昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

消えた遊廓・赤線跡をゆく-丹波篠山(京口新地)編

 

※注意※

このブログ記事は、2009年に前ブログにて書いた記事をやっつけ仕事で編集したものです。情報が古いのと、文章が拙い場合があるのであしからず。また、予告なしに文章が変わることもあります。

 

 


今回は、丹波篠山にあったという遊郭跡を書いてみようと思います。
丹波篠山というと今の篠山市、江戸時代は譜代の青山氏の城下町として栄えました。
今回の話題とは関係ないですが、東京にある地名の「青山」(←青山学院大学の「青山」ね)は、この青山氏の江戸屋敷があったことから名付けられました。
篠山の青山氏は分家筋だった記憶がありますが、まあそんなわけです…どんなわけや。

 

篠山の遊廓の歴史

今の篠山市は、武家屋敷が現在でも残る観光の町で、今は歓楽街とは無縁のせいか、遊廊とか赤線ってイメージが全く思い浮かばないですが、その昔、確かに遊郭は存在していました。

明治41年(1908)、篠山に歩兵第七十連隊が置かれました。過酷な訓練と兵の勇猛さで「丹波に鬼あり」と恐れられた連隊です。

「歩兵連隊あるとこ遊郭あり」

私が長年の遊廓探索で得た法則ですが、篠山にも例外なくどこかにあるだろう、と色々調べていたら、やはり存在していました。


篠山遊郭の正式名称は、「京口新地」と言います。
遊廓としての歴史は資料があまりないので詳細はわからないですが、少なくても歩兵第七十連隊が出来た時から、もしくは連隊の創設に合わせて作られたと推定できます。

 

大正5年1916篠山遊廓京口新地

大正5(1916)年の大正時代の篠山の地図です。
赤い○で囲んだ部分が篠山城、今も昔も篠山市の中心部ですが、この地図右下に「遊廓」と書かれた一画があり、この頃には地図にもはっきり遊廓があったことが伺えます。

大正2年(1913)発行の『篠山案内記』には、

「遊廓河原町京口橋より南一丁にあり、池上町に属し字湊と称す。<u>遊廓新設以来京口新地の名あり。歩兵七十連隊の新設に伴い始めて設置したるものにて明治44年7月より開業す」

(※原文旧仮名遣いを現代に読みやすいように筆者校正)

 

と簡単ながら遊廓のことも書かれています。
大正時代から篠山遊廓が「京口新地」と呼ばれていた証拠でもあるのですが、遊廓・赤線探索者が参考文献によく出す『全国遊廓案内』(昭和5年刊)には「糸口新地」と書かれています。

「京口」なんか「糸口」なんかどっちやねん!?とややこしいことになっていますが、『全国遊廓案内』は筆者の記述間違いが多く鵜呑みは厳禁な上に、後で紹介する『篠山町七十五年史』にも「京口新地」と明確に書かれているので、「京口」が正解。


また、『篠山案内記』には遊廓の他に中心部にある立町に花街、つまり芸者がいた所もあったことが記されとります。

「芸妓検番-立町の角南側にあり明治32年の創立なり。検番設立以前は各料理屋に芸妓を抱えたりしなり」

(※これも原文旧仮名遣いを読みやすいように校正)

 

これでわかることは、

1.芸妓がいる花街の方が遊廓より歴史が古い

2.場所によっては遊廓に芸妓がいたりと花街との区別がつきにくい所もあるが、
篠山は花街と遊廓の区別がはっきりついていた

こと。


京口新地を語るもう一つの貴重な資料が、『篠山町七十五年史』(1955刊)という歴史書。

個人が編集したものの当時の篠山町が出版しているので、準公式の町史のようなものですが、ここに京口新地のことが詳しく書かれています。


それによると、陸軍歩兵第七十連隊の設置により遊廓設置の動きが出たものの、候補地がいくつも上がった上に周りの村からの熱心な立候補もあったり、陸軍の「遊廓は兵営(駐屯地)から1里以上隔離すること」という条件もあって、結局は八上村糯ヶ坪地区に決定。

しかし、なぜ「風俗街」である遊廓を熱心に誘致するか言うと、遊廓は遊興税を払う義務があったので、誘致すると莫大な税金を落としてくれる遊廓は絶好の金脈。地域財政が潤う+地元に金を落としてくれて経済的にウハウハという事情があります。

 

明治41年の開設当初は「篠山楼」の一軒のみ、娼妓数7名というこじんまりとしたスタートだったものの、
半年後には、
・吉野楼 娼妓数14名
・小川楼 娼妓数6名
・彦根楼 娼妓数12名
・田中楼 娼妓数8名
・一力楼 娼妓数8名
・常盤楼 娼妓数5名
・金松楼 娼妓数2名
・高森楼 娼妓数2名
・鬼楽楼 娼妓数4名
・都 楼 娼妓数7名
・藤田楼 娼妓数5名
・戎 楼 娼妓数6名  計:79名

