昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

ブログ移転のお知らせ

私のTwitter垢を見てくれている方は、もうご存じでしょうが、今年の1月よりワードプレスにてブログを移転しました。

新しいブログのリンクは最後に貼りますが、今年よりブロガーとして本格的に稼働することになり、心機一転WPへの移動となりました。

別にはてなブログが不満だとか、そういう理由で出て行ったわけではありません。「賃貸マンション」から「郊外の一軒家」というマイホームを持ち、引っ越しただけと思っていただいて結構です。

はてなブログの記事は順次WPの方へ移していっているので、現在はここのブログからの転載が中心です。が、ちょくちょく新着書き下ろし記事も増やしていくので、よかったら新しいブログの方もよろしくお願い致します。

 

=新ブログ=

「野良学徒の歴史研究(とブログエッセイ)」

 

yonezawakoji.com

 

また、こちらもTwitter(のプロフ)を見ていただければわかりますが、ここでも書いていた台湾を中心とした東亜情勢のブログも別途作成しました。

 

=台湾史・東亜情勢ブログ=

「台湾史.jp」

taiwanhistoryjp.com

 

はてなの方は、ブログ記事を整理しWPに移転次第、閉めることと致します。

引っ越しのウキウキさの反面、長年住んだ家を離れる気分は幾ばくかの寂しさを感じますが、それも新たな旅立ちへの一時的な感情に過ぎない。これから本格的にやっていきますので、改めてよろしくお願い致します。

 

 

淡路島にかつて鉄道があった!淡路交通鉄道線洲本駅

拙ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

本記事は新ブログに移転しています。

 

yonezawakoji.com

 

ご面倒ではございますが、新ブログ記事をご覧いただければと思いますので、宜しくお願い致しますm(__)m

 

X68000ーシャープが産んだ最強のパソコン

ご覧いただきありがとうございます。

こちらのブログは、

yonezawakoji.com

 

へ移転の上、再構成してアップしております。

ご面倒ではございますが、こちらをご覧いただければと思います。

何卒宜しくお願い致しますm(__)m

難波病院ーその病院、訳ありにつき

なんばパークス南側、ヤマダ電機LABI1なんば店横のホテル建設予定地から「遺跡」が出てきたという記事を書きました

大阪市パノラマ地図」という地図があります。大正12年(1923)に作られた大阪市の俯瞰地図で、大阪が「大大阪」に変貌していく黄金期の出発点の時期のもの。大大阪を英語にすると、”The Great Osaka”、略して”TGO”…なんだか無駄に格好いい。

それはさておき、地図の専売局煙草工場の横に、ある建物があります。

 

難波病院

「煙草専売局」が前回の主役でしたが、その下に

「難波病院」

と書かれている建物があります。

はて?こんなところに病院なんてあったっけ?地元の人であればあるほど、脳みそをフル稼働させて記憶を探っているかもしれません。

 

府立難波病院遊廓遊女

難波駅」の位置は基本的に変わっていません。駅と専売局の横を流れている水路が今の阪神高速、と書けばだいたいの位置関係がわかると思います。

しかし、難波にこんな大きな病院があったのか?

ところがあったのです。

しかし!

ただの病院なら、私もわざわざ別記事にしてまでネタにはしません。この難波病院、ブログのネタになるような、ほんのちょっくら特殊な病院だったのです。

今日は、そんな「訳あり」病院の物語を。

 

遊郭と性病

遊郭…かつての合法的な売春街…と言ってしまえば男の天国、無味乾燥な性欲の掃きだめですが、遊郭には実は様々な役割がありました。

一つは「犯罪者ホイホイ」。男というものは、大金を手にしたり、犯罪のような大きなことをすると、何故か女のぬくもりが恋しくなる変な習性があります。「大きなこと」をすると母親の懐(母胎)に戻りたくなるのでしょうか。

ウソ!?と思われるかもしれませんが、江戸時代の吉原遊郭の設立理由の一つにそれが挙げられているし、戦前のベテラン女郎や遣り手、娼婦はそういう人間を嗅ぎ分ける独特の嗅覚を持っていました。

一発ヤってぐったりしている男の耳元で、女がささやきます。

「ちょっと失礼…」

そのままトイレヘ…行くふりをして1階の湯婆婆ならぬ遣り手婆に報告、「抜き打ち検査」という名目で警察が踏み込み男は御用。廃娼論が湧き上がっても遊郭が成立していたのと、私娼窟が「性病検査だけちゃんと受けてや」という条件で黙認だったのも、警察との隠れたつながりがあったからでしょう。

 

もう一つは性病予防。

梅毒に淋病、軟性下疳…今でこそ初期段階なら注射一本や錠剤で治ってしまう性病ですが、抗生物質などない戦前までは不治の病でした。近代日本の国民病と言えば結核を思い浮かべる人が多いですが、正しくは梅毒・脚気と併せて「日本三大国民病」。その一角を担う(?)梅毒は、まさにザ・キング・オブ・性病として不動の地位を築いていました。

性の牙城遊郭は、常識的に考えたら性病がいちばん伝染しやすいところ。それは想像に難くないですが、そんなこと百も承知の分、遊女は週に1回の公費による性病検査があり、彼女らの義務でもありました。当然、拒否ると罰則です。

昔の日本で売春が出来たのは、何も遊郭だけではありません。大袈裟でもなく「ありとあらゆる場所」で売春が行われ、うどん屋・牛乳屋が実は…という例もありました。昭和初期のエログロナンセンスの象徴、カフェーも「オプションサービス」としてあったのはお約束。元手も技能も要らない女の個人事業としては、売春がいちばん手っ取り早かった現実がそこにありました。

しかし、そこで怖いのが性病。昭和の初めあたりのデータですが、性病所有率は芸者が15~6%に対し私娼が10%。「芸は売っても体は売らない」の芸者の性病率が高いのは笑うに笑えないのですが、それに対し遊郭の娼妓の所有率はわずか2~3%*1。性病を持った娼妓は容赦なく隔離&職務停止されるので、2~3%でも遊郭基準では高い方ですが、いちばん危ないところが実はいちばん安全…という言葉にふさわしいですね。

 

話は変わって江戸時代、大坂の色町といえば新町が代名詞でしたが、そのほかにも各地に大小の遊里が散在していました。生國魂神社の近く、ラブホが固まる何やら妖しい某区画もそうだったと言われています。

それが明治初期に一箇所に集結統合され、郊外に追いやられます。それが明治4年(1871)のこと。場所は松ヶ鼻。かの松島遊廓の始まりです。

その翌年、その松島に「駆梅院」という施設の稼働が開始されました。本当は「駆黴院」と書くのですが、ここは現代当用漢字で「梅」に統一します。

「梅」とは梅毒のことで、「駆梅院」とは性病専門病院のこと。松島遊廓のグランドオープンはその翌年の明治6年なので、その前にまず病院を作る…当局も性病の蔓延にはかなり神経質になっていたことがわかります。

 

駆梅院、難波へ移る

駆梅院は松島の端っこ、今の西区の松島公園あたりにあったと言われています、しかしすぐにキャバオーバーになったか、明治16年(1883)に難波へ移転「府立難波病院」として再オープンします。

といってもしばらくは「駆梅院」と呼ばれていたらしく、明治38年(1905)の大阪府の資料にも「大阪府立駆黴病院」との記載があります。

 

難波病院遊郭

大阪市街全圖(1916年)より)

難波に移転した後の難波病院は、大阪府下の遊郭の遊女の総合病院として、性病その他に罹った娼妓たちの入院先となりました。おそらく性病検査や、今で言う健康診断もここで行っていたと思われます。

難波病院が何故いわく付きか。それは、ここがあくまで遊郭ではたらく女性のための性病専用病院であり、一般の患者様お断りだったということ。性質上、かなり特殊な病院だったのです。

 

難波病院の位置

複数の地図や資料を参考にした難波病院の敷地を、現在のGoogle mapに落とし込んでみました。

 

難波病院の実情

 難波病院の中、その実情はどうだったのか。

娼妓専用の病院という、誰でも入れるわけではない特殊性からあまり伝わってこないですが、いくつかの資料に断片的に書かれています。

『紅灯ロマンス』という大正時代の本に難波病院について一章が割かれていますが、の中に、

『この病院を参観した者は、庭園の中央に鉄錠を固く下した古井戸を見るであろう』

(原文は旧漢字旧仮名遣い)

 という記述があります。難波病院には学校の中庭のような「庭園」があり、そこになにやら訳ありの『封じられた井戸』があったそうです。

そしてもう一つ。

『又各寮付属の便所数ヶ所の内一ヶ所或は二ヶ所に釘付けになって出入を禁じてある便所を見るであろう』

(原文は旧漢字旧仮名遣い)

 便所には「開かずのトイレ」まであるという、なんとも怖いお話です。『紅灯ロマンス』に書かれた難波病院の話は幽霊話、井戸に飛び込んだり、便所で首を吊ったりする遊女がいて怪談話には事欠かない…というのが話の趣旨なのですが…

 

難波病院遊廓

上述の『大阪市パノラマ地図』の難波病院を限界にまで拡大すると、吹き抜けになっている中庭があったことがわかります。『封じられた井戸』はここにあったのでしょう。 

 

さらに、『松島遊廓の研究』(木村俊秀)という松島遊廓研究者のコラムの中に、一章を割いて難波病院の様子が書かれています*2

それによると、難波病院は七棟、43部屋あり部屋の広さは30~35畳、そこに2~30名の入院患者が寝泊まりするとのこと。一人あたりのスペースは1畳ちょっと…プライベートなんかありゃしません。

3食賄いで1日20銭、朝は味噌汁と漬物、昼夜は煮物などでしたが、味は不味かったそうです。うどん一杯3銭の時の20銭は日当たりとは言えけっこう高い。それで不味いとなると、もしSNSがあったら、なんだこのブラック病院はと炎上不可避。

