昭和考古学とブログエッセイの旅

昭和の遺物を訪ねて考察する、『昭和考古学』の世界へようこそ

ブログ移転のお知らせ

私のTwitter垢を見てくれている方は、もうご存じでしょうが、今年の1月よりワードプレスにてブログを移転しました。

新しいブログのリンクは最後に貼りますが、今年よりブロガーとして本格的に稼働することになり、心機一転WPへの移動となりました。

別にはてなブログが不満だとか、そういう理由で出て行ったわけではありません。「賃貸マンション」から「郊外の一軒家」というマイホームを持ち、引っ越しただけと思っていただいて結構です。

はてなブログの記事は順次WPの方へ移していっているので、現在はここのブログからの転載が中心です。が、ちょくちょく新着書き下ろし記事も増やしていくので、よかったら新しいブログの方もよろしくお願い致します。

 

=新ブログ=

「野良学徒の歴史研究(とブログエッセイ)」

 

yonezawakoji.com

 

また、こちらもTwitter(のプロフ)を見ていただければわかりますが、ここでも書いていた台湾を中心とした東亜情勢のブログも別途作成しました。

 

=台湾史・東亜情勢ブログ=

「台湾史.jp」

taiwanhistoryjp.com

 

はてなの方は、ブログ記事を整理しWPに移転次第、閉めることと致します。

引っ越しのウキウキさの反面、長年住んだ家を離れる気分は幾ばくかの寂しさを感じますが、それも新たな旅立ちへの一時的な感情に過ぎない。これから本格的にやっていきますので、改めてよろしくお願い致します。

 

 

消えた遊廓・赤線跡をゆく-丹波篠山(京口新地)編

 

※注意※

このブログ記事は、2009年に前ブログにて書いた記事をやっつけ仕事で編集したものです。情報が古いのと、文章が拙い場合があるのであしからず。また、予告なしに文章が変わることもあります。

 

 


今回は、丹波篠山にあったという遊郭跡を書いてみようと思います。
丹波篠山というと今の篠山市、江戸時代は譜代の青山氏の城下町として栄えました。
今回の話題とは関係ないですが、東京にある地名の「青山」(←青山学院大学の「青山」ね)は、この青山氏の江戸屋敷があったことから名付けられました。
篠山の青山氏は分家筋だった記憶がありますが、まあそんなわけです…どんなわけや。

 

篠山の遊廓の歴史

今の篠山市は、武家屋敷が現在でも残る観光の町で、今は歓楽街とは無縁のせいか、遊廊とか赤線ってイメージが全く思い浮かばないですが、その昔、確かに遊郭は存在していました。

明治41年(1908)、篠山に歩兵第七十連隊が置かれました。過酷な訓練と兵の勇猛さで「丹波に鬼あり」と恐れられた連隊です。

「歩兵連隊あるとこ遊郭あり」

私が長年の遊廓探索で得た法則ですが、篠山にも例外なくどこかにあるだろう、と色々調べていたら、やはり存在していました。


篠山遊郭の正式名称は、「京口新地」と言います。
遊廓としての歴史は資料があまりないので詳細はわからないですが、少なくても歩兵第七十連隊が出来た時から、もしくは連隊の創設に合わせて作られたと推定できます。

 

大正5年1916篠山遊廓京口新地

大正5(1916)年の大正時代の篠山の地図です。
赤い○で囲んだ部分が篠山城、今も昔も篠山市の中心部ですが、この地図右下に「遊廓」と書かれた一画があり、この頃には地図にもはっきり遊廓があったことが伺えます。

大正2年(1913)発行の『篠山案内記』には、

「遊廓河原町京口橋より南一丁にあり、池上町に属し字湊と称す。<u>遊廓新設以来京口新地の名あり。歩兵七十連隊の新設に伴い始めて設置したるものにて明治44年7月より開業す」

(※原文旧仮名遣いを現代に読みやすいように筆者校正)

 

と簡単ながら遊廓のことも書かれています。
大正時代から篠山遊廓が「京口新地」と呼ばれていた証拠でもあるのですが、遊廓・赤線探索者が参考文献によく出す『全国遊廓案内』(昭和5年刊)には「糸口新地」と書かれています。

「京口」なんか「糸口」なんかどっちやねん!?とややこしいことになっていますが、『全国遊廓案内』は筆者の記述間違いが多く鵜呑みは厳禁な上に、後で紹介する『篠山町七十五年史』にも「京口新地」と明確に書かれているので、「京口」が正解。


また、『篠山案内記』には遊廓の他に中心部にある立町に花街、つまり芸者がいた所もあったことが記されとります。

「芸妓検番-立町の角南側にあり明治32年の創立なり。検番設立以前は各料理屋に芸妓を抱えたりしなり」

(※これも原文旧仮名遣いを読みやすいように校正)

 

これでわかることは、

1.芸妓がいる花街の方が遊廓より歴史が古い

2.場所によっては遊廓に芸妓がいたりと花街との区別がつきにくい所もあるが、
篠山は花街と遊廓の区別がはっきりついていた

こと。


京口新地を語るもう一つの貴重な資料が、『篠山町七十五年史』(1955刊)という歴史書。

個人が編集したものの当時の篠山町が出版しているので、準公式の町史のようなものですが、ここに京口新地のことが詳しく書かれています。


それによると、陸軍歩兵第七十連隊の設置により遊廓設置の動きが出たものの、候補地がいくつも上がった上に周りの村からの熱心な立候補もあったり、陸軍の「遊廓は兵営(駐屯地)から1里以上隔離すること」という条件もあって、結局は八上村糯ヶ坪地区に決定。

しかし、なぜ「風俗街」である遊廓を熱心に誘致するか言うと、遊廓は遊興税を払う義務があったので、誘致すると莫大な税金を落としてくれる遊廓は絶好の金脈。地域財政が潤う+地元に金を落としてくれて経済的にウハウハという事情があります。

 

明治41年の開設当初は「篠山楼」の一軒のみ、娼妓数7名というこじんまりとしたスタートだったものの、
半年後には、
・吉野楼 娼妓数14名
・小川楼 娼妓数6名
・彦根楼 娼妓数12名
・田中楼 娼妓数8名
・一力楼 娼妓数8名
・常盤楼 娼妓数5名
・金松楼 娼妓数2名
・高森楼 娼妓数2名
・鬼楽楼 娼妓数4名
・都 楼 娼妓数7名
・藤田楼 娼妓数5名
・戎 楼 娼妓数6名  計:79名

と、雨後のタケノコのように大増殖しています。
(篠山楼は閉店したのか改名したのか、存在しません)

娼妓の外出は監視付きで、一人で京口橋を渡ることは出来ませんでした。つまり篠山の中心部に行くには付添(監視)が必要だったということで、これは逃亡防止のため。
また、稼ぎ100円につき20円を前借金返済のため積み立てることを警察署長から言い渡されており、衣裳や部屋代、食費も警察の指導か、全部楼主持ちと決まっていました。
こう見ると、全国規模で俯瞰すると京口新地の遊女の待遇は悪くなかった方だったかもしれません。

 

また、『篠山七十五年史』には、興味深いことが書かれていました。
大正末期から始まった不況や、昭和の初めの大恐慌、さらにプラス、大阪の道頓堀が発祥のカフェー、今のキャバクラのご先祖様みたいなもの、が篠山にも進出、新しい娯楽として一世を風靡しました。

これで遊廓が大打撃を受け、
「篠山じゃ営業にならん!!」

と遊廓を宝塚に移す計画が持ち上がりましたが、許可されずお流れになった話もありました。これはどこの書物にも書かれていない、新しい事実です。
宝塚は今でこそ少女歌劇団(タカラヅカ)で知名度は全国区ですが、元々は温泉地で芸妓も確かいたはず。そこに仮に遊廓が移っていたら…歴史のIFは読者の皆さんにお任せします。

 

で、この『篠山町七十五年史』のもう一つ重要な面は、「昭和30年発行」ということ。
つまり、赤線が現役だった頃に書かれた書物なので、赤線時代の京口新地も現役ということ。
そのことも少しだけ書かれており、遊廓時代は衣食住は楼主持ちだったのが、赤線時代は全部女性持ち。分け前は女性:業者=6:4だったそうです。
つまり、京口新地は戦後も赤線として存続していたことが、この書物で明らかになりました。

そして、ついでに書いておくと、『篠山案内記』にも書いてあった篠山の芸妓は『篠山町七十五年史』にも記されています。

連隊が篠山に設置された明治41年((1908)の芸妓数80名がピークで、大正7(1918)年頃は35名、大正13(1924)年には25名、昭和3(1928)年にゃ18名と右肩下がり。
更に昭和2年にあったという「某重大事件」により検番の幹部全員が逮捕され、カフェーの進出や花街にも遊興税が導入されたのが追い打ちになり、戦争の色が濃くなったことがとどめになって、太平洋戦争寸前の昭和16(1941)年10月に解散
以後篠山に花街復活はおろか、芸者がいることはなかったそうです。
それに比べたら、遊廓はしたたかというか、原始的な欲に基づいた産業はしぶといというか、戦後も残ったことが生命力の強さを物語っています。

 

なお、くどいようですが『篠山七十五年史』は昭和30年刊行、3年後の売防法施行による赤線の消滅の顛末までは書かれていません。書かれていたら、編集者は予言者になってますしね(笑
別の資料によると、売防法施行寸前の昭和33年1月現在、業者数10軒、女性の数14名、引き手数13人。そのまま3月30日に解散となった模様です。

 

良くも悪くも地味~な篠山の、ふとしたら忘れられかねない遊廊跡がクローズアップされたのは、「阿部定事件」で有名になった阿部定が昔、ここで働いていたことから。

阿部定事件については話しだしたらキリがないので、興味ある方はググってくれたらいいのですが、その阿部定が半年だけながら、この篠山に在籍していたことが明らかになっています。
阿部定事件のことは、中学生の時からボンヤリとは知っていましたが、20年後くらい経ちまたそのことを、篠山で思いだすとは。
なお、阿部定のことは『篠山町七十五年史』にもチラリと、


「一世を鳴り響かせた『お定事件』の主、阿部定も、ここ大正楼の娼妓であったのである」


と書かれています。

 

京口新地を歩く

さて、概要はこれくらいにして、篠山遊郭、つまり「京口新地」を訪ねる旅に行ってみましょう。

なお、写真を含めた以下のレポートは2009年当時のものなので、そこはあしからず。

 

「京口新地」の跡は、篠山の中心部、篠山城跡から南東の方向にあります。
昔の遊廓は、たいてい街の中心部ではなく郊外に作られたことが多いのですが、この「京口新地」の位置が当時の町外れという意味も持っています。
他の遊廊跡も、すべてではないですが、位置から当時の市や町などの範囲を知ることが、ある程度わかったりします。

 