と、雨後のタケノコのように大増殖しています。
(篠山楼は閉店したのか改名したのか、存在しません)

娼妓の外出は監視付きで、一人で京口橋を渡ることは出来ませんでした。つまり篠山の中心部に行くには付添(監視)が必要だったということで、これは逃亡防止のため。
また、稼ぎ100円につき20円を前借金返済のため積み立てることを警察署長から言い渡されており、衣裳や部屋代、食費も警察の指導か、全部楼主持ちと決まっていました。
こう見ると、全国規模で俯瞰すると京口新地の遊女の待遇は悪くなかった方だったかもしれません。

 

また、『篠山七十五年史』には、興味深いことが書かれていました。
大正末期から始まった不況や、昭和の初めの大恐慌、さらにプラス、大阪の道頓堀が発祥のカフェー、今のキャバクラのご先祖様みたいなもの、が篠山にも進出、新しい娯楽として一世を風靡しました。

これで遊廓が大打撃を受け、
「篠山じゃ営業にならん!!」

と遊廓を宝塚に移す計画が持ち上がりましたが、許可されずお流れになった話もありました。これはどこの書物にも書かれていない、新しい事実です。
宝塚は今でこそ少女歌劇団(タカラヅカ)で知名度は全国区ですが、元々は温泉地で芸妓も確かいたはず。そこに仮に遊廓が移っていたら…歴史のIFは読者の皆さんにお任せします。

 

で、この『篠山町七十五年史』のもう一つ重要な面は、「昭和30年発行」ということ。
つまり、赤線が現役だった頃に書かれた書物なので、赤線時代の京口新地も現役ということ。
そのことも少しだけ書かれており、遊廓時代は衣食住は楼主持ちだったのが、赤線時代は全部女性持ち。分け前は女性:業者=6:4だったそうです。
つまり、京口新地は戦後も赤線として存続していたことが、この書物で明らかになりました。

そして、ついでに書いておくと、『篠山案内記』にも書いてあった篠山の芸妓は『篠山町七十五年史』にも記されています。

連隊が篠山に設置された明治41年((1908)の芸妓数80名がピークで、大正7(1918)年頃は35名、大正13(1924)年には25名、昭和3(1928)年にゃ18名と右肩下がり。
更に昭和2年にあったという「某重大事件」により検番の幹部全員が逮捕され、カフェーの進出や花街にも遊興税が導入されたのが追い打ちになり、戦争の色が濃くなったことがとどめになって、太平洋戦争寸前の昭和16(1941)年10月に解散
以後篠山に花街復活はおろか、芸者がいることはなかったそうです。
それに比べたら、遊廓はしたたかというか、原始的な欲に基づいた産業はしぶといというか、戦後も残ったことが生命力の強さを物語っています。

 

なお、くどいようですが『篠山七十五年史』は昭和30年刊行、3年後の売防法施行による赤線の消滅の顛末までは書かれていません。書かれていたら、編集者は予言者になってますしね(笑
別の資料によると、売防法施行寸前の昭和33年1月現在、業者数10軒、女性の数14名、引き手数13人。そのまま3月30日に解散となった模様です。

 

良くも悪くも地味~な篠山の、ふとしたら忘れられかねない遊廊跡がクローズアップされたのは、「阿部定事件」で有名になった阿部定が昔、ここで働いていたことから。

阿部定事件については話しだしたらキリがないので、興味ある方はググってくれたらいいのですが、その阿部定が半年だけながら、この篠山に在籍していたことが明らかになっています。
阿部定事件のことは、中学生の時からボンヤリとは知っていましたが、20年後くらい経ちまたそのことを、篠山で思いだすとは。
なお、阿部定のことは『篠山町七十五年史』にもチラリと、


「一世を鳴り響かせた『お定事件』の主、阿部定も、ここ大正楼の娼妓であったのである」


と書かれています。

 

京口新地を歩く

さて、概要はこれくらいにして、篠山遊郭、つまり「京口新地」を訪ねる旅に行ってみましょう。

なお、写真を含めた以下のレポートは2009年当時のものなので、そこはあしからず。

 

「京口新地」の跡は、篠山の中心部、篠山城跡から南東の方向にあります。
昔の遊廓は、たいてい街の中心部ではなく郊外に作られたことが多いのですが、この「京口新地」の位置が当時の町外れという意味も持っています。
他の遊廊跡も、すべてではないですが、位置から当時の市や町などの範囲を知ることが、ある程度わかったりします。

 

篠山遊廓京口新地1

「京口新地」は今はただの住宅街になっています。その昔の遊郭は遊女が逃げるのを防ぐためか、それとも別の「一般の地」と区別するためか、堀というか運河のようなもので歴然と区切られていたり、東京にあった洲崎遊廓のように、長崎の出島の如く海に突き出た埋立地に作られたり、旧飛田遊廊のように、外国の城塞都市の如き壁で囲まれていた所もありました。
この「京口新地」も、何か不自然な、田んぼに引く用水路でもなさそうな、明らかに人間が線を引いたような水路に囲まれた地域にあります。
アンテナの周波数をフルに立てながら地図を見ると、
「なんでこんなとこにこんな地形が?」
というものが、たまにあったりします。
そこが、意外と「そないなとこ」だったり。

