を続けるのですが、ただでさえ極端に痩せ目も虚ろな姿に「やすきよ」時代の輝きはありませんでした。

そして1996年1月、昭和最後の芸人と呼ばれた男は、家族が外出している間に体調が急変し、誰にも看取られることなく死去しました。享年51歳。
破天荒なことしなければ、芸人としてもっと活躍できたのに・・・いや、あの破天荒さがなければやすしではない。相反する矛盾を抱えた天才芸人でしたが、彼は晩年、こんな言葉を漏らしたと言います。

「もう、横山やすしを演じるのは疲れたんや」

破天荒で強気な横山やすしに対し、しかし、素顔の木村雄二は小心者で極度の寂しがり屋。彼にとっての酒は、木村雄二から横山やすしへと変身する秘薬。やすしと酒は切っても切れないものでしたが、酒がないと芸人横山やすしになれなかったのかもしれません。

 


横山やすしの幼少期

横山やすし3歳の写真

横山やすし3歳の写真

横山やすしは、『漫才教室』というラジオの素人お笑い番組で頭角を現わし、天才漫才少年と評判となりました*3。それ以前の幼少期は、やすし自身も自伝に書いているものの、肝心な部分はボカしてあまり詳細に語ろうとはしません。
裏表のないどストレート発言が大きな特徴のやすしが、まるでそこには触れてくれるなとボカす・・・そこに複雑な家庭環境が絡んでいます。


なお、我々大阪人は、「やすしきよし」を親しみを込めて今でも「やっさん」「きょっさん(きよっさん)」と呼んでいるのですが、以下「やっさん」「きょっさん」と書くことにします。

 

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やっさんこと木村雄二は、昭和19年(1944)高知県に生まれました。実はきょっさんも同じ高知県生まれで、共に高知の記憶がない年齢の頃に大阪に移住しているのですが、コンビが共に高知県出身だったのはただの偶然。二人はコンビ結成までなんの縁もゆかりもありません。

やっさんが生まれた場所は、高知県沖に浮かぶ「沖の島」という小さな島でした。
母親は島の住人、父親は木村庄吉で幼いころに高知を出て大阪の堺に移住し、そこで育ちました。母親はやっさんを身ごもったのですが、当時は戦争中でいつ空襲が来るかわからない。そのため沖の島に帰り出産します。

しかし、ここに非常に複雑な事情が絡みます。
実はやすし少年の本当の父親は、海軍に出征して戦死した小田耕一郎という人物でした。やっさんが父親と思っていた木村庄吉は、実は血の繋がらない育ての親だったのです。

この時点で、やっさんには「父親が二人」いることになります。
さらに、ややこしいことに「母親も二人」いるのです。
生みの母は、産後の体調が悪く高知へ帰ったのですが、その間に養父木村庄吉と共に雄二を育てたのが、タキヨさんという近所の散髪屋の女将でした。
タキヨさんの夫は陸軍兵士として昭和19年にフィリピンで戦死し、子どもがいなかったので雄二少年を実の子どものように育てました。

そこで母性本能が芽生えたのか、堺に帰ってきた実の母親と壮絶な雄二の取り合いとなりました。その結果、生みの母が高知に帰ってしまうことになり、やすし少年はタキヨさんを母として幼少期を過ごすことになりました。
また、やっさんにはこのときから、「一(はじめ)」という血の繋がらない兄がいたこともわかっています。

 

やすし最大の謎の部分ータキヨさんは何者なのか

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タキヨさんは、散髪屋の女将をしていたと書きましたが、戦後は今の堺駅前にあった龍神・栄橋遊郭で働いていました。遊郭は戦後すぐにGHQによって廃止されているので、正しくは「赤線」なのですが、便宜上遊郭と書くことにします。
ここで、一つ矛盾が生まれます。

タキヨさんが龍神・栄橋遊郭で働いていたことは事実のようですが、やっさんが亡くなった年に放送されたテレビ、『驚きももの木20世紀 やすきよ いくつもの河を越えて』では、