篠山遊廓京口新地1

「京口新地」は今はただの住宅街になっています。その昔の遊郭は遊女が逃げるのを防ぐためか、それとも別の「一般の地」と区別するためか、堀というか運河のようなもので歴然と区切られていたり、東京にあった洲崎遊廓のように、長崎の出島の如く海に突き出た埋立地に作られたり、旧飛田遊廊のように、外国の城塞都市の如き壁で囲まれていた所もありました。
この「京口新地」も、何か不自然な、田んぼに引く用水路でもなさそうな、明らかに人間が線を引いたような水路に囲まれた地域にあります。
アンテナの周波数をフルに立てながら地図を見ると、
「なんでこんなとこにこんな地形が?」
というものが、たまにあったりします。
そこが、意外と「そないなとこ」だったり。

 

篠山遊廓2

「京口新地」に限らず、篠山近辺は日本でも珍しくなった藁葺き屋根の家を見ることが出来ます。大阪生まれの私はこんな家を周囲に見ることなかったのですが、藁葺き屋根の家を見ると何か懐かしさを感じます。日本人としてのDNAがそうさせているのかはわかりませんが、不思議な気分でもあります。

「京口新地」自体はそれほどの大きさでもありません。大人の男が隅から隅まで歩いても、30分強あれば十分な大きさです。
なので、お目当ての建物を見つけるのにも、時間がかかることはありませんでした。

 

篠山遊廓大正楼阿部定

これがお目当ての大正楼でございます。
約80年前、阿部定が遊女としてこの篠山に流れ着き、そして確かにここで働いていた痕跡は、昭和、平成、そして21世紀になってもこの地に残っていました。
建物自体は老朽化が激しくて一部朽ち果てた部分もあり、現在は主のいない空き家のようですが、周囲の建物を圧倒するよーな存在感です。

これは画像の角度が悪いのですが、意外と奥行きもある建物で、一発で「それ」とわかるもの。
車で4~5時間かけてはるばるやって来たお目当ての割には、撮った写真がこの1枚だけだったという不思議な現象。かつてこの建物で数々の女性が泣いて笑って毎日を送ったと思うと、写真を撮る手も止まったのかもしれません。その時の心境は、その当時の自分しか知りません。

 

篠山京口新地遊廓

ある意味「大正楼」よりインパクトがあったのはこの建物。
「大正楼」が京口新地の中心にあったのに対して、これは片隅にポツンとあったようなものですが、果たしてこれが旧遊廓や赤線の建物かどうかは知りません。
しかしながら、藁葺き屋根の住宅の中に、明らかに個性的なこの建物、周囲に全く溶け込んでないところを見ると、昭和初期~戦後の遊郭・赤線建築の生き残りだと思います。

 

京口新地篠山遊廓大正楼

誰も住んでいる形跡がなかったので、中を玄関越しに撮影させてもらいましたが、中はまるで江戸川乱歩の小説に出てくる屋敷でした。
中は意外にも朽ち果てた感じもなく、画像にはないですが、ステンドグラスなどもそのまま残されているようで、保存状態は外観に比べたら非常に良い状態と言えると思います。
まだ修繕したら使えそうな家、金さえあったらリフォームして住んでみたい気分です。
…と書いたのが10年前でしたが、そんな金は10年経っても貯まる気配はありません(笑)



都市部や周囲のように、高度経済成長のドサクサや宅地開発、そして建物自体の老朽化で数多くの元遊郭・赤線の建物が消えていく中、篠山は建物の数自体は少なかったものの、タイムカプセルのように残ってました。
そして何より、篠山というとこが昔の日本の空気を色濃く残してる地域なのか、「京口新地」の周りの風景もそれほど変わっていないような気がします。
そして、空気も当時とそれほど変わらんのかな?とふと思うと、ここの遊女たちの声が風と共に聞こえてきそうで、ここを離れるのに後ろ髪を引かれる思いだった、というのは気のせいなのか?

 

遊郭のことは前ブログでけっこう書いていたのですが、これを機会にこのブログに順次転載していきます。ある意味お楽しみに。

 

~おまけ 篠山遊郭簡単年表~

※京口新地関連のものは青字、その他は色なしです。
新しいことがわかり次第随時追加、変更していきます。

■明治32(1899)年 町中心部の立町に篠山検番開設
■明治40(1907)年 歩兵第七十連隊、篠山に開設
■明治41(1908)年 篠山遊郭開設(妓楼1軒、娼妓7名)
■明治45(1912)末 妓楼10軒、娼妓数32名
■大正4(1915)年 篠山軽便鉄道開業(→昭和19年廃止)
■大正8(1919)末 妓楼11軒、娼妓数44名
■大正15(1926)年2月 遊廓廃止が議会に上がるが否決
■昭和4(1929)頃 妓楼2軒、娼妓数110名
■昭和7(1932)年頃 阿部定が篠山に娼妓として滞在
■昭和8(1933)年12月 遊廓を宝塚に移転する計画が上がるが許可されず
■昭和10(1935)年 娼妓総出の盆踊が行われたという
■昭和20(1945)年 敗戦

■昭和21(1946)年頃 赤線に移行か
■昭和30(1955)年 業者10軒、女性30名
■昭和33(1958)年1月 業者10軒、女性14人
■同年3月31日 売防法施行により解散・消滅

 

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三国志と三国演義

 

三国志三国演義

日本人は、いや、日本人男性は三国志が大好き。私もご多分に漏れない三国志好きです。中国留学時も三国志好きな男が多く、日夜三国志トークに花を咲かせていました。

 

三国志は中国の英雄伝。本場の中国人男性もみんな好きだろう。いや、嫌いなわけがないじゃない。
そんなwktkな気持ちを抱いて、中国人の友達(男)に告白しました。
「俺、おまえのこと…じゃなかった、三国志が好きなんだ」
さあいくらでも食いついてこい!期待値は最高潮。
が、彼の返事は、意外なものでした。


「ええ!あんなの好きなの?」


がっつり食いついてくるかと思っていた私は大ずっこけ。「あんなの」扱いかいな~!

 

当時(1994年)、中国の中央電視台で長編ドラマ『三国志』が放送されていました。おそらくCSの中国チャンネルでやっているあれです。
三国志好きとしては見逃すわけにはいかず、毎日夜9時以降はテレビに釘付けでした。
しかし、意外なことがわかりました。三国志を「あんなの」扱いした彼も、これを毎日見ていたのです。訳がわからない。
一連の話を、留学の先輩にぶつけてみました。
彼はあ~~!と口元で少し笑い、頷いていわく。

「君の思っとる三国志と、相手が想像してる三国志は違うよ」

どういうこっちゃ!?三国志の他に三国志があるっちゅーんか!?

 

二つの"三国志"

そもそも三国志とは、後漢の末期から魏・呉・蜀という3つの国に分かれ、天下統一にしのぎを削っていた時代の話で、西暦184年から280年の間日本は弥生時代の頃のことです。

中国にとって「現代」は歴史ではありません。彼らは前の王朝である「過去」を記すことがすなわち歴史。『三国志』も、三国時代の戦乱を統一した「晋」の陳寿によって編纂された歴史書です。
しかし、原本が記述があまりにシンプルすぎたので、裴松之(はいしょうし)という人が5世紀に注釈を加えました。現在では、陳寿の原本と裴松之の注釈本を合わせて、『三国志』と呼ばれています。

 

それから約1000年後、羅漢中という人物が『三国志』をベースに長編歴史小説を記した…とされています。
それを『三国演義』(以下『演義』)といいます*1

 

ここから日中の認識に大きな、かつ無意識的ズレが生じます。

オタク以外の日本人が指す"三国志"のほとんどは、実は後者の『演義』のこと。我々が慣れ親しんだ吉川英治の小説、横山光輝の漫画などは、すべて『演義』をたたき台にしています。

対して中国人は、『三国志』と『演義』は全くの別物と認識しています。詳しい日本人も、『正史』『演義』をきちんと分けています。
上のエピソードの彼が不思議な顔をしたのも、『歴史書』の方が好きなの?あんた変わってるね…という風に取ったからなのです。
彼が理学部数学科の学生、つまりガチ理系男子だったからかもしれないですが。


では、何故『三国志』好きが不思議なのか。
歴史書は、読んでみると実につまらない。直近の日本史の本格的歴史書に『昭和天皇実録』がありますが、読んでみると
「昭和○年○月○日 陛下はxxされた。xxについてこう仰られた」
の羅列のみ。
歴史書馴れしていないと、
「俺が知りたいのはそんなんちゃうねん!」
と怒ってしまいます。が、歴史書とは「俺が知りたいこと」を行間から推測する文字の集合体に過ぎません
そこからどんなエキスを絞り出すか…そこがヒストリア料理人である歴史家の腕の見せ所。ほとんど推理小説の世界です。

その素人が読むとつまらん歴史書をベースに、創作をふんだんに入れ、読んで楽しい英雄譚に仕上げたのが『演義』。くどいですが、日本人はこれを『三国志』、それも史実と誤認しているのです。
『演義』が全部史実なら、オカルト好き西洋人から

「諸葛孔明宇宙人説」

が出てきてもおかしくない。というか孔明宇宙人やろ。

そのため、中国人に「私は三国志が好きです」という場合、必ず
「我喜歓三国演義
としなければなりません。
「我喜歓三国志
だと、食いついてくるのは歴史学者だけの可能性が…

ここまでで、あれ?と気づいた方は偉い。
私は「三国演義」と書いています。しかし、"三国志"を読んだことがある人は、
「『三国志演義』じゃないのか!?」
と首をかしげるはず。
どちらが正解かは私からは言えませんが、少なくても中国(語圏)では『三国演義』であることに、少し注意が必要です。

 

『三国志』と日本とのかかわり

『三国志』(くどいですが、歴史書のほう)には、日本に関する記述が残っています。

『魏志倭人伝』…この名前を知らない人は、おそらくいないでしょう。
これ、実は『三国志』の一部なのです。
正式名称は、『三国志魏書第三十巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条』。これを略して『魏志倭人伝』。


倭の邪馬台国の女王卑弥呼が、魏・呉・蜀三国のうち魏に使いを送ったのは西暦238年。曹操の孫である曹叡が二代目皇帝(明帝)の頃です。
三国志の三傑である劉備・曹操は既に亡く*2、4年前(234年)には諸葛孔明も死亡、彼らの子や孫の世代となっていました。

卑弥呼はその後も何度か魏に使いを送り、『親魏倭王』の称号を下賜されたのですが、248年(諸説あり)に卑弥呼が亡くなると、「大乱」の後「倭の五王」による朝貢までの170年間、大陸との交流はいったん途絶えます。

 

三国志と卑弥呼。一見何の関係もなさそうな事柄が、実はかなり深く関係していたのです。


それでも"三国志"は面白い

『三国演義』はあくまで小説、『三国志』にはないフィクションが数多くあります。

 

