昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

ブログ移転のお知らせ

私のTwitter垢を見てくれている方は、もうご存じでしょうが、今年の1月よりワードプレスにてブログを移転しました。

新しいブログのリンクは最後に貼りますが、今年よりブロガーとして本格的に稼働することになり、心機一転WPへの移動となりました。

別にはてなブログが不満だとか、そういう理由で出て行ったわけではありません。「賃貸マンション」から「郊外の一軒家」というマイホームを持ち、引っ越しただけと思っていただいて結構です。

はてなブログの記事は順次WPの方へ移していっているので、現在はここのブログからの転載が中心です。が、ちょくちょく新着書き下ろし記事も増やしていくので、よかったら新しいブログの方もよろしくお願い致します。

 

=新ブログ=

「野良学徒の歴史研究(とブログエッセイ)」

 

yonezawakoji.com

 

また、こちらもTwitter(のプロフ)を見ていただければわかりますが、ここでも書いていた台湾を中心とした東亜情勢のブログも別途作成しました。

 

=台湾史・東亜情勢ブログ=

「台湾史.jp」

taiwanhistoryjp.com

 

はてなの方は、ブログ記事を整理しWPに移転次第、閉めることと致します。

引っ越しのウキウキさの反面、長年住んだ家を離れる気分は幾ばくかの寂しさを感じますが、それも新たな旅立ちへの一時的な感情に過ぎない。これから本格的にやっていきますので、改めてよろしくお願い致します。

 

 

消えた遊廓・赤線跡をゆく-丹波篠山(京口新地)編

 

※注意※

このブログ記事は、2009年に前ブログにて書いた記事をやっつけ仕事で編集したものです。情報が古いのと、文章が拙い場合があるのであしからず。また、予告なしに文章が変わることもあります。

 

 


今回は、丹波篠山にあったという遊郭跡を書いてみようと思います。
丹波篠山というと今の篠山市、江戸時代は譜代の青山氏の城下町として栄えました。
今回の話題とは関係ないですが、東京にある地名の「青山」(←青山学院大学の「青山」ね)は、この青山氏の江戸屋敷があったことから名付けられました。
篠山の青山氏は分家筋だった記憶がありますが、まあそんなわけです…どんなわけや。

 

篠山の遊廓の歴史

今の篠山市は、武家屋敷が現在でも残る観光の町で、今は歓楽街とは無縁のせいか、遊廊とか赤線ってイメージが全く思い浮かばないですが、その昔、確かに遊郭は存在していました。

明治41年(1908)、篠山に歩兵第七十連隊が置かれました。過酷な訓練と兵の勇猛さで「丹波に鬼あり」と恐れられた連隊です。

「歩兵連隊あるとこ遊郭あり」

私が長年の遊廓探索で得た法則ですが、篠山にも例外なくどこかにあるだろう、と色々調べていたら、やはり存在していました。


篠山遊郭の正式名称は、「京口新地」と言います。
遊廓としての歴史は資料があまりないので詳細はわからないですが、少なくても歩兵第七十連隊が出来た時から、もしくは連隊の創設に合わせて作られたと推定できます。

 

大正5年1916篠山遊廓京口新地

大正5(1916)年の大正時代の篠山の地図です。
赤い○で囲んだ部分が篠山城、今も昔も篠山市の中心部ですが、この地図右下に「遊廓」と書かれた一画があり、この頃には地図にもはっきり遊廓があったことが伺えます。

大正2年(1913)発行の『篠山案内記』には、

「遊廓河原町京口橋より南一丁にあり、池上町に属し字湊と称す。<u>遊廓新設以来京口新地の名あり。歩兵七十連隊の新設に伴い始めて設置したるものにて明治44年7月より開業す」

(※原文旧仮名遣いを現代に読みやすいように筆者校正)

 

と簡単ながら遊廓のことも書かれています。
大正時代から篠山遊廓が「京口新地」と呼ばれていた証拠でもあるのですが、遊廓・赤線探索者が参考文献によく出す『全国遊廓案内』(昭和5年刊)には「糸口新地」と書かれています。

「京口」なんか「糸口」なんかどっちやねん!?とややこしいことになっていますが、『全国遊廓案内』は筆者の記述間違いが多く鵜呑みは厳禁な上に、後で紹介する『篠山町七十五年史』にも「京口新地」と明確に書かれているので、「京口」が正解。


また、『篠山案内記』には遊廓の他に中心部にある立町に花街、つまり芸者がいた所もあったことが記されとります。

「芸妓検番-立町の角南側にあり明治32年の創立なり。検番設立以前は各料理屋に芸妓を抱えたりしなり」

(※これも原文旧仮名遣いを読みやすいように校正)

 

これでわかることは、

1.芸妓がいる花街の方が遊廓より歴史が古い

2.場所によっては遊廓に芸妓がいたりと花街との区別がつきにくい所もあるが、
篠山は花街と遊廓の区別がはっきりついていた

こと。


京口新地を語るもう一つの貴重な資料が、『篠山町七十五年史』(1955刊)という歴史書。

個人が編集したものの当時の篠山町が出版しているので、準公式の町史のようなものですが、ここに京口新地のことが詳しく書かれています。


それによると、陸軍歩兵第七十連隊の設置により遊廓設置の動きが出たものの、候補地がいくつも上がった上に周りの村からの熱心な立候補もあったり、陸軍の「遊廓は兵営(駐屯地)から1里以上隔離すること」という条件もあって、結局は八上村糯ヶ坪地区に決定。

しかし、なぜ「風俗街」である遊廓を熱心に誘致するか言うと、遊廓は遊興税を払う義務があったので、誘致すると莫大な税金を落としてくれる遊廓は絶好の金脈。地域財政が潤う+地元に金を落としてくれて経済的にウハウハという事情があります。

 

明治41年の開設当初は「篠山楼」の一軒のみ、娼妓数7名というこじんまりとしたスタートだったものの、
半年後には、
・吉野楼 娼妓数14名
・小川楼 娼妓数6名
・彦根楼 娼妓数12名
・田中楼 娼妓数8名
・一力楼 娼妓数8名
・常盤楼 娼妓数5名
・金松楼 娼妓数2名
・高森楼 娼妓数2名
・鬼楽楼 娼妓数4名
・都 楼 娼妓数7名
・藤田楼 娼妓数5名
・戎 楼 娼妓数6名  計:79名

と、雨後のタケノコのように大増殖しています。
(篠山楼は閉店したのか改名したのか、存在しません)

娼妓の外出は監視付きで、一人で京口橋を渡ることは出来ませんでした。つまり篠山の中心部に行くには付添(監視)が必要だったということで、これは逃亡防止のため。
また、稼ぎ100円につき20円を前借金返済のため積み立てることを警察署長から言い渡されており、衣裳や部屋代、食費も警察の指導か、全部楼主持ちと決まっていました。
こう見ると、全国規模で俯瞰すると京口新地の遊女の待遇は悪くなかった方だったかもしれません。

 

また、『篠山七十五年史』には、興味深いことが書かれていました。
大正末期から始まった不況や、昭和の初めの大恐慌、さらにプラス、大阪の道頓堀が発祥のカフェー、今のキャバクラのご先祖様みたいなもの、が篠山にも進出、新しい娯楽として一世を風靡しました。

これで遊廓が大打撃を受け、
「篠山じゃ営業にならん!!」

と遊廓を宝塚に移す計画が持ち上がりましたが、許可されずお流れになった話もありました。これはどこの書物にも書かれていない、新しい事実です。
宝塚は今でこそ少女歌劇団(タカラヅカ)で知名度は全国区ですが、元々は温泉地で芸妓も確かいたはず。そこに仮に遊廓が移っていたら…歴史のIFは読者の皆さんにお任せします。

 

で、この『篠山町七十五年史』のもう一つ重要な面は、「昭和30年発行」ということ。
つまり、赤線が現役だった頃に書かれた書物なので、赤線時代の京口新地も現役ということ。
そのことも少しだけ書かれており、遊廓時代は衣食住は楼主持ちだったのが、赤線時代は全部女性持ち。分け前は女性:業者=6:4だったそうです。
つまり、京口新地は戦後も赤線として存続していたことが、この書物で明らかになりました。

そして、ついでに書いておくと、『篠山案内記』にも書いてあった篠山の芸妓は『篠山町七十五年史』にも記されています。

連隊が篠山に設置された明治41年((1908)の芸妓数80名がピークで、大正7(1918)年頃は35名、大正13(1924)年には25名、昭和3(1928)年にゃ18名と右肩下がり。
更に昭和2年にあったという「某重大事件」により検番の幹部全員が逮捕され、カフェーの進出や花街にも遊興税が導入されたのが追い打ちになり、戦争の色が濃くなったことがとどめになって、太平洋戦争寸前の昭和16(1941)年10月に解散
以後篠山に花街復活はおろか、芸者がいることはなかったそうです。
それに比べたら、遊廓はしたたかというか、原始的な欲に基づいた産業はしぶといというか、戦後も残ったことが生命力の強さを物語っています。

 

なお、くどいようですが『篠山七十五年史』は昭和30年刊行、3年後の売防法施行による赤線の消滅の顛末までは書かれていません。書かれていたら、編集者は予言者になってますしね(笑
別の資料によると、売防法施行寸前の昭和33年1月現在、業者数10軒、女性の数14名、引き手数13人。そのまま3月30日に解散となった模様です。

 

良くも悪くも地味~な篠山の、ふとしたら忘れられかねない遊廊跡がクローズアップされたのは、「阿部定事件」で有名になった阿部定が昔、ここで働いていたことから。

阿部定事件については話しだしたらキリがないので、興味ある方はググってくれたらいいのですが、その阿部定が半年だけながら、この篠山に在籍していたことが明らかになっています。
阿部定事件のことは、中学生の時からボンヤリとは知っていましたが、20年後くらい経ちまたそのことを、篠山で思いだすとは。
なお、阿部定のことは『篠山町七十五年史』にもチラリと、


「一世を鳴り響かせた『お定事件』の主、阿部定も、ここ大正楼の娼妓であったのである」


と書かれています。

 

京口新地を歩く

さて、概要はこれくらいにして、篠山遊郭、つまり「京口新地」を訪ねる旅に行ってみましょう。

なお、写真を含めた以下のレポートは2009年当時のものなので、そこはあしからず。

 

「京口新地」の跡は、篠山の中心部、篠山城跡から南東の方向にあります。
昔の遊廓は、たいてい街の中心部ではなく郊外に作られたことが多いのですが、この「京口新地」の位置が当時の町外れという意味も持っています。
他の遊廊跡も、すべてではないですが、位置から当時の市や町などの範囲を知ることが、ある程度わかったりします。

 

篠山遊廓京口新地1

「京口新地」は今はただの住宅街になっています。その昔の遊郭は遊女が逃げるのを防ぐためか、それとも別の「一般の地」と区別するためか、堀というか運河のようなもので歴然と区切られていたり、東京にあった洲崎遊廓のように、長崎の出島の如く海に突き出た埋立地に作られたり、旧飛田遊廊のように、外国の城塞都市の如き壁で囲まれていた所もありました。
この「京口新地」も、何か不自然な、田んぼに引く用水路でもなさそうな、明らかに人間が線を引いたような水路に囲まれた地域にあります。
アンテナの周波数をフルに立てながら地図を見ると、
「なんでこんなとこにこんな地形が?」
というものが、たまにあったりします。
そこが、意外と「そないなとこ」だったり。

 

篠山遊廓2

「京口新地」に限らず、篠山近辺は日本でも珍しくなった藁葺き屋根の家を見ることが出来ます。大阪生まれの私はこんな家を周囲に見ることなかったのですが、藁葺き屋根の家を見ると何か懐かしさを感じます。日本人としてのDNAがそうさせているのかはわかりませんが、不思議な気分でもあります。

「京口新地」自体はそれほどの大きさでもありません。大人の男が隅から隅まで歩いても、30分強あれば十分な大きさです。
なので、お目当ての建物を見つけるのにも、時間がかかることはありませんでした。

 

篠山遊廓大正楼阿部定

これがお目当ての大正楼でございます。
約80年前、阿部定が遊女としてこの篠山に流れ着き、そして確かにここで働いていた痕跡は、昭和、平成、そして21世紀になってもこの地に残っていました。
建物自体は老朽化が激しくて一部朽ち果てた部分もあり、現在は主のいない空き家のようですが、周囲の建物を圧倒するよーな存在感です。

これは画像の角度が悪いのですが、意外と奥行きもある建物で、一発で「それ」とわかるもの。
車で4~5時間かけてはるばるやって来たお目当ての割には、撮った写真がこの1枚だけだったという不思議な現象。かつてこの建物で数々の女性が泣いて笑って毎日を送ったと思うと、写真を撮る手も止まったのかもしれません。その時の心境は、その当時の自分しか知りません。

 

篠山京口新地遊廓

ある意味「大正楼」よりインパクトがあったのはこの建物。
「大正楼」が京口新地の中心にあったのに対して、これは片隅にポツンとあったようなものですが、果たしてこれが旧遊廓や赤線の建物かどうかは知りません。
しかしながら、藁葺き屋根の住宅の中に、明らかに個性的なこの建物、周囲に全く溶け込んでないところを見ると、昭和初期~戦後の遊郭・赤線建築の生き残りだと思います。

 

京口新地篠山遊廓大正楼

誰も住んでいる形跡がなかったので、中を玄関越しに撮影させてもらいましたが、中はまるで江戸川乱歩の小説に出てくる屋敷でした。
中は意外にも朽ち果てた感じもなく、画像にはないですが、ステンドグラスなどもそのまま残されているようで、保存状態は外観に比べたら非常に良い状態と言えると思います。
まだ修繕したら使えそうな家、金さえあったらリフォームして住んでみたい気分です。
…と書いたのが10年前でしたが、そんな金は10年経っても貯まる気配はありません(笑)



都市部や周囲のように、高度経済成長のドサクサや宅地開発、そして建物自体の老朽化で数多くの元遊郭・赤線の建物が消えていく中、篠山は建物の数自体は少なかったものの、タイムカプセルのように残ってました。
そして何より、篠山というとこが昔の日本の空気を色濃く残してる地域なのか、「京口新地」の周りの風景もそれほど変わっていないような気がします。
そして、空気も当時とそれほど変わらんのかな?とふと思うと、ここの遊女たちの声が風と共に聞こえてきそうで、ここを離れるのに後ろ髪を引かれる思いだった、というのは気のせいなのか?

 

遊郭のことは前ブログでけっこう書いていたのですが、これを機会にこのブログに順次転載していきます。ある意味お楽しみに。

 

~おまけ 篠山遊郭簡単年表~

※京口新地関連のものは青字、その他は色なしです。
新しいことがわかり次第随時追加、変更していきます。

■明治32(1899)年 町中心部の立町に篠山検番開設
■明治40(1907)年 歩兵第七十連隊、篠山に開設
■明治41(1908)年 篠山遊郭開設(妓楼1軒、娼妓7名)
■明治45(1912)末 妓楼10軒、娼妓数32名
■大正4(1915)年 篠山軽便鉄道開業(→昭和19年廃止)
■大正8(1919)末 妓楼11軒、娼妓数44名
■大正15(1926)年2月 遊廓廃止が議会に上がるが否決
■昭和4(1929)頃 妓楼2軒、娼妓数110名
■昭和7(1932)年頃 阿部定が篠山に娼妓として滞在
■昭和8(1933)年12月 遊廓を宝塚に移転する計画が上がるが許可されず
■昭和10(1935)年 娼妓総出の盆踊が行われたという
■昭和20(1945)年 敗戦

■昭和21(1946)年頃 赤線に移行か
■昭和30(1955)年 業者10軒、女性30名
■昭和33(1958)年1月 業者10軒、女性14人
■同年3月31日 売防法施行により解散・消滅

 

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三国志と三国演義

 

三国志三国演義

日本人は、いや、日本人男性は三国志が大好き。私もご多分に漏れない三国志好きです。中国留学時も三国志好きな男が多く、日夜三国志トークに花を咲かせていました。

 

三国志は中国の英雄伝。本場の中国人男性もみんな好きだろう。いや、嫌いなわけがないじゃない。
そんなwktkな気持ちを抱いて、中国人の友達(男)に告白しました。
「俺、おまえのこと…じゃなかった、三国志が好きなんだ」
さあいくらでも食いついてこい!期待値は最高潮。
が、彼の返事は、意外なものでした。


「ええ!あんなの好きなの?」


がっつり食いついてくるかと思っていた私は大ずっこけ。「あんなの」扱いかいな~!

 

当時(1994年)、中国の中央電視台で長編ドラマ『三国志』が放送されていました。おそらくCSの中国チャンネルでやっているあれです。
三国志好きとしては見逃すわけにはいかず、毎日夜9時以降はテレビに釘付けでした。
しかし、意外なことがわかりました。三国志を「あんなの」扱いした彼も、これを毎日見ていたのです。訳がわからない。
一連の話を、留学の先輩にぶつけてみました。
彼はあ~~!と口元で少し笑い、頷いていわく。

「君の思っとる三国志と、相手が想像してる三国志は違うよ」

どういうこっちゃ!?三国志の他に三国志があるっちゅーんか!?

