昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

八田與一像破壊事件-犯人像を考察する

八田與一の銅像

 

朝起きてニュースサイトを見ると、ショッキングなニュースを見つけました。

 


www.sankei.com

 

台湾にある八田與一という日本人の銅像が、何者かによって首を斬り捨てられました。
何の罪もない銅像が、何故こんな姿になってしまうのか。ショックです。憤りを感じます。

 

しかし、これがある意味「何者」かによる工作だったら?

 

八田與一と台湾

八田與一(はったよいち)については、私が書くより元台湾総統李登輝氏が『新・台湾の主張』で書いた文がわかりやすく、また詳細なので引用します。

 

八田與一といっても、日本ではピンとくる人は少ないかもしれない。
台湾にダムと灌漑用水路を建設し、不毛の土地を穀倉地帯に変えた八田は、台湾にとって恩人ともいえる人物である。

 

(中略)

 

八田は1886年に石川県金沢市で生まれた。第四高等学校を経て、1910年に東京帝国大学の土木工学科を卒業。まもなく台湾総督府土木局に勤めてから56歳で亡くなるまで、ほぼ生涯を台湾で過ごした。

 

八田が台湾に赴任したとき、すでに後藤新平は台湾を離任していた。後藤の時代に台湾の近代化はかなり進んだとはいえ、河川水利事業や土地改革事業は遅れていた。台湾の年間降雨量は多く、河川も多く流れている。

だが、夏季と冬季の降水量の差が激しく、灌漑用水として使用できなかった。とくに南西部に位置する嘉南平原(総面積4500平方㎞)は当時不毛の地といわれ、農業の生産性は低く、農民の生活は苦しかった。

八田は台湾に赴任後、台北の南方、桃園台地の灌漑用農業水路である桃園大シュウの調整設計を行ない、1921年に完成させた(大シュウは大きな水路の意味である)。これが今日の石門ダムの前身である。


この工事の途中から八田は、烏山頭ダム台南市)の建設並びに、嘉南平原に蜘蛛の巣のように張りめぐらせた約1万6000㎞もの水路工事に着手する。地球の全周が約4万㎞であることを考えれば、工事の規模が想像できよう。


さらに、この水路には水門や橋、堤防などが設けられ、主要建造物の数は4000を超えた。烏山頭ダムとこの水路設備全体を合わせて嘉南大ダシュウという。
じつに10年の歳月と総工費5400万円(当時の金額)の予算を要した大事業であった。私の心の友、司馬遼太郎さんはその事業を「日本史上、空前の大工事」と評した(『街道をゆく 台湾紀行』)。

 

1930年に工事が完成した際、八田はなんと44歳の若さであった。
戦後日本で最大規模の灌漑工事となった愛知用水の10倍を超える事業を、当時の台湾で行なったことになる。その偉大さについては、私も賛辞を惜しまない。
八田がつくった新しい水路から水が流れてきたとき、嘉南平原に住む台湾農民60万人は「神の水が来た」といって感激のあまり涙を流し、これを迎えたと伝わる。
工事では十年間に134人もの人が犠牲になったが、嘉南大シュウの完成後に殉工碑が建てられ、日本人、台湾人の区別なくその名が刻まれた。

 

その後、八田は南方開発派遣要員として陸軍に招聘される。そして1942年5月8日、大型客船「大洋丸」に乗ってフィリピンに向かう途中、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃に遭って船が沈没し、八田も遭難してしまう。享年56。

 

3年後、日本の敗戦によって日本人が一人残らず台湾から去らなければならなくなったとき、八田の妻・外代樹は烏頭山ダムの放水口に身を投じて夫の後を追った。御年46歳であった。八田夫妻に対する台湾人の哀惜の念は尽きない。


新幹線の窓から、台湾最大の穀倉地帯に生まれ変わった嘉南平原を見渡すと、青々とした田園が広がっている。そこに「嘉南大シュウの父」八田與一の義の精神が眠っていることを、台湾人は永遠に忘れないであろう。

李登輝著『新・台湾の主張』

 