ご飯は当時「南京米」と呼ばれたインディカ米で、時代的に台湾からの移入*3だと思われます。それが「臭気あるため食慾が進まず閉口する」ほどだったそうな。

「食慾が進まず閉口する」気持ちは非常~~によくわかります。南京米の「臭気」は私も中国広東省で経験しましたが、あのおぞましいほどの激臭を目の当たりにすると、口に移すまでの不快感たるや言葉では表現できません。口にさえ含めばどうということはないのですが…あれに馴れるのには、ちょっと時間が必要です。

 

それはさておき、『松島遊廓の研究』によると難波病院の入院患者は平均で500人前後。すでに書いたとおり、難波病院には大阪府下の遊郭の娼妓が収容されるのですが、そのうち松島の娼妓が300人強。松島は娼妓数・売上・登楼客数日本一、戦前の遊郭三冠王でしたが*4、それだけに性病患者数もケタ違いといったところでしょうか。

それを物語る公的資料があります。

衛生年報難波病院大阪の遊郭

『衛生年報』という大阪府の公的資料で、こちらは明治45年(1912)の統計です。一年間の入院患者7856人中、松島の娼妓が4995人(約63%)とダントツ。ふふふ、圧倒的ではないか我が遊廓は…とギレン・ザビ総帥なら言いかねない。

入院期間は短くて数日、長いと数ヶ月に及び、将来を悲観して自殺する人もいたそうです。それが『紅灯ロマンス』の難波病院怪談話につながるというわけですな。

ちなみに、この遊郭リストを見て少し違和感を持った人がいるかもしれません。

「あれ?飛田は?」

飛田遊郭の誕生は大正7年のこと。誕生までには、あと数年の歳月が必要です。

 

大阪には、「難波病院数え唄」という民謡が伝わっています。

「一つ~ 人も知ってる大阪のところは難波の~病院が嫌で~」

 から始まる調子の唄は、遊女の恨みというか悲しみ、これも運命かという諦めの文言が並び、今でも住吉区住之江区の盆踊りで歌われることがあるそうです。

難波病院、住吉へ移る

大正13年(1924)、難波病院は難波を離れ、住吉村、現在の大阪市住吉区へと移転します。住吉に移転したのだから名前は「住吉病院」…とはならず、難波病院のまま。住吉なのに難波…なんかそれはちゃうんとちゃう?…という違和感は、当時の人も感じたに違いありません。

 

府立難波病院住吉 

住吉府立大阪病院難波病院(大阪急性期・総合医療センター動画より切り抜き)

上の画像は戦後のものですが、建物は難波から住吉へ移転した時そのままと思われます。建物も病棟5棟と診察棟が竣工し、鉄筋コンクリートの近代的な設備になっています。

移転した翌年、大正13年の予算計上で「難波病院新築移転に伴い需用費に於て金五万五千余円を増加」とあります。今のお金で3億円弱ですが、上のような病院が3億円で絶対建てられないので、単純な「移転のための雑費」かもしれません。

遊郭の遊女専用病院が、なぜここまで「立派」になったのか。

それは人権意識の向上とも関係があったと、私は考察しています。難波時代の難波病院は、記述だけを見ていると、病院というより刑務所か強制収容所。彼女らの親でさえ面会は妓楼主の許可(面会券)が必要なほどでした。

それが大正に入り、全国で廃娼論が持ち上がると同時に遊郭に対する風当たりは強くなり、さらにカフェーという新しい風俗産業があらわれ、娯楽としての遊郭はほぼオワコンでした。

その危機感から、遊郭の改革が始まりました。

一つはシステム。それに革命をもたらしたのが遊郭界にあらわれた超新星、飛田。飛田がすごかったところは何も規模だけではなく、経営システムが他と抜本的に違っていました。一言で表現するならば、既存の遊郭が「商店街」に対し、飛田は「ショッピングモール」。戦前と思われる飛田遊郭の俯瞰図を見たことがありますが、整然と並んだ妓楼の姿に「美」さえ感じ、こりゃ遊郭イオンモールやわ…と私の仮説が確信に変わりました。この「飛田スタイル」は、のちの今里新地などにも流用されています。

もう一つが、娼妓たちの「働き方改革」。遊郭の管理は都道府県によってけっこうな温度差がありましたが、それが大正~昭和にかけて行政指導により改善されています。中には、奈良県のように警察のナンバー2が妓楼の主に頭を下げ、娼妓たちの待遇改善など遊郭の近代化に努めたところもあります。

明治以前の遊女たちの待遇は、病院でも臭い飯を食わされるほど酷い待遇でしたが、この時代になり彼女たちも「人並」を手に入れたということでしょう。

 

移転の理由は定かではありません。が、だいたいの予想はつきます。

遊郭は基本的に「穢れ」です。性欲は人間が人間として生きていくためには欠かせない本能的な欲なのに、食欲などに比べてあまり良い扱いとは言えません。排泄も欲ならば、遊郭は「性欲のトイレ」と言いかえることができるかもしれません。

昔の日本家屋のトイレは、離れに設けられていることが多かったですが、悪く言えばトイレだけ隔離されているようなもの。「穢れ」を落とすためには隔離しないといけないのです。

遊郭も考え方としては同じで、一部の例外を除いて郊外に作られる傾向にありました。戦前の松島や現在も位置が変わらぬ飛田も、作られた当時は市街地から遠く離れたド郊外でした。

しかし、大正後期になると大阪の市街地が急激に広がり、"TGO"への序章が始まります。と同時に、ネギ畑ばかりしかなかった難波近辺も市街地化し、「穢れ」である難波病院も、遊郭と同じく郊外へ移転せざるを得なかったのでしょう。

あとは、「遊郭界の木星」こと松島と同じ市内に、「土星」こと飛田が出来た事情で娼妓の数が爆発的に増え、難波病院が急速に手狭になった事情もあったことは、飛田遊廓の発展を数字で追えば容易に想像ができます。

 

戦前を通して遊郭の娼妓、そして性病専用の病院として機能した難波病院ですが、戦争終結により公娼制度は廃止、同時に遊郭も全廃されます。といっても赤線として現実は継続したのですが、それは横に置いておきましょう。

それと同時に難波病院は役目を終えます。といっても廃院になったわけではなく、一般客の受け入れを開始し性病専門という看板も外し、「めっちゃふつうの病院」になっただけですけどね。

 

 

難波病院跡のその後

大正13年7月に住吉に移転した難波病院ですが、跡地はどうなったのか。

 

難波病院浪速区役所

大阪市街全圖(1928)より)

浪速区役所になっています。現在でも同じ位置に区役所がありますが、他の地図や昭和17年の航空写真を見ると跡地すべてが区役所に…というわけではなさそうです。

 

難波病院が住吉に移転した3ヶ月後の10月、山田晁(あきら)という人物が難波に小さな町工場(大阪金属工業)を建てました。現在のダイキン工業なのですが、

時代の先を行き過ぎた!?とある企業の珍製品「電気手拭機」

ダイキンが戦前に作った珍製品の記事の執筆のため、図書館でダイキンの社史を読みあさりました。そのときの創業の地の位置に、私の頭の上に「!!!!」が炸裂しました。

あれ?難波病院の跡地やん??

ダイキンの社史の地図がいささかざっくりなので断定はできないのですが、難波病院のすぐ近くか敷地内なのです。難波病院の敷地の広さを考えると、払い下げられた府有地の一角を大阪金属工業が工場として利用した…そんな仮説が成り立ちます。もう少し精査が必要ですが、難波病院がダイキンに…と思うと胸が躍ります。

 

難波病院の現在

上述したとおり、難波病院は戦後すぐの1946年「府立大阪病院」に改名し、「ふつうの病院」として再スタートしました。元の性質上、最初は性病・泌尿器科を得意としていたそうですが、のちに数々の診療科を併設し総合病院としての道を歩みました。

 

大阪急性期・総合医療センター

ホームページより)

そして現在、大阪府立病院機構 大阪急性期・総合医療センター」として難波から住吉に移転した場所に現存しています。

 

遊廓が「穢れ」だったと述べました。その間接的な証拠に、「穢れ」に携わったとして遊郭の関係者が一様に口を閉ざすことが多いことが挙げられます。自分が関係者だったこと、そして該当エリアが色里だったことを隠し、そのまま風化して黒歴史化を待つ人が多いのも事実で、「新地もん」と小学校でいじめられたという妓楼の子息の話も聞いたことがあります。なので、隠そうとする、傷ものなので触れてくれるなという人の気持ちもわからないでもない。

大阪急性期・総合医療センターはどうなのか。

 

PR動画で松島の駆梅院が発祥という紹介をしており、黒歴史化していないようです。遊郭を知らない人がこの動画を見ると、

「楳毒院(=駆梅院)って何じゃそのおどろおどろしい名前は!?」

と一抹の不安を覚えるかもしれませんが、きちんと理解すればどうということはありません。

遊郭はなくなりましたが(とも言えないけれどそれはおいといて)、それをルーツに持つ病院は、フルモデルチェンジして今日も大阪の医療の最前線に立っています。

 

*1:『軍隊を誘致せよ: 陸海軍と都市形成』松下孝昭著より

*2:法律新聞 大正5年9月13日付

*3:台湾は外地扱いなので、輸入ではなく移入

*4:妓楼数は吉原・洲崎遊廓に及ばず3位(昭和12年

紀和駅と駅名の由来-かつてここは和歌山駅だった

和歌山県和歌山市。かつてここには、「和歌山駅」があった…
いや今でもあるやんかという声が聞こえてきそうだが、現在のJR和歌山駅のことではない。

 

南海電鉄和歌山市駅からJR和歌山駅まで、東西に走る一本の線路が走っている。
地元住民か鉄道好きのお友達以外、使う機会はほとんどないというほど存在感が薄いが、ここは紀勢本線。
亀山から紀伊半島を縫うように和歌山に至るあの紀勢本線、常識的に考えれば終着駅は和歌山だと思うことだろう。だが、紀勢本線はまだ先へ続き、和歌山市駅が本来の起点終点なのである。