三国演義桃園の誓い

劉備・関羽・張飛が義兄弟の契りを交わしたオープニング、「桃園の誓い」がそもそも創作だし、中盤のクライマックス「三顧の礼」も、全然ドラマチックではない。


そして何より、小説なので劉備という主人公がいます。彼は善、ライバル曹操などは悪と描かれ、特に曹操のワルっぷり描写は中国人にもアンチがいるほど徹底しています。
ただし、史実の曹操は文武両道、政治家・軍略家・詩人・編集者*3…どれを取っても一流のマルチ人間です。曹操こそ宇宙人説が出てきてもおかしくない。

対して、『三国志』の人物評価は比較的公平。
『演義』ではドラえもんかお前は状態の諸葛孔明ですら、


「政治は超一流だったけど、軍を動かすのは苦手だったようだ」
(『三国志蜀書諸葛亮伝』)


と、軍司令官としては落第に近い評価をしています。
ただし、『三国志』の記述はすべて正しいかというと、当時の政治事情も絡み疑わしいのも事実ですが、考証は専門研究者にお任せしましょう。

『三国志』と『演義』のどこがどう違うのか、ということを調べるだけでも、ちょっとした知の冒険。
歴史書だろうが小説だろうが、どちらも三国志といえば三国志。その面白さは変わらないし、今後も変わることはないでしょう。

 

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*1:『演義』の現存する世界一古い写本(『三国志通俗演義』)は、日本の国立公文書館が所有しています。

*2:一世代分年が離れた呉の孫権は健在

*3:現代我々が読む『孫子の兵法』の原本は曹操が整理・編集したもの。

中国語の「勉強」

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中国語という言語は、基本的に漢字を使います。

今の情報化時代、
「え、そうなの?」
と目からうろこが落ちる人は、まずいないと思います。

じゃあ、どれくらい漢字を使うの?というと。それがすべて漢字です。漢字アレルギーの人は即死するほど漢字です。

さすがにCDやDVDはそのままですが、それでも「光盤」「数字視頻光盤」という、きちんとした正式名称(?)があります。

 

漢字の便利なところは、視覚的に意味がわかるということです。これは「表意文字」といい、文字が意味を表すもの。アートというか、象形文字として理解することができます。

その反対として、「表音文字」というものがあります。これは我々が日常ええ使う平仮名や片仮名、アルファベットなどが該当します。

漢字が表意文字であるメリットは、たとえば「文」という文字があると、日本人も中国人も「文」が文であると理解し、その認識が一致することです。

 

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たとえば、町並みを歩いていると

「洗衣店」

という看板を見つけたとします。「洗衣店」は日本語ではなく中国語なので、日本人には日本語としてインプットされていません。

しかし、漢字を見て

「衣を洗う店・・・衣服を洗う店だからクリーニング屋か!」

と連想することは、十分可能です。日本人なら漢字がひととおり理解できる中学生以上なら、余裕で連想できるでしょう。

 

日本語と中国語の単語の意味は、熟語においてもほぼ一致します。「警察」と書かれたベストを着た制服の人を見たら、日本人も中国人も台湾人も皆、警察(官)だと認識します。誰も「消防」だなんだと見当違いを起こすことはありません。

 

しかし、日本語と中国語の漢字の意味はだいたい同じといっても、すべてが違うわけではありません。中には同じ漢字なのに意味やニュアンスが全く違う場合があり、それが原因で笑いの種になる勘違いを起こしたりします。

 

我結束了作業。

 

これは中国語なのですが、中国語がわからない日本人がこの漢字を見て想像する意味は、おそらくこうなると思います。

「なにかやらなければならない仕事(作業)があって、そのために結束する必要があった。『了』がついているから、それが完了した」

しかしこの意味は、

「私は宿題をやり終えた」

と実にシンプルなのです。

この場合、

結束:終わる(英語のfinish)

作業:宿題(同homework)

と、日本語での意味と全く違い、漢字であれこれと類推せざるを得なかったということです。

 

中国語で「勉強する」は、「学(習)」「読書」などがよく使われます。「学習」なら視覚的にもすぐにわかります。

でも、「読書」もこうして書いてみると日本語と意味が違ってきますね。

 

我在東京大学読書。

 

となると、日本人はふつう、

「東大の図書館で読書でもしてきたのだな」

と解釈してしまいますが、さにあらず。

正しい意味は、

「私は東大で勉強しています」

転じて、

「私は東大の学生です」

となるのです。

 

では、中国語で「勉強」は使わないのか。日本独特の熟語なのか。

答えはNO。「勉強」も中国語ではよく使われます。ただし、日本語の意味とは全く異なり、使い方も全く違ってきます。

中国語での「勉強」の意味は、「いやいや~する」「無理に~させる」というニュアンスとなります。「

本当はやりたくないんだけど、第三者から圧力がかかったりどうしてもやらざるを得ない。しゃーないわ、やるか・・・。

強いて言えば、こんなニュアンスとなります。

 

我勉強答応把新書借給他看三天

 

「勉強」を使った典型的な文です。なお、中国語の勉強ブログではないので、中国語がわからない人でもわかるよう、簡体字や旧字体(繁体字)は使っていません。

これは、「彼はしぶしぶ新しい本を彼に3日間貸した」という意味になりますが、「勉強」を使うことによって、本当は貸したくないんだけどな・・・と嫌々感を出している文です。この嫌々感を出したい時、「勉強」を使います。

 

 

她不愿意去就算了,不要勉强她。

 

この場合の「勉強」は「無理強いさせる」というニュアンスとなり、全文は「彼女が行きたくないというならそれでいい。無理強いさせるな」という意味となります。

これを日本語の「勉強」として解釈してしまうと、

「彼女を勉強させるな」

という意味になり、何だこりゃ?と混乱するのみです。

 

日本語で、「勉強」するにはもう一つ、使い方があります。

「これ5つ買うさかい、勉強してーなー」

大阪名物(?)値引き交渉ではよく使われるフレーズですが、この「勉強」は値引きのこと。

「勉強する」がなぜ「まける(値引き)」なのか。幼い頃からの疑問でした。

それがなんとなくわかった・・・気がしたのは、中国語を勉強した後のこと。

「無理強いする」というニュアンスで解釈すれば、値引きの「勉強」は、

「ホンマは無理やろうけど、無理を承知でなんとかして値引きしてほしいな」

という意味が込められているのではないか。だから「勉強」が使われているのかもしれない。

もちろん、これはただの私の仮説です。しかし、こう解釈すると「勉強してーなー」がなんとなくしっくりくるような気がする。

 

中国に留学していた頃、留学生初級クラス担当の先生がいました。彼女は染め物の勉強のために京都に留学していたことがあり、日本語、というか関西弁がペラペラ。本来は大学の芸術学部の専任講師なのですが、日本語が話せるという理由だけで留学生の中国語教育担当を「勉強」させられたそうな。この「勉強」は、

「わたし、中国語が専門じゃないんだけど…」

という嫌々感なのは、記事を読んだ方にはわかると思います。

 

その先生がある日、唐突に、

「日本に行って『勉強』の本当の意味がわかったの」

こんなことを言い出したかと思えば、次の一言が、

「『勉強』って、いやいやするものだって」

日本語と中国語の「勉強」の意味の違いを踏まえたユーモアでした。たぶん、先生はこのジョークをどこかで思い浮かべ、言ってみたかったのでしょう。顔はヘラヘラ笑っていました。

 

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なぜ中国人は声が大きいのか。そこから考察する彼らの文化的背景

 

中国人はなぜ声が大きいのか

日本を観光する中国人
 日本を訪れる外国人観光客は年々増加の一方です。先日、大学の公開講座で京都へ行ってきたのですが、右を向いても左を向いても外国人だらけ。全国規模で見ればローカル線の叡山電鉄ですら、乗客の半分は外国人な状態。日本旅行のリピーターは京都なんてもううんざり、地方都市や日本人しか知らない穴場へ逃げている傾向があるのですが、その気持ちはなんだかわからんでもない。

その中でも訪日外国人の四強は韓国、中国、台湾、香港、総数の7割を占めています。
中国人観光客の数は、2017年で567,149人で総数の約24%を占めていますが、どこの街でも中国人観光客の姿を見ることが多くなりました。


しかし、それによる軋轢も発生しています。
中国人に対しいちばん眉をひそめるのは、「マナーの悪さ」
列に平気で割り込む、ホテルのドアを開けっ放しにしてどんちゃん騒ぎをする、トイレでもないのにおしっこをする・・・etc.
本場で「もっとおぞましいもの」を山ほど見続け、良くも悪くも中国人慣れしてしまった私にとっては、日本に来る中国人なんざドラクエで言えばバブルスライム。本場のキングスライムを山のように見てきた私にとっては、ふーん程度。しかし、中国人慣れしていない日本人にとっては、面食らうことも多いと思います。

 

その中でも、クレーム第一位を誇るのが、

「中国人がうるさい」

ということ。

 

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所構わず大声で話し、ワーワーと騒ぎ立てる観光客に、うるさいなと癪に障った人はかなりいるはず。その理由を様々な人が様々な角度で書いています。
その大多数はこう片付けています。

「中国語の発音の関係」

これは、確かに私も中国語を話す大声になります。語気も荒いらしく、台湾人に「中国語上手いけど・・・口調が(台湾の)ヤクザっすねww」と言われたほど。
これは仕方ない、毎日中国人と喧々諤々、ケンカしながら覚えた中国語なのだから(笑)


それとは逆に、中国人が日本語を話す時は声が小さくなる傾向があり、留学していた20年前から不思議だなとは感じていました。

 

特に、中国南部の広東省の人間の声の大きさは、とにかく有名です。

アメリカには、こんな笑い話があります。

空港で、中国人二人連れがケンカをしていました。通行人が警察に通報し、警察官が駆け注意したところ、彼らはキョトンとした顔でいわく。

「我々はひそひそ話をしていただけなのですが・・・」

ここでは中国人となっていますが、アメリカでの大雑把なChineseというのはCantonese(広東人)のこと。これは声が大きい広東人・香港人を揶揄したものなのです。

 

先日、関西空港からの急行に乗っていたときのこと。私が座った席の対面に、スーツケースを抱えた外国人の家族連れがいたのですが、声が大きい大きい。私の横に座っていた人(日本人)が、

「中国人、ホンマうるさいな・・・」

と舌打ちしていました。一点に集中すれば、横でいびきかかれようがエッ○されようが私は気になりません。それでもちょっとうるさいなと感じたくらいなので、ふつうの人には不快を越えた「騒音」でしょう。

しかし、彼らが話していたのは北京語ではなく明らかに香港の広東語。ChineseではなくHonkonese(香港人)だったのです。さすがに語学の素人には北京語と広東語の区別はつかない。

とばっちりを食らった中国人こそいい面の皮でしたが、それほど「うるさい=中国人」というイメージが、日本人の中に定着していることを再確認したエピソードでした。

確かに中国人の中でも広東人(香港人含む)の声の大きさは、レベルが2つくらい突き出てます。そんなところに7~8年もいたから、私も慣れてしまったのでしょうね!?

