昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

淡路島にかつて鉄道があった!淡路交通鉄道線洲本駅

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X68000ーシャープが産んだ最強のパソコン

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ブログ移転のお知らせ

私のTwitter垢を見てくれている方は、もうご存じでしょうが、今年の1月よりワードプレスにてブログを移転しました。

新しいブログのリンクは最後に貼りますが、今年よりブロガーとして本格的に稼働することになり、心機一転WPへの移動となりました。

別にはてなブログが不満だとか、そういう理由で出て行ったわけではありません。「賃貸マンション」から「郊外の一軒家」というマイホームを持ち、引っ越しただけと思っていただいて結構です。

はてなブログの記事は順次WPの方へ移していっているので、現在はここのブログからの転載が中心です。が、ちょくちょく新着書き下ろし記事も増やしていくので、よかったら新しいブログの方もよろしくお願い致します。

 

=新ブログ=

「野良学徒の歴史研究(とブログエッセイ)」

 

yonezawakoji.com

 

また、こちらもTwitter(のプロフ)を見ていただければわかりますが、ここでも書いていた台湾を中心とした東亜情勢のブログも別途作成しました。

 

=台湾史・東亜情勢ブログ=

「台湾史.jp」

taiwanhistoryjp.com

 

はてなの方は、ブログ記事を整理しWPに移転次第、閉めることと致します。

引っ越しのウキウキさの反面、長年住んだ家を離れる気分は幾ばくかの寂しさを感じますが、それも新たな旅立ちへの一時的な感情に過ぎない。これから本格的にやっていきますので、改めてよろしくお願い致します。

 

 

難波病院ーその病院、訳ありにつき

先日…といっても先月になってしまいましたが、なんばパークス南側、ヤマダ電機LABI1なんば店横のホテル建設予定地から「遺跡」が出てきたという記事を書きました。

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

この記事中に、「大阪市パノラマ地図」という地図を出しました。

「大阪市パノラマ地図」とは、大正12年(1923)に作られた大阪市の俯瞰地図で、大阪が「大大阪」に変貌していく黄金期の出発点の時期のもの。大大阪を英語にすると、”The Great Osaka”、略して”TGO”…なんだか無駄に格好いい。

それはさておき、地図の専売局煙草工場の横にある建物に気づいた方はいらしゃるでしょうか?

 

難波病院

「煙草専売局」が前回の主役でしたが、その下に

「難波病院」

と書かれている建物があります。

はて?こんなところに病院なんてあったっけ?地元の人であればあるほど、脳みそをフル稼働させて記憶を探っているかもしれません。

 

府立難波病院遊廓遊女

「難波駅」の位置は基本的に変わっていません。駅と専売局の横を流れている水路が今の阪神高速、と書けばだいたいの位置関係がわかると思います。

しかし、難波にこんな大きな病院があったのか?

ところがあったのです。

しかし!

ただの病院なら、私もわざわざ別記事にしてまでネタにはしません。この難波病院、ブログのネタになるような、ほんのちょっくら特殊な病院だったのです。

今日は、そんな「訳あり」病院の物語を。

 

 

 

遊郭と性病

遊郭…かつての合法的な売春街…と言ってしまえば男の天国、無味乾燥な性欲の掃きだめですが、遊郭には実は様々な役割がありました。

一つは「犯罪者ホイホイ」。男というものは、大金を手にしたり、犯罪のような大きなことをすると、何故か女のぬくもりが恋しくなる変な習性があります。「大きなこと」をすると母親の懐(母胎)に戻りたくなるのでしょうか。

ウソ!?と思われるかもしれませんが、江戸時代の吉原遊郭の設立理由の一つにそれが挙げられているし、戦前のベテラン女郎や遣り手、娼婦はそういう人間を嗅ぎ分ける独特の嗅覚を持っていました。

一発ヤってぐったりしている男の耳元で、女がささやきます。

「ちょっと失礼…」

そのままトイレヘ…行くふりをして1階の湯婆婆ならぬ遣り手婆に報告、「抜き打ち検査」という名目で警察が踏み込み男は御用。廃娼論が湧き上がっても遊郭が成立していたのと、私娼窟が「性病検査だけちゃんと受けてや」という条件で黙認だったのも、警察との隠れたつながりがあったからでしょう。

 

もう一つは性病予防。

梅毒に淋病、軟性下疳…今でこそ初期段階なら注射一本や錠剤で治ってしまう性病ですが、抗生物質などない戦前までは不治の病でした。近代日本の国民病と言えば結核を思い浮かべる人が多いですが、正しくは梅毒・脚気と併せて「日本三大国民病」。その一角を担う(?)梅毒は、まさにザ・キング・オブ・性病として不動の地位を築いていました。

性の牙城遊郭は、常識的に考えたら性病がいちばん伝染しやすいところ。それは想像に難くないですが、そんなこと百も承知の分、週に1回の公費による性病検査があり、遊郭ではたらく遊女の義務でもありました。

昔の日本で売春が出来たのは、何も遊郭だけではありません。大袈裟でもなく「ありとあらゆる場所」で売春が行われ、うどん屋・牛乳屋が実は…という例もありました。昭和初期のエログロナンセンスの象徴、カフェーも「オプションサービス」としてあったのはお約束。元手も技能も要らない女の個人事業としては、売春がいちばん手っ取り早かった現実がそこにありました。

しかし、そこで怖いのが性病。昭和の初めあたりのデータですが、性病所有率は芸者が15~6%に対し私娼が10%。「芸は売っても体は売らない」の芸者の性病率が高いのは笑うに笑えないのですが、それに対し遊郭の娼妓の所有率はわずか2~3%*1。性病を持った娼妓は容赦なく隔離&職務停止されるので、2~3%でも遊郭基準では高い方ですが、いちばん危ないところが実はいちばん安全…という言葉にふさわしいですね。

 

話は変わって江戸時代、大坂の色町といえば新町が代名詞でしたが、そのほかにも各地に大小の遊里が散在していました。生國魂神社の近く、ラブホが固まる何やら妖しい某区画もそうだったと言われています。

それが明治初期に一箇所に集結統合され、郊外に追いやられます。それが明治4年(1871)のこと。場所は松ヶ鼻。かの松島遊廓の始まりです。

その翌年、その松島に「駆梅院」という施設の稼働が開始されました。本当は「駆黴院」と書くのですが、ここは現代当用漢字で「梅」に統一します。

「梅」とは梅毒のことで、「駆梅院」とは性病専門病院のこと。松島遊廓のグランドオープンはその翌年の明治6年なので、その前にまず病院を作る…当局も性病の蔓延にはかなり神経質になっていたことがわかります。

 

駆梅院、難波へ移る

駆梅院は松島の端っこ、今の西区の松島公園あたりにあったと言われています、しかしすぐにキャバオーバーになったか、明治16年(1883)に難波へ移転、「府立難波病院」として再オープンします。

といってもしばらくは「駆梅院」と呼ばれていたらしく、明治38年(1905)の大阪府の資料にも「大阪府立駆黴病院」との記載があります。

 

難波病院遊郭

(大阪市街全圖(1916年)より)

難波に移転した後の難波病院は、大阪府下の遊郭の遊女の総合病院として、性病その他に罹った娼妓たちの入院先となりました。おそらく性病検査や、今で言う健康診断もここで行っていたと思われます。

難波病院が何故いわく付きか。それは、ここがあくまで遊郭ではたらく女性のための性病専用病院であり、一般の患者様お断りだったということ。性質上、かなり特殊な病院だったのです。

 

難波病院の位置

複数の地図や資料を参考にした難波病院の敷地を、現在のGoogle mapに落とし込んでみました。

 

難波病院の実情

 難波病院の中、その実情はどうだったのか。

娼妓専用の病院という、誰でも入れるわけではない特殊性からあまり伝わってこないですが、いくつかの資料に断片的に書かれています。

『紅灯ロマンス』という大正時代の本に難波病院について一章が割かれていますが、の中に、

『この病院を参観した者は、庭園の中央に鉄錠を固く下した古井戸を見るであろう』

(原文は旧漢字旧仮名遣い)

 という記述があります。難波病院には学校の中庭のような「庭園」があり、そこになにやら訳ありの『封じられた井戸』があったそうです。

そしてもう一つ。

『又各寮付属の便所数ヶ所の内一ヶ所或は二ヶ所に釘付けになって出入を禁じてある便所を見るであろう』

(原文は旧漢字旧仮名遣い)

 便所には「開かずのトイレ」まであるという、なんとも怖いお話です。『紅灯ロマンス』に書かれた難波病院の話は幽霊話、井戸に飛び込んだり、便所で首を吊ったりする遊女がいて怪談話には事欠かない…というのが話の趣旨なのですが…

 

難波病院遊廓

上述の『大阪市パノラマ地図』の難波病院を限界にまで拡大すると、吹き抜けになっている中庭があったことがわかります。『封じられた井戸』はここにあったのでしょう。 

 