 

二つの"三国志"

そもそも三国志とは、後漢の末期から魏・呉・蜀という3つの国に分かれ、天下統一にしのぎを削っていた時代の話で、西暦184年から280年の間日本は弥生時代の頃のことです。

中国にとって「現代」は歴史ではありません。彼らは前の王朝である「過去」を記すことがすなわち歴史。『三国志』も、三国時代の戦乱を統一した「晋」の陳寿によって編纂された歴史書です。
しかし、原本が記述があまりにシンプルすぎたので、裴松之(はいしょうし)という人が5世紀に注釈を加えました。現在では、陳寿の原本と裴松之の注釈本を合わせて、『三国志』と呼ばれています。

 

それから約1000年後、羅漢中という人物が『三国志』をベースに長編歴史小説を記した…とされています。
それを『三国演義』(以下『演義』)といいます*1

 

ここから日中の認識に大きな、かつ無意識的ズレが生じます。

オタク以外の日本人が指す"三国志"のほとんどは、実は後者の『演義』のこと。我々が慣れ親しんだ吉川英治の小説、横山光輝の漫画などは、すべて『演義』をたたき台にしています。

対して中国人は、『三国志』と『演義』は全くの別物と認識しています。詳しい日本人も、『正史』『演義』をきちんと分けています。
上のエピソードの彼が不思議な顔をしたのも、『歴史書』の方が好きなの?あんた変わってるね…という風に取ったからなのです。
彼が理学部数学科の学生、つまりガチ理系男子だったからかもしれないですが。


では、何故『三国志』好きが不思議なのか。
歴史書は、読んでみると実につまらない。直近の日本史の本格的歴史書に『昭和天皇実録』がありますが、読んでみると
「昭和○年○月○日 陛下はxxされた。xxについてこう仰られた」
の羅列のみ。
歴史書馴れしていないと、
「俺が知りたいのはそんなんちゃうねん!」
と怒ってしまいます。が、歴史書とは「俺が知りたいこと」を行間から推測する文字の集合体に過ぎません
そこからどんなエキスを絞り出すか…そこがヒストリア料理人である歴史家の腕の見せ所。ほとんど推理小説の世界です。

その素人が読むとつまらん歴史書をベースに、創作をふんだんに入れ、読んで楽しい英雄譚に仕上げたのが『演義』。くどいですが、日本人はこれを『三国志』、それも史実と誤認しているのです。
『演義』が全部史実なら、オカルト好き西洋人から

「諸葛孔明宇宙人説」

が出てきてもおかしくない。というか孔明宇宙人やろ。

そのため、中国人に「私は三国志が好きです」という場合、必ず
「我喜歓三国演義
としなければなりません。
「我喜歓三国志
だと、食いついてくるのは歴史学者だけの可能性が…

ここまでで、あれ?と気づいた方は偉い。
私は「三国演義」と書いています。しかし、"三国志"を読んだことがある人は、
「『三国志演義』じゃないのか!?」
と首をかしげるはず。
どちらが正解かは私からは言えませんが、少なくても中国(語圏)では『三国演義』であることに、少し注意が必要です。

 

『三国志』と日本とのかかわり

『三国志』(くどいですが、歴史書のほう)には、日本に関する記述が残っています。

『魏志倭人伝』…この名前を知らない人は、おそらくいないでしょう。
これ、実は『三国志』の一部なのです。
正式名称は、『三国志魏書第三十巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条』。これを略して『魏志倭人伝』。


倭の邪馬台国の女王卑弥呼が、魏・呉・蜀三国のうち魏に使いを送ったのは西暦238年。曹操の孫である曹叡が二代目皇帝(明帝)の頃です。
三国志の三傑である劉備・曹操は既に亡く*2、4年前(234年)には諸葛孔明も死亡、彼らの子や孫の世代となっていました。

卑弥呼はその後も何度か魏に使いを送り、『親魏倭王』の称号を下賜されたのですが、248年(諸説あり)に卑弥呼が亡くなると、「大乱」の後「倭の五王」による朝貢までの170年間、大陸との交流はいったん途絶えます。

 

三国志と卑弥呼。一見何の関係もなさそうな事柄が、実はかなり深く関係していたのです。


それでも"三国志"は面白い

『三国演義』はあくまで小説、『三国志』にはないフィクションが数多くあります。

 

三国演義桃園の誓い

劉備・関羽・張飛が義兄弟の契りを交わしたオープニング、「桃園の誓い」がそもそも創作だし、中盤のクライマックス「三顧の礼」も、全然ドラマチックではない。


そして何より、小説なので劉備という主人公がいます。彼は善、ライバル曹操などは悪と描かれ、特に曹操のワルっぷり描写は中国人にもアンチがいるほど徹底しています。
ただし、史実の曹操は文武両道、政治家・軍略家・詩人・編集者*3…どれを取っても一流のマルチ人間です。曹操こそ宇宙人説が出てきてもおかしくない。

対して、『三国志』の人物評価は比較的公平。
『演義』ではドラえもんかお前は状態の諸葛孔明ですら、


「政治は超一流だったけど、軍を動かすのは苦手だったようだ」
(『三国志蜀書諸葛亮伝』)


と、軍司令官としては落第に近い評価をしています。
ただし、『三国志』の記述はすべて正しいかというと、当時の政治事情も絡み疑わしいのも事実ですが、考証は専門研究者にお任せしましょう。

『三国志』と『演義』のどこがどう違うのか、ということを調べるだけでも、ちょっとした知の冒険。
歴史書だろうが小説だろうが、どちらも三国志といえば三国志。その面白さは変わらないし、今後も変わることはないでしょう。

 

==こんな記事もあります。よかったらどうですか?==

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

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*1:『演義』の現存する世界一古い写本(『三国志通俗演義』)は、日本の国立公文書館が所有しています。

*2:一世代分年が離れた呉の孫権は健在

*3:現代我々が読む『孫子の兵法』の原本は曹操が整理・編集したもの。

大阪新世界のレトロゲーセン「ザリガニ」で懐かしのゲームを満喫しよう!

以前、といっても1年以上前ですが、大阪新世界の「ジャンジャン横丁」にあった、「ザリガニ」という小さなゲーセンのことを書きました。 

大きなお友達たちの、日常生活で失った童心を揺さぶった記事でしたが、書いた後で知りました。ここはあくまで「支店」「本店」は別に、新世界の一角に存在することを。

 

記事を読んでもらうとわかりますが、「支店」も懐かしいと叫んでしまうほどのレトロゲーム目白押しです。

しかし「本店」はもっとすごい。ネット上にあったゲームのリストを見ただけでも、私の青春の約10ページが新世界の一角に沈殿している。ここは行く、這ってでも行かねばならぬ。

 

 

なおここからは、「支店」の方は今後「支店」とし、「本店」を「ザリガニ」とすることにします。

 

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「ザリガニ」の場所は、地下鉄と阪堺線恵美須町駅(恵美須町交差点)から通天閣へ続く道の、ちょうど中間に位置します。

 

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恵美須町駅から、通天閣を目印にこの道をまっすぐ行くと、

 

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この看板が目印!

 

大阪新世界のゲーセンザリガニ

向かって右側にこのような店が見えます。そこが「ザリガニ」。写真はビニールカーテンがあるので夏の写真です。

 

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これは去年(2017年)の写真で、2018年7月時点では筐体がかなり位置替えされています。しかし敷地が広くなったというわけではないので、基本的にこんな様子になっていると思っていただいて結構です。

中には1980~90年代に一斉を風靡したゲームがビッシリ。1970~80年代前半生まれの方は、子供の頃に見たあのゲーム、このゲームにおおはしゃぎ。目から汗が止まらない懐メロならぬ懐ゲーの博物館です。

客層は老若男女まんべんなくいるのですが、口コミで広がりつつあるのか、最近は外国人観光客の姿が増えています。外国人アレルギーを持ってる方は一度ここへいらっしゃい、ゲームで血まなこになったりはしゃいでいる姿を見ると、なんだ同じ人間じゃないかと感じますから。

 

ここからは、「ザリガニ」にはどんなゲームがあるのか軽く紹介を。

 

なお、設置ゲームは時期により違うそうなので、以下のゲームが今もあるとは限りません。

 

 

 

 

グラディウス

コナミが世に送り出した名作ゲームです。

上上下下左右左右BA・・・わかる人には、これで私が何を言おうとしているのかわかってしまう、国境も簡単に越えられる魔法のコマンドです。

このゲームは名作中の名作、ゲーム界の古典作品です。このゲームを知らないゲーム好きは、音楽家なのにベートーヴェンモーツァルト知らないの?と心得よ。

 

グラディウスシリーズ」は、アーケードだけでも9種類あるのですが、「ザリガニ」には、そんな本家シリーズ、つまり初代~Ⅳまで+「沙羅曼蛇」が揃い、今日も元気に稼働しています(2018年7月時点)。去年の一時期は幻のライフフォースまであったんですが、今はない模様。

 

グラディウス新世界ザリガニ

これが初代。昭和60年(1985)登場なので、今年でデビュー33年となります。

 

沙羅曼蛇

翌年に急遽作られた沙羅曼蛇です。元々は「グラディウス2」として開発されたものの、大人の事情で別作品となりました。その経緯もあり、「グラディウス1.25(そのこころは中途半端)」と口の悪い人は言います。

 

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しかし、内容は中途半端どころか、非常に完成度が高いゲームです。

初代と比べグラフィックが大幅に向上し、上のようなプロミネンス(炎)は当時のガキどもには衝撃と賞賛をもって迎えられました。

 

 

グラディウスⅡ新世界ザリガニ

完成度はシリーズNo.1ではないかと思う(※あくまで個人的感想です)グラディウスⅡ」です。同時期、MSXというパソコンでグラディウス2」が発売されていましたが、それとこれは全く別物のゲームです。

私のゲーム魔としての成長期に登場したこのゲーム、これに吸い取られた私のなけなしの100円玉は数知れず。しかし良い思い出しか残っていない、素晴らしいゲームでした。

 

グラディウスシリーズを名作たらしめているのは、内容もさることながら、音楽のクオリティの素晴さ。

ゲームの完成度はBGMも含まれます。ゲームをしていない人にはわからないと思いますが、いくらゲーム内容が素晴らしくても、音楽がヘボければ感情移入はできない。人間とは勝手なものですが、そんなものです。

この記事も、久しぶりにグラディウスⅡのサントラをようつべで聞きながら書いているのですが、30年以上経っても色あせていません。ボスの音楽が流れてくると何故かキーボードさばきが早くなり、反射神経が通常の2割増しになる自分がいる。

 

ちなみに、「グラディウスⅡ」のコイン投入音は、効果音として様々なTV番組で使われています。この音、たぶん一度は聞いたことがあると思いますよ。

www.youtube.com

 

グラディウスⅢ新世界ザリガニ

日本中がバブル景気で踊り狂っていた1989年に登場した、グラディウスⅢ」です。

これもそこそこはやった記憶があるのですが、内容まではさほど覚えていません。

 

グラディウスⅣ新世界ザリガニ

Ⅳに至ってはリアルでやったことすらないですし。よって、特筆すべき感想もありません。

 

 

パロディウス

上記グラディウスのパロディー版です。だからパロディウス

しかしパロディーと侮るべからず。自社ゲームを茶化しまくりながらも、内容も非常に充実した伝説の名作です。グラディウスシリーズがコナミ80年代後半の古典なら、パロディウスシリーズは90年代前半の古典と言えるでしょう。 

このゲームは何もかも斜め上なため、音楽もモーツアルトから軍艦マーチ、果ては自社のゲームまで、古今東西の音楽をパロっています。このゲームの音楽担当はさぞかし編曲が楽しかったでしょう。

 

また、ただパロっているだけでなく、「かわいく」パロってっているのも特徴。画面を見ればだいたい察しがつきますが、男性的なグラディウスに対し、かわいく女性的なのがパロディウス

この後リラックマくまモンなどのゆるキャラが出てくるのを考えると、パロディウスゆるキャラの先駆けだったのではないかと。

 

パロディウスだ新世界ザリガニ

パロディウスだ

(「パロディウスだ」(初代パロディウス)。貼り紙には1989年と書いていますが、1990年の間違い)

 

極上パロディウス新世界ザリガニ

(極上パロディウス。その横は実況パロディウスだったのですが、写真撮るの忘れてたorz)

 

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(セクシーパロディウス・・・なんですが何故か画面を撮っていなかった)

 

 

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もともと「パロディウス」は、MSXというパソコンで1988年に発売されたゲームでした。

その翌年にアーケードのパロディウスだ」(俗に初代)が登場、それから、「極上パロディウス」「セクシーパロディウス」「実況パロディウスと4作発表され、ファミコンを始め数々のゲーム機にも移植されました。

特に、初代のX68000*1への移植(1991年)は、当時の技術では絶対不可能と言われた完全移植を達成*2。30年経った現在でも、神ゲーとして元ユーザーたちの間で語り継がれています。

X68000については、こちらの記事をお読み下さい)

 

信じられないことに、「ザリガニ」にはパロディウスシリーズ4台が全員集合でした。グラディウスパロディウスの対面だけでも、長嶋茂雄王貞治まさかの現役復帰くらいのインパクトなのに。

パロディウスの満塁ホームランっぷりに理性のリミッターが外れた私は、一日パロディウスをやるハメに。そして我に返った頃、私の財布の中から樋口一葉が約1枚蒸発していました。

 

しかし!ここまでパロディウスを神推ししてテンションを上げたところで、悲報をお届けしないといけません。

何回か「ザリガニ」に通ったのですが、パロディウスを置いていたのは去年8~9月だけで、現在は置いていません。だから文章が過去形なのです。

せっかく一人で約1樋口使ったのに撤収とはけしからんですが、またいつか復活する時を待ちましょう。店主に復活希望リクエストしてみるか。・・・ってどないするんやろ? さあ(笑

「そんなん待てるかいな!今すぐやりたいんや!」という方は、PSPMSX版も含めた完全復刻版『パロディウスポータブル』が発売されています。

 

ちなみに、このゲームのSE(効果)音も、使い勝手があるのかテレビ等でよく耳にします。

これなんかよく聞くと思いますが、出典は初代パロディウスです。

(再生時、音量に注意してね)

www.youtube.com

 

ドルアーガの塔

 

ドルアーガの塔アーケード版ザリガニ

これも言わずと知れたゲームの古典名作です。昭和59年って、そうかこのゲームはこんなに古かったのかと、いまさらその古さに感銘を受けてしまいます。

実はこのゲーム、ゲーセンでやったことがありません。ファミコンではそれこそテレビにヒビが入るほどやったのですが、私と同世代の人は少なからずそうではないかなと。それどころか、

「『ドルアーガの塔』ってアーケード版なんてあったんや!」

と意外な驚きになっているかもしれません。はい、アーケード版が元祖でファミコン版は移植です。しかし私も人のことは言えません、間近でアーケード版を見たのは初めてだから。

 

ファミコン版はイヤになるほどやったので、さてゲーセンでもやるか!と筐体の前に座ったものの、我に返ってやめました。

その理由は・・・やったことがある人なら、この時点でお察し。

このゲーム、難易度が超高すぎて攻略本がないとクリアは無理なのです。ドラクエは攻略本なしでクリアできるけれど、ドルアーガの塔は無理無理、絶対無理。やれるものならやってみろ。

60面分のクリアと宝物出現条件を丸暗記できれば話は別ですが、その記憶力と脳細胞分裂を、できれば他の所で使いたい。

ようつべには、ステージすべてのお宝出現条件がプレイ画面で紹介されている素晴らしい動画があるので、次はそれを見ながら、スマホ片手にプレイすることにしましょう。

・・・しかしここでも悲報。2018年7月時点では遺憾ながら撤収されております。

 

 

ストリートファイター

80~90年代のゲームが並ぶ「ザリガニ」の中でも、平成3年(1991)登場と比較的新しい方のゲームです。略してスト2

説明不要のカプコンの名作ゲームです。たぶん、平成初期の10代20代男子の2人の1人はやったのではないでしょうか!?

 

新世界ザリガニスト2

ああ~懐かしいな~!

と思わず声を出してしまった人もいるのではないでしょうか。

 

スト2」にハマった人でも、意外に気づかないことが一つあったりします。

タイトルは「ストリートファイター」。ということは、ストリートファイター、つまり初代があったはず。これを指摘すると、

「あ、言われてみれば!」

ここで気づく人、意外に多いのです。

二代目がヒットしすぎて存在感がなくなってしまった、かわいそうな初代さん・・・。

 

 

新世界ザリガニストリートファイター

「ザリガニ」には、そんな悲劇の(?)初代もあったりします。画面に「Ⅱ」ってないでしょ?

スト2」今でも身体が波動拳昇龍拳を覚えているほどやりまくった口。ここは敢えてあまのじゃくに初代に手を出してみました。

・・・なるほど、「スト2」がヒットして初代が忘れられるわけやわ。体験して初めて納得できた事実。私の意図するところは、実際にプレイしてみて下さい(笑

 

 

いっき

「いっき」って・・・もしかしてあの・・・

この名前にドン引きし、過去のトラウマを思い出した人もいるでしょう。残念ながらその予測は当たりです。 

そう、メーカーさえもクソゲーと認めてしまった空前絶後のゲーム、「いっき」アーケード版が33年の眠りを経て今、大阪でよみがえる!!