 犯人は中国語の発声・・・これで答えが決まったかのように思えます。

 

しかし、これだけでしょうか。

 さらっとググってみると、

「中国人は何故大声なのか、その3つの理由」

という、アフィリエイト目当ての下心・・・もといSEO対策丸出しのタイトルが並んでいますが、内容を見てみるといくつかの部類に分けられます。

 

①中国語には四声(声調)があるから

なら、言語の親戚で同じ声調がある、チベット語・ベトナム語・タイ語などはどう説明するのでしょうか。ダライ・ラマ法王猊下がうるさいという話は聞いたことがありませんが如何。

 

②方言が多いから

その理屈が成立するなら、方言が多ければ多いほど声が大きいということになります。が、中国並みに方言の多様さがある日本は「うるさい」のでしょうか。

 

③騒音など、周りがうるさいから

まあ、これは0.7理くらいはあるかなと思います。しかしながら、中国の環境も昔と比べかなり良くなっているけれど、中国人のボリュームは下がってないよ。

 

こういう類のブログ記事は、下の「レコチャイ」ことRecord Chinaというニュースコラムを参考にしています。要はこれの切れ端をつまんで、それらしいことを書いているだけ。

少し長いですが、引用します。

第一の要因は、私たち中国人の大声に対する感覚です。
声が大きいことは他の人に元気で朗らかという印象を与えられるし、スピーチやプレゼンテーションでも大きい声での発表が必要です。

第二の要因は、中国語の発音の難しさによるものです。
中国語には有気音と無気音の違いや破裂音や数多くの子音があります。
破裂音は字の通り音の破壊力が必要です。それに4つの声調があり、それを正確に発音しないと意味が異なってしまいます。

第三の要因は、地域差による違いです。
広大な中国には幾多の高山や高原や平野があります。それぞれの地域で話されているのは数え切れないほどの方言です。
方言は口の開け方も、声の高さも速さも異なります。特に、農業を主とする地域では大声で喋るのが普通です。

第四は、中国の教育方法によるものです。
子供たちは幼稚園の時から「大きい声で読み、大きい声で歌い、大きい声で答える」ことを教えられます。
授業中に大きい声で答える生徒は先生に褒められます。
そのため、生徒たちは時と場所を構わず、大声で喋ることが普通になり、それが大人になっても直らないわけです。

 

しかし、これはあくまで表面だけに過ぎない。私はそう思いました。
さすがはレコチャイか、中国人=大声のいちばん重要な視点が抜けている。
いや、急所を外すかのように、敢えて書かなかったのかもしれない。

そこを、長年中国(人)を見てきた私が、独自の視点から書いてみようかと。

 

 

中国人の「ウチ」と「ソト」の概念。そこから導き出す中国人の声の大きさ

中国人はマナーがない、礼儀がない・・・と日本だけでなく世界中で非難轟々ですが、ここで私は多くの読者を敵に回し、中国人を熱烈弁護します。

 

彼らにもマナーはあります!

 

彼らは非常に礼儀正しいのです!

 


ただ、ただね・・・彼らの「礼儀」「マナー」はね・・・。

射程距離が非常に、非常に短いのです(笑

まあこれに関しては、日本人がアウトレンジすぎるという方が正しいかもしれません。

中国人には、「ウチ」と「ソト」という概念があります。これは日本にも朝鮮半島にもあり、それぞれ特色があるのですが、ここでは中国社会でのことを。
中国人は伝統的に、血のつながった「宗族」という集団で固まる傾向があります。彼らにとってこれが「家族」であり「親戚」であり、「国家」であり「世界」であり「宇宙」です。
この宗族が「ウチ」となります。

近代中国への号砲を鳴らした孫文(孫中山)は、
「中国人は一握の砂である」
という、有名な発言を遺しました。
中国人は各個がバラバラで、固めようとしても(砂のように)すぐにバラバラになってしまうということを比喩したものです。
中国人の世界は、砂粒一つひとつ(=ウチ)が世界であるので、国民国家という概念がゼロなのです。
それを中華民族がどうだのと、砂粒に民族主義というセメントを注入し固めようとしている状態が現代です。この流れは、だいたい1999年ころから始まったのですが、習近平になってそれが加速しています。習ちゃん頑張ってねーと、私は生暖かく見守ることにしています。


この「ウチ」以外はすべて「ソト」。「ソト」はイコール他人、ほぼイコールで自分に害を及ぼす敵です。

 

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昔の中国の街は、上のように四方を城壁に囲まれていました。これを「城郭都市」と言います。中国語で「街」のことを「城市」と言いますが、これは街が城内にあったことの名残です。


城壁が撤去されている都市でも、城壁の跡は環状道路になって残っていることがあります。

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北京なんかは有名ですね。

中国を旅行すると、

「XX門」

という地名を目にすることがありますが、それはかつてそこに城壁と、街へ入る門があったことが地名として残っているということ。

 

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西洋の建物が並ぶ上海も実はかつては城壁があり、この中を「旧城内」とジモピーは呼んでいます。この「旧城内」が元祖中の元祖上海。欧米の建物が並ぶあれ?あんなの飾りです、偉い人にはそれがわからんのです。

今はだいぶ開発されてしまいましたが、私が住んでいた頃は人ひとりがやっと通れるような細い道が入り組み、晴れてるのに時折、「雨」が上から降ってきた迷宮そのもの。中国濃度300%の濃縮ジュースのような世界でした。

あんな所に足を突っ込むなんて、野蛮な人・・・と周囲の日本人留学生からは変人扱いされましたが、Google Mapもない頃に上海ラビリンスに入り込むのは、インディー・ジョーンズ的冒険。あのワクワク感が今の知的好奇心のマグマとして、グツグツと音を立てているのかもしれません。

 

それはさておき、そんな上海にも、黄色で囲んだところに「門」と書かれた地名や地下鉄駅があります。かつてはここに、城門があったのです。


また、こんな城郭は都市だけでなく農村にもあります。

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どこの要塞やねんというような建築物ですが、これは「方楼」と言い、客家(はっか)人と呼ばれる人たちの住居です。

客家は「よそ者」という意味で、北方の戦乱から逃れ福建省や広東省などに移住した漢民族の一派です。他の漢民族と風俗習慣が少し異なっており、「中国のユダヤ人」とも呼ばれています。よって、「方楼」は中国でも主に広東省にしかない珍な建築物です。
客家人は移住先で、原住民から敵とみなされ迫害されてきました。
中国の迫害は、日本のように生易しいものではありません。「民vs民の戦争」です。自分たちを守るために、「要塞」でも作らないと一族が生き残れなかったのです。
この「方楼」ひとつとっても、彼らが生きてきた環境が「リアル北斗の拳」のような厳しい世界だったかが伺い知れます。

 

城郭都市や「方楼」は、中国人のメンタルにも深く潜んでいます。
中国人の「ウチ」「ソト」の間には、万里の長城のような大きく高い壁がそびえたち、「ソト」の侵入を拒んでいます。
城内は親戚縁者が集まる「ウチ」、城外は「ソト」。「ウチ」の中では実は、彼らは非常に礼儀正しく、彼らなりのマナーもあります。
しかし、「ソト」に対するマナーは皆無。「ウチ」に対しては異常なほど気を使う彼らですが、「ソト」に対する認識は虫けら、いやプランクトン以下なので全く気にもならない。
海で泳ぐとき、プランクトンにいちいち気をつかいますか?息をする時、チリやホコリを気にしますか?それと同じことです。
中国人が「ソト」の世界を行く時、実際はそうでないにしろ、周囲は「ソト」、つまり敵だらけ。
飼い犬が部外者に牙をむいて威嚇するのと同じく、大声を出すことによって「ソト」の連中を威嚇している。これは無意識、つまり生きるための生存本能です。

私は「ウチ」と「ソト」という中国人のメンタル的背景から、何故大声なのかをこう解釈しています。

この「ウチ」と「ソト」の概念、中国文化を知る上で非常に重要なキーワードになるので、頭の片隅で覚えておくと便利です。
 

「公」と「私」

「公(共)」の反対語は「私」ですが、中国社会は数千年間、多分に「私」な社会でした。
皇帝が天下を支配する「私」なら、王朝の領土人民も、そして手先となって働く官僚も皇帝の「私物」です。
そうなれば、官僚も「私」を振りかざします。

「清廉潔白な役人でも、辞める時には銀百万両貯まってる」

原文は忘れましたが、中国にこんな言葉が残っています。
中国の官僚に賄賂がつきものですが、それを全く受け取らない真っ白な官僚でも、数年やったら大金持ちになっているということです。じゃあ、「真っ黒」な官僚はどうか。それは書くまでもありません。
その「銀百万両」は、錬銀術を使って出てくるわけではありません。当然、人民から搾り取ったものです。
人民も、上の「私」の勝手気ままに財産を奪われるのは気に食わない。対抗するためには自ずから「私」で対抗し、結果「公」が生まれる土壌も存在しない。
こうして、上から下まで「滅私奉公」ならぬ「滅公奉私」の社会の出来上がり。

これがどういう経緯を経てそうなるのか。ここでは書きませんが台湾の戦後史を見ればよくわかります。

「中国人は公の場で(ry」
とブツブツ言う人も多いですが、それは仕方ない。中国社会にそもそも「公」は存在しないのだから。無い袖は振れません。

中国人にとって、「私」とは究極の「ソト」の世界。「ソト」である以上傍若無人に振る舞おうとなんだろうと、それに対し他人がどう思おうと、知ったことではない。
それが、他人から見ると
「マナーが悪い」
「公の場で大声を出す」
などのマイナスに見えてしまうのです。
しかし、他人に気を遣いすぎ神経をすり減らす日本人は、中国人の傍若無人の垢を少し飲んだくらいがちょうどいい塩梅かもしれない。私が傍若無人・傲慢不遜、謙虚のかけらもないのは、煎じる垢の分量を間違えてしまったからです。

  

ここまで書いてきましたが、他にもいろいろな「中国人うるさい論」がネットに転がっているので、時間があれば複数の記事を見て比べ、そして考えてみてください。

中国人うるさいと感情的に排除するのは簡単です。しかし、何故にベクトルが向いた時、もう一つの、違った見方をする眼があなたを知らない中国人の世界へいざなってくれるでしょう。それを知った時、あなたの知の皮がまた一枚、剥けることになります。

 

★重要なお知らせ★

中国・台湾関連のブログ記事をワードプレスに移転しました。

記事は順次新ブログへ引っ越し中ですが、よかったらこちらもどうぞ!

台湾史.jp

http://taiwanhistoryjp.com/

 

ドムドムバーガーを食らう!