 

JR和歌山市駅と105系

現在の和歌山市駅は、和歌山との間を2両の電車がのんびり往復するローカル線の起点と化している。
が、かつては新宮や白浜などへの普通列車がここから発車していた。昭和50年代の和歌山駅で、
「和歌山市-新宮」
というサボ(行先標)を掲げた旧型客車を阪和線の電車から見たことがある。

 

 

急行大和サボ和歌山市

和歌山県立博物館ブログ様より)
昭和37年から5年間だけであったが*1、東京行きという鉄道マニアが胸躍らせそうな列車(1両だけだったが)も走っていたことは、端っこで申し訳なさそうに存在するホームを見ると、到底信じられまい。*2
和歌山市駅に停車している寝台車の貴重な写真は、

http://okazu1945.moo.jp/simoda/yamato.htm

http://okazu1945.moo.jp/simoda/yamato2.htm
に掲載されている。

 

南海急行きのくに

東京行きは記憶にないものの、南海の難波駅から急行「きのくに」が市駅から紀勢本線に乗り入れ白浜や新宮へと向かっていたことを、私はリアルタイムで知っている。
平成生まれの間ではそれすら伝説扱いらしいが、それが伝説であれば、東京行きは日本鉄道史における恐竜の化石の如しか。

 

紀和駅、その栄光と衰退

傍点をつけて強調しないといけないほど存在感が薄い紀勢本線・・・・の市駅~和歌山間、その存在感と歴史を象徴するような途中駅がある。
紀和駅である。

 

紀和駅と105系

現在は、ポツンと片面だけのホームがある無人駅だが、ここがかつて全和歌山県の駅、「和歌山駅」の大看板を背負っていたことは今や昔。

紀和駅は明治31年(1898)、私鉄の「和歌山駅」として開業し、同40年に国有化され国鉄の駅となった。敷地面積から、国もここを拠点に和歌山のターミナル駅を構築しようとした痕跡がうかがえる。
が、場所が悪かったか、国の戦略が甘かったか、後に開業する南海の和歌山市駅にすぐ玄関口の座を奪われ、後発の東和歌山駅(現在の和歌山駅)にすら抜かれてしまう場末の駅となる。

 

紀和駅東和歌山駅乗降客数

戦前の和歌山市主要駅の乗車客数(一年あたり)の統計を見ると、和歌山市・東和歌山駅がどんどん上昇に対し、和歌山駅は昭和2年をピークに下降線をたどっている。
表にはないが、貨物取扱量も大正12年(1923)と12年後の昭和10年(1935)を比較すると、半分に落ち込んでいる。数字的な戦前のピークは、大正末期と断言しても良い。
だが、戦前を通して「和歌山駅」の大看板を他駅ほかに譲ることはなかった。和歌山駅は和歌山駅のものだったのである。


前述したとおり、現在市駅~和歌山駅間をピストン輸送する電車だけが走っている。

 

昭和42年時刻表紀勢本線和歌山市

ところが昭和42年の時刻表を見ると、和歌山市駅から南紀方面に多くの列車が運行され、様々な行き先の列車が行き交う賑やかな路線であった。他にも、現在は和歌山駅発着の和歌山線の列車が市駅を拠点にしていた。

それどころか、和歌山駅始発の列車も存在していた。今の姿からは到底信じられない。くどいようだが、当時の「和歌山駅」は紀和駅のこと。「東和歌山駅」は現在の和歌山駅である。

 

紀和駅旧駅舎

(写真:Wikipedia 2003年の姿)
かつての紀和駅は、ホームだけでも2面3線の設備を持ち、大量の乗客をさばける始発駅としての設備と貫禄を十分に備えていた。
駅舎もターミナル駅にふさわしい、横広の堂々としたものであった。

 

紀和駅航空写真1947

(昭和35年航空写真より)

構内には機関区や客車区、いわゆる車庫も併設されその敷地はかなり広くとられていた。それだけでも駅の重要性がわかる。

時刻表にある昭和42年の時点で、人の流れはすでに和歌山駅に移っていたものの、「和歌山駅」という大看板はまだ所有していた。
ところがこの翌年、70年守ってきた看板を東和歌山駅に譲ることとなり、ステーションビルが作られた和歌山駅への人の流れは決定的となった。
紀和駅と改名された後の凋落は急速に進む。
ここにあった客車・機関区も、数年後には「新」和歌山駅の方へ移転。人の足もすっかり途絶えた紀和駅は、市街地にありながら「死骸駅」と化した。

 

下のブログに、昭和55年(1980)の姿が残っている。

senrohaisenzu.cocolog-nifty.com

駅は昭和60年(1985)に無人駅となったので、まだ荷物扱いや難波からの急行「きのくに」の急行券なども扱う有人駅だった頃のもの。

無駄に思えるほど広い敷地に木造の跨線橋、
「つわものどもがゆめのあと」
と詠んでしまいそうな、草が自然に生えるにまかせた機関区跡、和歌山駅・・・・だった風格を残した駅舎とホーム。
「和歌山」という大看板を外され、生気を抜かれたような姿が遺影のようで(白黒写真なので余計に)、在りし日の紀和駅の賑わいを知っている人は涙を禁じ得ないかもしれない。
小さな乗り鉄だった私も、この頃の紀和駅に立ち寄ったことがありその姿をうっすらと覚えている。記憶が正しければ、上記ブログと同じ頃だと思う。
天王寺駅や難波駅のような幅の広さと貫禄を持ちながら、乗客が誰一人おらず、華やかさも全くなかった。駅が抱えた歴史など知らないガキには、ただ寂寞として薄気味悪かったことだけが記憶に残っている。

 

国鉄が消滅しJRとなった後も、しばらくはその枯れた姿を留めていた。

 

紀和駅

が、そのまま朽ちて消えるかと思われた2008年、高架化と同時に駅舎は現在のようにミニマムなサイズになった。雑草が生え放題だったかつての敷地も公園となり、地元住民のウォーキングコースとして第二の駅生を歩んでいる。
利用者数という現実を照らし合わせると、現在の紀和駅は贅肉を削ぎダイエットに成功した姿といえる。それは筋肉質ですらある。

が、紀和駅がほんのわずかに放っていたいぶし銀を知っている人間から見ると、駅員もいない、線路一本ホーム一本だけの「スリムさ」は骨と皮だけの姿にしか見えないかもしれない。


以上、一連の紀和駅史をTwitterで軽くツイートしたところ、
「だから駅の周辺が広いんだ!」
というツイートがチラホラと。高架化される前の紀和駅を知らない若い地元の人のコメントだろう。
そうか、もうそれすら知らない世代もいるのか…と隔世の感を禁じ得ない。

 

紀和駅の由来

 

紀和駅には、ある謎が存在する。駅名の由来が不明なのである。
Wikipedia先生の紀和駅の項目には、以下のような記述がある。

 

紀和駅由来

 

前述のとおり、紀和駅の名称は昭和43年に駅名を譲った後のものだが、なぜ駅名が「紀和」なのかは定かではないと。
最初に知った時は、ああそうですかと特に興味もなく流していたのだが、そんな中、別件で昭和14年(1939)の和歌山市街地図を目で舐め回していたところ、おや?と引っかかる場所が。

 

紀和町紀和駅由来

「紀和町」という文字がくっきり判別できる。
あれ?「紀和という地名」は「存在せず」じゃなかったのか?
まあ、Wikipedia先生とて万能ではないし、記述の元ソースにそう書かれているということに過ぎない。
しかしながら、なんやWikipediaの書いてることってウソやん!という感情的な早とちりも禁物。地図という一次資料の「紀和町」こそが何かの間違いかもしれない…という可能性だってある。*3
地図上の「紀和町」が本当か実証する必要がある。これを「史料批判」といい、歴史の研究には絶対不可欠な作業。
ブログなどネットでは、二次史料どころか「それホンマか?」という出処不明の書物まで史料批判なしで垂れ流していることが多いが、おそらく史料批判そのものを知らないのだろう。
史料批判をしない史料は調理していない食材。具材をドン!とテーブルの上に置かれそれを食えと言われても困ることが、ネットでは多見される。


他の地図での紀和駅周辺の地名ではどうなっているのか。実際に和歌山市の図書館で過去の地図帳・住宅地図を物色した。 

昭和33年和歌山駅紀和駅紀和町

昭和33年の和歌山市住宅地図では、「紀和町」とはっきり書かれている。他の地図でも記載があり、「紀和町」が過去に存在していたことはこれでほぼ確定だろう。


しかし、別の角度で確証を求めるべく、実際に紀和駅へ向かい現地で証拠を収集してみた。

 

紀和駅前通り

駅から南へまっすぐ通る道。かつては道沿いに「紀和劇場」などの映画館や食堂、旅館などが立ち並び、繁華街特有の喧騒を抜け胸を躍らせながら和歌山の繁華街である「ぶらくり丁」まで歩く…それが昭和の和歌山っ子の定番お愉しみコースであったという。
紀和駅が「和歌山駅」だった頃は、学生やサラリーマンが大勢この道を南下し、駅前商店街も活気に満ちていた。
今の姿を見ると、失礼ながらここが賑わっていたとは到底思えないが、それだけに古い看板などが残り、「紀和町」の一片かけらが残っているかも…そんなほのかな期待を胸に秘め、歩いてみた。

 