 

篠山遊廓2

「京口新地」に限らず、篠山近辺は日本でも珍しくなった藁葺き屋根の家を見ることが出来ます。大阪生まれの私はこんな家を周囲に見ることなかったのですが、藁葺き屋根の家を見ると何か懐かしさを感じます。日本人としてのDNAがそうさせているのかはわかりませんが、不思議な気分でもあります。

「京口新地」自体はそれほどの大きさでもありません。大人の男が隅から隅まで歩いても、30分強あれば十分な大きさです。
なので、お目当ての建物を見つけるのにも、時間がかかることはありませんでした。

 

篠山遊廓大正楼阿部定

これがお目当ての大正楼でございます。
約80年前、阿部定が遊女としてこの篠山に流れ着き、そして確かにここで働いていた痕跡は、昭和、平成、そして21世紀になってもこの地に残っていました。
建物自体は老朽化が激しくて一部朽ち果てた部分もあり、現在は主のいない空き家のようですが、周囲の建物を圧倒するよーな存在感です。

これは画像の角度が悪いのですが、意外と奥行きもある建物で、一発で「それ」とわかるもの。
車で4~5時間かけてはるばるやって来たお目当ての割には、撮った写真がこの1枚だけだったという不思議な現象。かつてこの建物で数々の女性が泣いて笑って毎日を送ったと思うと、写真を撮る手も止まったのかもしれません。その時の心境は、その当時の自分しか知りません。

 

篠山京口新地遊廓

ある意味「大正楼」よりインパクトがあったのはこの建物。
「大正楼」が京口新地の中心にあったのに対して、これは片隅にポツンとあったようなものですが、果たしてこれが旧遊廓や赤線の建物かどうかは知りません。
しかしながら、藁葺き屋根の住宅の中に、明らかに個性的なこの建物、周囲に全く溶け込んでないところを見ると、昭和初期~戦後の遊郭・赤線建築の生き残りだと思います。

 

京口新地篠山遊廓大正楼

誰も住んでいる形跡がなかったので、中を玄関越しに撮影させてもらいましたが、中はまるで江戸川乱歩の小説に出てくる屋敷でした。
中は意外にも朽ち果てた感じもなく、画像にはないですが、ステンドグラスなどもそのまま残されているようで、保存状態は外観に比べたら非常に良い状態と言えると思います。
まだ修繕したら使えそうな家、金さえあったらリフォームして住んでみたい気分です。
…と書いたのが10年前でしたが、そんな金は10年経っても貯まる気配はありません(笑)



都市部や周囲のように、高度経済成長のドサクサや宅地開発、そして建物自体の老朽化で数多くの元遊郭・赤線の建物が消えていく中、篠山は建物の数自体は少なかったものの、タイムカプセルのように残ってました。
そして何より、篠山というとこが昔の日本の空気を色濃く残してる地域なのか、「京口新地」の周りの風景もそれほど変わっていないような気がします。
そして、空気も当時とそれほど変わらんのかな?とふと思うと、ここの遊女たちの声が風と共に聞こえてきそうで、ここを離れるのに後ろ髪を引かれる思いだった、というのは気のせいなのか?

 

遊郭のことは前ブログでけっこう書いていたのですが、これを機会にこのブログに順次転載していきます。ある意味お楽しみに。

 

~おまけ 篠山遊郭簡単年表~

※京口新地関連のものは青字、その他は色なしです。
新しいことがわかり次第随時追加、変更していきます。

■明治32(1899)年 町中心部の立町に篠山検番開設
■明治40(1907)年 歩兵第七十連隊、篠山に開設
■明治41(1908)年 篠山遊郭開設(妓楼1軒、娼妓7名)
■明治45(1912)末 妓楼10軒、娼妓数32名
■大正4(1915)年 篠山軽便鉄道開業(→昭和19年廃止)
■大正8(1919)末 妓楼11軒、娼妓数44名
■大正15(1926)年2月 遊廓廃止が議会に上がるが否決
■昭和4(1929)頃 妓楼2軒、娼妓数110名
■昭和7(1932)年頃 阿部定が篠山に娼妓として滞在
■昭和8(1933)年12月 遊廓を宝塚に移転する計画が上がるが許可されず
■昭和10(1935)年 娼妓総出の盆踊が行われたという
■昭和20(1945)年 敗戦

■昭和21(1946)年頃 赤線に移行か
■昭和30(1955)年 業者10軒、女性30名
■昭和33(1958)年1月 業者10軒、女性14人
■同年3月31日 売防法施行により解散・消滅

 

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