栄えるものはいつか滅びる。これは時空という大きな大河の流れに生きる世界の理(ことわり)ですが、ダイエーの滅びっぷりは日本経済史に残る伝説となりました。

かつては小売界の恐竜として君臨したダイエーの勢いのまま店舗数を増やしていた、ダイエーグループのファーストフード店がありました。

 

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彼の名を、ドムドムハンバーガーと言います。

この名前を聞いた反応は、おそらく二手に分かれると思います。

一つは、

「あー!そんなお店あったな!」

と膝を打って懐かしむグループ。

もう一つは、

「まだあったんや?」

とビックリするグループ。 

共通点はどちらも本人の中では既に過去の記憶の存在となっていたドムドムバーガーですが、過去の存在なんてとんでもない。実はまだあるのです。

 ちなみに、私は前者の後、後者の感情がこみ上げてきました。そういう方も案外多いかもね。

 


ドムドムバーガー誕生の背景

時は高度経済成長時代真っ只中の昭和40年代の日本。

日本進出の機会を伺っていたマクドナルドは、ダイエーと組んで合弁会社を設立しようとしたのですが、資本比率の食い違いからこの業務提携はおじゃんとなりました。
マクドナルドはのちに、日本のファーストフードに将来性を見出した藤田田によって「日本マクドナルド」が設立され展開していくのですが、ダイエーも独自のルートでハンバーガーショップを模索し始めました。こうして「日本初のハンバーガーショップドムドムは誕生しました。
あれ?日本初のハンバーガー店はマクドじゃないのかって?
日本のマクドナルド第一号店は1971年(昭和46)ですが、ドムドムバーガー第一号店は1970年(昭和45)。実はマクドより一年早いのです。
昭和20年代からあったとされる佐世保バーガーは横においておいて、「日本初のハンバーガーショップ」の栄冠は、今でもドムドムが持っています。

 

かつてのマクドナルドがそうであったように、ドムドムも、
ハンバーガー?なにそれおいしいの?」
「そんなメリケンの食べ物、売れるわけないじゃん!」
という逆風の中のスタートでしたが、ダイエー創業者中内功の先見の明が光る大決断でした。結果的にダイエーを潰した中内でしたが、当時は神の如き決断だったのです。


そもそも、名前はダイエーの経営理念だった「良い品をどんどん安く」から「ドンドン(DON DON)」となるはずでした。
しかし、「どんどん」が既に商標登録されており、仕方なしにドムドム(DOM DOM)」となった経緯があります。
ガンダム好きな私としては、ドムドムとくるとどうしてもモビルスーツのドムが2機いる姿を思い浮かべてしまいますが、そんなことはどうでもいいか。

 


ドムドムダイエーの勢いと共にどんどん店舗を増やし、1997年には355店舗、最盛期には全国に400店舗以上存在していたと言います。ピークも1990年代~2000年前半くらいだそうです(byドムドムの中の偉い人)。

マクドナルドの2017年末時点での店舗数は2,884件、2位のモスバーガーが1,353件。ロッテリアが359件なので、最盛期のドムドムは現在のロッテリアに匹敵します。それに比べると、私が見ていたドムドムってけっこうレアなのかもしれない。

 

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現在の店舗数は、最盛期の10分の1以下の35件(ドムドムHPより)。

昔はもうええわ!というほどあった大阪でも6店舗、他は関東・関西に集中しているため、他地方ではほとんど見ることがない絶滅危惧種です。動物だと絶滅危惧種は保護されるのに、ハンバーガー屋は保護されないこの世の理不尽さよ。

 

2017年、ダイエーは47年手がけたドムドムを手放し、身売りさせることとなりました。
ドムドム事業に手をあげたのは、ホテル事業などを展開するレンブラントホールディングス(神奈川県厚木市)。そういう意味ではイチからのスタートとなったドムドムですが、減り続ける一方の店舗に2017年末、久しぶりに厚木市に新店がオープンしました。


ダイエーはブランド消滅確定フラグが立ってしまい消滅5分前の風前の灯…と思ったらイオンの予想外の方針転換にブランド存続となりましたが、里子に出されたドムドムはわずかながら新店舗をオープン。売上も、身売り前(2016年)より増加しているという明るいニュース。
本当は食って援護射撃したいものですが、東北にあるのは岩手県の北上に山形市のみ。同じ東北といって食べに行くにはちょっと遠い。というわけで、ドムドムには是非頑張っていただきたいものです。

 


B久しぶりにドムドムバーガーを食らう

  ダイエー帝国住民だった私は、当然ドムドムとはご縁が深い。
マクドナルドは、私の近所には存在しませんでした。ダイエー店舗内は当然アウトですが、その周辺にも店舗はなく、もしかしてダイエー帝國領にはマクドを置けなかったのか。

なので、私にとっての身近なハンバーガーはドムドムでした。私達のアラフォー世代にとって、ドムドムは学校帰りに身近に寄って食べることができた、思い出のハンバーガーなのです。

 

そんな中、とっくに死んだと思っていたドムドムが大阪にまだ残っていることに気づき、次に大阪に行った時は絶対ドムドムを食べてやる!と決意を固めていましたが、ついにその日がやってきました。

 

 

ドムドムハンバーガー深井店

大阪には6店舗あるドムドムハンバーガーですが、今回はその最南端、深井店に向かいました。深井まで行ったのには、ちょっと深い理由があり…いや、この勢いで書いてみたかっただけです。
それにしても、一時は大阪・関西にもうええわというほどあったドムドムも、今や6店だけなのか。盛者必衰の理を感じ戦死した仲間を思うような気持ちになりました。
それはさておき、店は泉北高速鉄道深井駅の構内の一階にあり、深井駅自体が経年劣化で少しくたびれているせいか、あまりファストフード店っぽい感じがしません。
街角にある古い喫茶店のような感じかな!?

 

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ドムドムと生き別れの兄弟であるダイエーは、「グルメシティ」に名を変えて駅前にまだ存在しているので、コンビだったと思われるドムドムも古くからあったのかもしれません。
実はここ周辺も、私の中学生時代の縄張りでした。が、深井近辺は縄張りの中でも優先順位が低かったせいか、当時からドムドムがあったかどうか、記憶にはありません。ググって深井にあると知った時も、

「はて?そんなとこにあったっけ?」

というのが正直な感想でした。

 

 

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シンボルマークの象さんマークも健在でした。このマーク、なんだか懐かしいなー。

ちなみに、彼の名前を「ドムぞう」と言います。
Twitterのアカウントもあるので、みんなでフォローしてあげて下さい。 

 

twitter.com

 

中に入ると、駅前という立地条件の良さもあってか客はそこそこ入っていました。ガラガラだったらちょっとショックだと思っていただけに、この客の入り様は少し嬉しかったりします。

 

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 2018年5月初旬時点でのメニューは、こんな感じです。
アジフライバーガーやお好み焼きバーガー、厚焼き玉子バーガーなど、他のハンバーガー店にはない個性的なメニューが名を連ねています。ここからも、ドムドム頑張ってるなという意気込みが感じられます。
何年行ってなかったかすら忘れたほど、久しぶりのドムドム訪問。メニューも当然ガラッと変わっていましたが、昔の記憶がほとんど残っていないだけに、「新しいハンバーガー屋」に入ったと思えばそれでOK。
他の人のレビューを見ると、上の3つはかなり美味しいらしいのだけれども、食い物は冒険しない私、無難なバーガーのモーニングセットを頼みました。

 

 

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私が注文したのは、 名前が「ビックドム」
ビッグマックをもじったのでしょうが、私の脳内変換器はやはりリック・ドムに変換されてしまいました。おい、ガンダムネタで一つおもしろいことを言ってみろと、挑戦状を叩きつけられたようなネーミングです。
うーん、リックはつかないけれど、食べる前に黒い三連星ジェットストリームアタックをかけられそうです。いっそのこと「ビックドム」を3つ揃えて「黒い三連星セット」なんて・・・。
あ、いやいや、わかる人だけわかってもらえれば結構です(笑

 

 

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 中はレタスにジューシーな肉が2枚はさまっており、味はちょっとデミグラスソース風だったかな。
おそらく好き嫌いが分かれる味だと思いますが、私にとってはなかなかのもの。マクドやモスとは全然違うテイストですが、決して高くもないので近くにあったら土日の休みに通ってあげるのに。
残念ながら、小中学生の頃よく食っていたドムドムの味を舌が覚えていなかったのですが、ほのかに懐かしい気もしないでもありませんでした。

 

ドムドムバーガーは、私にとっては立派な昭和の遺物であり、昭和を容易に連想させる代名詞の一つ。

しかし、今のドムドムは昔とは打って変わった「ネオドムドム」です。

松尾芭蕉の有名な言葉に、「不易流行」という言葉があります。

「不易流行」とは芭蕉が俳句道の中で得た一種の哲学なのです。「不易」はいつまでも変化しない、またしてはいけない本質。「流行」は時代や情勢によって変化すべきもの。そう解釈して良いかと思います。
ドムドムハンバーガーは確かに「昭和」の生き残りであり、「不易」であるべきもの。しかし、それをキープしつつ、中身は時代に合わせるために「平成」ナイズされている。これが「流行」。
ドムドム芭蕉イズムを見た春の終わりでした。

 

というか、みんなドムドムに食いに行かへん?

 

==お腹が空いてきましたか?もう一息、こんな記事もいかがでしょ?==

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

数年で消えた幻のレジャーランド、砂川遊園と砂川奇勝の話「補足編」

 

 

砂川遊園、砂川奇勝アゲイン

 

以前、「砂川遊園」「砂川奇勝」、そして「第ゼロ号ネズミーランド(笑)」があったという話をしました。 

場所が泉南という大阪の局地な上に、地元民としての使命感と自己満足だけで書いたので、ニッチと言えばニッチな記事。興味がない人には全く興味がわきません。
短命に終わったせいか史料も少なく、一度で掘るだけ掘り、もう堀り尽くした。もう何も出てこないだろう。そう感じつつ、記事を締めくくりました。

 

実は、砂川遊園と奇勝があった自治体の泉南市も、郷土史の一つとして独自にここを調べています。
たま~~にその研究結果を発表すべく、「泉南市埋蔵文化財センター」というところで砂川の展示会のようなものを行っています。

今回、たまたまこんな展示会が行われていました。

 

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泉南市埋蔵文化財センターHPより)

 

まことに美味しそうな、知的好奇心をくすぐる展示会であります。

さて週末にでも行くか・・・と思いきや、いかんせんこのセンター、重大な欠点があります。土日祝が休みなのです!
土日祝なんて刈り入れ時なのに、その日を敢えて休みにするこの強気設定。
まるで「展示会してるけど来なくていいよ」と言わんばかり。

 

よしその根性気に入った、有給取って行ってやろうじゃないか!
と思ったのですが、土曜日のみ「たまに臨時開館日がある」そうです。
なんや、土曜日も開いてるんやんとHPで土曜開館日をチェックしようとすると・・・「お電話でお問い合わせ下さい」
HPがあるのだからそこに書けばいいのに、このサービスする気なしの強気一点、たまらないぜ。
しかし、実際に電話で問い合わせると対応は至って親切でした。

 

自治体が我々の血税と政治権力で(?)集めた資料、私の想像もしないようなレア資料が、ここに眠っているに違いない。
期待に胸を膨らませた私は、

 