紀和町

紀和町紀和劇場紀和駅

「紀和町」は行政の記号としては消えても、自治会名として残っていた。古くからの「紀和町」への愛着があるのだろう。
散歩していた町の古老に聞いてみても、ここはかつて「紀和町」だったと、明確に答えてくれた。
これで「紀和町」がかつて存在し、Wikipediaの
「駅の所在地および周辺に『紀和』という地名も存在せず」
の記述が誤りなのは確かだろう。
Wikipediaとは言え、こうして「俗説」をひっくり返し正しい事実を発見していく作業は、歴史家としてやりがいを感じる一瞬である。
かと言って大金が手に入るわけでも、テレビに取り上げられるわけでもない。ただの自己満足である。しかしそれでいいのだ。そう自分に言い聞かせている。


紀和駅は、創設の役目を終えた。ここがかつて和歌山の中心駅、いや、和歌山駅そのものだったと説明しても、今の姿を見て想像できる者は少ない。
ただ、駅の周りの長細い公園が、かつての隆盛への想像力を少しはかきたてられるのではなかろうか。
後輩の活躍をひっそりと見守りながら余生を送る黄昏の駅として、かつてここに紀和町があったことの間接的な証人として、今日も高架上に電車は走る。

 

==こんな記事もあります!==

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

 

*1:いわゆる「ヨン・サン・トオ」で廃止

*2:http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/1980313-353d.htmlによると、市駅はかつて二面二線だったらしい

*3:地図だけでなく、戦前の出版物は誤植がけっこう多い

神戸の近代建築に残る戦争の痕

太平洋戦争が終わってから、74年が経とうとしています。

「あの戦争をまた繰り返す気か!」

と鼻息の荒い人の横で、

「え?アメリカと戦争していたの?知らなかった!」

と驚く若者も現れ、やれ平和ボケだと目くじらを立てる人もいます。が、70年以上も経てば人間の記憶なんてそんなもの。

 

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日本の都市という都市が空襲で廃墟となり、イチどころかゼロからのスタートとなった日本復興。その時代に生きた人たちの頑張りで高度経済成長を遂げ、町並みも戦前とは違った形に変化しました。

戦争抜きでも建物の新陳代謝が激しい日本、74年も経った戦争の遺構も年々少なくなってきています。都市部になると、それは顕著なほど消え去り、それこそ戦争なんてあったの?ということになってしまうのは、時代の流れだもの、仕方ない。

しかしその分、ビルの間にぽっかりと空いた穴のように、意外なところに意外なほどくっきり残っている戦争遺産もあります。それも、一度は通ったことがあるかもしれない、神戸市のど真ん中に…。

 

 

 

 

神戸市立博物館

 

神戸市立美術館

神戸の中心地、三宮の旧居留地の中心にある市立博物館の建物は、もともと横浜正金銀行神戸支店として昭和10年(1935)に竣工しました。戦後も銀行として使われた後、神戸市が使用することになり、現在に至っています。

銀行と戦争…一見何の関係もなさそうです。少なくても遠目で見ていれば…。

建物を間近で見てみると、あることに気づきます。

 

神戸市立博物館の銃痕の跡

なにやら壁にシミのようなものが…

 

神戸市立博物館銃痕

アップしてみると、あなを何かで埋めた修繕の跡が見られます。

 

これ、実は飛行機の機銃掃射の跡なのです。

 

神戸市立博物館機銃掃射

博物館の正面には、数多くの銃痕の跡が、かなり生々しく残っていますが、銃痕だと意識しないとただの「シミ」にしか見えません。

が、これは明らかに街の真ん中に残る戦争の跡なのです。

 

神戸市立博物館銃痕跡

市立博物館の銃痕を細かくチェックしていくと、正面向かって右側に銃痕が集中していることがわかります。左側にはほとんどありません。飛行機は南側(海側)から飛来し、三ノ宮駅方面に飛びながら機銃掃射を繰り返していたと推定されます。

博物館は、実は建物自体が戦争博物館でもあった、そういう捉え方も可能です。

 

 

海岸ビル

 

神戸中央区海岸ビル旧三井物産ビル

神戸海岸ビル

歩道橋が邪魔で見えにくいですが、戦前は旧三井物産神戸支店だった海岸ビルは、大正7年(1918)の竣工です。

しかし、建物自体は1995年の阪神・淡路大震災でほぼ全壊、解体後には新しいビルが建設されました。が、昔のビルの外壁だけを新しいビルの低層部分に移築する形で復活。外見は「近代建築」の上に「現代ビル」が乗っかっている奇妙なハイブリッド風となっていますが、低層部なんて飾りです、偉い人にはそれがわから…失礼、神戸の景観を損ねないための一工夫であります。

 

そんな「現代ビル」ですが、ここにも実は…

神戸海岸ビル戦争の跡

神戸海岸ビル銃痕跡

海の方向の正面入口の周囲には、カウントできないほどの「シミ」が。市立博物館と同じく、これも銃痕の跡です。外壁は解体された廃物の再利用らしいので、すべて正面にあったとは限らないのですが、白亜の外壁に孔が黒ずんでいて、それがかえって生々しさを出しています。

もしかして、外壁が再利用されたのは、この銃痕のあとを戦争遺産として残すためだったのかもしれない…実際に現場で見ると、そんな想像が頭の中でよぎります。

 

 

神戸郵船ビル

 

神戸郵船ビル

 こちらは大正7年(1918)に日本郵船神戸支社として建てられた、今年で築101年の重厚な建物です。1994年に大改築された際に耐震補強も施されたのですが、完成した途端に阪神・淡路大震災。もしこれがなければ、前述の海岸ビル同様全壊していただろうと思うと、耐震工事は重要だと思わせる生き証人でもあります。

 

大正時代築のものなので、当然先の戦争も経験しています。

 

戦前の郵船ビルと海岸ビル

(神戸市立図書館の資料より)

100年ほど前の海岸通りの写真です。

左奥が戦前の郵船ビル、右手前は前述した海岸ビルですが、現在はその間にある商船三井ビルヂング(大正11年築。後述)がないので、大正8~9年頃かと思われます。

郵船ビル、実は今と形が違っています。戦前にはてっぺんにドーム状の銅葺き屋根があったのですが、空襲の熱で崩壊。銅は熱にめっぽう弱いですからね。

郵船ビルの空襲の傷跡は、これだけではありません。

 

神戸郵船ビル機銃掃射跡

神戸郵船ビル空襲の跡

ここにも機銃掃射の跡が、数は海岸ビルほどではないものの、しかしくっきりと残っています。こちらは海岸ビルと違い数が少ないので、気づく人は案外少なめのようです。

 

 

商船三井ビルディング

 

商船三井ビルヂング

神戸商船三井ビルディング

洋風建築が多く残っている神戸の海岸通りの中でも、ひときわ存在感の大きいのがこの商船三井ビルディング。曲線を多く使っていることもあってが、その威風堂々とした姿と裏腹に、女性的な母性を感じます。

 

神戸商船三井ビルディング機銃掃射跡

商船三井ビルディング銃痕

他の建物の例に漏れず、ここにも機銃掃射の跡が建物の足元に残っています。「建物に被害を与える」のであれば、こんな下の部分を狙う必要はないはずで、おそらく逃げ惑う人間を狙ったものだと思われます。

しかしながら、商船三井ビルディングの機銃掃射の跡を紹介しているほとんどのサイトは、この下の方しか見ていません。先に言っておこう、君らの目はどこについているのだと。

 

神戸商船三井ビルディング機銃掃射側壁

商船三井ビルディング機銃掃射

上向け上すると、側壁には無数の銃痕の跡が。後で埋められた孔のひとつひとつがすべて銃痕、それはもう、心が痛くなるほどの修繕の跡が…。

神戸に残る機銃掃射の跡の中でもここがいちばん生々しく、かつ痛々しい姿を現在に晒し戦争の酷さを訴えています。

建物を一周してみるとわかりますが、商船三井ビルディングの弾痕は西の側壁にしかありません。つまり飛行機は西からダダダダダと機銃を撃ちまくったということです。

 

神戸商船三井ビルディング戦争空襲

西側壁面はこのとおり。壁の色が少々黒ずんでいるところは、すべて機銃掃射の痕。遠くから見てみても、それが広範囲に広がっていることが、この写真でわかるかと思います。

 

 

海岸ビルヂング

あれ?もう海岸ビルは紹介済みじゃないの?

デジャブーのような感覚に襲われるかもしれませんが、すでに紹介済みの「海岸ビル」と、今回紹介の「海岸ビルヂング」は別物。前者は三宮後者は元町と場所も若干違います。

しかし、同じ道路沿いなのでややこしい。設計者も同じなのでさらにややこしい。かく言う私も写真整理でファイル名をつける際、少し混乱しました。

 

神戸海岸ビルヂング

こちら「海岸ビルヂング」は、旧兼松商店本社(「日豪館」)として明治44年(1911)に建てられたもので、「海岸ビル」より7年先輩です。

 今でも威風堂々とたたずむ建物は、見方を変えれば弱肉強食の世界だった19世紀の帝国主義の中、日本が欧米列強に対して行った精一杯の見栄であり、威嚇でした。俺たちも欧米並、いやそれ以上の建物を作ることができる実力があるのだと。

 

神戸海岸ビルヂング戦争機銃掃射

このビルヂングにも、よく見ると機銃掃射の銃痕を確認することができます。

 

 

神戸元町海岸ビルヂング戦争銃痕

 角度を変えて撮影するとこのとおり。明らかに弾が当たって凹んだ部分や、銃痕をセメントかなにかで埋めた跡がくっきり見えます。

この銃痕、実際に見ればわかりますが、けっこう大きい。石やコンクリートの壁でもこれだけの穴が開くのだから、人間がまともに食らったらひとたまりもありません。頭に直撃したら…間違いなく首より上の原形をとどめないでしょう。

そんな口径の銃を人間に向けて撃つのだから、戦争の狂気というものは計り知れません。

 

エルメス

 

 神戸大丸の裏に位置する名ブランドの直営ショップですが、実はこんなところにも…

 

神戸エルメス銃痕跡

他の建物と比べて発見難易度は非常に高め、よほど意識しないと気づかないですが、弾痕がわかりますか?