さらに、『松島遊廓の研究』(木村俊秀)という松島遊廓研究者のコラムの中に、一章を割いて難波病院の様子が書かれています*2

それによると、難波病院は七棟、43部屋あり部屋の広さは30~35畳、そこに2~30名の入院患者が寝泊まりするとのこと。一人あたりのスペースは1畳ちょっと…プライベートなんかありゃしません。

3食賄いで1日20銭、朝は味噌汁と漬物、昼夜は煮物などでしたが、味は不味かったそうです。うどん一杯3銭の時の20銭は日当たりとは言えけっこう高い。それで不味いとなると、もしSNSがあったら、なんだこのブラック病院はと炎上不可避。

ご飯は当時「南京米」と呼ばれたインディカ米で、時代的に台湾からの移入*3だと思われます。それが「臭気あるため食慾が進まず閉口する」ほどだったそうな。

「食慾が進まず閉口する」気持ちは非常~~によくわかります。南京米の「臭気」は私も中国広東省で経験しましたが、あのおぞましいほどの激臭を目の当たりにすると、口に移すまでの不快感たるや言葉では表現できません。口にさえ含めばどうということはないのですが…あれに馴れるのには、ちょっと時間が必要です。

 

それはさておき、『松島遊廓の研究』によると難波病院の入院患者は平均で500人前後。すでに書いたとおり、難波病院には大阪府下の遊郭の娼妓が収容されるのですが、そのうち松島の娼妓が300人強。松島は娼妓数・売上・登楼客数日本一、戦前の遊郭三冠王でしたが*4、それだけに性病患者数もケタ違いといったところでしょうか。

それを物語る公的資料があります。

衛生年報難波病院大阪の遊郭

『衛生年報』という大阪府の公的資料で、こちらは明治45年(1912)の統計です。一年間の入院患者7856人中、松島の娼妓が4995人(約63%)とダントツ。ふふふ、圧倒的ではないか我が遊廓は…とギレン・ザビ総帥なら言いかねない。

入院期間は短くて数日、長いと数ヶ月に及び、将来を悲観して自殺する人もいたそうです。それが『紅灯ロマンス』の難波病院怪談話につながるというわけですな。

ちなみに、この遊郭リストを見て少し違和感を持った人がいるかもしれません。

「あれ?飛田は?」

飛田遊郭の誕生は大正7年のこと。誕生までには、あと数年の歳月が必要です。

 

大阪には、「難波病院数え唄」という民謡が伝わっています。

「一つ~ 人も知ってる大阪のところは難波の~病院が嫌で~」

 から始まる調子の唄は、遊女の恨みというか悲しみ、これも運命かという諦めの文言が並び、今でも住吉区・住之江区の盆踊りで歌われることがあるそうです。

難波病院、住吉へ移る

大正13年(1924)、難波病院は難波を離れ、住吉村、現在の大阪市住吉区へと移転します。住吉に移転したのだから名前は「住吉病院」…とはならず、難波病院のまま。住吉なのに難波…なんかそれはちゃうんとちゃう?…という違和感は、当時の人も感じたに違いありません。

 

府立難波病院住吉 

住吉府立大阪病院難波病院(大阪急性期・総合医療センター動画より切り抜き)

上の画像は戦後のものですが、建物は難波から住吉へ移転した時そのままと思われます。建物も病棟5棟と診察棟が竣工し、鉄筋コンクリートの近代的な設備になっています。

移転した翌年、大正13年の予算計上で「難波病院新築移転に伴い需用費に於て金五万五千余円を増加」とあります。今のお金で3億円弱ですが、上のような病院が3億円で絶対建てられないので、単純な「移転のための雑費」かもしれません。

遊郭の遊女専用病院が、なぜここまで「立派」になったのか。

それは人権意識の向上とも関係があったと、私は考察しています。難波時代の難波病院は、記述だけを見ていると、病院というより刑務所か強制収容所。彼女らの親でさえ面会は妓楼主の許可(面会券)が必要なほどでした。

それが大正に入り、全国で廃娼論が持ち上がると同時に遊郭に対する風当たりは強くなり、さらにカフェーという新しい風俗産業があらわれ、娯楽としての遊郭はほぼオワコンでした。

その危機感から、遊郭の改革が始まりました。

一つはシステム。それに革命をもたらしたのが遊郭界にあらわれた超新星、飛田。飛田がすごかったところは何も規模だけではなく、経営システムが他と抜本的に違っていました。一言で表現するならば、既存の遊郭が「商店街」に対し、飛田は「ショッピングモール」。戦前と思われる飛田遊郭の俯瞰図を見たことがありますが、整然と並んだ妓楼の姿に「美」さえ感じ、こりゃ遊郭のイオンモールやわ…と私の仮説が確信に変わりました。この「飛田スタイル」は、のちの今里新地などにも流用されています。

もう一つが、娼妓たちの「働き方改革」。遊郭の管理は都道府県によってけっこうな温度差がありましたが、それが大正~昭和にかけて行政指導により改善されています。中には、奈良県のように警察のナンバー2が妓楼の主に頭を下げ、娼妓たちの待遇改善など遊郭の近代化に努めたところもあります。

明治以前の遊女たちの待遇は、病院でも臭い飯を食わされるほど酷い待遇でしたが、この時代になり彼女たちも「人並」を手に入れたということでしょう。

 

移転の理由は定かではありません。が、だいたいの予想はつきます。

遊郭は基本的に「穢れ」です。性欲は人間が人間として生きていくためには欠かせない本能的な欲なのに、食欲などに比べてあまり良い扱いとは言えません。排泄も欲ならば、遊郭は「性欲のトイレ」と言いかえることができるかもしれません。

昔の日本家屋のトイレは、離れに設けられていることが多かったですが、悪く言えばトイレだけ隔離されているようなもの。「穢れ」を落とすためには隔離しないといけないのです。

遊郭も考え方としては同じで、一部の例外を除いて郊外に作られる傾向にありました。戦前の松島や現在も位置が変わらぬ飛田も、作られた当時は市街地から遠く離れたド郊外でした。

しかし、大正後期になると大阪の市街地が急激に広がり、"TGO"への序章が始まります。と同時に、ネギ畑ばかりしかなかった難波近辺も市街地化し、「穢れ」である難波病院も、遊郭と同じく郊外へ移転せざるを得なかったのでしょう。

あとは、「遊郭界の木星」こと松島と同じ市内に、「土星」こと飛田が出来た事情で娼妓の数が爆発的に増え、難波病院が急速に手狭になった事情もあったことは、飛田遊廓の発展を数字で追えば容易に想像ができます。

 

戦前を通して遊郭の娼妓、そして性病専用の病院として機能した難波病院ですが、戦争終結により公娼制度は廃止、同時に遊郭も全廃されます。といっても赤線として現実は継続したのですが、それは横に置いておきましょう。

それと同時に難波病院は役目を終えます。といっても廃院になったわけではなく、一般客の受け入れを開始し性病専門という看板も外し、「めっちゃふつうの病院」になっただけですけどね。

 

 

難波病院跡のその後

大正13年7月に住吉に移転した難波病院ですが、跡地はどうなったのか。

 

難波病院浪速区役所

(大阪市街全圖(1928)より)

浪速区役所になっています。現在でも同じ位置に区役所がありますが、他の地図や昭和17年の航空写真を見ると跡地すべてが区役所に…というわけではなさそうです。

 

難波病院が住吉に移転した3ヶ月後の10月、山田晁(あきら)という人物が難波に小さな町工場(大阪金属工業)を建てました。現在のダイキン工業なのですが、

時代の先を行き過ぎた!?とある企業の珍製品「電気手拭機」

ダイキンが戦前に作った珍製品の記事の執筆のため、図書館でダイキンの社史を読みあさりました。そのときの創業の地の位置に、私の頭の上に「!!!!」が炸裂しました。

あれ?難波病院の跡地やん??