「龍神遊郭の妓楼を経営していた

 

とされています。
しかし、私はこれにちょっと待ったを唱えたい。

やっさんの自伝には、タキヨさんは近所の散髪屋の女将と書かれています。

やっさんはウソとは言わないものの、けっこう話を誇張して言うことがあり、自伝を100%信じるわけにはいきません。しかし、これが本当だとすると(おそらく本当でしょう)、たかが散髪屋の女将が遊廓のオーナーになれるのか。私も市井で近代遊廓史を研究している一人ですが、遊廓って素人が突然参入して経営できるほど甘い世界ではない。夫婦で妓楼を一軒買収するほどの金を貯めていたかもしれませんが、散髪屋にそこまで貯める金があったのかも疑問です。

さらにやっさんの自伝にも、

「夫を失ったタキヨさんは、戦後に龍神の遊廓で働いていた

(『まいど!横山です ど根性漫才記』 )

とは書かれているものの書き方が曖昧で、これでは経営者なのか、赤線で働いていた女給(=売春婦)だったのか、はたまた掃除や賄いなどの雑婦だったのか、文章だけでは判断できません。

「やすきよ」漫才や横山やすしをリアルタイムで知っている人は、やっさんが言いたい放題ものを言う性格なのは周知のこと。そんな彼が、奥歯に物が挟まったように曖昧にぼかすところに、私は何かを隠したい意図があるのではないかと思います。はっきり言うと、私は後者とみました。育ての母親が遊郭で体を売っていたことは、人一倍人恋しい、マネージャーによれば典型的なマザコンだったというやっさんにとっては、触れられたくない傷だったに違いないと。

 

さらに謎はあります。
『驚きももの木20世紀』では、タキヨさんは家の近くの大きな池で溺れて亡くなったとされています。

 

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やっさんの家の近所の航空写真です。赤い○が彼の生家あたりです。昭和31年(1956)5月3日撮影なので、やっさんが小学生だった頃。これが撮影された時も、もしかして写真のどこかで遊んでいたかもしれませんね。
「家の近くの大きな池」を当時の航空写真で探してみると、すぐ近くに赤い矢印で示した大きな池がありました。おそらくここでしょう。

これを聞いて、私はおかしいなとある疑問が湧きました。
池に溺れて亡くなったのはいい。しかし、何でこんな池に行く必要があったのか。


ここで私は、ある仮説を立てました。
「タキヨさんの死と赤線廃止、売春防止法が絡んでいるのではないか」
売春防止法が施行され赤線の灯が消えたのは昭和33年。木村雄二少年が14歳の頃です。
タキヨさんが遊郭(赤線)で働いていたのは事実なので、それで生活の糧を失くし悲観したタキヨさんが池に入水し、自殺したのではないかと。
これが私の仮説です。

それをベースに、やっさんの自伝や関連の本を読んでみたのですが・・・。不思議なことに、タキヨさんの死について一切ノータッチなのです。
自伝は父(実際は養父)の死については一章を割いて書かれているのに、育ての親であるタキヨさんについては、いつ、どういう死を迎えたのか全く書かれておらず。いつの間にか触れられなくなりフェードアウト。これがかえって疑念を抱かせました。
自伝には、「やすきよ」で上方漫才大賞を取ったときや、父が亡くなった時に、「母」という表現がいくつか出てきます。が、これがタキヨさんなのか、当時タキヨさんに内緒で岸和田の春木に住まいを移していた生みの母のことなのか、何も書かれていません。自伝ではややこしいことに、表現はどちらも「母」なのです。ちなみに、生みの母の方は彼が亡くなった時も生きていて、関西で放送された追悼番組に出演していました。
やっさんの自伝を読んだらすべて解決するはずだと思っていたものが、かえって謎を深める結果に。

 

これについては、あの世にまで行って聞くわけにもいきません。万が一聞けても、

「んなこと聞いておどりゃどないするいうんじゃアホンダラ!!!」

(やっさんの声と口調で脳内再生して下さいw)