神戸エルメス大丸機銃掃射

弾痕の部分が後で違う色のセメントで埋められた跡がよくわかるアングルです。

 

他の建物と比べてエルメスがわかりにくい理由は、銃痕の大きさが他より小さいから。他の建物を見た後にここを見ると、小さくてよーく目を凝らさないとわかりにくいのです。戦闘機についてはよくわかりませんが、備え付けの銃の口径が小さいものもあったのではないかと、痕を見るに推測できます。

 エルメスショップの前を通る人は多けれど、今日も数千人、いや数万人?が銃痕に気づくことなく通り過ぎていきます。

 

JR元町駅

ここまで神戸市中心部の戦争の痕を探し回った結果として、ある疑問にぶつかりました。

JR三ノ宮駅や阪急神戸三宮駅には、いまだに生々しい銃痕や焼夷弾が落ちた跡が残っていますが、元町界隈もかなり空襲を受けたはず。だったら元町駅にも痕が残っていないのか?

現在のJR元町駅が開業したのは昭和9年(1934)なので、もし機銃掃射などの空襲を受けていれば、三ノ宮のように誰も意識しないところに痕が残っているかもしれない…

そんな疑問を自己解決すべく、元町駅へと足を向けました。

 

三ノ宮駅には、もしかして弾丸が当たった跡ではないかと思われる凹みや、明らかに貫通した箇所が屋根を支える鉄柱などに散見されましたが、元町駅の端から端までチェックしたところ、そういう痕は見つかりませんでした。

しかし、確信は持てないものの、これは銃痕ではないのか?と推測できるものも、なきにしもあらずでした。

 

JR元町駅戦争銃痕跡か

壁に何箇所か、不自然な孔が開いています。

 しかし、これはただの目の錯覚かもしれない。正直なところ、自信は全くありません。いや、やっぱり気のせいかな(笑)

 

これらの建物は、戦前から残っている貴重な建築でもあるので近代建築マニアの方には
「神戸に来たら一度は見ておけ」
というほど有名です。
神戸史、いや日本近代史に燦然と輝くこれらの建物の美を堪能するのは当然です。しかしながらその側面にある「傷」に思いを致し、戦争の事実を直視するのも良いのではないでしょうか。

 

★重要なお知らせ★

ブログをワードプレスに移転しました。

記事は順次新ブログへ引っ越し中ですが、よかったらこちらもどうぞ!

野良学徒の歴史研究
https://yonezawakoji.com/

 

【昭和考古学】「阪神飛行学校」と盾津飛行場(大阪陸軍飛行場)

大阪の大和川河口、現在の南港口周辺に「第ゼロ代関西国際空港」建設計画があったことを、先日書きました。

parupuntenobu.hatenablog.jp

「戦前、南港に空港を作る予定だったらしい」
この話は地元に伝わる伝説として小耳程度にはさんでいたものの、おばちゃんのゴシップだろうと本気にしていませんでした。
これが事実とわかり早速調べ上げたのですが、資料を追っていくいくうちに「阪神飛行学校」という謎のワードに引っかかりました。

 

 


1.「阪神飛行学校」をめぐって

きっかけは、前回紹介した当時の新聞記事から。

伊丹空港戦前

この中に、

 

大正村阪神飛行学校

大正村(阪神飛行学校)も候補、それも将来の拡張も可能な有望株として名前が挙がっています。「阪神」と名がつくので、西宮くらいかなと勝手に推定してググってみると、これがなんと、意外な場所と名称が出てくることに。

 

 

八尾空港地図

阪神飛行学校」とググってみると、セスナ機の拠点である八尾空港大阪府八尾市)に当たります。ああそうですかと八尾空港Wikipedia先生のページを開けてみると、空港の開設の経緯がなにやら不明瞭な様子。「阪神飛行学校」と関係があることは確かなようですが…何やら奥歯に物が挟まったような記述。
ここにニッチのにおいを嗅ぎ取った私、前回の記事ネタを調べるついでに不明瞭を明瞭にすべく、調査を開始しました。

 


2.八尾空港の謎

適当にググってみると、レファレンス協同データベース(以下長いのでRKDB)の問い合わせに引っかかりました。
RKDBとは、国立国会図書館が全国の図書館・博物館のおねーさんを酷使…ではなく駆使し、国民の質問にやさしく答えてくれる国のサービスです。
人文科学から自然科学までのありとあわゆる質問がデータベースとして蓄積されており、国民は無料でアクセスできます。

 

レファレンス協同データベース

その中に「阪神飛行学校」「八尾空港」についての質疑応答があるのですが、答えは「諸説あり」とあいまい。
それほど闇が深そうな、いや調べがいがある事項です。


早速私のお気に入り内データベースを駆使して調べてみると、こんなものが出てきました。

 

阪神飛行学校

昭和12年(1937)12月3日付『大阪時事新報』の新聞記事です。
ここに、興味深いことが書かれていました。

阪神民間防空機関たる阪神航空協会では、府下中河内郡大正村および志紀村を中心とする十二万坪の新飛行場を建設買収するに決定し、
(中略)その名称を阪神飛行学校大正村飛行場」と決定した」

さらにその数日前の新聞記事には、

 

八尾空港阪神飛行学校新聞記事

八尾空港阪神飛行学校新聞記事

昭和12年11月18日 『大阪時事新報』)

とわざわざ新飛行場の地図まで。位置は現在の八尾空港と一致するので、大正村飛行場が現在の八尾空港なのはこれで確定。
ここにある「阪神航空学校」は、「飛行学校」の誤植か記者の勘違いです。


そして重要なのは、

「新飛行場並に学校は本年末より着工し、明春三月に竣工、生徒募集は明年一月に開始(以下略)」

翌年の昭和13年3月に「大正村飛行場」が完成の予定と書かれています。
ここでRKDBの回答をまとめると、

 

①『日本の空港』P.119「八尾空港」に「昭和9年に農地を埋め立てて(中略)阪神飛行学校が設置」


②『全国空港ウォッチングガイド2006-2007』P.151に「1936年阪神飛行学校設立」とのみ記載。


③『大阪春秋 H17夏号 No.119』P.70に「八尾飛行場は阪神飛行学校の飛行場として1938年に着工」

 さて、どれが真実なのか。上記の資料からわかることは、

 

1.①②は年代的に絶対ありえない


2.③と新聞記事の内容が一致

 

つまり③が歴史的事実、八尾空港の開港も昭和13年(1938)が正解。誰か今すぐWikipedia編集してきて(笑)


ここで、新たな謎が浮かびます。なぜRKDBがテンパるほど「諸説あり」なのか。


新しい新聞記事があります。

 

盾津飛行場大正村飛行場阪神飛行学校

(昭和12年6月16日『大阪朝日新聞』)

ここに重要なキーワードが書かれています。

「民間飛行士養成と航空学術研究のため大阪府中河内郡盾津陸軍飛行場に阪神飛行学校を設立(以下略)」

「盾津」というところに陸軍の飛行場があり、そこに阪神飛行学校が設立されたということ。あれ?阪神飛行学校は「大正村飛行場」ちゃうのん?と、ここで少しややこしくなります。
新聞記事の流れを見ると、阪神飛行学校は最初盾津にできたのが、大正村に新訓練施設(飛行場)を作ることとなり、昭和13年に完成。阪神飛行学校の機能も大正村、のちの八尾空港に移った。こう考えるほうが自然かなと。

 

ここで出てきた「盾津陸軍飛行場」と、「盾津」とは何なのか。そこを次から追っていきます。

 

 

3.盾津飛行場

 

盾津飛行場東大阪市

(完成直後の盾津飛行場ー現地の説明板より)
盾津飛行場は昭和8年、国威向上による民間飛行士育成のために建設が始まった飛行場を母体としています。
翌年9月に飛行場は完成、同時に陸軍省に寄贈され昭和10年6月1日に正式受領、同時に「大阪陸軍飛行場」と改名されました。が、俗に「盾津飛行場」と呼ばれていたようなので、本記事では以下「盾津飛行場」に統一します。

RKDBや八尾空港Wikipedia記載の「昭和9年」とは、おそらく盾津とごちゃごちゃになっているのではないかと。

 

せっかく作られた空港でしたが、ここあたりは地盤が弱く寄贈された陸軍の方も活用に困った様子。所有は陸軍なものの、しばらく民間で使ってねーとグライダー訓練や模型飛行機大会、学生の飛行訓練などに活用されることに。
阪神飛行学校がここに作られたのも、そういう経緯があってのことだろうと思います。


対米戦争後の昭和18年(1943)、海軍指定企業だった松下電器産業(現Panasonic)が「松下航空機」に改名、航空機本体や部品製作にあたることになりました。
松下幸之助は盾津に工場を建設し、盾津飛行場もその際に「海軍によって」拡張されます。

ジュラルミンがないから木造で飛行機作ってくれ!」

と海軍にお願いされてもね~という松下は仕方なしに了承したものの、ネジすらままならない状態で、試作機を飛ばす滑走路もセメントがないために漆喰で地面を固める有様。漆喰はセメントの5~6倍のコストがかかったそうです。

 松下飛行機は1年の試行錯誤の末、木造飛行機『明星』の製造を開始、数機が完成し飛行…と思ったら即墜落。結局『明星』が日の目を見ることはありませんでした。

そして終戦GHQによっていったん接収されたのち盾津町(当時)に払い下げられ、盾津中学校などの公共敷地となりました。

 

4.盾津飛行場はどこに?