 

新世界ザリガニいっき

ゲーム自体も筐体を含めて、よく30年以上も残っていたなと思うほど「国宝級」なのですが、

 

いっきアーケード版

このゲーム説明まで残っていたとな。それも申し訳なさげに「Sun Electronic Corp.」(サン電子とメーカー名まで残ってる。こっちの方が国宝級かも。

 

この「いっき」には、個人的な思い入れがあります。少しだけ私の人生の小咄にお付き合いを。

実は、私が初めて買ったファミコンソフトがこの「いっき」でした。確か1986年の正月前(=1985年12月)に買った記憶があるのですが、Wikipedia先生を覗くと記憶に間違いはなかったようです。

このファミコン版が、このゲームを伝説のクソゲーたらしめている主原因かと思われるのですが、とにかく周囲からの評判はボロカス。

「こんなクソゲー買ったお前もクソ」

買い主の人格まで全否定される始末。

しかし、Wikipadia先生を見てビックリ!なんとこのゲーム、100万本弱売れたらしい。100万本売ったクソゲーって、世界記録ではなかろうか。

 

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「いっき」の傷心冷めやらぬ翌月、お年玉で買ったのがボンバーマン(初代)」でした。

これも結果から書くと評判はボロカス。あのボンバーマンが酷評!?と驚く人いると思いますが、少なくとも私の周辺ではケチョンケチョンでした。

というか、同時期発売のコナミツインビーが名作すぎた不運も重なりました。

ツインビー」を買った友達はモテモテ。私はまたもや全人格否定。あの時どれだけ「ツインビー」を恨んだことか。

 

しかし、酷評だったこの二つ、方やメーカーの看板ゲームとしてシリーズ化された名作。方や「伝説のクソゲー」として、世代を超えて語り継がれる迷作となりました。30年以上語り継がれているゲームを2回連続でGETした意味では、私の目は狂っていなかったんじゃないかと。

 

涙に濡れた年末と正月も過ぎ、次こそはと次に買ったゲームが、忘れもしない1986年5月27日、あのドラゴンクエスト(初代)です。

今でこそ、知らんと言おうものなら一般常識を疑われる知名度ドラクエですが、当時は予約もなく近所の玩具店で、

ドラゴンクエストいっちょ!」

「あいよ!」

豆腐屋で豆腐を買うが如し。

だからブログのPVが伸びないという方も、これで元気を出しましょう。あのドラクエも、最初はこんなんだったのです。

こうして振り返ってみると、やはり私の目はクソではなかった。32年の時を経て自分に自信がつきました(笑)

 

閑話休題

なにせメーカーが認めたクソゲーファミコン版ではやったけれどゲーセン版は初体験。さてどんなクソっぷりだったのだろうかと、100円はたいて体験してみました。

結果は・・・やっぱしこれクソゲーやわ(笑

 

ちなみに、「いっき」を作った名古屋のサン電子という会社は、クソゲーを世に放った呪いで倒産したというウワサがネットで流れていますが、生きています。ちゃんとHPもあるので勝手に殺さないで下さい。


 

ファンタジーゾーン

 

セガファンタジーゾーン

ファンタジーゾーン新世界ザリガニ

SEGAことセガのゲームです。

ファミコンなど家庭用ゲーム機しか知らない人にとっては、セガというとゲーム界の覇王任天堂に何度も挑戦しては負け続ける、ドン・キホーテ的ゲーム機メーカーとしての印象が強いと思います。

しかし、あれだけ家庭用ゲーム機がコケても破産しなかったのは(結果的にスカンピンになって破産しかけたけど)アーケードゲームの名作をガンガン世に送り出し、それでペイしていたから。実際、ゲームソフトの開発技術はゲーム界ナンバー1じゃなかったのかと。

ファンタジーゾーンも、昭和61年(1986)にデビューした名作ゲームです。私ごときが何も書く余地がないほどに名作。画面も難易度も、そして音楽もすべて優秀。本当に非の打ち所がなさすぎて、かえって書く内容がありません。あまりに優等生すぎてかえって個性がないとは、このゲームのことを言うのかもしれない。

ただ、さすがは秀才ゲーム、30年以上経っても内容が色あせていない。難易度も前述のグラディウスなどと比べ低く、小学生から大人までまんべんなく楽しめるという意味では、名作中の名作と言っていいのではないでしょうか。

 

アフターバーナー(After Burner)

ファンタジーゾーンに同じSEGAが、昭和62年(1987)に製作した3Dシューティングゲームです。これも名作中の名作、ゲーム界に大きな風穴を開けたと言って良いほど、子供たちがこのゲームにかじりつきました。

おまけに音楽も傑作。正直、内容より音楽の方が好きという人も、私を含めて少なからずいると思います。かく言う私は、アフターバーナーのサントラを車のHDDに入れ、運転時に聞いていたりします。高速道路に乗った時に聞こうものなら、前の車をロックオンしてミサイルで撃破してやろうかと思うこともあります。 

 

そんな「アフターバーナー」まで、「ザリガニ」にはあったのです!今年に入って入荷したものですが、これもこれでよく残ってたもんだ。

さて、ゲーム好きなお友達必見!アフターバーナーが今また通天閣の下でよみがえる!

 

 

 

新世界ザリガニアフターバーナー

あ、あれ?「アフターバーナー」ってこんなんだったっけ?なんだか記憶と全然違うぞ?これを見ている10人中7人くらいは、現在頭が混乱していると思います。

 

確かアフターバーナーの筐体って・・・

 

afterburner筐体SEGA

こんなのや、

 

セガアフターバーナーⅡ筐体

こんなのだったはずなんじゃ!?

あのデカい筐体も、30年の技術進化でこんなにコンパクトになったのです…。

 

なわけない。

なんてかわいくなったんだ感満載の筐体になっちゃいましたが、当然ちゃんとプレイできます。

 私も懐かしさのあまりプレイしてみましたが、年齢には勝てないか、反射神経がついて行けませんでした。頭の中ではミサイルをヒョイヒョイ避けてるはずやのに、脳と末梢神経の指令の伝達が上手くいっていないようです(笑

 

 

 

古すぎる、あまりに古すぎるゲームたち

「ザリガニ」には、登録無形文化財として文化庁に申請した方がいいのではないか!?という超レトロゲームまであります。

エントリーNo.1 空手道

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 「ザリガニ」の入口には、

「世界初の対戦格闘ゲームあります」

奥さん、活きのいい魚が入りましたぜ!と大々的に謳っています。

 

 

そのゲームがこちら!

 

空手道新世界ザリガニ

「対戦 空手道」

というゲームです。

 

空手道ゲーム

 レトロすぎて血圧上昇不可避。よくこんなゲームがこの世に残っていたなと、神に向かって十字を切りたいほどの骨董品です。懐かしさのあまり涙に濡れて画面が見えません。

ゲーム内容は、空手の修行や試合を通して強くなっていくという、RPGの要素もなくにしもあらずの格闘ゲーム・・・と言えるのかは個人的にはビミョーですが、少なくとも「カラテカ(わかる人だけわかればよろしいw)よりかは面白いことは確かです。

 

エントリーNo.2 River Patrol

先月に「ザリガニ」に来てみると、新入りのゲームが一つ、プレイ客を待ちわびていました。

ほう、新入りかい?

遊郭の顔見世よろしくそのゲームをちょっと覗いてみると・・・

 

riverpatrol新世界ザリガニ

ナンデスカコレハ!!!

あまりに懐かしすぎて口あんぐり、出てくる言葉が何もありません。筐体も年季が入りすぎていて、ちゃんと動くの?と心配にすらなってくる老兵です。

「River Patrol(リバーパトロール)」というゲームなのですが、知ってる人います?

私は知っています。家の近くの駄菓子屋にあった記憶があるゲームで、当時6歳か7歳。筐体の前で、私は走馬灯のように己の記憶を振り返ってみたのですが、やはり間違いないと思う・・・。

 

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そしてこれは1981年製。1981年といえば昭和56年。やはり記憶に間違いはなさそうです。

ここまで来ると絶滅危惧種ではなく、絶滅したと思われた生物が生きていた状態。クニマスを発見したさかなクンの喜びがわかった気がします。

 

ダライアス

「ザリガニ」が神推し中のゲームがあります。それがダライアス

 

ダライアスタイトーザリガニ

内容はただのシューティングゲームですが、ダライアスの個性はこの筐体。ディスプレイを贅沢に3つも使った、まことに化物な筐体なのです。

「ジオンの精神が形になったようだ」はガンダム0083アナベル・ガトーのセリフですが、ダライアスは「バブル景気が形になったようだ」と言いたくなる筐体。進撃の巨人ならぬ進撃のダライアス

タイトーはこの他にも、ニンジャウォーリアーズ「ミッドナイト・ランディング」などのバブリー筐体を輩出しましたが、当時これ1台なんぼやったんやろか?

こんな電気代バカ食い不可避のモンスターが、町中のゲーセンにあった・・・それがバブルという時代だったのです。

 

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このゲームを作ったメーカーは、TAITO(タイトーという大手ゲーム会社でした。タイトーは元々、ロシア革命でハルピン経由で日本に亡命してきたユダヤウクライナ人が作った「太東貿易」という会社で、会社名も「極東ユダヤ人」という意味が込められています。

 

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また、「日本中から100円玉が消えた」と社会現象になったスペースインベーダーを作った会社でもあります。

ダライアス」の怪物筐体を作ったタイトーも、バブル崩壊でコケたか、2,000年代は段違いの格下だったゲーム会社の子会社として、ゲーム開発もストップ。その姿は、かつてゲーム界を牽引していたなど到底想像できない瀕死の病人。ついには企業の生命維持装置と言える資本金もがっぽり減らされ、会社としての命運はもはやこれまで…。

と思われた時、ついにゲームメーカーとして再び復活するという朗報が。その復活第一弾が、この「ダライアス」。今年、「ザリガニ」にこの筐体がデビューしたのも、タイトーの復活を祝してのことでしょうか。まあ違うと思うけど。

 

これもこれで、バブル崩壊で捨てられた筐体はずなのによく残ってたなと感心してしまうのですが、

 

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どこかで長い眠りについていたようです。縄文時代の竪穴式住居を復元しました!的扱いですな。

 

バブルを体感したことがない平成生まれの人は、是非「ザリガニ」でこのジオンの精神が・・・やなかった、バブル経済が形となったゲームに1980年代を感じては如何でしょうか。おっさんどもがガキだった頃こんな贅沢なゲームをやってたのかと、日本経済史の現物標本的存在、それがダライアスです。

 

 

 その他のゲームたち

 

文字数の都合、というより、執筆者がハッスルしすぎて執筆疲れを起こしてしまい、詳細を省略したゲームたちもあります。

 

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「支店」の方にもあったゼビウス

 

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懐かしいな~と弾を撃ちまくっていたらすぐ弾切れになり、すぐ終了した「怒(いかり)」

弾数制限ありって、こっちが「怒」たいわ。

 

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これも名作、R-TYPE

 

ザリガニスパルタンX

スパルタンX

これも懐かしい、スパルタンXファミコンでやった人も多いと思いますが、こちらがオリジナルです。こちらも数十年ぶりにやってみたのですが、ゲーセン版ってファミコン版に比べて難易度高めですな!?

 

ザリガニ魔界村

こちらもかなりやりまくった人、多いのではないでしょうか、魔界村

 

 

ザリガニくにおくん

つっぱり学生がすごく時代を感じさせる熱血硬派くにおくん
くにおくんがあれば・・・

 

熱血高校ドッジボール部ザリガニ

熱血高校ドッジボール部もあります!

 

 

 

バーチャファイター

3D格闘ゲームの火付け役、バーチャファイターです。このゲームが出た時、私は中国在住。週末は中国人と第二次支那事変(=対戦)をやっていましたが、それも20年前になったのかと、昔が遠くなりにけり。

 

 

そして極めつけは!

 

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 ベラボー参上!!

 

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ナムコ「ベラボーマン」というゲームです。

Namcoの精神が形と…ではなく、ナムコらしいコミカルで誰でも楽しめるアクションゲームです。知る人ぞ知るゲームですが、知っている人はいるかな?

筐体の説明によると、日本でも数台しか残っていない絶滅危惧種らしく、ワシントン条約により輸出が禁止されております。

 

他にも、

究極タイガー

・SAMURAI SPIRITS

マリオブラザーズ

パックマン

・キャラクシアン

ドンキーコング

クレイジークライマー

などなど、紹介しきれないゲームが目白押し。もうこれ以上紹介は無理、気になる方はどうぞ現地で実際に確認してみて下さい。

ただし!重要なのでもう一度いいます。紹介したゲームが今もあるとは限りません。

 

 レトロなゲームは、今や家庭用ゲーム機で「完全復刻版」が発売されているものや、スマホアプリでプレイできるものも多くなっています。かつての名作ゲームが電気代のみでプレイできる「完全復刻版」は、それはそれで懐かしくも面白い。

が、アーケードゲームの醍醐味は、やはりあの筐体とにらめっこしながらプレイすること。懐かしさ補正も大幅プラスされます。

 

アラフォー以上の方、子供の時のひそかな夢だった、

「筐体の上に100円玉を山積みして、お腹いっぱいゲームに浸る」

を、ここ「ザリガニ」で叶えてみませんか?

もしくは、物心ついた子供を連れて、

「お父さんがお前くらいの頃、このゲームでよく遊んだんだよ」

と親子で80~90'sゲームを満喫してみませんか?

我々がどこかへ置き忘れた童心と、懐かしの昭和のあの時を取り戻しに・・・。

 

「ザリガニ」の営業時間などはこちら!

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おまけ:その他レトロゲーセンの紹介

なお、新世界界隈には「ザリガニ」の他にいくつかレトロゲーセンがあります。

ジャンジャン横丁の中には、「かすが」というこちらも規模が大きいゲーセンがあります。

こちらもこちらで、「出たなツインビー源平討魔伝」「電車でGO!」など、在りし日のゲーマーにはお涙頂戴の懐ゲーが揃っているので、「ザリガニ」とのはしごをすれば、精神年齢は30歳は若返ることでしょう!?

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

また、こんなゲーセンもあります。

 

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「ニュースター」というのが名前なんだと思いますが、入口からしてなんだか怪しそう・・・いえいえ、中はちゃんとゲーセンです。

正直、ゲームは「ザリガニ」や「かすが」のように特筆すべきものがなかったのですが、1ゲーム50円というのが嬉しいじゃありませんか。

 

地元大阪の人だけではありません。大阪に帰省の方も、観光に来る方も、新世界でレトロゲーセン三昧というもう一つの観光は如何でしょうか。レトロゲーセンのご訪問をお待ちしております。お金落として行ってや~。

 

★重要なお知らせ★

ブログをワードプレスに移転しました。

記事は順次新ブログへ引っ越し中ですが、よかったらこちらもどうぞ!

野良学徒の歴史研究
https://yonezawakoji.com/

 

*1:シャープが製造販売していたパソコン。アーケードゲームと同じCPUを採用し、移植ゲームに定評があった。

*2:音楽が多少劣っているが許容範囲。

中国語の「勉強」

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中国語という言語は、基本的に漢字を使います。

今の情報化時代、
「え、そうなの?」
と目からうろこが落ちる人は、まずいないと思います。

じゃあ、どれくらい漢字を使うの?というと。それがすべて漢字です。漢字アレルギーの人は即死するほど漢字です。

さすがにCDやDVDはそのままですが、それでも「光盤」「数字視頻光盤」という、きちんとした正式名称(?)があります。

 

漢字の便利なところは、視覚的に意味がわかるということです。これは「表意文字」といい、文字が意味を表すもの。アートというか、象形文字として理解することができます。

その反対として、「表音文字」というものがあります。これは我々が日常ええ使う平仮名や片仮名、アルファベットなどが該当します。

漢字が表意文字であるメリットは、たとえば「文」という文字があると、日本人も中国人も「文」が文であると理解し、その認識が一致することです。

 

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たとえば、町並みを歩いていると

「洗衣店」

という看板を見つけたとします。「洗衣店」は日本語ではなく中国語なので、日本人には日本語としてインプットされていません。

しかし、漢字を見て

「衣を洗う店・・・衣服を洗う店だからクリーニング屋か!」

と連想することは、十分可能です。日本人なら漢字がひととおり理解できる中学生以上なら、余裕で連想できるでしょう。

 

日本語と中国語の単語の意味は、熟語においてもほぼ一致します。「警察」と書かれたベストを着た制服の人を見たら、日本人も中国人も台湾人も皆、警察(官)だと認識します。誰も「消防」だなんだと見当違いを起こすことはありません。

 

しかし、日本語と中国語の漢字の意味はだいたい同じといっても、すべてが違うわけではありません。中には同じ漢字なのに意味やニュアンスが全く違う場合があり、それが原因で笑いの種になる勘違いを起こしたりします。

 

我結束了作業。

 

これは中国語なのですが、中国語がわからない日本人がこの漢字を見て想像する意味は、おそらくこうなると思います。

「なにかやらなければならない仕事(作業)があって、そのために結束する必要があった。『了』がついているから、それが完了した」

しかしこの意味は、

「私は宿題をやり終えた」

と実にシンプルなのです。

この場合、

結束:終わる(英語のfinish)

作業:宿題(同homework)

と、日本語での意味と全く違い、漢字であれこれと類推せざるを得なかったということです。

 

中国語で「勉強する」は、「学(習)」「読書」などがよく使われます。「学習」なら視覚的にもすぐにわかります。

でも、「読書」もこうして書いてみると日本語と意味が違ってきますね。

 

我在東京大学読書。

 