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大阪湾グルリ4分の3周ツアーのようなルートで、埋蔵文化財センターへ向かいました。

 

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泉南市埋蔵文化財センター

泉南市埋蔵文化財センターは、駅からかなり離れた位置にあります。最寄り駅の阪和線新家駅から歩いて20分と、HPにも記載があります。
駅からの道は、大阪に住んでいた頃よくロードバイクでここらを走っていたこともあり、気心知れたのどかな農村です。
しかし、けっこう歩くと言えば歩きます。足腰が弱い人や体力に自信がない人、また真夏はタクシーなどを使った方がいいかもしれません。途中、のどが渇いても自動販売機すらありません。

 

心躍らせて入り口に入ってみると、見学者は一人もおらず。
砂川遊園・奇勝というニッチな内容だからか、それとも宣伝不足か。おそらく後者だろうと思います。

 

砂川遊園・奇勝のおさらい


ここで、砂川遊園と奇勝をさらっとおさらいしておきます。

 

砂川奇勝戦前

泉南市の山の中には、数百万年前には海にあった砂岩の地層が隆起し、陸に残った石灰岩が侵食された自然の奇形がありました。言うなれば「日本のカッパドキア*1といったところでしょうか。
江戸時代から「奇勝」として地元では知られ、岸和田藩の藩主も訪れたという記録があります。しかし、日本でも珍しい奇勝地ながら交通の便がゼロだったため、知る人ぞ知るマニアックスポットに過ぎませんでした。

 

大正末期から昭和初期、日本中が不景気の暗い雲に包まれる中、砂川の地主と不動産会社の社長がこの奇勝に目をつけます。
近くには「山中渓(やまなかだに)」という温泉郷もあり、開発すれば一大リゾート地になるのではないか。そう算盤を弾いた彼らは、砂川まで電車を開通させここを観光拠点にしたい阪和電気鉄道(阪和電鉄。現JR阪和線)と組み、砂川の開発に取り掛かりました。

昭和10年(1935)、遊園地である砂川遊園が開園しました。どこにでもある遊園地ではありましたが、奇勝の自然の物珍しさと、昭和10年前後の空前の好景気もあいまって、ピーク時には5~6万人の観光客が訪れたと言います。
阪和電鉄も特急を砂川駅に停車させたり、往復割引きっぷを販売したりと、あの手この手で観光客を誘致しました。

しかし、開園から2年後に起こった支那事変(日中戦争)からの「非常時」の掛け声の中、レジャーはどんどん縮小されていき、戦争が本格的になった昭和17年を最後に、公式に姿を消しました。

戦争によって消えた夢の園は、戦後になって復活することはなく、遊園地は昭和40年代に住宅地となり痕跡はまったく残っていません。
奇勝の方も、所有していた泉南市が二束三文で不動産会社に払い下げ、住宅建設の邪魔だと壊される事態に。しかし、住民運動で全壊はかろうじて免れ、現在は「奇勝公園」として一部が残っています。

 

 


泉州の宝塚

 

泉南市埋蔵文化財センター昭和の一大観光地砂川

展示会の話に戻ると、展示物は阪和電鉄が発行していた観光案内のパンフがたくさん陳列されていました。

 

 

阪和電気鉄道案内

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南海山手線パンフレット

コピーなど白黒ではよく見る資料なのですが、カラーで見るのは初めて。カラーで見るとこんなにカラフルだったのかと、違う感激がこみ上げてきました。

 

前回に書いたとおり、開園の昭和10年(1935)から昭和15年(1940)までの間に、阪和電鉄が新聞に掲載した広告は389点(住宅広告を除く)
そのうち、砂川遊園の広告が117点、全体の3割を占めています。
大阪市立大学論文『昭和初期における大都市圏郊外電気鉄道の遊覧地開発-阪和電気鉄道を事例をして-』より)
それも『大阪朝日新聞』のみで、他新聞も入れると、もっと多かったのではないかと。広告の数だけで、阪和電鉄が砂川に賭けた心意気というものがわかります。

 

今回向かった展示会では、その広告の数々が展示されていました。

阪和電鉄砂川遊園砂川奇勝広告昭和12年

阪和電鉄砂川遊園砂川奇勝広告昭和11年

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砂川だけでなく、仁徳天皇陵古墳や信太山ハイキング、和歌山の景勝地まで広告で案内していましたが、砂川遊園関係の広告の数やハンパではありません。それだけ阪和電鉄も砂川遊園・奇勝に期待し、力を入れていたのだと。

 

 

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阪和電鉄紅葉狩り広告昭和10年代

阪和電鉄が砂川近辺開発に力を入れていたのは、遊園地だけではなく自然を利用したトレッキングもそうでした。
今は住宅地が並んでいるので想像もできませんが、当時は鬱蒼とした山と森でした。

 

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(昭和8年の新聞広告より)

今でこそ阪和線は関西屈指の混雑率を誇る路線ですが、私鉄時代は沿線の人口密度が少なく、鉄道作ったはいいけれど、そもそも乗る客いるの?という有様でした。

そのため、なんとかお客さんに乗ってもらおうと、あの手この手のイベントを繰り出していました。ピクニックやハイキングも、人が住んでいない自然ばかりというデメリットを活かしたイベントなのでしょう。広告に書かれた場所は現在、山中渓を除いて住宅地となっていますが、昔はハイキングができるほど「何もなかった」のです。

「ピクニック」「ハイキング」の文字を見た、沿線にそこそこ詳しい人はこんな反応でしょう。

山中渓:わかる

砂川奇勝:わかる

犬鳴山:わかる

信太山:わかる

上野芝(付近):どこがやねん!?

上野芝から鈴の宮(神社)経由鳳までのハイキングルートが、阪和電鉄の観光案内に残されていますが、このルートはけっこうアップダウンが激しい。阪和電鉄推しのハイキングコースがそのまま小中学生の頃の私の縄張りでしたが、がっつり歩けば今でもけっこうな「住宅地ハイキング」です。

 

 

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砂川遊園地の近辺にある池の周辺には、テントやハンモック貸出のキャンプ場も作っていたのですが、もし今もあったなら、アニメの『ゆるキャン』でブームになっていたかもしれません。

 

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(昭和10年秋の広告)

そこまでせんでええやんか(笑)とちょっと笑ってしまったのが、この松茸狩りイベント。

美木多堺市南区や池田、松尾寺和泉市などは、今や分譲住宅地が立ち並ぶ平凡な住宅街。当然、「ま」の面影すらありません。こんなとこで松茸が採れたの!?と。

しかし、この広告を見て思い出したことがあります。

松尾寺近辺などは、泉北高速鉄道延伸に合わせて開発され、確か1997年くらいに人口増加率日本第二位*2になったところです。私の記憶が確かならば高校生の頃、具体的には泉北高速鉄道和泉中央まで開通するまでは、たぬきが走り回ってると当時の地元の友達が言っていた森でした。

こんな何もないとこに鉄道通すのかよ、泉北高速(≒大阪府)頭おかしいんちゃうの!?と高校生時分の私は思ったものですが、確かに(昔の)あそこなら松茸が生えていそうだなと。

 

それはさておき、砂川近辺でも松茸が「山ほど採れた」らしく、すき焼きなどにしてよくお客さんに出していたと、遊園内にあった料亭「砂川楼」の店主のインタビューも掲載されていました。

 

というか、経営努力とはいえ、阪和電鉄はあの手この手のイベントを催して、企画・営業はさぞかし四苦八苦してたやろなと。元営業マンとしては心が痛いです。

 

そんな死に物狂いの経営を行う阪和電鉄が、ことさら力を入れたのが砂川の開発でした。

そこに遊園地を作り、隣に住宅地や別荘地も建設することにより、泉南の地に一大レジャーランドを造ろうという、鉄道会社と地主、不動産会社の三角コラボの壮大な計画が、ここ砂川に実現することとなりました。
これを当時、泉南の宝塚」プロジェクトと銘打っていました。
ちょうど宝塚が、歌劇団の成功などでひなびた温泉郷から脱出、リゾート地や高級住宅街として開発される姿を見て、砂川に第二の宝塚のにおいを感じたのでしょう。宝塚に続け!という声が、史料の隅から聞こえてくる気がします。

 

砂川遊園と阪和砂川駅和泉砂川駅

(観光客で殺到する阪和砂川(現和泉砂川)駅。伝昭和11年


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(砂川遊園の遊具 昭和13年頃)

 

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(砂川遊園内にあったモンキーハウス 昭和10年代)

 

砂川遊園・奇勝の観光地としてのピークは、おそらく昭和11~13年だと思われます。
この時代は、226事件支那事変(日中戦争)など、戦争へのきな臭いにおいが世間にただよい始めた頃ですが、一面では空前の好景気でした。

景気は戦前の日本のピークに達し、昭和十二年の経済成長率は24%になります。高度経済成長時代と言われた昭和40年代の最高が13%、1980年代バブル時代の最高が8%と考えると、昭和11~13年はとんでもない伸び率です。
とにかくナチスドイツの統制経済のマネがしたい、しかし経済の「け」も知らない陸軍が急ブレーキをかけてしまいますが、惰性が15年末~16年はじめあたりまで続いていたといいます。

当時、阪和電鉄は天王寺~砂川間の往復キップが販売されていましたが、その売上の1割が地主の田中源太郎に入っていました。
日・祝日には1日6万人、3年間で200万人が訪れたという記録もあり、田中が砂川開発で投じた資金20万円は3年で元が取れたというから、阪和電鉄の必死の営業努力もあいまって、かなり人気があったと推測できます。

 

砂川遊園の最期

砂川遊園・奇勝が「幻」と呼ばれているのは、昭和10年にオープンした後、実質7年間しか稼働していなかったこと。
そしてもう一つの謎は、正式に「何年何月何日閉園」というデータがなく、誰にも知られぬ間にひっそりなくなっていたことです。

 

 

非常時戦前支那事変

昭和12年に起こった支那事変(日中戦争)が泥沼化し、「非常時」という言葉がところどころから叫ばれる時代となってきました。
「非常時」によるレジャー自粛の空気もある中、砂川遊園もだんだんと「軍国化」「全体主義化」していきます。

 

昭和非常時阪和電鉄広告

昭和14年のハイキングの広告です。のどかなピクニックの広告の上に、「挙(こぞ)って体位向上」という言葉が出てきます。この言葉は、拙記事「天王寺駅の怪」天王寺駅の看板でも見かけたので、阪和電鉄のキャッチコピーなのでしょう。
この時は「非常時」の掛け声のもと、頭脳明晰より体力旺盛の健康体がもてはやされ、男子はお国のために兵隊さんに、女子は立派な子どもを生むためにと体位(体格)の向上が叫ばれました。

 