私は大阪と言っても南部、いわゆる泉州の出身なので、東の方、歴史地理学的な表現でいう北河内国の郷土史はほぼ白紙です。
なので、ひとまず場所を特定することに。

 

東大阪市盾津

「盾津」はJR学研都市線鴻池新田駅の南部一帯、地名としてはすでに消滅し盾津中学校などの学校名にとどまっているのみです。
ここに「東大阪トラックターミナル」という大規模物流施設が府東部にありますが、

 

www.semboku.jp

ここは昭和44年(1969)に大阪府が飛行場跡地を購入したもので、管理運営はあの「泉北高速鉄道」。

なんで泉北高速"鉄道"が物流事業やってんねんと思ってしまいがちですが、実はこちらが泉北高速"鉄道"の本業。元々は大阪府営の第三セクターだったので、大阪府の土地を管理運営していても矛盾はありません。

 

盾津飛行場地図

飛行場があったあたりを、戦前・戦後の地図で比較してみました。
戦前には何もなかったところに、戦後の「跡」ですが飛行場がくっきりとあらわれています。

 

昭和23年盾津飛行場跡航空写真

昭和23年(1948)の盾津町(当時)の航空写真です。
かなり薄くなっているものの、滑走路の跡が見て取れます。写真上の住宅密集地のすぐ上が、片町線鴻池新田駅と思って下さい。

 

盾津飛行場跡航空写真

飛行場の面積は約10万坪(33万㎡)で長さ940m、幅560m、滑走路750m。地図右半分が飛行場敷地、左は第四師団の練兵場として昭和14年(1939)末か15年から使われていました。

盾津中学校の場所には訓練生やパイロットの居住区だったと伝えられ、校内に飛行場があった碑が建てられています。

また滑走路の一部は、現在府立かわち野高校になっています。ここ、以前は「盾津高校」という名前だったはずですが、また一つ旧(ふる)くからの地名が一つ消えたのは少し寂しい気分です。

 

 

盾津飛行場跡現代との比較

現在の地図と比較してみると、飛行場との区割りだったと思われる水路(赤矢印)と、航空機誘導(運搬)路跡(灰矢印)が道路として残っています。数少ない飛行場の遺構で、これが残ってたからこそ跡の特定が容易でした。

航空機誘導路は北方向に一直線伸び、その先には…

 

松下飛行機盾津飛行場

なにやら工場らしきものが…ここが松下幸之助が作った松下飛行機の跡。

ここは現在の大東市住道駅近くにあたりますが、大阪人なら住道とくればSANYOを連想するほど、戦後永らく三洋電機㈱の企業城下町でした*1

三洋電機の創立は戦後ですが、場所がつい7~8年前まで三洋の工場だっただけに、三洋電機が旧松下飛行機の工場を売却してもらい、拠点にしたのかもしれません。

松下飛行機跡は現在、南半分が大阪府の朋来団地、北半分が三洋電機→京セラ工場となっています。 

で、これで終わろうかと思いきや、航空写真にはまた謎を呼ぶものが写り込んでいました。

大東市住道松下飛行機三洋電機

住道駅のすぐ南に、滑走路のような、そうでないような筋の道が確認できます。その横には格納庫か倉庫らしきものが幾棟も。盾津の飛行場からはかなり離れているのですが、これは一体なんなのか。『大東市史』でも読んだらわかるかもしれないけれど、これ以上追求すると本題から反れてしまうのでペンディングとします。

飛行場のことはこれでわかった。さて本編これにて終了。

…もう一つ、なにか残ってませんか?

 

 

5.盾津飛行場最後の謎

 

東大阪大阪府空港

大阪府が東郊に建設する計画だった「大阪国際飛行場」…ここは当時の新聞記事によると盾津に作る予定だったはず。
盾津に飛行場があったことは事実ですが、それと「50万坪の大規模空港」と府が広げた風呂敷は果たして同一なのか。
前述の大和川国際飛行場以上にニッチで、ネットで掘れる限り掘ってみたものの、これ以上のものは出てこない昭和史大阪ミステリー。

ここからは私の推測となります。
考えられるパターンは3つ。

 

①盾津飛行場をそのまま流用


②盾津飛行場を陸軍から購入、大型機離着陸可のように拡張


③盾津飛行場と全く別の空港を建設する

 

 

何の根拠もないという前提ですが、①はまあないと思うのでおそらく②か③でしょう。

しかし、大型機が発着するような空港を作るには、盾津に致命的な欠点がありました。上にサラッと記述しました。盾津飛行場は地盤が弱いと。ではなぜ弱いのか。

 

河内湖

(https://genkiayumu.exblog.jp/10459281/より)

大阪人なら社会の授業で習ったことがあるかもしれませんが、弥生時代古墳時代、ここあたりは内海が塞がって形成された「河内湖」という淡水湖がありました。

 

大阪新開池

(Wikipediaより)

河内湖は土砂の流入や治水、開墾で次第に小さくなり、江戸時代初期には「新開池(しんかいいけ)」「深野池」という大きな池となっていました。

 

18世紀はじめ、鴻池善右衛門宗利という大坂の商人が新開池を開発する権利を入札し、新田開発を行いました。
鴻池家はのちに、鴻池銀行*2日本生命を創設する財閥となりますが、鴻池が開発した新田は「鴻池新田」として駅名にも残っています。

盾津飛行場は「箕輪」の西に位置していたので、江戸時代は池の中。池を埋め立てた場所だったので、地盤が弱いのも頷けます。
「府営空港」が幻に終わったのも、大阪市に対抗して風呂敷は広げてみたものの、地盤の弱さで適地ではないことが判明。「大阪国際空港戦争」は伊丹で落ち着きつつあるのと、戦争でそれどころではなくなり、そのまま流局…。
私はこのように推測しています。

 

しかしながら、私がわかるのはここまで。
大阪市大和川国際飛行場(仮称)に次ぐ謎、大阪府営国際飛行場(仮称)はしばらくペンディングとしておきましょう。
府立公文書館に行けば、議会の記事録など資料が残っているはずですが、私は貧乏暇なし。
興味ある方はこの続きをどうぞご自由に!と見知らぬ誰かにプロジェクト(?)を託します。これ、ええネタやと思いまっせ。

 

 

<主要参考文献・サイト>
国立国会図書館デジタルコレクション
神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ
レファレンス協同データベース
Wikipedia-盾津飛行場/八尾空港
松下幸之助.com
大日本神国也-大阪陸軍飛行場
『八尾市史』

 

==こんな記事もあります==

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

*1:SANYOが消えた現在でも、「三洋町」「三洋橋」など地名に残っています。

*2:三菱東京UFJ銀行

幻の大和川国際飛行場【昭和考古学】

大阪空港の夜景

現在、大阪には

関西国際空港(関空)

大阪国際空港(伊丹空港)

八尾空港

の3つが存在しています。広義の点では神戸空港も含めてもいいでしょう。

現在はそれぞれの空港で仲良く(?)棲み分けが出来ていますが、かつて戦前の大阪で熾烈な空港誘致競争があったのをご存知でしょうか。それも、市や府、お隣兵庫県も絡んだ仁義無用のバトルを。今日はそんな熱い熱い空港の歴史を。

くどくど書くとまた「公開無期延期」となりかねないので、鉄は熱いうちに打っておきます。追加事項はこっそりリライトすればいいし(笑)

 

 

 

1.元祖大阪空港、木津川飛行場

突然ですが問題です。

Q:大阪初の空港を答えよ

知っている人は「木津川飛行場」と答えるでしょう。しかし、大阪初の空港は大阪は大阪でも、堺にあった「大浜飛行場」でした。

大浜飛行場については詳しく書きません。以前の記事をどうぞ。

 

 

木津川飛行場

木津川飛行場は、 日本の航空事業が急速に発展していくさなかの昭和4年(1929)に運用が開始されました。

 

木津川飛行場大阪

(昭和11年発行『大阪觀光地圖』)

場所は現在の住之江区の木津川の河口付近、新木津川大橋の西側に作られました。ここから東京や四国・九州など国内線の飛行機が飛んでいたことは、工場ばかりの現在の光景からは想像できません。というか、飛行場があった時から工場だらけじゃないかと。

大浜飛行場は滑走路のない水上飛行場でしたが、滑走路を備えた木津川空港は「初代大阪空港」として、絶頂期の昭和13年には年間離発着回数約8800回、旅客数約10000人と国内トップでした。

 

大阪市内に華々しくオープンした木津川空港ですが、航空産業の発展が予想以上に速く、すぐにキャパシティ不足に陥ってしまいます。

その上空港の近くの工場から出る煙霧で視界が悪くなり、それが原因による墜落事故も起こる始末。こんなにデメリットが多かったら、そんなとこに空港作らなかったらいいのにね。航空業界がまだ試行錯誤の頃ならではかもしれません。

その中で何より痛かったのが、大型機を使用する国際線が手狭さゆえに離着陸できず、大阪をスルーしたこと。工場の中に滑走路を作ったような飛行場にこれ以上の拡張性はのぞめず、開港2年にして新空港の計画が持ち上がります。

 

 

2.大阪市の新空港計画

 早速手を挙げたのが、THE GREAT大阪(大大阪)こと大阪市。

大正後期から続く慢性的な不景気に加え、急激なデフレにより虫の息だった日本でしたが、犬養毅内閣(昭和6~7年)の蔵相高橋是清による金融緩和政策により、経済は突如として蘇生します。

昭和7年末から12年まで、東京や大阪など都市部は空前の好景気となり、いわゆる日本経済無双モードに*1。この時期を私は、「戦前昭和元禄」「戦前バブル」と造語しています。

心躍ってしまうような明るさと活気を昭和10年前後の東京や大阪の写真に感じることがありますが、「戦前昭和元禄」の客観的データを持っている私から言わせれば、それは気のせいでもありません。当時の脈動(オーラ)が写真にも出ているのでしょう。

 

 本格的国際空港建設の話は、そんな時期から始まりました。 

大阪市はグレートのプライドにかけて、大和川の河口付近を埋め立て東洋一の国際空港を作るぜ!と大和川尻北岸の91万5000平方メートルの埋立予定地のうち、約60万平方メートルを飛行場に当て急ピッチで工事開始、昭和10年には完成の予定でした。これを「大和川国際飛行場計画(仮称)」といいます。

 

大阪港第二次修築計画図と大和川国際飛行場

 昭和6年(1931)の大阪港第二次拡張計画にも、大和川河口に「飛行場移転予定地」(赤丸部分)と書かれています。その上には「国際飛行場」こと木津川飛行場が。

 

大和川飛行場位置推定

他の資料とも照らし合わせたところ、大和川国際飛行場(仮称)はここあたりに建設される予定だったのではないかと推定しています。

 

ここに「第ゼロ代関西国際空港」が大阪市に完成!!