となると、日本人はふつう、

「東大の図書館で読書でもしてきたのだな」

と解釈してしまいますが、さにあらず。

正しい意味は、

「私は東大で勉強しています」

転じて、

「私は東大の学生です」

となるのです。

 

では、中国語で「勉強」は使わないのか。日本独特の熟語なのか。

答えはNO。「勉強」も中国語ではよく使われます。ただし、日本語の意味とは全く異なり、使い方も全く違ってきます。

中国語での「勉強」の意味は、「いやいや~する」「無理に~させる」というニュアンスとなります。「

本当はやりたくないんだけど、第三者から圧力がかかったりどうしてもやらざるを得ない。しゃーないわ、やるか・・・。

強いて言えば、こんなニュアンスとなります。

 

我勉強答応把新書借給他看三天

 

「勉強」を使った典型的な文です。なお、中国語の勉強ブログではないので、中国語がわからない人でもわかるよう、簡体字や旧字体(繁体字)は使っていません。

これは、「彼はしぶしぶ新しい本を彼に3日間貸した」という意味になりますが、「勉強」を使うことによって、本当は貸したくないんだけどな・・・と嫌々感を出している文です。この嫌々感を出したい時、「勉強」を使います。

 

 

她不愿意去就算了,不要勉强她。

 

この場合の「勉強」は「無理強いさせる」というニュアンスとなり、全文は「彼女が行きたくないというならそれでいい。無理強いさせるな」という意味となります。

これを日本語の「勉強」として解釈してしまうと、

「彼女を勉強させるな」

という意味になり、何だこりゃ?と混乱するのみです。

 

日本語で、「勉強」するにはもう一つ、使い方があります。

「これ5つ買うさかい、勉強してーなー」

大阪名物(?)値引き交渉ではよく使われるフレーズですが、この「勉強」は値引きのこと。

「勉強する」がなぜ「まける(値引き)」なのか。幼い頃からの疑問でした。

それがなんとなくわかった・・・気がしたのは、中国語を勉強した後のこと。

「無理強いする」というニュアンスで解釈すれば、値引きの「勉強」は、

「ホンマは無理やろうけど、無理を承知でなんとかして値引きしてほしいな」

という意味が込められているのではないか。だから「勉強」が使われているのかもしれない。

もちろん、これはただの私の仮説です。しかし、こう解釈すると「勉強してーなー」がなんとなくしっくりくるような気がする。

 

中国に留学していた頃、留学生初級クラス担当の先生がいました。彼女は染め物の勉強のために京都に留学していたことがあり、日本語、というか関西弁がペラペラ。本来は大学の芸術学部の専任講師なのですが、日本語が話せるという理由だけで留学生の中国語教育担当を「勉強」させられたそうな。この「勉強」は、

「わたし、中国語が専門じゃないんだけど…」

という嫌々感なのは、記事を読んだ方にはわかると思います。

 

その先生がある日、唐突に、

「日本に行って『勉強』の本当の意味がわかったの」

こんなことを言い出したかと思えば、次の一言が、

「『勉強』って、いやいやするものだって」

日本語と中国語の「勉強」の意味の違いを踏まえたユーモアでした。たぶん、先生はこのジョークをどこかで思い浮かべ、言ってみたかったのでしょう。顔はヘラヘラ笑っていました。

 

==こんな記事も如何でしょうか。よかったらどうぞ==

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モダンガール、エアガール…昭和の「尖端ガール」たち

昭和初期とはどんな時代か。これは政治・経済・文化・・・人によって切り口が変化します。それが歴史の多様性というもので、見方は一つではありません。

その中でも、社会史・女性史という点という観点から見ると、女性の社会進出が急激に広まった時代という見方があります。

 

女性は家庭に入り家事をやっていればいい・・・そんな古い価値観にヒビが入り始めたのは1920年代、大正末期のこと。

本格的な社会進出が始まったのは昭和初期の5~6年頃ですが、その間接的な証拠に、女性の社会進出をもじった新語が、この時代に雨後の竹の子の如く出現しました。1930年前後の流行語辞典を見てみると、

「○○ガール」

という言葉が山ほどあらわれます。1920年代の辞書には全くなく、明らかにこの時代に生まれた言葉ということを物語っています。

 

大手を振って社会に出る女性たちを世間は、

「尖端ガール」

と呼んでいました。

「尖端ガール」って何やねんと解釈はなかなか難しいですが、要は「流行にのったファッショナブルでナウい女性」ということ。え?「ナウい」って何?ならば「トレンディーな女性」のことや・・・って余計わからなくなってきた?

まあ、どんなものかは後でわかることでしょう。

 

ところで、こういうものがあります。

 

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 『実業の日本』昭和6年新年号掲載「女商売新旧番付」という、明治(左)と昭和(右)の女性職業の新旧を番付風に描いたものです。

上の番付を見ても、明治時代の職業は「女工」「芸者」「女中」など古びた単語が並びますが、いちいち説明しなくともどんな仕事内容か、一般常識で理解できます。「びらまき女」でさえ、すぐイメージがつくでしょ(笑

それに対し、昭和の新職業は、「アナウンサー」やら「ピアニスト」などはさておき、ガールばかりで何かよくわからないのが多いですね。

しかし、今に通じる職業がこの時代に数々出てきます。

一例が、二段目にある「美容家」。これは現在の美容師。古い方に「髪結い」とありますが、かつてはそう呼ばれた賤業でした。ところが、女性のファッションスタイルが多様化したこの時代、「最尖端」な職業として注目され始めました。美容家と書かれているのは、まだ美容師という言葉が定着していなかったということです。

 

ちなみに、これから「○○ガール」が山ほど出てきます。が、これはフィクションではありません、すべて史実です。

 

 

華麗なる尖端ガールたち

 

では、尖端ガールはどんなものがあったのか。

 

モダンガール

 

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これは歴史に疎くても、一度は聞いたことがあると思います。

関東大震災の衝撃冷めやまぬ大正末頃の東京銀座、一部の女性たちが、当時「尖端」だった洋服をまとい街を歩きはじめました。実は「尖端」とは「モダンな」というニュアンス。「尖端ガール」は大なり小なり「モダンガール」という意味に通じるのです。

当時、洋服といえば子供服に限られ、大人は着物が当然の時代でした。洋服で町中を歩くのは、今で言えばコスプレ感覚。

モダンガールが「尖端」なところは、服装だけではありません。髪の毛をばっさり切り、今でいうショートボブくらいの短さにしたのです。
「断髪」と当時呼んだのですが、これは女性の髪は長いというのが普遍の真理だった日本の女性史・美容史の革命でした。

モダンガール=洋装というイメージがありますが、和服のモダンガールも存在していました。といっても、街角では洋服でおめかししても、家では着物だったという女性が大多数だったそうです。

では、「和服姿のモダンガール」ってなんじゃ!?と問われれば簡単。髪の毛を断髪(ショートカット)、または結ったり束ねていなければすなわちモダンガールなのです。つまり、モダンガールか否かの基準はファッションではなく、髪型だったと。


髪の毛が短いと、髪型をキープするのに手間暇お金がかかります。よっておしゃれのためのプロが必要となる。そこで生まれたのが美容師や、後に触れる「マニキュアガール」という流れです。
そこにお金をかけられるということは、それだけ豊かになったというあらわれです。 

のちに「モダンボーイ」も出現し、総称で「モガモボ」と略されて呼ばれるようになります。

「モボとモガ、どちらが先だったの?」

という素朴な疑問がありますが、明らかにモガが先。モボはモガから生まれた子どもです。

これについては百聞は一見にしかず。「モガ」というものはどんなものか、写真でどうぞ。

 

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(かなり「尖端的」なモガ。これで1920年代の約100年前)

 

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(大阪道頓堀を歩くモガ。1928~29年頃)

 

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(『阪急百貨店50年史』より)

昭和5年(1930)、車の前での一枚。 

 

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(市電に乗ろうとする東京のモガ。1932年) 

 

1936堀野正雄撮影風

(1936年、飛行機に乗ろうとして風にあおられるモガ。堀野正雄撮影)

 

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(千人針を縫うモガたち。1937年)

 

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(銀座の喫茶店、「コロンバン」の窓から見えたモガ。1937年)

 

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(『贅沢は敵だ!』の標語の前を通るモガ。1940年7月)

 

 

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(対米戦争勃発の新聞記事を見るモガ。1941年12月) 

 

しかし、こういう写真を見ると、いつも思うことがあります。写真に写る彼女らは、あの戦争を生き抜いたのだろうかと。

 

モダンガール旋風は、内地(日本)を越えて外地へも広まりました。 

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戦前の朝鮮鉄道には、京城(ソウル)~釜山間に「あかつき」という快速急行が走っていました。どちらかの駅でしょうか、見送りの女性も見送られる方もモダンガールです。

 

エレベーターガール

昭和初期に生まれた「◯◯ガール」の中で唯一、今でも使われている名称です。

エレベーターガールは、昭和初期の「もっとも尖端的な職業」として大人気の花形職業でした。だって、制服を着ただけで「モダンガール」をやれるのだから。

日本で初めてエレベーターガールを採用した松坂屋のHPによると、最初は「昇降機ガール」と呼ばれていたそうです。

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(1930年代、大阪心斎橋大丸のエレベーターガール)

 

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昭和8年(1933)8月19日『大阪毎日』に掲載された、京阪デパートのエレベーターガール募集広告です。細かいところですが、「エ」が「ヱ」になってますね。

 

また、エレベーターガールがいればエスカレーターガールもいました。

 

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(『神戸100年写真集』より)

昭和11年、阪急電鉄が念願の神戸市内(三宮)延長を完成させたのですが、ホームまでの階段に「動く階段」ことエスカレーターが敷設されました。写真の階段の先は、阪急線のプラットホームです。

たかがエスカレーターにガールは要らんやろと思うのですが、当時は珍しい分危険を伴ったのでしょうか。

写真では確認していませんが、同時期に開通した阪神電鉄元町駅にもエスカレーターガールがいたそうです。

 

 

マッチガール

『マッチ売りの少女』という、涙腺崩壊不可避の悲しい物語がありましたね。
あれは童話ですが、『マッチ売りの少女』は実在していました。
それが、番付の上位にもいる「マッチガール」でした。
よく考えたら、「マッチガール」を和訳すると「マッチ売りの少女」でしょ?
童話と違い、「マッチガール」は喫茶店の中などでマッチを売り、寒くてひもじい…という悲しい思いはしないということ。


ところで、なんでマッチなのか。当時のタバコは男子の嗜み、吸っていない方が男らしくないと敬遠されていました。これは私が小学生だった昭和50年代まで常識として社会に浸透し、私も「大人への階段」として喫煙したようなものでした。あ、今はすっかり禁煙者です。

それはさておき、戦前はライターもない時代、タバコはみんな吸うのでマッチが必然的に売れます。現在の街角のティッシュ配りのような「マッチ配り」もありました。当然、マッチにはお店や企業の広告が入っています。

 

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喫茶店では、マッチならぬ「タバコ売りの少女」もいました。人呼んで「たばこガール」。写真は昭和10年のもので、白黒写真をカラー化したもの。

 

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服が同じなので上の写真と同じ「たばこガール」でしょう。

残念ながら「マッチガール」の写真が見つからなかったので、「たばこガール」で我慢してください。

 

 

 

エアガール

昭和に入り大きく進化・発展したもの・・・それは飛行機。

「エア」はAirなので飛行機のガール・・・まあお察しのとおりスッチー・・・というと年齢がバレるか、CA(客室乗務員)です。

日本で「エアガール」を初めて採用したのは、「日本航空輸送」という会社でした。昭和6年(1931)2月5日に一次試験が行われ、応募者141人から10人に絞られました。3月に二次試験が行われた結果、女学校卒業予定の3人が日本初のCAとして採用されました。

めでたく決まったエアガールですが、実は裏話があります。

実はこの3人、翌月の4月には退職してしまいます。

理由は給料の安さ。給料は「フライト1往復あたり3円」だったのですが、1日一便として20日働けば月60円。いや、10日働いて30円ゲットでも、当時の女性としては十分。月給10~15円が相場だった当時の女性にしては、破格の給料だったはずなのですが…。おそらくですが、飛行機の性能も良くなく、給料に見合わないほど当時の空の旅は過酷かつ危険だったのでしょう。なにせ海軍パイロット養成学校が、「人類虐殺学校」と陰口を叩かれたほど死亡率が高かった時代でしたから。

 

それからエアガールの空白時代が続き、本格かつ大量採用となったのは昭和12年(1937)、国際線が就航し始めた頃でした。

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いずれも昭和15年(1940)前後、大日本航空のエアガールたちです。

 

また、空にガールあれば海にもガールあり。

この当時は船も重要かつ常用される交通手段の一つでしたが、そこに現れたのが!

 

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「マリンガール」でした。

彼女らは乗務員として船に乗り込み、客向けのサービスを行っていました。

 

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 こちらは昭和15年(1940)、琵琶湖遊覧船のガイドをする「マリンガール」です。

 

 

ガソリンガール

モータリゼーションといえば、戦後の昭和40年代を思い浮かべる人が多いと思います。高嶺の花だった乗用車が大衆化した時代です。

しかし、大衆化とは言い難かったものの、昭和初期にも小さなモータリゼーションが日本で起きていました。乗用車の増加で「渋滞」という言葉が生まれ、トヨタや日産自動車が生まれたのもこの頃です。

車の追加によって増えるもの、それはガソリンスタンド。もうこれでお察しでしょう。

 

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(1930年、女学生風ガソリンガール)

 

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(1935年、神戸市内のガソリンガール)

 

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(時期不明、和服姿のガソリンガール。和服はちょっとやりにくそうw)

 

そう、ガソリンスタンドの女性店員が「ガソリンガール」なのです。

しかし、世のオスどもはメスに弱いのは、人類がいくら進化しても変わらない法則。
「ガソリンガールが給油してさしあげるわよ♪ 窓も拭くわよ(ハァト」
と、美人な店員がいる所には車が殺到したそうな。

このガソリンガールはかなり人気と需要があった証拠に、上の番付では堂々の関脇に位置しています。

 

 

マネキンガール

今でいうモデルです。しかし、ただのモデルではありません。

デパートやブティックにあるマネキン。当然今は人形を使っています。

しかし、昔は生身の人間を使っていました。

 

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こんな感じです。

 

 

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これはマネキンガールの面接会場なのですが、作家の久米正雄(右端)が試験官をしています。

 

 

ショップガール

 

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(1935年、都内某デパートのネクタイ売り場のショップガール)

お店の売り子、女性販売員のことです。

 特に百貨店のショップガールは1,2位を争う大人気の職業で、想像通り「デパートガール」と呼ばれていました。

 

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(『75年のあゆみ』阪急電鉄編より)

屋上で営業前の準備体操をする、大阪梅田の阪急百貨店のデパートガールたち。

 

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採用試験には女性が殺到。セーラー服の女学生から妙齢の婦人まで、様々な階層、年齢層がいたことが伺えます。

 

デパートとくれば案内嬢。「ガール」はつかなかったですが、こちらも女性花形の職業でした。

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 (顔にあどけなさすら残る都内某百貨店の案内嬢。1931年)

 

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(1933年、白木屋の案内嬢)

やはりデパートの顔だけに容姿端麗、育ちの良いお嬢さんを選んだそうです。

 

スヰートガール

今で言う企業のキャンペーンガールです。 

 

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昭和初期に発展したものの一つに、広告宣伝があります。
それまでの広告宣伝は、新聞でデカデカと自己アピールするのが常でしたが、昭和に入ると「店頭販売」が盛んになりました。
森永製菓はそれに女性を採用。「スヰートガール」と名付けて全国のデパートなどでキャンペーンを行いました。

 

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採用条件は

”高等女学校卒以上の18〜20歳の健康な女性”

”近代的な感覚を有すること”

など全部で31カ条、モデル募集並みの厳しさです。それにもかかわらず昭和7年(1932)の第1回募集には600名の応募があり、第1期のスイートガール5名が誕生しました。

 

この「スヰートガール」第一期生の中には、のちに女優になった人もいました。

 

桑野通子

惜しくも若くして亡くなった桑野通子(1915-1945)もその一人ですが、

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スヰートガール時代の写真が残っています。写真右端が彼女ですが、まだ田舎娘風の(っても彼女は江戸っ子ですが)あどけない顔ですね。

 

 

マニキュアガール

昭和ヒトケタ女子に流行るもの。洋服日傘、ハイヒール、そしてマニキュア

モガの出現と共に生まれた「マニキュアガール」は、女性たちの爪にやすりをかけてお手入れをしたり、マニキュアを塗ったりと、今のネイリストと変わりません。ネイリストは最近生まれたトレンドのように思えますが、80年の歴史を持つ老舗(?)なのです。

 

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(当時の「マニキュアガール」)

マニキュアガールは百貨店の化粧品売場や、やはり当時最先端だった美容室のスタッフとしていることが多かったそうな。

 

大阪マニキュアガール

『アサヒグラフ』昭和7年(1932)5月4日号で紹介されていた、大阪の美容院で働くマニキュアガールです。名前は加藤田鶴子さんですが、「かとう たづこ」なのか、「かとうだ つるこ」なのかはわかりません。

 

1936年マニキュアの広告

昭和11年(1936)のマニキュアの広告です。かなりカラフルな色が揃っていますが、お値段は35銭。3銭でたい焼き、10~15銭でラーメンが食えた時代なので、美容のためとは言え35銭は一般庶民にはけっこう厳しい。

 

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(『エロエロ草紙』酒井潔より)

昭和前期の珍書『エロエロ草紙』(酒井潔著)によると、同じ頃のイギリスでは

「爪に絵を描く婦人があらわれ」

と書かれており、今のネイルアートもこの時代に生まれたような記述があります。

 

 

ゴルフガール

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昭和6年(1931)頃の『文学時代』(新潮社)という雑誌が出典の尖端ガールです。要は「ゴルフを楽しむ女性」ってことでしょう。今風に言えば「ゴルフ女子」ってことですね。

 

麻雀ガール

 「○○ガール」を調べていて、これがいちばん頭の上に「???」が飛び交いました。麻雀はわかるがそのガールって?