ダイキンの社史の地図がいささかざっくりなので断定はできないのですが、難波病院のすぐ近くか敷地内なのです。難波病院の敷地の広さを考えると、払い下げられた府有地の一角を大阪金属工業が工場として利用した…そんな仮説が成り立ちます。もう少し精査が必要ですが、難波病院がダイキンに…と思うと胸が躍ります。

 

難波病院の現在

上述したとおり、難波病院は戦後すぐの1946年「府立大阪病院」に改名し、「ふつうの病院」として再スタートしました。元の性質上、最初は性病・泌尿器科を得意としていたそうですが、のちに数々の診療科を併設し総合病院としての道を歩みました。

 

大阪急性期・総合医療センター

ホームページより)

そして現在、「大阪府立病院機構 大阪急性期・総合医療センター」として難波から住吉に移転した場所に現存しています。

 

遊廓が「穢れ」だったと述べました。その間接的な証拠に、「穢れ」に携わったとして遊郭の関係者が一様に口を閉ざすことが多いことが挙げられます。自分が関係者だったこと、そして該当エリアが色里だったことを隠し、そのまま風化して黒歴史化を待つ人が多いのも事実で、「新地もん」と小学校でいじめられたという妓楼の子息の話も聞いたことがあります。なので、隠そうとする、傷ものなので触れてくれるなという人の気持ちもわからないでもない。

大阪急性期・総合医療センターはどうなのか。

 

PR動画で松島の駆梅院が発祥という紹介をしており、黒歴史化していないようです。遊郭を知らない人がこの動画を見ると、

「楳毒院(=駆梅院)って何じゃそのおどろおどろしい名前は!?」

と一抹の不安を覚えるかもしれませんが、きちんと理解すればどうということはありません。

遊郭はなくなりましたが(とも言えないけれどそれはおいといて)、それをルーツに持つ病院は、フルモデルチェンジして今日も大阪の医療の最前線に立っています。

 

==こんな記事もあります==

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

*1:『軍隊を誘致せよ: 陸海軍と都市形成』松下孝昭著より

*2:法律新聞 大正5年9月13日付

*3:台湾は外地扱いなので、輸入ではなく移入

*4:妓楼数は吉原・洲崎遊廓に及ばず3位(昭和12年)

なんばパークス南で謎の遺跡発見!その正体を追う

大阪の難波にある「なんばパークス」の南端、少し前の記憶がある人は大きな平面駐車場として覚えている人がいるかと思います。もっと具体的に言えば、「ヤマダ電機LABI1なんば店」の横、南海電車との間のスペースです。

タイムズ難波中央

 

 

そこに、タイ資本の「センタラグランドホテル大阪(仮称)」が作られるようです。

センタラグランドホテル大阪建設予定

出典:難波中二丁目における開発について

 

建設工事が始まり、基礎固めのために地面を掘ってみたところ、おそらく誰も予想もしなかった意外なものが「発掘」されることに。

 

なんばパークス近代遺構発掘

なんばパークス近代遺構出土

画像提供:【速報】再開発しているなんばパークス南端から謎の遺跡が出土……(207様ブログ)

 

なんじゃこりゃ!!!

 

空の上から松田優作の有名なセリフが聞こえてくるような「遺跡」が。それも町のど真ん中に…。

果たしてこれは何時代のものか、いつのものか…江戸時代?いや平安時代か、いや数万年前の超古代文明…なわけないか。

実は私、こういう「遺跡もん」が大好物、このブログに「考古学」とついているのは伊達ではありません。こういうニュースには、自然と鼻息が荒くなってしまい、筆…もといキーボードを打つ手も少し弾んでいるように思えます。

 荒ぶる鼻息を少し落ち着かせ、落ち着いてアップで見てみると、

ヤマダ電機横駐車場遺跡

ヤマダ電機横駐車場

画像提供:【速報】再開発しているなんばパークス南端から謎の遺跡が出土……(207様ブログ)

 

どうやらレンガっぽいような、コンクリのような…?

外の箇所を見ると、確実に江戸時代以前のものではありません。レンガなら明治期、コンクリなら大正(初)期の建物の跡とみた。

それはいい。問題は、この建物が何かということ。そして、かつてここには何があったのか。「遺跡」が出てきたからには知りたくなってくる。それが人間が自然に備わっている好奇心というもの。

おそらく、現在公的機関による発掘調査中だと思います。いずれ調査結果が発表されると思いますが、その前に古地図や文献から推理しちゃおう!

これが今回のブログ記事のコンセプトです。

難波とその近辺には、昔何があったのか。昔を振り返りながら謎の「遺跡」の正体に迫ります。

 

 

 

難波にはむかし、何があったのか

 

難波と「難波御蔵」

難波近辺は、むかし一体なにがあったのか。

 

なにもありませんでした(笑)

 

これじゃあ味気もへったくれもないので、もう少し具体的に説明すると。

 

1872年明治時代大阪難波地図

明治5年(1872)の難波駅近辺の地図です。文字通り何もありません。少し右側(東)を南北に走る堺筋は宿場が並ぶ繁華街(貧民街でもありましたが…)、むしろこっちの方が江戸時代の幹線道路沿いなので賑やかなほどでした。

この地図の約13年後に南海鉄道*1難波駅が、地図赤丸の位置に開業しますが、開業当時の難波駅近辺は

「人家は多少あったが多くは葱(ねぎ)畑だった」
(『開通五十年』1936年南海鉄道編纂 pp.9)

という有様。南海鉄道公式歴史書にこう書いているくらいなので、よほどネギ畑しかなかったのでしょう。

が、こう書かれるのには理由があります。

かつて、難波近辺はネギの一大産地でした。「なんば」が関西のネギの代名詞だったこともあり、諸説ありですが、『鴨南蛮』の南蛮は「なんば」が訛った説もあります。そのネギ畑の真ん中に駅を作ったようなものだったということですね。今の人大杉の喧騒からは全く信じられません。

ちなみに、今宮近辺はレンコンの産地だったそうです*2

 

そのネギ畑ばかりの難波に、こんなものがありました。

 

江戸時代末期幕末の難波地図

江戸時代、難波には大きな米蔵(難波御蔵)がありました。享保の飢饉の教訓として1732年(亨保17年)に作られた幕府直轄の施設*3で、災害や飢饉などの際に米を供出できる、ため池ならぬ「ため米蔵」の役目を担っていました。

 

この米蔵は維新後も残り、おそらく新政府に管理が移されたものと思われます。

明治時代南海難波駅

開通直後の南海難波駅を発車する汽車(※電車ではありません)の左にある土塀、これが難波御蔵です。

今は電車の両数が多くなり視覚ではあまり感じませんが、実際に電車に乗ってみると難波駅を発車した電車はいきなり少しカーブします。これは難波御蔵があった影響なのです。

御蔵は明治30年(1897)*4に役目を終え解体され、今は碑しか残っていません。

 

大蔵省専売局煙草工場

明治になり使われなくなり、すなわち要らない子扱いされた難波御蔵は解体され、翌年の明治31年には跡地に大蔵省専売局の煙草工場となりました。

 

大阪市パノラマ地図難波

現在のなんばパークスすべてが工場の敷地と思えば、その大きさがだいたい把握できることでしょう。

上の地図は大正12年(1923)刊「大阪市パノラマ地図」の難波の部分を切り取ったものですが、周囲に比して専売局のレンガ色の建物群の大きさが目立ちます。

 

昭和17年大阪市航空写真難波近辺

昭和17年(1942)の大阪市航空写真です。私が知りうる限り、現存しているものとしては、戦災で焼け野…いや更地になる前の難波の最後の姿です。詩的な表現をすれば、大大阪時代の空の遺影です。

それはさておき、難波近辺の写真を見てみると、当然専売局の建物も存在しています。

この写真の3年後に、ここ近辺は空襲で更地になった上に、そのついでか区画整理され当時の航空写真をもってしても位置特定が困難でした。が、写真右下の小学校*5の位置が変わっていないのが幸いでした。逆に言えば、これが位置特定の唯一の手がかり…。戦前と戦後ではそれほど変わってしまったのです。 

  

上述したとおり、難波近辺は昭和20年(1945)3月の空襲で焼失…いや「消失」という言葉がふさわしいほど焼き尽くされました。

空襲直後の難波駅周辺の写真は何枚かありますが、今回のお題にふさわしい専売局方向の写真を。

 

1945空襲で焼けた難波駅周辺高島屋135年史

(出典:『高島屋135年史』)

空襲直後の、高島屋から見た専売局です。高島屋はあの空襲でもほぼ無傷でしたが*6、南海の駅のホームはほぼ全焼、屋根の骨組みだけが残る無残な姿に。

その奥の専売局、一見無傷のように見えますが、残ったのは外壁のみで中は焼けて跡形もありません。専売局自体もこの空襲の日をもって機能不能となり、「ご臨終」となっています。

ちなみに、この煙草専売局の現役当時の写真、ググったら何枚か出てくるだろう…と思っていたら、一枚も出てこないという予想外の結果に。そんなに残ってないのか!?そんなアホな!?と首を傾げつつも、今度大阪の図書館に行った時に問い合わせてみようと思います。

 

1948年難波航空写真

空襲から3年経った昭和23年(1948)の写真では、専売局の部分は残った建物も解体され完全に更地となっています。

 

大阪球場と南海ホークス

 上の写真から2年後、専売局跡地に南海ホークスの本拠地である大阪球場などが作られます。

「ホークス」と言えば今年の日本シリーズでも日本一になった「ソフトバンクホークス」がその代名詞になっています。が、その前の前は「南海ホークス」という南海電鉄が所有していた球団でした。

 

南海ホークスと大阪球場

昭和50年の航空写真より。専売局跡がほぼ大阪球場になっていたことが目視で確認できます。昭和50年と言えば、ノムさんこと野村克也さんがホークスの選手兼監督だった時期です。

難波駅の横にプロ野球の球場があった…私はリアルタイムで知っています。知ってるどころかここで行われたオールスターも見に行きました。5歳か6歳の頃だったので球場がすごく大きく感じたのですが、実際はそうでもなかったそうです。