とそうは問屋が簡単におろさない。大和川国際飛行場(仮称)は、いきなり2つの課題に直面することになりました。

一つは煙霧。木津川飛行場がいらない子扱いされた主原因の一つですが、新空港予定地は木津川飛行場の近くで状況は変わらず、パイロットなどから反対が起こりました。こんなこと、すぐわかることだと思うんですけどね~。

もう一つは、

「うちも空港作るぜ!」

と名乗りを上げた兵庫県。

 

大和川飛行場鳴尾飛行場大阪空港

県は鳴尾村*2に空港建設を宣言。川西飛行機(現新明和工業)や住友財閥をバックに、権力の暴力of大阪市と激しいバトルを繰り広げます。

 

鳴尾飛行場航空写真

鳴尾飛行場とくれば、戦争中の飛行場を連想する方が多いかと思います。ここには海軍の飛行場が設置され、戦後3年目の写真でもX形の滑走路がまだくっきり見えます。甲子園球場の場所がそのままなので場所特定も楽勝ですが、ああ、ここを国際空港候補にしたのねと。

しかし、一つ引っかかっています。鳴尾飛行場はニッチな分野ではメジャーなのかWebで取り上げる人も比較的多めですが、Wikipedia先生はもちろん、どこの資料にもここは昭和18年築と書いてあるのです。新空港の話が持ち上がった昭和8~9年には影も形もないはず…。

鳴尾競馬場西宮昭和初期地図

昭和4年(1929)の地図ですが、飛行場のはずが競馬場。こちらも昭和18年海軍に接収され飛行場に…とあります。

「国際空港」としての鳴尾飛行場と、戦争中の鳴尾飛行場は別もの!?

ただ、「国際空港」としての鳴尾飛行場は「川西飛行場」と書いている新聞記事も存在します。

「川西」とは川西市ではなく、川西飛行機*3のこと。サクッと調べたところ昭和5年(1930)に鳴尾に飛行機開発の工場が建設されているので、それと関係あるのかもしれません。

尻尾はつかんだものの、私は絶賛島流し中、明石の県立図書館まで行くのは金かかるし面倒くさい確たる資料が手元にないのでこれが限界。ご興味があれば他の人が深掘りしてくれていいのよ。

しかし、こうして調べてみてわかることがありました。甲子園球場って西宮市だったんだなと…なんだか甲子園だけ「甲子園市」のような錯覚が(笑)

 

 この阪神国際飛行場バトルは双方とも一歩も引かず、どちらも一長一短あり空港誘致バトルは膠着状態に。

結果として、軍配は当時航空を管理していた逓信省の仲裁により大和川にあがります。

誘致に破れた兵庫県ですが、大和川の「第一飛行場」に対し、大阪との県境の川辺郡神津村に予備としての「第二飛行場」建設の許可をもらいます。国がどちらの顔も立てるため玉虫色の御沙汰を下すことは、政治史にはよくあることです。

しかしこれが、日本航空史屈指のドラマへの始まりでした。

 

一件落着と思われた戦前の「関西国際空港」バトル。ほっと胸をなでおろした大阪市ですが、まだ波乱は続きます。

 

 

3.空港の下剋上

大阪の空港は、

大阪第一国際飛行場:大和川河口(大和川飛行場)

大阪第二国際飛行場:兵庫県川辺郡神津村

の2つが建設されることになりましたが、大和川国際飛行場(仮称)は、将来を考えるとやはり手狭と海軍からクレームがあがり、煙霧の害も改善せず、ここ不適格じゃね?という声もあがってきます。しかし大阪市はそんなの関係ナッシングとお構いなし。

昭和11年に大阪市によって編纂された『大阪市政』によると、

大和川尻の海岸約百萬平方米を埋立て、これに理想的飛行場を建設する計画を樹て、昭和八年七月より工事に着手し目下埋立て工事中である。

(653ページ)

 いったん出たションベンはもう止められないようです。しかし、昭和10年には完成しているはずでは?(笑)

 

さらに興味深い記述が続きます。

これと同時に住吉公園より同飛行場に通ずる新設連絡道路の建設に着手した。(653ページ)

今を見ればわかるように、大和川国際飛行場(仮称)は未完に終わっています。

当然遺構なんて残っているはずもないですが、ただ一つ、残滓と言えるものが残っています。それが住之江区を東西に横断する通称「住之江通」。

 

住之江通大和川飛行場戦前

(1937年大阪市地図より)

赤い矢印の道路が、「飛行場に通ずる新設連絡道路」です。南港ニュータウンのために作られた道路っぽいですが、実は南港にできるはずだった空港の「連絡道路」の残滓だったのです。今なら関空の連絡橋というところか。

そんな頃、あくまで予備扱いの「第二飛行場」は、昭和11年(1936)に建設が始まりました。

 

大和川国際飛行場(仮称)がとんだポンコツプランとわかり、ニヤリと笑った組織があります。

大阪市営空港は死んだ、なら代わりに俺様が空港を作ってやるぜ!

蚊帳の外と思われていた大阪が名乗りを上げます。

くどいようですが、じゃありません、です。

 

大阪府立空港東大阪盾津

 既に建設が始まっていた「第二空港」が36万坪に対し、「大阪府営飛行場」は50万坪*4。あっちよりも敷地広いぜ!と猛アピール。

記事には、


「大阪府では逓信省、大阪市の協力のもとに優秀な「大阪国際飛行場」を大阪東郊に建設すべく具体的計画を進めている」


とありますが、大阪100年の「府市合わせ(不幸せ)」の歴史を知っている人なら、
「大阪市と協力って絶対ウソやろ!www」
と鼻で笑ってしまうはず。だって、絶賛頓挫中とは言え、大阪市は大和川国際飛行場(仮称)プランを捨てたわけではないから。大阪市の傲慢不遜っぷりからして、自分の案を捨てて府に泣きつくとは考えられない。

「そんなケンカせずに、仲良く協同で作ったらええのに…」

外野はそう思うでしょうが、府と市はね、並の国なら内戦になっているほど仲が悪いのです

 

大阪府営飛行場(仮称)が用意した土地は、上の記事にもあるように東大阪の某所。記事内では大人の事情で記述を控えていますが、その後の消息を追っていくと「盾津(たてつ)という地区だそう。この盾津の名、しばし記憶しておいて下さい。次の記事のキラーワードとなります。

 

4.そして伝説へ…

 大阪第二飛行場伊丹空港開港昭和14年

「第一」の大和川国際飛行場(仮称)計画が頓挫するなか、スペア扱いの「大阪第二飛行場」が昭和14年(1939)1月17日にオープンしました。
木津川飛行場の機能もすべて第二飛行場へ移転しお役御免、航空史から姿を消しました。

しかし、あくまでここは「第二飛行場」。「第一」はどこにするかで折り合いがつかず、ついに国が仲裁に入ります。

 

大阪第二飛行場伊丹空港開港1939年

逓信省航空局長が来阪、飛行場について話し合いを行ったという記事です。

「大阪国際飛行場は伊丹に落着こう」

見出しはこうなっていますが、書き方を変えると

「もう伊丹でええんちゃうのん?」

「大阪国際空港」の看板をめぐる大阪市vs府vs兵庫県の三国志っぷりに、長官の呆れ顔が垣間見えます。

もうここでおわかりでしょう。「川辺郡神津村の第二飛行場」とは現在の伊丹空港のこと。


そしてもう一つ、第二飛行場が無用のトラブルを生んだこんなニュースを。

 

大阪第二飛行場伊丹空港開港税関

大阪・神戸の税関が、正式に「大阪国際空港」に昇格した伊丹空港の管轄をめぐって、縄張り争いを起こしています。

記事の概要を一言でまとめてしまうと、

 

大阪税関「名前は大阪やさかいうちやろ!」


神戸税関「住所は兵庫県やからこっちやろ!