しかし、上の「番付」には上位に来る人気職業。一体なんじゃ!?と。

 

 

 

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(『アサヒグラフ』昭和5年7月16日号より)

ところで、麻雀が日本に広まったは昭和初期のころです。昭和4~5年には麻雀がブームとなり男性だけでなく女性も牌を片手にジャラジャラやっている姿が雑誌に残っています。

写真を見ていると捨て牌がバラバラなので、現在のリーチ式ではなく純中国式ルールだったのでしょう。


麻雀にハマった有名人といえば作家の菊池寛。得意の筆で麻雀の面白さを新聞や雑誌を通し世間に広めました。戦前の麻雀ブームは、もしかして菊池が発火点かもしれません。

菊池が社長の文藝春秋社は、社長が社長なので仕事中の麻雀と将棋OK。しかも勤務時間に含め残業も可。

これはさすがに業務に支障をきたし中止命令が出たのですが、このお触れで

「や~め~て~!」

といちばん悲鳴を上げたのは社長の菊池だった・・・。
という、ウソのような本当の話があります。

 

戦前麻雀ブーム

(『アサヒグラフ』昭和5年7月16日号より)


麻雀の広まりと共に、麻雀をする場所である雀荘も増え始めました。昭和初期は雀荘ではなく、「麻雀倶楽部」だったようです。
麻雀ガールとは雀荘で働き、飲み物を運んだりお客様の麻雀の相手をする女性従業員のことだったりします。そんな職業が成り立ったほど、麻雀は日本中でブームになったということでしょうね。

 

麻雀ガールって・・・本当にそんなものあったのか!?と疑う人もいるでしょう。
そんなこともあろうかと、こんな資料を用意しました。

 

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『最新婦人職業案内』(婦人就職指導会編)という、昭和8年(1933)に発行された本の「麻雀ガール」の概要です。昭和初期版「とらばーゆ」にちゃんと書いている、れっきとした職業だったのです。

 

ちなみに、玉突き(ビリヤード)場にも女性がおり、スコアを採ってくれたり人恋しい男性プレイヤーのお相手をしてくれたそうです。これは、上の番付左側の上位にいる「ゲーム取り」という職業です。ゲーム取りって変な名前ですが、「ゲーム(のスコアを)取る(女性)」ということでしょうね。

 

大正末期昭和初期ゲーム取り

ビリヤードに興じる人の傍らで、微笑みながら座っている彼女。これが「玉突きガール」こと「ゲーム取り」です。

しかし、「玉突きガール」と呼ばれていると…なんだか勘違いしそうなオスが数匹出てきそうです(笑

 

個人的に麻雀は三度の飯より好きなのですが、もし麻雀ガールが今でも雀荘にいれば…毎日仕事帰りに行きますよ。麻雀ができる上に女の子とトークができる、激烈に復活希望です(笑)

  

レビューガール

劇あり踊りあり歌ありの、フランス生まれの舞台を「レビュー」と言います。日本で最初に取り入れたのは宝塚歌劇団。タカラヅカは今でも日本レビューを牽引している先頭集団ですが、「レビューガール」とくれば宝塚や松竹のような歌劇団の女性じゃないかと想像できます。

私もそう想像したのですが、どうやら違うよう。

レビューに出演することはするのですが、主役ではないその他大勢の人のこと。「通行人A」という感じですかね。

それでも番付の上位に来るのだから、端役でいいから華やかな芸能界にいたい、という乙女心なのでしょうか。

 他にも、大部屋女優のことを「ワンサガール」と呼んでいたそうです。人が「わんさか」いるから「ワンサ」…なんちゅー単調な名付け方や。

 

ヅカガール

「ヅカ」とは、宝塚歌劇団用語で「宝塚」という意味になります。「ヅカファン」になると宝塚ファンのこと。
これで察しがつくように、「ヅカガール」はタカラジェンヌのこと。

 

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(1942年『宝塚年鑑』より。当時の花組のスターたち)

タカラジェンヌって、昔からタカラジェンヌじゃないの?確かにタカラジェンヌという名称自体は、研究者によると昭和12年(1937)の雑誌にすでに登場し、言葉の生みの親もわかっています。

しかし、タカラジェンヌの名が世間一般に浸透したのは、1970年代の「ベルばらブーム」から。それまでは「ヅカガール」が一般的でした。
宝塚市生まれ、かつ宝塚の熱狂的ファンに手塚治虫がいますが、たぶん1980年代のエッセイで「ヅカガール」を使っていました。今でも古参のファンは「ヅカガール」と言う人がいるのだとか。

しかし、創始者の小林一三は「タカラジェンヌ」推しで、「ヅカガール」の呼び名をあまり気に入らなかったという話が残っています。

 

 

エキストラガール

 「エキストラ」はその他大勢という演劇用語でもあるので、これもそれに関連するかと想像するでしょう。
実は、全く違います。
男がどこそこへ行きたいと言えば黙って同伴。それがカフェーでも連れ込みホテル*1でも砂風呂*2でも、どこへでも行く女のこと。
要は「尻軽女」「淫乱女」、ストレートに言ってしまえば◯ッチのことです。

 

 

 スピーキングガール

 戦前には、「カフェー」と呼ばれる飲食店がありました。カフェーと言っても喫茶店ではなく、洋食やアルコールも出すレストランの一種で、女給さんと呼ばれる女性従業員が客の横につき、話し相手になってくれました。

そんなカフェーの女給さんですが、大学生などインテリ男性の話し相手としては役不足。なにせ彼女らは小学校をかろうじて卒業できた、自分の姓名を漢字で書けるかビミョー(たぶん無理)な学歴が多かったから。
女の子と気軽にトークしたいけど、知的レベルが違いすぎる…そんな欲求不満の男性のお相手をするのが、スピーキングガールです。
内容は、インテリ男性と文学や哲学、政治や社会情勢についての話し相手になるだけ。
当時の解説本には「これは職業婦人と言えるのだろうか」と?マークをつけていますが、女学生のバイトとしてはピッタリだったそうです。

  

バスガールと市電ガール

番付のトップクラスに、「女車掌」という名称があります。

今はワンマンが主流ですが、昔のバスは車掌も乗り込みきっぷの販売などを行っていました。バスの女車掌は、やはり当時の流行か「バスガール」と呼ばれることもありました。

バスガールの始まりは、大正13年(1924)の東京市バスでした。関東大震災で打ちひしがれた東京に活気を取り戻そうと、殺風景な乗り物に「花」を添えるべく新設されました。

ところが、募集人数170人に対し、希望者は70名ちょっと。予想外の不人気に東京市はそんなバカなと頭を抱えたそうです。この5年後には寝てても志願者が殺到する時代になったのですが、東京市の目は少しだけ、時代の先を行き過ぎたようです。

 

その「5年後」の昭和5年頃から、バスガールが大ブレークします。

 

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コスプレ大会の写真ではありません。昭和3年(1928)、大阪市営バスの女車掌です。

 

 

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男装の麗人のような出で立ちですが、ちょうどこの時期は、川島芳子に歌劇団の男役の「男装の麗人」が流行ったので、この奇抜すぎる制服は流行に乗ったのかもしれません。制服の色もカーキ色に赤のネクタイと、「男装の麗人」を意識している感があります。

 

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(『75年のあゆみ』阪急電鉄編より)

同じ大阪の民間バス会社、通称「青バス」のバスガール。「青バス」に対し市営バスは「銀バス」と呼ばれ、両者は血で血を洗う、壮絶な客の取り合いをしていたライバルでした。

 

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(『白線帽の青春 西日本編』より)

 

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バスガールは内地を越え、外地へも飛び出しました。

1930年代、日本統治時代の台湾台北のバスガールです。おしゃれな洋装に身を固めていますね。

 

 

「ガール」はなぜか市電と相性がよかったらしく、バス以上に各都市の市電が積極的に女性を採用していました。市電に特化したネーミングはないようですが、ここでは敢えて「市電ガール」という新語をつけてみます。

 

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1936年(昭和11)、京都市電の女車掌たちの実習風景です。

 

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昭和12年(1937)、東京市電のガールたち。写真からでもわかる気品と市電ガールとしての矜持を持つ真ん中の女性に、思わず目が向きました。他の4人が腕章をつけていますが、立ち姿がだらしないので、たぶん「研修中」と書かれた新人ではないかと。真ん中の彼女はOJT係の先輩でしょうね。

東京市電嬢は「サービスガール」と呼ばれていました。 

 

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昭和10年(1935)、神戸市電ガールです。

濃緑と薄緑の上下の制服に、斜めにかぶったおしゃれな制帽。機能性とおしゃれを両立させたモガスタイルは、さすがは神戸だね~と大評判。遠く東京から見物に来たり、車内でプロポーズされることもあったそうです。

なお、「市電ガール」は他にも、名古屋や長崎、広島などにもおり、全国規模で広がっていました。

 

もっと珍な画像を。

 

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(『阪急電車駅めぐり 神戸線』より)

電車の女車掌です。

 

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日本で初めて女性車掌を採用したのは、う○こ色電車でお馴染みの阪急電鉄。昭和13年(1938)のことで、阪急電鉄の公式社史にも、

「どうだ、我が社が日本初だぞ!」

偉そうに誇らしげに書かれています。

 

と言いますが!

 

参宮急行電鉄の女性案内嬢

昭和7年には参宮急行電鉄(元近鉄大阪線)の急行列車に女性乗務員がいたりします。

出典は『アサヒグラフ』昭和7年7月号なので、論より証拠。文句あるなら朝日新聞社まで。

が、彼女の肩書は「乗務宣伝員」であって、沿線の観光名所を紹介するPR嬢。車掌ではありません。

彼女いわく、男の酔っぱらいに冷やかされたり絡まれたりすることがあり(当時はセクハラなんて概念はないし、働く女性自体が動物園のパンダ状態)、乗務後一人で泣くこともあるという、生々しいインタビューもあります。

 

阪急の車掌の話に戻ります。

彼女らの肩書は「補助」だったものの、45名の大量採用からしても将来の主力と計算してのことだと思います。ただの補助なら「若干名」でしょう。

しかし、はやり時代が悪かったか、世の中は戦争に入ってしまい、阪急の試みはあまり知られずに終わりました。

市電車掌はすでに女性が当たり前なほど浸透していたものの、都市間を結ぶ郊外電車となると、戦争中の昭和19年以降を除いて阪急電鉄だけでした。

 

ストリートガール

これは売春婦、特に街角で客寄せをする街娼の洒落た言い方です。

 

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『モダン新語辞典』(1931年編)にも新語として記載されています。

 

 ステッキガール

上述の「ストリートガール」の亜種で、銀座の大通りを歩く独身っぽい男性に、
「どう?私と一緒に歩かないこと?新橋まで50銭でいいわ」
と色っぽい声で男性の横につく女性のことです。
歩くだけでなく、
「ねえ、そこの宿までどう?2円でいいわよ」
と男を誘惑、ホテルに誘っていました。その姿が男性の持つステッキのようだということで、「ステッキガール」と呼ばれました。

ただし!
この「ステッキガール」、実際に見た者は誰もおらず、「口裂け女」のような都市伝説です。おそらく、雑誌か新聞のデタラメ記事に尾ひれがついたものなのでしょう。
しかし、当時の人はほぼ信じ、「ステッキガール」に会えるかなと銀ブラを繰り返す紳士諸君が多かったそうな。

 

円タクガール

「円タク」とは、あるエリア内なら1円均一で走るタクシーのことで、東京や大阪など都市部に走っていました。

タクシーの運ちゃんが売春の仲介役となるのは、ほぼ世界共通。「円タクガール」はポン引き役の運ちゃんとグルになり、男性客を誘惑する女性だそうです。
客がタクシーに乗ると、助手席にはなぜか妖麗な女性が。
女性は後ろを振り向き、
「あらお久しぶり、あたしのことお忘れになって?」
とウインクし、
「このままホテルへいかが?○円でいいわよ」
などと猫なで声でささやく。こんな感じだそうな。

しかし!
実は、これも都市伝説。当時のエロ評論家は、三流作家の妄想小説と切り捨てています。

ところが、これを妄想と捨て置くには惜しい事情もあります。
その話、聞きたい?うーん、要望があれば書きます。

 

マルクスガール

1920年代は「左」が一世を風靡した時代でした。学生・インテリの間では「左にあらざる者、人にあらず」的な大流行。小林多喜二などの「プロレタリア文学」も大流行りとなりました。

そんな社会主義思想にかぶれ、理屈だけは一人前の学生を多少侮蔑した、「マルクスボーイ」「エンゲルスボーイ」という言葉がありました。

「マルクスガール」はその女性版で、またの名を「エンゲルスガール」。ロイド眼鏡をかけ社会主義の本を片手に持ち、常人にはわからない理屈をペラペラとしゃべる左翼かぶれインテリ女性を揶揄したものです。

 

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戦前の某新聞に「マルクスガール」として紹介されていた写真です。画質が不鮮明で明確ではありませんが、小脇に本のようなものを抱えています。それが社会主義の本なのでしょう。

 

その他

食堂ガール

番付の横綱を張っている「ウェイトレス」は説明不要ですが、当時の雑誌を調べてみると直感どおり「食堂ガール」と呼ばれていました。

 

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昭和12年(1937)、大阪難波高島屋の地下食堂『難波グリル』の食堂ガールたち。

 

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(『神戸100年写真集』より)

昭和11年(1936)にオープンした、神戸の阪急三宮ビル(現阪急神戸三宮駅)のフルーツパーラーのウエイトレスです。阪急直営なので、制服は百貨店のデパートガールと共通のようです。

 

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1930年代の列車の洋食堂車です。格好だけならまるでメイド喫茶です。

彼女らは総称として「(食堂)給仕」のような呼び方をされましたが、ウエイトレス、または食堂ガールはこの時代に生まれたモダンな呼び名でした。

 

テケツ

番付には一つ、不思議な職業が書かれています。

 

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この「テケツ」というものが、何者か理解に苦しみましたが、ググったらあっけなく答えが出てきました。

「テケツ」とは英語のticketsのことで、劇場などの切符売場の売り子、あるいは入り口で切符を切る人のことでした。なんや、ややこしい名前つけやがって。

 

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要するにこういうことです。これは昭和8年(1933)、新宿の落語の殿堂、末広亭の「テケツ」です。

この「テケツ」もやはり、「テケツ・ガール」と呼ばれたことがありました。

 

そして最後に。

 

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(昭和6年(1931) 雑誌『文学時代』より)

当時の雑誌の「尖端ガール盛り合わせ」です。

右上から時計回りに、「ゴルフガール」「美容師」「ガソリンガール」「マリンガール」です。「ガール」はつかないけれど、美容師が当時最尖端の職業だったことがわかります。右下の美容師は、美容師の草分け的存在吉行あぐりです。

 

 

幻に終わった言葉。「オフィスガール」

 事務所などで働く女性一般職も当然、戦前に存在していました。

 

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昭和11年(1936)、堀野正雄(1907-1998)というプロカメラマンが撮影の映画会社の事務員さんです。格好だけでなく知性も併せ持つ「戦前版キャリアウーマン」。言うなれば「スーパーモガ」といったところか!?