そして長~~い低迷期を経て人気も凋落した末にダイエーに身売りされ、福岡へ本拠地を移したのが1988年。それからもう30年以上経つので、平成生まれは「南海ホークス」をリアルタイムで知らないという計算になります。

もっとも、大阪球場自体は1998年まで住宅展示場などの多目的施設として残っていたので、

「なんか難波駅横に球場らしいのがあったような…」

とおぼろげな記憶を持っている20代もいるはず。

その跡地に作られたのがなんばパークス。そして現在に至っています。

 

「遺跡」は何なのか

さて、本題の「遺跡」の話です。

 

難波近代遺構

遺憾ながら、私は「遺跡」の現場を見ていないのですが、207さんが様々な角度からの写真を撮影してくれているので、位置はだいたい把握しました。

これを、昭和17年の航空写真と照らし合わせてみましょう。

 

なんば近代遺構

だいたい黄色あたりの位置になるかと思います。

(推定なので、大きめにとっています)

 

なんばパークス駐車場遺跡

 

上の写真を極限まで拡大してみると、「遺跡」の位置あたりに東西に細長い建物が存在していることがわかります。「遺跡」も東西に伸びている形になっているので、これはかなり答えに近づいてきたものと思われます。

もう一つ気づいたことがあります。上の写真①の部分、高架線が途切れているような感じがします。カメラの都合でもなさそうです。

 

これに引っかかって207さんの写真を改めて見てみると。

 

なんばパークス駐車場遺跡

南海の高架線のピンクの◯の部分…位置も昭和17年航空写真とほぼ同じと思われます。

これ以上詳しいことは調べようがないですが、ちょっと気づいたことを。これを突破口に、誰かが何か新しい発見をしてくれることを祈って。もちろん、

「お前の気のせいじゃ!」

も含めて(笑)

 

で、黄色で囲んだ建物も専売局の一部ではないかと思っていたのですが、別のブログによると「日本皮革㈱」の大阪支店(工場)があったとのこと。

かつて大阪日本橋でんでんタウンで生まれ育ったおっちゃんの思い出ブログ。 : ヤマダ電機「LABI1なんば」前で遺跡発見!?

「日本皮革㈱」は現在の㈱ニッピのことですが、大阪金属略してダイキン、東洋レイヨン略して東レ、そして日本皮革略してニッピ…こういう略し方&会社名が多いですな。

それはさておき、上の方も「遺跡」跡にあったのが日本皮革大阪支店だったというソースは出していないので、ソース重視の私としては「??」としておきますが、それを間接的に証明するものを意外なところから見つけました。

 

センタラグランドホテル大阪ニッピ難波土地

出典:センタラホテル&リゾート、大成建設、関電不動産 難波中二丁目における開発について

 

なんということでしょう!!!

 

「遺跡」が出てきたあの駐車場の土地、日本皮革改めニッピ所有だったのです。

さらにニッピのHPを見てみると!

 

なんばパークス

出典:当社なんば地区所有地の開発について 

なんということでしょう!!!

 

これで、航空写真の建物は旧日本皮革の建物であることは、ほぼ確定ですね。

というわけで、あの「遺跡」は旧日本皮革工場跡だった…めでたしめでたし!!

 

=完=

 

 

 

新説!「遺跡」はこれだ!?

 

でも、あることが喉元に引っかかってたまりません。

ヤマダ電機横駐車場遺跡

「遺跡」が「出土」した駐車場がニッピの所有地であることはわかった。しかし、ニッピの工場にしてはこの「出土物」、古過ぎはしないか。この素朴な疑問が消えません。こう見るとレンガに見えるのですが、「上部分は無理矢理もぎ取られたかのような」(207さんのブログ内の言葉)部分の断面を見ると、コンクリートっぽくもあります。

大阪工場がいつ出来たのか、ググっても記録には残っていません。昭和40年(1965)に西淀川区に大阪支店を移転ということしか判明しないのですが、では旧日本皮革はいつここに工場を建てたのか。

社史を見れば書いてあるかもしれませんが、大阪の図書館まで行くのは面倒くさ…もとい週末しか行けないので待てない。

こういう時どうするか。やはり文明の利器インターネッツを利用するっきゃない。

 

株式会社ニッピ

「御社の大阪工場建設っていつ?」

と、HPからお問い合わせメールを送っておきました。

以前に同じようにお問い合わせをしたモスバーガーは、小一時間で返事が来ましたが、ニッピさんの会社としての対応の迅速さお手並み拝見といきましょうか。

 

 

 

 

メールを待つ間にいろいろ推理してみると、上に挙げたある地図が目に入りました。

 

大阪市パノラマ地図難波専売局

戦前の大大阪の晴れの地図、『大阪市パノラマ地図』ですが、黄色で囲んだ建物、「遺跡」のあれではないかと、この地図を見た時に直感が働きました。このレンガ作りの同様な建物が周囲にもあるので、専売局の建物と思われます。

「私の直感」というなんとも頼りないソースではあるものの、ニッピ大阪支店(工場)の建設時期によってはこれはアリエール。

 

大阪球場

ニッピ自体は昭和40年(1965)に大阪支店を西淀川区に移転させていますが、のちに工場跡はゴルフセンターになっています。「遺跡」が見つかった場所は黄色の部分となります。

そして大阪球場の終焉とともになんばパークスへと駐車場へ。

 

ここで、私は大胆な仮説を立ててみました。

==仮説1==

1.旧駐車場には明治時代、専売局の建物があった

2.のちに旧日本皮革株式会社に払い下げられ、建物は解体の上新しい工場を建てた

3.令和元年、専売局の旧建物が「遺跡」の形で「出土」した

  

 私の仮説が正しいかどうか、それはニッピからの返答が来るのみですが、来なかったらどうなるか。

Twitterで

「返事が来ない、対応遅い、企業としてどうかと思う、ニッピ氏ね #拡散希望」

とでもツイートしてプレッシャーかけておきましょうか…SNSは恐いよ(笑)

 

==こんな記事もあります==

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

*1:開通当時は阪堺鉄道

*2:『今宮町史』

*3:敷地は東西127m、南北327m。

*4:明治31年説もあり。

*5:現在は浪速小学校・日本橋中学校

*6:焼夷弾が何発か入ってきたが、従業員の消火隊が必死で消火しボヤ程度で済んだそう。

中国ウォッチャーが見た韓国人の頭の中-最近の日韓関係に添えて ※2019/9/2編集

前編である前回の記事の続きです。

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

久しぶりに書いた記事がまさかの大花火、死に体だったうちのブログに息を吹き返してくれたのは、ひとえに読んでいただいた読者さんのおかげです。

で、かんたんな御礼はこれくらいにして、本編に入っていきます。

 

 

日韓関係険悪

 

韓国はなぜ半狂乱になっているのか-プロローグ

しばらくブログを書かないうちに、日韓関係は急速に展開していきました。ついには、日米とも(おそらく)

「これはないだろう」

と思っていたGSOMIA*1まで破棄してくる始末。

日本「頭がついていけない」

アメリカ「わけわからん」

と政府高官が頭を抱えるほどの斜め上の行為でした。まことにあちらさんらしいと言えばそうですが。

私は最初、

「我が国をホワイト国再復帰させたらGSOMIA破棄を考えてやってもいい」

という向こうの公式の言葉に、

「アメリカさん、日本が言うことを聞かないの!助けて!助けないと破棄するよ(チラリ」

という脅しと思っていましたが、23日に文書で正式通知してきました。口頭なら

「ウソぴょん!あんなの信じてたの?www」

といつものようにシラを切ることができたものの、文書ではもうシラも切れません。それでも切ってくるのが向こうさんかもしれませんが(笑)

 

一連の韓国の言動に、韓国(人)のことをよく知らない人は、ある強烈な違和感を覚えていると思います。

「なんであんなに上から目線なんだ?」

 

ここ直近の日韓のいざこさは、経済面などでは散々語られています。しかし、不思議なほど抜けているのが、彼らの頭の中。あの謎の上から目線はどこから、どんな考えで発しているのかもその一つ。これを解説したものは、ネットで探す限りゼロではないけれど非常に少ない。

 

そしてもう一つの疑問は、

「何故ホワイト国解除くらいで半狂乱になっているんだ?」

だと思います。

これも、経済面からの解説は山ほど存在していますが、果たしてそれだけ?というのが私の主張です。

 

先に言っておくと、私はあくまで台湾・中国華南(香港含む)を中心とした「中国語圏」が得意分野で、かつ私的研究分野。韓国のことは門外漢な上に、本来は興味すらありません。なので、中国語圏ウォッチャーから見た韓国人の頭の中解説、という気分でお読みいただければと思います。もっと深いところは、専門家の本を読んでいただければと思います。

 

 

 

 

■韓国人の価値観を知る3つのキーワード

 

①小華夷思想

「中華思想」という言葉を聞いたことがあると思います。これ、実は日本人の造語なので当の中国大陸の人間には何のこっちゃ?なのですが、概念としては存在しています。これは正式名称を「華夷思想」と言い、文化・道徳は『華』を中心に上等とし、そこから同心円状に離れていくにつれ文化レベルが下がっていく、という考えです。