と怒鳴られるのは必至。人間誰しも、人生の中でこれだけは触れられたくないという事は、一つや二つ持っているものですが、これは彼のアンタッチャブルな部分なのかもしれません。

 

横山やすしはミリオタだった

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やっさんは、現在の堺市西区神石市之町で育ちました。本人も町名を出してここで育ったと述べているので、間違いはないでしょう。 

ちなみに、漫才師として売れた後は隣の上野芝町に家を構えました。やっさん自身は堺育ちなことを誇りにしており、堺出身というだけでかわいがられた芸人も多かったそうです。

 意外なことに、幼少期のやっさんは身体が弱く、育ての母親のタキヨさんが常に心配していたほどの虚弱体質でした。小学校高学年の年齢になると身体も丈夫になり、友達と運動して遊ぶようになりましたが、球技など集団でやるスポーツは大嫌い。自分がトップになって輝ける個人競技が好きだったそうです。

自分にも他人にも常に、

「一番を狙え。一番以外はすべてカスや」

と激励し、いつも一番でないと気が済まないやっさんの性格は、ここあたりから片鱗を見せていました。

しかし、中学に入り身体も成長、中学時代には陸上部に入りなかなか優秀な選手だったそうです。きょっさんも中学時代はサッカー部で、「やすきよ」のアクションが激しくスピード感あふれる漫才は、実は二人がバリバリの体育会系で、体力が有り余っていたという長所を活かしたものでした。

この時のやっさんの夢は、意外なのかそうでないのか、自衛隊員でした。

自衛隊員になる意志はかなり堅かったようですが、これは義母の猛反対で諦めることとなります。

しかし、何故自衛隊員だったのか。

生母から離れて育ったやっさんですが、15歳の時に従姉妹の案内で実の母に会いに高知まで行ったことがあります。タキヨさんには内緒でしたが、高知にいる間二人は親子水入らずの時間を過ごしたそうです。その時に、海軍にいた実の父の話を聞き、自分もその道へ進もうとしたのかもしれません。

元マネージャーの木村政雄氏(後に吉本興業専務)によるとやっさんは、例えば10:00を

「ひとまるまるまる」

と呼んでいたそうです。これは旧日本軍の時間の言い方で、現在の自衛隊でも24時間制でこう呼びます。『午後3時30分』を『ひとごーさんまる』とクセで言ってしまう、自衛隊員あるあるもあるそうです。 特に、2を「ふた」と呼ぶとかなりの確率で海上自衛隊員で、旧帝国海軍から引き継がれた数字の読み方です(旧陸軍及び陸上・航空自衛隊は「に」)

また、軍艦好きならみんな知っている軍艦雑誌、『丸』の定期購読もしていました。読んでみるとわかりますが、『丸』は素人が読んでもほとんど理解不能なほどの専門雑誌。それを定期購読までしていたということは、相当「好き者」だったという間接的な証拠です。

旧海軍は、常に「五分前」が徹底されていました。元海軍軍人と会う時は、必ず約束の時間の5分前に来る。これが海軍と接する人間の常識でした。しかし遅刻魔のやっさん、これは守れなかったようです。

しかし、木村氏によると、

木村「午後3時に集合しましょう」

やすし「いや、『ひとごーまるごー(15:05)』にしよ!」

木村「なんですか、その5分は」

やすし「3時より3時5分の方が本気が出るやろ」

というふうに、よく変な時間設定をしてきました。元マネをして意味がわからないと首を傾げていましたが、私は旧海軍の「五分前」を彼流に解釈した「五分後」の精神かなと思ったりします。

何故やすしがミリタリー方面に興味を持ったのか。上にも書きましたが、海軍にいて戦死した「実の父」の影をどこかで追っていたのかもしれません。

 

 

 横山やすしの故郷を訪ねる

やっさんの故郷は、大阪府堺市西区神石市之町ということは、すでに述べました。

さて、彼が少年時代を過ごした地域は、今どうなっているのか。

 