しかし、彼女らに対する呼び名は意外にも、戦前を通してありませんでした。

・・・と思ったのですが、戦前には「オフィスガール」という言い方があったようです。

 

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昭和15年の『アサヒグラフ』からですが、和服族と洋服族が分かれてあたたかい冬の陽のもと日向ぼっこという構図です。この写真の説明には「オフィスガール」と書かれており、戦前からそういう呼ばれ名があったことがわかります。

 

で、戦後になりまず付けられたのが、「サラリーマン」の女性版の「サラリーガール」。美空ひばり主演の映画にも出てきます。しかしダサかったか長続きせず、昭和32年(1957)あたりから「ビジネスガール」という呼び名が広まったのですが、後者は英語で売春婦を指す俗語だという指摘が入りました。

そこで女性雑誌が、新しい呼び名を募集することになりました。

その結果第一位に選ばれたのが、「オフィスレディ」、つまり「OL」です。

この言葉はめっきり聞かなくなりましたが、この「OL」、実は第一位ではなかったという話があります。

本当の第一位は「オフィス・ガール」。これで異議なし、会議はまとまりかけました。

しかし、当時の編集長が待ったをかけました。

「40代50代の女性を『ガール』って呼ぶなんて俺イヤだ」

女心理解力ゼロの編集長に毛嫌いされた結果、3位か4位くらいだった「オフィスレディ」が何階級特進で採用されたと。

この話、どこかで聞いたことがあるんですけどねー。

 その真偽はさておき、戦前のモダンが既に過去となり、高度成長期に入っていても、「ガール」の尖端さは当時の若い女性たちに残っていたのかもしれません。当時の「OL」たちは、街中を闊歩する戦前の「オフィスガール」たちを見て、明るい女性の時代をイメージしたのかもしれませんね。

 

==興味があれば、こんな記事も如何でしょうか?==

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parupuntenobu.hatenablog.jp

*1:ラブホテルのご先祖様。

*2:名目上は風呂場ながら実際は売春を行う場所。東京に多かった。

なぜ中国人は声が大きいのか。そこから考察する彼らの文化的背景

 

中国人はなぜ声が大きいのか

日本を観光する中国人
 日本を訪れる外国人観光客は年々増加の一方です。先日、大学の公開講座で京都へ行ってきたのですが、右を向いても左を向いても外国人だらけ。全国規模で見ればローカル線の叡山電鉄ですら、乗客の半分は外国人な状態。日本旅行のリピーターは京都なんてもううんざり、地方都市や日本人しか知らない穴場へ逃げている傾向があるのですが、その気持ちはなんだかわからんでもない。

その中でも訪日外国人の四強は韓国、中国、台湾、香港、総数の7割を占めています。
中国人観光客の数は、2017年で567,149人で総数の約24%を占めていますが、どこの街でも中国人観光客の姿を見ることが多くなりました。


しかし、それによる軋轢も発生しています。
中国人に対しいちばん眉をひそめるのは、「マナーの悪さ」
列に平気で割り込む、ホテルのドアを開けっ放しにしてどんちゃん騒ぎをする、トイレでもないのにおしっこをする・・・etc.
本場で「もっとおぞましいもの」を山ほど見続け、良くも悪くも中国人慣れしてしまった私にとっては、日本に来る中国人なんざドラクエで言えばバブルスライム。本場のキングスライムを山のように見てきた私にとっては、ふーん程度。しかし、中国人慣れしていない日本人にとっては、面食らうことも多いと思います。

 

その中でも、クレーム第一位を誇るのが、

「中国人がうるさい」

ということ。

 

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所構わず大声で話し、ワーワーと騒ぎ立てる観光客に、うるさいなと癪に障った人はかなりいるはず。その理由を様々な人が様々な角度で書いています。
その大多数はこう片付けています。

「中国語の発音の関係」

これは、確かに私も中国語を話す大声になります。語気も荒いらしく、台湾人に「中国語上手いけど・・・口調が(台湾の)ヤクザっすねww」と言われたほど。
これは仕方ない、毎日中国人と喧々諤々、ケンカしながら覚えた中国語なのだから(笑)


それとは逆に、中国人が日本語を話す時は声が小さくなる傾向があり、留学していた20年前から不思議だなとは感じていました。

 

特に、中国南部の広東省の人間の声の大きさは、とにかく有名です。

アメリカには、こんな笑い話があります。

空港で、中国人二人連れがケンカをしていました。通行人が警察に通報し、警察官が駆け注意したところ、彼らはキョトンとした顔でいわく。

「我々はひそひそ話をしていただけなのですが・・・」

ここでは中国人となっていますが、アメリカでの大雑把なChineseというのはCantonese(広東人)のこと。これは声が大きい広東人・香港人を揶揄したものなのです。

 

先日、関西空港からの急行に乗っていたときのこと。私が座った席の対面に、スーツケースを抱えた外国人の家族連れがいたのですが、声が大きい大きい。私の横に座っていた人(日本人)が、

「中国人、ホンマうるさいな・・・」

と舌打ちしていました。一点に集中すれば、横でいびきかかれようがエッ○されようが私は気になりません。それでもちょっとうるさいなと感じたくらいなので、ふつうの人には不快を越えた「騒音」でしょう。

しかし、彼らが話していたのは北京語ではなく明らかに香港の広東語。ChineseではなくHonkonese(香港人)だったのです。さすがに語学の素人には北京語と広東語の区別はつかない。

とばっちりを食らった中国人こそいい面の皮でしたが、それほど「うるさい=中国人」というイメージが、日本人の中に定着していることを再確認したエピソードでした。

確かに中国人の中でも広東人(香港人含む)の声の大きさは、レベルが2つくらい突き出てます。そんなところに7~8年もいたから、私も慣れてしまったのでしょうね!?

 犯人は中国語の発声・・・これで答えが決まったかのように思えます。

 

しかし、これだけでしょうか。

 さらっとググってみると、

「中国人は何故大声なのか、その3つの理由」

という、アフィリエイト目当ての下心・・・もといSEO対策丸出しのタイトルが並んでいますが、内容を見てみるといくつかの部類に分けられます。

 

①中国語には四声(声調)があるから

なら、言語の親戚で同じ声調がある、チベット語・ベトナム語・タイ語などはどう説明するのでしょうか。ダライ・ラマ法王猊下がうるさいという話は聞いたことがありませんが如何。

 

②方言が多いから

その理屈が成立するなら、方言が多ければ多いほど声が大きいということになります。が、中国並みに方言の多様さがある日本は「うるさい」のでしょうか。

 

③騒音など、周りがうるさいから

まあ、これは0.7理くらいはあるかなと思います。しかしながら、中国の環境も昔と比べかなり良くなっているけれど、中国人のボリュームは下がってないよ。

 

こういう類のブログ記事は、下の「レコチャイ」ことRecord Chinaというニュースコラムを参考にしています。要はこれの切れ端をつまんで、それらしいことを書いているだけ。

少し長いですが、引用します。

第一の要因は、私たち中国人の大声に対する感覚です。
声が大きいことは他の人に元気で朗らかという印象を与えられるし、スピーチやプレゼンテーションでも大きい声での発表が必要です。

第二の要因は、中国語の発音の難しさによるものです。
中国語には有気音と無気音の違いや破裂音や数多くの子音があります。
破裂音は字の通り音の破壊力が必要です。それに4つの声調があり、それを正確に発音しないと意味が異なってしまいます。

第三の要因は、地域差による違いです。
広大な中国には幾多の高山や高原や平野があります。それぞれの地域で話されているのは数え切れないほどの方言です。
方言は口の開け方も、声の高さも速さも異なります。特に、農業を主とする地域では大声で喋るのが普通です。

第四は、中国の教育方法によるものです。
子供たちは幼稚園の時から「大きい声で読み、大きい声で歌い、大きい声で答える」ことを教えられます。
授業中に大きい声で答える生徒は先生に褒められます。
そのため、生徒たちは時と場所を構わず、大声で喋ることが普通になり、それが大人になっても直らないわけです。

 

しかし、これはあくまで表面だけに過ぎない。私はそう思いました。
さすがはレコチャイか、中国人=大声のいちばん重要な視点が抜けている。
いや、急所を外すかのように、敢えて書かなかったのかもしれない。

そこを、長年中国(人)を見てきた私が、独自の視点から書いてみようかと。

 

 

中国人の「ウチ」と「ソト」の概念。そこから導き出す中国人の声の大きさ

中国人はマナーがない、礼儀がない・・・と日本だけでなく世界中で非難轟々ですが、ここで私は多くの読者を敵に回し、中国人を熱烈弁護します。

 

彼らにもマナーはあります!

 

彼らは非常に礼儀正しいのです!

 


ただ、ただね・・・彼らの「礼儀」「マナー」はね・・・。

射程距離が非常に、非常に短いのです(笑

まあこれに関しては、日本人がアウトレンジすぎるという方が正しいかもしれません。

中国人には、「ウチ」と「ソト」という概念があります。これは日本にも朝鮮半島にもあり、それぞれ特色があるのですが、ここでは中国社会でのことを。
中国人は伝統的に、血のつながった「宗族」という集団で固まる傾向があります。彼らにとってこれが「家族」であり「親戚」であり、「国家」であり「世界」であり「宇宙」です。
この宗族が「ウチ」となります。

近代中国への号砲を鳴らした孫文(孫中山)は、
「中国人は一握の砂である」
という、有名な発言を遺しました。
中国人は各個がバラバラで、固めようとしても(砂のように)すぐにバラバラになってしまうということを比喩したものです。
中国人の世界は、砂粒一つひとつ(=ウチ)が世界であるので、国民国家という概念がゼロなのです。
それを中華民族がどうだのと、砂粒に民族主義というセメントを注入し固めようとしている状態が現代です。この流れは、だいたい1999年ころから始まったのですが、習近平になってそれが加速しています。習ちゃん頑張ってねーと、私は生暖かく見守ることにしています。


この「ウチ」以外はすべて「ソト」。「ソト」はイコール他人、ほぼイコールで自分に害を及ぼす敵です。

 

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昔の中国の街は、上のように四方を城壁に囲まれていました。これを「城郭都市」と言います。中国語で「街」のことを「城市」と言いますが、これは街が城内にあったことの名残です。


城壁が撤去されている都市でも、城壁の跡は環状道路になって残っていることがあります。

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北京なんかは有名ですね。

中国を旅行すると、

「XX門」

という地名を目にすることがありますが、それはかつてそこに城壁と、街へ入る門があったことが地名として残っているということ。

 

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西洋の建物が並ぶ上海も実はかつては城壁があり、この中を「旧城内」とジモピーは呼んでいます。この「旧城内」が元祖中の元祖上海。欧米の建物が並ぶあれ?あんなの飾りです、偉い人にはそれがわからんのです。

今はだいぶ開発されてしまいましたが、私が住んでいた頃は人ひとりがやっと通れるような細い道が入り組み、晴れてるのに時折、「雨」が上から降ってきた迷宮そのもの。中国濃度300%の濃縮ジュースのような世界でした。

あんな所に足を突っ込むなんて、野蛮な人・・・と周囲の日本人留学生からは変人扱いされましたが、Google Mapもない頃に上海ラビリンスに入り込むのは、インディー・ジョーンズ的冒険。あのワクワク感が今の知的好奇心のマグマとして、グツグツと音を立てているのかもしれません。

 

それはさておき、そんな上海にも、黄色で囲んだところに「門」と書かれた地名や地下鉄駅があります。かつてはここに、城門があったのです。


また、こんな城郭は都市だけでなく農村にもあります。

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どこの要塞やねんというような建築物ですが、これは「方楼」と言い、客家(はっか)人と呼ばれる人たちの住居です。

客家は「よそ者」という意味で、北方の戦乱から逃れ福建省や広東省などに移住した漢民族の一派です。他の漢民族と風俗習慣が少し異なっており、「中国のユダヤ人」とも呼ばれています。よって、「方楼」は中国でも主に広東省にしかない珍な建築物です。
客家人は移住先で、原住民から敵とみなされ迫害されてきました。
中国の迫害は、日本のように生易しいものではありません。「民vs民の戦争」です。自分たちを守るために、「要塞」でも作らないと一族が生き残れなかったのです。
この「方楼」ひとつとっても、彼らが生きてきた環境が「リアル北斗の拳」のような厳しい世界だったかが伺い知れます。

 

城郭都市や「方楼」は、中国人のメンタルにも深く潜んでいます。
中国人の「ウチ」「ソト」の間には、万里の長城のような大きく高い壁がそびえたち、「ソト」の侵入を拒んでいます。
城内は親戚縁者が集まる「ウチ」、城外は「ソト」。「ウチ」の中では実は、彼らは非常に礼儀正しく、彼らなりのマナーもあります。
しかし、「ソト」に対するマナーは皆無。「ウチ」に対しては異常なほど気を使う彼らですが、「ソト」に対する認識は虫けら、いやプランクトン以下なので全く気にもならない。
海で泳ぐとき、プランクトンにいちいち気をつかいますか?息をする時、チリやホコリを気にしますか?それと同じことです。
中国人が「ソト」の世界を行く時、実際はそうでないにしろ、周囲は「ソト」、つまり敵だらけ。
飼い犬が部外者に牙をむいて威嚇するのと同じく、大声を出すことによって「ソト」の連中を威嚇している。これは無意識、つまり生きるための生存本能です。

私は「ウチ」と「ソト」という中国人のメンタル的背景から、何故大声なのかをこう解釈しています。

この「ウチ」と「ソト」の概念、中国文化を知る上で非常に重要なキーワードになるので、頭の片隅で覚えておくと便利です。
 

「公」と「私」

「公(共)」の反対語は「私」ですが、中国社会は数千年間、多分に「私」な社会でした。
皇帝が天下を支配する「私」なら、王朝の領土人民も、そして手先となって働く官僚も皇帝の「私物」です。
そうなれば、官僚も「私」を振りかざします。

「清廉潔白な役人でも、辞める時には銀百万両貯まってる」

原文は忘れましたが、中国にこんな言葉が残っています。
中国の官僚に賄賂がつきものですが、それを全く受け取らない真っ白な官僚でも、数年やったら大金持ちになっているということです。じゃあ、「真っ黒」な官僚はどうか。それは書くまでもありません。
その「銀百万両」は、錬銀術を使って出てくるわけではありません。当然、人民から搾り取ったものです。
人民も、上の「私」の勝手気ままに財産を奪われるのは気に食わない。対抗するためには自ずから「私」で対抗し、結果「公」が生まれる土壌も存在しない。
こうして、上から下まで「滅私奉公」ならぬ「滅公奉私」の社会の出来上がり。

これがどういう経緯を経てそうなるのか。ここでは書きませんが台湾の戦後史を見ればよくわかります。

「中国人は公の場で(ry」
とブツブツ言う人も多いですが、それは仕方ない。中国社会にそもそも「公」は存在しないのだから。無い袖は振れません。

中国人にとって、「私」とは究極の「ソト」の世界。「ソト」である以上傍若無人に振る舞おうとなんだろうと、それに対し他人がどう思おうと、知ったことではない。
それが、他人から見ると
「マナーが悪い」
「公の場で大声を出す」
などのマイナスに見えてしまうのです。
しかし、他人に気を遣いすぎ神経をすり減らす日本人は、中国人の傍若無人の垢を少し飲んだくらいがちょうどいい塩梅かもしれない。私が傍若無人・傲慢不遜、謙虚のかけらもないのは、煎じる垢の分量を間違えてしまったからです。

  

ここまで書いてきましたが、他にもいろいろな「中国人うるさい論」がネットに転がっているので、時間があれば複数の記事を見て比べ、そして考えてみてください。

中国人うるさいと感情的に排除するのは簡単です。しかし、何故にベクトルが向いた時、もう一つの、違った見方をする眼があなたを知らない中国人の世界へいざなってくれるでしょう。それを知った時、あなたの知の皮がまた一枚、剥けることになります。

 

★重要なお知らせ★

中国・台湾関連のブログ記事をワードプレスに移転しました。

記事は順次新ブログへ引っ越し中ですが、よかったらこちらもどうぞ!

台湾史.jp

http://taiwanhistoryjp.com/

 

ドムドムバーガーを食らう!

栄えるものはいつか滅びる。これは時空という大きな大河の流れに生きる世界の理(ことわり)ですが、ダイエーの滅びっぷりは日本経済史に残る伝説となりました。

かつては小売界の恐竜として君臨したダイエーの勢いのまま店舗数を増やしていた、ダイエーグループのファーストフード店がありました。

 

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彼の名を、ドムドムハンバーガーと言います。

この名前を聞いた反応は、おそらく二手に分かれると思います。

一つは、

「あー!そんなお店あったな!」

と膝を打って懐かしむグループ。

もう一つは、

「まだあったんや?」

とビックリするグループ。 

共通点はどちらも本人の中では既に過去の記憶の存在となっていたドムドムバーガーですが、過去の存在なんてとんでもない。実はまだあるのです。

 ちなみに、私は前者の後、後者の感情がこみ上げてきました。そういう方も案外多いかもね。

 


ドムドムバーガー誕生の背景

時は高度経済成長時代真っ只中の昭和40年代の日本。

日本進出の機会を伺っていたマクドナルドは、ダイエーと組んで合弁会社を設立しようとしたのですが、資本比率の食い違いからこの業務提携はおじゃんとなりました。
マクドナルドはのちに、日本のファーストフードに将来性を見出した藤田田によって「日本マクドナルド」が設立され展開していくのですが、ダイエーも独自のルートでハンバーガーショップを模索し始めました。こうして「日本初のハンバーガーショップドムドムは誕生しました。
あれ?日本初のハンバーガー店はマクドじゃないのかって?
日本のマクドナルド第一号店は1971年(昭和46)ですが、ドムドムバーガー第一号店は1970年(昭和45)。実はマクドより一年早いのです。
昭和20年代からあったとされる佐世保バーガーは横においておいて、「日本初のハンバーガーショップ」の栄冠は、今でもドムドムが持っています。

 

かつてのマクドナルドがそうであったように、ドムドムも、
ハンバーガー?なにそれおいしいの?」
「そんなメリケンの食べ物、売れるわけないじゃん!」
という逆風の中のスタートでしたが、ダイエー創業者中内功の先見の明が光る大決断でした。結果的にダイエーを潰した中内でしたが、当時は神の如き決断だったのです。


そもそも、名前はダイエーの経営理念だった「良い品をどんどん安く」から「ドンドン(DON DON)」となるはずでした。
しかし、「どんどん」が既に商標登録されており、仕方なしにドムドム(DOM DOM)」となった経緯があります。
ガンダム好きな私としては、ドムドムとくるとどうしてもモビルスーツのドムが2機いる姿を思い浮かべてしまいますが、そんなことはどうでもいいか。

 


ドムドムダイエーの勢いと共にどんどん店舗を増やし、1997年には355店舗、最盛期には全国に400店舗以上存在していたと言います。ピークも1990年代~2000年前半くらいだそうです(byドムドムの中の偉い人)。