華夷思想図

かんたんに書くとこんな感じ。日本は『華』から見ると「東夷」にあたります。

これをチョー簡単に解説すると、

「俺の文化は世界一ぃぃぃぃぃぃぃぃ!」

という思想・価値観です。

中国に留学していた20年以上前、日本語専攻の大学生に日本の歴史を勉強する大切さを教えたところ、ある女子学生が、

「ふん!日本の文化なんて!」

完全に鼻で笑っていました。日本文化など興味ない、勉強する必要もない、日本語というスキルが身につければそれでいいのよ!と彼女いわく。日本文化を二段も三段も下に見ていました。

(これが世に言う中華思想か…)

当時21歳の私が出会った、初めてのリアル中華思想でした。

ただし、これには後日談があります。

それから13~4年くらい経ったでしょうか、弁護士を通して彼女から連絡が。留学時代に私におごったメシ代15元の督促か!?(笑)と思えば、

「学生の頃、『語学は異文化理解なり』というのぶさんの言葉を全く理解せずバカにしていました。ものすごく不愉快だったことでしょう。

しかし日系企業に就職して日本人と付き合って結婚し(日本人と結婚したらしい)、あなたが言ってた日本の歴史・価値観の勉強の重要性がわかりました」

と、若気の至りの非礼を直接詫びたいので、訪日期間内に私の消息を探していたということでした。中国人、こういうところがあるから嫌いになれないのよね。

 

朝鮮半島の文化・価値観は良くも悪くも「中国のコピペ」です。歴史的経緯は省略しますが、中国の属国というよりコピペとしての扱いしか受けない中、やはり自尊心だけは肥大していきます。朝鮮に限らず、人間不遇の時代が長くなるとこうなります。多くは語れませんが、断言できます。

そこで李氏朝鮮が拠り所にしたのが「華夷思想」でした。その朝鮮式が「小華夷思想」。「小華夷思想」は「小中華思想」に言い換えても同じです。朝鮮式も基本は本家のコピペですが、少し変形しています。

朝鮮小中華思想

上の図はあくまで私のオリジナル概念ですが、同心円状ではなく徹底した上下の序列となっています。なんで同心円状がこんな形になったかは、次章で詳しく。

本家にはない、小華夷思想独特の考えもあります。それは

「島国は無条件で未開で野蛮な国」

ということ。日本だけでなく、琉球(沖縄)台湾、同じ国のはずの済州島も同じです。在日韓国人の、確か9割が済州島出身者だった記憶がありますが、何故彼らが日本に来たか、これでお察し。

これは韓国だけでなく、北朝鮮も同じだったりします。時々北が日本を

「島国の分際で生意気な!」

と罵倒することがありますが、小華夷思想丸出しだなと、向こうの頭の中がわかれば笑みさえ浮かべてしまいます。

 

日本人が理解できない韓国人の言動の一つに、

「起源説」

があります。剣道や柔道から始まり、桜や折り紙にまで至ってなんでも韓国起源にしてしまうことですが、これもこの考えで容易に理解できます。

日本人が全く予想していないところで、日本文化は世界で人気があります。特にマンガ・アニメの力はすごい。"manga", "anime", "cosplay"は完全に英語になっています。

「キャプテン翼を見てサッカー選手を目指した」

「いじめられて死のうかと思ったけど、セーラームンから勇気をもらった」

なんて話もけっこうあります。

韓国人にもマンガやアニメ好きはいっぱいいます。が、やはりというかまさかというか、思考が斜め上に歪んでいます。

「日本は未開の野蛮国」

という小華夷思想による不変の大原則があるため、「未開の野蛮国」の文化にかぶれている自分も「野蛮」で「未開」となります。これは韓国社会では死ぬに等しい屈辱…しかし日本文化を堪能したい。

そこで彼らは考えます。

「そうだ!日本文化は全部韓国が教えてあげたんだ!」

これなら日本文化イコール韓国文化となる上に、次章で述べる序列も安泰。めでたしめでたし…韓国人的には(笑)

実はこれが起源説の始まり。彼らの観念論オナニーから始まったものなのですが、元々「日本は未開で野蛮」という土台の思考があるため、いともあっけなく受け入れられ、常識となってしまったようです。少なくても、桜の「起源説」はこんな風に始まったそうです。

 

②徹底した序列社会

韓国人と対面すると、不思議な光景に出くわすことがあります。初対面なのに学歴や卒業大学、年収などを聞いてくることがあり、我々をあっと驚かせます。

それだけではありません。中国留学時、少なからず韓国人留学生もいたのですが、初対面の挨拶で、

「美空ひばりは韓国人」

「イチローは韓国人」

5ちゃんねる*2ではこれを「在日認定」と言っていましたが、ネットなんてなかった当時はそんなことつゆ知らず、

「な…なんなんやこいつら…」

あっけにとられて二の句が継げなかった記憶があります。ただし、全くの悪気のなさも印象に残っています。

これが韓国人特有の「序列マウンティング」ということに気づいたのは、それから20年以上経ち韓国人の頭の中を調べてやれと勉強し始めてからのことです。

 

韓国社会は、平等の概念がほとんどない序列社会という話を聞きます。

留学時の韓国人をウォッチングしていると、韓国人と全く交わらない韓国人がいることに気づきました。日本人社会も、和という名の同調圧力が強いムラ社会でうんざりすることがありましたが、韓国人社会に比べれば、入るも自由出るも自由のゆる~~い方、韓国の同調圧力はかなり強烈、強制加入な上に出たら制裁。その上序列があるので、

「外国まで来て韓国社会なんてうんざりだ!」

と一線を画する韓国人も少なからずいました。日本人とつるんで数年間一度も韓国語を話さず(日本語と中国語のみ)、ほんとうにこの人韓国人なのかしらん?という韓国人もいましたし。

そんな彼らに、他の韓国人には言わないよとぶっちゃけトークしてもらうと、細かいところは忘れてしまいましたが、少なからず「韓国社会の息苦しさ」を感じていたそうです。

 

李氏朝鮮(1392-1910)は、積極的に中国文化をコピペしましたが、その一つに朱子学があります。朱子学は日本の武家社会でも採用されたように、徹底した上下の別を唱える学派で、李氏朝鮮はそれを庶民にも徹底的に植え付けさせました。

それにより、同心円状なはずの小華夷思想も上下の序列型になってしまったほど、朝鮮は朱子学の序列社会一色になってしまいました。

「朝鮮は儒教である」

よく聞く言葉ですが、これは正しくも間違い。儒教は儒教でも朱子学なのです。

その朱子学、実は取り扱いを間違えるとえらいことになる劇薬でもあります。本家中国は科挙の入試対策に終わり、日本は先哲が毒抜きしてくれたおかげでマイルドになりました*3

が、朝鮮の朱子学は、「中華のコピペ」故に毒付きの皿まで平らげてしまい、その毒は現在でも韓国社会を蝕んでいます。

その一つが序列社会と小華夷思想。

華夷思想も実は朱子学の理論家が創り上げた思想の一つで、北方遊牧民族に「華」*4を占領されたコンプレックスを、

「お前らケンカ強いかもしれないけど、『道徳的優位』はこちらが上だ!」

と観念論オナニーで解消しようとしたかす汁のようなもの。

・・・「道徳的優位」、どこかで聞いたことある方、いると思います。

そう、韓国の文在寅大統領がしきりに日本に対して放っている言葉です。今月もどこかで言ってましたね、「道徳的優位」で日本に勝つんだとかなんとか…。

では「道徳的優位」とは何か。私もわかりません。韓国人にでも聞いてみて下さい(笑)

 

「日本より格下など死よりも受け入れがたい!」

という韓国人の序列へのこだわりは、あることで垣間見えました。

日本が輸出管理のグループ分けで韓国を「グループB」にしましたが、これは前篇で述べたとおり、国際輸出管理レジームに批准した国々の集まりのこと。ABCDは序列ではありません。

しかし、序列という価値観でものを見る韓国はそう捉えませんでした。序列絶対社会を数百年繰り返してきた彼らには、それ以外の価値観は「邪」であり「不正」なのです。これについては次章で説明します。

「向こうがグループBならこっちはCだ!」

いきり立った韓国はこう言ったそうですが、これも「韓国>日本」という「小華夷思想による序列」のあらわれ。

しかし、そもそも韓国にそんな輸出管理のグループ分けあったっけ?と思っていたところ、案の定「言っただけ」だったようで、1日も経たず立ち消えになりました。

もう一つ、彼らの「序列へのこだわり」をあらわす出来事がありました。

www.nhk.or.jp

河野外務大臣の

「文大統領、約束を履行せよ」

発言に彼らはどう反応したか。

「外務大臣の分際で大統領様に物言いかい!」

豪快な逆ギレでした。

いや、そういう問題ちゃうねん…と椅子から転げ落ちた日本人も多いかと思います。ただの負け惜しみだと思っている人も、SNSで多見されました。

しかし、彼らは至ってマジメなのです。外務大臣という「格下」が大統領という「格上」に「命令」することは、朱子学の概念からはあり得ないのです。

 