大蔵省「ケンカやめて~!」

 

3行で済みます。役所どうしでお前ら何やってんねんと。


「第二空港」の分際で目立ちやがって…と歯ぎしりしている「第一空港」のはずの大和川国際飛行場(仮称)さん。ここで大阪市は起死回生の策を持ち出…せずはずもなく、「予備」のチヤホヤぶりに指をくわえるのみ。
現実として、補欠の「第二」がエースの「第一」のお株を奪う下剋上が起こりました。

 

そして対米戦争へ。
半鎖国状態と化した日本は旅客輸送にまわす燃料の余裕すらなり、旅客としての空港の歴史は、ここでいったん幕を下ろします。。大阪市のメンツを賭けた空港計画も昭和17年5月、逓信省の指示で白紙撤回。大阪市が夢見た国際空港の夢は、完全に潰えました。

空港用の敷地は宙ぶらりんとなりましたが、戦後に貯木場や倉庫、団地等に再利用され、新交通ニュートラムが走るニュータウンとなっています。

コンクリートの林と人々の雑踏の中、文字通り煙霧の奥に消えた大和川国際飛行場(仮称)は、知る人ぞ知る伝説として昭和史の大河の中に流れています。

 

 

==さらに深い世界へ興味を持った方は、こちらをどうぞ!==

(同じことに興味を持ったエヌハルさんのブログ)

chroniclex.hatenablog.com

 

<参考資料>

『大阪市政』(大阪市/編)
『新修大阪市史 第7巻』(新修大阪市史編纂委員会/編集)
『あったかもしれない日本』(橋爪紳也 著)
『国立国会図書館デジタルコレクション』
『日文研 所蔵地図データベース』
『神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ 新聞記事文庫』
『今昔マップ Web版』
木津川飛行場跡の碑[新木津川大橋北詰] 船町 1 , 2 - 大阪市
大阪港の港勢と建設の歴史(大阪市立大学)
Wikipedia
他ブログ数点

*1:ただし、東北では地震や冷害による凶作が続き未曾有の惨事に。

*2:現在の甲子園球場の南側

*3:現在の新明和工業。

*4:同じ頃の羽田空港と同規模。

大阪の「中華街」 後編ー川口を歩く

 時間が空いてしまいましたが、以前、大阪市西区の川口に戦前、「中華街」があったことを記事にまとめました。

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

前編はその歴史の概要を書きましたが、今回はフィールドワークと実際に川口を歩いてみました。その繁栄は空襲で灰と化したと言われていますが、もしかして、カケラでも残っているかもしれない、そんなわずかな期待を込めて。

 

 

周辺の中華料理屋

 

大阪川口中華料理屋

大阪川口北京料理

川口を南側から歩いてみると、何軒かの中華料理屋が目に入りました。
川口周辺には、中華料理屋がいくつか存在しているのですが、そろって川口華商たちの故郷である北京(華北)料理…。
訪問したのが正月で閉店していたため話は聞けなかったですが、「大阪DEEP案内」さんによると、中華街にあったという中華料理屋の子孫とのこと。

前編では、
「川口中華街は貿易拠点であり、美味い中華を食う所ではなかった」
と書きましたが、
「大正初年頃よりは東海楼・天華倶楽部等の料理店が中国人により経営せられ、町には華僑の店が頗(すこぶ)る多く」
と西区の公式史書にあり*1、川口には数軒の本格的中華料理レストランがあったことが判明しています。

『事変下の川口華商』には、


「(川口には)料理業者として東海楼、天仙閣、大東楼、天華倶楽部等あり、その他簡易食堂式のものが三軒ほどある」
 

とあり、『大阪案内』*2には、

『西区川口町は支那人の居住が多いだけに、支那料理店多く、支那人客が目立つ。ここで第一は東海楼で、客はほとんど支那人紳商。味では随一だろう。(中略)天仙閣には曽て支那人芸者をおいて、支那気分をあおったが、今濃艶な姿は見られない。

と書かれており、当時の様子がなんとなくうかがえます。

 

 

 

1938大阪市電話帳
昭和14年(1939)の電話帳でも確認できました。『事変下~』にある「簡易食堂式」のものは、電話帳には見当たりませんでした。

 

 

昭和13年大阪川口東海楼北京料理
こちらは昭和12年(1937)の「東海楼」の広告。

 

天華倶楽部

こちらは『大阪案内』にあった天華倶楽部の広告です。

 


「美味い中華を食いたければ川口へ行け」
戦前の大阪では、こんな言葉があったそうです。
中華といっても北京料理ですが、川口の中華レストランはそもそも大陸から来た商人のためのはず。客も川口華商か中流以上の日本人、特に中国人の舌を満足させる必要があるので、コックを大陸から呼び寄せたりと、かなりのクオリティだったのだと思われます。

 

厳密に言えば川口ではないものの、これらの中華料理屋も川口華商の繁栄の残滓といえるのかもしれません。

 

川口を歩く

 

大阪川口本田

川口の中華街は、中央大通りより北のエリアです。
現在でも国道172号線が本田地区を串刺しするように走っていますが、川口華商たちが行き交っていた時代も本田のメインロードでした。

 

昭和16年大阪川口華商

前回に出した、昭和16年(1941)の川口の風景です。
長いワンピース風の中国服を着た母子が道を渡ろうとし、大阪市電(路面電車)が道の真中を走っています。
写真奥の左側にうっすら見える四角い大きな建物は、現在でも残る住友倉庫の上屋です。

 

大阪川口住友倉庫

住友倉庫はコンクリート製で味気なく、外見だけはレトロ建築愛好家の興味をそそるものではありません。しかし歴史は意外に古く、昭和6年(1931)築です。なので上の写真の時には既に存在していたということ。


戦前の写真の場所は昔の地図から判明しているので、定点撮影を試みました。

 

大阪川口

同じような角度で撮影してみました(2019年)。めちゃわかりにくいですが、左側の高層マンション手前に先っちょだけ出ている白い建物が、住友倉庫です。

 

大阪西区川口

歩道橋からも撮影してみました。

 

 

唯一の行桟の遺構? 

 

日本聖公会川口基督教会
川口にある教会です。

これは「日本聖公会川口基督教会」(登録有形文化財)といい、竣工は大正9年(1920)です。「居留地時代の遺構」と書いている人もいますが、既に居留地としての機能を失い、中華街となっていた頃に建てられたものです。

しかし、今回のメインはこれではありません。

 

大阪川口アパート行桟

教会の向かい側には、こんな香ばしい建物が並んでいました。
川口華商の拠点だった「行桟(ハンサン)は、2階建てのアパート形式だったと文献にありますが、これはまさにビンゴ。
建物の構造からして大正末期~昭和初期のものなので、川口華商が活躍していた行桟の残骸に違いない。
正式名称はないようですが、これを「川口アパート(仮称)」と名付けましょう。

 

1948年大阪市西区川口空中写真

1948年の航空写真です。位置が変わっていない本田小学校を目安にすると、空襲でけっこうなエリアが焼けていることがわかります。

大阪市西区川口アパート航空写真

そんな中、「川口アパート(仮称)」が現在と同じ位置で写っていました。

 

事変下の川口華商行桟リスト
「川口アパート(仮称)」があったかつての住所は川口町。行桟と仮説を立てると、旧川口町にあった行桟は「公順桟」「永信桟」の二つ。ここのサイトによると「川口アパート」の建築年は大正10年(1921)ですが、「永信桟」の設立は昭和7年なので除外。よって「公順桟」一択となります。

 

大阪川口行桟川口華商

 

大阪川口華商建物

長屋風洋風建築とも言えるこの建物は、現存するだけでも9~10個の玄関があり、行桟と仮定してもかなり大規模だということがわかります。
「公順桟」は店員数30名、抱える華商数40、行桟としては3~4番目の規模の「大行桟」です。「川口アパート」の大きさに収まるでしょう。
「永信桟」は「公順桟」と同住所になっているため、「公順桟」の建物の一部を間借りしていたと推定できます。

この「川口アパート」、今でも個人宅ではなくオフィスとして使われていることからも、見方を変えれば現代に残るただ一つの現役行桟かもしれません。

 

 

大阪川口安治川岸

川口の安治川岸です。ここがかつての居留地の船着場で、今でも上屋(倉庫)が立ち並んでいます。
かつては川岸に、大型船が入れないために小舟のみだったものの、かつては川岸に船が並び貨物の出し入れで賑わっていた時があったのでしょう。

 

大阪川口倉庫

今でも倉庫街として現役といえば現役ではありますが、私が訪問した時は人の気配が全くなく、ただ河口から吹き付ける強い風の音だけが聞こえるだけでした。おそらく、正月だったからでしょう。少なくてもそう思いたい。

 

その中で、また面白そうな建物を発見。

大阪川口近代建築

「三榮工業株式会社」のビルヂングのようです。近代建築としてググってみると、建物の詳細は不明ながら、おそらく昭和初期に建てられたものとみえます。丸窓+曲線的を使った外観は、 昭和モダン建築として見ると毎度おなじみ。

ここのHPを覗いて沿革を見てみると、川口に移ったのが昭和44年(1969)。創業自体が戦後なので、おそらく空き家だったこの建築に入ったのでしょう。HPには、

 

三榮工業

こういう声もあるので、近代建築マニアのアンテナには引っかかっているのでしょう。しかし詳細は不明とのことで、いつ建てられたのか、設計はどこなのか、そして、三榮工業が入る前はどこの所有だったのかなど、謎は深まるばかり。

 いつもなら、三榮工業さんに直接連絡して詳細を聞くのですが、この様子だと知らないよう。

 

隠れた川口の生き証人?

 

大阪中国総領事館

(写真撮り損ねたので、Google mapのストリートビューから)


川口の対岸にある阿波座には現在、中国総領事館があります。
警察官がところどころに配備され少し物々しい雰囲気ですが、悪さをしなければ向こうから何か言われることはありません。写真も別に構わないのですが、やはり警察が目を光らせている中でカメラを向けることは、本能的に遠慮してしまいます。

 

中国総領事館前の旅行社

私のアンテナが反応したのは、むしろここ。領事館前の旅行社の中国行き航空料金を見て、久しぶりに北京のPM2.5を浴びてくるかと触手が伸びそうになりました(笑)

 

それはさておき、なんでこんなとこに領事館があるのか?
領事館がどこにあろうが自由ではないか。言われればそうなのですが、川口のチャイナタウンの歴史を知ると、何故領事館が、川口華商で賑わった地区の対面にあるのか。

これは偶然でしょうか。


中国総領事館もしかして、川口の中華街を知る間接的な証人なのかもしれません。これも中国領事館に聞いてみる手もあるのですが、政治的な問題が絡むこともあるので、腫れ物に触るような怖さもあることは事実です。よって、これは今後のペンディングとしておきましょう。

 

 

※参考資料

大阪市産業部貿易課編『事変下の川口華商』(昭和14年)
東出清光著『大阪案内』(昭和11年)
大阪市編『西区史 第二巻』
大阪市編『西区史 第三巻』
西口忠『川口華商の形成』
ブログ『旧川口居留地 - 大阪DEEP案内』

 

 

==こんな記事もあります。お一ついかがですか?==

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

*1:『西区史』第三巻 393頁

*2:東出清光著。昭和11年