マクドナルドの2017年末時点での店舗数は2,884件、2位のモスバーガーが1,353件。ロッテリアが359件なので、最盛期のドムドムは現在のロッテリアに匹敵します。それに比べると、私が見ていたドムドムってけっこうレアなのかもしれない。

 

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現在の店舗数は、最盛期の10分の1以下の35件(ドムドムHPより)。

昔はもうええわ!というほどあった大阪でも6店舗、他は関東・関西に集中しているため、他地方ではほとんど見ることがない絶滅危惧種です。動物だと絶滅危惧種は保護されるのに、ハンバーガー屋は保護されないこの世の理不尽さよ。

 

2017年、ダイエーは47年手がけたドムドムを手放し、身売りさせることとなりました。
ドムドム事業に手をあげたのは、ホテル事業などを展開するレンブラントホールディングス(神奈川県厚木市)。そういう意味ではイチからのスタートとなったドムドムですが、減り続ける一方の店舗に2017年末、久しぶりに厚木市に新店がオープンしました。


ダイエーはブランド消滅確定フラグが立ってしまい消滅5分前の風前の灯…と思ったらイオンの予想外の方針転換にブランド存続となりましたが、里子に出されたドムドムはわずかながら新店舗をオープン。売上も、身売り前(2016年)より増加しているという明るいニュース。
本当は食って援護射撃したいものですが、東北にあるのは岩手県の北上に山形市のみ。同じ東北といって食べに行くにはちょっと遠い。というわけで、ドムドムには是非頑張っていただきたいものです。

 


B久しぶりにドムドムバーガーを食らう

  ダイエー帝国住民だった私は、当然ドムドムとはご縁が深い。
マクドナルドは、私の近所には存在しませんでした。ダイエー店舗内は当然アウトですが、その周辺にも店舗はなく、もしかしてダイエー帝國領にはマクドを置けなかったのか。

なので、私にとっての身近なハンバーガーはドムドムでした。私達のアラフォー世代にとって、ドムドムは学校帰りに身近に寄って食べることができた、思い出のハンバーガーなのです。

 

そんな中、とっくに死んだと思っていたドムドムが大阪にまだ残っていることに気づき、次に大阪に行った時は絶対ドムドムを食べてやる!と決意を固めていましたが、ついにその日がやってきました。

 

 

ドムドムハンバーガー深井店

大阪には6店舗あるドムドムハンバーガーですが、今回はその最南端、深井店に向かいました。深井まで行ったのには、ちょっと深い理由があり…いや、この勢いで書いてみたかっただけです。
それにしても、一時は大阪・関西にもうええわというほどあったドムドムも、今や6店だけなのか。盛者必衰の理を感じ戦死した仲間を思うような気持ちになりました。
それはさておき、店は泉北高速鉄道深井駅の構内の一階にあり、深井駅自体が経年劣化で少しくたびれているせいか、あまりファストフード店っぽい感じがしません。
街角にある古い喫茶店のような感じかな!?

 

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ドムドムと生き別れの兄弟であるダイエーは、「グルメシティ」に名を変えて駅前にまだ存在しているので、コンビだったと思われるドムドムも古くからあったのかもしれません。
実はここ周辺も、私の中学生時代の縄張りでした。が、深井近辺は縄張りの中でも優先順位が低かったせいか、当時からドムドムがあったかどうか、記憶にはありません。ググって深井にあると知った時も、

「はて?そんなとこにあったっけ?」

というのが正直な感想でした。

 

 

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シンボルマークの象さんマークも健在でした。このマーク、なんだか懐かしいなー。

ちなみに、彼の名前を「ドムぞう」と言います。
Twitterのアカウントもあるので、みんなでフォローしてあげて下さい。 

 

twitter.com

 

中に入ると、駅前という立地条件の良さもあってか客はそこそこ入っていました。ガラガラだったらちょっとショックだと思っていただけに、この客の入り様は少し嬉しかったりします。

 

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 2018年5月初旬時点でのメニューは、こんな感じです。
アジフライバーガーやお好み焼きバーガー、厚焼き玉子バーガーなど、他のハンバーガー店にはない個性的なメニューが名を連ねています。ここからも、ドムドム頑張ってるなという意気込みが感じられます。
何年行ってなかったかすら忘れたほど、久しぶりのドムドム訪問。メニューも当然ガラッと変わっていましたが、昔の記憶がほとんど残っていないだけに、「新しいハンバーガー屋」に入ったと思えばそれでOK。
他の人のレビューを見ると、上の3つはかなり美味しいらしいのだけれども、食い物は冒険しない私、無難なバーガーのモーニングセットを頼みました。

 

 

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私が注文したのは、 名前が「ビックドム」
ビッグマックをもじったのでしょうが、私の脳内変換器はやはりリック・ドムに変換されてしまいました。おい、ガンダムネタで一つおもしろいことを言ってみろと、挑戦状を叩きつけられたようなネーミングです。
うーん、リックはつかないけれど、食べる前に黒い三連星ジェットストリームアタックをかけられそうです。いっそのこと「ビックドム」を3つ揃えて「黒い三連星セット」なんて・・・。
あ、いやいや、わかる人だけわかってもらえれば結構です(笑

 

 

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 中はレタスにジューシーな肉が2枚はさまっており、味はちょっとデミグラスソース風だったかな。
おそらく好き嫌いが分かれる味だと思いますが、私にとってはなかなかのもの。マクドやモスとは全然違うテイストですが、決して高くもないので近くにあったら土日の休みに通ってあげるのに。
残念ながら、小中学生の頃よく食っていたドムドムの味を舌が覚えていなかったのですが、ほのかに懐かしい気もしないでもありませんでした。

 

ドムドムバーガーは、私にとっては立派な昭和の遺物であり、昭和を容易に連想させる代名詞の一つ。

しかし、今のドムドムは昔とは打って変わった「ネオドムドム」です。

松尾芭蕉の有名な言葉に、「不易流行」という言葉があります。

「不易流行」とは芭蕉が俳句道の中で得た一種の哲学なのです。「不易」はいつまでも変化しない、またしてはいけない本質。「流行」は時代や情勢によって変化すべきもの。そう解釈して良いかと思います。
ドムドムハンバーガーは確かに「昭和」の生き残りであり、「不易」であるべきもの。しかし、それをキープしつつ、中身は時代に合わせるために「平成」ナイズされている。これが「流行」。
ドムドム芭蕉イズムを見た春の終わりでした。

 

というか、みんなドムドムに食いに行かへん?

 

==お腹が空いてきましたか?もう一息、こんな記事もいかがでしょ?==

 

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数年で消えた幻のレジャーランド、砂川遊園と砂川奇勝の話「補足編」

 

 

砂川遊園、砂川奇勝アゲイン

 

以前、「砂川遊園」「砂川奇勝」、そして「第ゼロ号ネズミーランド(笑)」があったという話をしました。 

場所が泉南という大阪の局地な上に、地元民としての使命感と自己満足だけで書いたので、ニッチと言えばニッチな記事。興味がない人には全く興味がわきません。
短命に終わったせいか史料も少なく、一度で掘るだけ掘り、もう堀り尽くした。もう何も出てこないだろう。そう感じつつ、記事を締めくくりました。

 

実は、砂川遊園と奇勝があった自治体の泉南市も、郷土史の一つとして独自にここを調べています。
たま~~にその研究結果を発表すべく、「泉南市埋蔵文化財センター」というところで砂川の展示会のようなものを行っています。

今回、たまたまこんな展示会が行われていました。

 

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泉南市埋蔵文化財センターHPより)

 

まことに美味しそうな、知的好奇心をくすぐる展示会であります。

さて週末にでも行くか・・・と思いきや、いかんせんこのセンター、重大な欠点があります。土日祝が休みなのです!
土日祝なんて刈り入れ時なのに、その日を敢えて休みにするこの強気設定。
まるで「展示会してるけど来なくていいよ」と言わんばかり。

 

よしその根性気に入った、有給取って行ってやろうじゃないか!
と思ったのですが、土曜日のみ「たまに臨時開館日がある」そうです。
なんや、土曜日も開いてるんやんとHPで土曜開館日をチェックしようとすると・・・「お電話でお問い合わせ下さい」
HPがあるのだからそこに書けばいいのに、このサービスする気なしの強気一点、たまらないぜ。
しかし、実際に電話で問い合わせると対応は至って親切でした。

 

自治体が我々の血税と政治権力で(?)集めた資料、私の想像もしないようなレア資料が、ここに眠っているに違いない。
期待に胸を膨らませた私は、

 

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大阪湾グルリ4分の3周ツアーのようなルートで、埋蔵文化財センターへ向かいました。

 

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泉南市埋蔵文化財センター

泉南市埋蔵文化財センターは、駅からかなり離れた位置にあります。最寄り駅の阪和線新家駅から歩いて20分と、HPにも記載があります。
駅からの道は、大阪に住んでいた頃よくロードバイクでここらを走っていたこともあり、気心知れたのどかな農村です。
しかし、けっこう歩くと言えば歩きます。足腰が弱い人や体力に自信がない人、また真夏はタクシーなどを使った方がいいかもしれません。途中、のどが渇いても自動販売機すらありません。

 

心躍らせて入り口に入ってみると、見学者は一人もおらず。
砂川遊園・奇勝というニッチな内容だからか、それとも宣伝不足か。おそらく後者だろうと思います。

 

砂川遊園・奇勝のおさらい


ここで、砂川遊園と奇勝をさらっとおさらいしておきます。

 

砂川奇勝戦前

泉南市の山の中には、数百万年前には海にあった砂岩の地層が隆起し、陸に残った石灰岩が侵食された自然の奇形がありました。言うなれば「日本のカッパドキア*1といったところでしょうか。
江戸時代から「奇勝」として地元では知られ、岸和田藩の藩主も訪れたという記録があります。しかし、日本でも珍しい奇勝地ながら交通の便がゼロだったため、知る人ぞ知るマニアックスポットに過ぎませんでした。

 

大正末期から昭和初期、日本中が不景気の暗い雲に包まれる中、砂川の地主と不動産会社の社長がこの奇勝に目をつけます。
近くには「山中渓(やまなかだに)」という温泉郷もあり、開発すれば一大リゾート地になるのではないか。そう算盤を弾いた彼らは、砂川まで電車を開通させここを観光拠点にしたい阪和電気鉄道(阪和電鉄。現JR阪和線)と組み、砂川の開発に取り掛かりました。

昭和10年(1935)、遊園地である砂川遊園が開園しました。どこにでもある遊園地ではありましたが、奇勝の自然の物珍しさと、昭和10年前後の空前の好景気もあいまって、ピーク時には5~6万人の観光客が訪れたと言います。
阪和電鉄も特急を砂川駅に停車させたり、往復割引きっぷを販売したりと、あの手この手で観光客を誘致しました。

しかし、開園から2年後に起こった支那事変(日中戦争)からの「非常時」の掛け声の中、レジャーはどんどん縮小されていき、戦争が本格的になった昭和17年を最後に、公式に姿を消しました。

戦争によって消えた夢の園は、戦後になって復活することはなく、遊園地は昭和40年代に住宅地となり痕跡はまったく残っていません。
奇勝の方も、所有していた泉南市が二束三文で不動産会社に払い下げ、住宅建設の邪魔だと壊される事態に。しかし、住民運動で全壊はかろうじて免れ、現在は「奇勝公園」として一部が残っています。

 

 


泉州の宝塚

 

泉南市埋蔵文化財センター昭和の一大観光地砂川

展示会の話に戻ると、展示物は阪和電鉄が発行していた観光案内のパンフがたくさん陳列されていました。

 

 

阪和電気鉄道案内

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南海山手線パンフレット

コピーなど白黒ではよく見る資料なのですが、カラーで見るのは初めて。カラーで見るとこんなにカラフルだったのかと、違う感激がこみ上げてきました。

 

前回に書いたとおり、開園の昭和10年(1935)から昭和15年(1940)までの間に、阪和電鉄が新聞に掲載した広告は389点(住宅広告を除く)
そのうち、砂川遊園の広告が117点、全体の3割を占めています。
大阪市立大学論文『昭和初期における大都市圏郊外電気鉄道の遊覧地開発-阪和電気鉄道を事例をして-』より)
それも『大阪朝日新聞』のみで、他新聞も入れると、もっと多かったのではないかと。広告の数だけで、阪和電鉄が砂川に賭けた心意気というものがわかります。

 

今回向かった展示会では、その広告の数々が展示されていました。

阪和電鉄砂川遊園砂川奇勝広告昭和12年

阪和電鉄砂川遊園砂川奇勝広告昭和11年

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砂川だけでなく、仁徳天皇陵古墳や信太山ハイキング、和歌山の景勝地まで広告で案内していましたが、砂川遊園関係の広告の数やハンパではありません。それだけ阪和電鉄も砂川遊園・奇勝に期待し、力を入れていたのだと。

 

 

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阪和電鉄紅葉狩り広告昭和10年代

阪和電鉄が砂川近辺開発に力を入れていたのは、遊園地だけではなく自然を利用したトレッキングもそうでした。
今は住宅地が並んでいるので想像もできませんが、当時は鬱蒼とした山と森でした。

 

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(昭和8年の新聞広告より)

今でこそ阪和線は関西屈指の混雑率を誇る路線ですが、私鉄時代は沿線の人口密度が少なく、鉄道作ったはいいけれど、そもそも乗る客いるの?という有様でした。

そのため、なんとかお客さんに乗ってもらおうと、あの手この手のイベントを繰り出していました。ピクニックやハイキングも、人が住んでいない自然ばかりというデメリットを活かしたイベントなのでしょう。広告に書かれた場所は現在、山中渓を除いて住宅地となっていますが、昔はハイキングができるほど「何もなかった」のです。

「ピクニック」「ハイキング」の文字を見た、沿線にそこそこ詳しい人はこんな反応でしょう。

山中渓:わかる

砂川奇勝:わかる

犬鳴山:わかる

信太山:わかる

上野芝(付近):どこがやねん!?

上野芝から鈴の宮(神社)経由鳳までのハイキングルートが、阪和電鉄の観光案内に残されていますが、このルートはけっこうアップダウンが激しい。阪和電鉄推しのハイキングコースがそのまま小中学生の頃の私の縄張りでしたが、がっつり歩けば今でもけっこうな「住宅地ハイキング」です。

 

 

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砂川遊園地の近辺にある池の周辺には、テントやハンモック貸出のキャンプ場も作っていたのですが、もし今もあったなら、アニメの『ゆるキャン』でブームになっていたかもしれません。

 

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(昭和10年秋の広告)

そこまでせんでええやんか(笑)とちょっと笑ってしまったのが、この松茸狩りイベント。

美木多堺市南区や池田、松尾寺和泉市などは、今や分譲住宅地が立ち並ぶ平凡な住宅街。当然、「ま」の面影すらありません。こんなとこで松茸が採れたの!?と。

しかし、この広告を見て思い出したことがあります。

松尾寺近辺などは、泉北高速鉄道延伸に合わせて開発され、確か1997年くらいに人口増加率日本第二位*2になったところです。私の記憶が確かならば高校生の頃、具体的には泉北高速鉄道和泉中央まで開通するまでは、たぬきが走り回ってると当時の地元の友達が言っていた森でした。

こんな何もないとこに鉄道通すのかよ、泉北高速(≒大阪府)頭おかしいんちゃうの!?と高校生時分の私は思ったものですが、確かに(昔の)あそこなら松茸が生えていそうだなと。

 

それはさておき、砂川近辺でも松茸が「山ほど採れた」らしく、すき焼きなどにしてよくお客さんに出していたと、遊園内にあった料亭「砂川楼」の店主のインタビューも掲載されていました。

 

というか、経営努力とはいえ、阪和電鉄はあの手この手のイベントを催して、企画・営業はさぞかし四苦八苦してたやろなと。元営業マンとしては心が痛いです。

 

そんな死に物狂いの経営を行う阪和電鉄が、ことさら力を入れたのが砂川の開発でした。

そこに遊園地を作り、隣に住宅地や別荘地も建設することにより、泉南の地に一大レジャーランドを造ろうという、鉄道会社と地主、不動産会社の三角コラボの壮大な計画が、ここ砂川に実現することとなりました。
これを当時、泉南の宝塚」プロジェクトと銘打っていました。
ちょうど宝塚が、歌劇団の成功などでひなびた温泉郷から脱出、リゾート地や高級住宅街として開発される姿を見て、砂川に第二の宝塚のにおいを感じたのでしょう。宝塚に続け!という声が、史料の隅から聞こえてくる気がします。

 

砂川遊園と阪和砂川駅和泉砂川駅

(観光客で殺到する阪和砂川(現和泉砂川)駅。伝昭和11年


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(砂川遊園の遊具 昭和13年頃)

 

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(砂川遊園内にあったモンキーハウス 昭和10年代)

 

砂川遊園・奇勝の観光地としてのピークは、おそらく昭和11~13年だと思われます。
この時代は、226事件支那事変(日中戦争)など、戦争へのきな臭いにおいが世間にただよい始めた頃ですが、一面では空前の好景気でした。

景気は戦前の日本のピークに達し、昭和十二年の経済成長率は24%になります。高度経済成長時代と言われた昭和40年代の最高が13%、1980年代バブル時代の最高が8%と考えると、昭和11~13年はとんでもない伸び率です。
とにかくナチスドイツの統制経済のマネがしたい、しかし経済の「け」も知らない陸軍が急ブレーキをかけてしまいますが、惰性が15年末~16年はじめあたりまで続いていたといいます。