韓国がホワイト国解除で半狂乱になっているのも、ここに理由があると見ています。確かに経済面、半導体生産への支障もあると思いますが、

「格下の日本に『制裁』された!!」

となるだからでしょう。朱子学的価値観では、格下は格上を優遇して当たり前、それを解除するとは何事かこの無礼者め!となります。そりゃ韓国にとっては屈辱以外の何者でもないでしょう。ましてやトップが民族主義者だと…これについては後述します。

 

 

③正しさへの固執

韓国人の言動を冷静にウォッチングしていると、ある言葉がよく出てきます。

「正しさ」

「正しい」

「正義」

 これほど韓国人気質をあらわすキーワードはないと思います。「正義党」なんて政党もありますし。

これも上に書いた朱子学の影響。李氏朝鮮の知識人かつ貴族階級である「両班(ヤンバン)」どうしが、

「俺の言うことが正しい!」

「いや、俺の方が正しい!」

と、猫の額ほどの「正しさ」をめぐって、延々と論争を繰り広げると。極論ではありますが、李氏朝鮮600年の歴史は、ずっとこんな不毛な論争だったと言っても過言ではありません。

 

自分が「正しい」となると、論争の相手は「正しくない」となります。上記のとおり、

「俺が正しい!」

を繰り返してきた民族なので、自分は常に正しいという前提です。自分は100%正しいとなると、相手は100%正しくない、という理屈になります。

彼らにはある特異な特徴があります。直近の日韓関係を見ていればおわかりでしょう、常に人のせいにしているという傾向が。

これを裏返すと、彼らの「自分は常に正しい」価値観。正しいのだから自分は悪くない、自分以外の誰か(何か)が悪いとなるのです。

日韓関係しか見ていないと、

「韓国はなんでも日本のせいにしている!」

と激おこモードになりそうですが、さにあらず。けっこう他の国のせいにもしています。ただ、日本がいちばん言いやすいので日本がいちばん多いと思いますけどね。

頭に血が上った時は所構わず八つ当たりする彼らですが、中国にだけはなかなかやりません。やる時は、前述した上下関係で自分たちの方が上だと感じた時だけ。やはり千年間いじめにいじめられた恐怖が、遺伝子レベルで刻み込まれているのです。強がりこそ言っていますが、韓国人の「恐中」は我々の予想以上です。

 

彼らの「正義」へのこだわり(?)は、漏れた重油のように韓国人の言動の表面に出てきます。

(2019年8月28日追記)

韓国、WTO提訴方針表明「日本の不当な経済報復措置を正す」 輸出優遇国除外に対抗 - 芸能社会 - SANSPO.COM(サンスポ)

この中で、韓国の首相がこんなことを言っています。

「日本の不当な経済報復措置を正すため、世界貿易機関(WTO)への提訴を滞りなく進める」

重要なワードを赤く大きくしました。そう、「正す」。韓国人の大好物キーワードです。

ここまで読んでいるとおわかりでしょうが、彼らは

「自分が正しい。日本は間違っている。だから日本を正しているのだ」

という目線なのです。正す=躾けているみたいなニュアンスで結構でしょう。

これが、韓国の謎の上から目線の正体です。「格上である韓国が野蛮な日本に正しさを教え諭している」のだから上から目線になるのも当然でしょう。

 

文在寅大統領の暴走っぷりに、さすがに文氏への反発が強くなっているようですが、彼らは

「文が悪い!文が政権から降りればすべて上手くいく!」

と思っているフシがあります。

しかし、彼らには重要な思考が抜けています。

韓国の大統領は国民の直接投票で選ばれるもの。自分らで選んだ大統領なのに、

「なんで我々はこんな大統領を選んでしまったのか」

という反省のコメントがほとんど見えないのです。

これも、みんながみんな

「自分は正しい選択をした!」

と思っていて、正しいと思っている以上反省もしない、そんな必要もない。なぜなら自分は正しいから。こんなロジックになります。

しかも、文氏は大統領になる前から、基本的な政策は変わっていません。選挙中は少しトーンダウンしたそうですが、彼は大統領になる前からブレていません。文氏は今頃、こう思っているかもしれません。

「俺、公約を果たしているだけなんだけどなんで叩かれるの?」

 

もう一つ、韓国人はすぐ自分を被害者のポジションに持って行こうとします。ネットでは「被害者コスプレ」なんて言われていましたが、これも彼らの価値観の一つ。

彼らにとって、被害者は絶対的な正しさであり善、対して加害者は絶対的な「不正」であり悪という考えです。加害者は絶対悪として生命まで奪われていた過酷な時代を生き抜いてきたので、DNAでそれが刻まれています。

よって、自分が「加害者」になりそうになると、すぐに「被害者」として己を護ろうとします。被害者は善=格上、加害者は悪=格下なので、どんな手を使ってでも「被害者」のポジションを取りに行きます。そのためには嘘も厭わず、嘘をつき通すためにまた嘘をつく…嘘をつくのは生物的本能。決して悪いことではない。嘘は悪いという日本人にとっては、それが信じられないのです。

韓国はよく、やれ「戦犯国」だ「戦犯旗」だと主張しますが、これも元々は自分が「加害者」であることから逃れるための方便。

歴史をきちんと学べば、日本統治下にあった朝鮮半島は大東亜戦争(太平洋戦争)の敗戦国です。加害者ということは説明するまでもないでしょう。しかし、「加害者」だと「被害者」に何をされるかわからない社会で行きてきた朝鮮人は、本能的に「被害者」になろうとします。

彼らがまず行ったのは、連合国、というかアメリカに

「俺らも『戦勝国』に入れて」

というもの。サンフランシスコ講和条約の「戦勝国」側に参加させろと言い始めたのです。

当然、アメリカは即却下。

「被害者ポジション」GETは大失敗。これでは「加害者」になってしまう…と次に彼らが考えた「被害者ポジション」が、

「我々は日本人にひどいことをされてきた。日本人は朝鮮で残虐非道なことをやってきた!」

これがヒットしてしまい、今でも何のエビデンスもなく信じている人がいます。

朝鮮人の「被害者ポジション」GETは大成功でしたとさ。

この「葵の御紋」が数十年間大手を振っていたのですが、ネットの発達でそうじゃないエビデンスがどんどん発掘されてきました。それに焦った彼らは、慰安婦だの戦時労働者(いわゆる「徴用工」)だの、関東大震災の朝鮮人虐殺だの、次の「被害者ポジションネタ」を出してきている、という流れであります。

 

 

 

文在寅という民族主義者

文在寅大統領

文在寅という人は、両親の生まれが北朝鮮の左派というイメージがあり、実際表ではそういう報道が流れています。

しかし、彼の両親は朝鮮戦争が始まった1950年に北から南へ逃げており、文氏自身も1953年に「韓国で」生まれています。左派には間違いないですが、それは両親の影響ではなく学生時代に左派思想と出会った後でしょう。そこは見方を間違えてはいけません。

 

彼にはもう一つの顔があります。それは「ガチの民族主義者」ということ。

韓国の民族主義者とはどういうものなのか。答えは簡単、上で説明した①~③の塊、いや結晶。言い方を変えれば、①~③の考えで頭の中がガチガチに固まっていることです。

金にも純度があるように、民族主義者にも純度があります。文大統領の言動を観察していると、彼の純度はかなり高い模様です。

韓国の左派は概ね民族主義者です。つまり①~③の価値観をむき出しにしてくると。特に大統領府は左派の金城湯池と化しており、現実を見ざるを得ない官公庁の役人の言うことを寄せ付けない様子です。これ、古代アジア王朝の宦官政治に見えて仕方ないのですが…。

文氏を筆頭に、韓国政府が「謎の上から目線」で発言してくるのも、日本は「未開の野蛮国」で「格下」だから”躾けてやっている”という目線だから。「常に日本のせい」にするのも、自分が正しいから日本は間違っているのに日本が正そうとしない、だから”正しさを教え諭している”のだと。

ハァ?と言いたくなりますが、これが彼らの価値観、思考なのです。

 

彼らがすべてではない

日本のニュースだけを見ていると、文政権のトンチンカンな言動ばかりがクローズアップされ、なんじゃこいつら頭おかしいのかと思っている人も多いと思います。

しかし、政府の言動に眉をひそめている人達も少なからず存在しています。

私が現代韓国情勢の重要な情報源にしている鈴置高史氏によると、新聞社Webのコメント欄には文政権への非難や罵倒コメントが殺到しているそうです。鈴置氏は、全コメントのうち文政権批判コメントが何%…と具体的な数字も挙げていました。

表ではほとんど出てこない、というか日本ではニュースとして流れない、文在寅大統領への反発は相当なもので、ついに隠しきれなくなったか、ようやく先々週くらいから反文在寅デモもニュースで流れるようになりました。