現存する八田與一の像は、ダム完成後の1931年に作られました。

八田は自分の銅像を作る必要などないと辞退したのですが、農民たちの熱意に押され渋々OKしたと言います。
その後、戦争中の金属供出や戦後の国民党による反日教育で壊されそうになった危機がありました。
しかし、地元の人たちは渡してなるものかと地元しか知らない倉庫に隠し、再び表に出せる機会を待ちました。
1981年、八田與一像はダムを見下ろす位置に、再び設置されて現在に至っています。


その後ろには、八田夫婦の墓がひっそりと建てられています。
銅像もお墓も、地元の人たちによって代々きれいに掃除されています。

八田與一の功績は台湾では知らぬ人はいないというほど有名で、歴史の教科書にも載っています。

 

日本で言うならば、分野は全然違いますが野球の王貞治さんじゃないでしょうか。

王さんは我々の感覚では、ずっと日本で野球をしていたので日本人という感覚でしょう。王さんは誰も疑うことのない「日本のヒーロー」です。しかし、王さんはれっきとした中華民国籍であり、いわゆる外省人2世です。

八田氏は、その逆バージョンという感覚でいいかなと思います。

 

かと言って、八田與一が昔から有名だったわけではありません。

知名度が全国区になったのは、やはり教科書に載り始めてからであり、それまでは地元の人だけが知っていた、知る人ぞ知る人物でした。

 

司馬遼太郎の『街道をゆく 台湾』にも、こういうやりとりがあります。

本で八田のことを知った司馬が、

「山中に八田與一の像が残っているようですね」

聞かれた「老台北」が返す。

「どんな人です」

『この博覧強記の人にして、知らないことがあったのである』

(司馬遼太郎街道をゆく 台湾』)

台湾のことなら何でも知っている「老台北」にしてこれだから、25年前の八田與一知名度は、この程度だったのです。

 

日本でも話題になった台湾映画「KANO」でも、絡みはフィクションながら八田が出てきます。
この映画を通して八田氏の事を知った方もいるかもしれません。
「KANO」の監督の馬志翔氏も台湾のテレビで、「この事件は台湾にとって悲しいことだ」とコメントしています。

 

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中国はなぜ台湾の独立を認めないのか

中国人がGoogleで「台湾」と検索したら・・・

 

中国ではGoogleは使えません

 

中国では、日本ではふつうに見られるWebサイトに閲覧制限がかかり、見ることができないことが多々あります。

例えば、以下のサイトは基本的に、中国からは閲覧不可です。

・Twitter、Facebookなどの海外SNS系(mixiは全然大丈夫)

・Youtube、ニコニコ動画

・主な日本のブログサイト(FC2等)

・Wikipedia

・LINE

はてなブログは、中国から書き込んでいる人もるので、OKのようです。

 

ダライ・ラマ法王など政治的に都合が悪いものや、台湾や香港のサイトも基本的には制限がかかっています。.

中国政府は、通称「万里の長城」というファイヤーウォールを構築していて、海外の「有害な」サイトを閲覧できないようにしています。「有害」とは何か、それは共産党様のご気分次第。

 

我々日本人が日常でふつうに使っているGoogleも、実は中国では使えません

Googleは2006年に、大物入り中国に進出しました。検索サイトのガリバー中国上陸!とかなり話題になりましたが、中国政府の「ネット制限」を受け入れたためにアメリカ議会で大問題になりました。

アメリカ政府からの圧力を受けたのか、Googleは無条件での検索を政府に求めたのですが、中国からの回答は「嫌なら出て行け」と言わんばかりのそっけないものでした。

そこでGoogleは完全に嫌気がさして、2010年に撤退となりました。わずが4年の命でした。

今Facebookがしきりに中国進出を狙い、政府要人と接触を図っているようですが、Googleは「やめとけ」と止めているのだとか。

 

その代わり、「百度(バイトゥー)」という中華Googleがあり、コンテンツもかなり豊富です。

特にこの中にある「百度贴吧」という掲示板サイトは、良くも悪くも中国人民の本音が書かれています。規模だけなら2ちゃんねるに匹敵するでしょう。

今の中国の若者がどういうものに興味があって、どういうものの考え方をしているかを垣間見るには、もってこいのサイトです。

その中でも、ちょっと面白そうなものを拾って来ました。

 

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