当時、阪和電鉄は天王寺~砂川間の往復キップが販売されていましたが、その売上の1割が地主の田中源太郎に入っていました。
日・祝日には1日6万人、3年間で200万人が訪れたという記録もあり、田中が砂川開発で投じた資金20万円は3年で元が取れたというから、阪和電鉄の必死の営業努力もあいまって、かなり人気があったと推測できます。

 

砂川遊園の最期

砂川遊園・奇勝が「幻」と呼ばれているのは、昭和10年にオープンした後、実質7年間しか稼働していなかったこと。
そしてもう一つの謎は、正式に「何年何月何日閉園」というデータがなく、誰にも知られぬ間にひっそりなくなっていたことです。

 

 

非常時戦前支那事変

昭和12年に起こった支那事変(日中戦争)が泥沼化し、「非常時」という言葉がところどころから叫ばれる時代となってきました。
「非常時」によるレジャー自粛の空気もある中、砂川遊園もだんだんと「軍国化」「全体主義化」していきます。

 

昭和非常時阪和電鉄広告

昭和14年のハイキングの広告です。のどかなピクニックの広告の上に、「挙(こぞ)って体位向上」という言葉が出てきます。この言葉は、拙記事「天王寺駅の怪」天王寺駅の看板でも見かけたので、阪和電鉄のキャッチコピーなのでしょう。
この時は「非常時」の掛け声のもと、頭脳明晰より体力旺盛の健康体がもてはやされ、男子はお国のために兵隊さんに、女子は立派な子どもを生むためにと体位(体格)の向上が叫ばれました。

 

この翌年の昭和15年、砂川奇勝の近所にあった佐野町(今の泉佐野市)の女学校で、前代未聞の一風変わった入試が行われました。
大阪府佐野実践女学校*3の入試当日、受験番号が書かれた名札をつけた受験生がいくつかの班に分かれ、雑草が生えた運動場に集合しました。
校長先生が登場し、班を運動場に配分した後、
「かかれ!」
という掛け声のもとにみんなで草むしり開始。
何の説明も受けていない受験生は、なんでわたしたち草むしりやらされてんの?と首を傾げながら黙々と草を刈っていましたが、これが実は「入試」だとわかると、みんな目の色を変えて必死になりました。
そう、この年のこの女学校の入試科目は「草むしり」のみ。頭脳など要らぬ、大和撫子は体力、健康な「兵隊予備軍」を生む健康な身体の方が大和撫子として重要。スタミナはもちろん、効率的な草むしりやチームワーク、積極性が「入試問題」であり「合否基準」だったのです。
ウソのようなホントのクレイジーな入試でしたが、これも時代ならではです。

同時期に中学校に入った作家・歴史家の半藤一利氏も、入試は内申書と体力測定と面接だけでペーパーテストは一切なかったと著書に書いています。

 

阪和電鉄模擬空中戦

昭和15年5月25日、海軍記念日(5月27日)に合わせて飛行機による「空中大模擬戦」が海軍主催で行われました。おそらく上空で海軍の飛行機がデモンストレーションを行ったのでしょう。

 

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 阪和電鉄に負けてたまるかと、南海も同日に「愛国歌謡大会」なるイベントを行っています。

 

だんだんときな臭い空気になってきましたが、昭和15年ならまだ「終わりの始まり」に過ぎません。

 


そして同年12月、砂川遊園・奇勝を事実上経営していた阪和電鉄は、ライバル・・・もとい天敵の南海に吸収合併されます。

 

阪和南海合併新聞記事

昭和15年7月18日 『大阪朝日新聞』)

埋蔵文化財センターにあった阪和関連の新聞記事ですが、赤で囲んだ阪和の記事の横にある緑の「代用食」の記事が時代を感じさせます。もう「贅沢は敵だ」に入っていたのです。

その右隣にデカデカと、「新体制」の記事があります。昭和史を発掘している身としては、むしろこっちが気になりました。


同年はじめ、昭和天皇が「戦争阻止への切り札」と期待した米内光政内閣が発足したのですが、この新聞記事の2日前、陸軍大臣畑俊六が辞表を提出しています。

陸軍は後任の大臣を出さないということで内閣は継続できず、22日に崩壊。次は陸軍の思い通りに二次近衛内閣が発足しました。

結果的に、第二次近衛内閣によって日独伊三国同盟が締結され、日本は滅亡への片道切符を手にしてしまったのですが、その切替えの時期にあたる貴重な記事です。

最近の研究から、米内内閣は昭和天皇の「指名」だということがわかっています。戦争を避けたい天皇の、「次は米内にしろ」というご意志ですが、あからさまに出すと思い切り憲法違反なので、表向きは「側近(内大臣)の推薦」ということになっています。

それを知っているメディアと陸軍は、天皇の御意志などクソくらえと蹴飛ばすかのように「新体制」を熱烈歓迎し、何も知らない国民もそれに煽られ両手を挙げて歓迎。

もう「新体制」、つまり新内閣ができたも同然のような書き方をしていますが、記事の時点で米内内閣はまだ崩壊していないところがミソ。もう今の内閣なんてさっさとさようならしようぜという、メディアの傲慢っぷりが気持ち悪いほどにあらわれています。

 

 

南海山手線駅名改称広告

昭和16年大阪朝日新聞』より)

阪和電気鉄道は「南海山手線」と改名されましたが、その後の砂川遊園はめぼしい広告もなく、存在感は徐々に薄くなってきました。
駅名も、昭和16年8月1日に「阪和砂川」から「砂川園」と改名されました。

 

昭和17年南海電車案内

展示会では「昭和17年」と書かれた南海の沿線案内です。本線や高野線だけでなく、阪和線も赤線になっていることがわかります。

阪和線にだけ限定すれば、これが戦前、そして私鉄として最後の観光案内です。

 

しかし、これ、なんだかおかしい。

 

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前回の砂川遊園・奇勝の記事で、私が図書館から探し当ててきた「昭和17年南海沿線案内」です。砂川遊園は「砂川園」となっています
戦争中に「遊園」とつけると、
「兵隊さんが異国で戦い国民は歯を食いしばって我慢しているのに、『遊』とは何事か!」
と国や軍・・・の前に目が釣り上がった「模範国民」の目がうるさく、「遊」を外したのでしょう。その証拠に、元々南海経営だった「さやま遊園」「淡輪遊園」も「遊」が消えています。

 

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しかし、この「昭和17年」ものは「砂川遊園」となっており、「遊」が消えていない。展示会にあったものは、「昭和17年3月1日由良要塞司令部検閲済」と書いてあるので4月頃のものだと思われるので、同じ17年でも時期が違うのか!?

うーん、これはペンディングとして、後で調べておくことにしましょう。

 

 

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展示会にあった広告の変遷パネルですが、昭和17年から先は全くの白紙です。戦争とは言え、この白紙が砂川遊園だけではなく、日本全体の暗い時代を感じさせます。

ここがイコール砂川遊園・奇勝の大きな謎でもあります。この白紙に何か新しい記述があるかもしれない。私がわざわざ大阪湾を3分の2周してまで見に来た大きな理由がこれです。

 


そして戦争が激化した昭和19年「南海山手線」は国営化され阪和線となりました

ここで砂川遊園のミステリーが浮かび上がります。

阪和電鉄が「国鉄」となったことにより、阪和→南海のと所有が移った(はずの)砂川遊園と奇勝の所有権はどこへ行ったのか。
展示会には、かすかながらその間接的な記述がありました。

遊園の地主だった田中源太郎は、戦時中か戦後かは不明ながら遊園の土地を文部省に寄付しています。寄付とはなんだか引っかかりますが、それ以上の証拠がないので文字通り受け止めておきます。
阪和電鉄所有だった奇勝も、国営化と同時に国の所有となり、その後信達村に払い下げられていることは確認できました。
文部省に寄進された遊園は、その後民間に払い下げられたのでしょう。
あくまで推論にすぎませんが、こう考えるのがいちばん筋が通っているように思えます。

 

 

戦後の砂川遊園と奇勝


この展示会での新しい発見は、上でも述べたように、砂川遊園時代の遊具は戦争による資材供出で姿を消したこと。

 

昭和19年砂川遊園畑

上述したとおり、砂川遊園の「美しい花畑はいも畑になった」のですが、その貴重な写真です。食糧が足らずみんなお腹をすかせていたこの頃は、「遊」なんて余裕は全くなく、本当に「生きるために食うのが精一杯」の時代でした。それでも、まだ戦争だと神経が張り詰めていただけマシだった(本当に苦しかったのは、それに加え気まで抜けた終戦後)と、当時を知る人は語っています。

 

しかし、戦後になり復活しないままだった旧砂川遊園に、「遊具」が復活しています。

 

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砂川遊園跡の遊具で遊んでいる昭和45年の写真ですが、これらは誰かが戦後に新設したものだそうです。

 

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展示会では、現時点で唯一残る戦後の旧砂川遊園地や砂川奇勝の映像が流れていましたが、遊園地のような動く遊具がたくさん映っていました。

砂川遊園は戦争のどさくさに消え、その後公には復活していないのですが、もしかして地主が戦後の復活を期して投資したものなのだろうか。
それについては、展示会では何の説明もありませんでした。

砂川遊園の復活を期した(?)これらの遊具も、昭和40年代に旧遊園の部分が住宅地として開発され、撤去されました。
しかし、まだ時代が浅いせいか、ここでよく遊んだなーという、元を含めた地元民の証言は多く、泉南市では今でも回想談を募集中だそうです。
このブログを見てここを思い出した方は、泉南市に問い合わせてね。


砂川奇勝保存運動

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すでに書いたように、その昔和泉砂川駅の山側には、「泉州カッパドキア」な奇勝の光景が広がっていました。

 

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その後は戦争のどさくさに放置プレイされましたが、奇景は手付かずのまま戦後も残っていました。

しかし、現在は1ヘクタールを残してすべて住宅地と化しており、往年の面影はほとんどありません。

 

奇勝の部分は、昭和37年(1962)に泉南市が不動産会社に払い下げたことは、前回の記事で書きました*4
その後はどんどん開発され、奇勝はどんどん消えていったのですが、そこで住民が「これ以上開発しないで」と開発反対運動を起こしました。
行政が間に入って話し合いを設け、奇勝の一部保存が決まったのですが、その遺産が現在に残る奇勝だったのです。

 

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戦前の写真を見ると、奇勝の方は本当に「日本のカッパドキア」にふさわしい絶景で、人間が到底作りえない自然の造形美がそびえていました。

しかし、それも今は写真往時を偲ぶしかありません。
「奇勝公園」も、住民どもうるせーなーだったら残しといてやるよ程度の、子どもの遊び場レベル。戦前の写真を見た後行くと、なんだこの程度かと「大阪三大ガッカリ」のリストに入ってしまうことは必至。

もし泉南市が不動産会社に売り渡さずそのまま残しておれば、今頃は世界遺産・・・とまではいかないけれど、自然の観光遺産としてけっこう話題になっていたと思います。

私も昔の写真を見た時、衝撃を受けました。大阪に、地元にこんな「カッパドキア」があったのか!?と。


住宅作れば寝てても儲かるのご時世だったとは言え、砂川奇勝の払い下げは泉南市史最大のミスチョイスだと個人的には思います。

泉南市が砂川の歴史発掘に力を入れているのも、もしかしてそれに対する懺悔なのか。ついつい邪推してしまいます。

 


泉南市が目指す目標

お失くなりになった砂川遊園・奇勝を、まるで死児の齢を数えるような力の入れようは、どこから来ているのか。
泉南市のビジョンにはこう書かれていました。
NHKの有名番組で取り上げてくれることを目標にしています」

ははん、ブラタモリのことか。

 

地質学的には、砂川奇勝は日本でも2つともない奇景で非常におもしろい。地質マニア(?)のタモリさんならけっこう喜ぶでしょう。
ただし、それは「残っていれば」の話。これだけ木っ端微塵に壊してしまったら、奇勝も奇景もへったくれもない。確かに1ヘクタール分は残っているとは言え、砂川奇勝だけではとてもネタにならない。

仮に「砂川」をブラタモリのネタにするのなら、犬鳴山や日根野神社(ここもネタとしては面白い)、岸和田城など、「泉南市」だけではなく「泉南地域」として広く取り上げないと、到底ネタとしては持たない。ブラタモリならぬ「ブラのぶ」をやっている身としての視点は、こうです。
かく言う私は散々ネタにしていますが、我がブログは、知名度ブラタモリにとても敵わないが、ブラタモリという大樹が取り上げないニッチなブログ。私はこれくらいの自負を持って書いています。

万が一、万が一ですよ、仮に取り上げられたとしたら・・・とっくにネタにしている私のブログにアクセスが殺到し・・・ウハウハやん。
できればブラタモリ誘致を応援したいので、是非誘致委員会(仮名)の顧問に・・・と今から取らぬ狸の皮算用をしても仕方がない。

 

 

展示会、行く価値ありか

最後に、この『企画展「昭和の一大観光地砂川」』は行く価値ありなのか。ここを書いていきます。

結論から言うと・・・

 

めちゃ価値があります!!

 

展示スペースは決して大きくはありません。畳で言えば12畳くらいでしょうか。
しかし、小さくまとまっている分、濃度、ニッチ度が実にすごい。展示パネルも丁寧に作られているし、年譜もすべてソース付きと、初心者からマニアックまでやさしいつくりとなっています。さらに、年表などのソースになった新聞記事などもスクラップとして残し、ご自由にご覧下さいと。

ここでアップした写真は、全資料の中のごく一部です。私の画像フォルダには、ネタにならずお蔵入りしたファイルがこの数倍ほど保存されています。

 

訪れる前の滞在予定時間は、せいぜい1時間くらいと見積もっていました。砂川遊園・奇勝のおさらい程度に、リライトできるような新しいネタがあったらいいなーという、ほんの軽い気持ちでした。
ところがどっこい。
予想外の濃さと、資料見たい放題、写真取り放題というサービスぶりに、予定時間を2時間半もオーバーしてしまいました。
後の予定がなければ、おそらくここだけで1日中いたかもしれません。
濃くないと、面白くないと、ここまで「補足」で書けません。というか、本編が8000文字で「補足」が1万文字オーバー。文字数が本末転倒になってしまいました。

 

砂川遊園・奇勝は、決して万人受けするテーマではありません。テーマ的には相当ニッチ。日本史の、大阪市の、泉州史の、泉南史の、ほんのごく一瞬の光です。
興味がない人にとっては、何の価値があるのやらという感慨しか浮かばないと思います。
しかし、興味がある方であれば、最寄り駅から20分歩いてでも行って見る価値があります。
阪和電鉄の広告を見ているだけでも、ブログネタが3つも4つも出てきます。全資料の6割しか見ていないのに。
ブログネタがないと嘆いている者よ、書を捨てよ、泉南市埋蔵文化財センターへ出よ。どうせ入場無料なのだから。

もしこの記事を見て、おもしろそうだな・・・と興味が湧いてきたら、是非この展示会を見てみて下さい。6月29日まで開催しています。

非常に濃く、非常にマニアックで、そして非常に郷土史の勉強になります。


ただし、重要なのでもう一度言っておきます。
ここは・・・

土日祝は休みです!!!


土曜日開館日は、HPか電話で要問い合わせです!!


事もあろうに、GWは休みです!!

 

GWも当たり前のように休む博物館、見てもらう気があるのかないのか、わからなくなってきた。

 


最後に、展示場内にアンケート用紙がありました。
そこに、
「もし現在でも砂川(遊園と奇勝)が残っていれば、観光遺産になっていたと思いますか?」
という質問がありました。
大いに楽しませていただいたので、お礼代わりに。

「150%なっていました。壊したのは実に、実にもったいない!
残しておけば、今頃は世界遺産とは言わないけれど、日本三大奇景くらいの価値はあったのに。
しかし覆水盆に返らず、自然の造形は二度と、永遠に戻ることはありません。
日本に二つもない奇勝を不動産会社に売り渡し壊すに任せたことは、泉南市の大チョンボとして歴史に残るでしょう」

ここぞとばかりにボロカスに・・・もとい正直に書き殴らせていただきました。

 しかし、これだけ書いてもあの風景は二度と戻らない・・・せめて「ブラタモリ」で罪滅ぼしをしていただきたいと祈りつつ、締めとさせていただきます。

 

*1:カッパドキアとはトルコの自然世界遺産のこと。

*2:その時の一位は、私の記憶が確かなら同じく新興住宅地として開発され、神戸電鉄の路線が開通した兵庫県三田市

*3:佐野高等女学校→現府立佐野高校。

*4:砂川遊園跡地は、その2年後の39年に払い下げ。

大阪の難読地名決定版:全部読めたら坊主になったるわ!

 いつだったか、以前にこんな記事を書きました。

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

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 おかげさまで、上のイラストのように頭を抱えるほど好調だったのですが(?)、調子に乗って第二弾を作ろうかなーと思って半年の月日が経ってしまいました。

そして不肖BEのぶが考えに考えた結果、選びに選んだ、大阪難読地名決定版と呼ぶべき最強のメンツをここに揃えてみました。

 

あ、今回は答えを下に書いておきます。
ちなみに、前回出した地名は極力出していませんが、一部出てきます。

 

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