この翌年の昭和15年、砂川奇勝の近所にあった佐野町(今の泉佐野市)の女学校で、前代未聞の一風変わった入試が行われました。
大阪府佐野実践女学校*3の入試当日、受験番号が書かれた名札をつけた受験生がいくつかの班に分かれ、雑草が生えた運動場に集合しました。
校長先生が登場し、班を運動場に配分した後、
「かかれ!」
という掛け声のもとにみんなで草むしり開始。
何の説明も受けていない受験生は、なんでわたしたち草むしりやらされてんの?と首を傾げながら黙々と草を刈っていましたが、これが実は「入試」だとわかると、みんな目の色を変えて必死になりました。
そう、この年のこの女学校の入試科目は「草むしり」のみ。頭脳など要らぬ、大和撫子は体力、健康な「兵隊予備軍」を生む健康な身体の方が大和撫子として重要。スタミナはもちろん、効率的な草むしりやチームワーク、積極性が「入試問題」であり「合否基準」だったのです。
ウソのようなホントのクレイジーな入試でしたが、これも時代ならではです。

同時期に中学校に入った作家・歴史家の半藤一利氏も、入試は内申書と体力測定と面接だけでペーパーテストは一切なかったと著書に書いています。

 

阪和電鉄模擬空中戦

昭和15年5月25日、海軍記念日(5月27日)に合わせて飛行機による「空中大模擬戦」が海軍主催で行われました。おそらく上空で海軍の飛行機がデモンストレーションを行ったのでしょう。

 

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 阪和電鉄に負けてたまるかと、南海も同日に「愛国歌謡大会」なるイベントを行っています。

 

だんだんときな臭い空気になってきましたが、昭和15年ならまだ「終わりの始まり」に過ぎません。

 


そして同年12月、砂川遊園・奇勝を事実上経営していた阪和電鉄は、ライバル・・・もとい天敵の南海に吸収合併されます。

 

阪和南海合併新聞記事

昭和15年7月18日 『大阪朝日新聞』)

埋蔵文化財センターにあった阪和関連の新聞記事ですが、赤で囲んだ阪和の記事の横にある緑の「代用食」の記事が時代を感じさせます。もう「贅沢は敵だ」に入っていたのです。

その右隣にデカデカと、「新体制」の記事があります。昭和史を発掘している身としては、むしろこっちが気になりました。


同年はじめ、昭和天皇が「戦争阻止への切り札」と期待した米内光政内閣が発足したのですが、この新聞記事の2日前、陸軍大臣畑俊六が辞表を提出しています。

陸軍は後任の大臣を出さないということで内閣は継続できず、22日に崩壊。次は陸軍の思い通りに二次近衛内閣が発足しました。

結果的に、第二次近衛内閣によって日独伊三国同盟が締結され、日本は滅亡への片道切符を手にしてしまったのですが、その切替えの時期にあたる貴重な記事です。

最近の研究から、米内内閣は昭和天皇の「指名」だということがわかっています。戦争を避けたい天皇の、「次は米内にしろ」というご意志ですが、あからさまに出すと思い切り憲法違反なので、表向きは「側近(内大臣)の推薦」ということになっています。

それを知っているメディアと陸軍は、天皇の御意志などクソくらえと蹴飛ばすかのように「新体制」を熱烈歓迎し、何も知らない国民もそれに煽られ両手を挙げて歓迎。

もう「新体制」、つまり新内閣ができたも同然のような書き方をしていますが、記事の時点で米内内閣はまだ崩壊していないところがミソ。もう今の内閣なんてさっさとさようならしようぜという、メディアの傲慢っぷりが気持ち悪いほどにあらわれています。

 

 

南海山手線駅名改称広告

昭和16年大阪朝日新聞』より)

阪和電気鉄道は「南海山手線」と改名されましたが、その後の砂川遊園はめぼしい広告もなく、存在感は徐々に薄くなってきました。
駅名も、昭和16年8月1日に「阪和砂川」から「砂川園」と改名されました。

 

昭和17年南海電車案内

展示会では「昭和17年」と書かれた南海の沿線案内です。本線や高野線だけでなく、阪和線も赤線になっていることがわかります。

阪和線にだけ限定すれば、これが戦前、そして私鉄として最後の観光案内です。

 

しかし、これ、なんだかおかしい。

 

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前回の砂川遊園・奇勝の記事で、私が図書館から探し当ててきた「昭和17年南海沿線案内」です。砂川遊園は「砂川園」となっています
戦争中に「遊園」とつけると、
「兵隊さんが異国で戦い国民は歯を食いしばって我慢しているのに、『遊』とは何事か!」
と国や軍・・・の前に目が釣り上がった「模範国民」の目がうるさく、「遊」を外したのでしょう。その証拠に、元々南海経営だった「さやま遊園」「淡輪遊園」も「遊」が消えています。

 

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しかし、この「昭和17年」ものは「砂川遊園」となっており、「遊」が消えていない。展示会にあったものは、「昭和17年3月1日由良要塞司令部検閲済」と書いてあるので4月頃のものだと思われるので、同じ17年でも時期が違うのか!?

うーん、これはペンディングとして、後で調べておくことにしましょう。

 

 

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展示会にあった広告の変遷パネルですが、昭和17年から先は全くの白紙です。戦争とは言え、この白紙が砂川遊園だけではなく、日本全体の暗い時代を感じさせます。

ここがイコール砂川遊園・奇勝の大きな謎でもあります。この白紙に何か新しい記述があるかもしれない。私がわざわざ大阪湾を3分の2周してまで見に来た大きな理由がこれです。

 


そして戦争が激化した昭和19年「南海山手線」は国営化され阪和線となりました

ここで砂川遊園のミステリーが浮かび上がります。

阪和電鉄が「国鉄」となったことにより、阪和→南海のと所有が移った(はずの)砂川遊園と奇勝の所有権はどこへ行ったのか。
展示会には、かすかながらその間接的な記述がありました。

遊園の地主だった田中源太郎は、戦時中か戦後かは不明ながら遊園の土地を文部省に寄付しています。寄付とはなんだか引っかかりますが、それ以上の証拠がないので文字通り受け止めておきます。
阪和電鉄所有だった奇勝も、国営化と同時に国の所有となり、その後信達村に払い下げられていることは確認できました。
文部省に寄進された遊園は、その後民間に払い下げられたのでしょう。
あくまで推論にすぎませんが、こう考えるのがいちばん筋が通っているように思えます。

 

 

戦後の砂川遊園と奇勝


この展示会での新しい発見は、上でも述べたように、砂川遊園時代の遊具は戦争による資材供出で姿を消したこと。

 

昭和19年砂川遊園畑

上述したとおり、砂川遊園の「美しい花畑はいも畑になった」のですが、その貴重な写真です。食糧が足らずみんなお腹をすかせていたこの頃は、「遊」なんて余裕は全くなく、本当に「生きるために食うのが精一杯」の時代でした。それでも、まだ戦争だと神経が張り詰めていただけマシだった(本当に苦しかったのは、それに加え気まで抜けた終戦後)と、当時を知る人は語っています。

 

しかし、戦後になり復活しないままだった旧砂川遊園に、「遊具」が復活しています。

 

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砂川遊園跡の遊具で遊んでいる昭和45年の写真ですが、これらは誰かが戦後に新設したものだそうです。

 

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展示会では、現時点で唯一残る戦後の旧砂川遊園地や砂川奇勝の映像が流れていましたが、遊園地のような動く遊具がたくさん映っていました。

砂川遊園は戦争のどさくさに消え、その後公には復活していないのですが、もしかして地主が戦後の復活を期して投資したものなのだろうか。
それについては、展示会では何の説明もありませんでした。

砂川遊園の復活を期した(?)これらの遊具も、昭和40年代に旧遊園の部分が住宅地として開発され、撤去されました。
しかし、まだ時代が浅いせいか、ここでよく遊んだなーという、元を含めた地元民の証言は多く、泉南市では今でも回想談を募集中だそうです。
このブログを見てここを思い出した方は、泉南市に問い合わせてね。


砂川奇勝保存運動

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すでに書いたように、その昔和泉砂川駅の山側には、「泉州カッパドキア」な奇勝の光景が広がっていました。

 

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その後は戦争のどさくさに放置プレイされましたが、奇景は手付かずのまま戦後も残っていました。

しかし、現在は1ヘクタールを残してすべて住宅地と化しており、往年の面影はほとんどありません。

 

奇勝の部分は、昭和37年(1962)に泉南市が不動産会社に払い下げたことは、前回の記事で書きました*4
その後はどんどん開発され、奇勝はどんどん消えていったのですが、そこで住民が「これ以上開発しないで」と開発反対運動を起こしました。
行政が間に入って話し合いを設け、奇勝の一部保存が決まったのですが、その遺産が現在に残る奇勝だったのです。

 

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戦前の写真を見ると、奇勝の方は本当に「日本のカッパドキア」にふさわしい絶景で、人間が到底作りえない自然の造形美がそびえていました。

しかし、それも今は写真往時を偲ぶしかありません。
「奇勝公園」も、住民どもうるせーなーだったら残しといてやるよ程度の、子どもの遊び場レベル。戦前の写真を見た後行くと、なんだこの程度かと「大阪三大ガッカリ」のリストに入ってしまうことは必至。

もし泉南市が不動産会社に売り渡さずそのまま残しておれば、今頃は世界遺産・・・とまではいかないけれど、自然の観光遺産としてけっこう話題になっていたと思います。

私も昔の写真を見た時、衝撃を受けました。大阪に、地元にこんな「カッパドキア」があったのか!?と。


住宅作れば寝てても儲かるのご時世だったとは言え、砂川奇勝の払い下げは泉南市史最大のミスチョイスだと個人的には思います。

泉南市が砂川の歴史発掘に力を入れているのも、もしかしてそれに対する懺悔なのか。ついつい邪推してしまいます。

 


泉南市が目指す目標

お失くなりになった砂川遊園・奇勝を、まるで死児の齢を数えるような力の入れようは、どこから来ているのか。
泉南市のビジョンにはこう書かれていました。
NHKの有名番組で取り上げてくれることを目標にしています」

ははん、ブラタモリのことか。

 

地質学的には、砂川奇勝は日本でも2つともない奇景で非常におもしろい。地質マニア(?)のタモリさんならけっこう喜ぶでしょう。
ただし、それは「残っていれば」の話。これだけ木っ端微塵に壊してしまったら、奇勝も奇景もへったくれもない。確かに1ヘクタール分は残っているとは言え、砂川奇勝だけではとてもネタにならない。

仮に「砂川」をブラタモリのネタにするのなら、犬鳴山や日根野神社(ここもネタとしては面白い)、岸和田城など、「泉南市」だけではなく「泉南地域」として広く取り上げないと、到底ネタとしては持たない。ブラタモリならぬ「ブラのぶ」をやっている身としての視点は、こうです。
かく言う私は散々ネタにしていますが、我がブログは、知名度ブラタモリにとても敵わないが、ブラタモリという大樹が取り上げないニッチなブログ。私はこれくらいの自負を持って書いています。

万が一、万が一ですよ、仮に取り上げられたとしたら・・・とっくにネタにしている私のブログにアクセスが殺到し・・・ウハウハやん。
できればブラタモリ誘致を応援したいので、是非誘致委員会(仮名)の顧問に・・・と今から取らぬ狸の皮算用をしても仕方がない。

 

 

展示会、行く価値ありか

最後に、この『企画展「昭和の一大観光地砂川」』は行く価値ありなのか。ここを書いていきます。

結論から言うと・・・

 

めちゃ価値があります!!