『驚きももの木20世紀』では、彼の故郷としてこんな映像が流れていました。

横山やすしの故郷堺市西区神石市之町

上の映像の後、右方向へアングルがゆっくりと変わっていき、

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木村家、やっさんが生まれ育った家が映っていました。

 

この映像、光景を見て私は思わずニヤリとしました。ここ、めちゃ知ってるわと。明らかに見たことがあり、行ったこともあるこの場所。堺出身とは前々から知っていたものの、こんな近くだったのかとこちらが驚きでした。まるでやっさんがあの世から、

「俺をネタにせい、わかったな」

と言ってくれているかのようでした。

映像ではこのシーンと共に、「今もやすしさんの育った家が残っています」とナレーションされていたのですが、何せ20年以上前の番組です。20年も経てばさすがに残っていないだろう。でもとりあえずこのシーンの場所へ向かってみよう。私の足は大阪へ、堺へ向かっていました。

 

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やっさんの家があった場所の現在の地図です。タキヨさんが亡くなったという「大きな池」は、現在形を残したまま公園となっています。

赤で囲んだところに、「八角堂」という堺名物くるみ餅の有名なお店があります。その昔、母方の祖母の家と自宅の中間あたりにあったこの店で、車の運転の休憩がてら家族でここのくるみ餅を何度か食べた記憶があります。

 

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この「八角堂」は、横山やすしと大いに関係があります。実はここ、今は知りませんが、やっさんの親戚がオープンさせた店で、売れっ子だった時代のやっさんもお忍びでよく訪れていたそうです。

堺市図書館の書庫の郷土資料をあさっていたら出てきた事実ですが、やっさんはよく、

「『八角堂』は俺が金出して作らせたったんや!」

と豪語していたそうです。

しかし、これは彼のとんだ出まかせ。「八角堂」の女将(=親戚)が否定しています。それどころか、逆に金の無心に現れていたほどでした。まあ、そんな大見栄を張ってウソついても恨まれないのが、やっさんのキャラならでは。

 

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『おどろ木ももの木20世紀』の映像が頭に残ってたので、記念に同じ(と思う)角度で写真を撮ってみました。

上:平成29年(2017)

下:平成8年(1996)

ちょっと的が外れてたか・・・まあいいや。

21年の月日は経っているけれども、ガードレールが新しくなった以外はほとんど変わっていないことがわかります。そういう意味では、21年しか経っていないか。

 

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少年時代のやっさんも、この石津川をの川の流れを見ながら日々遊び、土手の道路を汗をぬぐいながら走っていたのでしょう。我が親によると、昭和20~30年代の石津川は泳げたほど水がきれいだったとのことなので、活発な雄二少年は川に飛び込み友達と遊んでいたことでしょう。

 

やっさんの自伝には、中学生の頃よく「阪和線のガードレールまで走っていた」と書かれています。

 

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「阪和線のガードレール」とは、彼の家のすぐとなりを通る、通称「13号線」を南下したところにある、13号線と阪和線が交わる地点のこと。交差点名で言えば「鳳北町」です。津久野駅の裏側にあるのですが、彼が走っていた当時に津久野駅はありません。

このガードレールからもう少し南へまっすぐ行くと、先日記事にした「雷伝説」の井戸や歯痛地蔵がある長承寺(地区)があります。

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

鳳北町交差点阪和線ガードレール

さすがに写真がないので、グーグルマップのストリートビューから場所そのものを切り取ってきました。
家からここまで、距離にして2キロか3キロと思いますが、中学生、それも陸上部ならこの距離くらいは余裕でしょう、距離だけは。しかし、当時の13号線は未舗装でとんだ凸凹道、車を走らせると乗ってる方が飛び跳ねたレベルだったそうなので、やっさんも走るのには一苦労したと思います。

 

ちょっとここで小休止。

歴史の寄り道ー「13号線」の怪

地元にしかわからないことなのですが、この道を我々地元民は「13号線」と言っています。地元で道を聞くと老若男女すべて全員、「(府道)13号線」と答えるはず。当然、私も生まれてからずーっと「13号線」一択。