鈴置氏によると、哨戒機レーダー照射事件の際も、国防省の記者会見で韓国のマスコミは政府の矛盾に鋭い質問を投げかけスポークスマンが答えに窮するシーンもあったとのこと。

しかし、それを記事にするかは別問題。文政権、というか左派の上手いところは、反日を上手く愛国に結びつけ、

「政権批判するヤツは親日派」

というムードを作り上げたところ。上にも書いたとおり、韓国社会の同調圧力は日本社会以上、当の韓国人が逃げ出すほどです。「民族的」ゆえに「愛国的」である文政権批判をすると、

「この親日派め!」

と罵倒され、生命すら危うい空気になり、新聞記者も「親日派」というレッテルを貼られるのが怖くて記事にできないようです。

それが地上なら、匿名のネットはさしずめ地下社会、そこでは反文色がかなり濃いそうです。私は韓国語が読めないので向こうのサイトは見れないですが(見ているのは翻訳されたもの)、もし読めたら是非「地下世界」の声をゆっくり採取したいものです。

 

ただ、反文在寅かといって必ずしも「親日」にあらず。

国際情勢は、「反日」「親日」のものさしだけで見ると必ず重要な何かを見落とします。SNSでもやれ親日だやれ反日だで国際政治を語っているアカウントがありますが、よほど自分で勉強して自分なりのものさしを身に着けない限り、百害あって一利なし。はっきり言って見ない方がいいです。

日韓関係も同じです。「反日」「親日」というものさししか持っていないと、地上の韓国は反日なら地下は親日に違いない…そんな単純な二元論に陥りがちです。

近代・現代台湾政治史が私の研究テーマなのですが、よく聞かれるのが、

「台湾は親日なんですか、反日なんですか」

国際情勢はテストのマークシートじゃねーよと、半笑いせざるを得ません。

 

中国人よりは圧倒的に少ないものの、そこそこな数の韓国人・中国系朝鮮人と出会って仕事も一緒にやってきた経験から、少なからず韓国人には①~③の要素はあると見ています。ただ、今の文政権の濃度・純度が高すぎて、カウンターの針が振り切れています。また、こういう価値観から抜け出して「脱韓」している韓国人も多いです。シンシアリー氏が典型ですが、彼は「元々なかった」と言っていいほどの例外。自称親日(らしい)の某韓国人Youtuberは、日本大好きを連呼しつつも韓国人的価値観から抜け出していません。その証拠に、言動の端々に現れる「上から目線」を彼のTwitter垢でビシバシ指摘したらブロックされました(笑)

お盆くらいだったでしょうか、Twitterで韓国人女性のツイートをみかけました。

元ツイートが見つからなかったので、文字のみになります。

「私は日本が大好きです。

日本の皆さん、どうか韓国のことを嫌いにならないで下さい!!」*5

 

リプ欄には日本人の、

「こんな韓国人もいるんだ」

的なコメントで溢れていました。相当バズっていたので、Twitterやっている人はTLで見たかもしれません。

お涙不可避日韓友好バンザイの喧騒から一歩引き、私は「ビルの10階から双眼鏡で1階のお祭りを観察する」いつもの姿勢で見ていました。

彼女のこのツイートは本心かもしれません。が、私は彼女のツイートに違和感、というか「韓国人らしさ」を感じていました。

「どうか韓国のことを嫌いにならないで下さい」

この発言、実は③の「自分は正しい」という考えが見え隠れしています。自分は正しいから変わるつもりはない。変わるべきは正しくない日本人の方である。正しくないから正しい韓国人のことを嫌いになってはいけない…うんぬん。

本人はおそらく300%無自覚でしょうが、彼女の泣きツイートに上から目線かつ超自分中心的なものを感じました。

 

プロローグ-外国人は日本人にあらず。相手を知る大切さ

ここまで書いてきましたが、国際情勢…と上段に構えず、外国を見る時にはまず相手の頭の中を理解することが先決。

「韓国人鬱陶しい!」

「あいつら何様やねん!」

わかります、すごくわかります。ホントわかります。

が、感情的になってはこちらも相手を正しく見ることができません。Twitterの韓国ネタのリプ欄など、私から見れば目糞と鼻糞が糞の投げあいしているに過ぎません。

孫子兵法にいわく。

「敵を知り己を知れば百戦殆うからず」

嫌韓は至って結構ですが、韓国を「敵」だと認識するのであれば、Twitterのリプ欄で罵倒コメントを残すのではなく、まずは専門家の本を読み相手を知る。これが大切です。

昭和12年(1937)の盧溝橋事件からの支那事変の時、庶民層は暴支膺懲一色、やれチャンコロだやれシナチクだと散々に見下していました。しかし、インテリ層では密かな中国研究ブーム。プチ支那語ブームが起きたという話を聞いたことがあります。

韓国人の思考を知ると、頭がおかしいだけと思っていた彼らにも、あるパターンがあることに気づくことになります。パターンがある以上、頭はおかしくもないし、狂ってもいない。ただ、価値観が我々と違いすぎて理解を超越しているだけなのです。

文大統領は、一個人としてはガチの民族主義者だと述べましたが、見方を変えれば「韓国人の鑑」でもあります。韓国人とはどういうものの考え方をするのか、思考の基本ベースはどんなものなのか、それを知るにはうってつけのサンプルでもあるのです。こんな単細ぼ…失礼、わかりやすいサンプルもなかなかいないですから。

 

あと、私には中国を知っているというアドバンテージも幸いしました。10年以上の中国生活で何を学んだか。中国語もそうですが、何より血となり肉となっているのは中国人のものの考え方。中国人と積極的に交わったり歴史書を読んだり、彼らの思考をインストールすることを心がけてきたのですが、中国のことを知っているとやはり理解も他の人より早いのかなと。言ったでしょ、韓国・朝鮮は良くも悪くも「中国のコピペ」だって。

 

なんだか面白そうだな…と思った方、あなたの好奇心の扉はすでに開いています。別に相手を知ったところで、韓国と仲良くしろなんてそんなこと、口が避けても言いませんから(笑)

 

==こんな記事もあります==

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

*1:軍事情報に関する包括的保全協定

*2:旧2ちゃんねる

*3:水戸藩や長州藩の尊王攘夷派など一部を除く

*4:現在の長江より北部とざっくり認識でOK

*5:実際はもうちょっと何か書いてて長かったはず

消えた遊郭・赤線跡をゆく-和歌山天王新地編

当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

当記事は

yonezawakoji.com

に移転致しました。

来ていただいて恐縮ではありますが、上記ブログ記事をご覧いただければと思いますので、宜しくお願い致しますm(__)m

紀和駅と駅名の由来-かつてここは和歌山駅だった

和歌山県和歌山市。かつてここには、「和歌山駅」があった…
いや今でもあるやんかという声が聞こえてきそうだが、現在のJR和歌山駅のことではない。

 

南海電鉄和歌山市駅からJR和歌山駅まで、東西に走る一本の線路が走っている。
地元住民か鉄道好きのお友達以外、使う機会はほとんどないというほど存在感が薄いが、ここは紀勢本線。
亀山から紀伊半島を縫うように和歌山に至るあの紀勢本線、常識的に考えれば終着駅は和歌山だと思うことだろう。だが、紀勢本線はまだ先へ続き、和歌山市駅が本来の起点終点なのである。

 

JR和歌山市駅と105系

現在の和歌山市駅は、和歌山との間を2両の電車がのんびり往復するローカル線の起点と化している。
が、かつては新宮や白浜などへの普通列車がここから発車していた。昭和50年代の和歌山駅で、
「和歌山市-新宮」
というサボ(行先標)を掲げた旧型客車を阪和線の電車から見たことがある。

 

 

急行大和サボ和歌山市

和歌山県立博物館ブログ様より)
昭和37年から5年間だけであったが*1、東京行きという鉄道マニアが胸躍らせそうな列車(1両だけだったが)も走っていたことは、端っこで申し訳なさそうに存在するホームを見ると、到底信じられまい。*2
和歌山市駅に停車している寝台車の貴重な写真は、

http://okazu1945.moo.jp/simoda/yamato.htm

http://okazu1945.moo.jp/simoda/yamato2.htm
に掲載されている。

 

南海急行きのくに

東京行きは記憶にないものの、南海の難波駅から急行「きのくに」が市駅から紀勢本線に乗り入れ白浜や新宮へと向かっていたことを、私はリアルタイムで知っている。
平成生まれの間ではそれすら伝説扱いらしいが、それが伝説であれば、東京行きは日本鉄道史における恐竜の化石の如しか。

 

紀和駅、その栄光と衰退

傍点をつけて強調しないといけないほど存在感が薄い紀勢本線・・・・の市駅~和歌山間、その存在感と歴史を象徴するような途中駅がある。
紀和駅である。

 