 

展示スペースは決して大きくはありません。畳で言えば12畳くらいでしょうか。
しかし、小さくまとまっている分、濃度、ニッチ度が実にすごい。展示パネルも丁寧に作られているし、年譜もすべてソース付きと、初心者からマニアックまでやさしいつくりとなっています。さらに、年表などのソースになった新聞記事などもスクラップとして残し、ご自由にご覧下さいと。

ここでアップした写真は、全資料の中のごく一部です。私の画像フォルダには、ネタにならずお蔵入りしたファイルがこの数倍ほど保存されています。

 

訪れる前の滞在予定時間は、せいぜい1時間くらいと見積もっていました。砂川遊園・奇勝のおさらい程度に、リライトできるような新しいネタがあったらいいなーという、ほんの軽い気持ちでした。
ところがどっこい。
予想外の濃さと、資料見たい放題、写真取り放題というサービスぶりに、予定時間を2時間半もオーバーしてしまいました。
後の予定がなければ、おそらくここだけで1日中いたかもしれません。
濃くないと、面白くないと、ここまで「補足」で書けません。というか、本編が8000文字で「補足」が1万文字オーバー。文字数が本末転倒になってしまいました。

 

砂川遊園・奇勝は、決して万人受けするテーマではありません。テーマ的には相当ニッチ。日本史の、大阪市の、泉州史の、泉南史の、ほんのごく一瞬の光です。
興味がない人にとっては、何の価値があるのやらという感慨しか浮かばないと思います。
しかし、興味がある方であれば、最寄り駅から20分歩いてでも行って見る価値があります。
阪和電鉄の広告を見ているだけでも、ブログネタが3つも4つも出てきます。全資料の6割しか見ていないのに。
ブログネタがないと嘆いている者よ、書を捨てよ、泉南市埋蔵文化財センターへ出よ。どうせ入場無料なのだから。

もしこの記事を見て、おもしろそうだな・・・と興味が湧いてきたら、是非この展示会を見てみて下さい。6月29日まで開催しています。

非常に濃く、非常にマニアックで、そして非常に郷土史の勉強になります。


ただし、重要なのでもう一度言っておきます。
ここは・・・

土日祝は休みです!!!


土曜日開館日は、HPか電話で要問い合わせです!!


事もあろうに、GWは休みです!!

 

GWも当たり前のように休む博物館、見てもらう気があるのかないのか、わからなくなってきた。

 


最後に、展示場内にアンケート用紙がありました。
そこに、
「もし現在でも砂川(遊園と奇勝)が残っていれば、観光遺産になっていたと思いますか?」
という質問がありました。
大いに楽しませていただいたので、お礼代わりに。

「150%なっていました。壊したのは実に、実にもったいない!
残しておけば、今頃は世界遺産とは言わないけれど、日本三大奇景くらいの価値はあったのに。
しかし覆水盆に返らず、自然の造形は二度と、永遠に戻ることはありません。
日本に二つもない奇勝を不動産会社に売り渡し壊すに任せたことは、泉南市の大チョンボとして歴史に残るでしょう」

ここぞとばかりにボロカスに・・・もとい正直に書き殴らせていただきました。

 しかし、これだけ書いてもあの風景は二度と戻らない・・・せめて「ブラタモリ」で罪滅ぼしをしていただきたいと祈りつつ、締めとさせていただきます。

 

*1:カッパドキアとはトルコの自然世界遺産のこと。

*2:その時の一位は、私の記憶が確かなら同じく新興住宅地として開発され、神戸電鉄の路線が開通した兵庫県三田市

*3:佐野高等女学校→現府立佐野高校。

*4:砂川遊園跡地は、その2年後の39年に払い下げ。

外国人特集番組は何故欧米人ばかり取り上げるのか?疑問に思うなら番組に聞け!

 

日本に観光に来る外国人

日本を訪れる外国人観光客の数は年々増え続け、平成29年(2017)で2800万人を超えています。最初は国でさえ、2000万人超えればいいんじゃないと考えていたのですが、予想以上の増加ぶりに対策が追いついていないくらいです。
故郷の沿線が関空の近くなので、JRの関空快速や南海の空港急行に乗る機会が多いですが、車内は無国籍料理の寄せ鍋状態。日本語が全く聞こえないことも多々あります。

それによる軋轢もあるにはありますが、外国人観光客の増加は良い傾向だと思います。

 

そのブームに乗ったか、最近は少し下火になりつつあるけれども、「外国人から見た日本」という番組が乱立した時がありましたね。

確かに日本はすごい!ばかり連発する番組には飽き飽きすることは確かですが、我々が知らなかった日本の勉強になり、目からウロコな事も多く見受けられます。要は視聴者の見方次第です。

 

以前にどこかの記事で書きましたが、外国語学部がこの世にある目的は、異国と異文化の研究です。

外大って、けっこう誤解されていますが、外国語を習う語学学校ではありません。外大=語学学校ならこの世の外大はすべて専門学校に格下げ、語学学校に売り払ってしまえ!というのが私の持論であります。

外国の研究をさらに奥へ進めていくと、「異国・異文化を鏡にして、日本文化を観察する」という究極の目的が見えてきます。外国語学習者がこの境地まで至れば、「外国語道」としては悟りに達したと言って良いでしょう。
それを一般大衆にもわかるよう調理し、テレビ番組として成立している現代は、外国語学にとっては夢のような時代です。その現実の真っ只中にいるから、我々に自覚がないだけで。

 

「外国人に日本を語ってもらおう」という方針自体は、私も賛成です。

海外で暮らしているメリットの一つに、

「日本や日本人を、客観的に見ることができる機会がある」

ということがあります。日本にいると見えない日本・日本人が、海外にいるとよ~~~く見えてくるのです。

客観的に日本や日本人を見ていると、もちろん醜いところも見えてきます。私は昔から欧米式の個人主義者。他人に全く干渉しないイギリスやフランスくらいがちょうどいい湯加減なので、日本独特の、個人主義とは逆のネチネチ感・ドロドロ感に辟易することもあります。

しかし、それ以上に良いところ、美点が見えてくる。細かい欠点はあるものの、最後には「日本っていいな~(by和風総本家)」になる。それを外国人視点で気付かされることが多いのです。その視点をテレビ番組として構成しているだけだと。

 

 

こういう番組の動画を見ていると、判を押したように次のようなコメントをしている人がいます。

「欧米人ばかり」

「なぜアジア系を映さない」

欧米人ばかり映して日本人のコンプレックス丸出し、アジア系を映さないはアジア人への差別だと、なにやらどこかで聞いたことがあるテンプレのような文言が並びます(笑

 

こういうコメントを見る度に、思うことがあります。

「だったらネットで吠えてないで、番組かテレビ局に直接聞けよ」

 こういうのは、なんだただのテンプレかと流すのは簡単。しかし、0.5理くらいはあるんですよね。 

別に本人が気にしていればいいだけなので、ほっとけばいいのですが、「外国人から見た日本」を代表する番組に聞いてみました。

 

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台湾に残る日本語の世界 Part.2

 前回の記事の「アタマコンクリ」、台湾には日常会話に相当の日本語が入っていることに衝撃を受けた人が多かったと思います。

 

parupuntenobu.hatenablog.jp

 

台湾で使われている台湾語や北京語などに浸透している日本語を、「日式台語」と言います。和製英語ならぬ台湾製日本語なり。

前編の反響を見て、台湾に残る日本語事情を20年以上前から知っている私にとっては、あれ、みんな意外と知らないのねと衝撃でした。それでも調べていくうちに予想以上に残る日本語の数々に、書いた本人も衝撃を受けました。

 前回は適当に書かせていただきましたが、これは面白いとさらに調べてみるとなかなかおもしろい世界が開けてきました。

今回は、そんな「あなたの知らない『日式台語』」のさらなる世界を。

 

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アタマコンクリ ー 台湾に残る日本語 Part.1

目次:

  • 台湾の言語事情
  • 台湾史から見る日本語
  • 台湾に残る日本語
  • 台湾で見つけた「日本語」
  • 昔はもっと残っていた日本語
  • アタマコンクリ
  • アタマコンクリの立役者はあの人だった!?
  • 日本でも使われていた!?
  • アタマショート
  • ネイティブによるアタマコンクリ実例集

 

台湾の言語事情

日本統治50年の歴史がある台湾には、今でもしれっとしたところで「日本文化」が残っていたりします。
昔の日本の姿のまま残されているものもあれば、時代と共に台湾ナイズされ原型をほとんど留めていないものもあるのですが、そういった「日本人の置き土産」がいちばん色濃く残っているのが、言葉です。

 

台湾で使われている言葉

台湾で使われている言葉を簡単にまとめると、上の図となります。

「中国語族」「原住民語族」は、私が便宜上勝手につけた名称で、言語学的にはカッコ内の名称となります。

台湾で話されている言葉は、「中国語族」が圧倒的ではあるし、普段耳にする言葉も「中国語族」がおそらく99%。しかし、こうして見てみると台湾ってかなりの多言語・多民族国家なのです。

一つ注目すべきは、日本統治時代は「高砂族」と呼ばれた原住民の言語が、オーストロネシア語族だということ。たぶん、私の年齢以上だと、「マレー・ポリネシア語族」で覚えていたはずなので、あれ!?といぶかしむ人もいるはず。

オーストロネシア語族とは旧マレー・ポリネシア語族の新名称なのですが、マレーシア・インドネシアから太平洋上のパラオ、NZのマオリ族、最東端はハワイやタヒチ、最西端はアフリカのマダガスカルの言葉までを網羅する、広い範囲の言葉の集団です。

太平洋を網羅するこの言語集団の根っこの原郷が、実は台湾原住民の諸言語です。

 

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15年前くらいまでの常識では、人類の移動はこういう流れだと覚えているはずです。17年前のNHKスペシャル『日本人 はるかな旅』でも、このルートが紹介されています。

 

しかし!最新の言語学や考古学の研究の結果、現代ではこういう流れに。

 

オーストロネシア語族の分布の流れ

矢印の方向が真逆になっています。

およそ5500年前、台湾からある集団が南下しフィリピンに渡り、1000年かけてニューギニアまでたどり着いたという流れです。大昔の東南アジアの言語が、原住民の言語に生きた化石のように残っているということです。

また、これは異論もあるのですが、台湾から一部北へ向かった集団もおり、日本語も母音で終わる語彙の構図がオーストロネシア語族の特徴を色濃く残しているとされています。

  

・・・話が脱線しそうなので、元に戻すことにします。

 

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