しかし、ここの本名は「府道30号大阪和泉泉南線」。交通情報でもこの名前で流れています。

これを見て、「くぁwせdrftgyふじこlp」と慌ててググってる堺や泉州(大阪南部)の人が、一人二人必ずいると思います。13号線はあくまで、我々が「勝手に呼んでいるだけ」なのです。

では、何故「13号線」と呼ばれるようになったのか。これ、わかりません。

時系列で並べると、

昭和40年(1965):「府道大阪和泉泉南線」の名称がつけられる

昭和59年(1984):「府道30号」の番号が振られる

ということですが、ただわかっているのは、その前、どうやら戦前から「13号線」と呼ばれていたこと。

とにかくずっと「13号線」なあまり、地元民の「熱意」に行政が根負けし、公の災害マップまで「13号線」と記載されている状態。ちなみに、Google mapは「府道30号」でした。

「13号線」はついに、大阪府へのクレームとして公式HPにまで持ち込まれました。

 

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字が小さく見にくいので、内容を要約すると、

「30号やのに、みんな13号言うてめっちゃややこしいねん!意味わからへんわ!

府道30号言うよーに府が啓蒙せなあかんのとちゃうのん!!」

ということ。

府の代わりに元沿線住民として回答します。いまさら無理やわ。

とにかくこの道がいつから「13号線」と呼ばれたのか、誰が言い出したのか。すべてが不明なのです。ただ、地元の人は「本名」で呼ばず、ずっと「あだ名」で呼び続け、「あだ名」を「本名」と思っていることだけは確かです。

さすがのWikipedia大先生も、由来については諸説ありと、その諸説だけ挙げて逃げモード。

「13号線」の謎は、Wikipediaもお手上げの大阪ミステリーの一つなのです。

 

あったでしかし!

 やっさんが育った家は現在でも残っているのだろうか。テレビから20年もの月日が経っており、周りの景色はあまり変わらなくても家という物体はどうだろうか。一抹の不安を抱えて現地へと向かいました。

 

私がそこで見たものは。

 

横山やすしの生まれ育った家

昔のまま残る彼の家でした。

現地をフィールドワークする「考古学者」は、昔のブツが残っているかどうか一か八かの賭けをすることが多い。残っておれば勝ち、なくなっておれば負け。今回も賭けに出ましたが、今回は私の勝ちだったようです。横山やすしがそこに暮らしていた跡は、確かに残っておりました。

家は『八角堂』の裏手にあり、そこでやすし少年や親戚が身を寄せ合って暮らしていたことが、現地を訪ねると容易に想像することができます。家は道から低い位置にあり、家から階段を使って道へ上る彼の昔の姿はもちろん、息遣いまで聞こえてきそうなほど、変わっていませんでした。周囲の家々は新しく建て替えられているのに、この一角だけそのまま残っていたのは、ちょっとした奇跡かもしれないですね。

 

やっさんが亡くなって今年で22年目。平成も30年となり、昭和はますます遠くなりにけりという感が否めなくなりました。それとともに、昭和の復興と共に育ち、昭和の急成長と共に成長し、昭和の終わりと共に死んだこの芸人は、名実共に「昭和の申し子」だったのでしょう。

草葉の陰から、やっさんはこう叫んでいると思います。

「俺のこと忘れたらしばくでしかし!」

 

最後は、「やすきよ」絶頂期の漫才と、彼の人生の動画を貼っておきます。

 

 

 

1980年。国立演芸場にて

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1980年。京都花月にて

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www.youtube.com

*1:この番組で認められて芸能界デビューした人も多く、古くは漫才師の宮川花子(ピン芸人として)、吉本新喜劇の未知やすえ(漫才コンビとして)、歌手の川中美幸、新しいところでは大沢あかねやはるな愛が素人として出演していました。プロとしてですが、全く無名時代のダウンタウンも出ていました。

*2:この犯人は現在でも不明のままで、事件自体も時効を迎えています。

*3:『漫才教室』からは、いずれも出演時は素人だった桂枝雀や6代桂文枝(元桂三枝)も排出しています。