紀和駅と105系

現在は、ポツンと片面だけのホームがある無人駅だが、ここがかつて全和歌山県の駅、「和歌山駅」の大看板を背負っていたことは今や昔。

紀和駅は明治31年(1898)、私鉄の「和歌山駅」として開業し、同40年に国有化され国鉄の駅となった。敷地面積から、国もここを拠点に和歌山のターミナル駅を構築しようとした痕跡がうかがえる。
が、場所が悪かったか、国の戦略が甘かったか、後に開業する南海の和歌山市駅にすぐ玄関口の座を奪われ、後発の東和歌山駅(現在の和歌山駅)にすら抜かれてしまう場末の駅となる。

 

紀和駅東和歌山駅乗降客数

戦前の和歌山市主要駅の乗車客数(一年あたり)の統計を見ると、和歌山市・東和歌山駅がどんどん上昇に対し、和歌山駅は昭和2年をピークに下降線をたどっている。
表にはないが、貨物取扱量も大正12年(1923)と12年後の昭和10年(1935)を比較すると、半分に落ち込んでいる。数字的な戦前のピークは、大正末期と断言しても良い。
だが、戦前を通して「和歌山駅」の大看板を他駅ほかに譲ることはなかった。和歌山駅は和歌山駅のものだったのである。


前述したとおり、現在市駅~和歌山駅間をピストン輸送する電車だけが走っている。

 

昭和42年時刻表紀勢本線和歌山市

ところが昭和42年の時刻表を見ると、和歌山市駅から南紀方面に多くの列車が運行され、様々な行き先の列車が行き交う賑やかな路線であった。他にも、現在は和歌山駅発着の和歌山線の列車が市駅を拠点にしていた。

それどころか、和歌山駅始発の列車も存在していた。今の姿からは到底信じられない。くどいようだが、当時の「和歌山駅」は紀和駅のこと。「東和歌山駅」は現在の和歌山駅である。

 

紀和駅旧駅舎

(写真:Wikipedia 2003年の姿)
かつての紀和駅は、ホームだけでも2面3線の設備を持ち、大量の乗客をさばける始発駅としての設備と貫禄を十分に備えていた。
駅舎もターミナル駅にふさわしい、横広の堂々としたものであった。

 

紀和駅航空写真1947

(昭和35年航空写真より)

構内には機関区や客車区、いわゆる車庫も併設されその敷地はかなり広くとられていた。それだけでも駅の重要性がわかる。

時刻表にある昭和42年の時点で、人の流れはすでに和歌山駅に移っていたものの、「和歌山駅」という大看板はまだ所有していた。
ところがこの翌年、70年守ってきた看板を東和歌山駅に譲ることとなり、ステーションビルが作られた和歌山駅への人の流れは決定的となった。
紀和駅と改名された後の凋落は急速に進む。
ここにあった客車・機関区も、数年後には「新」和歌山駅の方へ移転。人の足もすっかり途絶えた紀和駅は、市街地にありながら「死骸駅」と化した。

 

下のブログに、昭和55年(1980)の姿が残っている。

senrohaisenzu.cocolog-nifty.com

駅は昭和60年(1985)に無人駅となったので、まだ荷物扱いや難波からの急行「きのくに」の急行券なども扱う有人駅だった頃のもの。

無駄に思えるほど広い敷地に木造の跨線橋、
「つわものどもがゆめのあと」
と詠んでしまいそうな、草が自然に生えるにまかせた機関区跡、和歌山駅・・・・だった風格を残した駅舎とホーム。
「和歌山」という大看板を外され、生気を抜かれたような姿が遺影のようで(白黒写真なので余計に)、在りし日の紀和駅の賑わいを知っている人は涙を禁じ得ないかもしれない。
小さな乗り鉄だった私も、この頃の紀和駅に立ち寄ったことがありその姿をうっすらと覚えている。記憶が正しければ、上記ブログと同じ頃だと思う。
天王寺駅や難波駅のような幅の広さと貫禄を持ちながら、乗客が誰一人おらず、華やかさも全くなかった。駅が抱えた歴史など知らないガキには、ただ寂寞として薄気味悪かったことだけが記憶に残っている。

 

国鉄が消滅しJRとなった後も、しばらくはその枯れた姿を留めていた。

 

紀和駅

が、そのまま朽ちて消えるかと思われた2008年、高架化と同時に駅舎は現在のようにミニマムなサイズになった。雑草が生え放題だったかつての敷地も公園となり、地元住民のウォーキングコースとして第二の駅生を歩んでいる。
利用者数という現実を照らし合わせると、現在の紀和駅は贅肉を削ぎダイエットに成功した姿といえる。それは筋肉質ですらある。

が、紀和駅がほんのわずかに放っていたいぶし銀を知っている人間から見ると、駅員もいない、線路一本ホーム一本だけの「スリムさ」は骨と皮だけの姿にしか見えないかもしれない。


以上、一連の紀和駅史をTwitterで軽くツイートしたところ、
「だから駅の周辺が広いんだ!」
というツイートがチラホラと。高架化される前の紀和駅を知らない若い地元の人のコメントだろう。
そうか、もうそれすら知らない世代もいるのか…と隔世の感を禁じ得ない。

 

紀和駅の由来

 

紀和駅には、ある謎が存在する。駅名の由来が不明なのである。
Wikipedia先生の紀和駅の項目には、以下のような記述がある。

 

紀和駅由来

 

前述のとおり、紀和駅の名称は昭和43年に駅名を譲った後のものだが、なぜ駅名が「紀和」なのかは定かではないと。
最初に知った時は、ああそうですかと特に興味もなく流していたのだが、そんな中、別件で昭和14年(1939)の和歌山市街地図を目で舐め回していたところ、おや?と引っかかる場所が。

 

紀和町紀和駅由来

「紀和町」という文字がくっきり判別できる。
あれ?「紀和という地名」は「存在せず」じゃなかったのか?
まあ、Wikipedia先生とて万能ではないし、記述の元ソースにそう書かれているということに過ぎない。
しかしながら、なんやWikipediaの書いてることってウソやん!という感情的な早とちりも禁物。地図という一次資料の「紀和町」こそが何かの間違いかもしれない…という可能性だってある。*3
地図上の「紀和町」が本当か実証する必要がある。これを「史料批判」といい、歴史の研究には絶対不可欠な作業。
ブログなどネットでは、二次史料どころか「それホンマか?」という出処不明の書物まで史料批判なしで垂れ流していることが多いが、おそらく史料批判そのものを知らないのだろう。
史料批判をしない史料は調理していない食材。具材をドン!とテーブルの上に置かれそれを食えと言われても困ることが、ネットでは多見される。


他の地図での紀和駅周辺の地名ではどうなっているのか。実際に和歌山市の図書館で過去の地図帳・住宅地図を物色した。 

昭和33年和歌山駅紀和駅紀和町

昭和33年の和歌山市住宅地図では、「紀和町」とはっきり書かれている。他の地図でも記載があり、「紀和町」が過去に存在していたことはこれでほぼ確定だろう。


しかし、別の角度で確証を求めるべく、実際に紀和駅へ向かい現地で証拠を収集してみた。

 

紀和駅前通り

駅から南へまっすぐ通る道。かつては道沿いに「紀和劇場」などの映画館や食堂、旅館などが立ち並び、繁華街特有の喧騒を抜け胸を躍らせながら和歌山の繁華街である「ぶらくり丁」まで歩く…それが昭和の和歌山っ子の定番お愉しみコースであったという。
紀和駅が「和歌山駅」だった頃は、学生やサラリーマンが大勢この道を南下し、駅前商店街も活気に満ちていた。
今の姿を見ると、失礼ながらここが賑わっていたとは到底思えないが、それだけに古い看板などが残り、「紀和町」の一片かけらが残っているかも…そんなほのかな期待を胸に秘め、歩いてみた。

 

紀和町

紀和町紀和劇場紀和駅

「紀和町」は行政の記号としては消えても、自治会名として残っていた。古くからの「紀和町」への愛着があるのだろう。
散歩していた町の古老に聞いてみても、ここはかつて「紀和町」だったと、明確に答えてくれた。
これで「紀和町」がかつて存在し、Wikipediaの
「駅の所在地および周辺に『紀和』という地名も存在せず」
の記述が誤りなのは確かだろう。
Wikipediaとは言え、こうして「俗説」をひっくり返し正しい事実を発見していく作業は、歴史家としてやりがいを感じる一瞬である。
かと言って大金が手に入るわけでも、テレビに取り上げられるわけでもない。ただの自己満足である。しかしそれでいいのだ。そう自分に言い聞かせている。


紀和駅は、創設の役目を終えた。ここがかつて和歌山の中心駅、いや、和歌山駅そのものだったと説明しても、今の姿を見て想像できる者は少ない。
ただ、駅の周りの長細い公園が、かつての隆盛への想像力を少しはかきたてられるのではなかろうか。
後輩の活躍をひっそりと見守りながら余生を送る黄昏の駅として、かつてここに紀和町があったことの間接的な証人として、今日も高架上に電車は走る。

 

==こんな記事もあります!==

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

 

*1:いわゆる「ヨン・サン・トオ」で廃止

*2:http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/1980313-353d.htmlによると、市駅はかつて二面二線だったらしい

*3:地図だけでなく、戦前の出版物は誤植がけっこう多い